それはそれで美しくはあるのだが,僕はどちらかというと「しだれ桜」のほうが好きだ。クラブ「染井吉野」のゴージャス・セレブ美女たちの陰に隠れるようにして,その華奢な身を風にさらすに任せている「しだれ桜」は,まるで竹久夢二の描く大正浪漫の美人画のようである。「あゆみはじっとあなたの帰りを待っております」
しかし,さらに目と心を奪われてしまうのは,桜の季節が終わった5月頃,山の中をウロウロと歩き回っているときに,ふとでくわす「山桜」である。その無垢な美しさはまるで,「とーぎょはおっがね」と言い残して青森の岩木山に帰って行ってしまった山育ちの娘「花子」のようである。
それはそうと,僕はいつから「花」に惹かれるようになったのだろうか。
少なくとも,20代の頃ではない。あの頃は,山に入っていても,花や木に格段の関心を持っていたわけではなかった。あくせくとただひたすらピークを目指していただけだった。
あるとき,人のよいおばさんが声をかけてくれた。
「あんたたち,ほれっ,見てご覧,お花!とってもかわいらしいわよ。ほら,あっちにも。このお花たち,このあたりでしか見られないのよ」
「へー,そうなんですか。あとでゆっくりと。とりあえず,今は...ビールがヌルくなっちゃうんです」
「そんなこと,山じゃなくてもいいじゃない」
愛想笑いを返しながらも,この苦行の後にこそ,おいしいビールが待っているのだと頑なに信じていた僕たちは花など眺める余裕もなく,先を目指した。でも今はわかる。「おばさん,あんたは正しかった」
若い頃の僕は,僕以外の多くの人も同じだと思うのだけれど,何事かをなそうと,何がしかの場所にたどり着こうと必死になるのだが,なかなかうまくいかずに,もがき苦しむばかりだった。最も短い時間で最も遠くまで達することなど所詮不可能なことであるのに,自分ならできると過信し,常に挫折ばかりしていた。それでもなお,求めるものはこの先に,この挫折と再起の循環の過程にこそあるのだという幻想にとりつかれていた。
しかし「求めるもの」とは何なのだ。一体,僕は何が欲しかったというのだ。肝心なことだけがいつだってよくわからない。そういうものだ。
だがどうやら,ただ燃えさかるだけの虚しさを知った灼熱の太陽がいつの間にか穏やかな夕陽で新しい風景を照らし出すように,疑念と確信の循環の中で少しずつではあるが僕にもゆっくりと新しい風景が,世界の新たな意味が見えるようになってきていた。それが成熟というものだ。苦い失望の連続の果てに得られる今までとは少しだけ違う風景。そうやって自分自身の世界は長い時間をかけて静かに変容してゆく。他の誰とも絶対に共有できない世界へと。
夏が終わる頃,世界が少しずつ静けさを取り戻しつつあったある日,僕は山の中で岩にへばりついていた。次の手がかり,足がかりがなかなか見つけられず,苦しくうめいているときに,僕と同じように岩にへばりついて,健気に花を咲かせている「駒草」という高山植物が目に入ってきた。「おおっ。お前,そんなところで生きておったのか」それは僕の言葉でもあり,同時に花の言葉でもあった。つまり,その可憐な花は僕の精神の奥深くの何かとダイレクトに共振し,僕はその瞬間悟った(ように思った)。
ゆっくりと長い時間をかけて,足下をよく見れば,到るところにささやかな理解と喜びが無限に埋もれている。僕が本当に欲しかったののは,そういったものだったのかも知れない。
たぶんその時からである。花に,そして花と同じように,ふと気づくと自分の精神の深部と共鳴してくれるささやかな理解と喜びの全てに,心惹かれるようになったのは。
この文章を書いている僕の正面には,房総で摘んできた花束のつぼみが次々と花を開かせている。そして今,花の一つが「フッ」という残像を残して,落ちた。