ゲッペルスは、
「非常に頭が切れるが、信用は置けない。」(by カール・カウフマン) 人物であり、
「腐っていなかった。ただ恐ろしいほどに危険な男だった。」(1979年、アルベルト・シュペーア)
ゲッペルスの語録・人物評
のうち特に、目に留まった語録は
人種は、あらゆる創造的な力の土壌である。人類、そんなものはひとつの仮定だ。現実なのはただ民族だけだ。人類とは、民族の多様性以外の何ものでもない。民族は有機的である。人類は、有機的になったにすぎない。有機的であるということ、それは、有機的な生命を産み出す能力をみずからのうちに蔵している、ということだ。森とは、樹木が多数あることにすぎない。ぼくは、民族を滅ぼして人類を維持することなど出来ない。同じように、森を大切にするために樹木を根絶やしにすることなど出来るものではない。樹木、それが全体としては森と呼ばれる。民族、それが全体としては人類と呼ばれる。樫の樹が力強く育てば育つほど、それはますます美しく森を飾るだろう。ある民族がどこまでも民族であればあるほど、それはますます生きいきと人類に奉仕する……。これ以外のものはすべて、頭で考え出されたものであって、自然に生え育ったものではない。だから、それは歴史に耐えることができない。
しかし、
実際には、仮定は民族で、
現実なのは、ただ人類だけ。
八十年代に出た 「想像の共同体」によると。
プロパガンダに使われる表現は、
少し手を加えるだけで、
全く異なるものを伝えることができる。
人類は、あらゆる創造的な力の土壌である。民族、そんなものはひとつの仮定だ。現実なのはただ人類だけだ。民族とは、人類の多様性以外の何ものでもない。人類は有機的である。民族は、有機的になったにすぎない。有機的であるということ、それは、有機的な生命を産み出す能力をみずからのうちに蔵している、ということだ。森とは、樹木が多数あることにすぎない。ぼくは、人類を滅ぼして民族を維持することなど出来ない。同じように、森を大切にするために樹木を根絶やしにすることなど出来るものではない。樹木、それが全体としては森と呼ばれる。民族、それが全体としては人類と呼ばれる。樫の樹が力強く育てば育つほど、それはますます美しく森を飾るだろう。ある人類がどこまでも人類であればあるほど、それはますます生きいきと人類に奉仕する……。これ以外のものはすべて、頭で考え出されたものであって、自然に生え育ったものではない。だから、それは歴史に耐えることができない。
手を加えた箇所は、
太文字部分だけ。
それだけで、民族概念を鼻で笑う「想像の共同体」販促文になります(若干、勢いで押し切った箇所もありますけど)。
必要な人を必要な時にPCR検査できるようにすること(たとえば流行が拡大してきたら、その地域の医療施設や介護施設のスタッフや患者さんを無症状でも検査する)と「誰でも、いつでも、何度でも」は全く話が別です。
— Riko Muranaka/村中璃子『新型コロナから見えた日本の弱点 国防としての感染症』 (@rikomrnk) August 25, 2020
世田谷区医師会のこの文章は本当によくまとまっているので皆にぜんぶ読んでほしい。 https://t.co/QdYQxJNKPR
「私たち」が必要と思う人を必要な時にPCR検査できるようにすること(たとえば流行が拡大してきたら、その地域の医療施設や介護施設のスタッフや患者さんを無症状でも検査する)と「誰でも、いつでも、何度でも」は全く話が別です。
世田谷区医師会のこの文章は本当によくまとまっているので皆にぜんぶ読んでほしい。
ちなみに、「世田谷区医師会のこの文章」とは
のこと。
要するに、
区よ、我々の仕事、増やすな
です。つまり、医師のわがまま。
新型コロナウィルスに限らす、
医療従事者どもの怠惰な都合の結果、
患者を蔑ろにするケースが世界各地で散在。
「私たち」が必要と思う人を必要な時にPCR検査できるようにすること
の「私たち」とは、
「非常に頭が切れるが、信用は置けず、恐ろしいほどに危険な医者たち」
のこと。
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