餃子倶楽部

あぁ、今日もビールがおいしい。

思い出のグリーングラス

2008-03-29 10:50:04 | Speak, Gyoza
 「思い出のグリーン・グリーン・グラス・オブ・ホーム」
 相当に有名な曲なのだろうが,恥ずかしながら僕はこの最終コーラス部分しか知らなかった。「Iユm dreaming of a white Christmasノンーンーンー,ンーンーンンー」と冒頭部分しか歌えない「ホワイトクリスマス」とどっこいどっこいだ。
 この歌で知られる日本人の歌い手は森山良子さんであるが,調べてみるとその歌詞がわかった。


 「思い出のグリーングラス」(作詩 J.Hall・山上路夫 ,作曲 C.Putman)

 汽車から降りたら 小さな駅で
 迎えてくれる ママとパパ
 手をふりながら呼ぶのは
 彼の姿なの
 思い出のグリーン・グリーン・グラス・オブ・ホーム
 帰った私をむかえてくれるの
 思い出のグリーン・グリーン・グラス・オブ・ホーム

 昔と同じの 我が家の姿
 庭にそびえる 樫の木よ
 子供の頃に のぼった
 枝もそのままよ
 思い出のグリーン・グリーン・グラス・オブ・ホーム

 悲しい夢みて 泣いてた私
 ひとり都会で迷ったの
 生まれ故郷に立ったら
 夢がさめたのよ
 思い出のグリーン・グリーン・グラス・オブ・ホーム

 笑顔でだれもむかえてくれるの
 思い出のグリーン・グリーン・グラス・オブ・ホーム

 笑顔でだれもむかえてくれるの
 思い出のグリーン・グリーン・グラス・オブ・ホーム

 長い間,故郷を離れていた女が帰郷する。小さな駅では年老いた両親が彼女を優しく迎えてくれる。傍らでは懐かしい彼が元気に手を振っている。昔と少しも変わらない我が家の庭には,やはり変わらずに昔握った枝もそのままに樫の木が立っている。ひとり都会に出て,青春の蹉跌を噛みしめた彼女。再び故郷に帰ったそのとき,夢から,それも悪い夢から覚める思いがしたはずだ。みんなが笑顔で自分を迎えてくれるし,懐かしい故郷の緑も思い出のままだったのだから。
 この曲のスイートなメロディラインにふさわしい何と郷愁をかきたてる詞であることか。

 「思い出のグリーングラス」の原曲は英語だということはなんとなく知っていたように思う。音楽に詳しい知人に聞いてみると,この曲は1960年代の中頃にトム・ジョーンズがヒットさせたものだということがわかった。
 トム・ジョーンズという大物ヴォーカリストの名前はもちろん僕も知っていた。おそらくそうとは知らずに彼の歌う曲を耳にしたことは何度もあるのだろうが,積極的に聞いてみようと思ったことはこれまでなかった。この際,一度聞いてみようか。何より「思い出のグリーングラス」の英語の詞を知りたいし…
 タワーレコードで貯めたポイントを使って「トム・ジョーンズ グレイテストヒッツ」を買ってきた。2600円もした。
 「思い出のグリーングラス」は5曲目に入っていた。
 ライナーノーツにはこうある。
 「5.思い出のグリーン・グラス…1966年,イギリスで1位(ミリオンセラー),アメリカで11意になった曲。仔猫ちゃん(「何かいいことないか仔猫ちゃん」という同名映画のテーマ曲。1965年にヒットしたらしい)とはまたガラリと変わった鷹揚なシンガーっぷりが見事」
 そして「思い出のグリーングラス」の英語の詞-

          Green, Green Grass Of Home

 The old home town looks the same
 As I step down from the train
 And there to meet me is my mama and my papa
 Down the road I look and there runs Mary
 Hair of gold and lips like cherries
 It's good to touch the green, green grass of home

 Yes, they'll all come to meet me
 Arms reaching, smiling sweetly
 It's good to touch the green, green grass of home

 The old house is still standing
 Though the paint is cracked and dry
 And there's that old oak tree that I used to play on
 Down the lane I walk with my sweet Mary
 Hair of gold and lips like cherries
 It's good to touch the green, green grass of home

 (Spoken)
 Then I awake and look around me
 At four grey walls that surround me
 And I realize, yes, I was only dreaming
 For there's a guard and there's a sad old padre
 Arm-in-arm we'll walk at daybreak-
 Again I'll touch the green, green grass of home

 Yes, they'll all come to see me
 In the shade of an old oak tree
 As they lay me neath the green, green grass of home

 汽車から降りると,懐かしい故郷の街は何一つ同じままのように見える
 ママとパパが私を迎えに来ている
 道路に目をやると,メアリーが走ってくる
 金色の髪とさくらんぼうのような唇
 緑,そして緑の故郷の草に触れることができてよかった

 そうさ,みんなが私に会いに来てくれるだろう
 腕を伸ばし,優しく微笑みながら
 緑,そして緑の故郷の草に触れることができてよかった

 壁のペンキはひび割れて乾いてしまっていても
 懐かしい家は今でもそこにある
 そして昔よく登って遊んだ懐かしい樫の木もある
 かわいいメアリーと一緒に小道を歩いてゆく
 金色の髪とさくらんぼうのような唇
 緑,そして緑の故郷の草に触れることができてよかった

 (語り)
 そして目が覚め,あたりを見回す
 灰色の四面の壁が私を取り囲んでいる
 そして私は気づく
 ただ夢を見ていただけだってことを
 だって看守がいるし,悲しげな老神父がいるのだから
 夜明けには腕を組まれ,私は歩いてゆくだろう
 またもう一度,緑,そして緑の故郷の草に触れることができるんだ

 そうさ, あの懐かしい樫の木の木陰で
 みんなが私に会いに来てくれるだろう
 緑,そして緑の故郷の草の下に私を横たえてくれるときに

 故郷の人たちと緑を懐かしく思うというテーマは同じなのだが,森山良子さんの歌う歌詞の内容とは著しく違っている。日本語版では,故郷を離れ,都会でつらい思いをした女が主題であったが,原語の方は男だ。
 衝撃的なのは「語り」の部分である。故郷を思う夢から覚めると灰色の四面の壁が男を取り囲んでいる。傍らには看守(guard)と悲しげな老神父(a sad old padre)がいて,夜が明ければ男は2人に腕を取られて歩いてゆくことを男は知っている。どこへ?灰色の壁,看守,老神父…考えられるのは一つ,死刑台だ。つまり,Green, Green Grass Of Homeは死刑囚が処刑前夜に見た故郷の夢を歌った悲しい物語であったのだ。
 男はどんな罪を犯したのだろう。人を殺したのだろうか。この曲は反戦歌手であるジョーン・バエズも好んで歌ったものであるというから,男は戦争にかかわっていたのだろうか。故郷の大きな樫の木は南部の大農場を連想させる。だとすれば南北戦争に関係しているのかも知れない。アメリカ深南部において自由と奴隷という矛盾,不条理に巻き込まれて男は人を殺してしまったのだろうか。どれも推測の域を出るものではない。
 詞からわかるのは,男がどんな罪を犯したにせよ,それは死刑を宣せられるほどの重罪であったということだけだ。男は都会での挫折とは比べものにならないほどの苦悩と苦しみを抱え,今処刑台へ向かおうとしている。そんな男の願いはただ一つ。生への執着ではなく,あの懐かしい樫の木の木陰で懐かしい故郷の人たちに見守られながら,「思い出のグリーングラス」の下で永久の眠りにつくことだけである。
 何と壮絶な詞であることか!

 それにしても,と僕は思う。なぜ「樫の木」なのであろうか。人生の最後を目前にして,思い浮かべる故郷の風景の象徴がなぜ「樫の木」なのであろうか。
 前に,テレビ東京で放送された「ゲルニカ」のことを紹介したときにも樫の木が登場した。
 「もうここに勤めて何年になるんだろうな。この町のシンボル,バスクの議事堂に。昔からこの地方の政治をまとめていた由緒ある議事堂なんだ。そしてもう一つ」と一人の男性が木に向かって語りかけます。「今日もお元気ですか。雨の日も風の日もあなたはここに勤めて600年になるんですなあ。全く頭が下がりますよ。あなたもこの町のシンボルでしたね。樹齢600年の古い樫の木のあなた。昔はあなたの下にバスクの長老が集ったそうですってね。そう,あなた,この町のことは何だって知っている。喜びも悲しみも。あの日起こったことも。あの日はまさに地獄だったって。ああ,でも何であのことを描いた絵にピカソさんは議事堂もあなたも描かなかったんでしょうね。ゲルニカの絵だってわからないじゃないですか。あの人,この町のこと,どう思ってんだか」
 西洋人にとって「樫の木」には何か特別な思いがあるのだろうか。


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橋から橋へ500キロ─“弥次喜多”夫婦の珍道中 51

2008-03-25 10:52:41 | 回帰線
 12時ちょうど、「宇頭町」交差点を右に曲がって、国道1号とは、しばしおさらば。
 しかし、街道を進んで行くにつれ、どうも様子がおかしい。旧道にしては、この道は新しすぎる。ガイドブックにある常夜燈も見えてこない。和子は道を間違えたのではないか。
 だが和子は「この道のはず」と言い張った。ぼくの“嗅覚”は異を唱える。誰かに道を訊こうにも、あたりにはまったく人影がない。たまに車が通りすぎるのみ。とうとう走ってきた小型トラックを無理やり止め、旧東海道の道を訊ねた。
「ああ、旧東海道はこの道の突き当たりです」と、やさしそうな若者が愛想よく教えてくれる。
 ぼくらは、いま来た道を左に曲がり、教えられた道を進んだ。やがて、
「ほら、松並木が見えてきた」
「あっ、ほんとだ!これ、この感じ!これ以外ない!」
 どうやら和子は国道を道ひとつ先に右折してしまったみたいである。
「どうも失礼しました」
「お前としては珍しいね。あんな新しい道路に来ちゃったら、これまで培った嗅覚で、これ東海道じゃないって、わかりそうなものなのに」
「わたし、思いこみが激しいんですよね」
 12時30分、松並木のつづく街道の右側に熊野神社が見えてきた。広々として人っ子ひとりいない閑静な神社。お昼ご飯には最適だ。境内の石造りのベンチに座って昼食。陽も出てきた。
和子は野菜サラダとツナパン(!)。ぼくは冷やし中華とナタデココ・ヨーグルト。しかし食べ終わったあとも、どうも何か物足りない。和子がバックパックから羊羹を取り出し、「これ、食べなさい」と、その一切れを差し出した。
「なに、これ?どこかで買ってたなあ。それをいままで持ってたの?」
「江尻宿だったっけ」
 どうりで和子のバックパックは膨れあがっているわけだ。さっきも神社に着く前、自宅から出てきた土地のおじさんが和子を見ながら、笑みを浮かべつつ両手で目の前に大きな輪を描いた。この仕草でもっておじさんは、「大きな荷物を背負ってるねえ」と伝えたかったのだろう。しかし、どうしておじさんはみずからの口でもってそれを伝えなかったのだろう?
 12時50分、街道の道行きを再スタート。熊野神社を去るとき、神社の前に「一里塚跡」の碑が立っていることに気づいた。もうたいがいの一里塚の碑にも、江戸日本橋から何番目であるかを記してはいない。
「400キロ記念のとき、わかるかなあ?」ぼくは心配になった。
「わかりますよ」
「どうやって?」
「ピリリッと」
 松並木は終わってきた。
 1時、道路の右側に立派な松が2本並び立っていた。それぞれの松には、「助さん」「挌さん」の名札がつけられ、わきの案内板には、「三河路に 昔をしのぶ 夫婦松 佳人」の句が記されてある。
「“夫婦松“と言いながら、“助さん”“挌さん”って命名はないよな。どうせなら“弥次さん”“喜多さん”にすればいいのに」
「男同士だもの、同じようなものじゃない」
「弥次さんと喜多さんは江戸に来る前の静岡時代はホモ関係にあったんだよ。“夫婦同然”ってやつだ」
「“ワコリン”と“マサリン”にすればいいのに」
「知名度がないなあ」
 “ワコリン”は和子のいう和子自身のこと、“マサリン”はぼくに対する和子の愛称である。
 1時10分、街道の左側に「永安寺の雲竜の松」が見えてきた。「クロマツの巨木は中心の幹が上にのびず、分かれた幹が地をはうようにのびて、その形が雲を得てまさに天に昇ろうとする竜を思わせる」から「雲竜の松」。
「こんな松、はじめて見た。松って上にいくものでしょ、こんなの、ありえない。大蛇が重なってとぐろを巻いてるみたい。ちょっと気持ち悪いかも」
 むしろぼくはこの寺に祀られている「霊」に感動した。庄屋の柴田助太夫は貧しい村民のために助郷役の免除を願い出て刑死したという。むかし日本には、ごく稀にせよ、貧しい村民のために命を賭す庄屋がいたのだ。奉行所の与力でありながら、窮民を救うために兵を挙げた大塩平八郎もそうだった。

 左に明治川神社を見ながら県道を横切って進む。
 1時20分、ふたたび松並木がはじまった。「東海道の松並木を守ろう」の柱が距離を置いて立てられている。
「いい天気になりましたねえ」
 日差しが強いくらい。よく整備された松並木はかなり長かった。
「先生、頭、大丈夫?」
「頭の中身?」
「違う、外身。頭が太陽の熱をそっくり吸収して、ジリジリいってるよ」
「それほど照ってはいないだろ」
「照ってるよ」
「ガングロおやじに磨きがかかるかな」
 1時45分、ふたたび松並木はじまる。5分後、猿渡川を渡った。
 2時、街道の左側に「来迎寺一里塚」。一里塚は1604年の家康の命令で五街道に一里ごとに一里塚がもうけられて以来、街道の両側に塚が造られてきた。しかしいまはほとんど「一里塚跡」の碑が残るのみで、塚の残っているところは少ない。ましてや本来の道の両側の塚が残っているところなど、これまでも数えるほどしかなかった。ここの一里塚は、道路両側の塚が残っている。
「ほら、先生、見て。むかいの公民館の陰に隠れているけど、あそこにも塚があるよ!」
 そして、それぞれの塚にはちゃんと木が植えられていた。塚の上の樹木は、家康の滑舌の悪さからか、榎の植えられることが多いのだが、ここの一里塚は代々松が植えられたといわれる。大きさは直径約11メートル、高さ約3メートル。
 一里塚の案内板のとなりに、地元の来迎寺小学校の生徒数人の手になる小さな案内板も立っていた。それには、「この塚は北と南、両方ほぼ完全に残っており、日本中探してもほかにはありません」と、なかなか好ましい古里自慢が小学生の字で記されている。しかし小学生には申し訳ないけど、ぼくには保土ヶ谷宿の先の品濃一里塚のほうが江戸時代の形をよりよく伝えている気がしました。
 そして、これだけの塚だから、江戸から何番目の一里塚に当たるかも、ちゃんと記されていた。「江戸日本橋から数えて89番目」。89×4=356キロ。
「この前の300キロから、もう56キロも来てるんだよ!」
「ほんと、早いですねえ」
 だいたい来迎寺という名前がすごい。しかし、もはや現世にふたたび仏陀の来迎などないかのごとく、来迎寺はいまは存在せず、ただ建立の碑が残るのみ。
 安城市のこのあたりはカキツバタで有名。来迎寺一里塚の前の無量寿寺では、まさにカキツバタ祭の真っ最中。境内の八橋カキツバタ園ではカキツバタが見事なことだろう。しかし、
「わたし、カキツバタ、嫌い。あれが来ると、花札、必ず負けるんだもの」
 ぼくもあまりカキツバタには未練がない。ということで、パス。


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Beer Junkie

2008-03-20 23:11:58 | お便り

千葉県在住で3児の父、伝説のドラマー岩波くんから、
メールが届いた。

『せっかーくんへ。

 先日うちのバンドが木更津でライヴやりました。
 DVDを送るので、是非見た感想をお聞かせ願えればと思います。

 2、3日中にはそっちに着くと思います。
 ちなみにバンド名は、Hondaが転勤になって、
 「GIVE ME ANOTHER BEER」から
 「BEER JUNKIE」に変わっています。 』

なるほど、ライブ(ヴ)か。
あいかわらず突然な男だ。

で、今朝、本当にDVDが届いた。

□      □      □      □      □      □

Beer_junkie_2

以前、これまた突然に岩波からこんなメールが届いた。

「せっかーくん、『ビール、もう一杯!」は、英語に
すると何てゆうの?」

答えに窮した僕はそのままキヤポンにメールを転送。
その結果、キヤポンからの返信で書かれてきた英文が
「GIVE ME ANOTHER BEER」だったのだ。

そうか、名前が変わったのか。
まぁ、“ビール”という言葉はキチンと残されていて、とてもいいね。

送られてきたDVDには、曲目が書き記されていた。

1 : Beer Junkie
2 : Deuce
3 : 20th century Boy
4 : Mr.Cab Driver
5 : Are You Gonna Go My Way
6 : Lock On
( Live in GRAPH Kisarazu  2008.3.15)

(へぇ、先週の土曜日じゃんか)
遅い朝ご飯を食べ終わった後、僕はパジャマ姿のまま
DVDをセットし、ソファーに座ってリモコンの再生ボタンを押した。

*     *     *

画面センターに、伝説のドラマー岩波がカラダと首を左に大きく傾げ、
一心にドラムを叩く姿が飛び込んできた。

一曲目は、オリジナルであろうか、曲の歌詞がよく聞き取れなかったが、
「日々の仕事に追いかけられて、夕空を見上げると、ビールがおいしいぜ~♪」
みたいな感じだろうか、イイ感じのロックに仕上がっていた。

そしてT.REXの「20th century boy」。
モクモクとドラムを叩く岩波がヤケにカッコよく見えてきた。

日々の仕事に追われて忙しい、でも、家では3人の子供たちの笑顔を見ながら
飲むビールをこよなく愛する良き “パパ” 岩波。
そんなオヤジ天才ドラマーが、「20th century boy」を演奏する。

20th century toy, I wanna be your boy.

だけど、僕にはこんな風に聞こえた。

20th century boy, I wanna be a young boy.

*     *     *

Photo

そして曲は LENNY KRAVITZ へ。

おかしい。
僕の知っている岩波はこんなカッコイイ男ではない。

六本木のABCで、杉山清貴の「君のハートはマリンブルー」を
こぶし握りしめながら涙目で歌っていたはずで、
決して LENNY KRAVITZ のコピーをするような男では
なかったのだ。

*     *     *

岩波 達(ススム)、まもなく45歳。

かっ、カッコよすぎる。

(青帯の僕も、カッコ、いいんだよーぉ)

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親と似ている

2008-03-17 01:34:38 | 21世紀姉妹

週末、時として21世紀姉妹は 不機嫌になる。

どんな時でしょう。

僕に「少しは勉強しなさい」と言われて、イヤイヤ勉強をし、
問題が根本的にわかっていなくて、叱られるときである。

*      *      *      *

今日、日曜の夕方は里菜の顔がミルミルと不機嫌になっていった。
週1回通っている塾の「算数の宿題がわからない」から教えてくれと
僕に言ってきたときだ。

□     □     □

それではみなさん、みなさんも一緒に考えてください。
ただし、考えるのは解答ではありません。
教え方です。

いいですか、第1問。

1)仕入値が4000円の品物に38%の利益を見込んでつけた
  定価はいくらですか?

 里菜は首を傾げ、こう答える。
 「4000×0.38…?」

 「ちがうでしょ。それは利益の額じゃん。」

 「あ、そうか。
 じゃぁ、4000×0.38が…(筆算中)…1520だから、
 4000+1520で5520円だ。」

 「そう、正解!だけど、一発の式で答えられるよね。」

 「…」

 「仕入値を1とした時に、38%の利益を見込むんだから、
 定価は仕入れ値にいくつをかければいいの?」

 「…」

 「だぁ、かぁ、らぁ…いい?…(メモ紙に図を書く)…この四角が仕入れ値でしょ。
 仕入れ値はいくらよ?」

 「4000円…」

 「そう。で、この横にひっついた四角が利益で0.38でしょ。
 じゃぁ、最初のこの箱はいくつ?」

 「0.62…」

 「ちがうじゃん!引いちゃダメじゃん。」

 「…」

 「1じゃん!!」

 「あっ、わかった。4000×1.38だ。」

 「そう!早くそう答えてくれよ!」

□     □     □

続きまして、第2問。

2)ある品物を定価の2割引きで売ったときの売り値は1360円です。
 品物の定価はいくらでしたか?

 里菜はチンプンカンプン、まるでやる気なさげにこう答える。
 「わかんない…」

 「(どう説明するか思案中の僕)…」

 「…」

 「まず、定価をエックスだとするじゃんか…」

 「…」

 「そのエックスに対して2割引きなんだから、いくつをかけたら1360円になるの?」

 「…0.2」

 「ちがうじゃん!0.2は引いた値段でしょ!」

 「…0.8」

 「そう!0.8!
 だから、エックス×0.8は?」

 「…」

 「えっ、わかんないの?
 エックス×0.8はいくらか、って、聞いてんの!」

 「…1360円」

 「そう!じゃぁ、エックスは?」

 「…1360×0.8?」

 「おまえ、それじゃぁ定価のほうが売り値より安くなっちゃうじゃんか!
 ちゃんと頭を使って考えろよ!
 いいか!エックスは?」

 「1360÷0.8?」

 「そう!」

□     □     □

この第2問の時点で、里菜が百分率という概念を理解していないことが
よくわかってしまった。
僕は、なるべく怒らないようにしよう、声を大きくしたところで里菜を委縮させる
ばかりで、なんの得にもならないんだ、そう思い、強く自分に言い聞かせた。

そして第3問。

3)ある品物に、仕入れ値の4割の利益をみこんで定価をつけましたが、
 定価の2割5分引きで売ったところ、利益が90円になりました。
 この品物の仕入れ値は何円ですか。

 「…」

 「…」

 「…」

 「あのね…、これはもうエックスを使って解くしかないと思うんだけど、
 学校とか塾で、エックスって使った?」

 「そんなの習ってない…」

 「そもそも、おまえさぁ、百分率とかって習ったの?!」

 「まだ…」

 「じゃぁ、なんでやってんのよ?!」

 「塾の予習…」

 「…」

 「わかんないんだったら、やってもムダじゃん!!もういいよ、やんなくて!!」

里菜は口を尖らせたまま、ソファから立ち上がった。

そして(バン!)と大きな音をさせてリビングのドアを閉めたかと思うと、
そのドアの向こうで、今度は自分の部屋のドアを(バン!)、力任せに閉めた。
そしてしばらくの間、部屋から出てこなかった。

ここで僕は反省した。

そもそも第3問目は、自分自身すらが、即座に答えることができなかった。
つまり、百分率に関しては里菜に教えるレベルではなかったこと、
そして、せっかく父親の教えを乞うた娘に対して、もう少しわかりやすい
教え方がなかったものなのだろうか と。

難しい。

*      *      *      *

小学4年生に進級した春、僕は近所の学習塾に通い始めた。

塾は楽しかった。
学校の授業よりも教え方が上手く、読解力や計算力、応用力が
ついてゆくのが実感でき、そのことがとてもうれしかった。
学校のテストなんてカンタンに思えた。

当時は四谷大塚をはじめとした進学塾がたくさんできたころで、
受験ブームであった。
そんな時代の中で、僕に塾に通うことを進めたのは母だった(と思う)。

母は勉強に厳しかった。
わからない問題があると、「なんでそんなのができないの!」と、
大きな声で叱られた。
よく叱る母を見ながら、(お母さんは勉強のできない俺が嫌いなんだ)と、
子供心に、そう、よく思ったものだ。

今となっては、問題をうまく解けない子供を嫌いになるはずがないことは、
よくわかる。

と同時に、叱ってしまう親の気持ちも、
そして叱られる子の気持ちも、よくわかる。

*      *      *      *

この春、里菜は小学6年生に。
この春、愛里は小学4年生に。

コメント (3)
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橋から橋へ500キロ─“弥次喜多”夫婦の珍道中 50

2008-03-16 17:41:55 | 回帰線
     「物足りない、ぜんぜん疲れてない!」
         5月11日(木曜日)

 昨夜6時半より11時半、朝は2時より朝5時まで、計8時間の睡眠時間。
 血糖値は、111。
「えっ、どうして?やはりビールがいけないのかしら?」
「ビールよりもむしろあのバターカレーのバターの量だなあ」
 7時、ロビーわきのレストランで朝食。ご飯1膳、生卵、カマスの焼き物・小さな牛肉の味噌煮(中部地区だけあって、味噌はさすが八丁味噌であった)・山菜の皿、海苔、味噌汁。
「午前中は雨、のち晴れ」の天気予報。
 今日は岡崎宿から池鯉鮒(知立)宿まで行くことにする。
 ホテルにタクシーを呼んでもらい、昨日の冠木門まで連れていってもらった。

 9時半、岡崎宿の「二十七曲がり」からスタート。
 若宮町から歩きはじめ、両町へ。小雨が降ってきたのだ、傘をさす。「岡崎城下二十七曲 両町より伝馬町角」の道標のあるところを右折。
 60メートルほど進んで突き当たりを左折、「伝馬通り」をしばし直進。角に生花店「ハナイチ」がある。これが本陣跡のはず。店主に訊くと、「ここが本陣跡であることは間違いありませんが、その碑はありませんね」との答え。さらに「伝馬通り」を進む。
 10時、道路の右側に「一里塚」。大名行列を迎えるときの住民への作法の伝達を述べた「作法触れ」、往時の豆腐を模した現在の和菓子の由来を述べた「あわ雪茶屋」、歴史的に名高い「矢作橋」などを説明した案内板が路傍に立っている。「矢作橋」の説明板の立っている眼鏡店が、これも碑は立ってないけれど、「脇本陣跡」のはず。
 「西本陣前之角」の道標を左に折れる。50メートルほどで右に曲がり、道標にいう「西京いせ道」にはいる。
 道路の右側に、「煉瓦造りの、現存する最古の大正時代の建築物」たる「岡崎資料館」が建っている。
 ぶつかった県道の真ん中の安全地帯に、「総門跡」の碑と、その籠田総門の模型とが立っていた。家康が岡崎城の城門出入り口として建てさせた門である。このあたりは岡崎城の外堀のあったところ。
 総門跡が安全地帯に立つ県道を右折、すぐに突き当たりを斜め左に曲がって「籠田公園」を進み、また左に折れる。
 道標はそれなりに整備されてはいる。しかし、「往時の宿場町の現在における繁栄度は、現在に残された往時の面影と反比例する」というぼくの法則に従うと、岡崎宿の面影はどこにも残されていない。ただ現代的な大きな都市の街路の“紆余曲折”があるのみ。
「こうグチャグチャ入り組んでいると、多少とも腹立たしくなってくるね」
「外敵の進入を防ぐためだから、仕方ないですよ」
「わかってるよ、それは。しかし、400年後にこの宿場町を訪ねる者の身にもなってくれよ」
 西に折れたあと、「連尺通」を400メートルほど進み、「本町通り」を渡った先を右折。角にファッションビルの建つ「岡崎城対面門前角」の碑を右折し、突き当たりの「材木町本木戸」を斜め右にはいる。ガイドブックを頼りに、あの道だ、いや、こっちだと、「二十七曲」を辿るのは並大抵の苦労ではない。
「家康は、石橋を叩いて渡る、用意周到な、粘液質の、イヤなやつだね」
「そうですね」和子も同意した。
「しかし、だからこそ世界の歴史にも例のない、260年間にもわたる平和な時代の礎を築くことができたんだろうな」
 少し進んで、「材木町角」の道標を左折し、「木まち通り」を歩く。伊賀川橋にぶつかって、「材木町より下肴町角」を左折、川縁の道を歩いた。いま川の流れているところは、昔は埋め立て地であったという。逆のケースは多いと思うけど。
 雨は止んできた。
「これで晴れてくれるといいですね」
「空も明るくなったし、これはもう大丈夫じゃないか」
 「下肴町より田町角」を右折し、三清橋を渡る。橋を渡り終えたところで和子がガイドブックを見ながら、
「わあっ、これからが複雑!」と叫んだ。
「ええっ、これからが?もうじゅうぶんに複雑だったよ」
 橋を渡って左折し、ジグザグに複雑に折れ進んで、国道1号にぶつかり、国道を横切って、「八丁蔵通り」へとはいる。10時50分、やっと「東海道」の道標が現れた。やっと二十七曲が終わってくれたか。と思ったら、いや、まだあった。「板屋町角」の道標。そこを右折。
 街道を歩いていると、天から降ったか、地から湧いたか、おじさんがどこからともなく現れ、和子に3種類ものパンフレットを押しつけながら、
「いまNHKで『純情きらり』やってるけん、見てくれんかねえ。この先でロケやってるけん、見とってくれんかねえ」という。
 見てやんねえ。
 八丁町を進んだ。このあたりは岡崎城から八丁離れていたので、この町名があるという。
 県道248号を突っ切り、「松葉総門跡」の碑を見ながら「松葉通り」を直進した。
 愛知環状鉄道のガードをくぐったあたりから、「八丁味噌の郷」にはいってくる。白塗りの蔵がつづく。観光客のおばさんたちの団体も見える。
「俺は八丁味噌、好きじゃないから、素通りしたい」
「わたしも!なんか妙な甘みがある」
 昨夕のカレーも、インド人の作るインド料理のくせに妙な甘みがあり、和子は顔をしかめていた。
 しかし和子は岡崎名物のみたらし団子と五平餅は食べるつもりでいた。岡崎に子供時代を過ごした酒井くんが、メールでもって教えてくれていたのだ─
「家康が生まれた岡崎城は、いまは“岡崎公園”となっています。公園内のいくつかの売店に行くと、“みたらし団子”も“五平餅”も食べることができます。僕は、岡崎に行くたびに寄り道をしています。もし、お好きでしたら、どうぞ」
 ごめん、酒井くん。けっきょく東海道を辿ることに専念しているぼくらは、岡崎城をパスしてしまった。ぼくは昔、個人的に城回りをしたときに岡崎城は訪ねているし、和子はお城にあまり興味はなく、それに二十七の角を曲がっているときはまだお腹が空いてなかった。複雑怪奇な「二十七曲がり」を辿っていると、腹は“減って”くるんじゃなくて“立って”くる。

 「八丁蔵通り」の突き当たりを右折、国道1号にぶつかって左折する。すぐ目の前に矢作川に架かる橋があった。数日来の雨を集め矢作川はまさに滔々と流れている。橋を渡り終えたところに、日吉丸(秀吉の幼名)と蜂須賀小六の出逢いにちなんだ「出会い之像」が立っていた。だが当時、矢作川に橋は架かっていなかったから、あの勇ましい故事自体はなかったらしい。
「でもなあ、蜂須賀家は幼い秀吉に偶然出逢うことによって、明治まで男爵としてずっと子孫がつづいたらしいよ」
 矢作川橋のあと国道1号と別れ、右に折れて県道44号にはいった。
 このあと東海道は国道1号と付いたり離れたりしながら、同じ西にむかって伸びる。
 11時20分、街道の右側に「誓願寺十王堂」が見えた。矢作の里の兼高長者の娘、浄瑠璃姫は源義経を恋慕するのあまり菅生(すごう)川に身を投じ、長者は娘の遺体をこの寺に埋葬したとか。義経は一夜の契りをむすんだ娘を棄てて、平家を討つべく西京にのぼっていったのか。もてるやつだ。しかし娘も娘だ、いくら自分を棄てた武将が恋しいからといって、わざわざ入水自殺したりするなよな。これも日吉丸と蜂須賀小六の出会い同様、作り話と思うことにしよう。
 11時30分、国道1号に“再会”し、右折。
 右折した角にあったコンビニで昼食の買い物をする。また歩きはじめるてから和子が、
「どうですか、先生、大丈夫?」
「大丈夫だよ。昨日はじゅうぶんに睡眠がとれたし、元気だと思う」
「朝も先生の顔、すがすがしくて、いい感じだった。昨日の夜はなんだかやつれて、げっそりした顔して、心配になっちゃったけど」
「でもダメだねえ。今回の旅は意識と肉体を改造する修行旅行のつもりだったのに、なんだか物見遊山的に楽しんじゃってる。克己の心がどこにもない」
「いいじゃないですか、楽しめたら。修行とかなんとか、頑張る必要ないって」
「でも、こうやって毎日必死に歩いているのが、あまり意味なくなっちゃうじゃないか」
「だったら、お酒、止めなさい」
「そのことを言ってるんだけどね」



コメント
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