餃子倶楽部

あぁ、今日もビールがおいしい。

『トランス』再考-迷えるコギトに愛の手を 6

2006-06-29 23:56:58 | Learn, Gyoza
     6.脱構築のきらめきに

 ヘーゲルは自他の同一性と差異性の問題を絶対知の中に解消し,時間の中の同一性と差異性の問題を現前(根源としての意味),ロゴス(論理的な秩序,言葉が本当に語っている内容)の中に回収した。つまり,この世界に生じているさまざまな差異をそのまま受容するのではなく,より大きな同一性の中に回収することが歴史の機能であり,人間の理性の役割であると考えた。最終的にはすべての差異性は解消され,時間性は失われ,絶対知が現れる。その根拠として,ヘーゲルは世界に生起するすべての事象の背後に永遠不変の明確な真理,すなわちロゴスの存在をあげた。ロゴスが世界を絶対知の創造と歴史の終焉に導くのである。
 しかし,デリダは世界をそのようには考えず,ニーチェの「世界はテクストである」という見方に同意する。これは,世界がロゴスによって成立していたとしても,決して現前することはないということを意味する。先に述べたように,世界とは,すなわち現実とは既に言葉で編まれたものであり,既に解釈されたテクストとして現前するのである。我々に可能なのは,「世界の解釈」の解釈でしかない。
 今ここで我々に差し出されているテクストが書かれるにあたって,存在した対象は何か。それも,決してロゴスの現前などではなく,一瞬前のテクストなのである。その前は,そしてその前は?こうした問いを何重に積み重ねていっても,テクストの無限連鎖が現れるだけで,始源は見えてこない。「そのテクストを最初に書いたのは誰か」という問いは永遠の謎として残ってしまうのである。それゆえ,テクストの終着を探っても,同様に徒労である。テクストの連鎖は過去から未来へ続く連続体を構成するだけで,始まりも終わりもない。
 そこで,デリダが企てることは,テクストの連鎖を自由に横断し,戯れることだ。世界の始源あるいは終末の幻想を構築するのではなく,戯れが生み出す「ズレ」の中に,きらめきの中に世界の生成の瞬間を見いだそうとする。これが脱構築のイメージだ。
 テクストの戯れの中で世界は一瞬,その相貌を垣間見せるかも知れない。しかし,そのきらめきのすぐ後に,世界は一瞬も止まることなくその姿を差異化させ続ける。脱構築は,こうして我々に不断の戯れの実践を要求する。

 立原「違うんだ,礼子…それは君の妄想なんだ」
 紅谷「えっ?」
 立原「あのとき,薬を握りしめていたのは,君なんだ」

 立原「やめろ!やめるんだ!」
 紅谷「放して!私を死なせて。お願いだから死なせて!」
 (中略)
 立原「君は誰からも責められてなんかいない!君は君なんだ。君が君を許すんだ!」
 紅谷「嘘よ!悪魔は絶対に私を許さないの!どこまでも私を追いかけてくるのよ!私は死ぬしかないのよ!」
 立原「見るんだ,礼子!目を背けるんじゃない!悪魔の顔をしっかりと見るんだ!逃げないで,悪魔の顔を見るんだ!」
 (中略)
 紅谷「いやよ!悪魔の目を見たら,私は悪魔に殺されてしまうの!」
 立原「見るんだ!」
 紅谷「……お母さん!お母さん!許して,私を許して!私は何もしてないの!お母さんに言われるようなことは何もしてないの!」
 立原「そうだ。悪魔じゃない。お母さんだ!君は何も叱られるようなことはしていない。大丈夫だ,お母さんは君をもう叱ったりしないよ」
 紅谷「いいえ!お母さんが許すはずがないわ!私はいけない事をしたの!私は死ぬしかないの!」
 立原「僕が守ってやる!お母さんが叱りにきても,僕が礼子のお母さんから守ってやる!」
 (中略)
 紅谷「ずっと?」
 立原「ずっと」

 後藤「はい,薬の時間ですよ。紅谷さん,大丈夫ですか。さあ,二人とも,薬を飲んで寝ましょう…以上が,現在の患者の状態です。二人は,お互いに医者と患者を演じあうことによって妄想を膨らませています。その役割は固定的ではなく,ある時は患者,ある時は医者と使い分けているようです。しかし,私は妄想で作り上げた二人の関係の中に,ある種の真実があるように思えてしかたないのです。二人の揺れ動く関係の中から,あるしっかりとした真実を見つけだすために,私は二人を見続けようと思っています」

 3人の現実と妄想という鏡が乱反射させる複数の立像。どれが現実で,どれが妄想かは当事者にも,もちろん観客にもわからない。だが,3人の現実と妄想というテクストの連鎖の中に,その脈絡もない自由な横断の中に,すなわちその戯れとそれが生み出す「ズレ」の中に,一瞬きらめきが宿る。それこそが世界生成の瞬間のきらめきである。
 鴻上氏は『トランス』の序文である「[新版]に寄せて」においてこう語る。

 2005年に『トランス』を上演する意味は何ですか?」とよく聞かれました。僕自身,100%の確信があって上演を決めたわけではありません。ただこんなふうには言えます。
 2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ以降,2005年のロンドン同時爆破テロも含めて,「イスラムが悪いのか,アメリカが悪いのか」「ブッシュは正しいのか,間違っているのか」というどっちが真実なのかという問いが立てられ続けています。
 それは,『トランス』の「誰が医者なのか」「誰が患者なのか」という真実を追究する方向と重ね合わせられます。
 けれど,『トランス』は,最終的には,誰が患者で誰が医者かわからない構図になっています。それは,つまり,誰が医者とか患者という真実はわからないけれど,もっと違う種類の真実-「あなたが私を必要としている」とか「私はあなたの側にいる」とかの真実-がより大切なんじゃないかと感じるからです。
 予測不可能の不安定な社会で,「アメリカとイスラム,どっちが正しいのか」という問いに強引に答えを出し,その確からしさにすがるのではなく,別の種類の確からしさに気づくことが,人間の可能性なんじゃないかと考えるのです。
 それは,目の前に一人の人間がいること,その人間と目が合い,その人間の何かを感じること,そういう種類の確からしさではないかと思うのです。
 爆弾のスイッチを押す時,ニュース映像を見る時,隣人と話す時,,「どちらが政治的に正しいのか」という真実を追究するのではなく,「あなたは何を求めているのか」「私は何を感じているのか」という方向の真実を求めることに希望を感じるのです。

 乱立する無数の鏡像に混乱する観客が,それでもなおそこにリアリズムを越えて感じることができる「確からしさ」とは,雅人と礼子と参三のそれぞれがお互いを必要としているという「視線」である。論理や客観や理性とは別の次元の,決して言葉に還元することのできない3人の「意思」である。
 私は君(たち)を必要としている-不確実な世界にあって,それだけは確実だと『トランス』は言うのである。だが,確実かどうかを決定するためには、外在的な視点、高次(メタ)の言語が必要となってくる。前述のように、ある形式体系の証明はその体系の中では決して得られないのである。しかし、メタ言語によってそれを証明したとしても、そのメタ言語に対する再批判が必要となれば,さらにメタ・メタ言語を設定しなければならないのであって、最初に生じた矛盾を避けることはできない。ホッフシュタッターはそれを「不思議な円環 (strange loop)」と,デリダはそれを「差延(differance)」と呼んだ。それは,まるで合わせ鏡に映る鏡像において,鏡の中の鏡が中心に向かって無限に連続してゆくように,際限なく引き延ばされてゆく。
 従って,言語によっては何も確実だと言えはしないのだけれども,3人が抱える妄想は決して孤立したものではなく、残酷な現実との接触の結果、要請されたものであるがゆえに,現実とは相補的な関係にあり、戯曲『トランス』においてはそうした説明不能な現実や事実が、やはり確証不可能な虚構とパラレルとなって語られている。現実と妄想や現実の不断のダイナミックな緊張から、世界は絶えず差異化された意味を析出しているのであり、『トランス』は事実と虚構を用いて現実世界の混乱の本質と構造を示すと共に、現実世界を審美的次元で<脱構築>する手法のひとつを提示し得たと言っていいだろう。
 『トランス』は文学史に名を残すべき,ポストモダン文学の傑作である。

 立原「違うんだ。参三。それは,お前の妄想なんだ」
 後藤「えっ?」
 立原「傷ついたお前は,医者である私の首を絞めた…錯乱したお前は,私の首を愛する人のものだと思いこんで……参三,思い出すんだ!お前は誰を愛していたんだ?お前の愛はどうなっていたんだ!」
 (中略)
 後藤「…あなたも,あなたもなのね…私の愛した人はみんな私から去っていく。どうして,どうしてなの!どうして嘘をつくの!どうして私を裏切るの!どうしてもう愛してないなんて言えるの!…他の人の所に行くぐらいなら,私はあなたと一緒に!」
 立原「参三!」

 立原。後藤のほおをぴしゃりと叩き,そして,ぎゅっと抱きしめる。

 『トランス』挿入歌,ブルーハーツ「夕暮れ」(作詞・作曲甲本ヒロト)

 はっきりさせなくてもいい あやふやなまんまでいい
 僕たちはなんとなく 幸せになるんだ
 何年たってもいい 遠く離れてもいい
 独りぼっちじゃないぜ ウィンクするぜ

 夕暮れが僕のドアをノックする頃に
 あなたを「ぎゅっ」と抱きたくなってる

 幻なんかじゃない 人生は夢じゃない
 僕たちははっきりと生きてるんだ
 夕焼け空は赤い 炎のように赤い
 この星の半分を真っ赤に染めた

 それよりももっと赤い血が
 体中を流れてるんだぜ

 立原「…参三,お前の愛した人はもういないんだ」
 後藤「雅人…」
 立原「…だけど,僕はここにいる」

 紅谷「いいえ,それはあなたの妄想です」
 (中略)
 紅谷「参三,しようがないじゃないの」
 後藤「ほっといてよ…いいのよ。悔しいけど,雅人はあんたにあげるわ」
 紅谷「えっ,何言ってるの?」
 後藤「あんた達なら,きっとうまくいくわよ,あたしのカンは当たるんだから」
 紅谷「ちょっと待ってよ」
 後藤「いいじゃない,初めての男に戻るってことよ」
 (中略)
 後藤「私,雅人と礼子の愛の行方を見たいの」
 紅谷「何言ってるの。それは参三の妄想よ」
 後藤「妄想でいいのよ,愛なんて,そもそも妄想みたいなものでしょう…妄想なのに,こんなに苦しいのよ。妄想なのに,真実なのよ」

  私の愛する人は
  精神を病んでいます。
  ですが,私は
  とても
  幸福です。
  あなたが私を必要とする限り
  私は変わり続けられるのです。
  私があなたを愛する限り
  あなたは私の大切な人なのです。
  あなたが何に傷つき
  あなたでなくなったか
  あなたの哀しみの深さを
  私は知りません。
  ですが,あなたが私を必要としていることだけは
  私は分かります。
  あなたがどんな妄想に生きようと
  私を必要としていることだけは
  分かるのです。
  そしてそれは
  どんな妄想より大切な
  真実なのです。
  そして
  あなたのそばに私がいること
  私のそばにあなたがいること
  すべてはそこから始まるのです。
  私の愛する人は
  精神を病んでいます。
  ですが 私は
  とても
  幸福です。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『トランス』再考-迷えるコギトに愛の手を 5

2006-06-26 22:59:03 | Learn, Gyoza
    5.コギトは,コギトを乗り越える-もしくは「ポスト構造主義」

 ゲーデルは形式化という科学の要請に徹底して内在することで、その危機を全面的に露呈させた。「徹底した形式化によって形式主義に絶対的に潜在する背理」をパラドキシカルに暴く柄谷行人の作業はもちろんゲーデル的である。言うまでもないことだが,ジャック・デリダもゲーデル的である。
 フッサールの現象学は<世界>のあり方の「ありのまま」は言いあてられないが、<意識>に与えられた「直観」のありのままは必ず言いあてられる可能性を本来的に持っているという考え方によって、ヘーゲルまでの形而上学の壁を乗り越えたと自認した。しかし、デリダはまさしくこの考え方こそ形而上学の隠された根本的な発想なのだ、というのである。
 デリダは、フッサールにおけるこの「諸原理の原理」、つまり意識に<もっとも根源的な>直観を与えられて、それが言葉として表現される(言いあてられる)という考え方を<現前>の哲学と呼ぶ。そしてこれは実は、本当のもの(イデア)?不完全なもの、本質?現象、対象?認識、意味?言葉という形而上学に特有の根本的な問題の形を再演しているのにほかならないし、さらに<根源的なもの>?その再現としての言葉というかたちにおいて、形而上学のもっとも現在的なかたちを代表するものだと指摘するのである。
 例えば人が「このビールはおいしい」と語ったとする。別にそれは「金がすべてじゃないなんて素直には言えないわ」でも構わないし「世界は不確実だ」でももちろん構わない。普通に考えれば、こういう言葉が発せられるためには、その<直観>あるいは<意味>が心の中に生じていて、それが言葉として外に出されたとされる。言説としての「このビールは...」が心のうちの<意味>をぴたりと言いあてているとすれば、<意味>と<言葉>は<同一性>を得るわけである。しかしデリダの考えの根本は、はじめに<意味>あるいは<直観>という根源があって、次に<言葉>がそれを写すものとしてやってくるのではなく、実はあのはじめの<意味>が既に<言葉>というものの侵食を受けているのではないかという点にある。つまり<意味>としての「このビールは...」は、この言葉(つまり再現前)が何度口をついて出てきても、いつも等しい<意味>を持ったものとして語られるという「反復の可能性」によって初めて根源的な<意味>たり得ているということだ。だから、根源としての<意味>(=現前)は、むしろ言葉によるその反復(=再現前)の可能性に依存しているということである。
 現実(あるいは世界)を正しく言いあてようとする形而上学の欲望にとっては、はじめに<根源としての意味>があって、次にそれを<言葉>が再現前するというふうに考えなければならない。しかしデリダはむしろ、<根源としての意味>はその再現前に依存することによって、<根源>→<言葉>という形而上学の構図を抹消してしまうのだ。といって、この順序が入れ換わってしまうのではない。つまり再現前としての<言葉>が<意味>の根源になるというのではない。デリダのこの作業は、要するにどれが<根源>かという「根源への問い」を抹消してしまうのである。
 日常の生活においては、いわば生きた現実の秩序があって、言葉はそれを写しだし言いあてるものだと見なされている。しかしデリダ的な見方が意味しているのは、「生きた現実の秩序」というものが既に、言葉の使用によって分節され、練り上げられたものであるということだ。現実と言葉があるわけではない。現実とは既に言葉によって編まれたものだ。言葉を紡ぎ出す根源の一点であると考えられていた<現前>は、動かすことのできない<同一性>ではなく、実は言葉によって絶えざる差異化を受けているのである。
 <差延>という概念が表しているのは、言葉の根源としての<現実>なるものが、実は純粋な根源点ではなく,言葉によるその再現作業を既に含み込んだものであり、そのことによって純粋な<同一性>であることから常にズラされ(差延化)ているということである。そしてこのことは、人が一般に思い描いている<現実/言葉>という対立項の、どちらが先でどちらが根源かという問いを、いわば無限の<差延化>によって放散させてしまう。この作業をデリダは「戯れ(たわむれ)」と呼ぶのだ。

 超越論的な<意味されるもの>の不在は「戯れ」と呼ぶことができようが、この不在は戯れの無際限化であって、つまり存在論=神学と形而上学との動揺である。(『グラマトロジーについて』ジャック・デリダ)

 現実や世界を正しく言いあてようとする形而上学の欲望は、必ず世界の意味を決定する神学的な視線を要請せずにはすまない。しかし実は、人間が現実とか世界とか呼んでいるものは、どうしても未決の意味を背後にその闇として隠し持ち、そのことによって人間にとってさまざまな意味やかたちや欲望の対象となって現れでてくるような対象世界の総体のことなのだ。こうした世界の現れ方が「戯れ」という言葉で呼び止められているのである。形而上学はいつも「超越論的な<意味されるもの>」、つまり世界を見はらかす神の視線のようなものを<根源的なもの>として求めてきたが、そんなことは無意味なことであるし、何よりはじめから不可能なのだとデリダは言うのである。
 デリダの投げかけた問題の諸概念や意匠は極めて多様なのだが、その実はおそらく単純なものだと思う。つまりデリダの果たした作業というのは次のようなことではないだろうか。<現実>はどうあるかということの一切を言い尽くすことは決してできない。一切が言い尽くされ、決定されたようなものを、人間は<現実>と呼ばずにむしろ理念とか観念とか呼んでいる。従って、僕たちが<現実>と呼んでいるのは、常に予断を許さない関係として現れてくるような生活の様相のことなのだ。
 しかしながら、そうした言ってみれば当然のことを語るために、デリダは形而上学の歴史全体を相手にし、恐ろしく巧緻な仕掛けや概念を積み上げてみせなければならなかった、そしてその根本的動因は、ヨーロッパにおける人間の理性の使用が、<世界>の意味を司っていた<神>の不在の後で、その不在を埋めようとする役割を担わざるを得なかったところに求めることができるだろう。哲学の諸問題は、極めて巧みに<真理>の謎を人間の<知性>に問いかけて、そこから人間の理性使用を<世界>の客観的、普遍的<真理>の言い当てという理想へと導いてゆく。デリダにとっては、おそらく理性の使用は、根本的に新しい方位に向け変えなければならないものだったはずだ。だがそのためにはさしあたって、ヨーロッパの<知>の伝統方向を、いったんすっかり突き崩してしまわなけれはならなかったのである。
 デリダの<脱=構築(デ・コンストラクション)>とは、従って何より<根源>の観念を一撃することであった。それは、これまでのヨーロッパの<世界概念>を白紙に戻すことである。そしてそれがポスト構造主義の踏み出した第一歩であった。
 <世界>という概念を,では一体どのように捉えればいいのだろうか。あるいは,<世界>という概念そのものの,従って,理性や認識という能力そのものの可能性と不可能性はどこにあるのか。ポスト構造主義は,それらの一切にまだ答えを出しているわけではない。しかし,そういった新たな問いの一切を差し出して見せたのである。

 立原「僕はどうしたらいいんだ?…治療を受け,僕が正常になったとしても,僕はただ,今と同じなんでもない僕に戻るだけなんだ。そして不安も」
 紅谷「そしたら,何かになりましょう」
 立原「えっ?」
 紅谷「あなたが何でもないのなら,そんなあなたを放り投げて,あなたは何かになればいいの」
 (中略)
 紅谷「彼が病院の噂を使って,私を追い詰めようとした気持ちは,私には痛いほど分かりました。雅人が言いたかったことはただ一つ,誰かを愛したいということだったと私には思えました。自分を愛そうとして,自分を見つめ続けた果てに,たどり着いた誰もいない広場で雅人は悲鳴を上げ続けている。この確信は,雅人のそばにいることで,ますます深まっていきました。ベッドのそばにたち,雅人の寝顔を見つめれば,漏れてくる寝息のかすかな響きのひとつひとつが,私には,雅人の悲鳴のように聞こえました。ですが,私には,その響きが,私が私を越えていくときの行進曲のようにも,新しい私を告げるファンファーレのようにも聞こえたのです。その響きは,雅人のそばにいることで,雅人のそばにいることで,少しずつ,大きくなっていきました」


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『トランス』再考-迷えるコギトに愛の手を 4

2006-06-24 22:58:43 | Learn, Gyoza
            4.戸惑うコギト

 雅人は酒場で,礼子と同じ高校時代の友人後藤参三(以下,参三)に偶然再会する。ホモセクシャルの参三との奇妙な同居生活の中,雅人の離人症は統合失調症(以前の精神分裂病)へと進行してゆく。彼はもう一人の人格において,自分は武力によって三種の神器を奪われた南朝の正当性を主張する南朝直系の天皇であるという妄想を抱くようになり-その一方で,平凡な男になって平凡な文章を書いて生きてゆくこと(つまり,現実の雅人が行っていること)を夢見る-,礼子の勤める病院に入院することになる。精神安定剤と睡眠薬の交互の服用で,雅人はつかの間,北朝の天皇を追い出すために皇居に行かなければならないという妄想を生き,そして眠り続ける。
 三週間あまりが経過し,雅人の妄想の膨らみに比例し,劇中に礼子と参三の現実と妄想が徐々に現れるようになり,プロットは錯綜し,登場人物は混乱する。もちろん観客も。劇的緊張が高まる中,虚実の皮膜が幾重にも加速度的に拮抗してくる。
 雅人が天皇としての人格で参三に対し,自分は礼子を后としてめとるから,参三はここから出てゆき,自分の人生を歩めと言い放つと,雅人に恋愛感情を抱く参三は,激高し,雅人の首を絞める…
 そして礼子に対しては,天皇の后になれ,不倫でできたお腹の子供は二人で育てようと言う。

 立原「医者をやめて,叫びたい時に叫ぶ人生を生きませんか」
 紅谷「いい加減にして下さい。怒りますよ」
 立原「それでいいんだよ,礼子」
 紅谷「えっ」
 立原「怒りたい時に怒る。それでいいんだ,礼子」
 紅谷「何を言ってるんです」
 立原「もう一度最初からやり直そう。紅谷先生なんてこの世にはいなかったんだ。ただ,君の妄想が作り上げただけなんだ」
 紅谷「今日はここまでにしましょう。続きは明日ですね」
 立原「君は君の主治医の真似をしているだけなんだ」
 紅谷「何を言ってるんです」
 立原「ここは病院だよ。新興宗教のホームじゃない。君はずっと意識を失っていたんだよ」
 紅谷「えっ」
 立原「あいつらは君が壊れるまで君を追いつめた。君は何年も君じゃなかった。でも,それは君の責任じゃないんだ」
 紅谷「何を……」
 立原「礼子,参三が言ったことを覚えているかい。約束したじゃないか。あの最後の屋上で,僕たち三人,もしここから飛び降りたくなるようなことがあったら,その時は,何をしていても駆けつけようって」
 紅谷「えっ……」
 立原「どんな大人になっていても,それだけは約束しようって」
 紅谷「……あなた,雅人なの?」
 立原「もういいんだよ,礼子。君は医者じゃないんだ。だから自分の感情を我慢する必要はないんだ」
 紅谷「雅人,雅人なの?どういうこと?あなた,自分が何を言ってるのか分かってるの?」
 立原「礼子,僕は真実を語っているんだ。君は君の妄想を生きてるだけなんだ」
 紅谷「じゃあ,参三はどうなの?あなたの説明だと参三はどうなるの?
 立原「参三も精神を病んでる」
 紅谷「えっ」
 立原「愛する人にひどいことをされたんだ。それ以来,参三は自分の愛の行き場を求めて病んでいるんだ」
 紅谷「冗談じゃない。参三もあたしも患者だというの?」
 立原「そして,僕は医者だ」
 紅谷「何を……冗談じゃないわ。私と参三が偶然,同じ病院にいたというの?」
 立原「いいや。参三は私が転院させた。閉鎖病棟の奥深くで苦しんでいたからね」
 紅谷「何を言ってるの!私は毎日,家に帰って生活していたのよ」
 立原「君は毎日,よく寝ていたよ」
 紅谷「!」
 立原「さあ,礼子。もう一息だ。もう一息で君は君の幻想をうち破ることができる。君はもう一度,やり直すんだ」
 紅谷「何を言ってるの」
 立原「さあ」
 紅谷「やめて!私は医者なの。誰が何と言おうと医者なの」
 立原「礼子,君のお腹のこの父親は実は僕だ」
 紅谷「!?」
 立原「君は妄想の中で,僕を二つにわけた。友人としての僕と医者としての僕と」
 紅谷「何を言い出すの!?」
 立原「君はずっと悪魔と戦っていた。何年も何年も,君の心の中で君が妄想した悪魔とだ。君は半狂乱になり,僕は君を抱きしめた…『先生が私の神様なら,悪魔を追いだしてくれるのに』君は本当にかすかに呟いた。僕は,僕は,医者として,してはいけないことをした…僕は君をもう一つ深い妄想に追い込んでしまった。僕は自分の人生を終わらせることで,君に謝る」
 (中略)
 後藤「やめて!あなたは私の腕の中で死んだの!私がこの手で首を絞めたの!」
 紅谷「違うの,参三!それはあなたの妄想なの。首を絞める途中で,あなたは病室を飛びだしたの!」
 立原「そうだ,参三。お前は私を殺してなんかいない。私はこうして生きているんだ!」
 後藤「いいえ,あなたは死んで私のものになったの!あなたはもう,どこへも行かないの!」
 (中略)
 紅谷「違うの,参三。真実はこうなの。あなたに首を絞められた陛下は雅人に戻り,私を追い詰めた。でも,彼は錠剤を飲み込むことができなかったの。そして,私の胸で泣き出し,こう言ったの」

 世界の真偽は決定不能である。ただ一つの真理など存在しない。礼子の言うように「事実は存在しない。ただ,解釈だけが存在する」
 柄谷行人はフロイト、ソシュール、フッサール、ゲーデルなど,19世紀から20世紀はじめの思想的巨人たちに見いだされる共通項を「建築への意志」もしくは「形式化」と呼ぶ。そして柄谷はこれら巨人たちの仕事の核心に、「形式化」の果てに「形式化」の試みそのものを破綻させるような、つまり、そもそも理性によるものごとの「形式化」が不可能であることを逆照射してしまう徹底性を見ようとするのである。

 隠喩としての建築とは、混沌とした過剰なメ生成”に対して、もはや一切メ自然”に負うことのない秩序や構造を確立することにほかならない。それは実際の建築や幾何学とは既に関係がない。幾何学が規範的だとすれば、それが建築的だからであり、建築的たらんとするかぎりにおいてである。幾何学の内部では、それをより堅固な建築たらしめようとする動きがやむことはなかった。とりわけユークリッドの第五公理(平行線に関する)をめぐって。二千年以上ほぼ揺るぎなく存続したユークリッドの「建築」が崩壊せざるをえなかったのは、その建築の基礎が点や線といった多義的な自然言語に基づいていたからである。19世紀後半からの数学者の努力は、自然言語を排除することによって、完全な公理体系を建築することに向けられたが、それはゲーデルの「不完全性定理」によってとどめをさされた。
 (中略)
 (1931年に発表された)ゲーデルの定理は、どんな形式的体系も、それが無矛盾(コンシステント)である限り、不完全であるということだ。彼の証明は、形式体系に、その体系公理と合わない、従ってそれについて正しいか誤りかをいえない(決定不可能な)規定が見出されてしまうことを示す。不完全性の定理は、また、いいかえれば、ある形式体系がコンシステントであるとしても、その証明はその体系の中では得られないこと、それ以上の強い理論を必要とすることを意味している。こうして純粋数学の完全な演繹体系は一般的に存在しないことが証明されてしまったのである。この結果、非常に単純化していえば、非ユークリッド幾何学がユークリッドの公理とは別の公理を選択することによって成立するように、公理の選択次第でどんな数学も可能であり、そのことを原理的に否定することはできないということになる。
 ところで、ゲーデルがこの証明に用いたのは、彼自身が示唆するように、例の「うそつきのパラドックス?エピメニデスのパラドックス、すなわち<全てのクレタ島人はうそつきであると、一人のクレタ島人がいった>というパラドックス」にほかならなかった、自己言及的なシステムにおいては、真偽は「決定不可能」である。ラッセルはロジカルタイピングによってそれを禁止するが、ゲーデルは、ほかならぬラッセル・ホワイトヘッドの『プリンキピア・マテマティカ(数学原理)』そのものに、あのパラドックスを不可避的なものとして見出す。彼の証明の巧妙さは、簡単にいうと、メタレベルに属する命題表現を自然数(1,2,3...)で置換(ナンバリング)することで、自然数そのものの自己言及的(セルフ・リファレンシャル)なシステムをつくってあるということにあるといえる。証明は複雑だが、要するに、彼は「形式主義」を外から解体したのではなく、それ自身の内部に「決定不可能性」を見出すことによって、その基礎の不在を証明したのである。
 (中略)
 アメリカのコンピューター科学者ダグラス・ホッフシュタッターは、自然数論あるいは数学基礎論に限定されていたゲーデル的問題を、いわばメタファーとして拡大して、『ゲーデル・エッシャー・バッハ(1979)』を書いた。彼自身その中でこういっている。「ゲーデルの定理は、セルフ・イメージを持った(自己言及的な)形式体系には根本的な限界があることを示している...もしゲーデルの定理を、文字通り心理学やその他の科学の言語に翻訳するよりもむしろ、それをメタファーとして、インスピレーションの源として用いるならば、多分それは心理学やその他の領域で新しい真理を示唆しうるだろう。(『隠喩としての建築(1983年)』柄谷行人 講談社学術文庫)

 「世界は客観的に存在する」?この確信のもとに、キリスト教という予定調和的建築物を後にし,実存主義的不安と戦いながら,世界を自分の目で見てみようと一人冒険に旅立ったコギト。沈んでいた大陸が次々と浮上し,新しい地平に西洋とはまるで異なる建物を目の当たりにしては驚愕し,自分の言葉が通じないそこの住人達の「野生の思考(パンセソバージュ)」に触れては混乱し,おのれのうちに無意識という見知らぬ他者を発見しては恐怖しながらも,コギトは懸命に,世界の全貌と輪郭を理性を用いて明確に理解し,それを言葉によって再構築しようとしてきた。だが,ロジックにロジックを重ねてたどり着いたのが,理性と言語による自己言及的システム,すなわち世界という再構築物の「決定不可能性」だったとは!全存在を賭けて言語的に構築した世界像が,ヨーロッパという特殊な文化が持つ「ロゴス中心主義」というプリズムによって焦点化された蜃気楼でしかなかったとは!相対化の旅の果てに,コギトは仮構された世界像が流砂の中に消え失せるのを茫然と眺めながら,絶望的不安のまっただ中,ただ戸惑うばかりである。
 自己言及的形式体系の真偽は「決定不能」である。従って,究極的な真理などない。他者という「失われた1/2(alternatives)」は現実世界の背後に不気味に広がる未決の闇の奥深くに飲み込まれてしまった。もう永遠にもとに戻ることはない。

 立原「礼子,本当は僕が誰なのか分からないんだ」
 紅谷「えっ?」
 立原「天皇じゃない予感なんてずっとあったんだ。でも,天皇じゃないんなら,僕は何なのか分からないんだ。立原雅人という名前は分かった。でもそれは,僕にとって,空虚な記号でしかないんだ。立原雅人と口に中で繰り返しても,僕には何の感情も湧かないんだ」
 紅谷「大丈夫よ,大丈夫。時間をかけて,ゆっくりと自分を取り戻していきましょう」
 立原「違うんだ,礼子。僕は知ってしまったんだ。本当の僕なんかないんだってことを」
 紅谷「えっ?」
 立原「僕は僕の中にいくら旅を続けても,本当の僕なんか存在しないんだ。ただ立原雅人と書いた箱の中には,風が吹いているだけなんだ」
 紅谷「雅人」
 立原「でもそれが当然のように思えるんだ。当然だと思えるのに,不安で不安でたまらないんだ。自分が何者か分からない不安じゃない。僕は,自分が何者でもないと知った途端,不安で不安でたまらないんだ。僕は不安そのものなんだ」



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題

2006-06-18 22:28:17 | 21世紀姉妹

21 左の写真は、我が家の“21世紀姉妹”。
岩波に、具体的な人物写真は載せないようにしたい・なんて言いながら、まるで普通のブログのように親バカ・バカーな写真を載せてしまった。

すまん。
もうきっと載せませんから、少しだけ書かせてくれ。

実は今日6月18日は“父の日”だったらしく、夕食の時、二人からプレゼントとメッセージをいただいたのだ。
プレゼントは『くつした』。イオンで3足2,000円だったらしい。高級品だよ、うれしいね。

そしてメッセージ。

里菜の手紙は、こんな感じ。
『父に送る言葉は“謝”。色々なことで心配かけてごめんねと「謝る」の“謝”。そして、今まで育ててくれてありがとうと「感謝」の気持ちをこめての“謝”。里菜より』。
愛里の手紙は、こんな風。
『パパへ。土曜日、日曜日、べんきょうおしえてくれてアリガトウ。パパのおかげで、あたまが、ほんのすこしよくなってきたよ。ありがとう。あいりより』。

「父に送る言葉」だって。ポロリ。
「パパのおかげ」だって。ポロリ。

すまん。
閑話休題。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦う (1)

2006-06-17 01:28:05 | 札幌SKY

Photo_6 7月の人事異動で、会社から部長職につくように・という辞令をうけた。
決して誤解してほしくないのだが、そんな話を自慢するために今この文章を餃子倶楽部に書いているのではない。
否、正直に言うと 俺だって凡庸な人間ですから、欲もあれば時として見栄をはりたくなる。
ハハハハハ、どうだユカリ、『シンはアホだぁボケだぁ』と言われ続けたけどな、それでも部長にだってなれたりするのだよぉ。そもそも俺は放送研究会の会長をだって務めあげたんだかんな、ダハハハハ。

なんだかなぁ。

大学で4年間ボートを漕ぎ続けた体育会系の後輩、上鹿渡(カミカド)にこう言われた。
「いいっすか先輩。部長になったからって、変わっちゃっちゃぁダメっすよ。
マジでいいっすか先輩。社会心理学の用語で「ラベリング理論」ってのを知ってますか、先輩。
あのっすね、人間なんて、ラベルが貼られると、中身はちっとも変わっちゃぁいないのに、急にそれっぽい立ち居振る舞いをし始めるんすよ。弱いっすよ人間なんて。いいっすか先輩。変わっちゃぁダメっすよ」。

うるさいっての。放っといてくれっつうのよ。

辞令をうけたその日から、『酒浸りの日々』が始まった。言い訳ではないが、餃子倶楽部に駄文をUPすることを怠っていたのも、そんな理由だよ、喜泰。毎晩飲み続けだよ。そして、今この文章を書いているこの瞬間も俺は酔っている。まだしばらく続きそうだよ、こんな暮らしが。
相手は役員をはじめとした部長・局長クラスだ。「いいか、部長ってのはなぁ・・・」、「おまえはもっと・・・」、「これからおまえは・・・」、ススキノの夜、“スナックさをり”で俺はピシリと背筋をのばし、手は両膝においてそんな暖かいお言葉を真顔で拝聴した。そして上司の言葉一言一言の委細を聞き漏らさぬようフリをしながら キチンと相槌をうち、 相手の目をギロリと見つめてこう返事をした。
「わかりました」、「なるほど」、「ありがとうございます」、「がんばります」。
ほろ酔い気分でタクシーに乗り込む上司に対し、俺は頭を45度傾げ、最後にこうも言ったね。
「おつかれさまです。また明日お願いします。失礼します」。

一人ポツネンと取り残された後、タクシーの赤く光る“空車”という文字の列を横目でみめながら、俺はトボトボと石山通りまで歩いてみる。他人のタバコの臭いが染み付いたシワクチャのスーツを肩にかけながら、アルコールに浸かってマッタリボヨンとした脳みそを少し振ってみた。
そして奥歯につまったピーナツを舌で取り出しながら フと東の空を見る。
なんだ、もう空が明るいじゃねぇか。
朝焼けを横切るカラスの群れを見つめていると、同じような朝の景色を20年前の六本木で何度となく見ていた事を思い出した。あの日の脳みそもマッタリボヨンとしていたはずだ。

あと何度、俺はこんな朝焼けを見るのだろう。

歩き疲れてタクシーに乗り込んだ。もう、足まで酒で浮腫んでしまって うまく歩けない。
窓を少しだけ開け、水割り臭い自分の息を大きく外にフーっと吐き出しながら、このままアルコールに浸かった脳が機能しなくなったら 一体全体どうしよう・そんなことを俺は考えてみる。
そもそも1,000mg程度しかない脳の中に意識は存在するのだろうか、心って一体どこにあるのだろうか。
そして、本当に俺は生きているのだろうか。

『今、君が見たり感じたりしているもの、それを“現実”というのなら、“現実”とは脳による電気信号の解釈でしかないのだ』。映画“マトリックス”の中でモーフィアスはネオにそう呟いた。
赤いクスリを飲み込むことによって、1999年の疑うすべもない平和な暮らしから解き放たれ、コクーン状の培養液からネオが目覚めたのは、地球上におけるコンピュータの支配が進んだ2199年。救世主であることを宿命づけられたネオは、そしてエージェントとの戦いを繰り広げてゆく。

しかし、果たしてネオが見ていた1999年がバーチュアルな世界であって、地底深くで隠れるように人類が暮らす2199年の今が“現実”である・という保証を誰が出来得るのだろう。
モーフィアスの言葉をそのまま借りれば、2199年の“現実”だって、“脳による電気信号の解釈”でしかない。そのあたりに残る自己矛盾をどのように解釈すべきかをウォシャウスキー兄弟は棚に上げたままである。まるでケプラーが提唱したホムンクルス(小人理論=「外界のイメージが網膜に結像して、その網膜を頭の中の小人が見ている」=小人の中にはまた小人がいるのか)の考え方から一歩も踏み出てやしないじゃないか。

『今、私の目の前に広がっている牧場の景色は、私の外にあると思っているけれど、本当は私のこの小さな頭蓋骨の中にしか存在しない。私の頬をなでているこの風も、実は私の小さな頭蓋骨の中にあるニューロンの発火の結果生ずる現象に過ぎないのだ。私は、私の心は、どうあがいても、この頭蓋骨の中の狭い空間から逃れることができない(「クオリア入門」茂木健一郎)』

しかしながら、依然として客観的に表像として現れる物質の色や匂いや肌触りの存在など、我々の感覚を特徴づける独特な質感を茂木は『クオリア』と呼び、脳の中のニューロンの活動という物質的過程から、どのように質感が生まれてくるのか・そういった心脳問題に対し、茂木は『クオリア』という考え方を通じて独自の解釈で切り込んでゆく(仮説の組み立てである。クリアカットな答えは出ていない)。

今、こうして生活しているこの世の中(時空)は果たして本当に存在しているのだろうか。

毎週土曜日の夜は、空手の稽古に通っている。平日も水曜日は仕事が早く終われば道場に通うことにしている。そして通い始めてから なんと、2年が経過してしまった。
習い始めた当初と比較すれば、受け返しと捌きが幾分となくできるようになったので、病院へ駆け込みたくなるほどの激痛は減ったものの、今でも手足を中心とした全身の打撲痛と、さらには過度の柔軟による股関節の痛みは相も変わらず慢性的にある。つまり、常にカラダのどこかが『痛い』。うまく言えないのがもどかしいが、『痛い』ものは『痛い』としか表現の仕様がない。
稽古へ向かう道すがら、俺はいつもこう思っている。「一体全体、なぜ空手なんかを始めてしまったのだろう」と。空手なんかを始めなければ、特段肉体的な痛みのない平穏無事な生活ができたのかもしれない。
そして、こうも思っている。「あぁ、今日の稽古は休んでしまおう」と。休んでしまって、ビールを飲んでいればどんなにかマッタリボヨンとした気分を楽しめたことだろう。
実際、愚かな俺は自分に負けて稽古をサボってしまうときが、多々ある。

でもなぜか、不思議と「辞めてしまおう」という気持ちには 幸か不幸かなったことがない。

毎年7月末に、北海道で最大規模のフルコンタクト空手大会が開催される。俺がお世話になっている正道はもちろんのこと 様々な流派から数多くの精鋭たちが送り込まれ、ガチンコ勝負で繰り広げられる大会なのだが、今年の大会にはマスターズクラス(35歳以上の部)に出場してみたらどうだろうか・と、日頃指導をつけていただいている先生からうれしい(辛い)お言葉を頂戴した。

文字通り「四十の手習い」である。しかも、黄帯である。まさかこの俺が大会に出て戦うなんてことは想像すらもしなかった(今でも うまく解釈できていない)。ましてや正道の胴着で出る以上、みっともない試合なんかできやしない。
俺なんかには“まだまだ無理っすぅ”という気持ちが正直なところだが、「自分の実力がどの程度なのか試してみたい」し、「この年でトーナメントに参加できるなんて稀有で貴重な体験だ」と思う。あとは7月の会社機構改革で俺の仕事も大きく変わって忙しくなる気配が濃厚な中、大会が開催される日曜日に仕事が休めるだろうか・という現実的な問題はある。

でも、大会に出ようと思う。

週末のジョギングも欠かさず続けている。稽古でも20代相手に吐きそうになりながら必死でスパーリングを続けている。自分を信じ、実力以上を出し切れるよう、あと1ヶ月 歯を食いしばって稽古を続けてみるのもイイかもしれない。

ススキノの朝焼けを見つめながら茫漠と感じていたことなんかは、中途半端なセンチメンタリズムでしかなくて、“でも生きている”というリアリティは空手の稽古を通じて感ずる『痛み』で実感となって俺のカラダの中にしみこんでゆく。

(きっと、つづく)

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする