餃子倶楽部

あぁ、今日もビールがおいしい。

大晦日だと言うけれど

2008-12-31 23:34:53 | Speak, Gyoza
 Every year, enormous numbers of people in Europe celebrate New Year’s Eve, or New Year’s Day, and, while doing this, often feel that some event that affects the whole universe, or something like an eclipse, must be occurring at that important hour of midnight. They leave their houses to walk or dance through the streets, often carrying alcohol with them, which they offer to one another to drink, and drink themselves. And they seem to be motivated by an emotion that must be, one suspects, like the feelings of the people who built Stonehenge, and at last watched the light of the sun first strike its most important stone, at dawn on Midsummer’s Day.
 But New Year’s Eve and Midsummer’s Day cannot really be compared. Midsummer’s Day―the day that marks the middle of summer―is a point in time that can be measured in terms of astronomy. For it is the summer solstice: the day on which the sun rises highest above the half of the Earth from which the sun’s height is measured. Thus, Australia’s Midsummer’s Day is England’s Midsummer’s Day. On the other hand, the hour of midnight on the 31st of December is, in terms of astronomy, nothing at all. It has no more natural importance than Christmas Eve, or the start of the school year. It is entirely man-made.

 毎年、ヨーロパでは、非常に多くの人が大晦日や元旦のお祝いをする。そしてお祝いをしながら、よく真夜中の重要な時刻には、全宇宙に影響する何らかの出来事、すなわち日食や月食のようなことが起きているに違いないと感じたりする。家を出て、通りを歩いたり、踊ったりし、よくお酒を持ち歩いては、お互いに勧めあったり、自分で飲んだりする。彼らをつき動かしているのは、察するところ、ストーンヘンジを築き、夏至の日の夜明けに、太陽の光が最も重要な石を照らすのをついに見た人たちが抱いた気持ちにも似た感情であるように思われる。
 しかし、実は、大晦日と夏至の日を比較することはできない。夏至の日―夏のど真ん中を印す日―は天文学的に測定可能な時点である。というのも、その日は夏の至点、すなわち太陽の高度を測定する地球の半球上で太陽が最も高く昇る日だからである。従って、オーストラリアの夏至の日はイギリスの冬至の日に当たる。それに対し、12月31日の真夜中の時刻は、天文学的には全く何の意味もない。クリスマスイブや始業式の日と同様、自然界ではいかなる重要性も持たないのである。完全に人間が作り出したものである。

   ◆   ◆   ◆

 月は自転する地球の周りを回り、なおかつ地球はやや傾きつつ、太陽の周りを公転してゆく。四十数億年の間、地球は、来る日も来る日も、骨身を惜しまず、身を粉にしてそんな運動を続けてきた。キリストの誕生日も、僕の誕生日も区別することなく、ただひたすら、月を従え、自ら回転しつつ太陽の周りを回ってきたのだ。だから、地球は大晦日や元日などもちろん知らないし、初日の出だって一度も見たことはない。
 そんな地球の運命を想うとなんだかとても静かな気持ちになる。日々の喧噪から離れ、僕も地球のように、一喜一憂せず、黙々と、自転しながら、少しずつ少しずつ、公転するように歩んでゆきたい思う。
 テレビを消して、時計を外し、好きな音楽でも聴きながら、本でも読もう。眠たくなったら眠ればいいのだ。



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危機の時代 多極化世界を生きる

2008-12-30 15:32:49 | 餃子新聞部
 以下の文章「危機の時代 多極化世界を生きる」は12月29日付朝日新聞朝刊「私の視点」欄に,大沼保昭氏(おおぬまやすあき 東京大教授・国際法)が寄稿なさったものである。

            ◆   ◆   ◆

 未曾有の金融危機に襲われた2008年が終わろうとしている。2009年が明るい年になる保証はない。危機ははじまったばかりであり,さらに深まる可能性も高い。
 だが,危機だ危機だと叫び立てて悲観論を煽るべきでない。経済は人の心の関数である。悲観主義は人々を萎縮させ,経済の回復を妨げる。1929年からの大恐慌を克服したルーズベルト米大統領の「我々が恐れるべきは恐怖それ自体である」という言葉は本質をついている。
 永遠に明けぬ夜はない。今必要なのは,現在の闇とは何かを理解し,闇の後の世界を構想する力である。

 歴史を振り返ってみよう。19世紀は欧州の世紀だった。欧州列強は世界大の植民地体制を構築し,近代科学を世界に広め、「文明」を先導した。20世紀は米国の世紀だった。私たちは自動車の文明を生き,ハリウッド映画とロックで感性を磨き,IT文明の入り口に導かれた。
 21世紀はどうか?アジアの世紀、というのが一つの答えである。中国は米国を凌駕する経済超大国となり,インドも超大国化するだろう。アジアの力は今世紀中にに欧米を凌ぐというわけである。
 アジアの世紀、と言い切ることにはためらいもある。が、21世紀は欧米中心の20世紀より確かに多極化した多文明の世界になるだろう。そう見るなら,現在の金融危機とは進行しつつある世界の変容の一局面に過ぎない。
 欧米中心の世界から多極化への変容とは,国際社会の力のあり方の変化を意味する。選挙による政権交代という権力委譲システムを欠く国際社会では,そうした変化は巨大な摩擦と衝突を伴う。
 では21世紀とは,摩擦と衝突に満ち満ちた,最悪の場合大国間の戦争を伴う恐るべき時代なのか。答えはわたしたちの世界認識と行動にかかっている。時代とは「なる」ものではなく,わたしたち人類総体が「作る」ものだから。
 米国は唯一の超大国から多極のひとつになるだろう。独善的普遍主義の強い米国にとって、それは納得し難い過程だろう。中国とインドは多極のひとつとなるだろう。文明の中心という自負を持ちながら19~20世紀に植民地・半植民地化の屈辱を味わった両国にとって,21世紀は屈辱を晴らし,「中華」的な思想を復活させる絶好の時代に見えるかもしれない。これらの認識は衝突しないのだろうか。
 きな臭い時代ではある。しかし主要国の指導者は,これらの問題を漠然とではあれ意識して行動している。中国の指導層がナショナリズムの暴走を抑えようとし,米国のオバマ次期大統領が多国間主義を国民に説くのはそのあらわれである。

 こうした多極世界で日本はどう生きていくのか。GDPで中国に追い抜かれるとはいえ,日本はドイツや英仏より巨大な経済大国であり続ける。それだけでない。平和で洗練された分化と社会をもつ日本の重要性は,日本国民が経済万能の発想から解放される21世紀にこそ輝きを放つだろう。
 日本国民は,21世紀世界の極のひとつとなるアジアの中で最も早く,深く,広く欧米の近代文明を学び取り,それを駆使し,同時に東アジア文明のアイデンティティーを保持して生きてきた。帝国主義という近代欧米の負の文明まで学び取り,敗戦という形でその対価を支払った。
 こうした経験に裏打ちされた日本の文化・文明の力、つまり「知の力」は巨大なものである。多くの日本国民はその巨大さを意識していない。しかし,世界の大半を占める非欧米、特にアジアの諸国民には,その巨大さがよく見える。わたしは国際社会でのつきあいで、そのことを強く感じてきた。
 現在の闇は長く続くかもしれない。だが闇の向こうには、人権、民主主義といった近代文明を踏まえながら、欧米の覇権下にはない世界がほの見える。今は夜明け後の世界で力を発揮するためじっと耐えてさらなる知の力を身につけるべき時、そう思える。





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銀座1丁目(哀愁の昼メシ編)

2008-12-29 16:37:28 | 札幌SKY

銀座1丁目を初めて訪れたのは1975年、
小学4年生のときだった。

日比谷線に乗って銀座駅で降り、
父親とともに2人で向かったのは銀座1丁目、
テアトル東京。

そこで観たのは「JAWS」。

薄暗闇の海を泳ぎ始めた女性が、
悲鳴ともつかない短い嗚咽とともに
海の中に引きずり込まれてしまう、
そんなイントロの場面が
子供の僕にはどうも強烈すぎたようで、
今でも「JAWS」と聞くと、その映像が浮かび、
あの有名な音楽がアタマの中で鳴り響く。

ダーダン

ダーダン

ダ・ダ・ダ・ダ
ダ・ダ・ダ・ダ
ダ・ダ・ダ・ダ
ダ・ダ・ダ・ダ
ダダダーン

*      *      *

映画を観終わると、
父と僕はテアトル東京近くの小料理屋に入った。
父はビンで出されたビールを手酌で、
僕はオレンジジュースを飲みながら、
僕たち2人は口数も少なく、
うなぎを食べたことを思い出す。

あの夜に食べたうなぎはどこの店のものだったのだろうか、
銀座中央通沿いだったのか、京橋あたりだったのか、
よくわからない。
それとも父に尋ねればわかるだろうか。

□      □      □

1990年代、ぼくは銀座1丁目で時を過ごした。

正確には1989年から1997年。
正確には銀座1丁目9-12。
そして電話番号は562-5151。

四角い窓に囲まれたMビルは6階建て。
昭和レトロな匂いを醸し出した慎ましやかなビルで、
1階には三井銀行があった。
そのビルの重鈍いエレベータで4階へ行くと、
そこにはぼくが働くM社の営業フロアがあった。

餃子倶楽部はこのビルの5階、
会社の労働組合書記局から生まれたのだ。
まだワープロしかない時代に、
僕たちは文書を切り貼りして
A3二つ折サイズの餃子倶楽部を製作、
申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら
コピー機を使わせてもらい、50部程度を発行していた。

色々な思い出があるのだが、
突然あのころを思い出そうとしても
うまく思い出せない。

思い出すには何かの文脈に基づいて昔話をしているとき。
堰をきったかのようにダ・ダ・ダ・ダと昔日の頃を思い出すことができる。

*      *      *

1999年2月に倒産してしまったM社の同窓会のようなものが
今年11月に開かれたらしく、そのときの模様を綴ったレポートと元社員住所録が
12月の半ばになって突然とタケアキさんのもとに送られてきた。

同窓会レポートを氏から借りうけて読んだ僕は言葉を失った。

言葉を失ったのには理由がある。

レポートにのった写真をよくよく見てみると、
懐かしい面々がたくさん映っていたからだ。

次の瞬間、僕の頭の中で、
1990年代に過ごした銀座1丁目の記録フィルムが
カタカタカタとめまぐるしく映し出されはじめ、
喋る暇がなくなったからだ。

ようやくと、言葉が口を衝いて出てきた。
「なんで鵜沢がいるんだ!
 これ、斉田?かよちゃん?
 で、なんでM社の看板を岡本さんが持っているんだ!」

僕はタケアキさんと爆笑した。

場所を居酒屋に移した僕たちは
住所録に書かれた諸先輩方のケータイに
イタズラ電話をかけはじめた。

ジンちゃんは撮影スタジオにいて、
早く電話を切りたがっていた。

鵜沢とは長電話をしすぎ、
腹がねじれるほど笑いすぎた。

セキグチさんは帰りのバスの中だというのに
僕たちのイタズラ電話につきあってくれた。
そしてこう言った。

Photo_2 「あのなぁ、
 お前ら知らないかも
  しれないがなぁ、
 もうなぁ、
 銀座1丁目のMビルは
 なくなっちまったぞ。
 取り壊されてなぁ。」

*      *      *

家路へとむかうタクシーの中で、
あのころ銀座でよく食べた昼メシを思い出してみた。

よく通ったのがメルサ4階にあった「小洞天」。
この店は会社の食券が使えたのだ。
そこで決まって食べたのが、
担々麺セット。
坦々麺としゅうまいと、ライスにザーサイ。
お腹がいっぱいになって、おいしかった。

たまに行ったのが「天龍」の餃子定食。
この店は餃子があまりにも有名で
いつ行っても混雑していたので
そう頻繁には行かなかった。

昭和通り手前には、「煉瓦亭」があった。
この店は本店からの暖簾分けらしく、
黄色とオレンジ色の馬車の影絵の看板が掲げてあった。
昼はAランチかBランチ。
2階建の手狭な店だったが、
セットで先に出されるスープがおいしかった。

コピーライターの宮崎さんとは「萬福」へ。
お互いが中華そばを注文し、
炒飯は1人前を半分ずつ、とりわけて食べた。

ほかにラーメンでは「共楽」のわんたんめん。

ベトナムラーメンというニンニクだらけのラーメンを出す店が
伊東屋の裏路地沿いにあり、なぜかクマの剥製が置いてあった。
満腹感だけが満たされた店だ。

雑居ビルの3階ほどに「明日葉」という店があった。
夜は高級割烹になるらしいこの店のごはんは
米の甘味が引き出されていて、
炊き立てでハフハフと熱く、
とてもおいしかった。

その「明日葉」の並びには「ひょうたん屋」があった。
焼き焦げたうなぎのタレの香ばしい匂いが店の外を漂い、
たまの月末に上司に連れて行ってもらった。

そう、その通り角には「岩戸」という店もあった。
まぐろ丼などの海鮮ものが多く、
でも実家で魚料理を大量に食べていたので、
積極的には行かなかった気がする。

三原橋地下街をテクテクと歩いて晴海通りを越え、
昭和レトロな面持ちを残す三原小路にあった「中華三原」。
この店は油ぎった中華料理を出す店で、強烈だった。
(きっとカラダに悪いに違いない)、そう思いながらも
行列に並び、汗をかきながら食べたものだ。

□      □      □

セキグチさん、
ネタが尽きたので昼メシ編はこのあたりとします。

どうしても一人の記憶なので「場所」記憶ばかり、
「エピソード」記憶ではないので、文章にならない(!)。

次回は銀座2丁目「天津飯店」から始める
(哀愁の夜飲み編)をお届けしたい(!)。

柳通りに面したこの店には中国風の丸い赤ちょうちんが
店前にズラズラっと並んでいましたよね。

関係各位からのネタ、募集。

つづく。

(つづきますように)

コメント (1)
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戦国・古代ロマンの旅 4

2008-12-27 23:59:25 | 回帰線
 あとは名古屋のホテルにむかうのみ。もう東名高速には戻らず、国道一号線をしばらく走って「名古屋高速」なる高速道路に乗って、5時半、名古屋に到着した。
 ところが「アパヴィラ名古屋」のフロントマンは、シングル一室、ツイン一室で予約してあるはずだと、いくら言い張っても、「予約がございません」と言いにくそうに応えるばかり。もしやとフロントマンが近くの系列店の「アパ名古屋錦」に電話を入れてみると、たしかにぼくらの予約が入っているという。
 数あるアパ・ホテルの中でも、アパ・ヴィラはアパよりも若干高級なのであろう。アパ・ヴィラ名古屋も名古屋駅のすぐそばにあったが、アパ名古屋錦は名古屋の繁華街のド真ん中にあった。そういうわけでぼくら夫婦がホテルの9階に、トモが6階の部屋にそれぞれ落ち着いたのは6時10分前のことになった。トモのシングルが7千円、ぼくらのツインが1万3千円。大きくはないが綺麗な部屋だ。おたがい簡単にシャワーで汗を流して、6時半にロビーで待ち合わせ。
 名古屋独特の味といえば、名古屋コーチンのかしわ料理、きしめん、煮込みうどん、味噌トンカツなどいろいろあるだろうが、和子が名古屋コーチンの手羽先料理にこだわるので、ホテルのフロントマンに教えられた有名な手羽先チェーン店のひとつ「世界の山ちゃん 錦三大津店」に出かけた。
 「お得だよコース」(一人2800円)と、メニュー掲載商品すべて飲み放題(1700円)。1200円の飲み放題と違って、こっちの飲み放題は高級日本酒や焼酎、ワイン、ビール、ウィスキー、サワーなど、リスト裏表の多数の種類の酒すべてが飲める。コースの料理がまたすばらしい。「口取」(2種盛り)に始まって、「幻の手羽先5本」、「蒸し鶏サラダ」、「お刺身2種盛り」、「ハムカツとコロッケ」、「店長お勧め料理」(今夕は「幻の手羽先」の煮浸し)、「ゴーヤとミミンガー野菜炒め」、混ぜご飯(青菜小エビ)、フルーツ(2種)。
 料理はどれもメチャクチャ美味しい。「幻の手羽先」と店長お勧めの手羽先と2種類、計10本あっても、「重複」なんて不満を感じるどころか、「美味倍増」の喜びが湧くのみ。ぼくはもともと手羽先が好きなのだが、こんな美味しい手羽先、食べたことがない。他の料理も、また然り。トモなど――
「なに、このハムフライ! うめえなぁ。名古屋の人が東京の料理の悪口を言うの、分かる、分かる」と叫び出す始末。
 おかげで酒がどんどん進んでしまう。生ビールのあと、レモンサワーやグレープフルーツサワー、ワイン、焼酎のお湯割り(和子やトモはロック)などをしこたま飲み、ウィスキーの「山崎」(ぼくと和子はロック、トモは水割り)を飲んでみたら、これまた絶品。
「ちょっとこれ、美味すぎるよ。まいった、まいった!」
「このお店、今まで行った居酒屋の中で、一番いいかも」と和子も感激しきり。「山崎」をそれぞれ3杯。
 ずいぶん酔っ払ったところで和子とトモが、掛川城で薄金色の烏帽子型兜をかぶったぼくの姿を思い出し愉快がっていたのが(「なんか、こう、ハレっ?って思って、真空状態に入っちゃったのよね」)、だんだんと弾み(モーメンタム)がかかってきて、笑いが高笑い、さらに高い笑い、さらに哄笑、爆笑へとエスカレートして、とうとう腹の皮がよじれ、腹を抱えての抱腹絶倒となってしまった。あの笑い現象は何だったのだろう?「入っちゃった!」とトモも和子も、顔を歪ませ、躰をねじり、横に倒れ、文字どおり腹を抱えて笑いころげる。ぼくが何かを言うと、そのぼくの顔を見て、「お願い、こっちを見ないで。あ、駄目!」と和子は爆笑する。そのうちぼくにも笑いが伝染してきて、鏡に映った、あまりに“決まった”ぼくの僧正面を思い出し、笑いが止まらなくなった。笑いのド壷にはまったとでもいうのだろうか、およそ10分間というもの、ぼくらは笑い転げていた。「笑いすぎて死ぬ」というのが現実に起こりうることを、はっきりと実感した。笑いすぎて苦しかった。しかし、いま思うと、あの爆笑の炸裂は、いったい何だったのだろう?
 この三人が美味しく食事をすませたら、そのまま黙ってホテルに戻るわけがない。ましてや名古屋はパチンコ発祥の地である。近くに「サンシャイン」という大きな店を見つけて入った。
 新台「冬のソナタ」のヨンさまが手招きしているように思えたのでその台に坐ったら、千円で大当たりが来て、しかも大フィーバー。千円の資金で43200円も儲けてしまった。しかも今夜は和子と、いつものような山分け制ではなく独立採算性に取り決めてあったので、差し引きの純益42200円がまるまるぼくの懐に入った。もっとも和子も差し引き5千円の稼ぎ。トモだけツキがなくて2万円ほど負けてしまった。
 ホテルの部屋に戻ると、バタンキュー。ベッドに倒れこむように眠ってしまった。



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サンタクロース2008

2008-12-23 23:59:00 | 21世紀姉妹

4年生に、こうたずねた。

「愛里、サンタっているの?」
「いるよ」
「どこによ?」
「どっか・・・外国」

昨年のクリスマスイブ、当時5年生だった長女は
同じ質問に「フィンランドに住んでいる」と答えていた。

さぁ、今年はどうでしょう。

「里菜、サンタっているの?」
「しらない」
「・・・」
「・・・」

*     *     *     *

Photo

とはいえプレゼントのリクエストは具体的である。

4年生。
「私がほしいのは“HI-KARAダウンローダーパック”です。
 もしムリだったらバービーかZARAの服を2枚ください。
 ズボンでもTシャツでも何でもいいです。
 これもムリだったらジグゾーバズルを下さい。
 よろしくお願いします」

続いて6年生。
「今年わチョットハードでス。
 本を2冊欲しんでスけど、
 1.“PINKY”わ12/19までに買わなくちゃなんないのです!!
 ちなみに1月号よ?がんばってネ。
 2.大塚愛の“ai-r JACK”ってゆー本をお願いします。
 かしこ。
 でわ バイ② りなちんより」(原文ママ)

*     *     *     *

2人ともにサンタのことを仲の良い友達だとでも思っているようだ。

しかし、2人は知らない。

サンタが“HI-KARAダウンローダーパック”なんてモノを
用意する気がないということを。

そして、“ai-r JACK”という本が紀伊国屋になかったので
amazonで買ったということを。

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