白龍のオウム・アーレフで過ごした日々

オウム・アーレフと新団体「ひかりの輪」について考える。

師がボロボロと・・・

2009-05-23 07:32:51 | Weblog

 野田さんのブログに、今月師クラスの方がアレフから次々脱会することが書かれている。当然といえば当然だが、今後のことを考えれば、体の丈夫な今のうちに脱会して生活の基盤を築いておこうとするのが正常な思考だろう。

 師クラスがまとまって辞めれば、その下にいるサマナも浮き足立つのではないだろうか。アレフの現状に気づかない信徒・サマナはいつまでも教団にぶらさがっているだろうが、気づいた者からすみやかに脱会の準備をするほうが賢明である。

 たしかに不況だ不況だと世間では大騒ぎで、厳しい就職状況だが、えり好みしないで探せば何かしらの仕事はあるはず。しばらくの腰掛け程度でもいいから、まず教団の外に出て働いてみることが大切だと思う。脱会した方々には、なんとか生き抜いてほしい。がんばってください!

 

野田氏ブログから

 

「印刷機が壊滅」

http://alephnoda.blog85.fc2.com/blog-entry-353.html

 

「印刷機が壊滅2」

http://alephnoda.blog85.fc2.com/blog-entry-354.html

 

結局、今回脱会される(あるいはされた)師の方はどなたなのでしょうね?

ホーリーネーム知っている方がいたらコメント欄への書き込みお願いします。


43 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
野田氏ブログから転載 (上祐氏下野せよ!)
2009-09-21 14:09:22
>信仰対象がニセモノでも、信仰している本人にとってはあたかも信仰対象が本物のような効果(錯覚ということもありうる)が、”思い込み”によって現われてしまうこともあるのだ。

 その通りだと思います。

 それなりの雰囲気をだして、数人のさくらを用意し、素晴らしい体験談を随所に出せば、インチキネズミ講の講習会やセミナーでも感極まって泣き、なにか素晴らしいことを体験したという人もたくさんでる。

 そのやり方さえ押さえて雰囲気を作ることが出来れば、宗教も同じなので体験させることは簡単なんです。

 レイブではじけるのも、マイケルのコンサートでマイケルが登場しただけで失神するのも同じ原理。

 ひか輪も、神社仏閣などにいって一元の体験をした者がいるとか言って説法会などで紹介しているが、そんなものも、まずそういうデータを入れておき、普段と違った自然の中に入ったり、絶景を観たり、良い空気を吸ったり、神聖な雰囲気の場所にいけば、誰しもそんな気分になるし、温泉にゆったりつかれば、心もゆるみ、解放されてきたり、なにもかも許せる感覚になったり、感謝の念が湧いてきて全てが一体になったような感覚を経験するのは、特別なことではないのに、それをあたかも特別な宗教的体験として持ち上げる。

 上祐氏が一元を悟っているなら、マザーテレサのように、糞尿まみれの感染症を患った人に、愛をもって素手で触れるかやってもらったらどうかと。
 
 あんなお付きのついたところでイエスマンに囲まれて偉そうにしていないで、もっと下野してみて、そこでまた実践的悟りを深めて頂けるなら、信用してもいいですけどね。
 
 それは、あの家族も三女も同じこと。

 教えのいいところは学んで参考にするのはいいけど、そこだけが特別だとか、最高だとか思わないようにしたいものです。

 
| 200909-20 07:40:34 | 元 #- URL [ 編集 ]
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野田氏ブログから転載 (出直す機会)
2009-09-21 14:07:27
頼れる親族もなく、大変な持病があってもう働ける状況にない脱会者の場合は別ですが・・・。

 今、Alephでもひか輪でも、適当に月数万布施して、バイトした金をちゃっかり貯めることは可能なんだしね。

 そのぬるま湯生活の中で、こっそり数百万貯めて脱会していく姑息なおサマナさんもたくさんいるんだから、そうすればいいんだよ。

 姑息でもなんでも、もう誰もとがめません。

 教団が、そんなテロ集団だと知らされず、騙されて出家させられた人もいるだろうし、それくらいしたって殺人犯すのとは全然訳が違います。

 骨の髄までしゃぶられて、魂抜かれ切る前にギリギリ脱会してほしいものです。

 ただ、信徒さんの立場でそれを聞けば、そんなサマナがいるなんて冗談じゃないだろうけど、もうね、それが教団の現状なんですよ。

 逆に、そんな教団をいまだに支える信徒がいるから、駄目サマナが出来たのかもしれない。

 茄子科さんがおっしゃるように、その気になればいくらでも手はある。

 なのに、安易に野田さんに頼ればなんとかしてくれるとか、甘えの染みついた依存体質が、真綿で自分の首を絞めるように苦しめているだけのこと。

 実際、こんな生活をずっとしてきたので、社会適合しにくいのはあるけど、それも訓練だよ。

 四無量心の瞑想でも利他心の実践でもいいけど、今までやってきたんだよな?
 
 だったらそれを念じて今後も修行とすれば、辛い人間関係も社会も、そこがニルヴァーナになるっていう教えじゃなかったのか?と。

 変容ってのを駆使して、喜覚支する。

「人が喜ぶことは楽しいなぁ!楽しいなぁ!
 なんて楽しいんだろう!

 私は今後、心を入れ替え、社会の役に立つような人間になるぞ!
 人の笑顔を喜びとするぞ!
 人を愛するぞ!

 自他の区別をなくし、全ての魂を慈しむんだ!
 
 働くことは、なんて楽しいんだ!なんて楽しいんだ!・・・・」

 等々、喜覚支して、ニートから脱却しする努力をする。

 かくいう自分も、どうしようもないからこうやって喜覚支をして、カルトで培った強い選民意識のデータ、社会は悪だという偏った考えの入れ替えをしていったし、それは効果があったよ。

 今後は魂を欺瞞の世界に縛りつけるカルト的生き方ではなく、本当に自他の区別をなくすような修行として、周囲に生かされていることを自覚できるように、精進して生きていく決意をして頑張れば、脱会したって下向じゃない。

 それこそ、上向であり、妥協や甘えの克服であり、功徳になる。

 朝日を浴び、朝型の生活にする。
 そして、体内時計をリセットして、心身健康になる。

 まずはそれから努力していくと、少しずつまともに考えられるようになってくる。

 それには、二時間でもいい。
 朝からバイトして、訓練するといいかもしれない。

 サマナも30代なんてもういないんじゃないか?
 40代50代の高齢化なんだから、早く気付かなきゃな。
 
 出直す機会はもういくらもないぞ。
| 200909-20 06:53:56 | 元 #- URL [ 編集 ]
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上祐さん大丈夫か~。 (2チャンネルから転載)
2009-09-05 19:07:30
948 :神も仏も名無しさん:2009/09/05(土) 14:57:03 ID:wmKEoccB

上祐も組織の維持に試行錯誤で大変だよな。
その苦労も分かるが

下の連中の依存がいまだに強すぎてか
とうとうグル化路線まっしぐらじゃねーか!
奴らは上祐までもダメにしていくつもりだ。

以前見たっていうヴィジョンが
実は神格のある如来やなんかと関係があるとかの正当化がなんとも激化していて
より加速化し、体験談もいいところばかりがどんどん載る。

出家の構成員にもエンパワーメントをし始めて
麻原を祭り上げた奴らは、誰かを祭り上げ、
担がれた奴もそれに応える構図はオウムと同じ。

本当に総括したならそうはならないはずなんだ。
どいつもこいつも性懲りもないわ。

広末の外交に惑わされているマスコミも
騙されているのが情けない。


949 :神も仏も名無しさん:2009/09/05(土) 18:04:46 ID:9Un3VMbU

>>948
もともと上祐をグル化する路線はアレフの時代からあったんだよ。

たとえば麻原の代わりに上祐を観想するような修行がサマナ間であったらしい。さすがに
ついていけない人が多く、単なる修行仲間の一人にしか見えなかった
A派連中は猛反発したという事。

ひかりの輪がこうなるのは必然だろう。今までA派に邪魔されてできなかったことが
できるようになった、つまりタガがはずれたって事。

もちろん麻原に比べ上祐のパワー不足と霊性の低い件については以前から指摘されていたことだから
それを強化して求心力を高め信者獲得と銭獲得に使いたいのはゆうまでもないが
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馬鹿でした・・ (白龍)
2009-09-05 01:27:48
元芝さんいらっしゃい。

>日本人はそんなに馬鹿じゃなかった。

>不純なものはちゃんと不純に見えていた。

まあ、そういうことだったのでしょうね。

当時、オウムが選挙に出馬するということにたいそう驚きましたが、大乗的な救済というのはそういうこともやるものなのかと、知識のない信徒の私は成り行きを見守るしかありませんでした。

たしかに選挙におけるパフォーマンスはすごかったと思いますが、当時すでに週刊誌に叩かれていたオウムが、当選するというのは難しいだろうなとは考えていました。

選挙を終えた後、票が盗まれたとか投票箱がすり替えられたとかいう話が出たときには、「へ~!そんなこともあるのか?」と思いましたが、サマナがまことしやかな顔で語るので、陰謀とは恐ろしいものだと素直に信じてしまっていました。w愚かでしたね。
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あの選挙のことなのですが (元芝)
2009-09-04 03:19:50
一言言えるのは・・・


日本人はそんなに馬鹿じゃなかった。

不純なものはちゃんと不純に見えていた。


それだけのことだったと思うのです。

俺が二十歳の頃のことでした。
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野田氏ブログから転載 (選挙開票当日秘話②)
2009-09-02 23:44:33
>今回の話はテレビ局の方から直接聞かれた話なのでしょうか。

私が直接にテレビ局の人と話をしたわけではないのですが、テレビ局の人が来て尊師と話をしているのを、その声が聞こえる範囲の場所で直接に見ていました。他の作業をやりながらのことでしたが、充分にその時の空気感は伝わってきていました。
始めの頃は、テレビ局の人たちは、「先生、先生、今後の政策はどのような・・・・」みたいな話を和気藹々としていたのに、開票速報が始まってからは一転して、みんなが呆然と棒立ちになって黙りこくってしまったあの空気は、ちょっと忘れることができないくらいに異様でした。


>街頭演説の様子はどうだったのですか?
>多くの人が集まって「うんうん」と同意するような感じで聴いてくれたか?熱気はあったのか?
>それとも、単なる泡沫候補の聴衆という感じだったのか?

単なる泡沫候補の聴衆という感じがどのようなものなのか分からないし、テレビ局の人が来たとか来ないとかいうような、客観的な答えがすぐに出るような事でさえ曖昧になってしまうような問題に係わることなので、主観が多く入るこれらの質問には答えにくいなと思います。
それを踏まえて、あえて一つの例を出すと、選挙前日に暗くなってからの渋谷駅での街頭パフォーマンスは、とても熱気にあふれました。メインの選挙カーが二つ集まって尊師の演説やら歌や踊りがあって、私は端からそれを見ていたのですが、そこにいたかなりの数の若者達が一斉に声援や拍手などの応援をしてくれたんです。その場に投票箱があれば、そのノリのまま、けっこうな数の人が投票してくれたかも、と思えたくらいです。
でも、その若者達が、次の日になって、そのノリが冷めた状態で地味な投票場まで足を運んでくれたかというと、どうだったろうと今なら思うし、そもそも、そこにいた人たちの住民票がどこにあるかというのが一番の問題です。なにせ渋谷ですから、遠くから遊びに来ていた人がほとんどの可能性大ですよね。

ただ、その時の選挙は、私の記憶違いでなければ、最初は即日開票だったはずが、いきなり翌日の開票になってしまったりというようなこともあったりと、投票箱のすり替えが本当かもしれないと思うような偶然が幾つも重なったのも事実だったと思います。
でも、すべては終わったことですからね。これらの点と点を結びつけて線にして結論を出していく作業は、ひとりひとりが自分で行っていくしかないかなと思っています。

あと、今回は、私の知っている事実が、なんとなく曖昧になってしまっているのを、たまたま発見してしまって、つい書き込みをしてしまいましたが、本来は、オウムやアーレフ関係の事柄への書き込みは、できるだけ避けたいと思っていたので、申し訳ありませんが、質問の回答も、これで最後にさせてください。
| 200909-02 23:23:10 | 元々 #- URL [ 編集 ]
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野田氏ブログから転載 (選挙開票当日秘話①)
2009-09-02 23:43:21
出口調査では当確だったからと、民法のテレビ局の人がカメラを担いで来たのは確かです。記憶は曖昧ですが2社くらい来ていたようにも思います。サマナが出入り自由な戦隊でのことだったから、私の他にも、その様子を見ていた人は多いはず。
テレビ局の人たちの対応は、始めはもう尊師がすでに当選して議員さんになったかのような口ぶりでインタビューしてました。でも、テレビの開票速報が始まってしばらくしてすると、票のあまりの少なさに、今までとは打って変わって凍り付いたようにシーンとなってしまい、あげくに、長女さんと次女さんが「票が入れ替えられたんだ!!」と騒ぎ始めたら、テレビ局の人たちは、ばつが悪そうに、「で、では、そろそろ帰ります。」と言って、すごすごと帰っていかれました。
今にして思えば、当時の出口調査がどこまで信憑性があるのか、もっと吟味すべきだったかもしれないですね。もっとも、テレビを見ることもできない一サマナの立場では、そんなこと考えもつかないことだし、上層部の人たちも、意図的に、それをしなかったのかもしれませんが。
偶然が重なるときは、本当にいろんな偶然が幾つも重なって、一つの方向に現象が動いていくものなんだなと、今ならそんな風に思います。
| 200909-01 16:19:59 | 元々 #- URL [ 編集 ]
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オンフ板から転載 (無我・非我について3(元芝氏の見解))
2009-09-02 18:40:25
Message#26273 2009年8月31日(月)15時24分
From: 元芝

無我・非我3 結論

一部の仏教徒は「梵(ブラフマン)=絶対神」の存在を否定します。その否定の理由としては、次の三点が挙げられるでしょう。
(理由その一)
 仏教とヒンドゥ-教は根本的・決定的に違う宗教だから。
(理由その二)
 釈迦牟尼がブラフマンの語を使用して、絶対神を肯定した記録はない。これは釈迦牟尼が絶対神の存在を一切認めていなかった事と解釈できるから。
(理由その三)
 釈迦牟尼が使用した「アナ-トマン」という言葉は「ア-トマン」に否定の「ア」を付けた言葉であり、ア-トマンの否定であるから、梵と我が一如であるならば、当然、ブラフマンも否定されることになる。


こうした見解は、この見解を持つ人たちが釈迦牟尼の瞑想法を全く理解していないことであるに過ぎません。

釈迦牟尼がブラフマンという言葉を使用しない理由は明らかです。

そもそも釈迦牟尼の瞑想法は本質的に「智慧のヨ-ガ」の手法です(理由は先に示しました)「智慧のヨ-ガ」は「常住不滅にして真なるもの」を探究するために、理性(ブッディ)を駆使し、否定(ネイティ)の剣を使って「これではない。これでもない(ネイティ・ネイティ)」と「常ならざるもの・真ならざるもの」を徹底的に削り落として行く瞑想手法です。こうして、否定に否定を重ねて行った果てに、
それでも「どうしても否定できないもの」に突き当たるならば、正にそれに意識を集中して瞑想して行くのです。
こうした瞑想手法にあっては「名色」が真っ先に否定されます。
「名色」とは「記号・文字・言葉」という「名」と、「いつか必ず崩壊する運命の、有限なる物質」の「色」です。これらは「常住不滅にして真なるものとは言えない事」が明白ですから、真っ先に否定されます。
「智慧のヨ-ガ」の実践行では「ブラフマン」という言葉「名」の使用は無意味であるばかりか有害です。言葉「名」によって使用者が勝手なイメ-ジを持つことはそれは「正しい瞑想」を妨げる障害物になってしまいます。勝手なイメ-ジが「偶像」となり、気付かないうちに偶像礼拝になってしまう可能性もあるからです。
故に釈迦牟尼が大成した「智慧のヨ-ガ」では、ヴェ-ダ聖典等に出てくる「神々の名前」を厳格に忌避したわけです。こうする事で偶像礼拝に陥る事なく「常住不滅の真なるもの」に意識を集中して行くのです。
以上が釈迦牟尼が「ブラフマン」の語を使用しなかった理由です。
つまり釈迦牟尼は絶対神を否定してはいませんでした。
「無記」としていただけです。
 
そもそも、仏教が「常住不滅にして真なるもの」を否定する宗教であるはずがないのです。
「真なるもの」の存在を全部否定するならば、そういう仏教徒は、古くから大乗仏教の中でも「方広道人」(「大智度論」序論参照)と呼ばれ「邪空」に執着して結局「虚無」に落ち込んでしまう「外道」と位置付けられています。
 
論理学的にも「神に相当する言葉」を出さずに「神」を否定することはできません。
それに「絶対神の呼び名は使用禁止」の立場を貫きながら、釈迦牟尼の「智慧のヨ-ガ」の手法を正しく信者たちに伝えて行くことに困難を感じた密教徒は禁を少しだけ破って「絶対神」に対して、「真如」「法身」「大日如来法身」「本地身」等々の呼称を当てました。
この事実を見ても仏教や密教が「絶対神の存在」を否定していないことは明らかです。
 
もしも「絶対神」を否定する宗教が有るならそれは「邪道」です。無神論の立場で「釈迦牟尼の無我説」を教えるならばこれは「ナンセンスな無我説」になります。そして、こういう「インチキ無我説」を信じた人は、善悪の判断もなしに「我」を捨てようとして無力化してしまいます(日本人仏教徒の多くがそうなのはなんとも悲しいことです)
 
これは「非我」も同じことです。

結論として「無我・非我」「真我」は結局同じことを言っているのです。
「我」を「個体意識」とするなら(仏教徒はそう定義します)「無我」は「個体意識が消えて真我(梵)の意識になった状態」と言えます。
「いやいや。個我は幻想だし真我や梵我なんて無いよ。幻想だよ」と言う人(仏教徒)も居るでしょう。
しかし、そもそも悟った人を「仏陀(ブッダ)」と言います。これは「目覚めた意識」とか「意識が目覚めた人」を意味します。
個我や真我梵我が幻ならば一体何に目覚めた意識というのでしょう?
もちろん真理です。
で、釈迦牟尼は「ヴェーダの達人」なので「ヴェーダの真理」である「梵我一如」を悟った。
ならば「無我」とは「個体意識(我・個我)」が消失し、「梵我(大我)」意識になったことを意味します。

もちろん釈迦牟尼・仏教もヨーガも「空」や「エンプティネス」「ナッシングネス」という「セルフ」=真我(梵)の先を用意してはありますが。
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オンフ板から転載 (無我・非我について2(元芝氏の見解))
2009-09-02 18:38:34
Message#26272 2009年8月31日(月)15時07分
From: 元芝

無我・非我2

仏教とヒンドゥー教の「山頂」は「一つ=同じもの」であることは先に説明しました。それが「梵我一如」です。
「梵我一如」はヴェ-ダ聖典中の古ウパニシャッドの中において、そのゴ-ル、頂点として明示されている境地です。具体的には次のような聖句によって示されています。 
 
「ブラフマン(梵)は、このア-トマン(我)である。」(ブリハダラニヤカ・ウパニシャッド 二・5、19)
「それはア-トマン(我)を知った、『ア-トマン(我)はブラフマン(梵)である』と。」(ブリハダラニヤカ・ウパニシャッド 四・4、25)
「これはじつに偉大にして不生なるア-トマンである。不老・不滅・不死にして恐怖を離れている。恐怖のないブラフマンである。」(ブリハダラニヤカ・ウパニシャッド 四・4、25)
 
『岩波 仏教辞典』の「梵我一如」の項を見てみますと、
「バラモン教の根本思想の一つ。ヴェ-ダ聖典の終結部をなすウパニシャッドにおいて、宇宙の根本原理ブラフマン(梵)と個人存在の本体であるア-トマン(我)とは同一であると考えられた。
この知識を得ることによって解脱が達成される。この思想はインド哲学の主流をなすヴェ-ダ-ンタ学派中のシャンカラを開祖とする不二一元学派によって理論的に整備され、今日に至るまでインド思想の主流を形成している」とあります。

更に「ブラフマン」の意味については、『岩波 仏教辞典』の「梵」の項に説明があります。
「祈祷の文句ならびにそれに宿る神秘力を意味し、祭式万能の気運につれ神を左右する原動力とされ、さらに宇宙の根本的創造力の一名となった」

更に「ブラフマン」の説明について、中村元博士の本を見ると「世界に生気を与えて動かしている聖なる原理」「究極の本源的な原理」「自然の奥にある活力であり、万有を形成し支持するものである」
「後代のインドにおいては、一般に「ブラフマン」という語はもはや原義を喪失してしまった。正統バラモン系統の哲学においては、もっぱら純粋に抽象的な絶対者そのものを指示する哲学的術語となった」
『中村元選集(決定版)第9巻 ウパニシャッドの思想』 148頁
とあります。
 
このように、「ブラフマン(梵)」は言わば絶対神を指し示すインド哲学用語です。
実際には「ありとあらゆるものと全ての事象の背後にあり、かつ浸透し、ありとあらゆるものと全ての事象を形成し、支持し、破壊するもの。形成機能(側面)をブラフマー神。保持機能(側面)をヴィシュヌ神。破壊・再創造機能(側面)をシヴァ神として呼ぶ」との認識を現代聖者たちが説いています。
 
さて問題なのは、「梵と我」二者の関係です。
多くの人々が「梵我一如」とは「個人の我」が「絶対神である梵」に近づいて行き、遂には「一つになる」ことと思い違いしています。
(特にオウム脳患者に多い。「神に近づく・・・」「神になる・・・」などの勘違いは教義の至る所にある)
 
はっきりと言いますが「梵我一如」の「一如」は「一つになる」という意味ではありません。
「一如」の「如」は「如し」の意味ではなく「同一・イコ-ル」の意味です。
事実、ウパニシャッド聖典では先に見た通り「梵」と「我」が「同一である」との表現になっています。
ですから「梵我一如」とは「梵」と「我」が一つになることではなく、実は「元々一つのもの」これが正しい意味です。 
 
ウパニシャッドで「梵と我はイコ-ル(同一)なり」と言明する時には、次の三点を意味しています。
1.梵我一如とは、最初から梵と我が完全に同一だと言明するものである。
2.ブラフマンとア-トマンは「同一の存在の二通りの呼び名」に過ぎない。
3.2を受けて、つまり「梵と我」という二通りの呼び名が有ること自体が、一つの方便なのである。両者を同一とする表現が方便なのではない。
 
前にも書きましたが「大海と一個のコップ」の喩えを出します。
大海にコップを沈めます。するとコップの中は海水で一杯になります。この時、コップの中の海水とコップの外の海水は完全に同一の海水です。コップには蓋がないので、コップの内と外の海水は連続しています。よって、コップの外と内の海水は「同じ海水」即ち「一如」です(大海は無限定の梵を意味し、コップは人の個体の限定枠を意味します)
コップの内側から見た「海」をア-トマンと呼び、概念的な「海」をブラフマンと呼ぶだけのことです。
「コップ=個体」は「大海=梵」の外に出たことは一度も有りません。大海の外に出ることは不可能なのです(人が宇宙の外に出られないのと同じ事です)梵と我は、コップで仕切られた「内と外」、両側から見た「絶対神」の二通りの名称です。
よって、両者は最初から同一のものです。
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オンフ板から転載 (無我・非我について1(元芝氏の見解))
2009-09-02 18:35:05
Message#26271 2009年8月31日(月)14時52分
From: 元芝

無我・非我1  

まず、「無我」「非我」の話をする前にこれを押さえておいてください。


インドには様々な種類のヨ-ガが有りますが「智慧のヨ-ガ」も釈迦牟尼誕生以前の遙か昔から存在し、ヴェ-ダ聖典にも智慧(理性=ブッディ)を用いたヨ-ガの手法が散見されます。
これが「ギャ-ナ(智慧)・ヨ-ガ」です。
このヨーガがムンダカ・ウパニシャッド成立の時代にまで来ると、その中で明確に「汝自身を知れ」(ムンダカ・ウパニシャッド二・2、5)
と説かれるようになり、自分自身の心の奥底に、魂の源に集中し瞑想して行く手法が、このヨーガの技法の中心にして奥義となっていきます。
 
こうした点からすると、釈迦牟尼は「彼独自の瞑想手法を創始した」のではなく伝統的なバラモン教の「ギャ-ナ・ヨ-ガ」の大成者、と位置付けるべきだと言えます。
まさに仏教の核心は「汝自身を知れ」だからです。
ただし後の大乗仏教徒たちは、釈迦牟尼の「智慧のヨ-ガ」を、従来のヴェ-ダ的な「ギャ-ナ・ヨ-ガ」と分けて扱うために「ギャ-ナ」の類義語「プラジュニャ-」の方を好んで使い「自分たちはプラジュニャ-(般若)ヨ-ガ行者である」としたと理解すべきですし、後述しますが「それが仏教徒の矜持」です。
(サンスクリットの「プラジュニャ-」がパ-リ語訛りになると「パンニャ」となります。「パンニャ」が中国語に変換される時、音写で「般若」という当て字が使われ、これが日本に伝えられて「ハンニャ」となりました)
 
視野の広いヒンドゥ-教徒(多くのヒンドゥー聖者や信者たちはそうですが)は、釈迦牟尼のことを「釈迦牟尼はヒンドゥ-教の諸聖者の中の一人に過ぎない」と見ます(少数の偏狭なヒンドゥ-教徒は釈迦牟尼を異端としますが)
逆にこうした見方に「ふざけるな!」と強い嫌悪感を示す仏教徒もいますし、いるでしょう。
「釈迦牟尼は、ヒンドゥ-教とは違う、絶対の真理について教示下さったのである! 我々は堅くそう信じている!」これが仏教徒としての一般的な認識と矜持でもありましょう。
人間はどうしても自分が信じている宗教が一番であると思い込み勝ちです。そして自分の知らない他の宗教を「悪魔か仇敵」扱いして排斥する事になります。
これは「自分が、自分が…」と我を張る高慢心と言えます。
ユダヤ教徒に対するキリスト教徒の感情も、ヒンドゥ-教と仏教のそれと同じような関係にあります。


ところで、
「仏教は、ヒンドゥ-教とは全然別個の「新しい真理」について教える宗教である」
「仏教は反バラモン教である」
「梵我一如は仏陀の悟りの境地ではない」
こうした見方は正しいのでしょうか? 
 
釈迦牟尼は自分の事を「ヴェ-ダの達人」と自称した記録が有ります。
『ブッダのことば(スッタニパ-タ)』(岩波文庫・中村元 訳)の第四五八、四五九、五二八、五二九詩節にある
この釈迦牟尼の「ヴェ-ダの達人」発言の意味は「私はヴェ-ダ聖典が教えている『究極の目的』に到達してしまった(という意味で)ヴェ-ダの達人である」という意味だと理解されます。
「ヴェ-ダ聖典」の奥義が「梵我一如」である事については明示されていますし釈迦牟尼が「ヴェ-ダの達人」と自称している以上「梵我一如は釈迦牟尼の悟りの境地でもあった」と見るべきです。
  
また『サンユタッタ・ニカーヤ』には次のような釈迦牟尼の言葉があります。
『ブッダ 悪魔との対話(サンユタッタ・ニカーヤⅡ)』(岩波文庫 中村元博士訳148頁)
「バラモンよ、戒めに安住している人は法の湖である。・・・そこで水浴した、知識に精通している人々、肢体がまつわられることのない人々は、彼岸に渡る。
真実と法と自制と清浄行・・・これは中(道)に依るものであり、ブラフマンを体得することである」 (第7篇第一章第九節17)

はっきりと「ブラフマン(梵)を体得することである」とあります。

ですから間違いなく、何の疑いも持つことなく、疑いようも無く「梵(ブラフマン)」を体得する奥義「梵我一如」は、釈迦牟尼の悟りの境地でもあったのです。

だからといって、誰かに「釈迦牟尼はヒンドゥ-教の諸聖者のうちの一人に過ぎない」と言れたとしても「その通りですね」と胸を張って答えるべきです。
こんな事で仏教徒の自尊心が傷つくのなら、そんな自尊心は捨てるべきです。
「仏教はヒンドゥ-教の一流派」という見解が真理だとしても、この事で仏教の偉大さが損なわれることはありませんし、ヒンドゥ-教に引け目を感じる必要もありません。
「山頂は一つ。しかし、登山道は色々」この見方こそが真理です。
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野田氏ブログから転載 (選挙に関して)
2009-08-29 09:12:46
野田さんが知子さんに報告したとき、あったかもしれないけど、探せる状況ではありませんでしたって、はっきり言ったのですか?
ただ、その3票はありませんでしたってだけの報告ですませた??

それだけだったら、惨敗を認めたくないですから、良いように解釈されてしまうでしょうね。

その点では、上祐さんは気骨があったかもだけど、その後の話では、そのあと風呂に入っている麻原に上祐さんが一人呼ばれて、何万票は言いすぎかもしれないけど、何万票くらいだったらあったかもしれないよなぁ~とかなんとか、バランス取ったような言い方で懐柔してきたので、そこでもうそれ以上言えなくなって折れたらしく、そのあたりは麻原は丸めこむのがうまかったと総括などで上祐さん本人が言ってますね。

すでに陰謀などないと言い張れる雰囲気にはなかったので、結果、長いものに巻かれた感じになったんだと思います。

選挙に負けたのは、日本人が馬鹿じゃなかった証拠ですよ。

あんなポッと出の、しかもゾウさんかぶったり自分のお面をかぶらせて踊ったり歌ったりの奇妙で不気味な宗教団体の教祖や弟子がこぞって参戦したって、気味が悪いだけ。
誰も政治を本気で任せようなんて思わないでしょう。

どうせ当選しないだろうから、入れてやるかっていう愉快犯的投票は一般でもあったかもしれないけど。

中川さんは元医師という肩書があったし、信徒も住民票を移してまで選挙で勝たせようとはしてたけど、そんなの帰依信徒の一部と、あとは数えるほどの人数ですからね。

それを本気で勝てると、神々と会話して云々と言っているあたりがもう大魔境でしかなく、実は予知能力も他心通も漏尽通もない、その前の洞察力もなく、空気も読めないという証拠ではないですか。

いい悪いは別として、まだ、今回の幸福実現党のほうがやりかたとしてはスマートですよね。
いっちゃった目で絶叫しなければw

・・・と、今でこそ言えますが、当時はそんな自分も真剣に信じてましたし、仕事の関係で住民票は移せなかったけど、移してでも選挙に行って入れたい!勝たせたいと真剣に思ってましたけどw
| 200908-29 08:48:21 | 元 #- URL [ 編集 ]
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2チャンネルから転載 (真理は信仰じゃない)
2009-08-29 08:42:56
388 :神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 01:56:06 ID:2M/IxghW
不殺生は仏教の戒律の中の最初の一番大事な戒律。

戒律は、やっちゃいけないことではなくて、本人を災難か守るための
ものであり、そのまま悟り・解脱への道そのものでもある、という。

それを破っておいて、本物の仏教ですだの、解脱しましただの
言える神経がどうかしてるよ。

ヨガの視点からしたってそうでしょう。


389 :神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 02:00:40 ID:2M/IxghW
殺生した結果をみてごらんよ。
現実をみれば簡単にわかることなのに。

オウム出版の本を読んで、それしか知らない幹部信者の言葉を
聞いて、その情報から判断してるんだろ。

ぜんぜん現実をみてないじゃん。
ありのままに見る、正見は八正道の一番目なのに。


390 :神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 02:03:47 ID:2M/IxghW
要するに、単刀直入にいって麻原教は単なる迷信でしかないのよ。
仏教とヨガから都合のいい部分をパクって、自己流にアレンジしただけ。

そもそも、麻原教団に正式なサンガから出家を認められた人間なんて
一人もいないし、ヨガの観点から見ても、麻原はグルからの許しを受け
ていない。

自称、如来ってだけ。
信者はそれを信じているだけ。

真理は信じるものではない。
事実に基づくもののはずだ。
真理は信仰じゃないんだ。
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野田氏ブログから転載 (上祐さん大丈夫?)
2009-08-23 23:39:46
>出家生活ってプライベート空間がない上に

そうそう!
プライベートがないといえば、出家生活ということ以外に、上祐氏は女性サマナや師の部屋に平気でノックもなく入ってくるらしい。
それも、いつなんどきでも勝手にドアを開けて入ってきて、寝てても着替えててもお構いなしに覗いていく。
セクハラだ!やめてください!と相当女性から文句が出たようだが、ちっとも改めないという話だった。

それが嫌で部屋に鍵をかけている女性もいるというから、どういう神経しているんだろう。
  
デリカシーがないだけなら、怒られたらやめるだろうし、そんなに麻原がうらやましかったのか、ステージが上だってことでそんなもの自分は何してもいいと当たり前の行為だと思っているのかわからんが、あまりよろしくはないだろうな。

まー見てもそそられるようないい女も、もう全くいないがw
| 200908-23 22:44:12 | #- URL [ 編集 ]
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オンフ板から転載 (オウム脳患者へ(元芝))
2009-08-23 18:39:17
2009-08-22 12:55:36
Message#25881 2009年8月19日(水)02時52分
From: 元芝

「そう言えば」

今思い出したんですけど

よく一元一元って叫ぶノータリーンが多いのが最近のオウム脳の患者さま方の傾向のようですが、

それは瞑想においてはそうでしょうけど(後、解脱後・悟った後は一元的な領域にいながら二元性のマインドを働かすこともできるとは思いますが)現実を生きる上では「一元は一元として理解・悟りながらも二元をうまく使いこなす必要がある」というかそうしないと生きていけませんよ。

何かを定義すれば別の何かを定義せざる得ないとか、・・・下らない・・・

正直言って


そんなの「幻は幻として理解しつつ利用しなさい」ってだけのことです
 



それが頑固頭にはできないから・・・

矛盾や不完全性とか多様性はこの世界の「完全なる姿」なんです。

そのように理解しつつ利用すればいいんです。
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野田氏ブログから転載 (信徒とサマナの関係)
2009-08-23 18:38:20
2009-08-22 12:49:43
上記の流れをみると、

 出家だと偉そうにいいながら、煩悩捨断せずだらだら遊んで暮らしている者たち
 (見本となるべき教団内部に、こういうのが一部でもいたらまずいこと)



 在家でも、しっかり修行や信仰中心の生活をし、借金をしてでも布施しようと頑張るなど、そんなボンクラ共よりも功徳を積もうと、いや、積んでいる者がいる

 という現実的逆転現象から、当たり前の批判、不満が噴出しているだけに見えます。

 そもそも、すでに『出家制度自体が崩壊している』ということです。

 それなのに維持しようとしているから、いろんな矛盾やひずみは出て当然でしょう。

 出家者内部でも、まともな感覚の者はその矛盾に気付き、良心の呵責もわいて、複雑な心境の中で悩み、脱会してゆく者もいると聞きます。

 脱会の原因はそれだけではないでしょうが、それも一因としてあり、脱会者が出て密かに人数が減っているのに、信徒はそれは教えられないから教団の実態すら分からない。

 そして、信奉している教団から聞けないで、違うルートから分かるなどガッカリすることしきりだとも聞きます。

 ですから、そのような矛盾のある出家制度自体を廃止すればいいというだけのことではないのでしょうか。

 Mで言えば、もし上祐氏が無一文から一人で宗教家としてやり直すなら、もっと多くの人々に理解されるでしょうし、わたしもそれならコンタクトを取り、手伝いたいとすら思える。

 ただ、彼は今の立場や趣味と実益を兼ねた楽な商売からそれが出来るかといえば、その覚悟はないとは思いますが。

 そして、AもMも、そんな形態をやめなければ、まだまだ内部に巣くう洗脳は抜けないし、健全にならず、社会性も身に着かず、社会不安もぬぐえず、組織に依存し寄生している人たちの自立の機会はなかなか訪れない。

 特にAの方は危険でしょう。
 よりグルイズムが強化されて、麻原が処刑されたらどうなるんです?
 今はフラフラしていられる中間層のサマナ達も、突然の死刑執行の知らせがあれば、中にはある種の怯えが生じる者も出てきて、神格化と洗脳の中でまた毒され、狂気に走る可能性もありますから、これは恐ろしい事です。

 かといって、Mのほうはまだましかと思っていましたが、そうでもなく、最近でも脱会しようとしているサマナに上祐氏自らが、「現世は法則がないから君はそういうところへはいけないだろう?」というような説得をして引き止めたという話が出回っていて、あそこは一元とか全てに神仏を見て感謝をするとか、自然にも神仏を感じようということで聖地修行といって旅行を修行にしていながら、どうしてそんな出家教団の中にしか法則がないなどと平気で言って引き止められるのでしょう?

 それは選民意識が、まだ全く抜けていないからです。
 それなのに、そのような教えをしている矛盾と欺瞞。

 そうなると、やはりMのほうも所詮はカルトなんだなと、恐ろしい思いがします。

 全ては、オウムから引きずっている組織をそのまま維持していることによって、このような問題が出ている。

 それだけです。そこが根本的な大きな問題だと見えます。
•| 200908-22 08:59:34 |•#- •URL
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野田氏ブログから転載 (腐敗サマナ批判)
2009-08-23 18:37:09
2009-08-22 12:46:10
教団に残っていても禁欲的とは言えない場合も多々。

 出家がバイトして、稼ぐのはいい。
 しかし、外貨を稼ぐようになると、いい加減勝手気ままに過ごし、食べ物も、遊びも、ついには酒、内緒の外泊、旅行などもし、宗教儀式などにも参加せず、自分の経費分の布施もせず、適当に数万入れればまだよい方で、それをなぜか許容してもらっているサマナが何人もいる。

 そんな奴が隠れて貯金をし、ついに脱会したいといえば、それなりに説得されるし、逆に甘やかされて待遇も良くなれば、自分自身で自活する厳しさも十分分かっているので、親元に行くのもめんどくさいし、自活も金がかかる・・・と損得勘定して、じゃあまだ居てやるかとなる。

 そのサイクルを何度も繰り返している者が、AにもMにも結構いるという感じで、本当にどうしょうもないです。
 
 こいつらは信徒に失礼だし、教団の寄生虫。

 そういう奴は早く教団から去って、自分が甘ちゃんで何も選ばれた魂などではない、ただの性根が腐ったボンクラの糞だったと、社会でもまれて自覚しなければ、いつまでも増長して自分にも教団にも悪影響があるだけ。

 自立できるように頑張って努力することが怠惰で出来ないから寄生している場合、妄想云々は関係なくて、ずるいだけではないかと。

 そういう者に限って、端々に「現世のエネルギーはきつくて、やはり教団にいたほうが楽なんですけど」とか「現世は魑魅魍魎の世界だから・・・」などと所々修行者ぶるが、それは、そう言われると教団も保護したくなる傾向をよく分かっているからなので、たちが悪いと道場活動を一生懸命やっているサマナの人も怒っていました。

 それならばはっきり言うなり、処分するなりすればいいのですが、陰口で終わっているのもタマスすぎるし、出家のクリアさが見えません。

 そのあたり、信徒のほうがよっぽど節制出来ていて精進をし、信心深い人が多いのではないかと思えるほどであります。
•| 200908-21 07:26:36 |•#- •URL
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野田氏ブログから転載 (ひかりの輪への意見)
2009-08-23 18:36:11
2009-08-22 12:44:33
だいたいグルを否定して体裁を装っても、霊的ステージの証明もないなら、その否定したグルに与えられたものも否定すればいいのに、そこは、自分だけいいとこ取りで調子よく活用し、売りにして、周囲や信徒への思い込ませ(洗脳)を解くことなくうまくやっているんだからおかしいです。

総括して改めたといいながらも、まだ鏡のように似ていたりすれば、誰しも矛盾を感じる。

だから、「当事者が一生懸命に行動してエゴを滅し、最終的に当事者が幸福に至るような手段として、そのような場が機能するのなら、それで良いではないか」という一般論でなーなーにしないで、改革、改善の余地あり!と言ったほうがいいんだろう。
•| 200908-20 22:01:43 | •#- •URL
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野田氏ブログから転載 (ディオゲネスの樽さんのひかりの輪情報)
2009-08-23 18:35:19
観察処分を外す(社会融和のため)には、麻原・オウムの系譜を完全に断ち切り、「上祐教」としての「ひかりの輪」へと変化させる必要性があるという判断もあったのでしょう。

「大黒柱」等々の宗教的体験を語ることで、麻原ではなく、神々がこの流れ(上2009-08-22 12:42:31
ひかりの輪は現在、「新団体から新宗教へ」ということで教義体系や修行体系の整備にとりかかっております。

団体の説明では、占星学的な示唆があるようなのですが、占星学にはあまり関心がないのでその点はよくわかりません。

ただ、私は別の観点から今の団体の流れを観ています。

「新宗教」を立ち上げるということは、とりもなおさず上祐代表が今までの「法友」という立場から「教祖」になるということを意味します。

かねてから上祐代表は、「代表になった宗教的根拠はなにか?麻原が成就を認定したからこそ、代表になれたのではないのか」という批判を受けていました。

実際、観察処分の更新における証拠として挙げられていたように、アーレフM派の時代には麻原の言葉(権威)を借りて、自らの正当性を訴えていました。
祐代表)を祝福しているのだということを示唆し、教祖としての宗教的権威を身にまといたいのだろうと推察しております。

今回のセミナーでは「帰依」が強調され始めています。「顕教と密教のバランス」と称して密教の比重を上げていくことも示唆しています。そして、密教とはグルイズムを意味しているのだろうと私は受け止めています。

まぁ、着々と「新宗教」に向けての布石を打ってるのでしょうね。今までの宗教サークル的存在から、宗教へと再び回帰していくわけですから、私をはじめとする一部会員には不安に思う声も上がってきて当然だろうと思います。

結局、麻原に取って代わりたかっただけか、と考えもしましたが、おそらくはそうではないでしょう。

ひかりの輪設立当時、彼が今までのマイトレーヤ正大師の立場を捨て、率先して奉仕活動していた姿を思い出しました。「自分が変わらねば他人は変わらない」そのような心の現われだったのだろうと考えています。

本気で彼は自分自身も団体も変えたかったに違いありません。

ただ、現実は違っていた。

教材を破棄し、いくら麻原を否定しようともオウムと同一視され、内部においても一人、二人とスタッフや会員は離れていき、度重なるごたごた。明らかに最近では士気が下がり、求心力も落ちていたように思います。

「顕教は衰退。、密教は狂気。両者のバランスが必要」と彼は言いました。「顕教だけでは人はついてこない・・・。」そんな諦めにも似た言葉なのかもしれません。

麻原は「先生」から「尊師」になりました。今、上祐代表は「法友」から「教祖」になろうとしています。

今のこの流れがどういう意味を持つのか、ひかりの輪関係者は一人一人問い直す必要があるのではないでしょうか。

すべてが縁起しており、すべてはこころの現れなのですから。
•| 200908-18 17:45:48 |•ディオゲネスの樽
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アベル板より転載 (元芝氏の見解)
2009-08-23 18:33:29
2009-08-22 12:39:20
Message#25789 2009年8月18日(火)03時22分
From: 元芝


評論家は無価値か?


>私はひかりの輪とか、上祐さんとか、そういうことを主として論じたかったのではなく、
>実践者と評論家の違いをはっきりさせたかったということ。
>結論を述べると、評論家は価値がないということです。
>この評論家は価値がないということは大学教授クラスでも、
>けっこう納得していなみたいで、異論があるのは仕方がないことです。

>http://www.nicovideo.jp/watch/sm2924953


さてさて・・・

この世にあるありとあらゆるもので無価値なものは存在するのか?

殺人カルトの教祖でさえも「反面教師」としての価値があるというのに。

いわんや「評論家」に価値が無いとは、何たる傲慢。


>この対談の8:00~15:00ぐらいに脳科学者の茂木さんが小林秀雄を擁護し、
>作曲家ピアニストの高橋悠治さんが小林秀雄を批判するという展開があります。
>この高橋悠治さんの評論家批判は、まさに正しい批判であって、
>私が元々もっていた評論家は無価値という認識と一致するものでした。


どう正しいのだろう?

その根拠は?

この方の単なる思い込みで「無価値」とされてるのではなかろうか?

評論家のことを無価値とするのは既にその評論家の意見を聞いてその評論に左右されているからに他ならないのではなかろうか?

真に無価値なら「ああ。そういう意見もあるでしょうね。でも自分が作りたいものはそういうものではないので自分自身のことに励むだけですよ。あなたの意見と私の作品・感性は別のもの」と一蹴すればいい。

だが、そうではないから、批評・評論に左右されているから(恐らくその評論家の評論で作品の売り上げが決まってしまうからその評論が無視できないが故に「評論家は無価値」と言っている)そういう「無価値」などと言う言葉になってしまう。

つまり「無価値」に「価値」を見出している。


>音楽評論という行為自体は価値がないものであって、


それを言ってしまうなら「音楽」にも価値が無い。価値は後付されたに過ぎない。

大勢の人がその音楽を聞いて感動するからそれに「価値が生じる」

評論も同じでその評論を見て「なるほど。そう言われてみれば・・・」となるから
その評論家の言葉に価値が生じる。


というか、

クリエイターと評論家とは常に戦ってきた。

いわばライバルなのであって評論家を唸らせよう!と頑張るからよいモノが出来ると思うのだが。

もちろん本当のライバルは自分自身だったりする(本当の味方も)


>一つの作品が好きであれば、その作品を聴けばいいのであって、
>嫌いであれば、聴かなければいい。


評論も同じ。


>もっと良い作品があるなら、自分で作曲して示せばいいということです。


自分で作品を作る能力とそれを評論する能力は別物。

むしろ評論家をねじ伏せられない自分の作品・感性を恥じるべき。



>一つの音楽作品があって、その音楽作品を好む人がいて、
>その音楽作品を好むこと自体がおかしい、なぜなら、その作品は駄作だから、
>そういう音楽評論が無価値であることは理解できるでしょう?


それも一つの意見。
そういう評論・批評もねじ伏せられない程度の作品でしかないってことに過ぎない。



>高橋悠治さんは「結果から始めてものを作ることはできない」
>「それ(批評)はものを作るときや役にたたない」
>と表現しています。


その言葉自体彼が批評を気にしている証拠。


>さて宗教を議論しているときに、なぜ音楽評論の話になるか、
>その点に疑問を感じるかもしれませんが、抽象度を高めて思考すると、
>同じ議論であると気づくはずです。

>宗教評論という行為自体は価値がないものであって、
>一つの宗教団体が好きであれば、そこの信者になればいいのであって、
>嫌いであれば、信者にならなければいい。
>もっと良い宗教団体があるなら、そこを選ぶか、
>ないなら自分で教祖になって宗教団体を作ればいいということです。
>一つの宗教団体があって、その宗教団体を好む人がいて、
>その宗教団体を好むこと自体がおかしい、なぜなら、その宗教は霊感詐欺だから、
>こういう宗教批判が無価値であることは理解できますか?


評論家を黙らせることのできない未熟な教義で何を言うのか。

アンタ馬鹿ぁ?



>他人から見て霊感詐欺であっても本人が救済されていると感じているなら、
>感じているのは本人であるので他人がとやかく言う必要がないということです。


崖に向かって歩いている人に「本人がリゾート地に向かってるつもりなら他人がとやかく言う必要はない」って言えるのかな?

特に崖に向かって歩いているのが自分だった場合に。



>霊感詐欺にひっかかっていることが不幸の根源であれば、
>その宗教団体から脱会すると、その人は幸福になれるのでしょうか?


いったんそっから離して冷静な状態にするのが何か問題があるというのでしょうか?



>ところで、あなたは霊感詐欺と宗教的真理をどうやって区別しますか?
>宗教とは科学で解明できない問題を取り扱っています。
>これは絶対的な名曲を客観的に判断できる関数が存在しないことと、
>よく似ていると思いませんか?


他人を支配しようとしない、これを区別の材料にしますね。俺は。

こういう問題に数学的な話を持ち出す人って大抵詐欺師です。



>>頭からエネルギー入ってきてそれはミシャクジ神だとか勝手に解釈したり~
>これは上祐さんが宗教的実践者として、行動してきた結果であり、


麻原が「光音天の神々が・・」って言ってたのと何が違うのかを説明してからそんなことは言って欲しい。


>>それだけを批判するのは無意味です。


いや。
無意味じゃないよ。

今彼は麻原の尻尾になっている。

これでハッとして軌道修正するかもしれないじゃない?

批評・評論だってその中から何か気づきを得ればいいんじゃない?

それが出来ない方がどうかしてる。

自分たちは実践者だ!って傲慢に陥ってる。


>>では、あなたは、そのエネルギーが何であると断定するのですか?

>>実際に構成員とも話をし、アドバイスもしています。
>>これが実践というならそうだと思います。
>そのアドバイスが聞き入れられなかったということですね。
>それは、あなたの宗教性が信頼に足りると判断されなかったからです。


???

カルトの洗脳信者が基本的に他人のアドバイスなど聞き入れることなどないと思いますが?

聞き入れてなんらかの自分の宗教性に取り入れる、これがやるべきこと。



>>ひか輪にはきちんと変わってほしい
>本当にそう思うのであれば、あなたはひかりの輪の構成員となり、
>幹部となって、上祐さんと議論していく必要があるでしょう。


内部に行くのも外部から諭すのも本人の自由。
本人のスタイル。

「これこれこうじゃないといけない!」
はカルト脳。


>>大乗的ですねと言われるなど、そういうものにこそ価値を見出してはいませんし。
>宗教の目的は救済です。
>では、あなたは何に価値を見出しているのですか


宗教の目的は自己の救済です。

他人の救済はそれを使命とする人に任せればいい。

自分たちを救済者と放言するものこそ救われないといけない人たち。
•| 200908-18 09:37:01 |•転載 #- •URL
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野田氏ブログから転載 (#QfNYz.PI 氏への反論)
2009-08-23 18:30:01
2009-08-22 12:36:35
評論家は価値がないと言ってる割には、自分自身もなんだか価値のない評論を、こうやってここで延々ぶっているのに気付かないのか?


>これは上祐さんが宗教的実践者として、行動してきた結果であり、
それだけを批判するのは無意味です。

なら麻原のことを同じように否定している上祐氏ってどうなんですかね?
麻原も宗教実践者として行動してきてのいろいろな結果だったわけで、それを総括としてさまざまな部分を否定してきている割には似てきていませんか?と、それじゃあまずいでしょう、言われているだけだと思うんだが。


>それは、あなたの宗教性が信頼に足りると判断されなかった

宗教性の信頼より、上祐氏をよく知る者たちに聞けば分かるが、よくしゃべる口はあるけど、もともと下に見ているものの意見など、よく聞く耳があまりない。
と言えば、うんうんとうなずいて納得する者も多いと思う。
最近はまだ丸くなったようなことも聞くが、幹部構成員でもそのあたりの苦労はまだまだしている状況。


>本当にそう思うのであれば、あなたはひかりの輪の構成員となり、幹部となって、上祐さんと議論していく必要がある

組織は基本、幹部こそ言いなり。だから幹部になれるわけです。

また利害関係があるので、立場をもらえば言えなくなることも多くなるようで、それより、反論や意見であれば、外部からの意見のほうがあそこはよく聞き入れられるだろう。
宗教性の信頼より社会的体裁を重く見ている傾向が強いので、権威権力、立場がある者の言うことなら尚更聞く。
それはアレフ時代からそう。


>宗教の目的は救済

救済ね。

麻原やオウムもそう言って数々の事件を引き起こし、国家転覆をもくろんだ。
全ては救済のため、四無量心だと。

だからもう、ひかりの輪でも「救済」という言葉は偉そうに使わないようにしていると思うんだが。

いろいろかばって言っているような感じだが、ひかりの輪の内部のことやオウムからの経緯、傾向についてあまり知らないようなので、もっと勉強してからにしたらどうかね。
•| 200908-17 22:35:42 |•#- •URL
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野田氏ブログから転載 (再び反論)
2009-08-22 12:34:10
私はひかりの輪とか、上祐さんとか、そういうことを主として論じたかったのではなく、
実践者と評論家の違いをはっきりさせたかったということ。
結論を述べると、評論家は価値がないということです。
この評論家は価値がないということは大学教授クラスでも、
けっこう納得していないみたいで、異論があるのは仕方がないことです。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm2924953

この対談の8:00~15:00ぐらいに脳科学者の茂木さんが小林秀雄を擁護し、
作曲家ピアニストの高橋悠治さんが小林秀雄を批判するという展開があります。
この高橋悠治さんの評論家批判は、まさに正しい批判であって、
私が元々もっていた評論家は無価値という認識と一致するものでした。

音楽評論という行為自体は価値がないものであって、
一つの作品が好きであれば、その作品を聴けばいいのであって、
嫌いであれば、聴かなければいい。
もっと良い作品があるなら、自分で作曲して示せばいいということです。
一つの音楽作品があって、その音楽作品を好む人がいて、
その音楽作品を好むこと自体がおかしい、なぜなら、その作品は駄作だから、
そういう音楽評論が無価値であることは理解できるでしょう?

高橋悠治さんは「結果から始めてものを作ることはできない」
「それ(批評)はものを作るとき役にたたない」
と表現しています。

さて宗教を議論しているときに、なぜ音楽評論の話になるか、
その点に疑問を感じるかもしれませんが、抽象度を高めて思考すると、
同じ議論であると気づくはずです。

宗教評論という行為自体は価値がないものであって、
一つの宗教団体が好きであれば、そこの信者になればいいのであって、
嫌いであれば、信者にならなければいい。
もっと良い宗教団体があるなら、そこを選ぶか、
ないなら自分で教祖になって宗教団体を作ればいいということです。
一つの宗教団体があって、その宗教団体を好む人がいて、
その宗教団体を好むこと自体がおかしい、なぜなら、その宗教は霊感詐欺だから、
こういう宗教批判が無価値であることは理解できますか?
他人から見て霊感詐欺であっても本人が救済されていると感じているなら、
感じているのは本人であるので他人がとやかく言う必要がないということです。
霊感詐欺にひっかかっていることが不幸の根源であれば、
その宗教団体から脱会すると、その人は幸福になれるのでしょうか?

ところで、あなたは霊感詐欺と宗教的真理をどうやって区別しますか?
宗教とは科学で解明できない問題を取り扱っています。
これは絶対的な名曲を客観的に判断できる関数が存在しないことと、
よく似ていると思いませんか?

>頭からエネルギー入ってきてそれはミシャクジ神だとか勝手に解釈したり~
これは上祐さんが宗教的実践者として、行動してきた結果であり、
それだけを批判するのは無意味です。
では、あなたは、そのエネルギーが何であると断定するのですか?

>実際に構成員とも話をし、アドバイスもしています。
>これが実践というならそうだと思います。
そのアドバイスが聞き入れられなかったということですね。
それは、あなたの宗教性が信頼に足りると判断されなかったからです。

>ひか輪にはきちんと変わってほしい
本当にそう思うのであれば、あなたはひかりの輪の構成員となり、
幹部となって、上祐さんと議論していく必要があるでしょう。

>大乗的ですねと言われるなど、そういうものにこそ価値を見出してはいませんし。
宗教の目的は救済です。
では、あなたは何に価値を見出しているのですか?
•| 200908-17 20:41:56 |•#QfNYz.PI • URL
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野田氏ブログから転載 (ひかりの輪情報②)
2009-08-22 12:32:47
上祐氏、頑張りすぎているのか、最近またおかしくなっているからどうしたらいいのか分からないといった意見も聞きますね。

やはり、宗教を続ける団体を維持するための総括活動だったのか?と思わざるおえないような感じがしてしまうくらいだと。

頭からエネルギー入ってきてそれはミシャクジ神だとか勝手にいいように解釈したり、自分が以前見た大黒天のヴィジョンはシヴァを超えるものだったということが判明したと言って、ひかりの輪がオウム、麻原を超えるものだというような自己肯定と暗示、洗脳が始まっていたり、麻原をインチキだと、アナハタレベルで止まっていたとした割には自分は成就者を出せるレベルだとして振舞っていたり、カリスマ化すれば儲かるので徐々にそうなってしまっている部分があるのかもしれないが、そうなったら回りの人間が注意してやらねばならないのに、それが出来ない、しない、上の判断が全て、というシステムもオウム時代と同じです。

個人的には、経典の解釈をして宗教家を気取っている今の上祐氏より、アンダーグランドサマディーをして出てきたときの上祐氏のほうがまだ説得力はあったかもしれません。

そういった証明を今後また新たにしたほうがいいと言って辞めていったサマナがいたと人づてに聞いたことがありますが、少なくともグルと仰いだ者に成就させてもらったというステージをある種売りにして宗教で稼ぎ続けるのなら、そのグルをインチキとした場合、自分のステージを「客観的に証明」できなければ「麻原と同じ」ですから、仮面をかぶって成りすましているにすぎないということになるでしょう。

信者やサマナ達(今は会員とスタッフと言うらしい)の体験談などというものは当てになりませんから。良いことを言っている体験談だけが公開されますから全然だめです。

しかし、宗教は信者(顧客)が付けば儲かりますからやめられないのも事実で、出家者は給料をださなくてすむ労働者としては無理も言える、言うことを聞かせらる人材(優秀かどうかは別)なので、そのしくみは維持したいから、それを続けるには、自分たちが変わったと言って観察処分を取れば信者も増えるから総括も頑張ってやっているということなのか・・・と。

その点、野田さんはその儲かる世界の欺瞞から手を引いて、違う世界で一から道を見出しているというのは、力量うんぬんの話もされていましたが、そこに野田さんなりのひとつの誠実さがあるからなんでしょうね。
•| 200908-17 16:09:22 | •#- •URL
返信する
野田氏ブログから転載 (反論への反論)
2009-08-22 12:31:24
あんたこそ何さまだよ?

本当に関係ないなら、人を実践者じゃないとか大乗的じゃないとか言う前に、「彼らはそこらの宗教団体と一緒ではないのだという部分をもっと理解してあげたら良い」というのにもっと思慮深くなってひか輪を観察してみな。研究してからものいいな。

ひか輪のことを何もわかってもいないのに、ちょっと軽くかばっただけで言われたのでムキなって偉そうに反撃したいだけだろ。
見苦しい。
•| 200908-17 09:24:43 |•#- •URL


そして別に、意見に価値があると思われるとか、大乗的ですねと言われるなど、そういうものにこそ価値を見出してはいませんし。

>ひかりの輪に問題があるなら、問題のない宗教団体はどこなんですか?

この行間を読むなら、極端に言えば「こんなに問題のない良い教団なのに、何をいちゃもんつけているのか。それならば、他にどこが問題がないのか言ってみろ。」というような雰囲気がにじみ出ていますからね。

余計言いたくなったわけです。
本当にひか輪に何も問題がないとでもお思いですか?

•| 200908-17 10:38:33 | 実は輪を応援している #- URL
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野田氏ブログから転載 (反論に対する反論)
2009-08-22 12:29:39

私はひかりの輪とは関係ない人間ですよ。
私が言いたいことは、あなたは単なる評論家であって、実践者でないということです。
例えば、政治評論家がいて、自民党はダメだ、民主党もダメだ、
他の政党もダメだ。日本にはまともな政党がないと主張する人がいたら、
その人の主張に価値があると思いますか?
その主張をしつつ、何らかの政治的な活動をしているなら、
それは、それで価値があることですが、なにもせず、批判だけしているなら、
その人の批判は無価値であると言わざるを得ない。

あなたが推奨する宗教団体を挙げることができないなら、
少なくともあなたは大乗的とは言えない。
ひかりの輪に問題があるなら、問題のない宗教団体はどこなんですか?

自分自身は、たった10人ぐらいの宗教団体さえ、
立ち上げることができずに、
批判だけは一人前というのは、いかがなものか、
と私は考えているのですよ。

ひかりの輪が気に入らないのなら、
自分で理想的な宗教団体を作ればいいじゃないですか?
それだけの力量がないと、気づいたら、
もう少し、謙虚になれるのではないかと思いますよ。

匿名でもいいので、passに何かを入れて、
同じ人物の書き込みであることが、
よく分るようにして書き込んで下さい。
•| 200908-17 08:55:26 | #QfNYz.PI URL
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野田氏ブログから転載 (批判への反論)
2009-08-22 11:56:59
    ↑
はい、こうゆう輩がいるのでひか輪はまだまだ発展しないのでしょうね。

総括し、変わったのですよね?
それでこんな考えなら、信者なら、あるいは出家者なら尚更に、しっかり頭を冷やなければいけません。

宗教に霊感詐欺商法的要素がどこでも多少あったとして、では、そんなのはみんなあるんだから、ひか輪にあったっていいじゃないかというご意見ですね?

詐欺商法、みんなで渡れば無法地帯。それを良しとすると。

その「多少なら」とか「分からなければいい」などという些細な意識から、オウムでも多くの事件がはじまったと思いますし、そういう周囲の甘やかしや自己肯定が教団の体質を是正できず、結果的に大きな事件に発展してしまったのではなかったでしょうか?

アレフならいいですよ、犯罪者、悪党詐欺集団をそのまま継承したって、もともと変わる気なんか微塵もないわけですから。

でもひか輪の場合、それを総括し、自分たちは変わったのだと主張している。

だから、変わってなければ言われて当然です。

また、彼らは「みんなと同じ」ではないし、それではいけないのですよ。

より厳しくして厳しくして厳しくして・・・それでもまだ、社会ではそれでも駄目だと、存在自体してほしくないという人も多いのです。

宗教で多くの犯罪を犯し、人を不幸にし、仏教ヨガに汚名をきせた残党集団、そしてその最高幹部の先導で形成している以上(これは侮辱でも批判でもなく現実問題そうなのです)は、まだまだオウム脳としての洗脳具合を自己チェックできない部分があるし、分からなくなっているところも多いのではないかと思えるからこそ、有識者の人たちを外部監査役?として置いて自分たちを変えたいのだ・・・という話しもでたのでしょう?

しかし、すぐ「みんなそうだからいいじゃない」的甘い考えや発想を良しとするなら、実際は、そんな業の深さを変えたい、自分たちの気付かないおかしなところをしっかり見てほしい、というのも詭弁の上塗りなのか?と思われても仕方がありませんし、それが分からないなら自覚が足りないの一言につきる。

上の長文の意見も、一見批判的ではあるけれど、ある種の愛があると思います。

増長して殺人等の犯罪を数多くしてしまった宗教団体出身の者たちが、その宗教の分野でまた金を稼いでいるわけです。そして自分たちは変わったと社会的にもアピールしているわけですからね。

それなのにまだ変わってない所があるなら、また嘘つきだと言われますよ。

この教団に対して言うべきを言わないことは罪。
甘やかしは必要ない。

必要なのは自覚を深め、きちんと変わること。
自覚とは証智を深めることに等しい。それなくして総括など無理。

証智が足りないから懺悔もできなくて、意見を言ってくれた人にも「あなたが推奨する宗教団体は何ですか?それとも、あなたは無宗教者、無神論者、あるいは、唯物論者ですか? 」というアホな展開になるんでしょう。

事件を総括して他者に一元の意識や教えを説く、あるいはそれを信奉するならば、意見をすぐに批判として反発するのではなく、そう言ってくれる人こそ得難い貴重な宝だと思い、警告と受け取り、自らを改善する材料にして進めばよいでしょう。

それができないで、「みんなやっているのだから」と、軽薄な弁護と頭でひか輪を支える者がいるなら、それこそひか輪や、そんなことを言っている自らのためにはなりません。

だから、まだまだオウム脳だと言われるのです。
•| 200908-17 07:15:10 |•#- •URL
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野田氏ブログから転載 (上記の意見への批判)
2009-08-22 11:55:07

あなたが上祐さんとひかりの輪に対して、
批判的なのは分るのですが、
あなたが推奨する宗教団体は何ですか?
それとも、あなたは無宗教者、無神論者、あるいは、唯物論者ですか?
どこの宗教団体でも、多少の霊感詐欺商法的な要素はあると思います。
•| 200908-16 22:45:46 |•#QfNYz.PI • URL
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野田氏ブログから転載 (ひかりの輪が続く理由)
2009-08-22 11:53:55
>ひかりの輪が破産せずに、まだ続いているということだけでも、上祐さんはすごいと思うよ


 それは、まだまだオウム脳の信徒さん達がいて、支えてくれている部分があるからでしょう。
 
 上祐さんたち出家教団内部のお粗末さも分かりながらでも支えてくれている信徒さんたちに感謝すべきです。

 そのような信徒さんたちの多くは改革を望んではいます。だからアレフではなく、ひか輪なのですが、当初は上祐さんも麻原色の払拭に相当努力されてはいましたけど、しかし昨今、根底にあるものがどうしてもにじみでてしまうようで、あまり良くない噂をあちこちから聞きます。

 そして、そんな支えてくれている有難い信徒さんたちを、どうして先ほど「オウム脳」とあえて言ったのか。

 それは、改革を望みながらでも、そうゆう昔からの信徒さんはまだ洗脳が抜けておらず、麻原が与えた「大乗のヨーガ」の成就者などというステージを、今だに頭のどこかで知らず知らず信じて期待している部分があり、上祐さんが施すイニシエーションなどがあれば受けますよね。

 もともとエンパワーメントとかイニシエーションなどというのが特別なものという刷り込みがあるし、それをやはり「(元)正大師」の方のものだとしてありがたがっている。
 事前の肯定的データも相当教団からプレゼンされるので、おごそかな雰囲気だけでも体験したと感じてしまうでしょう。

 そして、体験したと言えばそれを聞かれてくれと取材が来ますし、教団の布教に適した体験談であればサイトに掲載されたり、あの信徒さんはすごいですねと称賛され、支部内の信徒の中でもいい位置になります。

 しかし実際は、何も感じなくても感じたと言ってしまう人もいれば、感じなかった人や批判めいた人の体験談は絶対に外には出ませんので、称賛だけが一人歩きをします。

 そうゆう構造はオウム時代にもあったのですが、ひか輪になってもそこは変わらずで、そうゆう情報を発信しているメディア部門は、どんどん自らもはまっていくので、自画自賛になり、自分たちはやはり素晴らしいのだと、益々錯覚してゆくことになるでしょう。

 そのような誇大広告ともみ消しが積み重ねられるところは、あのオウムの機関紙の体験談や成就体験を思い出させ、ほうぼうからひか輪も危険だと言われています。

 しかも、オウムの場合、サマディ実験などインチキだったのかもしれませんが、科学的に証明をしようという姿勢はありました。
 
 それが多くの若者や知識層にも説得力があったと思われますが、ひか輪の場合は何も証明がないばかりか、仏教経典や瞑想法を解説したものは分かりやすくてよいでしょうが、それだけですし、あとは他の神社などの売り物を「修法した」として自分の教団のものとして売りにしているのですが、どうして由緒正しき格式も歴史もある神社やお寺のものが、上祐さんの修法より劣るのか、どうしてその修法でより高尚なもの、神聖なものとなるのかは証明されておりませんし、誰も突っ込まない。

 それは、暗黙の了解として「上祐さんは大乗のヨーガの成就者だから」とか「霊性が高い」とかの思い込みを背景としているからだし、上祐さん自身もそのように振舞っているから。

 詐欺師でも、人をだますときは、大芝居をもっともらしくするものでしょうし、詐欺師でなくとも、それを、上祐さんや教団がそうではない、それは実際に霊的に高いステージなので一元の瞑想を行って下さるのでより素晴らしい波動になるのですと、どうして言えるのか、信じれるのか?ということなのです。

 それを手放しで信じて良いのかどうか、改めて信徒、サマナは自分に問いかけるべきではないかと。
 
 しかし、潜在的にそれに気が付いているサマナも信者の人もいるようです。

 でも、言えば批判心があるとか、否定的だと言われたり、ディベートで負けたり、上祐さんの素晴らしさが分からないなんて霊性が低いからだという感じで、ゆるやかに厄介者扱いになってゆくので、所属している限りはどんどん言えなくなるでしょう。そこもオウムの時と類似していて、全てが上祐さんの言うとおりにしかならない組織なのです。

 とにかく、組織というものは自社製品を肯定的にとらえないと営業できませんのでそうゆうものかもしれませんが、教団が破産しないからといって、それがすぐに上祐さんがすごいという話にしないで、曲がりなりにもあの歴史的重大事件を起こした残党たちに対しては、逆に破産するくらいのほうがそこに集う人々の洗脳がとけたということで、いい傾向なのかもしれません。

 また最近では、頭頂からエネルギーが入ってきて、それがどこどこの神でうんぬんとか、それによってこう感じたので自分がやってきたことが正しいなどの筋書きをし始め、さも素晴らしい体験のように言いだし、自己正当化を断定的にするようになってきたので危険領域でしょう。

 麻原のように人殺しはしないでしょうけれども、霊感詐欺商法にならない、霊的魔境になり関係者をおかしな方向に洗脳しないように、周囲でまだまだ監視、観察が必要だと思われます。
•| 200908-08 11:00:12 | •#- URL
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野田氏ブログから転載 (ひかりの輪情報①)
2009-08-22 11:50:29
こーりゃぁ、結構なお値段でございますね。

苫米地さんって、上祐さんよりボッテますw
これじゃあ、ひか輪のほうがかわいく見える。

上祐さんもその気になればあれくらいのディベートできるのでは?

苫米地さんと上祐さんの対決が見てみたいです。
ここの決着、まだ付いてないですからねww

上祐さんも、あんなグウタラでダメダメなサマナ達(今は指導員とかスタッフとか言うらしいですが)抱えて代表やって、大変な苦労しているはずです。

でも、いまだに麻原みたいに白い椅子に座っていい気になって説法して、自称宗教家気取り・・・。

今では、また昔のマハーヤーナみたいに体験談ばかりに力を入れて、どこかの健康食品かアンチエイジング化粧品やダイエット食品ばりになってご自慢話ばかりで、オウムのような大きな勘違い集団になりつつあるようなので、もっと賠償するためにも、そんな構成員の自立を促すためにも、あえて出家でもないような出家教団など解散して、苫米地さんみたいに稼いでみたら良いのだと、もっぱらの噂。

そのほうがダメダメなサマナの方々も目が覚めますからね。

上祐さんに食べさせてもらえるから教団にいたほうが楽でいいって、平気で思っているお馬鹿さんも結構いる(みんなかも知れませんけど)ようなので、それではいけません。

個々、社会でもまれて、ダメダメな自分に早く気づいて、依存から脱却して自立しないと総括できたことにはならないでしょうに、甘いのです。

とにかく、都沢さんを行司とした、苫米地さんと上祐さんの対決を見たいですww

のださん、苫米地さんに言っといてくださいませんか?
それを世間は望んでいるとw

ダメかなwww
• | 200908-07 11:23:33 | #- URL


上祐さんの説法は面白くないらしい。毎回似たような話でやたら長いと。未だに虹の祝福とか言ってるらしい。誰かが指摘してあげないと。延々と聞かされる方はたまったもんじゃないらしい。霊性は高いらしいから空気を読んで!みんな嫌気さしてるって。
•| 200908-07 20:18:31 |•東まる醤油 #-URL
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Unknown (まだまだ奥が深い・・)
2009-08-10 18:57:45
Message#25360 2009年8月10日(月)18時48分
From: 元芝

「Re7:昔の大聖者は」

ヨギーニさんのメッセージ(#25357)への返事

> でも ずばり 正しい理論をここに書くと、元芝さんではないのですが
> オウムに利用されるのがイヤなのです。

ですね。

俺も以前、幻の第四状態「トゥリア」について書きましたが悪用を恐れて「リクンバラ」とか「ブーマ」の話はしていません。

今回ですらその単語は初出でしょう。

「トゥリア」でさえもまだまだ元や現には理解しにくいようですし。
精神世界で生きて20年以上経つというのに・・・。

トゥリアは実は始まりに過ぎない・・・。
返信する
Unknown (元さんの発言は釈迦に説法?)
2009-08-10 13:06:00
Message#25335 2009年8月10日(月)11時59分
From: ヨギーニ

「Re2:昔の大聖者は」

昔通りすがった元さんのメッセージ(#25325)への返事

> クンダリニーの経験にこだわって激しくエネルギーを上げるのは
> カギュの六ヨーガの中のトゥモのヨーガという修行で、その修行に精通してなければ理解できないと思います。
> ミラレーパの伝記を読んだことありますか?
> 激しい苦行や呼吸法を使って瞑想を達成しようとする雰囲気がわかると思います。

オウムは、正統に学んでいないと思うのですが。
密教は詳しくないですが、チベット式でやるなら、ヤントラヨーガを修めるのでは?。
そして、あちこち をとりいれて結局、中途半端な感じはします。

残念ながら、私も不特定の人に理論もテクも明かすことはできませんが。
理論がそもそも、ともなっていないので。

アレフでは、クンダリニーで悟った人が500人もいるんですか?。
それは、凄いですねえ 立派・・・と呆れてしまいます。
自分で悟ったと自分で言う人はいないと思います。
サドゥーの世界では、ありえないと思うのですが。
毎日の地味な繰り返しだと思うのです。

有名なアシュラムに言ったら、オウムよりは勉強になると思います。
縁があればいいのですがね。
少なくても、オウムのテクは ババジのパクリで亜流だろうな。
とは思います。ババジは、クンダリニーのことを知っているとは思いますが、クンダリニーを最重視してはいないはずだと思いますね。

オウムのことで、教えるのは控えたのでしょうが。

ババジのテクは、全てが秘伝というのではないようで、インドではテレビで
も流れています。ただ、なんというか、DVDで見ただけでは不可能なものがあります。引き出しは、凄いですね。何千のテクをもっているとか。
サドゥーの世界でもTOPの1人なので。

> ヨギーニさんの投稿で気になる点は、ちゃんとした経典で学んでないのではないか?という雰囲気を書き込みから感じました。

インドでは、経典に載っていないこともありますが。
そして、いちいち言うことはキリがないのですが
オウムは、正式に経典を読んでるのですかね?。

> インドヨーガの場合はそれが普通なのかもしれませんが、強烈にクンダリニーを扱う修行をするならチベット密教系統の経典、指導者、修行者の層が厚く指導が行き届いている世界に触れたほうが良いと思います。

インドでは、全てのクンダリニーを知っているわけではありませんが
強烈に上がったら、大変なことになると思いますね。
ゴーピクリシュナが有名ですが。
そして、強烈にあがるのは、おそらくアパーナ気なんだと思います。

> ま、クンダリニーの経験にこだわることを反面教師としているそうなのでその心配は杞憂かもしれませんが、書き込みからは潜在意識に入り始めているような思考の乱れが見受けられます。瞑想の成果だとは思いますが、日常生活で自分をコントロールするのに困難を感じませんか?ご自愛ください。

自分でどうして、瞑想が必要なのかを考えたらいいと思うのです。
ラージャヨガ。と名前がつくには、それだけの理由があるはずなのです。

そういえば、オウムは出家をしてるんですかね?。
インドのヨギは、禁欲が厳しいです。

在家の人でもヨガができるように・・・とヨガのマスターは、ヨガのシステムを作りだすことができます。日本人は、どんな民俗か。精神や伝統を考えて。

クンダリニーでも、ただ禁欲すればいいというものではないのです。



Message#25338 2009年8月10日(月)12時14分
From: ヨギーニ

「Re2:昔の大聖者は」

昔通りすがった元さんのメッセージ(#25325)への返事

> 全てのヨーガや密教的修行が同じ修行の仕方で進むわけではありません。
> 特に六ヨーガは情報が少ないので一般のヨーギーにはわかりづらいと思います。
> まとまった経典と指導者に恵まれる必要があります。

チベット式とヨーガ式を一緒に学ぶことは、不可能。
というか無意味と思いましたね。

でも、チベットの人とお話されても、体験がなくなる
という方向は同じなんです。

チベットは、本当に性的快楽でクンダリニー的なことをするのかなあ?。

チベットなりの表現はあると思うのですが。
全てを同じように見る。ということが大事なようですね。

日本でも高名な僧がくるようですが、そういうところで勉強したらどうでしょうか?。
ババジのヨガにも造詣が深く、チベットにも詳しい人にお会いしたことがあります。

そういう人にお会いしたら、この修行はどうしてするのか?。
ヨガと密教の違い。がわかると思います。

クリヤヨガというものがありますが。
やはり、ちゃんとした人から習ったほうがいいです。

私も不思議でしょうがないのですが、ちゃんした師につくと、同じテクを習っても違うのですよね。これは、不思議・・・・・。
だって、理路整然とした科学的なものなら、誰から受けても同じだと思うのですが
違うんですよ。謎っす。www
返信する
Unknown (分かる人には分かる)
2009-08-10 12:38:26
Message#25332 2009年8月10日(月)11時20分
From: 元芝携帯

「ヨーギーはマインドが止まる夢を見るか?」

実際にマインドを限りなく止める、止まっている状態に近づける、沈静させるクリヤをやってみれば、

あの深く静まりかえった状態を知ればオウムの技術の穴がよく分かるようになるんですがねえ。

かつて和井さんも俺が本式のヨーガを教えてみたら
「こっちの方が本質的だな」って仰いました。

やはり分かる人は分かる(笑)
返信する
Unknown (元芝氏が昔通りがかった元氏を斬る)
2009-08-10 12:35:09
Message#25330 2009年8月10日(月)10時52分
From: 元芝携帯

「Re4:昔の大聖者は」

昔通りすがった元さんのメッセージ(#25327)への返事

> 力強くサマディーに入る方法として六ヨーガが説かれています。
> 説かれてはいますが使いこなせるかは各人の努力となると思います。
> このへんは修行内容に入ってしまうので伝授を受けて理解した人にしかわからないと思います。
>

> 異議なし。サマディーに至るためのステップとして次の体験を速やかに得るには、今の体験にとらわれず為すべき修行をする必要があります。
>
> そのうち体験が消える体験もあるでしょう。滅受想なんてちゃんと説かれてますし。
> 旧教団にそれがなかったとか言ってる人は教学してなかったんでしょう。


いいえ(o^-^o)
言葉だけで無かったですよ。

師である麻原が滅受想を達成してないからそこに至るテクニックは示せない。


>
> 問題としては、説かれてはいるが達成した人がいるのかいないのかという部分が私には気になります。
>


示せないの間違いでは?
示せない以上達成した人はいなかったのでしょう。


> これは旧教団のみならず、アンチの人たちに関しても思います。
>
> サマディーをいち早く達成して、「こうやれば入れるよ」という実例を見せてくれればどの方法でもいいと思うのですが、それをやる人もいないので否定派、肯定派どちらが正しいのかがはっきりしないという状況に見えます。
>
> 私自身は経験として六ヨーガに説かれているようにエネルギーの上昇、甘露、光の経験まではしており、性的快楽より強い歓喜もすぐに起こせます。
> この後、サマディーに入れるのかどうかは自分自身で実験しているところです。
>

ほら。
体験を追いかけてるじゃないですか。

ご自分で言ってること分かってますか?


>エネルギーの上昇、甘露、光の経験まではしており、性的快楽より強い歓喜もすぐに起こせます。
> この後、サマディーに入れるのかどうかは


ここで自分が体験を追いかけていることに気がつかないといけない。

このサティ(気付き)があるか無いかがポイントです。
「自分で起こせる『経験・体験』」という思考が入っていることに気づけるか、です。


あと「体験が消える体験」と言うのは『滅受想』の意味を理解してません。
それは『0』は『有る』んだと言うのと似ています。
「体験が消える体験」を体験した。
「体験が消える体験を体験した」を体験した。
以下エンドレスです。

そうじゃなくて滅受想で体験が消えるんです。



> いろいろな修行を試しておられる方も多いと思います。それぞれ達成した後に語り合えるといいですね。

サマディ、解脱が免許修得だと思うのでかなり先の話ですね。



Message#25331 2009年8月10日(月)11時07分
From: 元芝携帯

「Re2:昔の大聖者は」

昔通りすがった元さんのメッセージ(#25325)への返事

>が、書き込みからは潜在意識に入り始めているような思考の乱れが見受けられます。瞑想の成果だとは思いますが、日常生活で自分をコントロールするのに困難を感じませんか?ご自愛ください。


ここが元や現の悪いところ。
その典型。

やはりキチンとした形のヨーガを知らないから、自分の物差しで測ってしまう。
行の最後に潜在意識から通常の意識にシフトするクリヤがオウムには無いから。
普通のヨーガ学べばありますよ。
だから潜在意識に入りっぱなしってあり得ない。
それはオウム信者特有なんですよ。
穴だらけの教義・技術体系がオウムの特徴です。

ヨーギニさんからは意識の乱れとかでは無く単純にオウムの理論のおかしさに対する、そうだな…カルチャーショックみたいなものが起きてるように感じられます。

ヨーギニさんの師はかなり良いのでしょう。

しっかりとした筋のあるヨーガをなさっているように感じられます。
返信する
Unknown (昔通りすがった元さんのとらえ方)
2009-08-10 12:28:37
Message#25325 2009年8月10日(月)06時37分
From: 昔通りすがった元

「Re:昔の大聖者は」

ヨギーニさんのメッセージ(#25307)への返事

管理人さんみなさんお久しぶりです
気になる投稿があるのでお邪魔させてもらいます

> クンダリニーなんかも体験にこだわってるなあ・・・と感じますね。
> 上がらなくても・・・いいんじゃ?。(笑)
>
> 体験にこだわるのって、おかしな霊能者がビジョンを見ているようなものでは?。
> 脳がやられてるのでは?。と思います。
>
> チャクラが見えたとか、見えないとか。
> どうして、オウムがそこにこだわるのか、全くわかりませんよ。

クンダリニーの経験にこだわって激しくエネルギーを上げるのは
カギュの六ヨーガの中のトゥモのヨーガという修行で、その修行に精通してなければ理解できないと思います。
ミラレーパの伝記を読んだことありますか?
激しい苦行や呼吸法を使って瞑想を達成しようとする雰囲気がわかると思います。

全てのヨーガや密教的修行が同じ修行の仕方で進むわけではありません。
特に六ヨーガは情報が少ないので一般のヨーギーにはわかりづらいと思います。
まとまった経典と指導者に恵まれる必要があります。

ヨギーニさんの投稿で気になる点は、ちゃんとした経典で学んでないのではないか?という雰囲気を書き込みから感じました。

インドヨーガの場合はそれが普通なのかもしれませんが、強烈にクンダリニーを扱う修行をするならチベット密教系統の経典、指導者、修行者の層が厚く指導が行き届いている世界に触れたほうが良いと思います。

ま、クンダリニーの経験にこだわることを反面教師としているそうなのでその心配は杞憂かもしれませんが、書き込みからは潜在意識に入り始めているような思考の乱れが見受けられます。瞑想の成果だとは思いますが、日常生活で自分をコントロールするのに困難を感じませんか?ご自愛ください。

ご縁があれば深い話ができるといいですね。
では。




Message#25327 2009年8月10日(月)08時50分
From: 昔通りすがった元

「Re3:昔の大聖者は」

아벨(Abel)さんのメッセージ(#25326)への返事

> そこからサマディへ至るプロセスが無かったのではないか、と旧教団が批判されているよう
> ですが、このへんについてはいかがなものなのでしょうか。

力強くサマディーに入る方法として六ヨーガが説かれています。
説かれてはいますが使いこなせるかは各人の努力となると思います。
このへんは修行内容に入ってしまうので伝授を受けて理解した人にしかわからないと思います。


> 体験にとらわれるな、というのは旧教団でも少なくともタテマエとしては強調してましたよね。

異議なし。サマディーに至るためのステップとして次の体験を速やかに得るには、今の体験にとらわれず為すべき修行をする必要があります。

そのうち体験が消える体験もあるでしょう。滅受想なんてちゃんと説かれてますし。
旧教団にそれがなかったとか言ってる人は教学してなかったんでしょう。

問題としては、説かれてはいるが達成した人がいるのかいないのかという部分が私には気になります。

これは旧教団のみならず、アンチの人たちに関しても思います。

サマディーをいち早く達成して、「こうやれば入れるよ」という実例を見せてくれればどの方法でもいいと思うのですが、それをやる人もいないので否定派、肯定派どちらが正しいのかがはっきりしないという状況に見えます。

私自身は経験として六ヨーガに説かれているようにエネルギーの上昇、甘露、光の経験まではしており、性的快楽より強い歓喜もすぐに起こせます。
この後、サマディーに入れるのかどうかは自分自身で実験しているところです。

いろいろな修行を試しておられる方も多いと思います。それぞれ達成した後に語り合えるといいですね。
返信する
Unknown (瞑想は必要ない?)
2009-08-10 12:23:35
Message#25307 2009年8月9日(日)21時34分
From: ヨギーニ

「昔の大聖者は」

瞑想をしなくても よい と言ったそうですよ。

それほど、深い瞑想に入らなくても、リラックスして自分を見るだけでも
かなり有効と思うのですね。

クンダリニーなんかも体験にこだわってるなあ・・・と感じますね。
上がらなくても・・・いいんじゃ?。(笑)

体験にこだわるのって、おかしな霊能者がビジョンを見ているようなものでは?。
脳がやられてるのでは?。と思います。

チャクラが見えたとか、見えないとか。
どうして、オウムがそこにこだわるのか、全くわかりませんよ。

反面教師としては、最高ですわ。



Message#25309 2009年8月9日(日)21時44分
From: 元芝携帯

「Re:昔の大聖者は」

ヨギーニさんのメッセージ(#25307)への返事

> 瞑想をしなくても よい と言ったそうですよ。


シャンカラですね。

あの聖者はジュニアーナ(ギャーナ)ヨーガの大天才なので果たして一般に当てはまるかどうか。


>
> それほど、深い瞑想に入らなくても、リラックスして自分を見るだけでも
> かなり有効と思うのですね。
>
> クンダリニーなんかも体験にこだわってるなあ・・・と感じますね。
> 上がらなくても・・・いいんじゃ?。(笑)
>
> 体験にこだわるのって、おかしな霊能者がビジョンを見ているようなものでは?。
> 脳がやられてるのでは?。と思います。
>
> チャクラが見えたとか、見えないとか。
> どうして、オウムがそこにこだわるのか、全くわかりませんよ。
>
> 反面教師としては、最高ですわ。



多分あなたが一番健全な精神を持ってると思います。
健全なコメントだと思います。
返信する
Unknown (体験に対するとらえ方)
2009-08-10 12:21:17
Message#25304 2009年8月9日(日)21時21分
From: 元芝携帯

Re8:そもそも 今マッサージ屋さんは暇
ナDシィ(Abel)さんのメッセージ(#25302)への返事


> そう言っていただけると初心者としては安心です。以前には(体験至上主義のオウムの
> 行き過ぎへの警告という意味で)体験しなくてもよい、というふうに読み取れるような
> 仰り方のこともあって、あれれ一寸面白みに欠けないかな? と誤解したりも・・・


体験が生じないと不安になったりする方がいます。
こういうとらわれに陥らないためにも

『体験が無くてもいい』

と言っていたのです。

初心者は大変たくさん経験・体験すると思います。
でもそれは拘らずにスルーすべきものです。

体験自体は無意味です。
意味など無い。

体験は一つの世界だからそこにこだわるとそこの引力に捕らわれてそこから進めなくなります。

そして体験を拘らずということを続けていくと大抵自分のネックとなっている体験が繰り返し出てきて何が自分の弱点なのか分かってきます。

それさえも越えていくと体験がシンプル化していき、やがて体験が消えていきます。
返信する
Unknown (元芝氏妄想を斬る)
2009-08-10 12:19:39
Message#25295 2009年8月9日(日)19時35分
From: 櫻京

「Re:クンダリニーヨーガ」

ヨギの卵 あらため ヨギーニさんのメッセージ(#25275)への返事

> 言いたいことは、たくさんあるのですが。
> クンダリニーヨーガだけで、サマディーには行けないと思います。

僕は、ある元の方から伺ったところによりますと、
クンダリニーヨーガ的な、サマーディへの入り方の一例として、

全身を包むエネルギーの柱が、どんどんと広がっていき、
ついには内側と外側の二元性を越えて全てとつながって、
サマーディに至る。

というものがありました。
ムドラーのような行法を為した後に、自分の身体内におけるナーディとは別の箇所で、
エネルギーが上昇する現象があると思うのですが、
最終段階では、その「エネルギーの柱」と「外界」の区別がなくなるそうです。
小周天や大周天といった行法や体験は、エネルギー的に初期の段階だと思います。


Message#25298 2009年8月9日(日)20時02分
From: 元芝携帯

「Re2:クンダリニーヨーガ」

櫻京さんのメッセージ(#25295)への返事


> 僕は、ある元の方から伺ったところによりますと、
> クンダリニーヨーガ的な、サマーディへの入り方の一例として、
>
> 全身を包むエネルギーの柱が、どんどんと広がっていき、
> ついには内側と外側の二元性を越えて全てとつながって、
> サマーディに至る。
>
> というものがありました。


はい。
それ、妄想です。

クンダリニヨーガはシャクティ(クンダリニー)がサハスララのシヴァと合一(二元が一元になる)する時がサマディです。

外側と内側というのは人間の持つ誤解・幻想で本来は外側も内側もありません。
だって人間(生命全て)の基本構造は『筒』だから。

肉体的には口から肛門までの筒。
食物を摂取して排泄するまでの筒。

霊的にはアジナーからムーラダーラまでの筒。
プラーナを摂取して排出する筒。

なので実は最初から内側も外側も無い。

それに、外側に向かってエネルギーが大きくなる限り『それは無限大に広がっていく。だって外側って無限大だから』




> ムドラーのような行法を為した後に、自分の身体内におけるナーディとは別の箇所で、
> エネルギーが上昇する現象があると思うのですが、
> 最終段階では、その「エネルギーの柱」と「外界」の区別がなくなるそうです。

外側と内側という無知を無くす方が先です。

何の為に調気法をやるのか分かって無いからこんな誤解・妄想をするんです。

調気法には一般的な意味と効果の他の『外側と内側って実は存在しない。全ては一体。隔たりは幻』って気づく為にやるんですよ。




> 小周天や大周天といった行法や体験は、エネルギー的に初期の段階だと思います。


いえいえ。
こういうものは基本が奥義。
小周天だけでかなりのとこまでいけますよ。
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Unknown (クンダリニーヨーガ)
2009-08-10 12:11:12
Message#25275 2009年8月9日(日)03時24分
From: ヨギの卵 あらため ヨギーニ

「クンダリニーヨーガ」

言いたいことは、たくさんあるのですが。
クンダリニーヨーガだけで、サマディーには行けないと思います。

オウムのクンダリニーは、日本人向けというか、わかりやすいんですね。
ある面で、松本は凄いと思いましたが。
チベット的な、供養の瞑想とかと関係あるのだったかな?。
アレンジのしかたが上手いのでしょうか?。

どうして、松本がラージャヨガがダメというのかわかりませんが。
ババジを支配できなかったから?。

1度 リシケシでもいいから、アシュラムに行って修行したら
目が覚めないのかなあ・・・。
オウムの人たちの思考がわからないので、なんとも言えないのですが。

クンダリニー・・・、小周天に近い気もしますが
自分も不正確ですが 胴体だけで回す小周天のようなのを、習った気が・・・。

基本的に、スピードが速い ということが1番かと思われますが。
グルがいると、違いますしねえ。言葉になりませんが。

テクニックもけっこうあるとは思うのですが、最重視はされていない気がします。
あまり、気にしないほうがいいかも。w

深い瞑想に入りやすい人がいますが、サマディーに近いようですが
グルがいないと、帰ってくることが難しいようだし。
そういう人は、一見 上達が速そうですが、落とし穴がある気がします。

いつも、同じようなことを繰り返してしまうようですから。

チャクラも、普通のアーサナとプラーナヤマでも開発されますし。
クンダリニーは、特別のことではない気がします。

上がりにくい人もいますし、それでも問題はないと思うの。


Message#25281 2009年8月9日(日)07時57分
From: ヨギの卵 あらため ヨギーニ

「クンダリニー」

胴体だけで回す小周天のようなのを、習った気が・・・。
というのは、インドで図を書いて説明してもらったのです。
これは、いつか謎が解けるかなあ・・・。保留。
知らなくても、問題はないのですがね。

スピードが速い というのも、瞑想の効率がいいという意味です。
上がる、上がらないというのも、あまり意味がないと思います。

クンダリニーヨガだけでやってる人は、師の締め付けが多くて
習ったもの以外やるなという感じで
せいぜい、3つくらいのものを繰り返すだけです。
効率が異常に悪い気がします。

やはり、ヨガの場合はテクではなくて、その理論が大事かと。


Message#25286 2009年8月9日(日)08時36分
From: ヨギの卵 あらため ヨギーニ

「Re2:クンダリニー」
아벨(Abel)さんのメッセージ(#25283)への返事

> ヨギの卵 あらため ヨギーニさんのメッセージ(#25281)への返事
> > 胴体だけで回す小周天のようなのを、習った気が・・・。
> ヒンドゥーツァンダリーとかガヤトリー真言とか?? 後者は回さないか・・・

ヒンドゥーツァンダリーというのは、よく知らないのですが
甘露が落ちるとか?。チベット仏教は知らないので・・・。

ただ、全ては瞑想につなげていく。と思います。
ラージャヨガは。

実際に小周天は、自然に回っているとは思います。
ただ、心の小周天が1番大事なようですよ。
テクではなくて。

自分が習ったのは、たぶん 瞑想と関係あることで、技術だけ知っても
理論を知らないと、使いこなせないことだったかなあ・・・・・。

オウムは、技術も間違っているとは思うのですが、理論が1番問題あると思うのです。
オウムの行を全部知ってるわけではないですが。
元素の捉えかたが違う気がします。
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勝手転載申し訳ない (白龍)
2009-08-10 12:04:22
 オンフ板から勝手に転載させていただいて申し訳ないですが、掲示板から貴重な書き込みが流れて消えてしまうのがもったいないので、こちらに転載し保存させていただきます。関係者の皆様ご容赦のほど。

 元芝さんと新しく書き込みされているヨギーニさんの会話は、ヨガの本質を知っておられる方同士の会話と言う点で興味深いだけでなく、オウムの教義や行法の問題点を指摘する上で貴重な資料となるのではないかと考えます。
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Unknown (オンフ板から転載)
2009-08-08 07:31:17
Message#25120 2009年8月6日(木)21時33分
From: 元芝
Re9:卵は殻だ。殻を破れ。世界を革命せよ!
教祖の卵さんのメッセージ(#25117)への返事

> 元芝さんのメッセージ(#25085)への返事
>
> ラクシュミー・デーヴィーの伝記より
>
> あるとき、部屋の半円状のベランダに立っていた師は100年後また生まれてくる
> とおっしゃった。
> しかし、ホーリーマザーは、また生まれてきたくないと言った。
> ラクシュミーもその考えには激しく反対した。
> もう二度と生まれてきたくない―たとえ煙草の葉のように切り刻まれようとも!
> と言ったのだ。すると師は笑って言った。
> 「もし私がここに来るなら、お前たちはどこにとどまるつもりなんだ?
> お前たちの心は私に恋いこがれるだろう。私たちの根はカルミ草のように
> 結びついているのだ―ひとつの茎をひっぱれば、茂みの全体が一緒についてくる」
>
> これを読むと、ラクシュミー・デーヴィーは、
> ラーマクリシュナが地球に再び生まれ変わること、
> そして、自分が生まれ変わることを望んでいない、
> ということが分ります。
> つまり、ラクシュミーの希望的な意思が混ざっているとは考えられません。
>

いいえ。
俺が言ってるのはラクシュミーのそういう「感情」の話ではなく、残された者の
「教団運営者」としての「打算」を言っているのです。



> 素直にこの文を読むと、ラーマクリシュナが100年後に、
> 弟子たちと共に、地球に転生するということになります。
> それが、あり得ることだと思いますか?
>

有り得ないと思います。

この言葉は支配を望まないラーマクリシュナらしからぬ発言です。
ラーマほど他人の自由に重きをおく聖者はいません。
なのでこれは後に残される「教団運営者」としての人物たちの思惑の入った

「物語」

であると俺は思います。

そして、一言。

真に悟りの道を歩く者ならば、弟子は師を追いかけたりはしません。

師の神の体現という表現の場を、機会を奪わないために。

師はあらゆるとこにいるのだから一人になど執着しません。

師も特別なことがない限り弟子を追いかけません。

弟子の神の体現の、その無限の多様性を、機会を奪わないために。

ラーマクリシュナは弟子たちの神の体現という機会を、その無限の多様性を自分一人の教えで限定させるような真似はなさらないはずです。

水は流れていくからこそ清い。

そのことに気がつかないほど愚かな方では断じてない。

逆に、

ラーマとその弟子たちの転生がどこどこの誰々だと固執するのは彼等に対する冒涜侮辱であると思います。

彼等は無限の多様性とそのもっとも崇高な形の最も壮大なバージョンで転生しているはずだから。

これ以上この結論をある形に集約させようという意図が汲み取れる愚昧な議論を俺は望みません。

なので敢えて断定します。
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貴重な発言 (白龍)
2009-08-02 19:12:39
元芝さんがオンフ板で貴重な発言をされていますので、
こちらにも転載させていただきました。
返信する
Unknown (オンフ板から転載)
2009-08-02 19:03:45
Message#24969 2009年8月2日(日)17時54分
From: 元芝携帯 返事 削除 変更
Re3:卵は殻だ。殻を破れ。世界を革命せよ!
教祖の卵さんのメッセージ(#24968)への返事

> 前生というものは、あるかないかという時点で、
> 疑わしいものであります。
> それゆえに、いくら、それらしき証拠を揃えても、
> もちろん証明にはなりません。
>
> http://www.vivekananda.net/PPlHeKnew/HouseholderDisciplesofRK/MahendranathGuptabio.html
> ところで、マヘーンドラナート・グプターをご存知ですか?
> 彼はラーマクリシュナの主要な弟子の1人でMと呼ばれるのを好み、
> ラーマクリシュナの言行録である「ラーマクリシュナの福音」を出版した人です。
> 彼は「あるヨギの自叙伝」という本で「至福の聖者」と呼ばれています。
>
> さて、元芝さんとは教団に所属してた時期がずれているので、
> あまり面識がないと思いますが、パモーチャナ師という人がいます。
> 彼は幼いころからMという文字が理由もなく好きで、
> 幼稚園のころロボットの絵にMという文字を書いていた、
> 小学校の図工の時間に作った壺にもMという文字を入れた、とのことです。
>
> 教団に入ってからは編集関係のワークを中心として行い、
> 成就認定後は、身体が常に快感に包まれているという至福状態が続いているそうで、
> アーレフのビデオで「至福の聖者」と紹介されていました。
>
> 私は彼の顔を知っていますが、この写真とよく似ています。
> 彼はマヘーンドラナート・グプターと自己に何らかの縁があるのではないかと感じ、
> インドのドッキネッショルのラーマクリシュナの住んでいた部屋を訪ねて行ったとき、
> とてつもない、懐かしさと感動を感じ、
> 一緒に行ったヨーガ教室の生徒さんたちが、
> なぜか泣いていた、ということがあったそうです。
> これは不思議な話だと思いますか?
> それとも、そうは思わないですか?



思いません。

それは『あるヨギの自叙伝』などを読んでいたパモが彼のナルシズムを満たすために無意識に演技をしたのだと思います。


聖者とは如何なる者か?

我が師も聖者Cもそして多くの聖者もこう答ます。


「神の楽器」

あるいは

「神の道化」

すなわち神の、神が神自身を表現するための道具であると。

聖者が死して、転生し新たな生を得る場合我々とは違う点があります。

それは傾向を決定するサンスカーラが死滅しているため前の生の傾向をひきずらないということです。

別の言い方をすればその生の都度に神が弾く曲が違う(その生でのテーマが違う)ので、成すべきテーマや乗り越えるべきテーマが違う(色々なシュチエーションを体験する)ので

ハッキリ言って

顔が似るとか人生がシンクロするとか

あり得ません。

シンクロするのはサンスカーラから解放されていないものたちだけです。


釈迦の転生譚を見ても様々なシュチエーションを生まれてきています(一貫しているのはその崇高な精神性だけです。そうで無い性もありますが)


偉大なものに自分の人生を重ねるのは弱者や虎の威を借る詐欺師の傾向です。

悟りを得んとする者は過去自分が誰であったかよりも自分とは一体何なのか?
を重視すべきです。

過去は消え去って戻っては来ない。永遠に。
だから過去世で自分が誰であろうとそれは糞ほどの意味も持ちません。

だから逆に瞑想の中で自分の過去世が見えてそれが偉大な人物だった場合、それは自分のプライドの高さの現れだと取るのが真の意味で偉大です。
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野田ブログにニューフェイス登場 (野田ブログにニューフェイス登場)
2009-06-02 12:15:27
http://alephnoda.blog85.fc2.com/blog-entry-357.html#comment7639
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Unknown (2チャンネルから転載)
2009-05-23 07:56:54
763 :神も仏も名無しさん:2009/05/21(木) 13:59:34 ID:8596vBwu
ただ上祐のようにAから持ってきた人間で同じようなシステムで徒党をいまだに組み
宗教で金を取ってないだけ全然いい。
そこは称賛したい。

上祐のとこは償いのために宗教やるならその部分で金を取らないことだ。
宗教にドロを塗った部分を償うなら無償でやる。
一元でもなんでもいいが、てめぇの度量を勘違いせずに
宗教面で布施など取らずにやればいいことだ。

稼ぎは別に法具を外国から安く仕入れて日本で売ったって、それは商売でやればいい。
そんなのは二宮でもやってる。

まだ出家だとかいってるうちは、自分たちは特別でやはり真理の実践者で偉い
んだから布施に値するという勘違いから脱却できない。

白い大きいイスに座ってご説法しているさまは麻原とウリ。
なんも変わっちゃいない。

それで成就者出すなどと馬鹿なことを言っているならつぶした方が社会のためだ。

764 :神も仏も名無しさん:2009/05/21(木) 14:04:24 ID:GQesyj1d
結局 根っこは同じなんだよなあ

オウムなんだよ
765 :神も仏も名無しさん:2009/05/21(木) 14:08:59 ID:8596vBwu
自分のグルである麻原のステージを否定したのだ。
自分が正大師で成就者を出せるとかいうのも嘘だったと言っているのと同じなのに
いまだにイニシエーションだのエンパワーメントだのやっているのは霊感商法と同じ。
なにも証明がない。

麻原と同じ「自称」と、取り巻きの雰囲気作りや体験談という不確かなものだけだ。

おかしいと思わないのか?

輪も、体験談を重要なものとして取り上げてくるしかないだろうが
それがマハーヤーナとどう違う?

この染みついた腐れ体質は
出家の仕組みをやめなきゃ治らないってのが分かってない。
支えている信徒がいる限り、奴らの脳は変わらない。

766 :神も仏も名無しさん:2009/05/21(木) 14:10:40 ID:8596vBwu
>マハーヤーナ

オウムの月刊誌な。

767 :神も仏も名無しさん:2009/05/21(木) 14:10:49 ID:s2rh22uy
上祐は、
 そもそも宗教が一般大衆を平定して収める精神的な手段になっていることを己のために利用する麻原のそれを踏襲する所から一歩も脱していないんだよ。
768 :神も仏も名無しさん:2009/05/21(木) 14:11:48 ID:pQ8Q8Gh1
「人類を救う」とか「教え導く」とかって、実は究極の自己満足であり
エゴなんだけどね。

「救済者」とか、自分をそういう立場の人間だと思いたがる。
上祐にしろ、野田にしろ、Alephや分派にしろ、その点はみな同じ。
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