昭和の小樽 二十七
スズランは北海道の春のシンボルである。
昭和九年に私は小樽のスズラン通りを興味しんしんとして歩いた。 しんしんとは大人めいた表現だがほんとに眩しい思いでこの北国の華麗な街に感動したのだ。鉄製の街灯の飾りにスズランをあしらって十米ごと両側に並んだ景色は見事だった。
私はなんとなく北国の情緒に子供心ながら畏敬の念をもって日々を過ごしていた。
一日に何度も飛んだ入船川を根城に第一大通りの坂道を東に約二百米ほど(実際もっとあったかも)のぼりつめた十字路の南側の角に市立小樽病院の二階建てコンクリートの建物があった。その土台は城壁のような石垣造りで、私はパラシュートのようにこうもり傘で病院から飛び下りたらさぞ面白いだろうなぁと空想して入船川二丁目の路地奥の崖から三米ほど飛び下りる練習を餓鬼友達と試みた。 実際、こうもり傘を開いて飛んだが衝撃はきつくて諦めた。これは小学校四年生の悪戯遊びのひとつである。今なら空を行く鉄腕アトムの夢だろう。
私はあやふくこの病院で耳の手術をされるところだった。内耳炎にかかって耳だれがひどく、日頃、薬の匂いが大嫌いだった私はしぶしぶ母に連れられて小樽病院の門をくぐった。診察室で耳鼻科の先生が…これは手術せねば!…と言った途端、脱兎のごとく私は診察室からずらかったのである。その夜、両親からきつく叱られたが、本人が嫌ならしょうもないけん…毎日、脱脂綿で耳掃除じや!と母の助け船で手術を免れ、半年後に自然に治ってしまった。同じ頃、友人のA君は手術をして右耳の後に醜い傷跡をのこしてしまった。 この病院は同じ富山出身の父の知り合いの大河原病院とちがって厳めしい門とその脇に守衛の怖い顔した髭顔の男がいて、もうそれだけでいつ逃げだそうとして作戦をねっていたのだ。
いまでもあのドームの美しい小樽病院の面影が脳裏に浮かぶ。
スズランは北海道の春のシンボルである。
昭和九年に私は小樽のスズラン通りを興味しんしんとして歩いた。 しんしんとは大人めいた表現だがほんとに眩しい思いでこの北国の華麗な街に感動したのだ。鉄製の街灯の飾りにスズランをあしらって十米ごと両側に並んだ景色は見事だった。
私はなんとなく北国の情緒に子供心ながら畏敬の念をもって日々を過ごしていた。
一日に何度も飛んだ入船川を根城に第一大通りの坂道を東に約二百米ほど(実際もっとあったかも)のぼりつめた十字路の南側の角に市立小樽病院の二階建てコンクリートの建物があった。その土台は城壁のような石垣造りで、私はパラシュートのようにこうもり傘で病院から飛び下りたらさぞ面白いだろうなぁと空想して入船川二丁目の路地奥の崖から三米ほど飛び下りる練習を餓鬼友達と試みた。 実際、こうもり傘を開いて飛んだが衝撃はきつくて諦めた。これは小学校四年生の悪戯遊びのひとつである。今なら空を行く鉄腕アトムの夢だろう。
私はあやふくこの病院で耳の手術をされるところだった。内耳炎にかかって耳だれがひどく、日頃、薬の匂いが大嫌いだった私はしぶしぶ母に連れられて小樽病院の門をくぐった。診察室で耳鼻科の先生が…これは手術せねば!…と言った途端、脱兎のごとく私は診察室からずらかったのである。その夜、両親からきつく叱られたが、本人が嫌ならしょうもないけん…毎日、脱脂綿で耳掃除じや!と母の助け船で手術を免れ、半年後に自然に治ってしまった。同じ頃、友人のA君は手術をして右耳の後に醜い傷跡をのこしてしまった。 この病院は同じ富山出身の父の知り合いの大河原病院とちがって厳めしい門とその脇に守衛の怖い顔した髭顔の男がいて、もうそれだけでいつ逃げだそうとして作戦をねっていたのだ。
いまでもあのドームの美しい小樽病院の面影が脳裏に浮かぶ。