意識の進化、次元上昇をアシストする“イエス-道(Jesus,the Way)”

“イエス-道”という視点から、人生を生きる秘訣・コツを考える“斬新的な聖書リサーチ”

1月1日(月)更新 『十人のおとめの譬』を再考する(その2)

2018年01月01日 16時58分26秒 | イエス-道

*** このブログは、『十人のおとめの譬』を再考する(その1)からの続きです ****

 

 

ここで、いわゆる『ラオデキヤ教会へのメッセージ』の中身を観て参りましょう。

 

黙示録3章17節には、「あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない」とあります。


イエス自身は、信じると公言している人たちの現実、現状をしっかりと見ており、把握しておられます。ところが、"信者たち"の多くは自分たちの現実の姿が全く見えていない、気づいていないという状況があるというのです。


かつて、十字架にかかったおられたイエスの口から、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているか、わからずにいるのです。」(ルカによる福音書23章34節)と語られました。


イエスの再臨と神の国の到来を、今か、今かと待ち望んでいるキリスト教徒においても、これと同じような状況が見られるというわけです。


言い換えれば、未信者だけの問題にとどまらず、キリスト教の信者においても見られる、共通した本質的な問題というものがあるということです。両者に共通しているその本質的問題というのは、気づけないほどに、あるいは、わからないほどに、心が鈍くなっている、心が覆われてしまっている·····ということなのです。これはまさに山上の説教の中で言われているように、目に"梁"があるために霊的に盲目になっていることを意味します。

 

さらに、このように記されています。「そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。 ・・・・見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(示録3章18節~20節)


ここでのキーワードは、「火で精錬された金」、「白い衣」、「目にぬる目薬」です。そして、これら3つのものを手に入れることが、「戸をあける」ということである·····と、私は観ています。逆に言うと、これら3つを持っていない人々は、『主イエスに対して心の戸をあけることを拒んでいる』ということです。


では、これら3つのキーワードは、一体、何を象徴しているのでしょうか?


火で精錬された金」というのは、ぺテロの第一の手紙1章5節~7節から観ると、『信仰』を象徴していると考えられます。


目にぬる目薬』とは、エペソ人への手紙1章17節から観ると、「知恵と啓示との霊」と呼ばれている『神の聖霊』を象徴していると考えられます。


白い衣」とは、イザヤ書51章8節、ピリピ人への手紙3章9節、ローマ人への手紙3章21節~28節から観ると、『イエス·キリストを信じる信仰にもとづく神からの義』を象徴していると考えられます。イエスは、山上の説教の中で「あなたがたの義律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。」と語りました(マタイによる福音書5章20節)。ここでイエスが天国に入るための条件として提示された"律法学者やパリサイ人の義にまさっている義"というのは、『神の義』であることは明らかです(マタイによる福音書6章33節)。さらに、使徒パウロは、この『神の義』 は、『福音』の中に啓示されたと述べており、『信仰』との深い関わりについても述べています(ローマ人への手紙1章17節を参照)

 

そして、これら「火で精錬された金」·「白い衣」·「目にぬる目薬」の3つをすべて網羅して、使徒パウロがズバリと述べた言葉というのが、以下のガラテヤ人への手紙5章5節なのです。

わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によってとされる望みを強くいだいている。


このような神の御霊の助けが関与した『信仰による義認』という一つの重要な救いに関する教えこそが、黙示録3章の『ラオデキヤのメッセージ』の内容そのものであるわけです。


 

『神の義』と『神の愛』

 

ところで、主イエスが十字架上で罪の身代わりとして死なれた時に、『神の義』が現されたと使徒パウロは述べています(ローマ人への手紙3章21節~26節を参照)。さらに、パウロはイエスの十字架の死を通して、『神の愛』が現されたことも述べています(ローマ人への手紙5章6節~8節を参照)。


この『神の義』と『神の愛』の関係をどう観るかということも、重要なポイントの一つではないかと、私は想っています。


神の『』と『』を別々に切り離して捉えて、神にはこれら2つの別々の相反する側面があると観る方が、人の頭では(理性的には)わかりやすいかも知れません。


ところが、人の頭の中で、神のイメージが『』の方に振れた時には『』の方が減っているように思え、逆に、『』の方に振れた時には『』の方が減っているように考えてしまう傾向があります。あたかも、『』と『』は、対極にあるもの、一つにはならない別々の相反する神の属性であるかにように捉えるのが、一般的ではないでしょうか? 

 

でも、このような観かたをすると、神は罪人をそのまま受け入れることは不可能であって(神の義が満たされていないので)、神の御子イエスが罪人の身代わりとして十字架上で犠牲となられたために(神の義が満たされたので)、ようやく神が罪人を受け入れることが可能になった·····そのように考えられてしまいます。つまり、無条件の愛、無償の愛で罪を犯した人を受け入れるような神ではなくなってしまうのです。一定に条件や要求が満たされて初めて罪を犯した人を神は愛し受け入れることができるということになってしまうわけです。もしそうなら人間レベルに格下げされた神の愛になってしまいます。もちろん、その方が私たち人間は納得しやすいと想います。この世の常識や善悪の判断基準に照らしても、人は理解しやすいわけです。

 

はたして、そうなのでしょうか? これが『福音』、すなわち、グッドニュースと呼べるものなのでしょうか?


もしそうならば、神の愛というものは、人間の想定内のものに限定されてしまいます。サプライズも、新鮮さも、そこには存在しないのです。

 

2017年12月3日 日曜日 更新、12月5日 火曜日 補足更新、12月17日 日曜日 補足更新


『福音』というものは、人のマインドで納得するようなレベルを超えているもの·····、人が思いつくような範囲から逸脱しているもの····普通の人が想定していることをはるかに超えているもの·····。


イエスは山上の説教の中で、以下のように語られました。

 

『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイによる福音書5章43節~48節)

 

これは、天の父なる神の愛は、人間の想像や想定をはるかに超えた無償の愛、無条件の愛、測り知れない程の愛であることを述べていると想われます。


さらに、イザヤ書55章8節~9節には、

 「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。

とも記されています。つまり、神の思いを人の思いをはるかに超えているのであり、もし人の思いの視点から神を捉えてしまうと、ひどく誤解してしまうことになるのです。

 

使徒パウロも、コリント人への第一の手紙2章7節~11節の中で、以下のような興味深いことを述べています。

「わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。しかし、聖書に書いてあるとおり、『目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた』のである。そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。」

 

つまり、『福音』の中に隠された奥義といえる「神の深み」に関するもの、すなわち、「神の思い」というものは、「人の心に思い浮びもしなかったこと」なのであり、人の思いよりもはるかに高いのです。

 

 使徒パウロはまた、「神の義は、その福音の中に啓示され、······」(ローマ人への手紙1章17節)と述べています。つまり、「神の義」は、『福音』の光を当てて観ないといけないわけです。『福音』の光の中で「信仰」の目で観た時に、真実の「神の義」を観ることが可能になるのです。「神の義」を単にマインドで捉えようとすると、誤って捉えてしまうことになりかねないのです。

 

ところで、使徒行伝13章38節では、福音は「罪のゆるしの福音」と呼ばれています。"罪のゆるし"というのは、神の"寛容の愛"を意味します。神の御霊によって信仰の目が開かれて"福音"の光の中で「神の義」を観る時に、実に「神の義」と「神の愛」が一つのものであったことに気づかされるのです。

 

一方、使徒ヨハネは、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。」(ヨハネによる福音書3章6節~18節)と述べています。

 

でもヨハネがここで言いたいことは、神の御子イエスが罪人である人類の身代わり、罪の犠牲となったから、天の父なる神は罪を犯した人類を愛することができるようになった······ということではないと想います。また、御子イエスの犠牲があったからこそ神は人を愛し、救うことができるようになったということ、そして、それを信じることを条件に、人が神の救いにあずかることができる ?  でもこれは、どこか微妙に違うのはないか······と感じてしまうのは、私だけでしょうか ?

 

ヨハネは、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じるがひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」と述べています。では、私たちが滅びないで、永遠の命を得るためには、一体、どのように御子イエスを信じればいいのでしょうか ? ·······

(12月11日 月曜日 更新、12月17日 日曜日 補足更新) 


イエスが再臨される時に準備が出来ていなくて、戸がしめられて、天国に入り損なってしまうことになる『思慮の浅い者たち』は、自分たちはこれまで神の御子イエスを信じてきたのに、なぜ天国から閉め出されてしまうのかが理解できない、納得がいかないと想います。


滅びることなく、永遠の命を得るためには、ただ単に信仰の対象を『神の御子イエス』に設定することだけでは不十分と言えるのです。なぜなら、「主よ、主よ」と言うキリスト教信者の多くが、神の国に入り損なってしまうことが、山上の説教の中でイエスご自身が指摘されているからです。


信じる』とはどういうことなのかを知らなければならないのです。これは、とても重要なことです。




ヨブ記と『十人のおとめの譬』


皆さんは、旧約聖書のヨブ記を読んだことがあると想います。ヨブ記では『神の義』か『ヨブの義』かということが論争のテーマであると思う人が多いかも知れません。確かに、ヨブ記を読むと、いついかなる時でも変わらぬ『神に対する忠実、誠実、服従』が問われているかのような印象があります。『信仰』とか『信じる』ということは、中心テーマとはなっていないように思われます。そして、結局、なぜヨブが試練から救われたのか、その真相がわからないまま、やがてヨブ記を読むことに興味がなくなってしまった人は多いのではないでしょうか。ヨブ記には希望がない···、ヨブ記を読んでも、感動を覚えない···、ヨブ記は難解過ぎる····。はたして、本当にそうなのでしょうか?


ヨブ記は、一見、『十人のおとめの譬』とは無関係に思えるかも知れませんが、実は、ヨブ記の謎が読み解けると、『思慮の浅い者』が『思慮の深い者』に変身していくことになるのです。

 

ヨブ記の謎解きにおいて注目すべき箇所というのは、ヨブ記42章5節です。

わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。

 

もし、この聖句がなければ、ヨブ記はずーっと謎のままだったと想います。この聖句こそが、実は、イエスの山上の説教における核心メッセージとの接点となるものなのです。ここにこそ、ヨブがいかにして試練から救われたかについての真相があるのであり、また、『思慮の浅い者』が『思慮の深い者』に移行していく秘訣もあるのです。

 

「わたしはあなたの事を耳で聞いていました」というのは、これまでの過去情報(常識、伝統、既成概念、固定観念、噂など)というフィルターを通して間接的に神を捉えていた、見ていたということです。このレベルでヨブと3人の友人たちが神やヨブの試練について論争していても、試練からの解決策や打開策も全く見いだすことは出来なかったのでした。また、神に関してもかなり誤解してしまっていたのでした。

 

ヨブが試練から救われるためにどうしても必要なこと、それはヨブが「わたしの目であなたを拝見」することだったのです。自分の目で神を拝見する、見るということは、過去情報に照らしてマインドを働かせて"さばくということ"をやめることで、心の目(=信仰の目)にある“梁”を取り除いて、神をあるがまま観ていくということを意味します。神に関しての誤解を解くことこそが、ヨブの試練が消えていくために"なくてはならないただ一つのこと"だったのです。これさえなされれば、ヨブにとって試練が存在する意味はなくなってしまうのです。つまり、試練は、自ずと消えていかざるを得なくなるのです。

 

つまり、ヨブ記の中心メッセージは、イエスが語った山上の説教の核心メッセージそのものだったことがわかるのです。

 

そして、『思慮の浅い者』は、"さばくこと"をやめる時に心の目から"梁"が取り除かれて、『思慮の深い者』になっていくというわけです。

(12月17日 日曜日 更新、12月24日 日曜日 補足更新)。



『十人のおとめの譬』の結論


この『十人のおとめの譬』の結論としてイエスは、「だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。」(マタイによる福音書25章13節)と語りました。


ここで言われている『目をさましていなさい』というのは、心の目(=信仰の目)の視界を遮っていた"梁"を取り除いて、ハッキリと肉眼では見えない真実、真相、事実、真理を観て、捉えることを意味します。そして、このことは人がさばくことを止める時に初めて可能となる····というのが、実にイエスの教えなのであり、山上の説教における核心メッセージでもあるのです。

(2018年1月1日 月曜日 更新)。

▦▦▦▦ END  ▦▦▦▦▦

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11月27日(月)更新 『十人のおとめの譬』を再考する(その1)

2017年11月27日 23時35分48秒 | イエス-道

十人のおとめの譬』を再考する(その1)



2013年11月5日に更新した十人のおとめの譬という私が書いたブログがあります。


最近でも、この十人のおとめの譬がしばしば閲覧されているようです。ありがとうございます。


今になって、その時に書いたブログを読み返してみると、一部ですが捉え方が違ってきていることに気がついたので、今回のブログでは、その点を改訂したいと想います。


イエスの山上の説教における核心的教えの一つは、「さばくな」ということであることは、これまで何度も私は繰り返し述べてきました。


それは、“他者をさばかず”ということだけではなく、“自分自身をもさばかず”・・・ということです。


過去、あるいは、今、“自分はこう考える”ということがあるとします。その場合、それを絶対正しいとか、間違いないとかと思い込んだり、決めつけたりしないことが大切なわけです。言い換えれば、自分が判断したこと、考えたこと、結論を出したことを自分のうちで固定化して、固定観念にしないということが重要なわけです。


その時点で自分が持っている情報に照らして捉えると、そのような結論になるが、今後さらに新たな情報が増えてきたり、より高い次元から観ることができるようになったら、その時とは違った観かたや捉え方が可能になるかも知れない・・・というふうに、常に柔軟性のある考え方を身に着けていくことがとても大切であることをイエスは山上の説教で説かれたと、私は想っています。


井の中の蛙、大海を知らず』という諺をいつも肝に銘じ、今の私は  もしかしたら まだ『井の中』という“限られた情報”の中にいる『』なのかも知れない。私が“まだ知らない情報”の『大海』というものが存在しているかも知れない・・・・と、観ていくわけです。これが、「さばかない」ということです。


このような柔軟な観かたや捉え方を捨ててしまう人が、実は、「さばく人」に容易に変身してしまうのです。



あかり


さて、改訂したいのは何かというと、『十人のおとめ』の譬の中で イエスが語った「あかり」は何を象徴しているか・・・・という点です。


「そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。」(マタイによる福音書25章1~13節


2013年11月5日に更新した十人のおとめの譬というブログの中では、「あか」というのは神の御言葉』ではないか・・・と私は捉えていました。でも、このような解釈は、あまりにも漠然とし過ぎています。


その後、イエスが語った山上の説教をさらに読み解いていった結果、あかり」というのは むしろ「あなたの内なる光」(マタイによる福音書6章23節)そのものを象徴していたのではないか・・・・ということに気づきました。


つまり、「わたしたちのあかり消えかかっていますから」というのは、山上の説教の中でイエスが語っておられた「もしあなたがたの内なる光暗ければその暗さは、どんなであろう」(マタイによる福音書6章23節)に対応していたわけです。つまり、「わたしたちのあかり消えかかっていますから」を、言い換えると、「わたしたちの内なる光暗くなっていますから」という意味になるわけです。


そして、譬の「」を「真理の御霊」と捉えていくと、「あかり」と「」の関係もスッキリと解ってくるのです。


今後、当ブログで、このあかり」と「」の関係についての説明も加えていく予定です。


 

知識のかぎ


ところで皆さん、女性シンガー中島美嘉が歌う『WILL』という有名なナンバーをご存じでしょうか? これは、ずっと以前から私が注目しているナンバーの中の一つです。実は、このWILL』の中に興味深いフレーズがあるのです。それは何かと言うと、

   「記憶が星座のように 輝きながら繋がる 

    バラバラに見えていたけど  今ならわかるよ WOW WOW

    記憶が星座のように ひとつになって教える

というフレーズです。


イエスは、かつて、「あなたがた律法学者は、わざわいである。知識のかぎを取り上げて、自分がはいらないばかりか、はいろうとする人たちを妨げてきた。」(ルカによる福音書11章52節)と語ったことがありました。


ここで言われている『知識のかぎ』というのが、イエスが山上の説教で説いた「さばくな」という核心的な教えのことではないか···、そのように私は個人的には観ています。


使徒パウロは、コロサイ人への手紙3章14節で、は、すべてを完全に結ぶ帯であると記しています。


こそが、長い間バラバラだった聖書の教え、あるいは、単なる寄せ集めに過ぎなかった聖書の教え、人を完全に結びつけていくというわけです。その結果、聖書の様々な教えは、輝きながら繋がっていき、パズルがピタッと合うように スーッとひとつにまとまっていき、全体像が姿を現してくるのです。


「神はである」と聖徒たちは、証言しています。そして、イエスは山上の説教の中で示された神の“”というのは、良い者と悪い者、正しい者と正しくない者とを区別したり、別け隔てしたりしない愛、言い換えると、“寛容の愛”のことだったのです。


イエスが説いた山上の説教におけるメッセージにおける核心部分というのは、「さばくな」である・・・と私は捉えています。さばかないことは、実は、寛容の愛に基づいている行為そのものと言えます。


イエスが教えた「さばくな」の重要性とそれがどういうことなのかがわかってきて、しかも、それを実際に実践していくと・・・・

星座のようにこれまでバラバラに見えていた星々が輝きながらスッと繋がり、ひとつの星座となって姿を現して来るのと同様に、 これまで学んで断片的だった聖書の知識、頭の中でバラバラに記憶されていた聖書の数々の教えというものが、「さばくな」というイエスの教えに照らして聖書を学び直して観ると、そこに隠された真理の輝きが見えてくるのです。本来の意味がすーっと伝わってきて、全体像がわかってくるのです。何がいったい重要な真理かということがわかってくるのです。


人はさばくことをやめた時に、その人の心にかかった覆いが取り去られて、心の目の視界が開けてくるので、真理の輝きが見えてくるのです。また、神の本来の栄光も見えてくるようになるのです。これが、マタイによる福音書7章1節~5節が意味していることでもあるのです。これが、その人の『内なる光』が明るく輝いている状態なのです(マタイによる福音書6章22節23節を参照)。


このように、「さばくな」というイエスの教えは、まさに聖書が人に提供している知識を解く“”と言えます。



戸がしめられた


十人のおとめ』の譬の中には「戸がしめられた」とあります。花婿がようやく到着した時に、思慮の浅い者たちが花婿と一緒に婚宴のへやに入ることが出来なかった、すなわち、イエスを再臨を待ちわびていたクリスチャンたちが準備不足のために天国に入り損なってしまったということになります。でも、ここから学ぶべき重要なポイントがあるのではないか·····そのように私には思えてならないのです。


では、この譬にある戸がしめられた」という言葉をどのように観ることができるのでしょうか?

 

黙示録3章には、いわゆる『ラオデキヤ教会へのメッセージ』があります。さて、ここの3章20節には、主イエスが「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている」と描写されています。この箇所と十人のおとめ』の譬の中の「戸がしめられた」とをリンクさせて捉えていくと、面白いのではないかと想います。


どういうことかと言うと······「あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。」(マタイによる福音書7章2節)という視点から観ていくわけです。

 

つまり、戸をしめられてしまうことになる「思慮の浅い者たち」というのは、主イエスが彼らの心の戸を以前に何度も何度もたたいていたにもかかわらず、その戸を内側から開けて迎え入れようとせず、むしろ、戸をかたくロックしていたのです。


これが、『あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ····』ということなのです。


では、「思慮の浅い者たち」は、どのようにして、主イエスに対して心の戸を閉ざしたのでしょうか?


その答えは、『ラオデキヤ教会へのメッセージ』を解読していくとわかります。·············

2017年11月19日 日曜日、11月27日 月曜日 補足更新 ▦▦▦▦ まだまだ続きます。お楽しみに ▦▦▦▦▦

 

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11月11日(土)更新『放蕩息子の譬』(その2) ー "イエスー道"から読み解く

2017年11月11日 13時30分20秒 | イエス-道

『放蕩息子の譬』(その2)-"イエスー道"から読み解く


ところで、使徒パウロは、『信仰が律法を確立する』と言いました(ローマ人への手紙3章31節を参照)。


でも、敢えて私は補足して言いたいのです、『信仰が律法を確立する。そして、その信仰を確立するのが、“さばくな”というイエスの教えである。』 と。真の信仰とは、"さばかない"ということが大前提となって初めて成立するものなのです。さばいていない状態にいる時に、その人の信仰の目の視界は開けて、肉眼や外見では捉えられない真実、事実、真理が姿を現してくるようになるのです。


"さばかないこと"を実践することによって、海の波のように揺れ動いていた信仰は、確固たる信仰へと変わっていくのです。愛なき信仰は、愛によって働く信仰へと変化を遂げていくのです。空虚な信仰は、充実した、地に足がついた信仰へと変貌していくのです。信仰の目が覆われていたために神を頭で捉えてしまって、神をかなり誤解していた人は、"さばくことをやめた"時に、信仰の目の視界が開けて、神の真実の栄光を目の当たりにするのです。


実は、ヨブ記の謎を解き明かす鍵も、ここにあったのです。ヨブは、「今はわたしの目であなたを拝見いたします。」〈ヨブ記42章5節〉と証言しました。 つまり、ヨブが"さばく"というマインド主導の思考プロセスを停止した時に、ヨブの信仰の目が開かれて、「内なる光」〈マタイによる福音書6章23節〉主導の直観で神を捉えたというわけです。その結果、ヨブの試練が霧が晴れるようにサーっと消えて去ったということなのです。


さて、そんなふうに信仰の目が開かれて、神の本来の栄光がハッキリと見えるようになった人たちは、使徒ヨハネと共に「わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます」(ヨハネの第一の手紙4章16節)と、また、使徒パウロと共に「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」(ローマ人への手紙5章6節~8節)と、確信を持って証言するようになるのです。

(11月4日 土曜日更新、11月11日 補足更新) 


ところで、この放蕩息子の人生の流れの方向が変わったターニングポイントがありました。つまり、これまでの放蕩と浪費の人生に終止符を打ち、踵を返して父のもとへと帰っていったターニングポイントです。それは、この放蕩息子が『本心に立ち返った時』だったことは明らかです。


では、イエスの山上の説教の文脈から観ると、"本心に立ち返る"とは何を意味するのでしょうか?


それは、これまで"信仰の目"に「梁」があったために、「内なる光」が暗くなっており、その結果、自らの人生において ずーっと マインドの判断に基づいた行動を取ってきた人が、"さばくこと"をやめた結果、「梁」が取り除かれ、「内なる光」が息を吹き返したように明るく輝きだし、そこから物事を捉えることが可能になったということ(マタイによる福音書6章22節~23節、同7章1節~5節を参照)。そして、自分自身の「内なる光」主導の新しい生き方へとシフトしていったということ。これが "本心に立ち返る"ということ。このように私は観るのです。


この譬にある放蕩息子においてもが“さばくことをやめた“結果、これまでの古い生き方(=マインド主導の生き方)から 新しい生き方(=「内なる光」主導の生き方)にシフトしていったために、自らの「内なる光」に導かれるようにして 父のもとへと帰っていくことができたわけです。同様に、いかなる人も“さばくことをやめた“時に信仰の目が開かれ、神の真実の愛に気づいて、天の父なる神のもとへと立ち帰っていくようになるのです。


一方、放蕩息子の兄の方はどうでしょうか?


兄は、本心に立ち返ることはなかったのです。弟と父をさばき続けていたからです。従って、兄の目から"梁"が取り除かれることはなく、「内なる光」は暗くなったままだったのです。


この世界には、大勢の人間が住んでおり、それぞれの人生を送っています。キリスト教信者の立場から観れば、人類を『クリスチャン』か、『クリスチャンでない』か····の2つのグループに分類するかも知れません。


でも、イエスの山上の説教に基づいた『イエスー道』の視点から観れば、そのような分類には意味がないと、私は想うのです。


むしろ、放蕩息子のようなタイプの人か? あるいは、兄のようなタイプの人か? この2種類に分かれるのではないか。言うまでもなく、『放蕩息子のタイプ』というのは、"さばく生き方"から"さばかない生き方"へとシフトしていった人のことです。一方、『兄のタイプ』というのは、あくまでも"さばく生き方"にとどまり、さばくことに固執する人のことです。


自らの人生において どちらを選ぶかは、その人次第です。誰にでも自由に選ぶ権利があります。他の人が、人の生き方にとやかく言うことはできませんし、無理やり 人の人生の中に介入したり、干渉したりすることは、人に与えられた自由意思を踏みにじることになってしまいます。


人生をどう生きるかにおいて、すべての選択肢はその人の前に置かれています。でも、天の父なる神に立ち返ることが出来るか 出来ないか、天国(神の国)に入れるか入れないか、イエスが提供している救いにあずかれるか あずかれないか、岩の上に建てた家になるか 砂の上に建てた家になるかという点に関して言えば、選択肢は多くはありません。いえ、2つだけです。『さばかない』(=『内なる光』主導の新しい生き方)か『さばく』(=これまでやってきたマインド主導の生き方)かだけしかありません。


果たして、あなたはどちらを選ぶでしょうか?


山上の説教におけるイエスのアドバイスは、とても明解でシンプルです。それは、「さばくな」です。

(11月5日 日曜日、11月11日 土曜日  補足更新)  
 

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11/4(土)更新 『放蕩息子の譬』(その1) - “イエス‐道”から読み解く

2017年11月04日 06時35分58秒 | イエス-道

『放蕩息子の譬』  “イエス‐道”から読み解く

 

 

今回のブログでは、イエスが語った有名な『放蕩息子の譬』を“イエス-道”というスタンスから捉えていくと、どのようなことが浮き彫りになってくるのか·····そういう点を観ていきたいと想います。

 

『放蕩息子の譬』は、ルカによる福音書15章11節~32節にあります。この譬を通してイエスが本当は何を伝えたかったかについて知ることは、とても重要なことである・・・・と、私は観ています。


実際、私がイエスの山上の説教の中に“イエス‐道”を見い出す前と後では、『放蕩息子の譬』の私自身の捉え方が随分と変わりました。


この『放蕩息子の譬』の中にも、実は、山上の説教における核心的な教えである“イエス‐道”の真理そのものが脈々と息づいているのです。これを見逃したら、もったいないと想うわけです。


弟(=放蕩息子)だけではなく、その兄も登場することで、実は、『放蕩息子の譬』に秘められた真理が より鮮明に、また、より立体的に浮かび上がってくるのです。


さて、これからご一緒に、イエスが語られた『放蕩息子の譬』に想いを巡らせて参りましょう。  (10月15日 日曜日 更新)


ところで、イエスが放蕩息子の譬を語られる前に、百匹の羊を持っていた者が、そのうち一匹を羊がいなくなったところ、九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を捜し歩くという譬と、銀貨を十枚持っていた女が、家中にあかりをつけて、そのうちのなくした1枚が見つかるまで注意深く捜し回るという譬を語っておられます。


そして、百匹の羊の譬、10枚の銀の譬、放蕩息子の譬のすべてに共通してイエスが述べられた結論というのは、罪人が一人でも悔い改めて、神のもとに立ち返って救われる時に、天には大きな喜びがあるということです。


ところが、今回、当ブログで取り上げる『放蕩息子』の譬には、百匹の羊の譬や10枚の銀の譬では語られていない重要なメッセージがあるのです。


そして、『放蕩息子』の譬の中でイエスが敢えて語られたこの重要メッセージこそが、実は、“神の救いとは何か?”、言い換えれば、“人は如何にして救われるのか?”を解き明かすための解り易いヒントになります。


譬の中に登場する放蕩息子とその兄の違いが一体どこにあるのかを、じっくりと見極めていく必要があります。


この譬の中で描かれている兄というのは、この当時のパリサイ人たちや律法学者たちを象徴していると考えられますが、実際にはイエスを神の御子と信じると告白している多くの人たちも含まれているのではないか·····と、私は観ています。


兄の考え方をこの世の常識に照らして観た場合、理にかなった、何ら違和感のないものと思われるのではないでしょうか? 実に多くの人たちがこの兄の主張を支持してしまうことになると想うのです。この弟は父の財産のうち自分の取り分を前倒しで父に要求して手に入れ、さっさと自分のものを全部取りまとめて遠い所に行ってしまったのです。そこで放蕩に身を持ちくずして財産をすべて浪費してしまい、まもなく、食べることすらできなくなって困り果ててしまい、意を決して、家に舞い戻ったのでした。


これだけでも虫が良すぎる話と感じられるのに、父も父で“BIP待遇”で弟を喜んで向かい入れて、さらに宴会までも催したというわけです。そのことを知った兄が自分の今の待遇のレベルと比べると、勝手に家出した弟の処遇というのは不公平きわまりない·····というわけで、この兄は頭にきて、家の中にも入ろうとせず、兄をなだめに来た父に抗議さえしているのです。


多くの人は、兄のこの主張は当然と言えば当然のこと、当たり前のこと、常識的なことをいっているわけで、“正論なのでは・・・”と思ってしまう方が多いのではないでしょうか? でも、そのように思ってしまうと、イエスが説こうとしている“救いとは何か?”が解らなくなってしまうのです。言い換えれば、福音の真理が覆われてしまうことになるのです。


放蕩息子に対する父の対応や待遇は、兄の目には理不尽なこと、非常識なことのようにしか映らなかったのです。兄が自分の頭(=マインドによる思考プロセス)でどんなに考えても、それは決して納得できるものでもなく、承服できるようなものでもなかったわけです。


もし自分の取り分を父に要求して、放蕩に身を持ちくずして、無一文になって のこのこと家に舞い戻ってきたこの弟に家の敷居をまたがせないとか、勘当してしまうとか、たとえ家に向かい入れたとしても父が弟にくどくどと説教したり、文句を言ったり、怒りをぶつけたり、キツく叱ったり、また、初めのうちは奴隷のように働かせた上で、それで使い果たした分を取り戻した後に息子として受け入れようと父が言ってたら、この兄も納得がいったかも知れません。


でも、そのような発想や考え方に固執していると、イエスが教えようとしている“神の救いに関する真理”が確実に見えなくなってしまうのです。


この譬の中で弟と兄を対照的に述べることで、“いかにして人は神の救いにあずかることができるのか”についてイエスは語られました。

では、この兄が抱えている問題というのは、いったい、どこにあるのでしょうか?

(10月21日 土日曜日、10月22日 日曜日 更新) 

 

それは、この兄が弟(=放蕩息子)に対する父の思いがどのようなものであるかを全く知らなかったことです。これはまさに、罪人(=神から離れて行った人類一人一人)を一人でも多く救おうとさjれている天の神のうちに秘められた思いがわからなくなってしまっていたことを象徴しています(コリント人への第一の手紙2章6節~11節を参照)。


この放蕩息子に対する父の思いは、愛そのものです。放蕩息子は過去における自分の過ちをしっかりと反省し、これまでの未熟な行為を改めて、償いをしてからようやく受け入れられ、息子としての愛を受ける対象となるということではないのです。


本心に立ち返り、これまでの自分の罪を認めて悔い改めたからというわけで、家に戻った放蕩息子に対する父の愛が以前のような100%の愛に回復して、迎え入れることできたということではありません。まだ本心に立ち返っておらず、自分の罪を悔い改めていなかった時でさえ、父は喜んで迎え入れる程に、彼を愛してやまなかったのです。


「まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。」(ルカによる福音書15章20節~24節)


このようにイエスは譬の中で述べておられますが、ここから読み取れることは何かというと·····。自分の取り分の財産を要求して、それを持って家を出ていったその時でさえ、放蕩に身を持ちくずしているその最中でさえ、また、まだ本心に立ち返っていないその時でさえ、この息子に向けられた父の愛は100%だったのです。つまり、いつ、いかなる時でも、息子は父の惜しみない愛の対象であることに変わりはなかったのです。これまでの過去がどうだったとしても、また今がどういう状況であったとしても、常に変わることなく父は息子をウェルカムなのです。息子のあるがままを包み込むように受け入れることができる、とてつもないほどの懐の広さを持っていたのです。


罪の中にあって さ迷っている人類一人一人に抱いておられる神の愛も、まさにこれと同じなのです(ローマ人への手紙5章8節を参照)。イエスは山上の説教の中で、「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。」(マタイによる福音書5章45節)と語られたように、良い者も悪い者も分け隔てをすることがない"寛容"をベースとした『神の惜しみない愛』の対象から外されることはないのです。生涯において、いかなる失敗、失態、過ち、汚点、黒歴史を持っている人だとしても、神の限りなき愛の対象に変わりはないのです。神から注がれる愛(ローマ人への手紙5章5節を参照)は、差し控えられたり、ストップしたり、減らされたりするようなことはないのです。


さて、ではこの『放蕩息子の譬』から学び取るべき重要なポイントとして、他には何があるのでしょうか? 兄と弟が語った言葉の裏に、そのヒントがあります。    (10月28日 土曜日 更新)


人が取る行動には、それなりの理由があるものです。

 

財産を父から分与してもらって家を出て行ったのに、それをすべて浪費し、使い果たしてから家にノコノコと舞い戻ってきた弟に対する父の一見 不公平、不当にも思えるような“特別待遇”を知った時、「兄はおこって家にはいろうとしなかった」と記されています(ルカによる福音書15章28節)。


その理由として、兄が父に語ったことというのは、「わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。 それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました」でした(同15章29節~30節)。


では、この兄の言い分が意味することというのは、一体、何なのでしょうか?


一方、弟は家でやってきたこれまでの仕事を放棄して、父に願って自分の取り分の財産を前倒して手に入れ、「遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶし同15章30節てしまい、もはや飢え死にするしか道が残されていない状況となります。そこでようやく本心に立ち返った弟は、天に対しても父に対しても罪を犯してしまったことを悔い改めて、父のもとに帰ってきて、自分は「もうあなたに息子と呼ばれる資格はありません。どうぞ雇い人のひとり同様にしてください」と言います。


この弟が語ったこの言葉から、読み取れることというのは、一体、何なのでしょうか?


この兄と弟のそれぞれの言動を観照していると、イエスが十字架に磔にされていた時に、その両側で十字架に磔にされていた二人の強盗にオーバーラップして、私には観えるのです。つまり、兄は最後までイエスに悪口を言い続けた強盗に重ね合わさって観え、一方、弟の方は途中からイエスを悪口を言うのをやめて、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」とイエスに言われた強盗に重ね合わさって観えてくるのです(マタイ福音書27章44節、ルカによる福音書23章39節~43節を参照)。


つまり、何を私が言いたいかというと、兄は最後まで弟と父を『さばいていたということであり、弟は父を「さばいていた」が、途中から「さばくのをやめたということなのです。弟は「本心に立ちかえって」(ルカによる福音書15章17節)と記されていますが、人が本心に立ち返ることができるのは、実は、『さばくことをやめた』時に初めて可能となるものなのです。


兄が実際に語った言葉の内容を分析していくと、それがよくわかります。家での仕事を放棄して外で遊女と好き放題に遊んで財産を使い果たすという放蕩に身を持ち崩してしまった親不孝者である弟に対する父の不当と思えるような“特別待遇”をみた時に、兄は「わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。 それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました」(ルカによる福音書15章29節~30節)と言って父に対して怒りの抗議をしているのです。


このような兄のいら立ち、怒りの感情。弟と自分を比較していること。過去”における自分の実績・優秀さ・立派さを基準にして、“ダメな弟”、“親不孝者の弟”、“遊女を遊んで身代を食いつぶした愚かな弟”を見下すこと。これらはすべて、『さばく』というマインドにおける思考プロセスによって生じてくるものなのです。兄の心の不公平感、不平不満なども、やはり『さばく』ことから生まれてきているものなのです。


実は、イエスは 『ぶどう園の譬』の中でも、これと同じようなことを語って、天国の奥義は一体どこにあるのかについて示そうとされたのでした(マタイによる福音書20章1節~16節を参照)。


この『さばく』というのは、マインド主導の思考プロセスと密接に関わって、生み出されてくる行為と言えます。人の『内なる光』(マタイ福音書6章23節)が暗くなっている時に、マインドに支配されてしまった人が自然とやってしまう行為が『さばく』ということなのです。


この『さばく』ということは、いとも簡単に“信仰”を破壊してしまいます。『さばく』という行為は、“信仰”から“”が切り離された時に、可能となってくるものです。実は、聖書が教えている“信仰”というのは、本来、「愛によって働く信仰」(ガラテヤ人への手紙5章6節)を意味していますコリント人への第一の手紙13章2節も参照)。つまり、使徒パウロの言葉を借りて言うと、『愛によって働く信仰』だけが尊いのであり、『愛なき信仰』は無に等しいというわけです。


信仰は、ある意味、目です。つまり、肉眼では見えない事実・真実・真理・本質を観るための目です(へブル人への手紙11章1節、コリント人への第二の手紙4章18節、同5章7節~8節を参照)。この信仰という目が「はっきりと見えるようになってマタイによる福音書7章5節いくことこそが、実は、とても重要なことなのです。


このためには、どうすればいいのでしょうか? 


もっともっと強く信じようと思ったとしても、その人の信仰の目は開かれないのです。一生懸命に祈ったとしても、信仰は覚醒しないのです。暗記するくらい聖書を読んだとしても、信仰の目の視界を遮っている“覆い”を取り除くことはできないのです。


『愛によって働く信仰』と使徒パウロが言ったことにヒントがあります。つまり、信仰をによって働かせればいいのです。信仰という目を、によって、開くといいのです。信仰という目の視界を妨げている“”や“覆い”をによって取り除けばいいのです。イエスは、山上の説教の中で、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイによる福音書5章48節)と語りました。ここにもヒントがあります。


では、どういう点において、私たちは“天の父のような完全”を持つことができるのでしょうか? 


イエスは、「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも 正しくない者にも、雨を降らしてくださる」と説かれました(マタイによる福音書6章45節)。つまり、悪い者と良い者、正しい者と正しくない者を区別したり、分け隔てしたりしないという“寛容という愛”において完全になりなさいと言われたということです。寛容という愛”は、“さばかないという愛”と言い換えることもできるのです。


私たちは、良かれ、悪しかれ、“さばく”というマインド主導の思考プロセス”を駆使して生きていくという癖を身に着けてしまっています。そして、神をさばき、人をさばくことによって、この世における様々な問題を生み出し、世の闇をさらに一段と濃いものにしてしまったのでした。これまで長きにわたって“さばく”ことに慣れ親しんできた私たちが、神をも人をも“さばかない”生き方へとシフトさせていくことが、ある意味、イエスに課せられた指命であると言えます。


さばかない”で生きるという道へ進んだ時に、その人の信仰の目が開かれるのであり、神の真実の栄光がはっきりと見えてくるのです。“さばかないという寛容の愛”によって目覚めた信仰、息を吹き返した信仰は、神の愛がどのようなものかがさらにはっきりと見えるようになってくるのです。神の愛の高さ、広さ、深さが人知をはるかに超えた とてつもなく絶大なものであることに気づかされ、私たちはただただ驚くことになります。でもその神の愛は近寄りがたいものでもなく、人を寄せ付けないようなものではなく、人を排除・排斥するようなものでもはなく、まさに父が放蕩息子をあるがまま温かく受け入れたように、すっぽりと包み込んでくれるような優しい愛なのです。人の魂がホッと安らぐような安息が得られるのは、信仰の目が開かれて、神の真実の愛に気づいた時、体感した時なのです(へブル人への手紙4章3節を参照)。


また、これまで積年の恨みを抱いていたために人をゆるすことが出来ずにいた人も、“さばくことをやめた”瞬間、過去からのしがらみから想いが解放されるので、人をゆるすということが容易なことになるのです


また、過去の闇に引きずられて生きていた人が、"さばくことをやめた"時に、“今この瞬間、瞬間を生きる”ことが可能になります。天の父なる神と通じるゲートが人に開かれるのは、実に、人の想いが過去という時間から解き放たれて、今この瞬間、瞬間を生きる”ようにシフトした時なのです。


この『放蕩息子の譬』を読むときに、そこにはイエスの山上の説教の核心とも言える「さばくな」という具体的、かつ、明快なメッセージが息づいているように私には観えるのです。「さばかない」という生き方を実践していくことが、実に、信仰という目がはっきり見えるようになるための“イエスが伝授された秘伝”であり、“天の父なる神に通じる生きた道”でもあるのです。私は、これを『イエス-道』と呼ぶのです。・・


(11月4日 土曜日 更新) ***『放蕩息子の譬』(その2)に続く ***

  

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5月21日(土)23:11に更新 “信じること” と “信じないこと”

2016年05月21日 23時11分02秒 | イエス-道


信じること” と “信じないこと



今回のブログでは、“信仰”というものにメスを入れてみたいと想っています。


信じる”とは、どういうことなのでしょうか? 逆に、“信じない”とは、どういうことなのでしょうか?


聖書という経典の上に成り立っている『キリスト教』においては、イエス神の子キリストであることを“信じる”ということが重要なことであるとみなされています。もちろん、私は、そのような伝統的な捉え方を否定するつもりはありません。


でも、“信仰”というものを従来とは違う視点で捉えてみるということも、重要なことではないだろうか・・・と、私は想うのです。


今回、注目したいことは、イエス自身の口から直接語られた以下の有名な言葉です。


御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく御子によって、この世が救われるためである。

信じる者は、さばかれない

信じない者は、すでにさばかれている神のひとり子の名を信じることをしないからである。

そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。

悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。

しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、にあってなされたということが、明らかにされるためである。」

ヨハネによる福音書3章17節~21節


イエスは、一体、ここで何を言いたかったのでしょうか?


これまでは、とりわけ、何を信じるかということが問題視されてきたと想います。つまり、信じる対象というものが、がつかわされた“神のひとり子であるイエス”であり、そのイエス信じる”ということこそが大切・・・と、みられてきたわけです。そして、それが『キリスト教』という宗教なのだ・・・と。


でも、イエスと仰ぎ、その主イエスを信じてきたはずの多くの“信者”が、やがて「あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ」とイエスに言われてしまうことになるであろうことが、山上の説教の中で述べられているのです(マタイによる福音書7章23節を参照)。


もちろん、“信じる”ということは、大切なことです。でも、ここで言われている“信じる”とは、どういうことなのでしょうか? 何を意味しているのでしょうか? 確かに、イエスは、「あなたの信仰が、あなたを救ったのです」と、繰り返し、繰り返し、福音書の中で述べられていますので、信仰”、あるいは、“信じる”ということが、重要なキーワードになってくること自体に、間違いはないと想います。


しかし、それは、あくまで“表面上に現れたキーワード”であって、その奥に“隠れたキーワード”があると、私は観ているのです。


その隠れたキーワード”というのは、先ほど引用したヨハネによる福音書3章17節~21節から探していくと、“さばくためではなく”、“さばかれない”という言葉です。


信仰”あるいは“信じる”ということと、“さばかない”ことは、実は、密接な関係があるのです。ある意味、“信じる”とは、“さばかない”ということなのです。言い換えれば、人が“さばくことをやめた”時に、“信仰が正しく作動する”ようになるのです。つまり、“さばかないという信仰”が、人を救うことになるというわけです。従って、「あなたの信仰が、あなたを救った」とイエスが言われる時、そこには「あなたがさばくことをせず、あるがままを認めて、受け入れたから救われたんだよ」というニュアンスがあるわけです。イエスが言われている“信仰”とは、“さばかない信仰”である・・・と、私は観ているのですなぜなら、人がさばくことをやめる時に、信仰の目開かれるからです。信仰の目開かれる時に初めて、人は真理・真実・見えない事実というものを明らかに認めることが可能となるのです。


このことを、イエスは「はからだのあかりである。だから、あなたの目澄んでおれば、全身も明るいだろう。しかし、あなたの目悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。」(マタイによる福音書6章22節~23節)と言われたのだと、私は想っています。・・・・・


不信仰”あるいは“信じない”ということは、“さばいている”ということです。“信じない人”というのは、同時に、“さばいている人”でもあるのです。“さばくことに没頭している人”は、結局、信仰の目が閉じている状態なので、信じていない人”であるとも言えます。つまり、「さばいてしまっているあなたは、救いを体験することを 自分から避けている、遠ざけてしまっている」というニュアンスがあるのです。人が「私は信じています」と語ったとしても、もしその人がさばいているならば、その人に信仰実際には正しく働いていないのです。その人の“信仰”は、虚しいのです。その人の“信仰”は“薄い”と言えるのです(マタイによる福音書6章30節を参照


ここで、“澄んでいる”、あるいは、“悪い”とイエスが言われる場合、それは何のことかと言いますと、マタイによる福音書7章1節~5節を観ると自ずとわかってくると想います。すなわち、がある状態が“悪い”ことであり、からが取りのけられている状態が“澄んでいる”ことなわけです。そして、人が“さばく”時に、実は、このが目に生じてしまい、信仰の視界を妨げてしまい、真理・真実・見えない事実が見えなくなってしまうということなのです。逆に、人がさばくことをキッパリとやめる時に、目の前から梁が崩壊していって、信仰の視界が開けてくるのです。


このことがわかると、なぜ十字架上の犯罪の一人が救われ、もう一人の犯罪人は救われなかったのかについての真相が見えてくるのです(ルカによる福音書23章39節~43節を参照

5月14日〈土〉22:12に更新5月17日〈火〉22:02に補足して更新5月21日〈土〉22:32に補足して更新



さばかないという信仰”と“さばくという不信仰”の違いを、時間軸という視点から観ることも可能です。


さばくという不信仰”を持っている人というのは、過去”の出来事の体験などの記憶情報に囚われて生きている人のことである・・・と言えます。しかも、その記憶情報には必ずと言っていいほど、好き嫌い、善悪の固定観念、損得勘定などに関係したネガティブな感情も伴っているもの。従って、もし現在においても何かのきっかけがあると、すぐに頭にきたり、激しく怒ったり、憎悪を燃やしたり、腹を立てたり・・・、容易に爆発してしまったり、あるいは、失望したり、絶望したり、恐れたり、不安を感じたり・・・などは日常茶飯事のこと。“今この瞬間”起こっていることは、“過去”のこととは直接関係はないにもかかわらず、“過去の記憶情報”というフィルターを通してしか “”を観ることができなくなってしまっているのです。つまり、“過去”を切り離した“”というものを考えることができなくなってしまっているのが、“さばくという不信仰”を持っている人の特徴になっているのです。つまり、自らの人生を生きるための軸足を“過去という幻想の世界”に置いてしまっているということなのです。“過去”のことにこだわり、“過去”に囚われ、“過去”に振り回されているために、人をあるがまま受け入れていくということ、人をゆるすということは、さばく人にとっては至難の業に想えるものなのです(マタイによる福音書6章12節、14節~15節を参照)。“過去”に生きている人は、また、必然的にストレス多き人生を自ら選んでいってしまうものです。不平不満、欲求不満、ため息、葛藤、不快感、自分は不幸だという想い、憎しみ、憎悪、怒り、失望、不安や心配、・・・そういうものから解放されることはないのです。さばいている限り・・・・。


一方、“さばかないという信仰”を持っている人というのは、“過去”を手放せた人と言えます。“今この瞬間という唯一リアルな時間”を生きていく喜びを知った人でもあります。このような“さばかないという生き方のコツを掴んだ人”というのは、人をあるがまま認めて受容していくゆるしていくことは、何も難しいことではないのです。また、“さばくというマインドのプロセス”を意のままに一時停止することが可能なので、心をリセットすることができ、限りなくストレス・フリーに近い人生を送ることも可能なのです。


「その道は楽しい道であり、その道筋はみな平安である。」(箴言3章17節)・・・・・


5月21日〈土〉23:11 更新  ・・・・・・続く・・・・・・お楽しみに。 


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5月7日(土)23:30に更新 “最高の自分を引き出すー『意志力』(その3)”

2016年05月07日 23時30分01秒 | イエス-道

 “最高の自分を引き出すー『意志力』(その3)”

 

 

このブログは、“最高の自分を引き出すー『意志力』(その2)”からの続きです



さて、スタンフォード大学の心理学者であるケリー・マクゴニガルは、最高の自分を引き出す”ために自分の意志力を作動させるコツの一つに『自分への思いやりを持つ』ことの重要性を説いており、この点に私が注目していることについて、当ブログで書きました。


このことは、イエス山上の説教の流れの中で観ていった時に、『自分をさばかない』ということと、同じような意味合いであると私は考えています。


つまり、『自分への思いやりを持つ』 = 『自分をさばかない』 ということになります。さらに、以下のように、イコールで結ぶこともできると想います。


自分への思いやりを持つ』 = 『自分をさばかない』 = 『寛容という愛で自分を愛する


では、『さばかない』とか、あるいは、これとは反対の『さばく』ということは、一体、どういうことなのでしょうか? 今回のブログでは、このことについて今一度 復習、または、考察してみたいと想うわけです。


ところで、『さばかない』と『さばく』の大きな違い、決定的な違いというのは、どこにあると想いますか?


それは、マインドmind)の関与の有無にあると言えます。つまり、『さばかない』とは、マインドの働きを停止しておくことを意味します。一方、さばく』とは、マインドが活発に働いていることを意味しているのです。


この“マインド”が働くメカニズムを観ていくと、マインド”は頭の中にある『過去から蓄積されてきた記憶情報というデータベース』に検索をかけて、そこから得られた情報に照らして、現在のことや将来のことを捉えていく、判断を下していく、最終的な結論を導き出していく・・・これがさばく』というメカニズムの実体というか特徴と言えます。実は、このような頭の中の作業というのは、誰でも日頃の生活の中で当たり前のように自然にやっているものです。


もちろん、私はこのようなマインド”の働きは不要だとか、ダメだとか、悪いものだ・・・と言おうとしているのではありません。私が言いたいことは、このようなマインド”の働きがすべてなのではないということに気づくこと、マインド”の働きに支配されて 身動きも取れないようになってはいけない意図的に“マインド”の働きを一時停止する術(すべ)を身につけることが重要である・・・ということを言いたいのです。つまり、自らの意志で“マインド”のスイッチをいつでも自由にオン・オフに切り替えられるようにしておくことが、とても大事なことなのです。


言い換えると、たとえ“マインド”が自動的に働いて、いろんな答えを提示してきたとしても、その答えを絶対的なものだと決めつけなければいいのです。もしかしたら 現時点では それが一つの答えかも知れない。でも、後になって、もっと情報が集まってきたら、別の答えが観えてくるかも知れない・・・というふうに、いついかなる時でも頭を柔軟にしておくことが重要なわけです。このように、マインド”が提示してきた答えに囚われない、こだわらない、固執しない、振り回されないということが、『さばかない』ということに繋がってくるわけです。

 

4月17日〈日〉22:30に更新、18日〈月〉19:12に改訂更新



“盲人を手引きする盲人”ではなく、真の“観察者”になる


ところで、“さばかない”という生き方を別の角度から観ていくこともできます。 


イエス・キリストは、「・・・あなたがたは、教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである。」(マタイによる福音書23章10節)と言われました。もちろん、教師に向いている人というのは、確かにいるとは想います。ここで、イエスは何を言いたかったのでしょうか?


さばく人は、自分が正しいと思っていたり、思い込んでいたりすることを他の人々に教えようとしたり、説教したり、諭したりする傾向が強いものです。でも、このことが誤った結果をもたらしてしまうおそれがあります。


さばく人”に限って、このような意味での教師説教家になろうとするもの。すなわち、上から目線で、人に教えたり、お説教したり、注意したり、批判したり、非難したり、叱ったり、責め立てたり、責任を追及したりすることで、“未熟”に思える人を“立派”な人間に変えようとしたり、“ダメな人”をもっと“ましな人間”に成長させようと試みるのです。でも、その多くは期待された結果が出ないことが多いものなのです。


イエスは言われます、「彼らは盲人を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう。」(マタイによる福音書15章14節)と。


一方、“さばかないという生き方に徹する人”は、そのような教師説教家にはならないのです。実は、このような点においても、“さばく人”と“さばかない人”との大きな違いがあるのです。


イエスは、山上の説教の中で、「自分の目にはがあるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。・・・まず自分の目からを取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう」(マタイによる福音書7章4節~5節)と言われました。


つまり、さばく人”にとって目障りに想えるようなもの(=目のちり)があれば、人に干渉してまで、無理やりそれを取り除いてあげようと努めるのです。さばく人”にとっては、自分自身の目にあるには気づかないのに、人の目にあるちっぽけなちりの存在が大きなストレスに感じられてしまうものなのです。


一方、相手の目にあるちりは、“さばかない人”にとっては、そんなに目障りなものとは感じないものなのです。人の目にあるちりというものは、自分自身の目にあるに比べたら、ほとんど気にならない程度のものに過ぎないのです。 さばかない人”は、人のあら探しをすることに時間を費やさずに、まずは自分自身の目にあるを何とか取り除こうと努めて、自分自身がはっきりと見えるようになることを最優先するのです。


さばかない人”は、むしろ、自分自身の目のを取り除くことに精進するものなのです。自分自身がはっきりと見えるようになるために、まずはこの点において、最大限の努力を惜しまないものなのです。盲人が盲人を手引きすることは、絶対あってはならない・・・ということをさばかない人”はよくわかっているからです。盲人が盲人を手引きすることは、手引きする本人にとっても、手引きされる人にとっても、益にはならない・・・ということをさばかない人”は知っているからです。自分自身がまずはっきりと見えるようになった時に、ようやく、相手の目からちりを取りのけるグットタイミングと、取りのける最適な方法が自ずとわかってくるものだからです。


さばく人”というのは、往々にして、『干渉者』になります。自分自身が抱えている深刻な問題はさておいて(あるいは、それには気づかないで)、相手に干渉してくるのです。相手の人生の中に土足で踏み込もうとするのです。しかも、自分は善意でやっていること思い込んでいるものなのです。自分が正しいと思っている“教え”を説くことによって、相手を救おうとしたり、変えようとしたりするのです。さばく人”は自分自身が変わる必要があることには気づくことはなく、むしろ、相手こそ変わらなければならない・・・と思い込んで、相手の人生に深く干渉してくるのです。“さばく人”は自分の“正しい考えや理想”に相手を従わせようと試みるのです。相手の人生をコントロールしようとするのです。


一方、さばかない人”は、『干渉者』にはならず、むしろ、真の『観察者』になることを選ぶのです。つまり、相手をあるがまま認めて、やさしく観守っていこうとするのです。真の『観察者』になるためには、自分自身の目からを取り除くことが必要になってきます。他人、あるいは、隣人の目にあるチリを気にしたり、いら立ったり、干渉したりすることに時間を費やすことをしないで、むしろ、一にも二にも、まずは自分自身の目からを取り除いていくことに時間を費やし、そのことに日々精進していこうとするのです。そのような精進を続けながら、相手のことも観守っていくのです。偏見や先入観を持たずに、冷静に相手を観ていくのです。寛容な想いで包み込むようにして、相手を観つめていくのです。そして、自分の目のが取り除かれて、はっきりと見えるようになってきた段階になった後で、絶妙なタイミングで、最適な方法を用いて、“おしつけがましく”ではなくて、“さりげなく” 相手の目からちりを取り除くためのサポートをしていくのです。 


4月29日〈金〉23:54に更新4月30日〈土〉22:50に補足更新5月5日〈木〉20:46に更新



自分の弱さと向き合う


さて、最高の自分を引き出すために、人は自分が持っている弱さに対してどのように向き合っていくか・・・ということも、大きな課題になってくると想います。今回はこの点について、想いを巡らせてみたいのです。


ところで、いきものがかりのナンバーに『風が吹いている というのがあります。この歌詞に、次のようなフレーズがあります。


・・・・強さを手にするより 弱さを越えたいんだよ・・・・


誰でも何かしら“弱さ”を持っているもの。“強さ”を手に入れようとするよりも、むしろ、“弱さ”を越えたいんだ・・・という気持ちはよくわかります。


では、この“弱さ”を越えるためには、どうしたらよいのでしょうか? 言い換えれば、どうやって自分の“弱さ”に向き合っていけばいいのでしょうか? 

5月5日〈木〉21:04に更新


自分の“弱さ”を嫌ったり、ダメなものと想ったり、悪いものと決めつけたり、あるいは、自分の“弱さ”から逃げたり、自分の“弱さ”を見て見ぬふりをしたり、自分の“弱さ”と戦ってみたり、自分の“弱さ”を無理やり“強さ”に変えようとしたり・・・・と、人はいろいろなことを試みるのではないでしょうか?


でも、“弱さ”を持った自分と上手に付き合っていくための重要な鍵は、自分の“弱さ”をさばかないこと・・・にあると私は想っているのです。つまり、自分の“弱さ”を善・悪で観ないこと、価値判断をしないこと、優劣をつけないことです。自分の“弱さ”を、あるがままを認めていくこと、そのまま受け入れていくこと、優しく包み込むように、愛おしむように受容していくことがとても大事なのではないか・・・と想うわけです。


イエスは、「自分を愛さないで、あなたの隣り人を愛しなさい」というふうには言われなかったのです。「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛しなさい」と明確に言われました。“自分を愛する”と言っても、それは自分が持っている“弱さ”を“強さ”に変えてからに、自分を愛するということではないのです。様々な“弱点”や“短所”を抱えたままの自分をまるごと愛しなさい・・・・と言われるのです。


愛する”という行為は、単に感情的なもの、情緒的なものではないと想います。“愛する”というのは、曖昧なものでも、抽象的なものでもなく、むしろ、『原則』と言えます。ある『原則』がベースになっているものが、“”なのではないか・・・と、私は観ているのです。


の特質は、“寛容”にあります(コリント人への第1の手紙13章4節を参照)。寛容という愛”は、自分の中にある“強さ”も“弱さ”も区別することなく、良し悪しでさばかずに、あるがまま認めて、包み込むように優しく受容していくという『原則』を貫いていくこと、実践していくことの中にこそ息づいているものだと、私は想うのです。


イエスは山上の説教において、愛するように言われた(マタイによる福音書5章43節~44節を参照)。というのは、自分を迫害している相手であっても、自分を苦しめている相手であっても、自分にとって不快に思えるような相手であっても、“敵”とみなさない、“敵”として認識しない、“敵”と決めつけたり、断定したりはしないものなのです。特定の人を自分に“味方”なのか“敵”なのかというような二者択一の判断や決めつけはしないのが、というものなのです。は、“さばくことをしない寛容の愛”そのものだからです。


同様に、自分の中にある“弱さ”であっても、敵対視してはならないのです。敵であるかのように思い込んで、戦いを挑んではならないのです。

5月6日〈金〉23:27に更新

 


自分の“弱さ”というものを、戦うべき対象にしてはならないのです。“弱さ”=悪、“強さ”=善 というように考えてはならないのです。実は、そのように想ってしまうと、自分の“弱さ”を越えることは至難のわざになってしまうのです。


『作用-反作用の法則』というのがあります。自分の“弱さ”を嫌って、それを力づくで“強さ”を変えようと試みたとします。すると、こちらが力で押した分だけ、“弱さ”も押し返してくるのです。その互いの力の押し合いで、エネルギーが消耗して疲れてしまうことにもなるのです。戦いを挑んで押す側も、逆に押されて反撃してくる側も、実は、自分自身なのですから。そのようなエネルギーの無駄使いで、人生を消耗しても、なんのメリットもありません。


自分のうちにある“弱さ”を良し悪しで判決を下すことなく、あるがまま、優しく包み込むように受け入れていくのが、自分を愛するということなのであり、その“弱さ”を変えることに躍起になるのではなく、その“弱さ”があるままで受容していって、包み込むような寛容の愛(=さばかない愛)を注ぎ続けていく・・・・このようにする時に、自分の“弱さ”を超越していく道が自ずと開けていくのではないだろうか・・・

 

いきものがかりの『風が吹いている』 にある強さを手にするより 弱さを越えたいんだよ」という歌詞のフレーズと、イエス山上の説教の中で説いた“さばくな”というメッセージは、今私が述べたような形で、リンクしていると想うのです。


5月7日〈土〉23:30に更新・・・・・・今度は、別のテーマに移ります・・・・・・。 


     *       *       *        

 

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3月25日(金)22:34更新 “最高の自分を引き出すー『意志力』(その2)”

2016年03月25日 22時34分40秒 | イエス-道

 

“最高の自分を引き出すー『意志力』(その2)”



このブログは、最高の自分を引き出すー『意志力』(その1)からの続きです



さばく”ということのメカニズム・仕組み・プロセス


さて、ケリー・マクゴニガルは、意志力を強するノウハウの一環として“自分に思いやりを持つこと”の重要性を教えていますが、当ブログではこれを別の視点から観ていきたい想います。このようなノウハウとは違ったアプローチで意志力の強化という同じ目標を達成を図っていきたいと考えているのです。


ケリー・マクゴニガルはスタンフォード大学で教えているのが『思いやりの科学』という講座だとすれば、私が当ブログで書いているのは『さばくということに関する科学』の講座と言えるかも知れません。人の人生に暗い影を落としている究極の原因と考えられる“さばく”ということをいろんな角度から光をあてて観ていって、分析し、解析していくことで答えを見つけだして、その結果、意志力を強め、人生を好転させていこうと想っているからです。


さばく”ということのメカニズム・仕組み・プロセスがどのようなものかということを知ることによって、意志力が働くのを妨げている要因・原因というものを実際に取り除いていくことも可能である・・・と、私は考えているのです。


なぜなら、人は 自分をさばいている限り、“自分に思いやりを持つこと”はできないものだからです。逆に言うと、自分をさばくことをやめた時に、自分に“思いやりを持つこと”が可能なのです。


これは、ある意味、同じことだと想います。“自分に思いやりを持っている人”は、“自分をさばいていない人”でもあるのです。逆に言うと、“自分をさばかない人”は、“自分に思いやりを持っている人”でもあるのです。


ほとんどの人は、“知らずに”と言いますか、“無意識的に”と言いますか、他人をさばき、かつ、自分をもさばいているものです。生まれつきなのか、あるいは、後天的に染みついてしまったというのでしょうか、“さばく”という習性が身についてしまっているものです。


さばくこと”と“愛すること”は、対極にあるものだと私は想っています。さばいている人は、“愛すること”の意味を知らないと言えます。さばかない人は、“愛すること”の意味を知っていると言えます。従って、山上の説教の中で イエスが「人をさばくな」という場合、それは「人を愛しなさい」ということの裏返しでもあるのです。


ここで、“さばく”ということを科学していきたいと想うわけですが、科学の基本は、先入観や偏見、バイアスした考えを持たずに、じっくりと現実や現象を観察していって、そこから一定の法則、メカニズム、仕組みなどを解明していって、そこからさらに発展させていって、その真逆の“さばかないこと”はどういうことなのかを知ることが重要になってきます。でも、この段階では、それはまだ『仮説』の域を越えません。その後、解き明かされてきた法則やノウハウを実際に自分の人生の中で適用(=実践)してみて、その仮説が本当(=事実)であったかどうかを実証、あるいは、確証していくというわけです。これが、“科学者”としての本来の姿勢と言えるのではないでしょうか?


聖書の信仰というものも、このような探究の姿勢がとても大切なのでは・・・。そうでなければ、聖書の信仰が“盲信”、“誤解”、“思い込み”、“妄想”になってしまうおそれがあるからです。ヘブル人への手紙11章1節によると、信仰とは“見えない事実を確認すること”であると記されています。この確認作業に科学的な手法を取り入れることが必要なのではないか・・・と、私は想うのです。


人の『人生の意味や意義』、『人生における謎、不思議さ、複雑さ、問題や課題』というものを解き明かしていくためには、人の心の法則の中に組み込まれてしまった、あるいは、染み込んでしまった “さばくということ”がどういうことなのかをよく観察してデータを収集して、分析し、解析していくことによって、 科学していく・・・。それによって究極的な答えを見つけていく・・・これがとても重要なことではないか。そのように、私は想うのです。


それでは、“さばく”ということが、一体、どういうことであるのかを様々な角度から 見つめていきたいと想います。なぜなら、“さばく”ということの実態やメカニズムというものが分かってくると、それとは正反対の“さばかない”ということのコツも掴めるようになり、その結果、自分の人生においてもっと“さばかない生き方”を実践しやすくなるからです。



中島美嘉の『WILL』の歌詞に再び注目


中島美嘉の『WILL』というナンバーを私が聴いていて、最も“意味深”に聴こえてくる“あるフレーズ”があります。運命の支配に翻弄されることなく、自らの意志で決めていって、自由を生きていくための秘伝というものが“あるフレーズ”に隠されているように、私には想えるのです。


それは、「瞳(め)を閉じて見る夢よりも 瞳を開きながら WOW WOW」というフレーズです。このフレーズは、2回 出てきます。


このフレーズは、一体、何を意味しているのでしょうか?


瞳(め)を閉じて見る夢」というフレーズが暗示していることは、今、自分の目の前にある現実・現象・置かれている状況などに目を閉ざしたり、目を逸らしたままで 夢を追い求めるという生き方です。でも、目を閉じている状態のままで、たとえ どのような夢を自分の心に想い描いたとしても、運命の支配から逃れることはできないということ。


運命の支配から自由になって自分の人生をしっかりと生きていく上で大切なことは、「瞳(め)を開きながら・・・」とあるように、今 現に自分の目の前にある現実・現象・置かれている状況などから目を逸らすことなく、あるがまま認め、受け入れていくこと、しっかりと観察していくこと。言い換えると、自分の目の“”を取り除いた澄んだ目で、ハッキリと見ていくこと、しかもさばかずにじっくりと観ていくこと、外見・外面・表面的なことに惑わされることなく、それらを引き起こしている究極の原因といえる“目に見えない事実”というものを察していく、捉えていく、気づいていくこと・・・・・・これが重要なことなのです(マタイによる福音書6章22節~23節、同7章1節~5節を参照)。



さばかないこと、ゆるすこと


イエスが山上の説教の中で説いた教えの“核心”というのは、『さばかない』ということであり、それと同じような意味合いの『ゆるす』ということである・・・と、私は観ています。ここに最も注目しているのが、実は、私が当ブログで提唱している『イエス-道』なのです。ここが従来のキリスト教と比べて、観る視点が大きく異なっているところと言えます。


さばかない』ということ、あるいは、『ゆるす』ということが、実際、どういうことなのかを悟らない限り、キリスト教は完成しない・・・と、私は想います。つまり、『さばかない』という生き方に全面的にシフトしていかないと、キリスト教の信仰というのは “盲目的な信仰”、“近視眼的な信仰”になってしまうおそれがあると想うわけです(マタイによる福音書23章16節・17節・19節・24節、同15章14節、マルコによる福音書8章18節、ルカによる福音書6章39節、ペテロの第2の手紙1章9節を参照)。


以前にもこのブログで書いたように、使徒パウロは、「信仰・・・によって律法を確立するのである」(ローマ人への手紙3章31節)と述べましたが、私はさらに進んで、「さばかないことによって信仰が確立されるのであり、その結果として、律法が確立されることにもなる」と言いたいのです。



さばかない(=寛容という愛)ためのコツ


使徒パウロは、以下のようにテサロニケ人にあてた手紙を書きました。


「すべての人に対して寛容でありなさい。だれもをもってに報いないように心がけ、お互に、またみんなに対してを追い求めなさい。」(テサロニケ人への手紙5章14節~15節


寛容の愛をもっている人は、さばくことをしないものです。逆に、さばかない人は、寛容の愛をもった人であると言えます。


このような“寛容の愛”というものを考えるにあたって、“という問題”が出てきます。ここで使徒パウロが述べていることは、“”をもって“”に報いないように心がけること、そして、お互いに、また皆に対して“”を追い求めることによって、結果的に、人は“寛容の愛”の人になれるんだ・・・ということを述べているのではないと想います。 むしろ、人が寛容になった時に、“”をもって“”に報いないようになれるのであり、また、お互いに、また皆に対して“”を追い求めることも可能になってくる・・・というのが真実ではないだろうかと、私は想うのです。


もちろん、人は寛容になろうと想っただけで、寛容になれるというわけではありません。寛容になるためのコツは、“さばかない”ことにあります。言い換えれば、“さばく”という自分の中にある『マインドの働き・プロセス』を停止することが、寛容になるための秘訣といえるのです。



ヨブの人生に学ぶ


という問題”に対して、人がどのように向き合い、対処していくのかが、人が寛容になれる否かということを考えるにあたって、とても大切なことになってきます。旧約聖書のヨブ記を観ると、その答えがわかってきます。ヨブの人生を俯瞰していくと、それに関する貴重な真理が見えてきます。


ヨブに関して、次のように旧約聖書のヨブ記の中で描写されています。


「ウズの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ、正しく、を恐れ、に遠ざかった。」


サタンに言われた、『あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、を恐れ、に遠ざかる者の世にないことを気づいたか』。」(ヨブ記1章8節


つまり、ヨブは“”に遠ざかることを意識的にやっていたのです。“”に遠ざかろうとすることは、その真逆の“”を強く意識していて、かつ、“”を追い求めようとしていたということが伺えます。そして、その当時の人としてはが認めるほど全く、かつ、正しい人間であり、にも忠実であったヨブは、そのような生き方を守り通していった結果、逆に、あのような悲惨な試練を引き寄せてしまったのでした(ヨブ記3章25節を参照)。そして、“”を追い求めるために、“”に遠ざかろうとするような生き方を もし最後の最後まで貫いていたとしたら、おそらくヨブの試練は解決することのないまま、この世におけるヨブの人生は終わっていたのではないか・・・と、私は観るのです。このことをヨブの人生から学び取ることは、とても重要なことです。


ヨブが採用した『“”から遠ざかるように心がけることが“”を追い求めることに繋がり、結果的に、“”を手に入れることができるはず・・・』というような発想は、人間的に考えれば、一見 納得がいくものであり、論理的にも間違いがないように想えるかも知れません。でもこのような二元論的なvsというふうに対比させて捉えるような善悪の固定観念』こそが人間界における様々な不幸の根底にあるのです。


従って、イエスが山上の説教を通して私たちに教えようとされたことは、ヨブがやったこのような方法ではなかったのでした。つまり、ヨブとは全く異なった意外なアプローチだったのでした。イエスが、私たちに示された最善の方法・生き方というのが、なんと

さばくなマタイによる福音書7章1節

ということだったのです。


これは、試練に遭遇する前のヨブには、想像することもできないような方法・生き方だったのでした。実際、試練に遭って苦しんでいたヨブがこのことに気づくまで相当な時間を要しました。でも、ヨブが最終的にこのことに気づいたとたん、ヨブの前から“残酷に想えたような試練”は霧が晴れるようにサーっと消え去ってしまったのでした。


ヨブサタンと直接対決して、サタンに打ち勝った結果、試練が解決したというのではなかったのです。サタンと争うことなく、戦うことなく、ヨブの試練は解決していったというのが真相なのです。


自分が抱えている問題を解決しようとして、自分の外側にサタンという敵という存在を作り上げて、それと戦おうとしてはならないのです。“”を追い求める自分の道を塞いでいるのは、究極の悪の存在といえるサタンだと決めつけて、そのサタンに戦いを挑もうとしてはならないのです。


それはちょうど、小学生がプロの横綱を相手に相撲をとって勝とうとするようなものです。勝敗は、勝負をする前からわかっています。大相撲にも不戦勝があります。でも、大相撲の場合は、戦う相手がケガをしたりして休場した時に、戦わずして自分の勝ち星となります。ヨブの試練の背後には、確かにサタンが関与があったことが記されています。でも、このようなヨブの場合にも、やはり不戦勝こそ、勝利の秘訣なのです。たとえサタンが関与しているとは言え、ヨブは“の大争闘”に巻き込まれてはならなかったのです。


では、どのようにして人はそのような“の大争闘”に巻き込まれてしまうのでしょうか? それは、『善悪の固定観念』に囚われてしまった時なのです。『善悪の固定観念』というフィルターを通して、この世に起こる現象や現実や事象や諸問題を観て、問題の解決を図ろうとした時なのです。ヨブヨブの3人達の間で論争した内容というのは、実に、このような『善悪の固定観念』という既成概念の枠内のものだったのでした。だから、どんなに激しく論争しても、また、時間をかけて論争し尽くしても、そこからヨブの試練を解決できるような答えを見つけることは出来なかったのでした。


ところが、ヨブイエスがこの地上に誕生するはるか以前の人間でしたので、イエスの山上の説教の核心とも言える「さばくな」という真理に触れる機会は、当然のことながら、ありませんでした。では、ヨブの場合、どのようにして「さばくな」という普遍的な真理に気づくことができたのでしょうか?


ヨブ記38章を観ると、ヨブ3人の友人たちとの間の論争が十分に尽くされたのを見計らって、みずから つむじ風の中からヨブに答えられたことがわかります。は、地球の創造、地上の生き物、空を飛ぶ鳥、海の源、地の広さ、気象現象、天体などの具体例をヨブに見せることによって、の創造計画の偉大さ、広大さ、深遠さ、緻密さ、きめ細やかな配慮と優しさなどに関する溢れんばかりの情報をヨブに提供されたのでした。この時、の広大な知識、深遠な知恵、悟りの深さに触れた時に、ヨブは自分がいかに無知だったかということに気づかされたのでした(ヨブ記42章1節~3節を参照)。『井の中の蛙、大海を知らず』という諺にもあるように、自分が持っている情報が不足過ぎていたため、ヨブはこれまで間違って“さばいていた”、思い込みで“さばいていた”、『既成概念や固定観念』というフィルターを通して観て、決めつけて“さばいていた”ことに気づいたのでした。その時、ヨブはキッパリと“さばくことをやめた”のです。ヨブの場合においては、主によって“大海”という世界へと引き出され、これがきっかけとなって“さばくのをやめたように想えます。つまり、自分の中にあった先入観、偏見、洗脳、狭小化な考え、狭い視野に基づいた価値判断などを手放して、自分の『マインドの働き』を停止して、ゼロにリセットしていったというわけです。・・・・・・

 

(3月12日〈土〉23:43 更新)(3月19日〈土〉6:26更新)(3月20日〈日〉23:57更新)(3月25日〈金〉22:34に一部改訂して更新)

・・・・・・“最高の自分を引き出すー『意志力』(その3)”に続いています・・・・・・に。 

     *       *       *        

 

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3月6日(日)6:03更新 "最高の自分を引き出すー『意志力』(その1)"

2016年03月06日 06時03分00秒 | イエス-道

 

最高の自分を引き出す-意志力



今回のブログでは、“スタンフォードの奇跡の教室”で有名なケリー・マクゴニガル(心理学者)が教えている“意志力”について、想いを巡らせてみたいと想います。

 

ケリー・マクゴニガルの『最高の自分を引き出す法DVDブック]』を参考にしながら、“イエス-道”の視点からも人の“意志力”というものを今回は観ていきたいと考えているわけです。彼女の科学的な分析も加えての心理学的アプローチで行き着いた結論と、“イエス-道”が説いている教えとの類似点も見えてくるので、とても興味深いものがあります。


最高の自分を引き出す”ためには、自分の“意志力”というものを上手に活用していかなければならないようなのです。


今回のテーマは、聖書の中でも取り扱われている重要なテーマでもあります。特にローマ人への手紙7章で、使徒パウロ意志”の問題そのものに真剣に取り組んでいる様子が見受けられます


「わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、をしようとする意志は、自分にあるが、それをするがないからである。すなわち、わたしの欲しているはしないで、欲していないは、これを行っている。もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っているである。そこで、をしようと欲しているわたしに、がはいり込んでいるという法則があるのを見る。すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。」(ローマ人への手紙7章18節~24節)


これから分かるように、意志の問題というのは、自分の意志が望んでいるをしないで、逆に、自分の意志が望んでいないを行ってしまうという問題にいかに対処していくかということ、また、心の法則罪の法則が熾烈な戦いを挑んでくるという問題をどうやって納めていくか、その答えを見つけていくこと。言い換えれば、意志力というものを窮めていこうとすることは、救いどこにあるのかということを探究することでもあります。人の意志力というものを真正面から取り組むことをせずに、素通りしてしまうと、真の救いというものも見えてこないのではないか・・・と、私は想うわけです。


人の意志力がキチンと働いていない時には、その人の信仰は“依存的な信仰”になってしまうのが落ちで、“成熟した信仰”へと発展していかなくなってしまうのではないだろうか・・・と、私は危惧するのです。また、意志力が正常に作動していない状態で、がむしゃらな信仰生活を送っていこうとしている人の心の中では、絶えず葛藤や欲求不満や不平不満などが渦巻くことになります。意志力信仰が、共に一体となって働くことこそが重要なのです。


人間が抱えているそのような“重大な問題”に、私たちはこれから挑もうとしているわけです。この問題に対する答えは一体どこにあるのか・・・それを見い出そうとしているわけです。今回のブログで書こうとしていることは、意志力を作動させていくためのコツは、一体、どこにあるのかということについてです。

 


中島美嘉が歌う『WILL


ところで、中島美嘉が歌う『WILL』というナンバーがあります。皆さんもご存知かと想います。この歌詞の中で、3回繰り返されるフレーズがあります。それは、

運命の支配ではなくて 決めていたのは 僕の「WILL」”

という箇所です。私はこのフレーズを以前から注目していました。


運命に支配されて生きていく人生は、むなしいもの。それは、自由を生きているというよりは、何かに流されて生きているということ。何かに囚われて生きているということ。喜びも生まれてこないかも。生き甲斐というものもない・・・と想うのです。


運命に翻弄されて人生を生きるのではなく、むしろ、自らの意志(=WILL)で自分の将来の人生を動かしていく、人生を決めていく、人生を切り開いていく、人生を創造していく・・・そのことのために、実は、人生というものが与えられている・・・・・私は、そのような気がします。


ケリー・マクゴニガルは、「意志力というのは、もっている人ともっていない人がいるというような性質でもなければ、美徳でもなく、脳と体で起こる現象である」(最高の自分を引き出す法[DVDブック]』の29ページ)と述べています。


従って、自分の意志の力発揮できる状態できない状態の違いを知っておく必要があるわけです。そして、ケリー・マクゴニガルによると、心拍数数や呼吸などの数値を測定していった結果、前者が『休止・計画反応』の状態であり、後者が『闘争・逃走反応(=ストレス反応)』の状態であることであることが突き止められているというのです。従って、意図的に心拍数を下げ、呼吸を遅くするような体の状態にもっていくこと、睡眠を取って脳を十分に休めておくこと、血糖値を一定レベルに高めておくことは、意志力を発揮することにおいて役立つというのです。


先ほど引用した使徒パウロの言葉に、「をしようとする意志は、自分にあるが、それをするがないからである。・・・」とありましたが、人に与えられたその“意志力(=Will Power)”の重要性をキチンと認めて、それを発揮させていくということが自らの人生を生きていくにあたって必要なのではないか。信仰を強調するあまり、意志力の重要性が見失われてはならない・・・、ただ信じればいいんだということではない・・・と、私は想うわけです。


 

意志力における3つの力


ケリー・マクゴニガル(スタンフォード大学の心理学者)は、意志力には3つの力があると述べています。


(1). ‘I Will’ powerやる力)・・・大きな視野で物事を見て、長期的な目標を見失わずに、たとえ困難であっても、こうしてよかった、とあとから思えるようなことをするための力。脳の前頭前皮質の左側の部分が、このような『困難なことを行なう力』を司っているというのです。この脳の部分が働くと、私たちはやる気を起こし、難しくてもやってやろう、という気になるというのです。 

(2). ‘I Won't’ powerやらない力)・・・一方、脳の前頭前皮質の右側の部分は、誘惑に抵抗するという重要な役割を持っているという。たとえ体じゅうが誘惑に負けて目の前の快楽に走ること望んでも「イエス」と言おうとしても、脳のこの部分はきっぱりと「ノー」というのだそうです。自分自身がよくない方向に傾き、自己破壊的な行動に走りそうになった時に、「ノー」という力なわけです。

(3). ‘I Want’ power望む)・・・これは、気が散ったり、誘惑に出会ったりしても、自分が本当に望んでいることを忘れない、「望む力」というわけです。この力は、常に自分にとって大事な目標を忘れず、こういう人生にしたい、というビジョンをはっきりと思い続ける力であって、「やる力」や「やらない力」と勝るとも劣らない重要なスキルであり、力であると、ケリー・マクゴニガル博士は述べています。


そして、彼女は“意志力の科学”というスタンフォード大学の講座で、「最高の自分」を引き出すために知っておくべき“5つの考え方”を紹介しているというのです。その具体的な内容に関しては、直接最高の自分を引き出す法DVDブック]』などを読むことをお勧めします。この本を読んだり、付属のDVDを観たりすると、科学的な裏付けのある幾つかの貴重な情報に触れることができます。



では、これから、ケリー・マクゴニガルが述べていることの中で、特に私が注目している点について取り上げて、そこに想いを巡らせていきましょう。それは、『イエス-道』における核心部分とオーバーラップする点、あるいは、共鳴する点でもあるのです。



自分に思いやりをもつ


ケリー・マクゴニガルは、「自分を批判したり恥に思ったり、罪悪感を抱いたりするよりも、自分に対して思いやりをもったほうが、はるかに自己コントロールを発揮することができる・・・。実際、罪悪感や恥の意識や自己批判のせいで自己コントロールが弱くなることはあっても、強くなることはありません。自分を許し、自分の抱えているストレスや苦しみ、そして自分の弱ささえも受け入れることで、私たちは強くなれるのです。」(『最高の自分を引き出す法[DVDブック]の75~76ページ)と述べて、喫煙に関する“拷問テスト”についての実験結果を紹介しています。実に興味深い内容です。


ケリー・マクゴニガルは、80~83ページの中で、次のように述べています。それは、意志力を強化する方法の一つは、自分に思いやりをもつようにすることだというのです。つらいことがあったら、自分への思いやりをもってじっと見つめる自分に対する思いやりをもちながら、自分の感じている欲求や苦しみにじっと注意を払っていく自分の欲求を素直に受けとめてじっと見つめながらも、思いやりをもつ


このように、ストレスに対して、自分に対する思いやりをもって対処していくと、ストレスや欲求に関連する領域の活動が鈍くなり、さらに重要なことに、ストレスや欲求に関わる脳の領域と、欲求に反応して行動を起こさせる脳の領域との連絡が、途絶えることがわかったというのです。このようなことが、科学的に検証されたというのです。


また、自分に思いやりをもった時に、意志力が深く関係している前頭前皮質が働くようになるとも述べています(88~89ページを参照)。自分の失敗を恥じたり、罪悪感を抱いたりすると、意志力が奪われてしまう。しかし、自分に思いやりをもてば、それと逆のことが起こるというのです。


このように、自分に思いやりをもつことが、意志力を強化することに繋がることを科学的にも裏づけつつケリー・マクゴニガルは述べているわけですが、『自分に思いやりを持つ』ということはとても大事なことではないか・・・と、私も想います。


自分に思いやりをもつこと』(これは、英語では“self compassion”となっていますが)は、ケリー・マクゴニガルが述べているノウハウの中で最も重要なものであり、注目に値すべき点ではないか・・・と、私は観ているのです。


この『自分に思いやりをもつこと』ということは、表現を換えて言うと、どういうことなのでしょうか?


実は、これは当ブログでこれまでずーっと一貫して述べてきた『自分をさばかないこと』と内容は全く同じことなのです。『さばかないということ』は、『寛容の愛を持って自分をあるがまま認めて、優しく包み込むようにして受け入れていくこと』です。

ところで、この『さばかないこと』を実践していくことは、簡単なように想えますが、実際は結構難しいことかも知れません。これまで、あまりにも“さばくこと”に人は慣れ過ぎてしまっているからです。


人が“さばく”生き方から『さばかない』生き方を移行していくためには、まず、“さばくというプロセス”の実体、正体、メカニズムをよく知っておく必要があります。では、それはどういうことなのでしょうか?


ケリー・マクゴニガルは「意志力の科学」の講座で、以下のように述べていることは、とても興味深いことです。


「科学者になったつもりで考えることです。科学者は実際に起きている現象を、偏見をもたずに好奇心をもって観察します。物事がどのような仕組みで働くかにとても興味があり、自分自身でさえその興味の対象になります。みなさんも科学者になったつもりで自分自身をじっと観察し、どういう仕組みになっているかを解き明かしてみましょう理解を深めるにつれ、その仕組みをうまく利用できえうようになります。自分自身を対象に意志力の実験を行っていると考えれば、新しい考え方や行動のしかたを色々試し、その結果を観察することができます。」(95~96ページ


「また、私がいつもお勧めしているのは、自分のさまざまな側面を知ることです。・・・・私自身の経験からも言えることですが、あまり感心できないようなことをしようとする自分も含め、色々な自分を理解するうちに、もっとほかにどんな側面があるのか知りたくなりますそうやって自覚を深めるほど、どんな自分になるかを選択できるようになるわけです。」(96~97ページ


今、引用した内容というのは、まさにイエスが山上の説教の中で説いた「さばくな」という教えの核心を突いている・・・と言えます。自分自身を“さばかない”ということは、『善悪という固定観念』で自分を批判したり、非難したり、レッテルを貼ったりせずに、むしろ自分の様々な側面を知ろうとすること、あるがままの自分を観察していくこと、認めていくこと、理解していくこと、包み込むように受け入れていくことを意味しているのです。そのようなことをやっていくにつれて、自分の目にある“”が取り除かれていって、現に起きている物事や現象の背後にある道理や仕組みがハッキリと観えるようになり、自ずと解き明かされていくようになります。そして、意志力というものがフルに発揮されていって、自らしかるべき選択をして、自ら答えを見つけていくようになります。これが、“依存”と“意識の退化”とは真逆の“自立”と“意識進化”へとシフトしていく道と言えるのです。


このために、当ブログでは“さばくこと”と“さばかないこと”のメカニズムや仕組み、プロセスというのはどういうことなのかについて様々な角度から光を当てて、解明しようとしているのであり、そして、解ったことを皆さんにもぜひお伝えしたい、あるいは、シェアーしたいと想っているわけです。

(2月23日〈火〉22:50更新)、2月24日〈水〉21:20 補足して更新)(2月27日〈土〉20:15更新、2月28日〈日〉23:09 補足更新)(3月1日〈火〉0:07 補足更新)(3月3日〈木〉22:47更新)(3月6日〈日〉6:03 補足し改訂更新 


・・・・・・“最高の自分を引き出すー『意志力』(その2)”に続いています・・・・・・


     *       *       *        

 

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12/20(日)22:09更新: “わたしは道である” ―『イエス‐道』(21) ブログ(130)

2015年12月20日 22時09分04秒 | イエス-道


『イエス‐道』(21)わたしはである

 

「私はもう長い間、“信仰”を持っています」などと言う場合があります。“信仰”を捨てることなく、もう20年、30年、あるいは、50年以上も、“信仰”を持ってきました。これを、特定の宗教を長年信じてきた人が自分のステータスであるかのように思ってしまうケースも実際にあるのではないか・・・。


でも、“信仰”というのは、本来、“持っている”と表現されるような“所有物”ではないように、私には想えるのです。信仰”というのは、“生きていく道”であり、“人が人として、どのように生きていくかという生き方”の問題だと想うのです。新約聖書のへブル人への手紙(口語訳聖書から引用)には、次のように書かれています。


「わが義人は、信仰によって生きる。」(へブル人への手紙10章38節


信仰”というのは、“持つもの”というよりは、“生きていくもの”というニュアンスがあるのです。従って、ただ単に、“信仰を持っている”ということだけなら、果たして、何の意味があるのだろうか・・・と想ってしまうのです。その信仰は本当に"生きて働いている"のだろうか・・・と。


ところで、イエスは、弟子のトマスから「よ、どこへおいでになるか、わたしたちにはわかりません。どうしてそのがわかるでしょう」と聞かれたことがありました。その時のイエスの答えは、「わたしであり、真理であり、である。だれでもわたしによらないでは、のみもとに行くことはできない」(ヨハネによる福音書14章6節)でした。


今回のブログでは、イエスが“わたしはである”という場合、これは何を意味しているのであろうか・・・ということについて、皆さんと一緒に“想い”を巡らせてみたいのです。この“”というのは、同時に、“真理”でもあり、“”でもあるのです。


イエスは、“人が生きていく”として、一体、どのような道を示されたのでしょうか?


実は、試練の真っただ中にいたヨブも、その“”を模索していたことがわかります。ちょっとここでヨブ記を観てみましょう。


「しかし知恵はどこに見いだされるか。悟りのある所はどこか。人はそこに至る道を知らない。・・・それでは知恵はどこから来るか。悟りのある所はどこか。これはすべての生き物の目に隠され、空の鳥にも隠されている。滅びも死も言う、『われわれはそのうわさを耳にしただけだ』。これに至る道を悟っておられる。彼はそのある所を知っておられる。彼は地の果までもみそなわし、天が下を見きわめられるからだ。」(ヨブ記28章12節~24節


この“知恵や悟りに至る”を見いだすことは、そんなに容易いことではないようです。でも、は“これに至る道』”をご存じであるというわけです。私は、“知恵悟りに至る”も、“にアクセスしていく”も、実は、同じではないだろうかと想っているのです。


イエスは、“にアクセスしていくわたしである”と語ったのです。それが、先ほど引用した「わたしであり、真理であり、である。だれでもわたしによらないでは、のみもとに行くことはできない」(ヨハネによる福音書14章6節)とイエスが語った言葉の意味なわけです。ここで、イエスというを通らなければ、のみもとに行くことができないという場合、イエスを頭で知っているとか、知識として知っているとか、そういうマインドという思考を働かせていくことによっては、アクセスする道は開かれないことを覚えておきたいと想います。マインドを作動させてしまうと、逆に、妨げとなってしまうのです。神にアクセスすることができなくなってしまうのです。


人の眼前に“”が開けていくというのは、ヨブ記を読むとかなり困難をきわめるように想えますが、実は、とても単純なことなのではないのか・・・。その道は案外、私たちの身近なところにあるのではないか。私にはそんな風に想えるのです。


イエスは、言いました。

 「よく聞きなさい。をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。」(マタイによる福音書18章3節


その“”を見いだせるかどうかは、その人のの問題と言える・・・というわけです。また、次のようにも言われました。


 「幼な子らを・・・わたしのもとに来るのをとめてはならない。天国はこのような者の国である。」(同19章14節) 幼な子のような心があれば、"天国に至る道"は容易に見い出だすことができるというわけです。

  「だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない。」(マルコによる福音書10章15節


つまり、幼な子でさえわかるのが、“”なのではないか。いや、幼な子だからこそ”がわかると言えばよいのでしょうか。

12月10日 木曜日 23:06更新 (12月15日 火曜日 23:17更新) 


イエスはまた、“”に関して次のようにも述べています。  

   「滅びにいたる門は大きく、そのは広い。そして、そこからはいって行く者が多い。にいたる門は狭く、そのは細い。そして、それを見いだす者が少ない。」(マタイによる福音書7章13節~14節)たとえこのように"見いだす者が少ない細い道"であったとしても、幼な子のような心があれば、いとも簡単に見つけることができるのです。


ここを読むと、一般には「イエス・キリストを神の子と認め、救い主であると信じるということ」が、“命に至る細い道”ではないかと考えると想います。ところが、必ずしもそうとは言い切れないところもあるのです。やがて、キリスト教信者の多くが、その“天国に至る道”を生きていなかったことが判明する・・・と、イエスは言われるのです(マタイによる福音書7章21節~27節を参照)。


イエスが説いた“”、「私は・・・である」と言われたその“”が何かを知る手がかりは、使徒パウロが記したコリント人への第1の手紙1章18節~30節の中にもあります。


「・・・『わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする』と書いてある。…・・この世の知恵を、愚かにされたではないか。この世の知恵によってを認めるに至らなかった。・・・」


ここでエデンを想い起してみて下さい。エデンにおいてが“に食べるなと命じられていた善悪の木”から取って食べようとした時に、「賢くなるには好ましい」と思って食べたと記されているのです(創世記3章6節を参照)。聖書が言う“”の根底・背景には、このようなことがあったのです。ここから“この世界の思考の流れ”が変わってしまったわけです。この世の中の人々の“思考の潮流”というのは、このような“賢さ”であり、“知恵”なのです。ところが、このような賢さ知恵を駆使しても、を認めることや十字架の言に秘められた救いの奥義神の力神の知恵を認めることに関しては全く役には立たない・・・と、パウロはここで明言しているわけです。実は、この世の知恵や賢さというのは、言うなれば、マインドから生み出されてくるものだからです。“直観によってあるがまま観る”というのではなく、『過去の記憶情報の集積であるデータベース』に検索をかけて、そこから得られた情報と比較し、分析・解析して最終判断して、決めつけたり、思い込んだりしていくというプロセスを通るマインドの働きに基づくものです。これが、“さばく”という思考パターンの実体なのです。このようなマインド思考を働かせて考えていこう、判断していこうとする時に、『目に見えない事実・真実・真理・実体』を捉えていく手段となっている信仰は、正常に作動することができなくなっていまい、心にかかった覆い(=目の前の)も取り去らていない状態なので、を認めることも、十字架の言に秘められた救いの奥義を悟ることもできなくなってしまうのだ・・・と、使徒パウロは述べているわけです。実は、幼な子のような心”というのは、このような覆いがかかっていない心を言っているのです。


では、イエスが説いた“細い”というのは、何なのでしょうか? を認めることを可能にし、十字架の言奥義を知ることができるようになる“細い”を生きるために必要なことは、一体、何なのでしょうか?


その答えは、さばく”という思考パターンから脱却することなのです。これまで当たりのように、何気なく、無意識のうちに思わず、長い間やってきた“さばく”という思考プロセスを凍結すればいいわけです。つまり、“さばかない”で観ていく、捉えていくということをこれから自らの人生を生きていく上での基本指針として、日々の生活において実践していくわけです。これが、イエス山上の説教で説いた最も重要な教えであり、核心的な教えであると言えるのです(マタイによる福音書7章1節~5節、24節~27節を参照)。この時、人はイエスの“”、すなわち、『イエス-道』を歩むようになるのです。イエスを信じて生きる、イエスと共に生きる・・・ということは、実は、こういうことなのです。として生きていく上で、また、意識進化を遂げていく上でも、“さばかないで生きる”ということは、とても重要なベース、土台、礎、基盤となってくるのです。


間違いなく、正確に、厳密にさばく”ということよりも、むしろ、“さばかない”ことの方が、実は、人間にとっては楽なのです。“誤ってさばいてしまった”ために、新たな不幸やトラブルを自分の人生の中に生じさせたり、招き寄せたりしていることがいかに多いことか・・・。


イエスは、「あなたがたは肉によって人をさばくが、わたしだれもさばかない。しかし、もしわたしがさばくとすれば、わたしのさばきは正しい。なぜなら、わたしはひとりではなく、わたしをつかわされたかたが、わたしと一緒だからである」(ヨハネによる福音書8章15節~16節


私たちの場合、“さばかない”方が無難で、安全で、得策で、メリットが大きいと言えます。私たちが人を“さばいた”その量りで、私たちもさばかれてしまうことも忘れてはなりません(マタイによる福音書7章2節を参照)。


また、“さばかない”ことの実践によってもたらされるメリット・効能としては、心の目の視界を遮っている“”が確実に取り除かれていくことであり、その結果、“肉眼では確認のできないような隠れた事実・真実・真理など”がはっきり見えてきて、そのような貴重な情報が堰を切って心に流入してくるということです(マタイによる福音書7章1節~5節を参照)。これが、信仰が正常に作動している状態と言えるのです(へブル人への手紙11章1節を参照)。つまり、“信じる”ということにおいて、信仰の目が心の中で開かれていることがとても重要なのです。


イエス救いを宣言された十字架上の犯罪人も、宮で祈って義とされて家に帰っていった取税人も、実は、このようなプロセスを経て、“命に至る道”へと入っていったのです。・・・・・

 12月19日 土曜日 9:28更新 12月20日 日曜日 22:09に改訂更新 


・・・・・この内容は、次のブログ 『イエス‐道』(22) “星に願いを”(邦画) 』に続いています・・・


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12/10(木曜日)21:49更新 ブログ(129):『イエス‐道』(20)“取税人とパリサイ人の祈り(4)ーラオデキヤ”

2015年12月10日 21時49分04秒 | イエス-道

このブログは、内容的に 『イエス-道』:(19)“取税人とパリサイ人の祈り(3)―エデンへの回帰と反転”からの続きです


“取税人とパリサイ人の祈り(4)-ラオデキヤ”



“宮においてに祈ったという取税人パリサイ人”というイエスが語った譬を、黙示録3章14節~22節にある『ラオデキヤの教会へのメッセージ』という視点から捉えていくと、一体、どういうことが見えてくるのでしょうか?


富む者となるために、・・・火で精錬されたの金」(=義と認められる信仰)、裸の恥をさらさないため身に着ける・・・白い衣」(=イエス・キリストにある、これによって罪がおおわれ、ゆるされるということ)、「見えるようになるため、目にぬる目薬」(=心の目を明らかにする、はっきり見えるようにして下さる知恵と啓示との霊神の聖霊)の3つの要素が、このラオデキヤへのメッセージにおいて重要なポイントになっています(ヨハネの黙示録3章18節)。


でも、この3つは、実は、一つである、一体である・・・と、私は観ています。つまり、この3つのうちのどれか1つや2つだけを持っているということはあり得ないのです。3つすべてを持っているか、さもなければ、3つすべてを持っていないか・・・このいずれかなのです。


そして、この譬の中のパリサイ人というのは、3つすべてを持っていなかった人を象徴していると言えます。でも、このパリサイ人は「自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もない」(ヨハネの黙示録3章17節)、裸の恥をさらさないために立派な義の衣(=自分のこれまでの人生における輝かしい業績、功績、実績)を着ている、また、目薬がなくても自分はハッキリ見えている・・・と思い込んでいたのです。このパリサイ人は、いわば“裸の王様”だったと言えるのです。このようなパリサイ人に象徴される人というのは、このように “エデンにおいて生じたというほころび究極の原点”に回帰しておらず、従って、そこから反転すること(=さばくことをやめること)もしていない人なのです。つまり、このパリサイ人は「いちじくの葉をつづり合わせて」(創世記3章7節)、言い換えれば、自分のマインドが考え出した方法を使って、自分のほころびを覆い隠したので大丈夫だ、万全だ、これで義と認めてくれるはずだ・・・と “さばき”、決めつけたというわけです。


一方、譬の中の取税人というのは、白い衣・金・目薬の3つすべてを手に入れた人を象徴しているのです。つまり、この取税人は、 “エデンにおいて生じたというほころび究極の原点”に回帰して、自分「自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であること」(同3章17節)に気づいた上で(つまり、この取税人は“裸の王様”ではなかったのです)、自らのほころびを「いちじくの葉をつづり合わせて」創世記3章7節覆い隠そうとはしなかったのです。さらにそこから反転していった(=さばくことをやめてしまった)人を象徴していると言えるのです。言い換えれば、この取税人は自分の現状や現実というものを一切割り引くことなく、あるがまま認め受け入れた上で、ゆるしを求めたのでした(ルカによる福音書18章13節を参照)。が用意し、提供した方法である「皮の着物」(創世記3章21節)を身に着けたのでした。これによって、彼は「義とされて」(ルカによる福音書18章14節)自分の家に帰っていったというわけです(ローマ人への手紙4章5節~8節を参照)。


この『宮においてに祈るパリサイ人取税人の譬』は、“によって義とされること”を教えようとして、イエスによって語られたものでした(ルカによる18章14節を参照)。いわゆる『信仰による義認』という教えです。そして、この教えにおいて重要な3つの要素(=を象徴する信仰白い衣が象徴するイエス・キリスト、そして、目薬が象徴する知恵と啓示との御霊)が、ラオデキヤ教会へのメッセージの中にすべて網羅されているというわけです。使徒パウロもまた、この3つの要素を網羅して、次のように明確に述べています。

「わたしたちは、御霊の助け(=目薬)により、信仰(=金)によって義とされる(=白い衣)望みを強くいだいている。」(ガラテヤ人への手紙5章5節


この3つの要素は、一体であると、私は述べました。でも、信仰による義認』という教えにおいて特に重要なものは、目薬で象徴される御霊の助けではないか・・・と、私は観ています。


使徒パウロは、エペソ人への手紙の中で、「どうか、わたしたちの主イエス・キリスト栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わってを認めさせ、あなたがたの心の目を明らかにして下さるように・・・」(エペソ人への手紙1章17節~18節)と書いていることに注目したいです。


御霊の助けによって、人の心の目が明らかにならない限り信仰も正常に作動することもないし、によって義と認められることもあり得ないからです。心の目が明らかとなって(=はっきり見えるようになって)初めて、“見えない事実を捉えていく信仰”が正常に働くようになるのです。また、イエス・キリストにある(=白い衣)が着せられ、罪がおおわれ、ゆるされるという“によって義と認められる”という体験、これまで盲目状態だった心の目がはっきり見える状態になった時に起こるものなのです。


しかし、皆さん、ここで注意していただきたいことがあるのです。



盲点


では、私たちの心の目を明らかにして、それによって“肉眼では捉えることが出来ない霊的な真実・事実・真理栄光”をはっきり見えるようにして下さるという“知恵と啓示との霊(=聖霊)”を熱心に祈り求めることをすればいいのでしょうか? 実は、そうではないのです。もちろん、そのことを祈り求めるということは、大切なことだと想います。ここに“盲点”があるのです。うっかり、重要なことを忘れてしまいがちになることがあるのです。それは、一体、何だと想いますか?


それは、イエスが山上の説教の中で説いた「さばくな」という実践的教え、そして、これと対となっている「自分の目から梁を取りのけるがよい」という実践的教えです。これはどういうことかと申しますと、人が何かや誰かを“さばいている”限り、“知恵と啓示との霊(=聖霊)”はその人の目を明らかにして下さるというサポートをすることができないからです。さばきまくっている人は、自分の方からそのような聖霊の働きを邪魔しているのです。“私は結構です、必要ないです”と、自分から断っているようなものです。


人が“さばくのをやめた”時に、聖霊は“心の目を明らかにして下さい”という要請をようやく正式に受理することができるのです。つまり、聖霊は当の本人に妨害や抵抗をされることなく、その人のために自由に働けるようになれるというわけです。


これは、ゆるしの原則と同じことです。イエスは、山上の説教において主の祈りに触れたすぐ後に、次のように語りました。


もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたのも、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。」(マタイによる福音書6章14節~15節


この原則が、実はそのままそっくり聖霊のサポートを受けるにあたっても、当てはまるのです。なぜなら、人をゆるすということは、すなわち、人をさばかないということだからです。逆も真なりで、人をさばかないということ、イコール、人をゆるすこと・・・だからです。人をさばいたまま、人をゆるすという矛盾した行為というのは、いかなる人にも決してできないからです。


つまり、イエスが山上の説教で説いた数々の教えの中でも最重要な教え(少なくとも、私はこのように想っています)というべき「さばくな」という教えを自ら実践していく、自分の生き方の中心軸にしていく、自分の人生を生きていくための原則にしていく時に、たとえどんな人であれ、ゆるしていくことが当たり前のことにとなっていくのです。そして、ゆるしも、そんなふうに生きていく人と共にあるのです。この時、神の聖霊も喜んで、自由に、気兼ねなく、その人をサポートすることができるのです。


考えてみて下さい。十字架上でイエスよってパラダイスへの救いを宣言された例の犯罪人は、知恵と啓示との御霊に祈り求めてから、「イエスよ、あなたが御国の権威を持っておいでになる時には、わたしを思い出してください」(ルカによる福音書23章42節)と言ったのではありませんでした。イエスに対して最後まで悪口を言い続けていた(=つまり、さばき続けていたもう一人の犯罪人と違って、この犯罪人は自らさばくことをやめてイエスをあるがまま観ていった時に、すぐに知恵と啓示との御霊が彼の心の目を明らかにすべく、長い間かかっていた“”を取り除き、その結果、見えない事実・真実・真理はっきり見えるようになっていったのでした。だからこそ、イエスよ、あなたが御国の権威を持っておいでになる時には、わたしを思い出してください」と、彼は言うことができたのでした。この言葉は、まさに彼の信仰(=心)の目が開けたことの証でした。この犯罪人が“イエスが何者であるか”をはっきりと知ったこと、また、彼の心の目が天の父寛容とゆるしの愛に満ちた栄光をあるがまま観た”ことをイエスは瞬時に感知したのでした。だからこそ、イエスは 「よくよく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(同23章43節)とすぐに答えられたのでした。


譬の中の取税人も、同様です。聖霊を熱心に求めたからではなく、パリサイ人とは対照的に、さばかなかったからこそ知恵と啓示との御霊による心の目を明らかにするというサポートが与えられて、“ゆるしと寛容の愛とあわれみに満ちた天の父栄光”をこの取税人はあるがまま観ることができたのです。だからこそ、取税人は、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と祈ることができたのでした。


山上の説教の冒頭の方で、イエスは語りました。「心の清い人たちは、さいわいである。彼らはを見るであろう」と(マタイによる福音書5章8節)。


さばいている人の心というものは、怒り、憎しみ、怨念、執念、苛立ち、不平不満、復讐心、敵意、殺意、悪意などで一杯なのです。心がどんより曇っているのです。心には濃い闇があるのです。心が汚れているのです(マタイによる福音書15章10節~20節を参照)。そして、そのルーツというのは、これまでも述べてきたようにエデンにあるのです。


一方、これまでさばいていた人が、さばくことをキッパリとやめた時に、神の聖霊はその人の心を照らし、心の目の“(=覆い)”が取り除かれて栄光をあるがまま見えるようになっていくわけです。それと同時進行で、人の心も透明になり、清められるのです(コリント人への第2の手紙3章12節~18節を参照)。そして、これは、自分の問題を含めて、この世のすべての問題のルーツがエデンから始まったことに気づいて、というほころびの発端となったところ(=さばいたということ)から反転させていけばいいわけです。つまり、マインドの働きが優位になってしまって、さばいてしまったところにほころびの起源があったことに気づいて、“さばかない”、“ジャッジしない”という生き方に徹していくのです。そこに、救いの活路が見えてくるのです。心の潜んでいたへと切り替わっていくのです。これまで長い間、囚われていた“想い”が解き放たれ、自由になって、そこから“想い”における創造性に目覚めて、自らの新しい人生を創造して、造り上げていけばいいのです。“想像”というのは“想い”が像を結んでいく、すなわち、現実を造り上げていくということで、“創造”に繋がっていくからです。


この“想い”が『善悪の固定観念』、『善悪の二元論』、『善悪の相対論』、すなわち、『物事を善・悪でさばく』という長い間の囚われから完全に解放され、真の自由の中を羽ばたいていくようになる時に、“想い”の中に秘められている本来の創造性が発揮されるようになっていくのではないか・・・。この“想い”を強め、拡大していくことが、“生きた信仰を働かせていくことに繋がっていく・・・”と、私は観ているのです。


 (12月5日 土曜日 22:05更新)  (12月10日 木曜日 21:49更新) 


・・・・・・続くブログは、ブログ(130):『イエス‐道』(21)“わたしが道” です・・・   

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12/4(金曜日)23:20更新 ブログ(128):(19)“取税人とパリサイ人の祈り(3)" ーエデンへの回帰と反転

2015年12月04日 23時20分53秒 | イエス-道

このブログは、『イエス-道』:(18)“取税人とパリサイ人の祈り(2)―エデン”からの続きです


『イエス-道』:(19)“取税人とパリサイ人の祈り(3)‐エデンへの回帰と反転”


私は、この譬の中で義とされて自分の家に帰っていった取税人ルカによる福音書18章9節~14節を参照イエスから十字架上で救いを宣言された犯罪人ルカによる福音書23章39節~43節を参照との間には共通点がある・・・と、私は観ています。


その共通点というのは、譬の中のパリサイ人とは違って、盲目ではなかったという点です。つまり、彼らの心の目の視界は“”によってブロックされておらず、見えない真実・事実というものがハッキリと見えていたということです。


この取税人も、また十字架上にかけられていた犯罪人も、自分たちが生きてきたこれまでの人生を振り返ってみたところで、の前に差し出せるような“輝かしい功績や実績、善行、誇るべきものなど”は、何も見つからなかったと想います。もし、彼らの心の奥底から出てくる“に申し上げることができる言葉”があるとするなら、それは「神様、罪人のわたしをおゆるしください」(ルカによる福音書18章13節)・・・、この言葉以外に、に語る言葉としては、彼らには思いつかなかったのではないかと、想うのです。


譬の中のパリサイ人の場合は、自分がいかにこれまで立派な人間だったか、義人だったか、善人だったか、どれほどの素晴らしい功績や実績を自分の人生の中で積み重ねてきたかということ(実は、これが“いちじくの葉”をつづり合わせて、自らの罪によって生じた“ほころび”や“恥”を覆い隠そうとする行為が暗示しているものなのです)をに申し述べようとするのです。それを根拠に、自分こそ優先的に救われるはず・・・と思い込んでいるのです。でも、このように考えていたパリサイ人義と認められなかったと、イエスは言われるのです(ルカによる福音書18章14節を参照) 。


でも、この取税人十字架上にかけられていた犯罪人は、微塵にもそのようには想っていなかったのです。むしろ、“私はに救われるのに値しない人間である”と想っていたのです。救いと交換できるような価値あるものを、自分は全く持ちあわせていないことをよく知っていたのです。の前では、まさに“裸同然”である自分の現実をよく知っていたのです。それでも、彼らは“裸同然の自分”を『いちじくの葉のようなもの』(=マインドが考え出した産物)をつづり合わせて覆い隠そうとはしなかったのです。みずからが考え出し、提供されておられる“皮の着物”(=神の小羊なるイエス・キリストの身代わりの義という着物)で覆われることを、彼らはに祈り求めたです。それが、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」という言葉にはっきりと現われているのです。つまり、盲目になっていたパリサイ人と違って、彼らの目は澄んでいてマタイによる福音書6章22節を参照)、はっきりと見えていたので(同7章5節を参照)、“ゆるし”を、“寛容の愛とあわれみに満ちた”、“善人と悪人を分け隔てをしない完全な愛”をしっかりと、ありのままに認めることができたのです。だからこそ、彼らは義と認められ救いにあずかることができたというわけなのです。


これが、『イエス-道』から観て、解析した“信仰によって義と認められる”という“信仰による義認”の教えと言えるのです。


ここで、もう一度、使徒パウロによる“信仰による義認”について述べた奥深い言葉を直観で体感してみて下さい。あえて、説明はしません。蛇足になってしまうでしょうから。


「しかし、働きはなくても、不信心な者をとするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。ダビデもまた、行いがなくても義と認められた人の幸福について、次のように言っている、『不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、さいわいである。認められない人は、さいわいである』。」(ローマ人への手紙4章5節~8節


ここで、パウロが何を言いたかったかがピンとくる人は、もしかしたら心の目が開かれている人かも知れません。



エデンへの回帰


前に、当ブログ『取税人とパリサイ人の祈り(1)』の中で、救いにあずかるようになるためには、“エデンに回帰していく”・・・ということを述べました。つまり、人類の“”というものの起源・ルーツをエデンの園で起きた出来事における霊的な意味を知っておくことがとても重要になってくるのです。それがわかったら、それをひっくり返していく、すなわち、それを反転させていけば、そこに救いの道が自ずと観えてくると、私には想えるのです。


実は、『取税人とパリサイ人の宮での祈り』という譬を通して、イエスはそういうことを教えたかったのではないか・・・。


エデンの園における“罪のルーツ”というのは、に食べるなと禁じられていた“善悪を知る木の実”を人が取って食べたところにあると聖書的には捉えることができます。その“善悪を知る木の実”を食べると、「あなたがたの目が開け、のように善悪を知る者となる」(創世記3章5節)と言って、へび二人それを食べるように誘導しました。そして、が実際にその木を見てみたところと、「それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいたにも与えたので、彼も食べた」(同3章5節)とあります。「すると、ふたり目が開け、自分たちが裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた」というのです(同3章7節)。


このようにして始まった“罪のルーツ”を解析していくと、一体、何が観えてくるのでしょうか? 


私には、このエデンの園で起こった出来事の中に重要なポイントが隠されているように想えてならないのです。へびは、善悪を知る木から取って食べると、「目が開け、のように善悪を知る者となる」と言いました。ところが、実際には、二人がそれを食べた後に、と全く同じように善悪を知るということにはならなかったのでした。


へびに誘われるまま、“善悪の木の実”を見たところ、それは「食べるに良く目には美しく賢くなるには好ましい」と思われ、それから口にしました。そして、夫にも与えたというのです。つまり、それを食べても何ら問題はないという“思い込み、“見た目がすべて”という考え方、すなわち、外見の美しさ、表面的なきらびやかさなどに惑わされている状態と同等な賢さ(=知恵)ではなかったのです。むしろ、“善悪の固定観念という二元論的な発想”に囚われて物事を見たり、判断したり、解釈したりするようになってしまったということです。言い換えれば、マインドを駆使することによって もたらされる賢さであり、知恵なのです。エデンにおいて始まったこのようなマインド主導の世界が、地球の人類全体を飲み込むようになるのです(ローマ人への手紙5章12節~21節を参照)。このマインド主導の世界が、まさに“この世”なのです。そして、マインド主導の発想で、区別したり、分け隔てしたり、差別したり、比較したり、競合したり、競争したり、争ったり・・・と、さばくことが人間の性(サガ)となってしまっているわけです。これが当たり前のようになっていために、もはや何の違和感も感じなくなっている状態なのです。


このようなマインド主導の世界というのは、神の世界とは接点を持たないのです。マインドによる発想自体が、目の前の“”となってしまい、をあるがまま観ることを妨げてしまうのです(コリント人への第1の手紙18節~2章16節、マタイによる福音書13章14節、詩篇18篇25節~26節を参照)。どうしてもそのものを偏った観かたや捉え方をしてしまうものなのです。


この“”が心の目から取り除かれている人こそが、まさに“心の清い人”なのであり、イエスが山上の説教の冒頭の方で、「心の清い人たちは、さいわいである。彼らはを見るであろう」(マタイによる福音書5章8節)で言われたのは、実はそのことだったのではないか・・・と、私は観ているのです。


これまで長い間、自分の想いマインドによって支配されていた、囚われていた、縛られていたということに気づいていくということが、実は、“霊的な覚醒”への第一歩となるのです。そして、自分の中でこれまでフル活動していたマインドの働きを停止していった時に、目に前には“救いの道”が観えてくるのです。イエスは、「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者は多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」(マタイによる福音書7章13節~14節)と、山上の説教で語りました。私は、マインド主導で生きていくことこそが『滅びに至る門』、『広い道』であり、一方、マインドの働きを停止する術(すべ)を身に着けて、自分をがんじがらめにしてきたすべてのことから想いを解き放って、自由な状態にしていくことが『命にいたる門』、『細い道』となるのではないか・・・そんなふうに、私は観ているのです。


このようなコツを身に着けて、魂の救いを実際に体験していったのが、例をあげると、十字架上で救われた犯罪人であり、イエスが語った譬の中の取税人であり、試練から救われたヨブだったのです。



エデンへの回帰、そして、反転


ヨブは、試練に遭った時に、「わたしはで母の胎を出た。またでかしこに帰ろう」(ヨブ記1章20節)と言いました。ある意味において、ヨブが試練に遭って、自分が持っていたものがことごとく奪われていった時に、“裸の状態の自分を気づいた”ということ。すなわち、エデンにおける原点(創世記3章6節~7節を参照)に回帰していったと言えます。でも、そこからが大事なのです。“原点のさらなる原点”とも言うべきところに回帰していって、そこを反転させていけばいいわけです。


つまり、“善悪の木の実を食べた”ということが暗示しているのは、“善悪の固定観念を自分の中に取り込んでしまった”ということなのです。のように賢くなれると思い込んで・・・。ところが、その賢さというのは、“の賢さ”ではなくて、“マインドが造り上げ、築き上げ、積み上げていく賢さであって、人はそれによって、“のようになろう”、“をも凌駕しよう” 、あるいは、“の存在すらも否定する”といったような傲慢な想いまでも持ってしまったわけです創世記11章1節~9節を参照)。そこには、高慢や高ぶりの精神さばきの精神がプンプン匂うのです(ヤコブの手紙4章6節~16節を参照

 

エデンにおける“原点のさらなる原点”というのは、“さばいた”というところにあります。“さばく”ということは、何かを基準にして、それと比較して判断したり、評価して、最終的な裁定を下すことを意味します。そこには、決めつけがあり、思い込みというものがあるのです。わずかな情報や知識だけで、軽率な判断・評価・最終決定・ファイナルアンサーを出してしまうことが、“さばく”ということです。そして、“さばく”ということの背後には、様々な固定観念があるもの。その最たるものが、“善悪の固定観念”と言えるでしょう。このような固定観念というフィルターを通して、人は“さばいていく”わけです。


では、エデンにおけるその“究極の原点”に回帰していって、そこから“反転させていくには、実際どうすればいいのでしょうか?


それは、“さばくこと”の全く反対のことをやればいいわけです。つまり、“さばくことをしない”、“ジャッジしない”ということです(マタイによる福音書7章1節を参照)。これを実行、実践していくことが、“反転させていく”になるのです。人類にが入ってきた“究極の原点(=さばいたということに、実は密接に関係している)”に回帰していって、そこを反転させていくところに、実に、救いの道が開け、見えてくるのです。イエスの山上の説教の中でさばくな”と説いたことは、実に、重要なメッセージだったと言えます。


「悔い改めて、わたしを信じなさい」、「わたしの名によって、天の父に祈りなさい」、「ゆるしを信じなさい、そうすれば救われる」などとイエスがたとえ語ったとしても、それによって人が実際に救われていくというのは、至難のわざである・・・と、私は想うのです。イエスが語った多くの教えの中から、「さばくな」というたった1つの教えを取り除いただけで、イエスの語った他のすべての教えは崩れ去っていく・・・と、私は観ているのです。それほどまでに大事で、なくてはならない教えというのが、まさに「さばくな」という教えであると言えます。


そして、この「さばくな」(マタイによる福音書7章1節)という教えとペアーになっている教えと言うのが、「自分の目から梁を取りのけるがよい」(同7章5節)なのです。この2つは、“コインの裏と表”のような関係にあると言えるのです。では、何のために自分の目から“”を取りのける必要があるのでしょうか? 


それは、“はっきり見えるようになる”ためです(同7章5節を参照)。はっきり見えていないからこそ、人はさばいてしまうのです。目に“”が存在しているから、はっきり見えないのです。さばくことをやめることで、人は自分の目から“”を取り除くことができ、その結果、はっきり見えるようになるのです。私がここで言いたい霊的メカニズムが、お解りいただけるのでしょうか?


実に、十字架上の例の犯罪人は、自分の人生がまさに終わろうとしていた直前に、“さばかずにイエスを観たので、イエスのうちのある真理(=見えない事実)がはっきり見えたのです。だからこそ、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」(ルカによる福音書23章42節)と言うことができたのでした。そして、彼がパラダイスに救われることを、イエスに宣言されたのでした。


また、イエスが譬の中で語った取税人は、パリサイ人と違って、“さばかなかった”からこそ、すなわち、目の“”が取りのけられていたからこそ、ゆるしをあるがまま、はっきり見ることができたのです。だからこそ、取税人は「神様、罪人のわたしのおゆるしください」と祈ることができたのです。


つまり、十字架上の犯罪人も、譬の中の取税人も、人類史上に罪という問題が生じたきっかけとなった“さばいた”という行為を反転させ、“さばくことをやめた(=マインドの働きを停止させた)”ことで、善悪の固定観念からも自分の想いが解き放たれて、自由となって、魂の救いを得たのであり、義と認められ、ゆるされたのです。


・・・・・・“取税人とパリサイ人の祈り(4)‐ラオデキヤ”へ続きます・・・・(11月26日 木曜日 23:08更新中) (11月29日 日曜日 0:15更新)  (12月4日 金曜日 23:20更新)   


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11/24(火曜日)23:39更新 ブログ(127)『イエス-道』:(18)“取税人とパリサイ人の祈り(2)ーエデン”

2015年11月24日 23時39分02秒 | イエス-道

 

内容的には、前回のブログから続いています

 


 

『イエス-道』:(18)“取税人とパリサイ人の祈り(2)―エデン”  



聖書的に観ていった場合の 人類にが生じた発端、起源、ルーツというものを“エデンの園”における出来事から解読していってみましょう。


ここでキーワードとなる言葉は、『命の木』、『善悪を知る木』、『賢くなるには・・・』、『目が開ける』、『裸であること』、『神の顔避けた』(裸であったので、恐れて身を隠した)といったところでしょうか。


主なる神は、「見よ、はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」(創世記3章22節)と言って、命の木が存在しているエデンの園から人を追い出したとあります。


確かにアダムエバは、善悪の知識を知ってしまったという点においてはのようになったわけですが、アダムエバの場合においてそれは“善悪の固定観念”に想いが囚われてしまって、そのようなモノサシによってバカの一つ覚えのように、何でもさばくようになってしまった”ということです。


その証拠に、主なる神に「あなたが裸であるのをだれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」とアダムが問われた時に、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」と答えました(創世記3章11節~12節)。つまり、アダムは「自分は悪くない。自分はなのであって、い女だったエバに誘導されて私は食べてしまったのです」と言っているようなものです。それは、暗に、「エバという女を造った主なる神が悪いにであって、その責任はにあるのではないか」と言っているのと同じことなのです。言い換えれば、アダムは、“エバ主なる神である”というふうにさばき、一方で、“自分は悪くはない、むしろである”とさばいたということなのです。


そこで主なるは「あなたは、なんということをしたのです」とエバ言ったところ、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」と答えたという(創世記3章13節)。これも、「私は悪くありません。悪いのはが造ったへびの方でしょ」と言っているようなものです。これも、アダムと同様、最終的な責任をになすりつけていることであり、「自分はなのであり、誘惑したへびを造ったい」とさばいていることを意味しているのです。


いくらのように“善悪を知る者”となったと言っても、の場合との場合とを比べたら、その知り方の内容は全く違っているのです。人が“善悪”というものを知って、その『善悪という固定観念』に想いが囚われ、飲み込まれてしまった時に、“”とは全く調和しなくなってしまったのです。人の心に生み出されてしまったのは、冷酷な精神やあら探しの精神であり、他者を責めたり、批判したり、批難したり、攻撃したり、憎んだり、恨んだり、怨念を持ったり、人を見下すような汚れた思いだったのです(マタイによる福音書15章18節~29節を参照)。そして、宮でに祈ったパリサイ人というのは、まさにこの部類に属していたというわけです。


でもの場合は、そうではなかったのです。たとえ善悪を知っていても、であり続けるのです。このについて、イエスは山上の説教の中で「・・・天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも 正しくない者にも、雨を降らして下さる。・・・それだから、あなたがたも天の父が完全であられるように、あなたたがたも完全な者となりなさい」と語ったのでした(マタイによる福音書5章45節を参照)。


というものが存在していること自体を否定しているのではありません。人の想い善悪という“固定観念”に囚われてしまったり、支配されたりしてならないということが、ここでとても重要なポイントになってくるということです。そのようにならないためのイエスが説いた具体的なノウハウというのが、さばくことをやめることです。ジャッジしないことに徹していくということです(マタイによる福音書7章1節を参照)。これこそ、山上の説教の中でイエスが語った数々の教えの中で最も大事な教えである・・・と、私は観ているわけなのです。このようにして“善悪の固定観念”から自分自身を解放し、自由にしていくことが、すなわち、イエスが説いた「自分の目から取りのけるがよい」ということなのです。


さて、ここで“恐ろしさ”、“欺瞞”、“という”(ルカによる福音書11章35節、ヨハネによる福音書12章35節&46節、ヨハネの第1の手紙2章8節~11節を参照)、あるいは、“という盲目”(マタイによる福音書15章14節、同23章24節&26節、ヨハネによる福音書9章39節~41節を参照)というものについても考察しておく必要があります。


前回のブログで、この譬における取税人パリサイ人の違いというのは、自分がいわゆる“裸の王様”であることに気づくか、気づかないかという点にあるのではないか・・・と私は書きました。次に、この点について、私なりに説明いたします。


ここおけるキーワードは、『』(創世記3章7節、11節を参照)、『いちじくの葉』(同3章7節を参照)、『皮の着物』(同3章21節を参照)です。


アダムエバは、主なるから食べるなと命じられていた“善悪を知る木”から実を取って食べてしまいました。その後、主なる神が園の中を歩まれる音を聞いた時に、恐れを感じて、主なる神の顔を避けるべく、園の木の間に身を隠したと記されています(創世記3章8節~10節を参照)。“”とは、このようにが自分の方からから分離していくこと、に背を向けて離れていくことを意味しています。


また、“が善悪を知る木から実を取って食べた”というところに、聖書的に“人の罪の起源”があった・・・ということも、実に、興味深いものです。そして、その“善悪を知る木の実を食べた”直後に、自分たちが“裸であること”に気づいたというのです。


主なる神は、アダムに呼びかけられます、「あなたはどこにいるのか」と(創世記3章9節)。アダムは次のように答えます、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、私は裸であったので、恐れて身を隠したのです」と(同3章10節)。に対して“”を犯した人というのは、このように、もはや堂々との前に立つことができなくなってしまうものなのです。裸の恥をさらすようなもので、恐れてしまうのです。


「主よ、あなたがもし、もろもろの不義に目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか。」(詩篇130篇3節


だからこそ、ヨハネの黙示録3章18節にあるように、「あなたの裸の恥をさらさないため身につけるように白い衣を買いなさい」と勧められているわけなのです。


人は、の前に立つ時に、罪という裸の恥をさらしてしまうような無防備な状態でに立つはしないものです。何かで、その恥ずかしい部分(=自分の人生における汚点、黒歴史、みっともなかったところ、失態、粗相、失敗など)をの目に見えないように、何かで覆って、隠そうとするものなのです。


何で覆い隠すか? 大きく分けると、それは“いちじくの葉”か、“皮の着物”か、そのいずれかに分類されるのです(創世記3章7節、21節を参照)。いちじくの葉”というのは、罪という恥を覆い隠すために人間のマインドが賢明に考え出したすべてのものの象徴と言えます。皮の着物”というのは、罪という恥を覆うためにみずからが考え出されたイエス・キリストにあって人に提供されている神の義という名の“白い衣を暗示しているのです。この二つの方法しかないのです。


宮で祈ったパリサイ人というのは、前者の“いちじくの葉”を身に着けて神の前に立っていたのでした。実は、この時のパリサイ人というのは、の前でまさに“裸の王様”そのものだったのです。


一方、宮で祈った取税人というのは、後者の“皮の着物”が自分に必要であることを痛切に感じて、それをに祈り求めたのでした、「神様、罪人のわたしをおゆるください」(ルカによる福音書18章13節)(さらに、ローマ人への手紙4章5節~8節を参照)と。そして、この取税人は、宮で祈り終えた後に「義とされて」(同18章14節)、つまり、“白い衣(=皮の着物)”を着せられて、家に帰っていったというのが、イエスが語ったこの譬の重要なポイントであると言えます


でも、私が皆さんにぜひお伝えしたいと想ったのは、実はこのような結論なのではなくて、さらにもう一歩突っ込んだ内容なのです。それは何かと言うと、・・・・・

11月23日 月曜日 0:03 更新) 11月23日 月曜日 15:24 更新 


イエスのこの譬を観ていった時に、私が注目している別のポイントというのは、“罪の恐ろしさ”というか、“罪の欺瞞”というか、“罪の盲目性”についてなのです。宮でに祈りをささげたパリサイ人は、周りの人たちと比べてみても、これまで自分の人生の中でやってきた活動、実績、真面目さ、誠実さなどを振り返っても、自分はの前に出ても恥ずかしくない人間である・・・と微塵も疑っていなかったのです。たとえ、主なる神に「あなたは自分が裸であることに気づいていないのか?」と聞かれたとしても、お笑い芸人の“とにかく明るい安村”のように「大丈夫です。履いてますから・・・」とパリサイ人は答えるに違いありません。


でも、パリサイ人が身に着けているもの、覆っているものというのは、主なる神から観れば「いちじくの葉をつづり合わせ」(創世記3章7節たものと何ら変わりはないのです。それでも、このパリサイ人自身は自分がの目から見て、裸同然であることに気づいていないのです。


アダムエバは“善悪を知る木の実”を食べたところ、目が開けて、自分たちが裸であることがわかったと書いてあります。つまり、自分たちの恥ずべき状態に気づいてしまった今では、これまでのようにの前には出られないと感じたのです。そこで、善悪を知る木の実”を食べて“賢くなった”自分たちが考え出した方法で、自分たちの恥ずかしい部分を覆うことによって、の前に出ることが出来ると想ったのでした。


善悪を知る木の実”というのは、エバの目には「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいたにも与えた」(創世記3章6節)と記されています。実は、善悪を知る木の実”を食べたことに伴う“賢さ”というのは、あくまでも“マインド”のレベル内の“賢さ”に過ぎないのです。“マインド”を超えた賢明さ、透き通った聡明さではないわけです。何かのフィルターを通して観ている、何かに視界がブロックされて、多くの死角が生じている状態で観ているのです。つまり、これがまさに人の目の前に“”が存在している状態であるとイエスが山上の説教の中で語っていたことだったのです()。ここに、“”そのものに秘められた恐ろしさ、欺瞞、盲目性がある・・・と、私には想えてならないのです。イエスが、十字架上で「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカによる福音書23章34節)と言われた時、まさにこのような“罪の側面”を語っていたのではないかと想います。罪によって心の闇が深まり、盲目な状態で歩いている、方向性を見失ったままで人生を送っているということ。


このような性質を持っている“”というものに、人の心が侵食され、覆われ、囚われ、感受性が鈍らされてしまうと、人は一体どうなってしまうと想いますか? 


は、マインド主導で、様々なことを考え出していくのです。自分のマインドを駆使して義とされ救われようと想ってしまうのです。そして、そのようなやり方は、“善“であり、“義”であり、“正義”であると思い込んでしまうのです。そのようなマインド主導で、人がたとえ“善”や“義”を追い求めたとしても、無理があるのです。様々な“ほころび”が生じてしまうものなのです。


そのことをイエスが、実にマタイによる福音書23章で、ズバリ指摘しているのです。  ・・・・・・続く・・・・・お楽しみに・・・・・・  

11月24日 火曜日 23:39更新中  


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11/21(土曜日)0:15更新 ブログ(126)『イエス-道』:(17)“取税人とパリサイ人の祈り(1)”

2015年11月21日 00時15分43秒 | イエス-道

内容的には、前回のブログから続いています


『イエス-道』:(17)“取税人とパリサイ人の祈り(1)” 


では、なぜ取税人の方がに義と認められて、パリサイ人の方がに義と認められなかったのか・・・を確かめるべく、これからルカによる福音書18章9節~14節想いを巡らせ、観ていきましょう。


イエスのこの譬の冒頭では、「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。・・・」と述べています。このパリサイ人イエスは、「自分を義人だと自任して他人を見下げている人」として描いています。


パリサイ人の祈り


パリサイ人は立って、ひとりで次のようにに祈ったというのです。「よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫する者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています。


実は、聖書に書いてあるような『良い行い、義の行為、正しい行動の実績』を積み上げていくことによって、から救いをいただくわけではないのです。そのような実績をに示すことによって、自分の救いを獲得していくことにおいて有利に働くのではないわけです。


例えば、自分が志望している学校に合格するために入試を受ける場合のような感覚で、自分の“魂の救い”に到達できると思い違いをしてはならないのです。入試の場合には、もちろん、受験生の答案に正しい答が一定の割合で書いてあれば、合格圏内に入ることは確実となるでしょう。そのためには、受験生は何年間にもわたってマインドを駆使して頭の中に多くの知識や情報を蓄えること(=記憶)が必要となり、そして、いざ入学試験の本番においては、自分の頭の中にある『記憶のデータベース』に検索をかけて正しい答を引き出していくというマインドの働きがとても重要となってきます。


では、救いに関してはどうなのでしょうか? 聖書から学んだり、教会の説教で聞いたこと、あるいは、最近ではインターネットを通して得られた“キリスト教の様々な教理や真理の知識”を頭の中に蓄積していき、さらに、聖書の中でに具体的に書いてあるような“良い行い(=義の行為、正しい行い)”を自らの人生において積極的に実践していって、自分の信仰というのは口先だけのものではないということを立証し、信仰と義なる行いの両方を自分は持っている・・・だから、に義と認めてもらえるはず・・・、罪人ではなく、義人としてに認知していただけるはず・・・救いに関してはおいて自分ば“合格圏内”に入っているはず、大丈夫だ・・・と考える人は多いのではないでしょうか? ところが、の最終判定は不合格となってしまうのです。に義と認められることはないというのです。救いから残念ですが、漏れてしまうことになるのです。天国から閉め出されてしまう不幸な結果に終わってしまうおそれがあるのです。


このような発想を抱いていたキリスト教信者というのは、実は、『よ、よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』(マタイによる福音書7章22節)とに向かって主張する人たちでもあると、想われます。


さて、宮で向けて祈ったこのパリサイ人の口か発せられた一連の言葉に静かに耳を傾けていくと、彼はまさに『さばき人』であったということが観えてきます。さばく人というのは、必ず何かや誰かと比べたり、比較参照したりすることによって、自分や他人に関しての価値判断、善悪の判断、損か得か、好きか嫌いかなどを自己流に、あるいは、自分勝手に決めつけようとする習性がとても強いのです。このようなパリサイ人のような観かたというのは、の観かたとは、全く違ったものであり、相いれないのです。の観かたというのは、広い視野からみた観かたなのです(ヨハネの第1の手紙3章20節を参照)寛容の愛で満ち溢れているゆえ(マタイによる福音書5章43節~48節を参照)寛容な観かたをするものなのです。一方、パリサイ人の観かたというのは、ステレオタイプ(Stereotype)の観かたなのです。つまり、判で押したように世間一般の人々に浸透しているような先入観、偏見、思い込み、固定観念などといった一方的な観かた、狭小な観かたと言えるのです。この両者の観かたの違いというのは、まさに雲泥の差、天と地の差と言えるほどなのです(イザヤ書55章8節~9節を参照)


実は、『さばき人』であるパリサイ人の目には“”が存在しており、それが霊的な視界を妨げていて、ありのままの神を観るということはできないのです。“偏見、先入観、歪曲した固定観念など”に囚われてしまった想いが投影されてしまって、を誤ってイメージで捉えてしまっているのです(詩篇18篇25節~26節を参照)。イエス弟子のピリポが「よ、わたしたちにを示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します。」(ヨハネによる福音書14章8節)とイエスに言ったことがありました。その時、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、を見たのである。どうして、わたしたちにを示してほしいと、言うのか。」(同14章9節)イエスは答えられました。そうなのです、目に“”が存在している限り、イエスを間近で見ているのにもかかわらず、そのイエスを通して映し出されている天の父なる神栄光が見えていない・・・というような“霊的に盲目な状態”になっているのです(コリント人への第2の手紙4章6節を参照)。


さらに、目に“”が存在している人にとっては、偶像化されているとも言えます。つまり、自分にとって便利なように、都合がいいようにカスタマイズされた“別の神”を造り上げてしまっているのです。しかも、本物の神とは似ても似つかない“”を自分の観念の中で創り上げてしまっているのです。


また、『さばき人』であるパリサイ人は、さばきをもさばいているとも言えます。すると、結果的にどうなると想いますか?イエスが山上の説教の中で述べたように、「あなたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう」(マタイによる福音書7章2節)という原則が適用されることになるのです。このパリサイ人は、義と認められなかったことが、イエスにズバリ指摘されています。なぜでしょうか? それは、をあるがまま捉えていなかったからです。ありのまままのを観ていなかったからです。をさばいていたからです。しかも、間違ってをさばいていたからです。ヨブ3人の友人たちと同じです(ヨブ記42章7節を参照)。


取税人の祈り


では、に義とされて家に帰って行ったという取税人の方は、一体、に向かってどのような祈りをしたというのでしょうか?

取税人は宮に上って行ったものの、遠く離れて立って、しかも目を天に向けようともしないで、胸を打ちながら『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と言ったというのです。この取税人は自分と周りの人々と比べたりはしていないのです。そして、彼がに祈った内容とは、実に単純なものでした。の前に罪人である自分を認め、しかもそのような自分に対してゆるしだけを祈り求めたというのです。


この取税人とは対照的に、自分を“義人”だと自任していたパリサイ人は、自分がゆるしを求める必要性があるとは思ってことはなかったので、祈ることをしなかったわけです。つまり、わざわざからのゆるしをいただかなくても、今の状態のままで自分は“罪人”としてではなく、むしろ“義人”としてに受け入れてもらえるはずだ・・・と当然のように考えていたのです。太陽が東から上って、西に沈んでいくのと同様に、何らの疑うこともなく、当たり前のようにそのように考えていたのです。自分は取税人とは違って、ゆるしを必要とするような汚れた人間、罪深い人間であるとは、微塵だに思っていなかったからです。


神様、罪人のわたしをおゆるしください』とこの取税人が祈り、かつ、このように祈った結果、この取税人義とされた(つまり、罪がゆるされた)とあります。これらの一連のことから、一体、何を読み取ることができるのでしょうか?


私は、譬の中でこの取税人が遠く離れて立って、しかも目を天に向けることもせずに、胸を打ちながら『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と祈ったということの中に、とても感慨深いものを感じるのです。つまり、どういうことをここで私が観るかをちょっと説明させていただきます。人というのは、義と認められるようになるためには、あるいは、救いにあずかるようになるためには、“エデン”に回帰していく・・・ということです。人類に“”というものが生じたルーツ、起源、発端、・・・その場面、地点に逆行していく、戻っていくことになる・・・と、直観的に私に想えるのです。


言い換えると、この譬における取税人パリサイ人の違いというのは、自分がいわゆる“裸の王様”であることに気づくか、気づかないかという点にあるのではないか・・・と私は想うのです。取税人はこれに気づいたのであり、パリサイ人はこれに気づかなかったというわけです。


ここで私が何を言いたいのか、まだピンとこない・・・という方もおられると想うので、さらに今後、説明を続けて参ります。(この連休中にかけて、本腰を入れて、このブログの続きを書く時間を確保できたらいいな・・・と想っています。)


の本質的なところが観えてくると同時に、によって義と認められるとか、あるいは、救いとは何かということがおのずとわかってくるのではないか・・・そんなふうに、私は想っています。


さて、がいかにして人類に入ってきたのかに関する起源・ルーツを探していくと、創世記2章15節~3章24節の中で描かれているエデンの園での場面に行き着くのです。そこで、登場するのは、アダムエバ主なる神ヘビです。そして、そこで実際にどういうことが起こったのでしょうか? そこから一体、何が観えてくるでしょうか?・・・・・・ 


11月13日 金曜日 23:37 更新11月15日 日曜日 0:30 補足更新11月16日 月曜日 21:55 更新11月19日 木曜日 23:17 補足更新11月21日 土曜日 0:15 補足更新

 ・・・・・・“取税人とパリサイ人の祈り(2)―エデン”続く・・・・・お楽しみに・・・・・・ 

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11/13(金曜日)22:14更新 ブログ(125)『イエス-道』:(16)“神に義と認められること”

2015年11月13日 22時14分24秒 | イエス-道

 

このブログは内容的には、『イエス-道』:(15)“七たびを七十倍するまで・・・からの続きです


『イエス-道』:(16) “神に義と認められること” 

 

 

聖書的には、“神にゆるされる”ということは、“神に義と認められる”ことを意味します。つまり、同じニュアンスで使われているわけです。


使徒パウロが、次のように述べていることからも、それがわかります。


「しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、次のように言っている、『不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、さいわいである。罪を神に認められない人は、さいわいである。」(ローマ人への手紙4章5節~8節


今回のブログでは、神にゆるされるということを、神に義と認められるという視点から、観ていきたいと考えています。つまり、『信仰による義認』という教えを取り扱うということになります。ところで、“神に義と認められる人”は、天国への救いにあずかることができる幸いな人であり、一方、“神に義と認められない人”というのは“不法を働く者ども”と主に言われて、天国の救いから締め出されてしまう人であるということになります(マタイによる福音書7章23節を参照)。従って、今回のテーマも、とても重要なものと言えます。 

 

この度、スポットライトを当ててみたい聖書の箇所というのは、パリサイ人取税人が宮において祈る場面を描写したイエスの譬です。今回のブログを展開していくに先立って、ルカによる福音書18章9節~14節にあるこの譬を通してイエスが一体、何を語りたかったのか・・・について、皆さんもぜひ想いを巡 らせてみて下さい。


今回は、使徒パウロがしばしば『信仰による義認』と呼んでいる教えにメスを入れてみたいというか、その教えの中身を検証してみたいと想っている次第です。


以前のブログで、使徒パウロが“信仰によって律法を確立する”と言っている(ローマ人への手紙3章31節を参照)のに対して、私は“さらにその信仰は、イエスの『さばくな』という教えの実践によって確立される必要がある”というようなことを述べたことがあります。


では、『信仰による義認』という教えをイエスの譬から読み直していった時に、何が見えてくるのでしょうか? つまり、“イエス‐道”の視点から観た場合、『信仰による義認』という真理はどのような姿を現してくるのでしょうか?

   (11月8日 日曜日 0:11更新)(11月9日 月曜日 13:25更新)


さて、ルカによる福音書18章9節~14節にあるこの譬をイエスが語られた対象というのは、“自分を義人だと自任して他人を見下げている人たち”だったことが記されています。ところで、山上の説教において、「よ、よ」との名を呼びながらも天国から締め出されてしまう不幸な人たちのことが述べられています(マタイによる福音書7章21節~23節を参照)。このような人たちに対しても、実は、この譬が語られているとも考えられます。


ここで天国の救いから漏れてしまうという人たちというのは、長年にわたって聖書のを信じ、かつ、イエスを神の子・救い主として受け入れ、自らの信仰を表明してきた“キリスト教徒たち”と考えられます。そして、このような人たちは、キリスト教信仰を持っていない人たちと比べたり、あるいは、そんなに真面目に信仰生活を送ってこなかった他の信者たちと比べたりしても、自分たちの方が優先的に天国に入れるはずだ・・・と、当然のことのように考えていたわけです。聖書を一度も学んだこともない人たち、イエスを神の子、救い主であると信じたこともない人たちは天国に入ることはもちろん無理だろう・・・、でも、そのことを実際に信じてきた自分たちの場合は天国に救われるということは“疑いのないような事実、間違うことのない事実”のように想ってきたわけです。ところが、そのように想ってきた人たちの多くが、やがて驚愕してしまう日がくるというのです。その日には、自分の耳を疑ってしまうことになるわけです。これまで自分たちが信じて、忠実にお従いしてきたはずの主自身の口から「あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ」(マタイによる福音書7章23節)という言葉を直接聞く時に・・・・。


確かに言えることは、“天国の救いにあずかることができない人たち”というのは、“に義と認められなかった人たち”であるということ。たとえ、主イエスのためにに喜ばれるようなわざや働きの数々を行なってきたにもかかわらず、“に義と認められることはなかった”ということなのです。


使徒パウロの言葉をもう一度引用しておきます。「聖書はなんと言っているか。『アブラハム信じた。それによって、彼は義と認められた。・・・・・働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰義と認められるのである。ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、次のように言っている、『不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、さいわいである。罪を神に認められない人は、さいわいである。」ローマ人への手紙4章3節~8節)


に義と認められる”ために、私たちの側のわざ、行い、働きというのは何の役にも立たないというのです。つまり、私たちの人生の中で行ってきた良い行い、輝かしい業績や功績、義なる行為などといったものは、“に義と認められること”においては、ポイントを稼ぐことにも、ポイントをアップすることにもならないというわけです。


「ちょっと待ってくれにため、のためと想ってこれまでやってきた自分たちの“わざ・行い・働き”というものが、“に義と認められること”においては、使徒パウロが述べているように、役に立たないということは納得するにしても、でも私たちは信仰を持ってやってきた信仰の行為なわけだから、せめて自分たちのその信仰の部分は義と認めてもらってもいいのではないか・・・。 だから、信仰を持っていないキリスト教未信者と比較したら、自分たちはやはり優先的に天国に救われてもいいのではないだろうか・・・」。こんなふうに主イエスに直訴したり、あるいは、抗議をしようとする“キリスト教信者”も大勢出てくるのではないか・・・と、私には想えてならないのです。


さて、この点において、皆さんはどう想いますか? 次回、このブログを更新する時まで、じっくりと想いを巡らせてみて下さい。

 (11月10日 火曜日 23:18更新) (11月11日 水曜日 20:43改訂更新)


ところで、テレビで活躍しているお笑い芸人、“とにかく明るい安村”という人を皆さんは、よくご存知かと想います。彼がよく言う言葉に、「大丈夫ですよ。履いてますから・・・」があります。一見、何も身に着けていない“素っ裸”に見えるけれども、実際にはちゃんと履いてるよ・・・というわけです。


これは、“”という問題を考えるにあたって、参考になるかと想うのです。創世記を観ると、アダムエバが「善悪を知る木からは取って食べてはならない」(創世記2章17節)と主なるから告げられていたにもかかわらず、それに従わず“”を犯すことになります。その結果、どうなったかというと、「ふたりの目が開け、自分たちのであることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた」(同3章7節)というのです。つまり、“”によって生じてしまったほころびを自分で取り繕おうとしたというわけです。


これに対して、主なる神は彼らのを覆うために独自の方策を考えられたのでした。つまり、「皮の着物を造って、彼らに着せられた」(同3章21節)というのです。この“皮の着物”というのが、人の“”の問題に対処するためにが考えられた実効性のあるイエス・キリスト義の衣を象徴しているのです。


イザヤ書には、次のように記されています。「わたしはを大いに喜び、わが魂はわが神を楽しむ。がわたしに救の衣を着せ、義の上着をまとわせて、花婿が冠をいただき、花嫁が宝玉をもって飾るようにされたからである。」イザヤ書61章10節


実は、このようなことが『信仰によってに義と認められる』という教えの根底にあるわけです。つまり、「・・・・働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。ダビデもまた、行いがなくてもに義と認められた人の幸福について、次のように言っている、『不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、さいわいである。罪をに認められない人は、さいわいである。」(ローマ人への手紙4章5節~8節)とあるように、信じる者には“イエス・キリストの義の衣”が着せられているので、その罪がおおわれ、ゆるされているので、罪のほころび(=裸の恥=)をに認められない、すなわち、によって義と認められるということになるわけです。これは、イエス・キリストを信じる信仰にゆえにに義と認められるという教えなのです(ローマ人への手紙3章21節~26節、ガラテヤ書3章23節~27節、同5章4節~5節、ピリピ人への手紙3章9節を参照)。


では、「皆さん自身は、罪によって生じたほころび、裸の恥をさらさないための対策をしっかりと講じていますか? 大丈夫ですか? 罪の問題を根本から対応できるノウハウを持っていますか?」と問われたとしたら、どのように答えるでしょうか?


詩篇には、「主よ、あなたがもし、もろもろの不義に目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか。」(詩篇130篇3節)とあります。


とにかく明るい安村”のように、「大丈夫ですよ。履いてますから・・・」と、自分の“”の問題に対しても、本当に大丈夫と言えるでしょうか? すべての見通す主なる神の前でも、自信を持って「大丈夫です。私はイエス・キリストを信じていますから、そのキリスト義の衣を着ているので大丈夫です」と、はたして言えるでしょうか? 「私はの啓示である聖書も読んで学んでいるし、また、イエス・キリスト父なる神信じているから大丈夫。その信仰によって、イエス・キリスト義の衣が私の罪のほころび(=裸の恥)を覆って、ゆるして下さるので、に義と認められているはず・・・」と答えられるでしょうか?


確かに、これが“イエス・キリストを信じる信仰によってに義と認められる”という『信仰による義認』の真理だと言えば、言えなくもないと想うのですが・・・。でも、私はこれだけでは、『信仰による義認』の真理の中身に空洞が生じているような気がしてならないのです。重要な要素を見落としているように想えてならないのです。これだけでは、『信仰による義認』の真理には、盲点があるのです。これでは、『信仰による義認』の真理は、まだ完成しているとは言えないと想うのです。


では、その“盲点”というのはいったい何だと、皆さんは想いますか?


聖書をよくよく観ていくと、実は、答えがちゃんと記されているのです。


次のブログを更新するまで、皆さんにヒントを与えておきます。それは、ヨハネの黙示録3章14節~18節ガラテヤ人への手紙5章4節~5節にあります。

 (11月11日 水曜日 22:51更新)


イエス福音による救い信仰による義認という救いに関する教理を観ていく時に、ともすれば見落としてしまう盲点というのがあります。それは、ヨハネの黙示録3章においては見えるようになるため、目にぬる目薬(ヨハネの黙示録3章18節)であり、ガラテヤ人への手紙5章中では御霊の助けにより(ガラテヤ人への手紙5章5節)という言葉です。実は、ここが最も重要なところであると、私は観ているわけです。


ところで、このヨハネの黙示録3章にあるラオデキヤへの教会へのメッセージにおいて、3つの重要なポイントが指摘されています。それは何かと言いますと、富む者となるための『火で精錬された金』、裸の恥をさらさないための『白い衣』、そして、見えるようになるための『目にぬる目薬』の3つです。1つ目の『火で精錬された金』というのは“信仰”を象徴し(ペテロの第1の手紙1章5節~7節を参照)、2つ目の『白い衣』というのはイエス・キリストを信じる者に着せられる“キリストにある神の義”という衣を象徴し、3つ目の『目にぬる目薬』というのは人の霊的な目を開く“神の御霊の働き”を象徴しています(エペソ人への手紙1章17節~18節を参照)。つまり、これは、まさにガラテヤ人への手紙5章5節で、使徒パウロが「わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている」と表現した『信仰による義認』の教えそのものであることがわかります。


私がここで言いたいことは、『信仰による義認』という救いに関する教えというのは、「知恵と啓示との霊」と言われている神からの聖霊が私たちにありのままの神を認めさせ、私たちの「心の目を明らかに」するためのサポートをすることで初めて完成していくということ(エペソ人への手紙1章17節~18節)。つまり、私たちの心の目に“”が存在している限り、にある本当の救いは観えてこないということなのです。だからこそ、イエスが山上の説教の中で説いたように、「自分の目からを取りのける」(マタイによる福音書7章5節)ということが物凄く重要になってくるわけです。そして、私たちが“さばくこと”をやめた時に、からの「知恵と啓示との霊」は私たちの心の目の前にある“梁”を取り除くべくサポートをして下さることによって、私たちの心の目を明らかにするというわけなのです。


イエス福音による救い』というもの(コリント人への第1の手紙15章1節~2節を参照)を表現を変えて言うと、『イエス信じる信仰によって、義と認められて救われること』になるかと想いますが、このような救いに関わる重要な真理の“”、“”、“キーポイント”になっているものというのが、実は、イエスが山上の説教の中で説いた『さばくな』ということ、そして、それに関連して『目から梁を取りのけることによって、はっきり見えるようになること』なのです(マタイによる福音書7章1節~5節を参照)。イエスはまた、「目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。」(マタイによる福音書6章22節~23節)と語っておられるのです。これも注目すべき意味深な言葉と言えます。この重要性は、ヨハネの黙示録3章18節の『見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい』というメッセージに表現されているのです。また、ガラテヤ人への手紙5章4節~5節では、信仰によって義とされるために、『御霊の助け』がとても重要になってくることを使徒パウロも述べているわけです。さらに、使徒パウロエペソ人への手紙1章17節~18節において、私たちがあるがまま認めることができるために、私たちの心の目を明らかにして下さるために『知恵と啓示との霊』を通して、『主イエス・キリストの神、栄光の父』が働いておられることに注目を向けているのです。


このポイントをキチンと押さえることができたら、ルカによる福音書18章9節~14節イエスが語った宮でに祈る取税人パリサイ人の譬の意味はおのずとわかってくるのです。では、次のブログでこの譬を観てみましょう。

(11月12日 木曜日 22:57更新)(11月13日 金曜日 22:14改訂更新

 ・・・・・・『イエス-道』:(17)“取税人とパリサイ人の祈り”  に続く・・・・お楽しみに・・・・・・   


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11/5(木曜日)22:52更新 ブログ(124)『イエス-道』:(15)“七たびを七十倍するまで・・・”

2015年11月05日 22時52分21秒 | イエス-道

“イエス‐道”の世界へようこそ


『イエス-道』:(15) 七たびを七十倍するまで・・・” 


内容的に、前回のブログからの続きになっています。


さて、前回のブログでは、“ゆるされること”だけでなく、“ゆるすように、私たちも人々をゆるしていくことがとても重要であることを述べました。


人をゆるすこと”が自分の生き方そのものとまだ同化していない場合には、ここでイエスにさらに突っ込んで質問してみたくなってくる人がいると想います。弟子のペテロもそうでした。実際、彼は、イエスのもとに来てこのように尋ねたのでした、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」(マタイによる福音書18章21節)と。


これは、通常の人間としては、至極当然な質問ではないか・・・と想います。


この問いに対するイエスからの回答というのは、「わたしは七たびまでと言わない。七たびの七十倍するまでにしなさい・・・」(同18章22節)でした。この後に続けて、イエスは「それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。・・・」同18章23節)と言って、たとえ話を語り始めます。


このマタイによる福音書18章22節~35節の中で、イエスは、一体、何を言いたかったと、皆さんは想いますか?


七たびの七十倍するまでゆるしなさいと言われる場合、7回×70=490回までゆるして、491回目以降はゆるさなくてもいい・・・と、イエスは教えられたのでしょうか? 私は、そうではないと想います。


度々イエスに“人をゆるすこと”の大切さを教えられて、ペテロもそれを実行しようと思ったことでしょう。でも、自分に対して罪を犯した人をゆるす場合、実際問題として、“たとえ多く見積もっても、7回もゆるしたら十分過ぎるくらいだろう・・・”と、ペテロは自分の頭の中で考えていたのかも知れません。ところが、イエスに“7回というゆるしの回数”をあっけなく否定されて、さらにその70倍の490回ゆるしなさいと言われたのでした。この時、おそらくペテロは気の遠くなるような回数ように感じられたのではないか・・・と想うのです。


「それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。・・・」(同18章23節~35節イエスが続けて話された譬え全体を解読していくと、結局、ゆるしたようにゆるしていないという実態・現実をここで指摘されたということを、以下のイエスの言葉から十分に読み取ることができます。


わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか」(同18章33節


「あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、・・・」同18章35節

11月2日 月曜日 22:26更新


つまり、ゆるしたように私たちもゆるしていないと、心からゆるしたことにはならないというわけです。


従来型の人間レベルの“ゆるしというのは、心からのゆるしなのではなく、ただ自分の中では相手をゆるしたと思い込んでいるに過ぎないのです。実際には、ゆるした相手に関する記憶情報をきよめてもいないし、削除してもいないのです。たとえ削除したと想ったとしても、それは頭にある『通常ファイル』から頭の奥のほうに保管されている『ゴミ箱のファイル』に一時的に移動したに過ぎないわけです。このようなレベルの“ゆるし”を続けていっていると、『ゴミ箱ファイル』の中に“ゆるしたはずの記憶情報”が着実に確実に溜まっていっているのです。そして、そんなふうにして、仮に490回まで相手を“ゆるした”とします。ところが、その相手が491回目の罪(=過ち)を犯したら、どうなるでしょうか? すると、これまで490回も“ゆるしてきた人”は、とうとう堪忍の緒が切れてしまい、これまでずーっと自分の頭の中の『ゴミ箱ファイル』に溜め込んでいた記憶情報をすぐに『通常ファイル』に再び呼び戻して、それらの過去データも一緒に引き合いに出して、今回のものに上乗せした上で、相手を非難したり、責めたり、報復したり、恨んだり、憎んだり、怒りを爆発させたり、切れまくったりしてしまうのです。この時に放出されれるエネルギーは、とても凄まじいものです。長い間、溜め込んだままに、あるいは、抑圧したままにしてきたわけですから、時期が来るとそれは大爆発を起こしたり、火山のように噴火したりしまうことになるのです。それは、自分自身や関わっている人を破壊したり、ダメージを与えたりする威力も秘めているのです。

 

実は、通常の人間がやっている“このようなレベルのゆるし”をイエスが、私たちに勧めているわけではないのです。繰り返して申しますが、ゆるすようにゆるしていくということが、イエスが言う「ゆるしなさい」ということの意味なのです。


では、どうやったらゆるすように、私たちもゆるすことができるのでしょうか? 皆さんは、どうお考えになられますか?

 11月3日 火曜日 22:42更新 


実は、“ゆるす”とは、『過去という時間』を超越した人ができる行為と言えるのです。逆に言うと、『過去の記憶情報』にその人の“想い”が囚われていたり、こだわっていたり、固執していたり、縛られたりしている限り、“ゆるすように、ゆるす”ということは実行不可能と言えるのです。自分の中にある『過去の記憶情報』というデータベースに自動検索をかけて抽出されてきた“過去情報”と照合して判断しようとする(=これが、“さばく”ということ)のが、マインド(mind)の主な働きなのです。このような自分のマインドの働きに“想い”が振り回されてしまっていると、過去という時間』を超越することができなくなってしまうのです。


自分の“想い”が優位に立って、自分のマインドをコントロールしていくこと、それが 心からゆるす”ために、つまり、ゆるすように、ゆるす”ためにどうしても必要になってくるのです。


「私は、あの人を嫌いだが、でもゆるさないといけない・・・よし、ゆるすように努めよう。私はあの人をゆるした。ゆるした、ゆるした・・・」というふうに、自分に言い聞かせるたり、あるいは、自己暗示をかけたりすることによって“ゆるせる”ようになるのではありません。


では、どうしたらいいのでしょうか? その答えは、やはり、イエスが説いた「さばくな」(マタイによる福音書7章1節)にある・・・と、私は観ているのです。


さばいている状態”においては、その人のマインドはフル稼働しているのです。さばくことをやめた時”に、マインドの働きを停止させることができるのです。


“さばくことをやめた時”というのは、自動車で例えると、アイドリングストップした時のように、動いていたエンジンが一時的に実際に止まっている状態のようなものです。この原理、あるいは、法則に則っていく時に、人は救いを見つけたり、また、これまで“ゆるすことの難しさ”を感じていた人は、案外容易に人をゆるすことができるようになったりしていくのです。


これまでも当ブログでも書いた事ですが・・・。イエスが十字架にかかっていた時に、左と右にそれぞれ犯罪人が刑を受けるために十字架にかけられていました。一人の犯罪人は最後までイエスに悪口を言い続けたと聖書に記されています。ところが、もう一人の犯罪人は「・・・このかたは何も悪いことをしたのではない」、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と言ったのでした(ルカによる福音書23章41節~42節)。その時、この犯罪人イエスから「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(同23章43節)と言われ、救いを保証されたのでした。


この犯罪人がイエス救いを保証されたのは、彼がイエス“さばくことをやめた”から・・・と私は観ています。つまり、これまで彼の耳に入ってきた誤った情報、偏見に満ちた情報、この世の常識的な考え、固定観念や既成概念などといった自分の中にある『過去から蓄積されてきた記憶情報』に検索をかけてヒットした情報に照らしてイエスを観ることをしなかったということ。むしろ、そのような“マインド主導の思考プロセス”をすべて停止させて、今、自分の目の前にいるイエスをいかなるフィルターも通さずにただあるがままを観て、捉えていったわけです。その時に、この犯罪人の心のスクリーンに、イエスに関する真実・事実・真理というものがくっきりと映し出されていったと想われます。だからこそ、「このかたは何も悪いことをしたのではない」、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と言うことができたのでした。


 (11月4日 水曜日 22:07更新) (11月5日 木曜日 22:52更新) 

 ・・・・・・『イエス-道』:(16)“神に義と認められること”に続く・・・・・  

 

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