土曜日は、ネットボーディーサットヴァの会を開催することにします。
ということで、今日は、第一回ネットボーディーサットヴァの会を開催いたします。唐突に、始まってしまうところが、個人ブログの良いところですね。(笑)
ボーディーサットヴァとは、菩薩のことです。ボーディーサットヴァの会とは、以前、在家の信徒同士がいろいろと話し合い、どうやって導きをするかとか、功徳を積むかとか自分達で考えて行動する会でした。ビラ配りの手配やイベントの案内など、信徒同士が連絡を取り合い活動していました。しかし、どうしても、教団に対する奉仕が功徳になるという考えがベースにあり、活動は常に教団の方針に沿ったものになっていたのが実態です。
ここでは、全くそのような制約はありませんので、今までの教団のあり方を見直すための、意見交換会にしようと考えております。自由参加でありますので、教団関係者でない一般の方も参加くださって結構です。
本日の議題は、「布施」です。なお、布施には、財施、法施、安心施とありますが、今日は問題となっている、財施についてのみ話し合いたいと考えています。
教団では、布施を、六波羅蜜の第一に来る修行として位置づけ、極限ですることが望ましいと言われてきました。仏教ではどこも確かに布施を説きます。ですから、布施自体がまずいとは思わないですが、教団を辞めた人達が、騙された、金を返せの大合唱になってしまう背景には何があるのだろうかと考えました。やはり、何かしらの問題点があったのではないかと思います。
一つは、布施に対する教義的な捉え方の問題。もう一つは、布施を受ける側の姿勢の問題。この辺が、焦点になってくるのではないかと思われます。
そこで、私も布施について、仏教ではどのように言っているのか、ちょっと調べてみました。すると、布施は、パーリ語のdana(ダーナ)の訳語で、本来は「あげる」「与える」という意味になることが分かりました。英語のgiveと同じような意味だそうです。ですから、誰かに何かを与える行為は全てダーナになります。このダーナが音訳されて、檀那(だんな)となり、寺院や僧侶に布施・寄進するパトロンのことは、大檀那と呼んだりしました。この檀那から、檀家の呼び名が生まれ、養ってくれるパトロン的意味合いから旦那の呼び名が生まれたらしい。
この、ダーナが「布施」と訳されたわけですが、布施の「布」とは「あまねく」、「施」とは、「ほどこす」という意味になります。したがって、言葉だけみていけば、わけへだてなく、全てのものに、与える行為ということになります。そして、ここには、見返りを期待せず施すという心の働きが付随してきます。差別することなく、あまねく布施をすることで慈愛の実践にもなり、自己の不平等という識別を無くすことにもなります、また、自己の貪りを見つめなおすことも出来る、素晴らしい修行ということが出来ます。
では、教団の教えではどうでしょうか?布施は、最もベースになる教えであると説きます。ベースとは、修行や自己の願望成就のためには、かかせないものと言う意味です。その布施によって、功徳を積み、修行を進めたり、現世の願望をかなえます。その功徳を、車におけるガソリンにたとえています。そしてさらに、布施をする対象として、最も功徳になるのは、三宝に対する布施であると言います。会社や学校やボランティア団体のような真理を実践していない者に、布施するよりも、真理を実践しているものに布施するほうが、何倍も何十倍も何百倍も功徳になると言います。また、布施は、あげるのではなく、受けさせていただく気持ちで行うことが大切であると説いています。
どういうことかというと、布施をすることで、自分の悪いカルマを成就者に受けていただく行為であるという理由からです。また金額は、関係なく、心を乗せることが大切であると言いますが、布施は多いほど功徳になると考えています。そして、無償の布施だけでなく、全ての物品販売の代金から、イニシエーション代まで全てを布施と呼んでいるのが実態です。
また、教団では布施を受けるステージというのが決まっており、供養値魂以上となっています。供養値魂とは、マハームドラー以上の成就者、すなわちピンクの服を着た人達以外は布施を受ける権限がありません。しかしながら、なぜか布施額によって供養値魂以下の師が受けることもあります。これは、布施額の差によるのです。前にも書きましたが、一万円以上の布施は正大師が受け、一万円以下は師が受けるというようにです。
そして、このように教義によって、あるいは慣習によって、布施の形式が固定化されてくると、出家者は布施を受けるのが当たり前のように感じ出します。したがって、布施を受け取ってもありがたいとも思わず、当たり前だと思い、もっと布施をすれば良いのにと、人の財布の中を探るようになります。教団では、昔から、支部の布施額が少ないと、上長から吊るし上げを食らっていたと聞きます。すなわち、支部で布施額を多く集めた師が、優秀な師とほめたたえられる構図が出来上がっていたのではないでしょうか?
だから、師も結局、布施集めにやっきにならざるおえなかった。当然、これは、教祖の意志が働いていたはずです。決意文にも、信徒から布施をむしりとるぞという文章があるくらいですから、そうなっても仕方が無かったといえば、仕方が無かったのかもしれません。もちろん、本来の意味を、曲解したと言えなくもないですが、実際は金集めに奔走してしまったのは事実でしょう。
しかし、事件によって教団の不正が明るみに出ました。それによって、信徒は、自分の布施が、少なからず、事件に使われたのではないかという悔しさや後悔が出てきました。それに、今回の分裂騒動で、今まで知らなかった、出家者の実態や成就者の実態が次々に明るみに出てきたことによって、自分の布施を与えるに足る相手なのかという疑問が生じてきました。私などはなかったですが、強引なお布施集めをされた人は、当然不満が爆発したことでしょう。そういうものが一気に噴出してきています。それが、2チャンネルなどで、お金を返せという叫びに結びついているのではないかと考えられます。
そこで、今日の内容としては、布施について、
1、 布施してよかった、こんな効果があったという人。
2、 布施して何も効果などないと考える人。
3、 そもそも布施に効果や、功徳の返りを考えることが間違いと言う人。
4、 布施を受ける出家者の態度に意見したい人。
5、 布施を返して欲しい人。
6、 これからも布施をしていきたい人
7、 どんな形での布施なら良いのかを提案できる人。
等々なんでも結構ですので、ご意見をお聞かせください。
コメントを、お待ちしています。
ということで、今日は、第一回ネットボーディーサットヴァの会を開催いたします。唐突に、始まってしまうところが、個人ブログの良いところですね。(笑)
ボーディーサットヴァとは、菩薩のことです。ボーディーサットヴァの会とは、以前、在家の信徒同士がいろいろと話し合い、どうやって導きをするかとか、功徳を積むかとか自分達で考えて行動する会でした。ビラ配りの手配やイベントの案内など、信徒同士が連絡を取り合い活動していました。しかし、どうしても、教団に対する奉仕が功徳になるという考えがベースにあり、活動は常に教団の方針に沿ったものになっていたのが実態です。
ここでは、全くそのような制約はありませんので、今までの教団のあり方を見直すための、意見交換会にしようと考えております。自由参加でありますので、教団関係者でない一般の方も参加くださって結構です。
本日の議題は、「布施」です。なお、布施には、財施、法施、安心施とありますが、今日は問題となっている、財施についてのみ話し合いたいと考えています。
教団では、布施を、六波羅蜜の第一に来る修行として位置づけ、極限ですることが望ましいと言われてきました。仏教ではどこも確かに布施を説きます。ですから、布施自体がまずいとは思わないですが、教団を辞めた人達が、騙された、金を返せの大合唱になってしまう背景には何があるのだろうかと考えました。やはり、何かしらの問題点があったのではないかと思います。
一つは、布施に対する教義的な捉え方の問題。もう一つは、布施を受ける側の姿勢の問題。この辺が、焦点になってくるのではないかと思われます。
そこで、私も布施について、仏教ではどのように言っているのか、ちょっと調べてみました。すると、布施は、パーリ語のdana(ダーナ)の訳語で、本来は「あげる」「与える」という意味になることが分かりました。英語のgiveと同じような意味だそうです。ですから、誰かに何かを与える行為は全てダーナになります。このダーナが音訳されて、檀那(だんな)となり、寺院や僧侶に布施・寄進するパトロンのことは、大檀那と呼んだりしました。この檀那から、檀家の呼び名が生まれ、養ってくれるパトロン的意味合いから旦那の呼び名が生まれたらしい。
この、ダーナが「布施」と訳されたわけですが、布施の「布」とは「あまねく」、「施」とは、「ほどこす」という意味になります。したがって、言葉だけみていけば、わけへだてなく、全てのものに、与える行為ということになります。そして、ここには、見返りを期待せず施すという心の働きが付随してきます。差別することなく、あまねく布施をすることで慈愛の実践にもなり、自己の不平等という識別を無くすことにもなります、また、自己の貪りを見つめなおすことも出来る、素晴らしい修行ということが出来ます。
では、教団の教えではどうでしょうか?布施は、最もベースになる教えであると説きます。ベースとは、修行や自己の願望成就のためには、かかせないものと言う意味です。その布施によって、功徳を積み、修行を進めたり、現世の願望をかなえます。その功徳を、車におけるガソリンにたとえています。そしてさらに、布施をする対象として、最も功徳になるのは、三宝に対する布施であると言います。会社や学校やボランティア団体のような真理を実践していない者に、布施するよりも、真理を実践しているものに布施するほうが、何倍も何十倍も何百倍も功徳になると言います。また、布施は、あげるのではなく、受けさせていただく気持ちで行うことが大切であると説いています。
どういうことかというと、布施をすることで、自分の悪いカルマを成就者に受けていただく行為であるという理由からです。また金額は、関係なく、心を乗せることが大切であると言いますが、布施は多いほど功徳になると考えています。そして、無償の布施だけでなく、全ての物品販売の代金から、イニシエーション代まで全てを布施と呼んでいるのが実態です。
また、教団では布施を受けるステージというのが決まっており、供養値魂以上となっています。供養値魂とは、マハームドラー以上の成就者、すなわちピンクの服を着た人達以外は布施を受ける権限がありません。しかしながら、なぜか布施額によって供養値魂以下の師が受けることもあります。これは、布施額の差によるのです。前にも書きましたが、一万円以上の布施は正大師が受け、一万円以下は師が受けるというようにです。
そして、このように教義によって、あるいは慣習によって、布施の形式が固定化されてくると、出家者は布施を受けるのが当たり前のように感じ出します。したがって、布施を受け取ってもありがたいとも思わず、当たり前だと思い、もっと布施をすれば良いのにと、人の財布の中を探るようになります。教団では、昔から、支部の布施額が少ないと、上長から吊るし上げを食らっていたと聞きます。すなわち、支部で布施額を多く集めた師が、優秀な師とほめたたえられる構図が出来上がっていたのではないでしょうか?
だから、師も結局、布施集めにやっきにならざるおえなかった。当然、これは、教祖の意志が働いていたはずです。決意文にも、信徒から布施をむしりとるぞという文章があるくらいですから、そうなっても仕方が無かったといえば、仕方が無かったのかもしれません。もちろん、本来の意味を、曲解したと言えなくもないですが、実際は金集めに奔走してしまったのは事実でしょう。
しかし、事件によって教団の不正が明るみに出ました。それによって、信徒は、自分の布施が、少なからず、事件に使われたのではないかという悔しさや後悔が出てきました。それに、今回の分裂騒動で、今まで知らなかった、出家者の実態や成就者の実態が次々に明るみに出てきたことによって、自分の布施を与えるに足る相手なのかという疑問が生じてきました。私などはなかったですが、強引なお布施集めをされた人は、当然不満が爆発したことでしょう。そういうものが一気に噴出してきています。それが、2チャンネルなどで、お金を返せという叫びに結びついているのではないかと考えられます。
そこで、今日の内容としては、布施について、
1、 布施してよかった、こんな効果があったという人。
2、 布施して何も効果などないと考える人。
3、 そもそも布施に効果や、功徳の返りを考えることが間違いと言う人。
4、 布施を受ける出家者の態度に意見したい人。
5、 布施を返して欲しい人。
6、 これからも布施をしていきたい人
7、 どんな形での布施なら良いのかを提案できる人。
等々なんでも結構ですので、ご意見をお聞かせください。
コメントを、お待ちしています。
お布施はなんのためにやるか?
それは本当は見返りを求めてはいけないと思いますが、あえて「功徳を得るため」とここではいいます。
功徳とは何か?
善業ですね。
では、善業は財施でしか得られないのか?
そんなことはない。
テーラヴァーダでは禅定でも善業は積めると教えます。
アーチャリーのマンション代
妊娠してしまった女性サマナの出産費用
こんなことに使われてるんですよ。
嗚呼、もう・・・。
そのうち誰かが、持ち出してくれるかもしれません。
功徳と言うのは、眼に見えない分
功徳になるという点を強調しすぎると、
功徳が返ってこないじゃないかという話に、
なってしまうような気がしています。
丑ちゃんなんか、功徳も返せないアーレフとか、
ほえていますよね。
>アーチャリーのマンション代
>妊娠してしまった女性サマナの出産費用
ようは、これが功徳になるのかって話ですよね。
でも、何のためにするのかはハッキリさせておかないといけないし、その効果もね^^
「救済のお手伝いをしているのだから、その内いいことあるよ」と言われましたな。
禅定で善業を積むとは、
瞑想で如来に供養するといったような事ですか?
いいことありましたか?
瞑想自体(もちろん正しい瞑想)が善・善行為でそれは功徳ということです。
ないですねえ~。
救済も救済になってないですし。
もっともオウムでは新実こそ救済者なのかもしれません。