以下の記事は、2010.5.14朝日新聞夕刊に掲載された関根和弘氏によるものである―
天気の日には樺太が見える北海道の稚内に、ロシア料理の店「ペチカ」はある。木造のこぢんまりした店内で夜な夜な、兵頭(ひょうどう)ニーナ(64)は哀愁漂う声を響かせる。ロシア民謡を、ときには原語で。
若い頃はロシアの歌をあまり歌わなかった。
敗戦直後の旧満州で日本人の父とロシア人の母の間に生まれ、父の故郷である福島に引き揚げる。「ハーフだから、ロシアの歌を」と言われるのがいやだった。だから、東京の銀座で始めた弾き語りでは、日本やアメリカの流行歌ばかり歌った。
とんがった気持ちは30歳のときに変わる。母の友人であるロシア人が自宅にたくさん集まっているのをみて、受け入れたのだ。「やっぱり私にはロシアの血が流れている」
自分で経営するスナックで、「カチューシャ」「トロイカ」といった民謡を、ロシア語で歌うようになった。
うわさを聞きつけたNHKのスタッフが、兵頭に頼みにきた。ソ連で発表されたばかりの歌を番組で弾き語りしてください。
1983年の春、「あの歌」がテレビで流れた。悲しいギターの音色に、兵頭のつけた日本の訳詞で。CDにもなる。
しばらくして1人の男が訪ねてきた。兵頭と同じ旧満州からの引き揚げ者で、母とは知り合いらしい。男がいう。「あの歌を、うちの娘にも歌わせたい」
うちに娘とは、加藤登紀子(かとうときこ)(66)のことだった。「知床旅情」などのヒットで当時から人気だった。兵頭は快諾する。
加藤も、あの歌のとりこになる。85年、各地を回るコンサートで歌うと、行く先々の会場に、差出人不明の真っ赤なバラの花束が届くようになる。
「あの歌」とは何か、もうおわかりだろう。
百万本のバラの花を あなたにあなたにあなたにあげる
そう、「百万本のバラ」だ。貧しい画家が女優を好きになり、広場を埋め尽くすほどのバラを贈ったが、女優は別の街へ去るという失恋の歌である。
もともとの歌い手は、旧ソ連の国民的女性歌手、アラ・プガチョワ(61)である。82年に歌って大ヒットした。
詞は、詩人アンドレイ・ボズネセンスキ―(77)が書いた。反体制的な試作で、時の最高指導者ニキータ・フルシチョフの逆鱗に触れ、一時、今のグルジアに逃れた。そこで画家と女優の、実在の物語を知ったのである。
作曲はラトビアのライモンド・パウルス(74)。ソ連からの独立を先頭に立って勝ち取り、文化大臣にもなった男だ。
もともとは、母親が娘に歌う悲しい曲だった。原曲のサビはこうだ。
マーリニャは与えた 娘に長い人生を
でも与え忘れた 娘に幸せを
パウルスは否定するが、こんな解釈が語り継がれる。マーリニャはラトビアの神話の女神を指し、娘はラトビアを指す。ソ連に従属するラトビアは幸福にならないという暗示だ、と。
ラトビアは、先の大戦中にソ連に併合され、ほぼ半世紀にわたって支配された国である。
加藤は87年、東京の日比谷野外音楽堂で一緒に歌ったプガチョワから、「この曲のお陰で私は世界に出られる」と自由のすばらしさを聞かされる。翌年、来日したボズネセンスキーから、画家の悲恋を聞いた。パウルスの伴奏で歌ったときに、元の歌詞の存在を教わる。
恋、自由の尊さ、従属の悲劇。加藤は一つの歌に込められた三つのメッセージを受け取る。「すべての歌の背景を知ったとき、自然と歌い方や込める思いは変わった」
「百万本のバラ」は3人の女性歌手に継がれ、日ロ両国で愛されている。プガチョワは昨年、現役引退を発表し、新たな活動を模索している。デビュー45周年の加藤は、精力的に歌っている。
兵頭は新曲を練習中だ。プガチョワから贈られた悲恋の歌で、タイトルは「TOKIO」という。もうすぐ稚内の店で披露する。 (関根和弘)
―ニッポン人・脈・記 ロシアへの虹5