白龍のオウム・アーレフで過ごした日々

オウム・アーレフと新団体「ひかりの輪」について考える。

教団分裂part2

2006-10-06 01:48:46 | Weblog
 オウム・アーレフの重要な瞑想の一つに、四無量心の瞑想というものがある。一般的に仏教では、慈・悲・喜・捨をもって、四無量心と言っているが、オウム・アーレフでは、南伝系の四無量心を掲げ、聖慈愛・聖哀れみ・聖称賛・聖無頓着と言っている。オウムの初期の段階では、北伝系の四無量心を取り入れ、平等心を最初に持ってきて、次に愛、哀れみ、称賛と言っていたと思う。この辺りの、入れ替えにも、いろいろ問題が含まれているような気もする。とりあえず、現在使われている、南伝系の四無量心の定義を簡潔に述べれば、

聖慈愛・・・全ての魂の成長を願う心。相手からの見返りを求めない愛ということが出来る。

聖哀れみ・・全ての魂(全ての生き物)の苦しみに対して悲しむ心。すなわち、その魂が、        迷妄なるが故に苦しんでいることを知り、哀れみ、悲しむ心。

聖称賛・・・私達のライバルを否定せず、ライバルの有している良い要素を心から称賛する心。

聖無頓着・・いかなるカルマの開放に対しても、それに、頓着しない実践。 

 オウム・アーレフの人間にとっては、あまりにもなじみの深い教えである。本来、四無量心の実践は、真理の実践者が煩悩を滅却した後、すなわち阿羅漢になった魂が実践していく心の実践(菩薩の実践)だと言われている。しかし、その種子を植えつけるために、信徒であっても、瞑想課題として、日々修習しているのである。

 さて、この四無量心に照らし合わせて、今回の分裂騒動時になされた、A派の方々の為した行為は、適切なものであったのだろうか?とても私には、適切な行為とは思えなかった。信徒に、嫌がらせをして、道場に居づらくさせる行為のどこに、慈悲の実践があるのか?道場から追い出すなど、言語道断である。
 
 相手が、魔境であったとしたら、それこそ大いなる慈悲の心で受け止め、その過ちを気づかせるために、時間をかけ話し合うべきではないのか。単に、相手を魔境呼ばわりする行為のどこに、聖称賛の実践があるのだろうか?

 これが今まで、三宝帰依の対象としてきた、出家修行者達の姿であるとは、俄かに信じがたかった。

 なぜ、このようなことが起こってしまったのか?全ては、上祐氏のグルを否定した発言に原因があった。A派の人達にとっては、グルを否定するというこの点だけは、どうあっても譲れない最後の一線なのだ。

 たしかに、信徒の私であっても、その気持ちは痛いほど分かる。まして、全てをグルに奉げてきた出家修行者にとっては、全ての精神的な拠り所であるグルを、そう簡単に、否定することなど出来ないはずである。

 しかしながら、そうであるなら、尚更、正しい法則の実践をすべきなのだ。すでに、教祖の死刑の判決は下りてしまって、覆すことは、おそらく不可能であろう。

 教祖は、サリン事件はじめ、数々の事件によって、死刑の判決を受け、世間では稀代の極悪人のように言われている。そのような中にあっても、自分達は教祖を信じているのだと、胸を張りたいなら、教祖の説いた教えを実践し、少なくとも、教祖の宗教面での教えの正しさを証明すべきである。

 それを為すならば、将来、アーレフの教えが見直される可能性が出てくる。

 それを為さず、グルを否定する者には報復あるのみ、といったような、四無量心を失った、誤った法の解釈を為すならば、それは、自らの手で、敬愛するグルを泥にまみれさせることになるばかりでなく、将来において、アーレフの法則が見直される可能性の芽を、摘み取ってしまう結果になるだろう。


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