昭和の小樽 十九
昭和九年四月、南小樽駅で降りて、父の経営するミシン工場についた夜。玄関わきの石炭庫の戸口に金太郎が使った(?)と同じマサカリが立掛けてあった。
「北海道のカボチャは堅うて包丁で切れんのでこれで切るがャ」 と富山出身の父が言った。子供心に初めて受けたカルチャショックである。その夕方、港のほうからしきりに汽船の吠える音が腹のそこに響いてきて、遠い外国へやってきた錯覚を覚えた。
最初の友達は入船町一町目に住むN君という船舶具問屋の息子で相撲がクラスで一番強い子で、船のトン数をあてる名人だった。
私は放課後、よくN君と一緒に岸壁へ遊びに行った。
その頃、小樽港に入出港する船舶数は外国船が一日一隻、国内汽船は平均一日に十数隻もあり、水先案内のポンポン蒸気船が港湾内の汽船の合間を波をけたててはしっている。波止場は工事の真っ最中だった。岸壁に汽船は横付けになって荷下ろしを行って、沖で停泊の汽船はクレーンを使ってダルマ船に荷を下ろしたり沖仲士逹が南京袋を肩にしなる板に拍子をあわせて荷役作業をしていた。
「あの白いギリシャ船は七千トン、その手前は北日本船舶の貨物船 で二千五百トンだべ…そこの岸壁に停泊の貨物船は炭鉱汽船の石 炭船で三千トンだわ…」
とまるで船長みたいなことをNくんは言った。
彼は中学から高等商船学校へ進学して将来、外国航路の機関長になる希望をもつ少年だった。
私は絵が得意だったので小学生絵画展に入選したこともあるが将来なんて考えたこともない。
父は晩酌で酔うとよく上野さ入れ!とくどく言うのだ。上野とは上野美術学校のことで家が倒産してT県のT中学三年で退学した父が入りたかった学校だった。
腹の底まで響いてくる汽船の警笛を聞くとなぜか私は感動した。
昭和九年四月、南小樽駅で降りて、父の経営するミシン工場についた夜。玄関わきの石炭庫の戸口に金太郎が使った(?)と同じマサカリが立掛けてあった。
「北海道のカボチャは堅うて包丁で切れんのでこれで切るがャ」 と富山出身の父が言った。子供心に初めて受けたカルチャショックである。その夕方、港のほうからしきりに汽船の吠える音が腹のそこに響いてきて、遠い外国へやってきた錯覚を覚えた。
最初の友達は入船町一町目に住むN君という船舶具問屋の息子で相撲がクラスで一番強い子で、船のトン数をあてる名人だった。
私は放課後、よくN君と一緒に岸壁へ遊びに行った。
その頃、小樽港に入出港する船舶数は外国船が一日一隻、国内汽船は平均一日に十数隻もあり、水先案内のポンポン蒸気船が港湾内の汽船の合間を波をけたててはしっている。波止場は工事の真っ最中だった。岸壁に汽船は横付けになって荷下ろしを行って、沖で停泊の汽船はクレーンを使ってダルマ船に荷を下ろしたり沖仲士逹が南京袋を肩にしなる板に拍子をあわせて荷役作業をしていた。
「あの白いギリシャ船は七千トン、その手前は北日本船舶の貨物船 で二千五百トンだべ…そこの岸壁に停泊の貨物船は炭鉱汽船の石 炭船で三千トンだわ…」
とまるで船長みたいなことをNくんは言った。
彼は中学から高等商船学校へ進学して将来、外国航路の機関長になる希望をもつ少年だった。
私は絵が得意だったので小学生絵画展に入選したこともあるが将来なんて考えたこともない。
父は晩酌で酔うとよく上野さ入れ!とくどく言うのだ。上野とは上野美術学校のことで家が倒産してT県のT中学三年で退学した父が入りたかった学校だった。
腹の底まで響いてくる汽船の警笛を聞くとなぜか私は感動した。