羽黒蛇、大相撲について語るブログ

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2012年3月場所前(真石博之)

2012年02月28日 | 相撲評論、真石博之
3月場所の資料をお送りいたします
○初場所12日目、私は正面6列目、稀勢の里と対戦する把瑠都の表情が良く見える特等席に恵まれました。
把瑠都が手を下ろしたのは明らかに早すぎ、その手をまた上げ、中腰で相手を待つような形。ここまででタイミングは完全に狂っており、誰もが「待った」と思った次の瞬間、ふわりと立って稀勢の里を叩き込みました。場内からは「帰れ!」の野次。夜、テレビで見ると、花道から廊下に入ったところでニヤリとしていました。どうやら計算通りだったのでしょう。
この日は結びでも、日馬富士の変化に白鵬が大横綱らしからず大きく泳いでしまい、あっけなく送り出されました。折角の特等席が失望の12日目となりました。この時点で、優勝を争う二人の星の差が二つなってしまい、翌日、把瑠都がアッサリと初優勝を決めたのでした。
○立ち合いの変化は禁じ手ではありませんから、負ける方が悪いのです。しかし、それは競技上のルールであって、金を払って見に行っているファン、テレビで観戦しているファンに対しては裏切りです。
前回のお便りで、「相撲をおぼえるための稽古をする心がけを感じません」と書いた把瑠都に連続優勝はないとは思いますが、もし、春場所で優勝しても、変化しての優勝ならば、横綱にすべきではないと考えます。
○私ごとで恐縮ですが、もともとこの便りは私ごとなのでご容赦ねがいます。把瑠都は私の87歳の叔母の家の隣の3階建マンションの3階に住んでいて、叔母は窓ごしの顔なじみです。
叔母がとぼとぼ歩いていた時、後ろから奥さんの運転する車でやってきた把瑠都が「どこまで行くの」「駅までよ」「乗ってって」
というわけで、抱きかかえて乗せてくれ、駅につくと外側からドアを開けて、抱きかかえて降ろしてくれたそうです。叔母いわく、『あれは、日本の男にはできないね』。あの笑顔の通りのいい奴のようです。
しかし、入門8年にもなるのに、優勝インタヴューでの日本語はお粗末の極みでした。奥さんがロシア人で日本語を話す機会が少ないにしても、他の外国人力士に比べて勉強不足です。
千秋楽の翌日の会見で、本人は「今年、上に行ける。今場所のようにやれば・・」と言っていましたが、果して、どうでしょうか。
○白鵬が20回負けなしだった鶴竜に完敗したのが10日目でした。12日目には日馬富士の変化に屈し、続く13日目は戦意をなくしたのか、琴欧洲にも一方的に敗れ、把瑠都に初優勝を許しました。これまで何回か指摘した通り、この横綱は取りこぼしが少なく、10日目までに星を落とすのは実に6場所ぶりのことでした。白鵬が負けるのは11日目からです。去年5場所での11目以降の戦績は16勝9敗で勝率は6割4分(15日換算で9.6勝5.4敗)。9日目までの相撲を見て「完璧です」を繰り返す解説者が複数いましたが、これはどうかしています。「いつもの通り、この辺りまでは完璧です」と言うべきなのです。
○新大関の稀勢の里。中盤までは、豊ノ島戦を除いて、一段と破壊力を増した左の突きで力強い大関相撲でした。弟子の稽古を止めて小言を1時間でも続けたという指導過剰の先代が亡くなり、一人で考えるようになったのが良い結果となったのか、新大関として合格の11勝でした。10日目に6連敗中だった琴奨菊に対し、あたってすぐに叩いたのは、「こういうこともするぞ」と今後のことも考えてのことだったのでしょうか。取り口は別にして、体つきと昔風の愛想の無さは北の湖に似てきたように感じます。
○稀勢の里の先輩大関にあたる琴奨菊は、久し振りの日本人大関とあって人気を集め、紅白歌合戦など年末年始のテレビに引っ張りだこ。そのせいではないでしょうが、大事な大関2場所目の直前に風邪で高熱を出してしまい、初日、豪風の肩透かしにあっさりと落ちてしまいました。その後もまったく振るわず、千秋楽の日馬富士戦でやっと勝ち越しました。私には大関互助会と映りましたが・・・。   
○初場所初日の白鵬は、車で国技館の地下駐車場に直行できる横綱大関の特権を捨て、関脇以下と同じようにファンが群がる通用門から歩いて入場しました。大相撲全体の繁栄を願う発言を常々している大横綱が示したファンサービスです。大相撲ファンになったきっかけは人それぞれでしょうが、力士を目の当りに見るのは大きな要素でしょう。「見ぬ恋はしない」と言いますが、白鵬を見て恋した人はいたでしょう。
○国技館の四方の天井に掲げられている32枚の優勝力士額から日本人が消えた初場所でしたが、春場所にも外国人力士がもうひとつの記録を作ります。栃乃洋の引退で、37歳の旭天鵬が最年長関取となります。外国人の最年長関取は、昭和59年に39歳で引退した高見山以来28年ぶりで、史上2度目です。
師匠の大島親方(旭國)の定年が場所後の4月に迫っていますが、部屋の後継者にふさわしい弟子は旭天鵬しかおらず、まだまだ身体に衰えがなく十分現役が続けられる彼が引退して部屋を継ぐのか、あるいは、大島部屋が消滅して別の部屋に吸収されるのか、気がもめるところす。    (別紙『年齢順一覧』)
○初場所は満員御礼が5日あった一方で、3日目には売れ残りが5793枚と定員の半数を上回り、両国国技館はじまって以来の最悪を記録しました。まだら模様の大相撲人気とでも言いましょうか。ただ、テレビの視聴率は、千秋楽が19.5%でその週の3位、14日目も16.9%と、根強さを示しています。放送権料として年間30億円以上を日本相撲協会に払っている日本放送協会にとって、大相撲は得難い放送素材です。年間90日にわたって、地上波で1日2時間、BSで1日5時間も放送できる素材は他にはないのですから。そのNHKの元会長・海老沢勝二氏が、相撲協会の理事に就任しました。
○1月末に理事選挙が行われました。まずは一門内の候補者選び。高砂一門では去年の八百長問題までの3年間にわたって理事を務めた九重(千代の富士)ではなく八角(北勝海)が、立浪一門でも現職理事の友綱(魁輝)ではなく春日山(春日富士)が選ばれました。これによって、9人の理事が実質的に決まり、残る一つの席を賭けて、九重、友綱、それに伊勢ケ濱(旭富士)が立候補しました。票が取れないと見た伊勢ケ濱が選挙当日になって立候補を辞退する醜態を演じ、結局、九重が7票で辛うじて当選、友綱が6票で落選となりました。まるで統制がとれなかった立浪一門と貴乃花に3票が流れた時津風一門は、まったく一門の態をなさない姿をさらしました。   (別紙『理事選挙評議員109人一覧と票数』『一門別年寄一覧』)
○一挙に5人生れた新しい理事の中で、注目は春日富士です。10人の理事のうち4人しかいない「協会在勤」という執行部の中の執行部に入り、総合企画部長・生活指導部長などの要職に就きました。国技館の屋根をソーラーにするユニークな提案とか、法人化問題に明るいことで信頼を得ているとの説があります。今回初めて非公開で行われた評議員全員の前での立候補者の所信表明を是非とも聞いてみたいものです。
○その春日富士が、理事に専念するために自らの名跡を雷に変え、春日山部屋の経営を35歳で幕下に低迷していた追手風部屋の濵錦に譲りました。濵錦は「前頭十両通算30場所」の年寄襲名資格に3場所足りないのですが、「部屋継承者の場合は通算20場所で可」の特例に救われました。降って湧いた幸運です。
 
○逆に不幸だったのは田子ノ浦(久島海)の46歳での急死です。昔は短命の代表のようにいわれていた力士経験者ですが、昨今では65歳の定年を迎えての退職が多くなっている中、昨年11月の鳴戸(隆の里)に続いてのことです。田子ノ浦部屋の力士は春日野と出羽海の二つの部屋に分かれましたが、消滅した部屋の力士が土俵上での敵味方に分かれるのは初めてです。(別紙『年寄の退職理由』)。
平成24年2月28日  真石 博之

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