ヘーゲルは自他の同一性と差異性の問題を絶対知の中に解消し,時間の中の同一性と差異性の問題を現前(根源としての意味),ロゴス(論理的な秩序,言葉が本当に語っている内容)の中に回収した。つまり,この世界に生じているさまざまな差異をそのまま受容するのではなく,より大きな同一性の中に回収することが歴史の機能であり,人間の理性の役割であると考えた。最終的にはすべての差異性は解消され,時間性は失われ,絶対知が現れる。その根拠として,ヘーゲルは世界に生起するすべての事象の背後に永遠不変の明確な真理,すなわちロゴスの存在をあげた。ロゴスが世界を絶対知の創造と歴史の終焉に導くのである。
しかし,デリダは世界をそのようには考えず,ニーチェの「世界はテクストである」という見方に同意する。これは,世界がロゴスによって成立していたとしても,決して現前することはないということを意味する。先に述べたように,世界とは,すなわち現実とは既に言葉で編まれたものであり,既に解釈されたテクストとして現前するのである。我々に可能なのは,「世界の解釈」の解釈でしかない。
今ここで我々に差し出されているテクストが書かれるにあたって,存在した対象は何か。それも,決してロゴスの現前などではなく,一瞬前のテクストなのである。その前は,そしてその前は?こうした問いを何重に積み重ねていっても,テクストの無限連鎖が現れるだけで,始源は見えてこない。「そのテクストを最初に書いたのは誰か」という問いは永遠の謎として残ってしまうのである。それゆえ,テクストの終着を探っても,同様に徒労である。テクストの連鎖は過去から未来へ続く連続体を構成するだけで,始まりも終わりもない。
そこで,デリダが企てることは,テクストの連鎖を自由に横断し,戯れることだ。世界の始源あるいは終末の幻想を構築するのではなく,戯れが生み出す「ズレ」の中に,きらめきの中に世界の生成の瞬間を見いだそうとする。これが脱構築のイメージだ。
テクストの戯れの中で世界は一瞬,その相貌を垣間見せるかも知れない。しかし,そのきらめきのすぐ後に,世界は一瞬も止まることなくその姿を差異化させ続ける。脱構築は,こうして我々に不断の戯れの実践を要求する。
立原「違うんだ,礼子…それは君の妄想なんだ」
紅谷「えっ?」
立原「あのとき,薬を握りしめていたのは,君なんだ」
立原「やめろ!やめるんだ!」
紅谷「放して!私を死なせて。お願いだから死なせて!」
(中略)
立原「君は誰からも責められてなんかいない!君は君なんだ。君が君を許すんだ!」
紅谷「嘘よ!悪魔は絶対に私を許さないの!どこまでも私を追いかけてくるのよ!私は死ぬしかないのよ!」
立原「見るんだ,礼子!目を背けるんじゃない!悪魔の顔をしっかりと見るんだ!逃げないで,悪魔の顔を見るんだ!」
(中略)
紅谷「いやよ!悪魔の目を見たら,私は悪魔に殺されてしまうの!」
立原「見るんだ!」
紅谷「……お母さん!お母さん!許して,私を許して!私は何もしてないの!お母さんに言われるようなことは何もしてないの!」
立原「そうだ。悪魔じゃない。お母さんだ!君は何も叱られるようなことはしていない。大丈夫だ,お母さんは君をもう叱ったりしないよ」
紅谷「いいえ!お母さんが許すはずがないわ!私はいけない事をしたの!私は死ぬしかないの!」
立原「僕が守ってやる!お母さんが叱りにきても,僕が礼子のお母さんから守ってやる!」
(中略)
紅谷「ずっと?」
立原「ずっと」
後藤「はい,薬の時間ですよ。紅谷さん,大丈夫ですか。さあ,二人とも,薬を飲んで寝ましょう…以上が,現在の患者の状態です。二人は,お互いに医者と患者を演じあうことによって妄想を膨らませています。その役割は固定的ではなく,ある時は患者,ある時は医者と使い分けているようです。しかし,私は妄想で作り上げた二人の関係の中に,ある種の真実があるように思えてしかたないのです。二人の揺れ動く関係の中から,あるしっかりとした真実を見つけだすために,私は二人を見続けようと思っています」
3人の現実と妄想という鏡が乱反射させる複数の立像。どれが現実で,どれが妄想かは当事者にも,もちろん観客にもわからない。だが,3人の現実と妄想というテクストの連鎖の中に,その脈絡もない自由な横断の中に,すなわちその戯れとそれが生み出す「ズレ」の中に,一瞬きらめきが宿る。それこそが世界生成の瞬間のきらめきである。
鴻上氏は『トランス』の序文である「[新版]に寄せて」においてこう語る。
2005年に『トランス』を上演する意味は何ですか?」とよく聞かれました。僕自身,100%の確信があって上演を決めたわけではありません。ただこんなふうには言えます。
2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ以降,2005年のロンドン同時爆破テロも含めて,「イスラムが悪いのか,アメリカが悪いのか」「ブッシュは正しいのか,間違っているのか」というどっちが真実なのかという問いが立てられ続けています。
それは,『トランス』の「誰が医者なのか」「誰が患者なのか」という真実を追究する方向と重ね合わせられます。
けれど,『トランス』は,最終的には,誰が患者で誰が医者かわからない構図になっています。それは,つまり,誰が医者とか患者という真実はわからないけれど,もっと違う種類の真実-「あなたが私を必要としている」とか「私はあなたの側にいる」とかの真実-がより大切なんじゃないかと感じるからです。
予測不可能の不安定な社会で,「アメリカとイスラム,どっちが正しいのか」という問いに強引に答えを出し,その確からしさにすがるのではなく,別の種類の確からしさに気づくことが,人間の可能性なんじゃないかと考えるのです。
それは,目の前に一人の人間がいること,その人間と目が合い,その人間の何かを感じること,そういう種類の確からしさではないかと思うのです。
爆弾のスイッチを押す時,ニュース映像を見る時,隣人と話す時,,「どちらが政治的に正しいのか」という真実を追究するのではなく,「あなたは何を求めているのか」「私は何を感じているのか」という方向の真実を求めることに希望を感じるのです。
乱立する無数の鏡像に混乱する観客が,それでもなおそこにリアリズムを越えて感じることができる「確からしさ」とは,雅人と礼子と参三のそれぞれがお互いを必要としているという「視線」である。論理や客観や理性とは別の次元の,決して言葉に還元することのできない3人の「意思」である。
私は君(たち)を必要としている-不確実な世界にあって,それだけは確実だと『トランス』は言うのである。だが,確実かどうかを決定するためには、外在的な視点、高次(メタ)の言語が必要となってくる。前述のように、ある形式体系の証明はその体系の中では決して得られないのである。しかし、メタ言語によってそれを証明したとしても、そのメタ言語に対する再批判が必要となれば,さらにメタ・メタ言語を設定しなければならないのであって、最初に生じた矛盾を避けることはできない。ホッフシュタッターはそれを「不思議な円環 (strange loop)」と,デリダはそれを「差延(differance)」と呼んだ。それは,まるで合わせ鏡に映る鏡像において,鏡の中の鏡が中心に向かって無限に連続してゆくように,際限なく引き延ばされてゆく。
従って,言語によっては何も確実だと言えはしないのだけれども,3人が抱える妄想は決して孤立したものではなく、残酷な現実との接触の結果、要請されたものであるがゆえに,現実とは相補的な関係にあり、戯曲『トランス』においてはそうした説明不能な現実や事実が、やはり確証不可能な虚構とパラレルとなって語られている。現実と妄想や現実の不断のダイナミックな緊張から、世界は絶えず差異化された意味を析出しているのであり、『トランス』は事実と虚構を用いて現実世界の混乱の本質と構造を示すと共に、現実世界を審美的次元で<脱構築>する手法のひとつを提示し得たと言っていいだろう。
『トランス』は文学史に名を残すべき,ポストモダン文学の傑作である。
立原「違うんだ。参三。それは,お前の妄想なんだ」
後藤「えっ?」
立原「傷ついたお前は,医者である私の首を絞めた…錯乱したお前は,私の首を愛する人のものだと思いこんで……参三,思い出すんだ!お前は誰を愛していたんだ?お前の愛はどうなっていたんだ!」
(中略)
後藤「…あなたも,あなたもなのね…私の愛した人はみんな私から去っていく。どうして,どうしてなの!どうして嘘をつくの!どうして私を裏切るの!どうしてもう愛してないなんて言えるの!…他の人の所に行くぐらいなら,私はあなたと一緒に!」
立原「参三!」
立原。後藤のほおをぴしゃりと叩き,そして,ぎゅっと抱きしめる。
『トランス』挿入歌,ブルーハーツ「夕暮れ」(作詞・作曲甲本ヒロト)
はっきりさせなくてもいい あやふやなまんまでいい
僕たちはなんとなく 幸せになるんだ
何年たってもいい 遠く離れてもいい
独りぼっちじゃないぜ ウィンクするぜ
夕暮れが僕のドアをノックする頃に
あなたを「ぎゅっ」と抱きたくなってる
幻なんかじゃない 人生は夢じゃない
僕たちははっきりと生きてるんだ
夕焼け空は赤い 炎のように赤い
この星の半分を真っ赤に染めた
それよりももっと赤い血が
体中を流れてるんだぜ
立原「…参三,お前の愛した人はもういないんだ」
後藤「雅人…」
立原「…だけど,僕はここにいる」
紅谷「いいえ,それはあなたの妄想です」
(中略)
紅谷「参三,しようがないじゃないの」
後藤「ほっといてよ…いいのよ。悔しいけど,雅人はあんたにあげるわ」
紅谷「えっ,何言ってるの?」
後藤「あんた達なら,きっとうまくいくわよ,あたしのカンは当たるんだから」
紅谷「ちょっと待ってよ」
後藤「いいじゃない,初めての男に戻るってことよ」
(中略)
後藤「私,雅人と礼子の愛の行方を見たいの」
紅谷「何言ってるの。それは参三の妄想よ」
後藤「妄想でいいのよ,愛なんて,そもそも妄想みたいなものでしょう…妄想なのに,こんなに苦しいのよ。妄想なのに,真実なのよ」
私の愛する人は
精神を病んでいます。
ですが,私は
とても
幸福です。
あなたが私を必要とする限り
私は変わり続けられるのです。
私があなたを愛する限り
あなたは私の大切な人なのです。
あなたが何に傷つき
あなたでなくなったか
あなたの哀しみの深さを
私は知りません。
ですが,あなたが私を必要としていることだけは
私は分かります。
あなたがどんな妄想に生きようと
私を必要としていることだけは
分かるのです。
そしてそれは
どんな妄想より大切な
真実なのです。
そして
あなたのそばに私がいること
私のそばにあなたがいること
すべてはそこから始まるのです。
私の愛する人は
精神を病んでいます。
ですが 私は
とても
幸福です。