goo blog サービス終了のお知らせ 

餃子倶楽部

あぁ、今日もビールがおいしい。

生徒諸君に寄せる

2011-08-26 14:01:45 | 餃子ライブラリ
 映画「コクリコ坂から」の挿入歌、「紺色のうねりが」(港南学園生徒会会歌)の詞は「原案宮沢賢治」となっていたが、それは「朝日評論」1946年4月号に掲載された「生徒諸君に寄せる」という詩を指すものである。
 映画の中で、港南学園のカルチェラタンに部室を構える現代詩研究会員も「生徒諸君に寄せる」の一節を詠誦していた。

新たな詩人よ 雲から光から嵐から 透明なエネルギーを得て 人と地球によるべき形を暗示せよ…
新しい時代のコペルニクスよ 余りに重苦しい重力の法則から この銀河系統を解き放て…

 今年3月、我が国は想像をはるかに超えた震災に見舞われたばかりであるので、深く胸を衝かれてしまうのだけれども、「紺色のうねり」とは津波のことである。

紺いろの地平線が膨らみ高まるときに
諸君はその中に没することを欲するか

 賢治は彼特有の硬質な言葉で、津波に、さらにはありとあらゆる現状に屈するなかれ、人は宇宙の果てまでも延長しうる一つの可能態であるという信念のもとに歩みを止めるなかれ、と言う。
 宮崎親子は多少翻案し、

紺色のうねりがのみつくす日が来ても
水平線に君は没するなかれ

と語るが、そのメッセージは同じである。決してうつむくな、逆風を顔で受け止めて進めー今年未曾有の地震と津波に襲われた我々、特に東日本の若者たちにとって、この詞は北極星が放つ光のごとくまっすぐで気高い道を照らしだしてくれているが、これは震災以前から予定されていた挿入歌なのだろうか。それとも罹災後に追加されたものなのであろうか。興味深いところである。

 賢治は1896年(明治29年)8月27日、花巻で生を受け、1933年(昭和8年)9月21日にやはり花巻の宮澤家で急性肺炎(もともと身体が病弱だった上に過労と栄養失調が重なった)のためにこの世を去っている(享年37歳)。従って、1946年に「朝日評論」に掲載された「生徒諸君に寄せる」という詩は、賢治がノートに書いた草稿を再構成したものであると思われる。ちくま文庫から出ている「宮沢賢治全集2」には「断章一」から「断章八」という形で、その草稿がほぼそのままに掲載されている。
 研究者によれば、この草稿はノートの用紙や筆跡などから見て、1927年(賢治発病の前年、当時32歳)の作品で、作品番号一〇九〇番前後のものと推定されている。




  
 「詩・生徒諸君に寄せる」     宮沢賢治

中等学校生徒諸君
諸君はこの颯爽たる
諸君の未来圏から吹いて来る
透明な清潔な風を感じないのか
それは一つの送られた光線であり
決せられた南の風である
諸君はこの時代に強ひられ率ゐられて
奴隷のやうに忍従することを欲するか
今日の歴史や地史の資料からのみ論ずるならば
われらの祖先乃至はわれらに至るまで
すべての信仰や特性は
ただ誤解から生じたとさへ見え
しかも科学はいまだに暗く
われらに自殺と自棄のみをしか保証せぬ
むしろ諸君よ
更にあらたな正しい時代をつくれ
諸君よ
紺いろの地平線が膨らみ高まるときに
諸君はその中に没することを欲するか
じつに諸君は此の地平線に於ける
あらゆる形の山嶽でなければならぬ
宙宇は絶えずわれらによって変化する
誰が誰よりどうだとか
誰の仕事がどうしたとか
そんなことを言ってゐるひまがあるか
新たな詩人よ
雲から光から嵐から
透明なエネルギーを得て
人と地球によるべき形を暗示せよ
新しい時代のコペルニクスよ
余りに重苦しい重力の法則から
この銀河系を解き放て
衝動のやうにさへ行はれる
すべての農業労働を
冷く透明な解析によって
その藍いろの影といっしょに
舞踏の範囲にまで高めよ
新たな時代のマルクスよ
これらの盲目な衝動から動く世界を
素晴らしく美しい構成に変へよ
新しい時代のダーヴヰンよ
更に東洋風静観のキャレンヂャーに載って
銀河系空間の外にも至り
透明に深く正しい地史と
増訂された生物学をわれらに示せ
おほよそ統計に従はば
諸君のなかには少くとも千人の天才がなければならぬ
素質ある諸君はただにこれらを刻み出すべきである
潮や風……
あらゆる自然の力を用ひ尽くして
諸君は新たな自然を形成するのに努めねばならぬ
ああ諸君はいま
この颯爽たる諸君の未来圏から吹いて来る
透明な風を感じないのか
   
   
    
追記1

 厳密に言えば、2011年3月11日に東北地方を襲った災害を「未曾有の地震と津波」とするのは正しくない。1896年6月15日には「明治三陸地震津波(死傷者数2万1000人)」を、そして1933年3月3日には「昭和三陸大津波(死傷者数3000人)」を経験しているからだ。奇しくも、いやそれどころかこんな偶然の一致があるなど俄には信じられない思いだが、それらは賢治のこの世における命の始まりと終わりを画する年なのである。
 賢治の8歳年下の弟である宮沢静六氏は、周囲の苦しみを和らげ、勇気を与えることに精魂を傾けた賢治の生涯について以下のように切々と語っている。

 賢治の生まれた明治二十九年という年は、東北地方に種々の天災の多い年であった。それは雨や風や天候を心配し、あらゆる生物の幸福を祈って、善意を燃やしつづけた賢児の生涯が、容易ならぬ苦難に満ちた道であるのをも暗示しているような年であった。
 賢治の生後五日目の八月三十一日午前五時、花巻町の西方約二十五キロメートルの地にある沢内村川舟(川尻)に二メートルに及ぶ断層を生じるほどの大地震が発生、全壊家屋五千六百、死者二百を記録した。
 またこの年の六月十五日には、三陸海岸に大津波が襲来し、最高二十四メートルの高波が海岸の家屋を破壊し、二万一千人の死傷者を出した。その上、七月と九月には大風雨が続き、北上川が五メートルも増水、家屋、田畑の損害も甚大であった。そして夏になっても寒冷の日が続き、稲は稔らず赤痢や伝染病が流行した。
 賢治が日清戦争の直後に、この周期的に天災の訪れる三陸海岸に近い寒冷な土地に生まれたことと、彼が他人の災厄や不幸を常に自分自身のものと感じないでいられなかった善意に満ちた性格の持ち主であったこととは、実に彼の生涯と作品を決定する宿命であった。

(中略。1928年、すなわち昭和3年に賢治は過労から病に倒れ、以後療養が中心の生活となる)

 昭和八年には兄は起きられるようになり、時には肥料の相談も受け、文語詩を書いたりしていたが、三月三日には三陸沿岸に大津波が襲来し、二十三メートルもある大波で死傷者三千を出し、私も釜石に急行して罹災者を見舞ったのであった。このように賢治の生まれた年と死亡した年に大津波があったということにも、天候や気温や災害を憂慮しつづけた彼の生涯と、何等かの暗号を感ずるのである。   
                 「兄賢児の生涯」(『新文芸読本・宮沢賢治』河出書房新社)より
   
   
追記2

 賢治の最期を以下に記しておく。

1928年(昭和3年:賢治32歳)
 夏には日照りが続く中、稲熱病の手当てなどで農村を走り回る。過労や栄養失調が重なって秋に急性肺炎を発症。以後約2年間にわたって花巻の実家で、療養生活に入る。

1931年(昭和6年:賢治35歳)
 病気から回復の兆しを見せ、東北砕石工場技師となり石灰肥料の宣伝販売を担当。9月、病後ということで心配する家族を押し切り、40kgにもなる壁材の見本をトランクに詰め込み上京するが、過労がたたり再び高熱を出し病臥する。死期が近づいていることを感じた賢治は、苦しさの中で両親に遺書を書く。「とうとう一生何ひとつお役に立たず、ご心配ばかり掛けてしまいました。どうか、この我儘(わがまま)者をお赦(ゆる)し下さい」(9月21日。奇しくも2年後に永眠した月日と同じ)。何とか帰郷して再びの療養生活。11月3日、手帳に『雨ニモマケズ』を書き留める(手帳は賢治の他界後、トランクの中から発見される)。病床にあって身動きがとれない中、「丈夫ナカラダヲモチ」と願い、「行ッテ看病シテヤリ」、「行ッテソノ稲ノ束ヲ負イ」、「行ッテコワガラナクテモイイトイイ」と困っている人のところに自分の足で「行ッテ」力になりたいと思いやる賢治の祈りが痛いほどに伝わる(手帳の左上にはわざわざ赤ペンで、本文とは別に「行ッテ」と大きく書かれていたという)。

1932年(昭和7年:賢治36歳)
 病臥の中でも創作活動を続け、雑誌「児童文学」に童話『グスコーブドリの伝記』(挿絵は棟方志功)を発表。1926年に賢治は論文『民芸術概論』を書き、序論で「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と語っているが、ブドリが一人火山に登って行く姿はそうした賢治の利他主義精神の結晶であろう。

1933年(昭和8年:賢治37歳)
 9月17日から19日にかけて花巻の氏神の祭りが行われ、その最後の晩には、賢治も門の前に出て、御輿(みこし)をおがみ、その後で肥料の相談にやって来た農夫と長く話し込んだ。そのためか翌日(20日)にはひどい熱が出た。
 9月21日の昼近く、賢治は喀血し、家族が看取る中、1時30分、永遠の眠りについた。最後の最後までヒューマニズムの精神に貫かれた人であった。
 賢治は28歳の頃から亡くなるまで、何年も『銀河鉄道の夜』に手を入れ続けたが、ついに未完のままで旅立ったのであった。賢治は「永久の未完成これ完成である」と書き残しているので、賢治の人生とともに『銀河鉄道の夜』も完結した、と言っていいのかもしれない。


   ◆ ◆ ◆

 賢治の生涯とその作品から、そして明治、昭和、平成と続く大きな地震と津波から、真の意味で我々が学ぶべきことはまだたくさんある、と言わざるを得ないだろう。






コメント (12)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 合格! | トップ | 伯楽星 »
最新の画像もっと見る

12 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

コメント日が  古い順  |   新しい順
生徒諸君!という漫画は、こんな高い志の詩が元に... ()
2011-08-27 14:45:05
生徒諸君!という漫画は、こんな高い志の詩が元になっていたのかしら…なんて。知ること、は世界が広がりますね♪
ジブリは全て観てきたけど、コクリコ坂はいいかな…と思っていたのに、日テレの策略にまんまと嵌まり、観てしまい、結局涙してしまったf^_^;
返信する
そうだね、何かを知るというのはそれだけで面白い... (タカ)
2011-08-27 20:00:34
そうだね、何かを知るというのはそれだけで面白いし、その分だけ世界の地平の広がりが見えるようになるのは快感だ。殊に、いろいろなものが「繋がっているんだ」と感じられるのは幸福なことだ。
返信する
タカ君、私のアホを曝さないでくれてありがとう(^... ()
2011-08-27 22:32:29
タカ君、私のアホを曝さないでくれてありがとう(^人^) そう、コレはコレと繋がっていたのかぁ、コレはココから来ていたのかも、という発見?はとても楽しいよね!
返信する
 被災地の施設の必要物資と職場の施設の支援可能... ()
2011-08-28 00:00:11
 被災地の施設の必要物資と職場の施設の支援可能物資がマッチしたことをきっかけに、その被災地の施設は全壊したけれど、形態を変えて活動されているので、バザーの収益金で希望された物品を購入し、送ることができた。
 そして送られてきた宮城県の新聞記事を昨日読んだ。―泥が口や鼻にはいること、助けを求める人に手を差し伸べるには、他の人を離さないといけないということ。―津波は本当に人をのみこんだんだ。テレビの報道で見た現実とは思えないような光景を思い出した。

 わたしの記憶にある地平線は、呑気に地球は丸いなぁと思いながら見たものばかりなのに…

 「コクリコ坂」、観てみたいな。
返信する
賢治と津波についてコメントしようと思ったのだが... (タカ)
2011-08-28 16:28:11
賢治と津波についてコメントしようと思ったのだが、少し長くなりそうなので、追記として記事に書き加えることにした。
返信する
タカ君、追記、とても興味深いですね。満月に出生... ()
2011-08-28 22:43:55
タカ君、追記、とても興味深いですね。満月に出生率が高くなることにも、何等かの関係があるのでしょうか。病弱で優しい賢治が、無力感から立ち直れないだろうと、2度目は召されたのでしょうか…

☆ちゃん、ものすごくオススメか、と聞かれるとちょっと違います…
返信する
賢治の最期についてコメントしようと思ったのだが... (タカ)
2011-08-29 10:05:29
賢治の最期についてコメントしようと思ったのだが、これも追記として記事に書き加えることにした。
返信する
タカ君、雨ニモ~のくだりは涙を禁じ得なかったわ... ()
2011-08-29 13:56:51
タカ君、雨ニモ~のくだりは涙を禁じ得なかったわ。ありがとう。
返信する
しーちゃん、おれもはじめて知った時にはこみ上げ... (タカ)
2011-08-29 21:37:09
しーちゃん、おれもはじめて知った時にはこみ上げてくるものがあったよ。
返信する
 "し"ちゃん、わかりました。えっ、そ... ()
2011-08-30 05:21:04
 "し"ちゃん、わかりました。えっ、それほどじゃなーい!と怒ったりしません。
 残念ながら、私はジブリ作品に興味があるものの、あまり観たことがありません。一度テレビで宮ざき吾朗さんをみました。偉大な父を持ちプレッシャーを感じながらも、後世に残るような作品をつくりたいと切に願われているのが伝わってきました。もしかしたら、「コクリコ坂」は沢山メッセージがあるから、すっきり・明快ではないのかも…
 "タカ"くん、調べるのは大変かもしれませんが、よい記事だと思いました。
返信する

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。