餃子倶楽部

あぁ、今日もビールがおいしい。

白金ガ鳴ル 10

2006-05-28 21:35:56 | 白金ガ鳴ル
 1984年ゴールデン・ウィーク前の土曜日,目黒駅改札正面伝言板の片隅にはこんなメッセージが書かれていたはずだ。

 放研 MGBS 
 新歓コンパ

 さらに店の名前と電話番号,および開始時刻まで記されていたかも知れない。だが,もちろん僕はそれらを覚えていない。先週末に行った酒場の名前さえ僕の記憶から消されてしまっているのだ。
 目黒駅伝言板とて,とっくの昔に抹殺されている。
 「駅の伝言板」というものを知っているかどうか,今の僕の仕事場にやってくる大学生たちに訊いてみた。知らない,ネットで見たことがあるような気がする,と彼らは答えた。パソコンや携帯電話のディスプレイに現れるもの以外は知らないらしい。何と,テレビもあまり見ないと言うのだ。駅の伝言板を抹殺し,手紙を安楽死させ,テレビの首に手を掛けている主犯が当の携帯電話だとは!

 ?  ?  ?

 ただ一人カツさんだけは新歓コンパの行われた店の名を記憶しているかも知れない。その店はカツさんが働いていた銀座のパブだったからだ。カツさんは当時,3年生の放研部員だった
 大学を卒業し,いい年になり,何度かカツさんがマネージャーを務める店に行った。シンがわざわざだか,偶然だか探り当てたのだ。まったく,こいつは。そこは,それほど高価なものを注文した覚えはなくとも,お店の女性従業員と話をしていると,瞬く間に請求額が一次関数的に上昇してゆくスリリングな場所だった。もっとも,カツさんなりの心遣いはところどころに感じられはしたのだけれども。
 有楽町のガード下にある「バーデンバーデン」で,まだ夕闇の残る客の姿もない開店時,ドイツのホフブロイという生ビールをよーし飲み始めたぞと,ああうまいぞ!と思っていると,いつの間にか店は満員になっていたりしたものだった。誰が言い出したのか,気がつくと僕たちは深夜の六本木にいたりしたものだった。その頃,カツさんが働いていた店が六本木界隈にあったからだ。
 アルバイトの学生たちに,「クラブ」を知っているかと訊いた。「クラブですか?」と,「ラブ」にアクセントを置いて,訊き返された。
 ディスコというやたらと騒々しい大箱を沈黙させたのは,90年代のバブル景気崩壊による「失われた10年」だった。ひとつの共同幻想が霧散し,目の前の現実が徐々に荒涼とした世界へと変貌してゆく。漠然と感じられていた不安がやがて恐怖の叫びを上げ,慌ただしく遮蔽フィールドを形成する。その剥き出しの不安を包む閉鎖的空間がアルバイト学生たちの言う「クラブ」や,携帯電話という小箱であったのでないだろうか。マジョリティ文化が臨界点を越え,無数のマイノリティ文化へと核分裂してゆく。そして無限に増殖するマイノリティという新たな次元の共同幻想が誕生する。アングルが政治から経済・金融に移行しただけで,何のことはない60年代アメリカを再演していただけだ。
 言うまでもないことだと思うけれど,30代の僕たちがやや錯乱気味に深夜に叩いていたのは,アルバイトの学生たちが言う「クラブ」のドアではない。

 ?  ?  ?

 スケキヨがフロアで首をねじ曲げながら苦しそうにもがいていた。彼に言わせると,「ひっくり返ったカメが元へ戻るところ」を演じていたそうだ。放研の新歓コンパでは,新入生は何かひとつ芸を披露しなければならないことになっていたからだ。
 僕は歌は下手だし,楽器も弾けない。手品だって出来やしないし,ましてや「ひっくり返ったカメが元へ戻るところ」を演じることもできない。順番が来る前に,早く何かを考えつかなきゃ。
 例によって,僕は,突然親とはぐれてしまった野ネズミのような気分になっていた。
 どうしよ。どうしよ。どうしよ。
 そのとき,ユカリが僕の名前を呼んで,オイデオイデをしていた。
 ユカリとジュンコが,六本木のカツさんの店で従業員がしていたように,ヨウスケさんを挟んで座っていた。ユカリとジュンコは僕と同じ新入生で,ヨウスケさんは4年生の放研OBだった。放研では新歓コンパに4年生も参加することになっていて,ユカリたちはヨウスケさんの相手をしていたというわけだ。3年後,僕も新歓コンパに参加した。だが,そのとき僕の相手をしてくれたのは1年下の,つまり3年生になったばかりのボブだった。
 「そこに座って,ヨウスケさんにお酌して」とユカリが言うので,僕はそうした。「ほら,自己紹介しなさい」と続けざまにユカリが親ネズミのように言うので,やはり僕はそうした。
 ジュンコが僕の前にグラスを置くと,ヨウスケさんがビールを注いでくれた。
 「ヨウスケさんも,もっと飲んで下さあーい」とジュンコが黒目がちな瞳をちょっと潤ませて,ビール瓶を両手で抱えた。
 「いやあ,君にそう言われると,ついつい飲んじゃうね」とヨウスケさんは努めて落ち着いた口調で言いながらも,グラスに残ったビールを一気に飲み干した。3年後,僕がボブと話をしている頃,シンとカズユキはヨウスケさんと同じことをする。こちらは落ち着きなどということは一瞬たりとも思い浮かべることなく,思い切りウレシそうに。

 ?  ?  ?

 何気なく見逃してしまいそうなシーンだが,おそらくこれが「クラッシャー・ジュンコ伝説」の最初の1滴である。
 良家のお嬢様らしい清楚な笑顔で,「もっと飲んで下さあーい」とジュンコがビール瓶をかざすと,大抵の男は浮かれてグラスを空にする。耳を澄ませば,そのとき「カーン!」とゴングが打ち鳴らされる音が聞こえるはずだ。「スゴーイ!もっと飲んで飲んで!あたしも飲んじゃおうかな」などと口元からチャーミングな八重歯をのぞかせつつ,ジュンコがグラスを差し出すと,男たちは「おおっ!いいねえ」と喜色満面,「オットット」などとグラスにビールを注いでやる。「ハイ,そっちも飲んでね」と再びジュンコがビール瓶を持ち上げる。男たちはいよいよ逆上してグラスを空にする。いつしか,ビール瓶が一升瓶に,ウイスキーのボトルに変身してゆく。もう走り出したら止まらない。ブレーキの壊れた車のように,男たちは倒れるまでグラスを呷り続ける。おそろしい。僕はこれまで,一体何人の男たちが「クラッシャー・ジュンコ」を前に崩れ落ちてゆくのを見てきただろうか。ちなみに,シンとカズユキと僕も幾度となくジュンコの前に倒れていったものだった。しかし,僕たちの場合はたんなる自滅だった。
 僕たちが2年のときの夏合宿で,「クラッシャー・ジュンコ伝説」は真夏の絶頂に到達する。大広間に設けられた宴会場で,ある者はテーブルに突っ伏し,ある者は仰向けに眠りこけ,またある者はごみ箱を抱え,そしてまたある者は寝ゲロ防止用のビニール袋をかぶせられている。その死屍累々たる瓦礫の中を,一升瓶を片手に持ったジュンコが行進してゆく。僕は薄れゆく意識の中,その光景をまるで映画のワンシーンのように眺めていた。

 僕が演出してもいいのなら,新歓コンパでヨウスケさんとマツダさんを相手にしているシーンを皮切りに,3年生のクニさん,タケナリさん,2年生のケイさん,ノダさん,マツオさん(文連)たちが微笑むジュンコを前に次々とグラスを傾ける映像をコラージュしてゆく。BGMは,スメタナ作曲「モルダウ」だ。(ジュンコを前にシンがビールを手酌で注いではぐいぐいと飲んでゆくカット,たまプラーザの駅でシンがジュンコを見送るカットを挿入)そして僕らの代になるとジュンコの手には一升瓶が握られ,イワナミのコップにお酒がなみなみと注がれてゆく。(自滅するカネコのカットを挿入)イワナミは何杯も何杯もコップを空にし,ついにはコップを握りしめたままうなだれてしまう(ジュンコを前にカズユキが日本酒を自らどんどん飲んでいくカット,たまプラーザの駅でカズユキがジュンコを見送るカットを挿入)イワナミの手から転がり落ちるコップ。「モルダウ」がクライマックスに達する頃,この夏合宿のシーンへ。1年のヒデキ,ケイタロウ,ボブ,リキマ,オオマサ,カメたちが次々に倒れ,ヨロヨロと空のビール瓶を倒しつつ,瓦礫の中をゆくジュンコ。「モルダウ」のクライマックスが終わる頃,画面をフェイドアウトさせつつ,真夏の輝く太陽をフェイドイン,そして真っ白にフェイドアウト。

 ?  ?  ?

 「高校球児だったんですよ」とユカリがヨウスケさんに,僕のことを指して言った。
 「甲子園,行ったの?」とヨウスケさん。
 「いえ,そのちょっと手前まで」
 「ん?どこらあたりまで?」とヨウスケさんが訊くので,僕は3年前の夏の話をした。あまり思い出したくはない夏だったが,ヨウスケさんは話を合わせるのも,聞くのも上手で,僕は気がつくとあれこれと演技を交えて喋っていた。途中でやはり4年生のマツダさんも加わり,ユカリとジュンコは2人の4年生に一生懸命お酌をしていた。そんなことで静かに盛り上がっているうちに終わりの時間が来た。おかげで,僕はできもしない芸をしたあげく,みんなの前で恥をかかなくて済んだ。
 ユカリ,あのとき僕をテーブルに呼んでくれてありがとう。それとも,初めからそうしてくれるよう,打ち合わせておいたんだっけ?

 ?  ?  ?

 この頃,僕はユカリと仲が良かった。
 新歓コンパが終わり,5月のある週末に初めての年次会があった。年次会とは同学年のサークル部員による親睦会のことで,場所は年次長に選ばれたシンがアレンジした。「ラ・スカラ」という渋谷にあったディスコだった。
 その帰り道,公園通りをぞろぞろと連なる84年度放研部員たちのスナップショット。このスナップショットを虫眼鏡でのぞき込めば,僕はたぶんユカリと肩を並べて歩いているはずだ。僕は目も細く,マユミが言うには「でかくて,コエエ」顔をしているので,どの写真の顔も不機嫌そうに見えるが,僕は僕なりに楽しんではいるのだ。踊りなど踊れないが,このときももっとよく虫眼鏡を見れば,楽しんでいるように見えなくもないはずだ。
 携帯電話はさまざまなものの息の根を止めたが,スナップショットの息の根を止めることだけはできない。
 あるときまで,僕の机の引き出しにはこのときにもらってきた「ラ・スカラ」のキーホルダーが入っていた。もちろん,今はない。

 「昔あの丘の上に風車小屋があった。今はない。だが,風は今も吹いている」と以前どこかで誰かが言っていた。                (す)


コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元気な花

2006-05-25 00:55:12 | お便り

Photo_1 ということで、新しいカテゴリを作ってみました。
カテゴリ名は“一枚の写真”です。

このコーナーが続けば、タイトル名が“恒例、一枚の写真”に変わります。そう、『ぴったしカンカン』の久米宏を思い出しますね。何が言いたいかわかりますか、伊東さん。そう、ちゃんと定期的に送るのだよ。
それでは伊東さんからのお便りです。

『アスファルトの隙間から元気に花を咲かせていました』

2~3年前まで、僕は「がんばる」という言葉が嫌いでした。なんだか唯我的なベタベタ感が気持ち悪く感じられて。人が「がんばれ!」なんて言葉を誰かに言っているのをみると、(ケッ!)と思い、胸糞が悪くなるときもありました。
でも、最近はちょっとだけ「がんばろう」と思ったりします。

小さな声で自分に「よし、がんばろう」。
誰かの横で、囁くように「よし、がんばろう」。
口をヘの字に曲げながら 控えめにボソボソっと言ってみると、少しだけ楽になったりします。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2001年のアホ夏

2006-05-23 21:07:40 | Speak, Gyoza
 「手首が変な方向にまがっていた。見たことのない状態になっていたので,普通のケガではないと思った」と松井選手は後に語った。
 先週の金曜日,つまり日本時間5月12日午前8時過ぎ,レッドソックス戦が始まって間もなく,ご承知のように松井選手に突然のアクシデントが襲いかかった。ヤンキースファンが"Terrible..." , "Ican't see it againt..."と呟いたあのシーンである。アナウンサーは「手首をひねりましたか。大事には至らなければいいのですが」とのんきなことを言っていたが,リプレイを見るまでもなく,手首が「変な」,曲がってはいけない方向に曲がってしまったことは明らかだった。僕の中では細胞に刻印された,「グッゴゴゴゴゴッ」という音が再生された。つまり,骨の折れる音が。
 僕が初めて骨折を経験したのは。中1のときだった。僕は野球部だったのだが,校内予選に勝ち残り,市の「走り高跳び・中1の部」に出場していた。中学では背面跳びを教わってはいなかったのだが,140,145とバーが上がるにつれて,オーソドックスな「はさみ跳び」や,「ベリーロール」では対応できなくなっていった。僕ははさみ跳びの体勢から極端に背を反らせる,言わば「横面跳び」のような初めて試すスタイルでバーを越えようとしていた。当時のマットは無数のスポンジをネットでくるんだものだった。150センチの最後の試技に失敗した僕は,バーと共にそのスポンジの上に落下していった。反射的に右手をつこうとすると,僕の右手はネットにからめ取られ,その上に身体がのしかかってしまった。「グッゴゴゴゴゴッ」という鈍い感触と残響が僕の細胞に刻み込まれた。県中地区大会進出を逃した僕は,夕暮れの中,そのまま自転車をこいで帰宅した。時間が経つにつれて,痛みと腫れが増していった。父親が僕の手首をのぞき込み,「早く病院行って来い」と言った。僕は再び自転車にまたがり,病院へと向かい,帰りもまた自転車で帰宅した。ただし,右手を堅いギプスに覆われて。

          ◆

 時は流れ,2001年夏,僕はいつの間にか37歳になっていた。

 7月16日月曜9時、何も「月9」の新番組が始まるわけでもなく,僕はこのシーズン最後の仕事を早稲田で終えた。
 帰宅するやいなや,すばやくシャワーを浴び、身体を洗うのももどかしく、そして身体を拭くのもそこそこに冷蔵庫方面へとヨロヨロと接近して行った?一刻も早く。冷蔵庫の野菜室から冷えた「モルツ」を取り出し、グラスに注ぎ、泡が落ち着くまでいつものように耐えた。そしてその間にお祈りをした?みんなに神のお恵みを。思えば僕はいつも他人のためのお祈りばかりしている。そうかあ、それがいけなかったのかな。でもこのときはおのれに降りかかる運命のことなどもちろん知る由もなく、ただ目を閉じて一気飲みし、クーッなどと唸っていたのである。
 
 Blessed ignorance!  知らぬが仏 

 奥の部屋からザックを取り出し、僕はパッキングを始めた。翌朝から2泊3日の予定で山と沢に行くことになっているのだ。登攀と寝食と釣りに関する基本装備をザックに詰め込んだ。
 忘れ物はないだろうかと点検していると、電話が鳴った。今江のアニイからだった。
 
          ◆
 
 今江アニイは沢と山とサッカーに熟練した男で,一昨年僕はある仕事場でアニイのことを知った。お互い顔を見れば挨拶をする程度であったのだが、その年度のシーズン最後に一杯やろうということになった。アニイの言葉を借りると「お互い何の期待もしない」まま、半ばこの世界の義理として酒場に向かった。オリオンビールを片手に、沖縄料理をつまみつつ、お互いの景気状況について話してしまうと共通の話題は尽きてしまったかに思えた。どうしたものか。
 アニイもそんな気配を察知したのか、パクリとラフテイ(角煮)にかじりつきつつ言った。
 「暇なときは何してんの」
 「うーん、そうですねえ、山ですかねぇ」そう僕が言ったときにアニイの表情が少し動いた。
 「どんな山に行った」
 思いつくままに僕は山の名を挙げた。
 「でも僕の行く山なんてハイキングのようなものですから、本当は登攀の技術が欲しいんですよ。でも山岳会に入れば何かと煩わしいところが出てきそうでいやだし…」
 「そうだな山岳会ってな…」そう言ってアニイはポツリポツリと自分と山、そして友のことを語り始めた。「おれに教えることができるものでいいのなら教えてあげるよ」
 いいぞいいぞ!薄暗い店の中で僕はグングンとビールを飲んだ。頭のどこかで転轍機の鈍い音がグギギギギーと聞こえてきそうだった。

          ◆
 
 「早く来いよ」電話の向こうでアニイが言った。その夜はアニイの家で仮眠し、翌朝早く山に向かうことになっていたのだ。「ええ、あと20分もしたら出ますんで、そうですねえ11時15分ぐらいに駅に迎えに来てもらえますか」「了解」
 ドッセイッ!生き残るためにとりあえず必要なものを詰め込んだザックを背負って、僕は部屋を後にした。

          ◆

 おれの大学時代の先輩にHさんという人がいてな、この人はある日突然にヨーロッパアルプス冬期単独登攀という目標を立てちまった。住みかは4畳半一間、食事はコッヘル、布団がわりのシュラフ。許されるのだったら公園で幕営生活をしてももいいやぐらいに思ってたんじゃないかな。バイトは朝夕の新聞配達と酒屋。新聞配達はマンションの10階であろうと20階であろうと全て駆け昇る。酒屋のビールケースなど待ってましたと喜んで運ぶ。もちろん体力作りのためにな。つまりは生活というものの贅肉を一切そぎ落として、山のために人生の全てをシステム的に収斂させているという、そいういう人だったんだ。多少極端なところはあったかもしれんが、まあ純粋といえば純粋だったなあ。
 そんでついにヨーロッパアルプスに向かうことになるのだが、その前に足慣らしとして厳冬期の北海道利尻岳に行ってくるから、ついては後輩たちで暇なやつは全員集合ということになった。生活用品こそほとんどないものの、余分な山道具処分オークション大会をアパートで開催するというんだ。古いピッケル、ハンマー、アイゼンなどが100円ぐらいから競売にかけられ、どれも700円か800円ぐらいで落札されてった。おれはピッケルを買ったんだけど、あれどうしちまったけな。100円玉や10円玉や、5円玉なんかも、コッヘルの上蓋にガシャカシャガシャンと投げ入れられてったっけ。30分足らずできれいさっぱり売れちまった。四畳半の部屋には見事に何もなくなっちまった。締めて5千円足らず。「今江、これでビール買ってこい」って言われて、ビールを買いに行ったよ。
 買ってきたビールもあっという間になくなり、Hさんがおれに言うんだよ。
 「今江、人生に必要なものなんて全部キスリング(30年前ぐらいに主流だった幅広のザック)ひとつで収まってしまうもんだな」
 「さあ、そんなことはないと思いますけれども」
 その後、Hさんは利尻岳登頂を天候不順で断念し、そのときに軽い凍傷を負ったんで、アルプスは諦めたのかなあと思ってた。
 それからどのぐらい経ったかな、あるときおれは仕事をしながらテレビをつけてたんだ。「木曜スペシャル・密着ヨーロッパ緊急救助隊24時」とか何とかいうのがやっていた。テレビから「バラバラバラバラ…」というヘリコプターの音が聞こえてきて、おれは画面に目をやった。ヘリコプターに救助されて宙吊りになった男が画面に向かって手を振っていた。バカなやつだと思ってテレビを見ていたのだが、男の姿が大映しになったとき、おれは呆然としたよ。Hさん!宙づり男は何とHさんじゃねえか!
 地元の記者が「なぜあなたは無謀にも単独で登攀しようとしたのですか」とHさんに質問していた。「いやあ調子に乗っちゃってえ」となぜか照れ笑いをしながら顰蹙を買うようなことをほざきつつ、画面はCMに変わった。
 Hさんが日本に帰ってきたとき、おれが「ヨーロッパの冬山どうでした」と訊くと、Hさん、やっぱりエヘラエヘラと言ってたっけな。
 「だって僕、登ってないからわかんないもーん」

          ◆
 
 今江さんちでは、奥さんのアッコちゃんがテーブル一杯を使って食料の仕分けをしていた。アッコちゃんは20代後半の小柄な女性で、キャッキャッとよく笑い、崖っぷちでは「ヒエーッ!コエーよ」とお茶目に叫んでしまったりするのだ。それでも度胸と渓流釣りの腕に関しては僕など到底及ばない。去年もこの時期にこの3人で、狩小屋沢という利根川の支流を登りつめて至仏山山頂を踏んだ。
 スモークサーモンを肴に「まあまあどもども」などと意味不明のことをつぶやきつつ,アニイと僕はビールを飲んだ。アニイはパッキングがまだ終わっていなかったらしく、続きを始めたようだ。僕も自分用の昼飯2日分と非常食分のビニールパック3つと、全員用の朝食2食分が詰まった袋を受け取り、ザックにしまった。昼食といっても、煎餅3枚、レーズンビスケット5枚入りパック、それにあめ玉5個ぐらいなもので、まあ行動食といったほうがいいかもしれない。朝食はインスタントラーメンにフリーズドライのお粥だ。インスタントラーメンにはやはりチャルメラが入っていた。アニイの好物らしい。
 午前1時近くになって、パッキング終了。朝5時まで仮眠をとることにした。
 ケーブルテレビの天気予報画面は群馬県に雷雨の可能性があると告げていた。

          ◆
 
 早朝、僕たち3人は「ヤクルトジョア」を1本ずつ飲んでから、2泊3日の渓流釣り登り山行へ出発するためにアニイの4WDワンボックスカーに乗り込んだ。
 目指すは皇海山(すかいさん)。上州深部、奥日光に近い山だ。今回はこの皇海山に一般登山道からではなく、泙川(たにがわ)湯之沢を突き上げて鞍部によじ登り、ピークを踏んだ後、帰りは小田倉沢をずり落ちて来るという、今江さんが積年に渡りあたためてきた渾身の結晶ルートを攻めていこうというわけなのだ。
 コンビニで今日の朝飯と昼飯を各自調達した後、関越自動車道を一気に沼田まで駆け抜けた。高速道路を降りて、山間深くへとどんどん車は進んでいった。やがて舗装道路が途切れ、しばらくゆくと車が止まった。この先にはゲートがあるはずで、そこから先は林業及び気象観測関係者しか入れないことになっているのだ、とアニイが言った。軽い朝食を食べた後?僕はおにぎりを2つ?ガチャものをつけ、渓流シューズを履いた。「ガチャもの」とは、ハーネスという安全ベルトにハーケン、カラビナなどの基本登攀装備をつけて歩くと、ガチャガチャ音がするのでそう呼ばれている。渓流シューズは滑りやすい沢や滝を歩く際、フリクションを利かせるために靴底にフェルト地を貼りつけた特殊仕様靴のことである。つまりそれらは食料、地図と並ぶ生命線なのである。もちろん体力と意志がなければ何も始まりはしないのだけれど。
 ここから2時間あまり入渓地点まで、退屈で楽とは言えないダラダラ登りの林道歩きが待っている。従ってユーモアもまた旅には欠かすことのできない要素なのだ。

 7時半スタート。
 林道は業務用車両の通行以外の用途などただのひとつも考慮に入れてはいないらしく、幾度湾曲した切り通しを越えても平均斜度15度の上り坂がひたすらに続いていた。全くもって論理的な林道だ。
 「まあ一日中続くわけでもなし、山っていいなあ、おおっ日影だ。日影になると風が吹いて来るんだぜ。山って不思議だなあ」今江のアニイは都会にいるときは怖ろしく口の悪い男で、憎まれ口以外聞いたためしがない。同僚が足りない資料を取りに来たりすると「もってけドロボー!」と言って渡したりするし、アッコちゃんのことはたいてい「このバカ!」としか呼ばない。それが山に入ると「山っていいなあ。山って不思議だなあ。原生林ってエラいなあ」などと2, 30回ぐらいは口にする。そして「なっアッコ」と優しく声をかけたりするのだ。
 「うんっ!」

 帰途に判明するのだが、僕たちは泙川へと入る容易な道を見逃してしまったらしく、入渓はけもの道を利用して、木の根や幹にしがみつきつつ急な斜面を下り降りるという最初からなかなかハードなアプローチとなった。
 のんびりと河原を歩ってゆくとすぐに堰堤が現れた。辺りを見回すと急斜面にロープが掛けられていたので、僕たちもそれを利用することにした。ロープをつたって向こう側へ出た。川は曲がりくねっていて、両端は風景から消えていた。さてどっちに進んだらよいものかと考えていると、アニイは不思議そうな顔をして「流れが逆だ」とつぶやいた。ほんとだ。堰堤があったところの高低感で言えば、川は右へ流れているはずなのに、目の前の流れは右から左だ。「世にも奇妙な物語」の音楽が流れ、「曲がり角の向こうは永遠に同じ曲がり角かも知れないのです」というタモリのナレーションが聞こえてきそうだった。地図をにらみつつ、この川はほぼUターンしつつ堰堤へと流れ込んでいるという結論が出て、僕たちは上流へと向かうことにした。
 「いろんなことがあるなあ、山って」そういってアニイは煙草に火をつけた。
 まったくだ。

 その後僕らの山旅は順調に進み、着実に高度を上げていった。
 今江さんはヤマメを5匹も釣り上げ、うち1匹は尺ものだった。僕は生まれて初めてヤマメの刺身を食べた。寿司屋で食べたアイナメに勝るとも劣らない味だった。
 しかし2日目に、沢筋本流を見失いやや不安にかられつつ沢を詰めていったとき、滝の上方でひとつ大きく不気味な落石の音を聞いた。生死の領域に直接響いてくる鋭角的でリアルな音だった。生命の喜びや悲しみなど微塵も関知しない非情な音だった。うわっ逃げろ!山肌に駆け登るとき、凶暴な岩角が一瞬きらめくのが見えた。まるで覗いてはいけない素顔を見てしまった気分だった。尾根筋へと逃げてルートを探そうとしたが、そこも絶壁に阻まれていた。潔く撤退し川を下り、遡行途中でいくつか目星をつけていた幕営適地で一泊することにした。
 
 翌朝。もう後は車まで戻って帰るだけだなと、途中で佐野ラーメンを食って帰るだけだなと、1軒で済ますべきか、余裕があったら2軒目に突入すべきかなどとくだらないことを考えつつ、朝の任務に向かった。そのときである。灌木にはまりこんだ僕の足が「グッゴゴゴゴゴッ」という音を立ててたわんだのは。僕の身体はその衝撃で跳ね返され宙に浮いた。オーバーヘッドキックのように投げだされた足を僕は下から見上げた。ストップモーション。少し奇妙な角度にねじれた僕の足首と木々の輪郭が作る三角形の間には快晴を予想させる早朝の空があった。次の瞬間僕は背中から地面に叩きつけられた。
 そこから数時間,脂汗を流しつつ,歩き続けた。
 僕たちがとっていたルートは一般登山道ではないので,緊急事態が生じても,自分たちの裁量で何とかしなければならない。ヘリコプターの助けなどにすがりつくわけにはゆかない。何しろ1時間につき60万円はかかってしまうのだ。そんなことは絶対にできない。何とか自力で歩いて車までたどり着かねば。
 アニイは苦しく歩いている僕に向かって,「笑え」と言った。「笑うんですか」「そうだ」「ハハハ…」「もっと大きく笑え」「アハハハハハハッ!」
 アニイとアッコちゃんに自分の荷物を持ってもらいながら,杖代わりの流木にすがりつきつつ,僕は下山した。
 アニイなりの激励もあって,何とかかんとか車までたどり着いた。
 「ウンコしに行く途中に骨折してしまった」などと間抜けなことを一体僕はこの夏何度言わなければならないのだろうかと思いながら。

          ◆

 診断結果

 右足首腓骨骨折、全治四週間。

 僕の右足腓骨は螺旋状に割れていた。昔はただギプスをするだけで治したらしいのだと、ミナコ先生という僕の同級生に似た女医さんが説明してくれた。
 「あなたまた山に行きたいんでしょう」「はい」「だったら完璧にしといたほうがいいわよ、手術しなきゃね」「はい面倒をおかけします」「いくつになられました」「37です。済みません」「だったらなおさらね。35ぐらいをすぎると治癒力が落ちるの」「はい、切るなり刻むなりいかようにでもお願いします」
 かくして、30年前に階段から落ちて頭を割って以来の入院生活となった?何だか怪我のアホさレベルはちっとも進歩しとらんな。手術は初めて、ついでにいえば国民健康保険を行使するのも初めてだ。今まで納めた分きっちり回収させていただこう!
 手術をしてくれたのはミナコ先生の旦那さんだ。この先生は週に一度金曜日にだけミナコ先生とそのご両親でやっている板橋のこの病院にやってくるのだが、実は聖マリアンヌ医科大学に勤める優秀な先生なのだ。「論文なんかもたくさん書いている名医なのよ」僕は手術後、看護婦さんにそう聞かされた。その執刀医が僕にレントゲン写真を見せてくれていろいろ丁寧に説明してくれたのだが、僕はボルトでプレートが固定された自分の足の骨を見て、何だか夏休みの図工の宿題のようだなあと思った。

          ◆
 
 8月3日。
 キヤスに迎えに来てもらって、「懐かしい」我が家に帰宅した。突然の入院生活、多少の代償は強いられたにせよ、それはそれでなかなか刺激的な体験であった。食堂、ゲーム、3階のベランダで陽光を浴びながらの読書、夕方4時の「ルパンⅢ世」、まるで学校の放課後のような看護婦さんたちとのバカ話、夕暮れの窓際のベッド、そして誰もいない夜の待合室。何だがこちらも妙に懐かしく、決して忘れることができない風景となってしまった。帰宅途中、スーパーに寄ってもらって、当座の食料を買い込んできた。ウインナー、納豆、カレー、鶏肉、ラーメン、そしてビール。また日常が始まるようだ。

          ◆
 
 9月21日
 「もう松葉杖を使わなくてもいいですよ」
 ミナコ先生の旦那さんである僕の担当医がそう告げた。
 思えば、長く汗ほとばしる、しかしささやかだが多くの発見に満ちた試練の2ヶ月だった。さらば松葉杖の双子君たち。

          ◆
 
 2ヶ月前手術のために入院していたとき、何度か夜中に目をさました。そんなとき、普段とは異なる時間の流れの中で、夜の高速道路などをぼんやりと眺めながら僕は思った。一体僕はどこにゆきたいのだろう、何が欲しいというのだろう。
 もちろん金や名声といった野心なんかじゃなかった。歩けない人間はそんなものを求めたりなんかしない。
 じゃあ健全な身体、健康な生活か。いやそんなものでもなかった。
 足を骨折したということは、身体の部位や器官のいずれかをいつ何時失う可能性だってあるということだ。足があるとかないとか、金があるとかないとか、顔の造作が現代的であるとかないとか、運がいいとか悪いとか、もうそんなことはどうでもいいと思った。人間は多かれ少なかれみんな何らかの限界を抱えているのだ。そうした制限や限界は個人の力ではどうすることもできないのだ。どうせいつかみんな死ぬのだ。
 当たり前のことではあるとは思うのだけれども、いつか死んでしまうという絶対の宿命の中で、不必要なものをひとつひとつ消してゆくと、自分がしたいことといえば、結局つまるところ自分が直面するものを理解することだった。世界を受け入れることだった。松葉杖をつくように一歩一歩その意味をかみしめて生きることだけだった。
 都会の人間はどうしてそんなに急いでいるのだろう。何が不足だというのだろう。
そう思ったはずなのに、確かにそんな世界にはもう戻れないだろうと思ったのに、今では踏切の警報機がカンカン鳴り、遮断機が降り始めると気をとられたりなどしている。
 待てばいいではないか。周囲の時間など勝手に流しておけばいいのだ。

 「人混みに流されて、かわってゆく私をあなたはときどき遠くで叱って」という歌がかつてあった。

 さらば,2001年のアホ夏。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩波 達のこと

2006-05-21 15:06:46 | 札幌SKY

Photo_3

大学時代の友人、岩波が突如として札幌へやってきた。
彼のご両親は現在、札幌に住んでいらっしゃる。札幌には縁もゆかりもない岩波家かと思いきや、海上保安庁にお勤めだった彼の父君が小樽に赴任中、札幌の地に一戸建をご購入なさったとのこと。その頃、
岩波はすでに大学を卒業して東京で働いていたので、彼自身は札幌で暮らしたことはない。
回は入院が長引く母君のお見舞いで週末の札幌入りとなったらしい。ご容体が気になるところである。

ということで、僕たち2人はススキノの外れにある焼き鳥『てれ屋』へ。雑居ビルの3階にあるこぢんまりとした店の主も明学出身。僕たちが1年生のころ、4年生であったハズの店主は「俺は大学にほとんど行かず、バイトばっかをしてたからなぁ」と、首に巻いたタオルで汗をふきながら深く溜息をついた。
一方の僕たちは餃子倶楽部にUPしている「白金ガ鳴ル」のネタ探しのため、2006年5月の札幌から、1984年の白金台へグイグイとトリップ。
「あった!あった!そんなことが!」と雄叫びを挙げる二人が見つめていたその先には、あの頃の白金台や目黒、六本木の風景が映っていた。ケータイ電話もない時代に、よくぞあそこまで連絡を取り合って遊んでいたものだ・そう、感心する僕に岩波は「それはよぉ、信頼関係とよぉ、目黒駅の伝言板よぉ」、ダウンライトの照明めがけてタバコの煙を力強くフゥーっとはきだしながら、うれしそうに岩波は そう呟いた。

「まぁ、あれだな、あの頃って、“楽しさ”ばかりが思い出として残っているよ。だけど、シン。俺たちのやってきたことってさ、今、“社会人の節度ある俺”的にさ、振り返ってみるとさ、結構さ、恥ずかしいな、シン」。

そう、思い出はいつも、少しだけ恥ずかしい。

今の仕事のこと、ご両親のこと、そして3人の子供のことを熱く語り始めた岩波を見つめながら、僕は1984年の六本木ABCパート1でカラオケを歌う岩波の姿を思い出していた。

季節外れの バスが1台
すれちがう 海が見える道
ダッシュボードに 顔を沈めて
君は泣き出してしまったね
危険な恋に 走ったあとで
疲れた君は 帰るのさ

僕の胸に

I WANNA HOLD YOU AGAIN
抱きしめるたび 崩れそうだよ
さびしさを乗せた肩
I WANNA HOLD YOU AGAIN
君の涙が 乾くところは
僕の腕の中 いまでも

杉山清貴&オメガトライブ 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

You've got a friend.

2006-05-18 01:00:59 | 札幌SKY

Photo_2 ご存知ない方も多いと思うが、札幌の小学校では運動会が5月末に開催される。
普通は10月だと思うのだが、札幌の10月ともなると冬の気配がそこかしこに感じられ、日によっては冷え込みも厳しくてとても校庭でお弁当を食べる雰囲気にはなれないからだろう。
そんなリスクを背負ってまでして全国的な慣例である10月に運動会を開催するよりも、長く厳しい冬が終わり、ポカポカとした陽気の続く5~6月にマッタリと運動会はやるべぇ、その方がいいべぇ、みたいなことで、札幌は5月末開催なのではないだろうか。

と、いうことでここ数日の我が家では運動会の話で盛り上がっていた。運動会といえば、そう、リレーである。学校でも、運動会の話題の中心はリレーのことらしい。誰がリレーの選手に選ばれるのか、そんな話で持切りだという。
セキカワ家の21世紀姉妹である里菜4年生 そして愛里2年生は、去年の雪辱を果たして今年こそリレーの選手に選ばれるべく、猪突猛進。公園ではルーン(愛犬のトイプードル)を相手に真剣ガチンコ勝負で競り合ったり、2人でバトンの受け渡し練習をしたりと、鼻息も荒かった(フン!フン!)。

父は去年、この21世紀姉妹に「いいか、おまえら、絶対にリレーの選手になるんだ。おまえたちなら大丈夫」なんてプレッシャーをかけてしまい、特に里菜は1年生、2年生の時と連続して選手に選ばれている関係上、「うん、大丈夫!」なんて息巻いていたが、結果は予選落ち。1年生になった愛里も未知数の可能性に賭けたが、やはり惜しくも予選落ち。2人ともに号泣され、父は海よりも深く深く、(あぁ、あげなプレッシャーになるようなことを言うんでなかっただぁ)と反省したものだ。
したがって今年は、「まぁ、リレーの選手になれたらラッキー。まぁ、がんばってみてくれ。でもね、なれなくてもね、それはそれでさ、いいじゃんか」てな具合。隔靴掻痒な、もどかしい物言いをしてみたりした。

本当はこう言いたかった「おまえら選手になれなかったら承知しねぇぞ!」と。

まず先に愛里の落選が決まった。
「愛里、残念だったね・・・」
「何が?」
「リ、リ、リレーの選手になれなくって・・・」
「ショーがないよ」
「そ、そ、そうだよね、仕様がないよね・・・」。
ドラえもんを読みながらソファーで寝そべり、愛里は呟くように、そう、言った。
父は己の、後を引きずる性格を反省した。一年で大きく成長した愛里をこれからは見習わなければならない。

翌日は里菜の学年である4年生のタイムトライアルがあった。
珍しく早く帰ることのできた父は、リビングに胡坐をかき、新聞を読むフリをしながら、恐る恐る里菜にこう尋ねた。
「どうだったよ、里菜。なんだか9秒台で走っちゃう早い子がいるんだって。」
「何で知ってるの?」
「い、いや、ママが言ってたから・・・」
「・・・」
「で、どうだった?」
「・・・」
「だ、だめ?」
「・・・」
「だ、だめ?」
「・・・」
「し、仕様がないよ」
「・・・」
あれ、泣かない、今年は強いぞ、愛里と同じく意外と冷静だな、そう思って父は新聞から目を離し、そぉっと里菜の顔を覗いてみた。
テレビ画面を凝視するその顔は無表情を決め込んでいるのだが、里菜は大粒の涙を一滴、二滴、手のひらにこぼした。

さぁ、質問です。
あなたが父なら、悔しさに一人堪えながら、頬に つーっと大粒の涙を二滴ほど流す里菜にどのような言葉をかけてあげるのでしょうか?

父はこの時、父ではない、里菜の親友になりたいと思った。

それは決して親としての役割を放棄するのではなく、こういう時の距離感は親よりも親友の方が近しいのではないか、そう思えたからだ。

When you're down and troubled
and you need some lovin' care
and nothin', nothin' is going right.
Close your eyes and think of me
and soon I will be there
to brighten up even your darkest night.

You just call out my name,
and you know wherever I am
I'll come running to see you again.
Winter, spring, summer, or fall,
all you have to do is call
and I'll be there...
You've got a friend.

C) Calore King

父は久しぶりに里菜を軽く抱きしめて、こう言った。
「大丈夫だよ」。

5月12日金曜日、10歳になった里菜は去年より大きくなっていた。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする