2008年10月2日(火)晴
芭蕉が大垣へ到着したのは遅くとも8月21日(陽歴10月4日)と言われている。願わくば其の季節感を共有したく10月2日敦賀へ向かう。今年は台風の本土上陸は無かったが、13号と15号は台湾近辺で共に直角に進路を変更し、本州の南海上を東進した。15号台風は昨日熱帯性低気圧となり東洋上に去り、全国的に快晴でこの好天は数日続きそうだ。
東京駅6:23発ひかり401号で米原乗換、敦賀へ9:27に到着した。駅前で自転車を組み上げ、昼食を調達し、今晩の宿を松原町辺りに予約。色ヶ浜に向って出発した。
駅前道路を進み8号線を横切り、土橋バス停先を右折北上し川崎町を左折。松島橋を過ぎ松原公園内を通り花城橋を渡る。道は海岸沿いの絶景が続く一本道となり、快適なサイクリングが楽しめる。これから進む敦賀半島の小崎や白砂青松の海岸線を北に望み、東に敦賀湾越しの青く霞む山波、南には敦賀の町が白く輝いている。
小さな峠を越えると数軒の二村の集落となり浜が美しい。名子の海水浴場(写真)はひっそりと人影はない。海辺には「故陸軍歩兵上等兵勲八等片山松之助之碑」が彼方の小崎を背景に立ち、半世紀以上も過ぎたであろうに、誰が活けたか真新しい菊の花が碑前を飾っていた。縄間(のま)の児童館では運動会が行われ、めずらしく多くの人々が集まって楽しげだ。児童館の前には「縄間区各家先祖代々諸精霊位供養塔」の大きな墓石があり、各家々のお墓を一つに纏めたそうで、彼岸やお盆には村人総出でお参りするとの事で大変合理的だ。
常宮神社の鳥居の横には「国宝 朝鮮鐘」の大岩があり参拝して見る事にした。石亀の口から流れ出る手水で清め、随神門を入ると軒下に多くの貝殻が展示され、小籠の中に小さな貝があり「ますほの小貝」と記されていた。奥の細道の旅行者が探し求めても見つからないと云う「ますほの小貝」を、神主さんにお願いし数個頂戴し、良く整えられた境内の維持管理のご苦労を暫し拝聴した。常宮の集落には12時の時を知らせる懐かしい歌が流れ、情景はまさに歌詞そのものだった。
一、
われは海の子,白浪の
さわぐいそべの松原に、
煙たなびくとまやこそ、
わがなつかしき住みかなれ。
二、
生まれて潮にゆあみして、
波を子守の歌と聞き、
千里寄せくる海の気を
吸いて童となりにけり。
三、
高く鼻つくいその香に、
不断の花のかおりあり。
なぎさの松の吹く風を、
いみじき楽とわれは聞く。
明治43年文部省唱歌
沓の峠越えはややきつく自転車を引いての登りとなる。途中大きな野良犬と鉢合わせし暫し睨み合うが、犬が先に退散しホットする。手ノ浦海水浴場を過ぎ、色ヶ浜バス停から右手の道を下り色ヶ浜集落に入る。
村始めに開山堂があり芭蕉句碑「寂しさや 須磨にかちたる 濱の秋」や西行歌碑「潮染むる ますほの小貝 拾ふとて 色の濱とは 言ふにやあるらん」があり、近くの本隆寺には「小萩ちれ ますほの小貝 小盃」と「衣着て 小貝拾わん いろの月」の芭蕉句碑が狭い境内に残されていた。
寺の前の浜は船溜りで貝を拾う雰囲気にはなく、岸壁から水島を眺めながら昼食のおにぎりを頬張る。
帰りのバス(敦賀駅~立石 1日3往復)を待つ間先程の野良犬とまたも鉢合わせ、人家に近いせいか、彼は一目散に逃げ去った。帰りのバスの車窓からの眺めも良く、気比神宮前で下車し敦賀市内のサイクリングに入る。
気比神宮は北陸道総鎮守・越前の国一宮で、入口には数基の石灯籠を配し朱塗りの大鳥居が神前へと導く。社殿前の広場の一隅に芭蕉像・句碑が木漏れ日の中に立っている。
月清し 遊行のもてる 砂の上 はせを
神宮の横を北東に進み曙交差点を左折し、天満神社横を北に道なりに進むと踏切を越え金前寺に行き当たる。寺の裏手の芭蕉句碑「月いづこ 鐘は沈る うみのそこ」を覘き、金ヶ崎城跡へ向かう。石段手前に駐輪し、結構きつい坂を喘ぎ喘ぎ登ると眼下には無粋な貯油タンクや貯炭場が見え、せっかくの絶景がだいなしだ。
その昔この城では、足利尊氏軍に包囲された新田義貞軍の兵糧が尽き、馬を食し死者の肉を食らった所(1337年3月)とか、また織田・徳川連合軍が朝倉景恒軍をこの城で下したが、浅井長政の裏切りに遭い織田軍は「金ヶ碕の退き口」または「金ヶ崎崩れ」と呼ばれる有名な敗退戦(1570年4月)を演じた地であると言われ、本丸(月見御殿)跡から色ヶ浜方面を眺めつつ、しばし古に思いを馳せた。
市内に戻り、市民文化センター前の芭蕉句碑「国々の 八景更に 気比の月」やレストラン梅田前の「芭蕉翁逗留出雲屋跡」の石柱・芭蕉を色ヶ浜へ案内した廻船問屋跡(あみや旅館裏)を見学し、夕暮れの気比の松原(三保ノ松原・虹ノ松原とで三松原)を散策し宿に入った。
今日の走行距離 19km
芭蕉が大垣へ到着したのは遅くとも8月21日(陽歴10月4日)と言われている。願わくば其の季節感を共有したく10月2日敦賀へ向かう。今年は台風の本土上陸は無かったが、13号と15号は台湾近辺で共に直角に進路を変更し、本州の南海上を東進した。15号台風は昨日熱帯性低気圧となり東洋上に去り、全国的に快晴でこの好天は数日続きそうだ。
東京駅6:23発ひかり401号で米原乗換、敦賀へ9:27に到着した。駅前で自転車を組み上げ、昼食を調達し、今晩の宿を松原町辺りに予約。色ヶ浜に向って出発した。
駅前道路を進み8号線を横切り、土橋バス停先を右折北上し川崎町を左折。松島橋を過ぎ松原公園内を通り花城橋を渡る。道は海岸沿いの絶景が続く一本道となり、快適なサイクリングが楽しめる。これから進む敦賀半島の小崎や白砂青松の海岸線を北に望み、東に敦賀湾越しの青く霞む山波、南には敦賀の町が白く輝いている。
小さな峠を越えると数軒の二村の集落となり浜が美しい。名子の海水浴場(写真)はひっそりと人影はない。海辺には「故陸軍歩兵上等兵勲八等片山松之助之碑」が彼方の小崎を背景に立ち、半世紀以上も過ぎたであろうに、誰が活けたか真新しい菊の花が碑前を飾っていた。縄間(のま)の児童館では運動会が行われ、めずらしく多くの人々が集まって楽しげだ。児童館の前には「縄間区各家先祖代々諸精霊位供養塔」の大きな墓石があり、各家々のお墓を一つに纏めたそうで、彼岸やお盆には村人総出でお参りするとの事で大変合理的だ。
常宮神社の鳥居の横には「国宝 朝鮮鐘」の大岩があり参拝して見る事にした。石亀の口から流れ出る手水で清め、随神門を入ると軒下に多くの貝殻が展示され、小籠の中に小さな貝があり「ますほの小貝」と記されていた。奥の細道の旅行者が探し求めても見つからないと云う「ますほの小貝」を、神主さんにお願いし数個頂戴し、良く整えられた境内の維持管理のご苦労を暫し拝聴した。常宮の集落には12時の時を知らせる懐かしい歌が流れ、情景はまさに歌詞そのものだった。
一、
われは海の子,白浪の
さわぐいそべの松原に、
煙たなびくとまやこそ、
わがなつかしき住みかなれ。
二、
生まれて潮にゆあみして、
波を子守の歌と聞き、
千里寄せくる海の気を
吸いて童となりにけり。
三、
高く鼻つくいその香に、
不断の花のかおりあり。
なぎさの松の吹く風を、
いみじき楽とわれは聞く。
明治43年文部省唱歌
沓の峠越えはややきつく自転車を引いての登りとなる。途中大きな野良犬と鉢合わせし暫し睨み合うが、犬が先に退散しホットする。手ノ浦海水浴場を過ぎ、色ヶ浜バス停から右手の道を下り色ヶ浜集落に入る。
村始めに開山堂があり芭蕉句碑「寂しさや 須磨にかちたる 濱の秋」や西行歌碑「潮染むる ますほの小貝 拾ふとて 色の濱とは 言ふにやあるらん」があり、近くの本隆寺には「小萩ちれ ますほの小貝 小盃」と「衣着て 小貝拾わん いろの月」の芭蕉句碑が狭い境内に残されていた。
寺の前の浜は船溜りで貝を拾う雰囲気にはなく、岸壁から水島を眺めながら昼食のおにぎりを頬張る。
帰りのバス(敦賀駅~立石 1日3往復)を待つ間先程の野良犬とまたも鉢合わせ、人家に近いせいか、彼は一目散に逃げ去った。帰りのバスの車窓からの眺めも良く、気比神宮前で下車し敦賀市内のサイクリングに入る。
気比神宮は北陸道総鎮守・越前の国一宮で、入口には数基の石灯籠を配し朱塗りの大鳥居が神前へと導く。社殿前の広場の一隅に芭蕉像・句碑が木漏れ日の中に立っている。
月清し 遊行のもてる 砂の上 はせを
神宮の横を北東に進み曙交差点を左折し、天満神社横を北に道なりに進むと踏切を越え金前寺に行き当たる。寺の裏手の芭蕉句碑「月いづこ 鐘は沈る うみのそこ」を覘き、金ヶ崎城跡へ向かう。石段手前に駐輪し、結構きつい坂を喘ぎ喘ぎ登ると眼下には無粋な貯油タンクや貯炭場が見え、せっかくの絶景がだいなしだ。
その昔この城では、足利尊氏軍に包囲された新田義貞軍の兵糧が尽き、馬を食し死者の肉を食らった所(1337年3月)とか、また織田・徳川連合軍が朝倉景恒軍をこの城で下したが、浅井長政の裏切りに遭い織田軍は「金ヶ碕の退き口」または「金ヶ崎崩れ」と呼ばれる有名な敗退戦(1570年4月)を演じた地であると言われ、本丸(月見御殿)跡から色ヶ浜方面を眺めつつ、しばし古に思いを馳せた。
市内に戻り、市民文化センター前の芭蕉句碑「国々の 八景更に 気比の月」やレストラン梅田前の「芭蕉翁逗留出雲屋跡」の石柱・芭蕉を色ヶ浜へ案内した廻船問屋跡(あみや旅館裏)を見学し、夕暮れの気比の松原(三保ノ松原・虹ノ松原とで三松原)を散策し宿に入った。
今日の走行距離 19km