思い出をあける鍵

ダブルディスクのエンピツマフラー再生記

思い出をあける鍵 part4

2013年01月01日 | 思い出をあける鍵

1975年、高校生になってから即行ではじめたアルバイトは「新聞配達」やったね。
ファミレスもコンビニも無かった時代、当時「つれ」のあいだでは1番メジャーなバイト。
最初は60軒くらいから始まったかなぁ、まだ免許の無い15歳やから自転車で配った。
後ろの荷台に新聞屋の親方にくくってもらってた。
(後々、この親方の紹介でピカピカのB5を買うんやけどね)
新聞配達は2年半くらい続けたかな、最終的には220軒くらい配ってたっけ。
朝は4時半に起きて「新聞配達」、学校で授業中爆睡してたな。
初めてもらった給料は6千3百円あまり、現金で茶封筒に入ってた。
今でもお覚えてるけど、自転車でそのままレコード店に直行したもんね、
アグネスチャンのLPを3枚、今で言う「大人買い」。(それで給料全部無くなったんだな)


ヤマハ RD350、滋賀県自動車教習所で乗ってた、教習車。
写真はPMAの模型です、クオリティ高いでしょ!!パッと見、本物みたい。
(写真を撮った人の腕がええんだな・・・俺やけど)
ネットでこの模型見つけた時は懐かしさのあまり衝動買いした、思い出の単車の1台。
アイドリングでもすごい煙やったね、今から思うとそんなピーキーやなかったかな。
1本橋、スラローム、急制動、全部この単車でやった。
僕は2月生まれやから「つれ」の中で免許を取るのが一番遅かったね。
誕生日の早いやつは教習所で「自動二輪」が取れた、
僕の免許は「自二車は中型に限る」・・・・
悪夢の免許改正があったのが1975年10月1日やったからね。
「ゆたか」がよう言うてた。
「俺な、10月15日が誕生日やけど、何とかならへんかなぁ。」
「お前、・・・それは無理とちゃうか~」(当たり前に無理やったけどね。)


1976年4月26日、この日だけは一生忘れません。
堂々と単車で一般道を走れる日、運転免許証の交付日でした。
当時は筆記試験に合格してから交付まで1ヶ月かかった、待ちに待った日。
この日は6時間めの授業をさぼって「守山」の免許センターまで免許証をもらいに、
ゆたかの後ろに乗せてもろうて行ったなぁ、(当然、ゆたかも一緒に授業さぼってくれた)

4月26日の夕方4時に納車されたのは新車の「KAWASAKI KH 400」
うれしかったなぁ・・・初めての自分の単車。
誰に聞いたのか「つれ」が4台くらい集まって来てたかな、
「ゆたか」以外、誰にも言うてへんのに。(なんで知ってんの??みたいな)
それからみんなで陽が沈むまで走った、どの道をどう走ったかは、もう忘れたけどね。

当時、新車の車体価格が30万の単車やから当然、月賦(今で言うローン)
「保証人」がいったんやね、(当たり前や、未成年やもんね)
まだ子供やからそんな事知らんかった。(保証人・・・って・・何それ・・)
父親に拝みたおして、書類を持って行って
「絶対迷惑はかけんから、頼むしハンコ押して!!」
「あかん」
「・・・・・」
そんな攻防が1週間くらい続いた。(現金で買える中古車、探すか・・・・)
と・・くじけかけた日の朝。
座敷の机の上に置いておいた分割払いの申し込み用紙にハンコが押してあったっけ。
喜んだねぇ~、「よっしゃぁ~!!」
感謝感激というのはこの時の気分やね。

写真は16歳の秋くらいの写真、若いねぇ~~って言うか・・・ほそ(細)!!
1976年4月26日、この日から単車との毎日が始まったんだな。