以下の文章は、「10 miniボックス・現代文・道程(高村光太郎)」(NHK-Eテレ)を再構成したものです。
詩人・彫刻家 高村光太郎
「道程」は1914年、大正時代に書かれた詩です。

NHK for school HPより
それまでの詩とは違い、普段話している言葉、口語体で書かれています。若者が持つ将来への不安と前向きな決意が感じられることから多くの人々に親しまれてきました。
この詩の作者は高村光太郎(1883-1956)。詩人として、また彫刻家として明治末から昭和にかけて活躍しました。
彫刻家光太郎の代表作「手」(1918年作。東京国立近代美術館所蔵)。35歳の時の作品です。

東京国立近代美術館HPより
西洋彫刻の持つ写実的な力強さと東洋的な繊細さ―その二つが見事に表現されています。
西洋の芸術から受けた衝撃
光太郎は8人兄弟の長男として生まれました。父は明治時代を代表する木彫り彫刻家高村光雲です。偉大な父光雲のあとを継ぎ彫刻家になることは、光太郎にとってごく当たり前のことでした。14歳の時、東京美術学校、いまの東京芸術大学の予科に入学します。
美術学校を卒業した光太郎は、1906年、海外へ留学。アメリカやヨーロッパで学びました。そこで目の当たりにしたのは、西洋の最先端の芸術でした。欧米と日本、その文化の違いに光太郎は衝撃を受けます。
新しい芸術を生み出す苦しみ
3年後、帰国した光太郎は、日本の古い美術界の慣習にことごとく反発します。展覧会に作品を出品せず、美術界を批判する評論、エッセイや、詩などを次々に発表し続けました。
父の期待に応えられず、新しい芸術を生み出すこともできないまま、当時の光太郎はもがいていました。
智恵子との出会い
そんなとき転機が訪れます。のちに妻となる長沼智恵子との出会いです。光太郎はそれまでの生活を改め、生まれ変わることを決意します。出会ってから3年後、二人は結婚。その年発表されたのが『道程』です。1914年、31歳のときの作品でした。「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る/ああ、自然よ/父よ/僕を一人立ちにさせた広大な父よ/僕から目を離さないで守る事をせよ/常に父の気魄(きはく)を僕に充たせよ/この遠い道程のため/この遠い道程のため」。
自立する決意
昭和33年に発行された高村光太郎全集第三巻に、初めて雑誌に掲載されたときの『道程』の原型が収められています。オリジナルの『道程』は、102行からなる、いまとはまったく違う詩だったのです。
どこかに通じている大道(だいどう)を
僕は歩いているのじゃない
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
道は僕の踏みしだいて来た足あとだ
だから
道の最端にいつでも僕は立っている
何という曲がりくねり
迷いまよった道だろう
自堕落に消え滅びかけたあの道
幼い苦悩にもみつぶされたあの道
絶望に閉じ込められたあの道
光太郎は、この詩をばっさりと削っていきます。残したのは、自立を宣言する最後の部分のみでした。わずか9行のこの詩に光太郎がこめた思い。それは、新しい人生を自分の力で切り拓く決意です。その毅然とした、前向きな決意が広く共感を呼び、この詩は、いまも卒業や入学、就職など、人生の転機を迎えるときに、広く読み継がれています。
詩人・彫刻家 高村光太郎
「道程」は1914年、大正時代に書かれた詩です。

NHK for school HPより
それまでの詩とは違い、普段話している言葉、口語体で書かれています。若者が持つ将来への不安と前向きな決意が感じられることから多くの人々に親しまれてきました。
この詩の作者は高村光太郎(1883-1956)。詩人として、また彫刻家として明治末から昭和にかけて活躍しました。
彫刻家光太郎の代表作「手」(1918年作。東京国立近代美術館所蔵)。35歳の時の作品です。

東京国立近代美術館HPより
西洋彫刻の持つ写実的な力強さと東洋的な繊細さ―その二つが見事に表現されています。
西洋の芸術から受けた衝撃
光太郎は8人兄弟の長男として生まれました。父は明治時代を代表する木彫り彫刻家高村光雲です。偉大な父光雲のあとを継ぎ彫刻家になることは、光太郎にとってごく当たり前のことでした。14歳の時、東京美術学校、いまの東京芸術大学の予科に入学します。
美術学校を卒業した光太郎は、1906年、海外へ留学。アメリカやヨーロッパで学びました。そこで目の当たりにしたのは、西洋の最先端の芸術でした。欧米と日本、その文化の違いに光太郎は衝撃を受けます。
新しい芸術を生み出す苦しみ
3年後、帰国した光太郎は、日本の古い美術界の慣習にことごとく反発します。展覧会に作品を出品せず、美術界を批判する評論、エッセイや、詩などを次々に発表し続けました。
父の期待に応えられず、新しい芸術を生み出すこともできないまま、当時の光太郎はもがいていました。
智恵子との出会い
そんなとき転機が訪れます。のちに妻となる長沼智恵子との出会いです。光太郎はそれまでの生活を改め、生まれ変わることを決意します。出会ってから3年後、二人は結婚。その年発表されたのが『道程』です。1914年、31歳のときの作品でした。「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る/ああ、自然よ/父よ/僕を一人立ちにさせた広大な父よ/僕から目を離さないで守る事をせよ/常に父の気魄(きはく)を僕に充たせよ/この遠い道程のため/この遠い道程のため」。
自立する決意
昭和33年に発行された高村光太郎全集第三巻に、初めて雑誌に掲載されたときの『道程』の原型が収められています。オリジナルの『道程』は、102行からなる、いまとはまったく違う詩だったのです。
どこかに通じている大道(だいどう)を
僕は歩いているのじゃない
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
道は僕の踏みしだいて来た足あとだ
だから
道の最端にいつでも僕は立っている
何という曲がりくねり
迷いまよった道だろう
自堕落に消え滅びかけたあの道
幼い苦悩にもみつぶされたあの道
絶望に閉じ込められたあの道
光太郎は、この詩をばっさりと削っていきます。残したのは、自立を宣言する最後の部分のみでした。わずか9行のこの詩に光太郎がこめた思い。それは、新しい人生を自分の力で切り拓く決意です。その毅然とした、前向きな決意が広く共感を呼び、この詩は、いまも卒業や入学、就職など、人生の転機を迎えるときに、広く読み継がれています。