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意識の進化、次元上昇をアシストする“イエス-道(Jesus,the Way)”

“イエス-道”という視点から、人生を生きる秘訣・コツを考える“斬新的な聖書リサーチ”

2月4日(日)更新 家入レオの『Shine』とヨブ記の謎解き

2018年02月04日 22時41分57秒 | 歌の歌詞に観る“イエス-道”

家入レオの『Shine』とヨブ記の謎解き



今回のブログでは、家入レオの『Shine』というナンバーの歌詞についても、『イエス-』という視点から少し解説してみたいと想います。


私がこのナンバーを初めて聴いた時に、この歌詞の内容に私の心がグイグイと惹き付けられたことを今でも覚えています。


家入レオの『Shine』について、まずYOUTUBE等で聴いてみて下さい。


この歌詞の中にある

一人じゃないよ_君のそばにいるよ

変わらないものは_いつもここにあって

このけがれのない_今を生きるShine

そこにはもう迷いもなくて

というフレーズは、まさにイエスの山上の説教における『あなたの内なる光』を指していると考えられます。


これは、誰の中にも存在していますが、この『内なる光』が明るく輝いているか、暗くなっているかの違いというものはあります。


イエスが山上の説教の中で最も説きたかったこと、それは『あなたの内なる光』を暗くしてはならない····ということだったと、私は観ています(マタイによる福音書6章22節~23節を参照)


旧約聖書のヨブ記をこの家入レオShine』の歌詞と重ね合わせて研究するのも、面白いのではないかと想います。


それでは、これから『Shine』の歌詞の内容が、ヨブが経験したことにどんなふうに対応しているかについて観ていきたいと想います。

 

 「つまづいたその手に掴んだその未来は·····

 

試練に遭遇していた時、ヨブはある意味において"つまづいた"と言えるかも知れません。"つまずいた"と言っても、ヨブが神に対して不従順になったとか、神に向かって反旗を翻したとか、神に対して不信仰を抱いたとか、そういうことを私が言っているのではありません。ヨブはあくまでも神の側にいて、信仰を全うしようと考えていたのです。この点において、ヨブに向かって「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」と言い放ったヨブの妻とは対照的です(ヨブ記2章9節)。

 

ヨブは、一体、何に対して"つまづいた"と思いますか?

 

実は、ヨブ自身、自分が何につまづいているかについて気づいていなかったのです。それに気づかないまま、何故ヨブがこのような悲惨な試練に遭わなければならなかったのかについて、3人の友人たちとあ~でもない、こうでもない····と、時間をかけて議論·論争していたのでした。でも結局、納得のいくような答えを見つけることは出来なかったのでした。

 

さて、さらに『Shine』の歌詞を観ていきましょう。

 

あきらめかけた時に_何かが生まれたんだ

 

ヨブは自分がこれまで蓄積してきた神に関する情報と3人の友人たちが知っている神に関する情報とを激しくぶつけ合って、議論を尽くしたにもかかわらず、自分の試練に対する答えらしきものに到達できませんでした。そのため、ヨブは自分が試練から救われることをなかば諦めかけていたと思われます。でも、そのような時に何かが生まれたというのです。言い換えれば、転機が訪れたのです。試練の解決の糸口が見えてきたのです。

 

とは言え、たまたま偶然に、『棚からぼた餅』風に、ヨブが試練の解決の糸口を発見したということではありませんでした。

 

そう_瞳を閉じれば_あの日の空に包まれてるよ_いつでも_you can shine

 

そうなんです。ここに問題解決のヒントがあるのです。ヨブの試練という難問題を解く鍵があるわけです。

 

すなわち、ヨブが"瞳を閉じる"ということが、試練の答えを見出だすためにどうしても必要なことだったのです。"瞳を開いたまま"の状態でいたら、いくらヨブが友人たちと議論や論争したとしても、結果は虚しいのです。収穫はないのです。

 

ここで"瞳を閉じる"とは、何を象徴しているのでしょうか?

 

逆にいうと、ヨブが"瞳を開いていた"ために、彼は"つまずいてしまった"、あるいは、"つまづいたままでいた"とも言えます。

 

では、"瞳を閉じる"、あるいは、"瞳を開いている"とは、何を意味していると思いますか?

 

また、瞳を閉じた時にあの日の空に包まれ···るとは、一体、どういうことなのでしょうか?

 

とても意味ありげな感じがしますね。

(1月8日 月曜日更新)

 

空にあるどんよりした雲に覆われていると、輝いている太陽が見えなくなってしまいます。覆っている雲がない状態(これが"あの日の空に包まれる"ということ)なら、大陽の本来の輝きが見えるわけです。

 

そのように、あなたが『内なる光』がいつでも輝ける(=you_can_shine)ために、あなたの瞳を閉じておくことが必要である····というわけです。

 

では、ここでいう"瞳を閉じる"とは、何を意味しているのでしょうか?

 

"瞳"というのは、実は、マインドを象徴しています。

 

従って、"瞳を閉じる"とは、マインドというフィルターを通して見ることをやめることです。マインドを働かせて、あるいは、マインド主導で、物事を見て、判断し、ファイルアンサーを出してしまう習慣や癖から自らを解放することを意味します。

 

マインドが得意とすることは、自分が蓄積してきた過去の記憶情報(他者から聞いたこと、常識、伝統的な考え、固定観念、教育やメディアなどを通してインプットされたもの、洗脳なども含む)に照らし合わせて、物事についての最終的な判断を下すこと、白黒をつけようとすること、決めつけたり、思い込んだりしてしまうことです。

 

このようなマインドに支配されている限り、『あなたの内なる光』である「このけがれのない_今を生きるShine」は輝き出すことはないのです。まずは、マインドという"瞳"を閉じなければならないのです。では、どのようにしたら、この"瞳"を閉じることができるのでしょうか?

 

感じる力_君は持ってるから

 

あなたの内なる光』である「このけがれのない_今を生きるShine」と言われている変わらないものは_いつもここにあって」とあるように、常にあなたの内側に存在しているものなのです。それはあなたの一部だから、いや、あなたの本質であり、あなたの最も神聖なるものであり、あなたの命そのものとも言えます。自分の内にもともとあるものなので、あなたはそれを感じる力は持っているのです。感じる力を使ってこなかったために、感受性は鈍っているかも知れませんが、感じる能力は残っているはずなのです。


あなたの内なる光』である「このけがれのない_今を生きるShine」を感じるというよりは、むしろ、それがもともと自分の中に存在していたという事実に気づく思い出すというべきでしょうか。実は、そのための近道、秘訣、奥義ともいうべきものが、イエスが山上の説教の中で説いた『さばくな』という具体的なノウハウ、実践的な教えなのです(マタイによる福音書7章1節を参照)。

 

さばかない』ことを実践していく時に、マインドの働きは自ずと停止してしまうのです。すると、これまで長い間マインドというフィルターを通して観て認識していたのが、マインドを介さずに直観で観る新しい認識回路が開かれることになるのです。(これこそが、信仰の目で見る、信じるという行為を意味しています。)

 

この時にようやく、これまでマインドが妨げとなっていたために(これがイエスが言っている"目に梁がある"という状態)、入ってこれなかった新たな情報、事実、真実、真理が堰を切ったように、溢れんばかりに流れ込んでくるようになるのです。

 

実は、ヨブはこのような貴重な体験したのです。しかも、ヨブの試練が消え去っていく直前に···。

 

これを裏づけるようなヨブの言葉が、「わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。」(ヨブ記42章5節)である·····と、私は観ています。

 

もちろん、このような貴重な体験をしたのは、ヨブだけではありません。たとえば、例の十字架上でイエスに救われた犯罪人も、マインドを介さずに直観で観る新しい認識回路が開かれたのでした。


また、幼な子のようにならなければ神の国に入れないとイエスが言われたことがありますが、このような幼な子というのは、マインドを働かせて判断することをせず、むしろ、直観でありのまま観て、捉える傾向が強いものなのです。だからこそ、幼な子は神の国に入りやすいのです。

 

また、マリヤとマルタの姉妹がいました。なくてならないものは多くはない、ただ一つだけである、マリヤはそれを選んだ····とイエスは言いました。実は、このマリヤはいざという時には、すぐに自分のマインドを停止して、直観で行動したり、見聞きしたりすることができる人だったようです。だからこそ、すべてのことに優先して、イエスの足元で一言も漏らさすまいと思って、イエスの口から語られる言葉に聞き入ったのでした。

 

さて、先程の質問に戻ります。試練に遭っていた時に、ヨブは何につまづいたと言えるのでしょうか?

 

それは、イエスの教えにつまづいた···と、私は観ています。もっと具体的に言えば、さばくな』というイエスの教えにつまづいたのでした。ヨブ記の謎を解き明かすことができるのは、イエスの山上の説教の核心的教えとも言えるこの『さばくな』という教えなのです。ヨブのつまづきの原因というには、まさにここにあった····と、私は観ています。

 

ヨブと3人の友人たちは共に、実にマインド思考でヨブの試練の原因や神の義やヨブの義などについて議論·論争を展開していたのです。だから、埒があかなかったのです。行き詰まったわけです。マインドというのは、過去の限られた情報から無理やりファイナルアンサーを出そうとするからです。

 

でも、友人たちとの一連の議論や論争は、ヨブにとって無駄ではなかったと私は想います。マインドをフルに稼働させて、過去データを検索し、分析·解析しても、そこには答えがないということを徹底的に知ることができたからです。

 

だからこそ、ヨブはマインドで物事を捉えるという従来の思考パターンに頼ることを諦めることができ、次のステージへと移行する準備ができたかも知れないからです。

 

それが、家入レオの『Shine』の以下の歌詞だったわけです。

 あきらめかけた時に_何かが生まれたんだ

 

そして、ヨブが自分のマインドの働きを停止してみて、さばくことをせずに(この時に、心の目をおおっている覆いが取り除かれ、ヨブの『内なる光』の輝きを取り戻す)、『内なる光』主導で自分の試練をあるがまま観ていった時に、自分が体験している試練の真相、意味、メカニズムがはっきりと見えてきたのです。

 

ヨブの試練が根本から解決されるために必要だったものは、まさに、ヨブが長年馴染んできたマインド思考に支配されて『さばいていく』という癖·習慣に終止符を打つことによって、自分の『内なる光』の本来の輝きを回復させた状態で、そのにあって物事を観ていく、捉えていくという本来の人としての生き方をしていく、たったこれだけだったのです。

 

山上の説教の中でイエスが教えた有名な『主の祈り』を、皆さんはよくご存じかと想います。この中で、試みにあわせないよう、天の父なる神に祈るようにとイエスは教えられました(マタイによる福音書6章13を参照)。実は、この『主の祈り』の中には試みに会うことを避けるコツも、実はイエスが教えられたことを皆さんは知っておられるでしょうか?


そのコツというのは、「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。」( マタイによる福音書6章12節)にあります。


つまり、試練を自ら引き寄せないためには、『人をゆるす』ことです。『人をゆるす』とは、『人をさばかない』ことを意味しています。人を善し悪しでさばかないこと。善悪の固定観念のフィルターを通して人を観ることをやめるということです。


 

試練以前のヨブの信仰


ところで、つまづく前(=試練に遭う前)のヨブの生き方や人生と、ヨブがつまづきの原因に気づいて、そこから立ち上がった彼の手が掴んだ未来のものとを比べて観た場合、ヨブが一段と進化を遂げていった····と察することができます。


つまづく前のヨブの信仰というのは、ある意味、不安定でした。確固たるものではありませんでした。でも、神に褒められる程のヨブの神に対する忠誠、誠実さというものは、その当時の世の人たちのものと比べた場合、確かに雲泥の差があったと思われます(ヨブ記1章8節を参照)。


一体、ヨブがつまづき(試練)から立ち上がった後の信仰の内容というのは、どのような進化を遂げていったのでしょうか? また、それ以前のヨブの信仰には、どのような特徴があったのでしょうか?·········

(1月14日 日曜日更新)(1月21日 日曜日補足更新)

 

 

ヨブの信仰の純化

 

試練を通過しながらヨブの信仰は、純化していきました。一段と信仰に磨きがかかっていったのでした(ペテロの第一の手紙1章5~7節を参照)。

 

そして、"さばかない"という寛容の愛によって働く信仰をヨブは自分のものにしたと、私は観ています。

 

善悪の固定観念というフィルターを通してしか物事を捉えることしかできなかった"さばく信仰"をヨブが卒業したと言えます。そのようなレベルの信仰から、ヨブは解放されていったということです。

 

これは、ヨブにとって大きな進化です。霊的成長と言えます。ヨブの信仰のベクトルにおいて、大きな方向転換がなされたということです。

 

これは、言い換えると、山上の説教においてイエスが説いた『さばくな』と核心的教えをまさに実践していったということを意味しています。

 

"ヨブよ、よくぞ、そこに気づいたな"と、天の父なる神はさぞかし喜んだに違いないと想います。ヨブは旧約の時代にいながらにして、イエスが説いた新約の最重要の教えを会得したからです。

 

『さばく』というマインドの働きを停止した時に、心の目が開かれ、覚醒していくのです。それは、信仰の目から梁が取り除かれて、その結果、はっきりと真理、真実、真相、肉眼では見えない事実が見えてくるということです(マタイによる福音書7章1節~5節を)。········

(1月27日 土曜日更新) 

 ところで、イエスの弟子のヤコブは、特にヨブの忍耐という視点からヨブ記を観ていたようです。

 忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである。」( ヤコブの手紙5章11節)

 

しかし、この聖句の後半の部分に注目してみて下さい。主がヨブになさった結末を見た時に、主がどれほど慈愛とあわれみに富んだかたであるという事実がわかるというのです。

 

でも、皆さん、誤解しないで下さい。ヨブが忍耐したからということで、ヨブが主の人知を超えた愛に気づいたわけではないのです。

 

確かにヨブは耐え忍びました。でも、耐え忍ぶだけでは、新しいものは生まれないのです。家入レオの『Shine』の歌詞を思い起こして下さい。

 「あきらめかけた時に_何かが生まれたんだ


耐え忍んでいる時に、フッと何かをあきらめた時に初めて新たなものが生まれたのです。ヨブ記にあるような起承転結の『転』が生じていったのは、ヨブが何かをあきらめた時だったのです。もし、ヨブ何かをあきらめることをしなかったら、ハッピィエンドな結末(ヨブ記42章10~17節を参照)は、おそらく生まれることはなかったと想います。


家入レオの『Shine』の歌詞の中に「つまづいたその手に掴んだその未来」というフレーズがありますが、ヨブが試練という境遇の中でつまづいたままでも、また、試練そのもを耐え忍んでいるだけでも、ヨブの手はハッピィエンドな未来を掴むことは、なかったのです。

 

実に、ヨブが試練というつまづきの中で耐え忍んでいる時に、これまでずーっとヨブが囚われていた善悪の固定観念という狭小な情報だけに照らして、すべての物事を捉えてさばいていた『井の中の蛙』的な世界観から解放された時に、試練で苦しんできたヨブの人生において大きな転換期、節目を迎えることができたということなのです。これがヨブ記の謎解きにおいて、とても大事なポイントになってくるのです。

 (1月28日 日曜日更新) 

 

 

さらに、ヨブ記の謎に迫る

 

さて、もう一度、以下の聖句を観てみたいと想います。

主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである。」( ヤコブの手紙5章11節)

 

主がヨブになさったハッピィエンドな結末を見ると、確かに私たちは主なる神の愛の深さを納得できると思います。

 

では、ヨブの場合はどうだったのでしょうか?

 

重要なポイントは、ヨブが試練の真っ只中にあって、すなわち、肉眼ではまだ何も変わっていない状況、試練の解決の兆しが一切見えない状況の中にあって、ヨブが主なる神の変わらない深い愛、測り知れない愛がわかったということです。ハッピィエンドな結末が目に見える形となって現象化する以前に、ヨブが『神の愛』という"肉眼では見えないの事実"をしっかりと捉えていたということに注目する必要があるのです。

 

肉眼で確認することが不可能な段階で、結末がどうなるのかが全くわからない····そのような状況の中で、『神の真実の愛』を認めることが、まさに"信仰"と言えるのです。

 

このような信仰のメカニズムを解明するために、以下の詩編の聖句がヒントになると想います。

 

あなたはいつくしみある者には、いつくしみある者となり、欠けたところのない者には、欠けたところのない者となり、清い者には、清い者となり、ひがんだ者には、ひがんだ者となられます。」 (詩篇18篇25節~26節)

 

このような視点からヨブ記を観ていくと、一体、何が見えてくるのでしょうか? 

 

ヨブが神の慈愛やあわれみなどを微塵も"感じられない"ような悲惨な試練の中にあって、それを知ることができる方法というのは、そんなに多くはないと想います。いや、一つだけしかないのではないか·····と、私は観ています。

 

その方法というのが、イエスが山上の説教の中で伝授したノウハウです。それは、『ジャッジしないこと』です。『さばかないことを実践してみること』こそが、ヨブにとっても試練を解決する突破口を大きく開いた····と、私は観ているのです。

 

神の真実の愛の栄光を観るためのは、『さばくのをキッパリとやめること』が最高の方法と言えるのです。一生懸命、自分のマインドを働かせて、思索することことでも、また、自分の想像力をフル回転して神の愛をイメージすることでもないのです。

 

ところで、先ほど引用した詩篇の中に、「あなたはいつくしみある者には、いつくしみある者となり·····」とあります。つまり、神の真実の愛を知るためには、それに先だってヨブ自身が愛のある者になっていなければならないということです。そうでないと、たとえ神の愛を知りたいと思ったとしても、神の愛は歪んで見えてしまうことになるからです。


あなたは···、ひがんだ者には、ひがんだ者となられます。」 

 

では、イエスは山上の説教の中で、天の父なる神の愛の栄光を歪むことなく、ありのまま観るための秘訣というものをどのように語られたのでしょうか?


実は、イによる福音書5章44節~48節において、イエスがその秘訣を明らかに示されたのではないか·····と、私は観ているのです。


「しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。


ここでイエスは、一体、何を言いたかったのでしょうか?

 

完全な天の父を知るためのコツというのは、私たちも同様に完全な者になることであるというのです。もう少しわかりやすく言うと、悪い者と良い者、正しい者と正しくない者とを区別したり、分け隔てしたりしない愛において、天の父なる神にように完全になることだと、イエスは言っているわけです。

 

言い換えれば、寛容という愛です。別の表現で言うと、それは『さばかない』というタイプの愛のことなのです。

 

人は、すべての点において神のように完全になることは不可能と言えます。でも、『さばかないという寛容の愛』において完全になることは、人には可能なのです。"このことに気づきなさい"と、イエスは山上の説教において切々と訴えているように、私には思えてならないのです。

 

使徒パウロは"愛とは何か"について説明していますが、筆頭に『寛容』をあげたことは注目に値します(コリント人への第一の手紙13章4節を参照)。

 

聖書を通じて『神の愛』とはいかなるものかとよくよく観ていくと、実は、『"さばかない"という寛容の愛』がベースとなっている、基調になっている、特徴となっていることがわかります。

 

寛容という愛』は、『ゆるす』とか『あるがまま認める』とか『分け隔てしない』とか『片寄りみない』と同じような意味あいです。山上の説教の中で天の父なる神について、イエス自らが天の父なる神に関して啓示された中身というのが、このような『寛容の愛』だったのです(マタイによる福音書5章44節~48節を参照)。

 

実は、ここにこそ、人が神にアクセスしていくための重要な鍵、あるいは、秘訣があることをイエスは山上の説教の中で教えられたのです。

(1月29日 月曜日更新)(1月31日 水曜日更新)(2月1日 木曜日 補足更新)(2月2日 金曜日 補足更新)

 

 山上の説教で教えられたいわゆる『主の祈り』の中でも、また、それに対する補足のコメントでも、イエスはやはりその重要な鍵·秘訣を述べています。そのことに触れたイエスの言葉を、以下、参考までに引用しておきます。

 

わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。」(マタイによる福音書6章12節)

もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。」(マタイによる福音書6章14節)

 

 この『ゆるすという寛容の愛』を生きることによって初めて、人は『天の父なる神の寛容の愛、ゆるしの愛』というものをありのまま観ること、認めることが可能となり、そして、神と調和していく道が開かれていくのです。

 

天の父なる神にアクセスする、あるいは、接点を持つための鍵·秘訣とも言うべき『ゆるす』、言い換えれば、『寛容という愛』に生きる····そのための具体的なノウハウというのが、まさにイエスがマタイによる福音書7章1節で教えられた『ジャッジしない(さばかない)』を実践することなのです。

 

では、この『さばかない』とはどういうことなのかについて、今一度、整理しておきましょう。

 

さばかない』とは、過去から蓄積された既知の情報だけを検索し、分析して、答えを導きだそうとするマインドに翻弄されないことです。そのようなマインドの働きを意識的に停止することで、初めて、『さばかない』ことが可能になるのです。

 

井の中の蛙、大海を知らず』という諺がありますが、言うなれば、"井の中にある限られた過去情報"(=自分が持っている"既知の情報")だけを元に無理やりファイナルアンサーを導き出そうとすることが『さばく』ということです。

 

一方、『さばかない』とは、そのような『井の中にある"限られた既知の情報"』に依存せずに、むしろ、そこから解放されて、"今というこの瞬間、瞬間というリアルタイム"に自分が生きる軸足を置いて、

"大海にある既知外の溢れんばかりの情報"(=自分がまだ手に入れてない"既知外の情報")に心の大きく開いて、そこから貴重でフレッシュな情報を積極的に取り込んだり、吸収したりしながら、様々な角度や視点や次元から物事を観ていく、捉えていく、判断していくということです。

 

人というのは、心の目に""がある時に、その『既知外にある情報という大海』が見えなくなってしまい、自ずと人は『さばく』という行為をしてしまうものです。

 

心の目からその""が取り除かれた時に初めて、人は『既知外にある溢れるほどの情報という大海』に触れることができ、そこから入手した情報から様々な角度、視点、次元から物事を観たり、捉えたり、判断したりできるようになっていけるのです。その時に、人は『さばく人』から『さばかない人』(=寛容の愛の人)へと進化していくのです。ヨブという人は、試練の中で、実にこのような進化を遂げていったのです。だからこそ、ヨブの心の目は、はっきりと見えるようになり、神を"寛容の愛に満ちた神"として正しく認めることができたのです。だからこそ、ヨブの試練はもはや消えざるを得なかったのです。

 

自分の心の目からこの""を取り除くための具体的なノウハウというのが、『さばかない』ことを実践することだ····と、山上の説教の中でイエスは教えられたわけです。そして、この教えをヨブが実践していった結果、もはや解決しないのではないかとさえ思われたあの悲惨な試練が、なんと急展開を迎えることになったのでした。

 

ヨブ記というのは、山上の説教の中でイエスが説いた核心的教えがしっかりと解った上で読み直すと、実に面白いストーリーであることが判明します。ヨブ記は、とてもわかりやすく、感動的な物語であると言えます。

 

(2月3日 土曜日 更新)(2月4日 日曜日 更新)

    *        *       *   

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1月7日(日)更新 『ヒーロー』とは?

2018年01月07日 18時50分33秒 | 歌の歌詞に観る“イエス-道”

『ヒーロー』とは?

 

NHKの紅白歌合戦の安室奈美恵が歌ったナンバーは、『Hero』でした。

 

今回のブログでは、『Hero(ヒーロー) 』について、想いを巡らせていきたいと想います。

 

安室奈美恵の『Hero』の歌詞をみていくと、

     I'll be your hero  I'll be your hero.

     ·····今までの君のままで進めばいいから

     ·····君だけのためのhero どんな日もそばにいるよ 

というフレーズがあります。


さて、このように『どんな日もそばにいる』という『君だけのhero』というのは、一体、どこにいるのでしょうか?


あるいは、何を意味しているのでしょうか? 


そのヒントは、マライア·キャリーが歌う『Hero』の歌詞の中にあると、私は観ています。


      Look inside you and be strong

      And you'll finally see the truth

      That a hero lies in you


つまり、ヒーローが存在しているのは、あなたの内側であるというのです。自分のヒーローを外側にあるかのように錯覚してはならないのであり、外側に依存してもならないのです。自分の内側にヒーローがいることに気づくことこそが、とても重要なことなのです。


イエスが山上の説教の中で説いた重要な真理というのは、まさにこのことだったのではないか····というのが私の観かたなのです。


つまり、イエスがこの山上の説教の中で、あなたの内なる光」(マタイによる福音書6章23節)こそが、実は、あなたの『ヒーロー』なんだよ····と言いたかったのではないかと私は想っているです。


自分自身の内にこそ『ヒーロー』がいることに気づく時に、その人は「風の吹くままに揺れ動く海の波」(ヤコブの手紙1章6節)のようでない"確固たる人間"になっていくと想うのです。「信仰の薄い者」(マタイによる福音書6章30節)から脱却することが可能となるのは、自分の内に存在している『内なる光』に気づき、そのが明るく輝く時なのです。


日頃、私たちが何気なく耳にしている歌の中にも、このような真理が語られている場合があります。皆さんは、お気づきだったでしょうか?


ジブリの名曲の中に『いつも何度でも』があります。この歌詞の最後に、「海の彼方にはもうさがさない。輝くものはいつもここにわたしの中に見つけられたから」という注目すべきフレーズがあります。この"輝くもの"というのが内なる光』を意味していると、私は観ています。


また、家入レオが歌う『Shine』というナンバーがあります。ここで歌われている"Shine"こそが『内なる光』である···と私は観ています。従って、この曲を聴く度に私の心は感動するのです。


さらに、Superfly が歌う『輝く月のように』というナンバーがあります。この歌詞の中に「愛を知って輝き出すんだ」、「愛を知って輝いているよ」というフレーズがありますが、愛を知って"輝くもの"は、まさに内なる光』である·····と私は観ています。


(2018年1月1日 月曜日 更新、1月5日 金曜日 補足更新、1月7日 日曜日 改訂更新) 

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11月18日(土)更新 Superfly『輝く月のように』と “イエス-道”

2017年11月18日 15時34分34秒 | 歌の歌詞に観る“イエス-道”

                    ≪当ブログの中で引用している聖句は、主に『口語訳聖書』です

 

 輝く月のように』(by Superfly)と “イエスー道

 

 

山上の説教の中でイエスが指南された「さばくな」こそ聖書の教えの根幹であるとみなす『イエスー道』の生き方を送っていると、何気なく音楽を聴いていたり、映画を観たり、本を読んでいたり、また、職場や家庭で実際に目の前で繰り広げられる“ドラマ”を観照したりしていると、ハッとさせられることがしばしばあります。つまり、イエスが山上の説教で説かれた核心的な教え·真理の重要性を再発見したり、再認識したり、再確認したり、再評価したりする機会がよくあるのです。

 

今回のブログでは、女性シンガーのSuperflyが歌う『輝く月のように』の歌詞を題材に用いたいと想います。

 

 ところで、イエスの山上の説教のキーワードの一つに『内なる光』があるということは、以前に当ブログでも書きました。人の内にはというものが存在しているということ、そして、その『内なる光』を暗くしてはいけないということをハッキリとイエスは説いておられるのです(マタイによる福音書6章22節~23節を参照)。


私は長年聖書を探究してきて、ようやく、人の『内なる光』の存在の重要性に気づきました。それと共に、この『内なる光』と『さばくな』が密接にリンクしていたことも、よくわかってきたのでした。ここに至るまで、なんと随分 長い年月を費やしてしまったことか······という感じです。でもある意味、この世で生きている間にわかって 良かった···と想うべきかも知れません。 


さて、今回のブログで考えてみたいテーマは、どうやったら 人の『内なる光』を輝かせることが出来るのかということです。実は、これはとても深遠なテーマとも言えます。


「目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。」(マタイによる福音書6章22節~23節)


このようにイエスは述べました。人の『内なる光』を暗くすることなく、むしろ、明るく輝かすためにどうしたらよいのだろうか? このヒントがSuperflyの『輝く月のように』の歌詞の中にもあることを観ていきたいと想っているのです。


これを機会にぜひ 皆さんも、ユーチューブなどで、Superflyの『輝く月のように』を聴いて味わってみて下さい。


ところで、私のスマートフォンに以前ダウンロードしてあった『輝く月のように』を久しぶりに聴いていたところ、「おっ、これは·····」と、私が注目したフレーズがありました。


実は、輝く月のように』の中で、数回、繰り返されるフレーズに、『内なる光』を輝かすためのヒントが隠されているのです。そのフレーズとは、·······


愛を知って輝き出すんだ(2回)、愛を知って輝いているよ(1回)です。


つまり、愛を知った時に、人の『内なる光』がようやく輝き出すようになるということです。逆に言うと、愛を知らないでいると、この『内なる光』を輝かすことは至難のわざになるということです。


では、このヒントから再度 イエスの山上の説教を観ていくと、どういうことが明らかになってくるのでしょうか?


イエスが語った注目すべきメッセージというのは、マタイによる福音書5章44節~48節にあります。


しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。


人の『内なる光』が輝くようになるために イエスは、“天の父なる神の愛”を指し示されたのでした。愛と言っても、漠然とした愛ではありません。愛の様々な側面をあれもこれもと欲張って、たくさんリストアップされたのでもありませんでした。


イエスが示された天の父の愛というのは、悪い者と良い者を別け隔てしない愛、正しい者と正しくない者を別け隔てしない愛、すなわち、『さばかない愛=寛容という愛』だったのです。Supetflyの『輝く月のように』の歌詞の中では、この『寛容の愛』について “私のすべてを受け止めてくれたんだ”というふうに表現されていることに注目したいです。


イエスはまたここで、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」とも言われました。これは敵と味方を区別して、敵を憎んだり 非難したり 批判したり 攻撃したりして、逆に味方を愛して仲良くするというような『従来の常識』をはるかに超えていると言える“敵と味方を別け隔てせずに愛するという、天の父なる神の人知を超えた寛容の愛”を前提として語られたものです。


あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者になりなさい」とイエスが語られたのは、“天の父の神の完全さとは寛容という愛の完全さである”ということを前提にしてのことでした。


寛容の愛とは、無条件で受け入れる愛でもあります。あるがまま受容していく愛です。「あなたのこういうところを変えなければダメだよ」というのではなく、「あなたは、今のあなたのままでいいんだよ」というのが、寛容の愛なのです。


このような“天の父の寛容の”に関する真実、事実、真理に気づくことによって、知ることによって、人は自らの『内なる光』を輝かすことに繋がっていくというわけなのです。


ところが、たとえイエスがそのような“天の父の寛容の愛”を示されたとしても、人の『内なる光』がなかなか輝き出さないことも往々にしてあるのです。このような現実があるのです。一体、何が原因で、そのようになってしまうのでしょうか?


その原因について、イエスは山上の説教の中で「自分の目にある梁」と呼んだのでした(マタイによる福音書7章3節)。


ちなみに使徒パウロは、それを「おおいが彼らの心にかかっている」、「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」というふうに表現しています(コリント人への第2の手紙3章15節,18節)。


ところで、聖所や神殿において、前方の第一室は聖所と呼ばれ、その奥の部屋は至聖所と呼ばれていました。そして、これら二つの部屋は"垂れ幕"(=第二の幕)で覆われていました(ヘブル人への手9紙1節~3章節を参照)。そして、その垂れ幕はイエスが十字架上で息を引き取られた時に上から下まで真っ二つに引き裂かれたと記されています(マタイによる福音書27章50節~51節を参照)。この『垂れ幕』というのが、イエスが言うところの『目にある梁』、使徒パウロが言うところの『顔おおい』、あるいは、『心にかかっているおおい』を暗に示しているのではないか····と私は確信しているのです。


そして、この目にある梁』(=顔おおい心のおおい)があるからこそ、たとえ神の寛容の愛に関する真実が示されたとしても、それを見えなくしてしまっている原因となっていることを、イエスは山上の説教で指摘されたのでした。そのため、見ても見えず、聞いても聞こえず·····というような状況に陥ってしまうわけです。


この目にある梁』の存在が、人の『内なる光』が暗くなっている状態と作り出しているわけですが、実は、これは大きな問題なのです。


どうすれば、この問題を解決することが出来るのでしょうか?


ただ、神の御子イエスを救い主であると信じればいいのでしょうか? あるいは、キリスト教の信仰を告白して、パプテスマを受けて、キリスト教会に所属すればいいのでしょうか? 必ずしも、そのような単純なことで、解決する問題ではないのです。これは、多くの人々の想像をはるかに超えている、もっともっと根深い問題なのです。この世で与えられた1回だけの人生の中で解決できる人は、そんなに多くはいないかも知れません。


では、人の『内なる光』は、どのようにすれば輝き出すというのでしょうか?  


その答えは、言うまでもありません。一つだけ方法があります。それは、自分の目から『』を取り除けばいいのです。


それでは、どうすればその『』を自分の目から取り除くことができるというのでしょうか? そのノウハウは、どこにあるのでしょうか?


この問いに対するイエスの答えは、実に、単純明快なのです。 


さばいてはいけません。(マタイ福音書7章1節;新改訳聖書)

裁いてはならない。マタイ福音書7章1節;フランシスコ会聖書研究所訳)


これこそ、イエスの山上の説教における核心的メッセージと言えます。イエスが山上の説教の中で、もし、このメッセージを語らなかったとしたら、人類は人生という航海において、ちょうどコンパスが故障してしまった船のように、方向感覚を失い、迷いから脱却することが不可能になったに違いありません。その結果、めざす目的地に到達することができなくなってしまうのです。


イエスが、十字架上で言われた言葉があります。それは、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」という言葉です(ルカによる福音書23章34節)。これはまさに、自分たちが迷っていることすら、わからなくなってしまっている状態、霊的に盲目になっていることをイエスが指摘されたのでした。


では、「さばく」とは、どういうことを意味するのでしょうか? 逆に、「さばかない」とは、どういうことを意味するのでしょうか? この違いがよくわかっていないと、「さばく」生き方から、「さばかない」生き方へと移行していくことが難しくなると想うのです。

(11月11日 土曜日更新、11月12日 日曜日 補足更新) 



さて、実際問題として「さばく」とはどういうことなのか、いかに私たちが当たり前のように「さばく」ということをやってしまっているのか、その行為に私たちがどれほど馴染んでしまっている現実があるのか・・・・を知るために、近いうちに、土屋太鳳主演のorange-オレンジ-という“映画ブログ”を書きたいと想っていますので、ご期待下さい。この映画のキャストたちの言葉の中に、「さばく」とは、どういうことなのかについて、具体的に観ていきます。


でも、この映画ブログを書くのに先立って、他のテーマのブログを幾つか更新することになりますので、orange-オレンジ-という“映画ブログ”の公開まで、今しばらくお待ちください。


私は、この映画をレンタルDVDで観て、その後、アマゾンに中古品のDVDを注文して手に入れて何度も観ました。まだこの映画を観たことがない方は、ぜひこの機会に、観られるようお勧めいたします。

 

(11月18日 土曜日更新)  ▦▦▦▦ 近いうちに、orange-オレンジ-という“映画ブログ”に続く ▦▦▦▦▦


    *        *       * 

  

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10月9日(日) 8:49 更新  歌詞ブログ 『花になれ』 (パート2)

2016年10月09日 08時49分37秒 | 歌の歌詞に観る“イエス-道”


『花になれ』 (パート2)



勇気は今、光になる


これは、一体、どういうことでしょうか?


観かたを変えると、どのような勇気を持つ時に、人は光になることができるのか・・・・・ということ。


私が想うに、それは“さばくことをやめるという勇気”です。 

言い換えると、自分の“マインドにおける『さばく』というプロセスを停止するという勇気”です。

自分の内に蓄積されている過去の記憶情報に根ざした固定観念、価値基準などで物事を観ることをやめるという勇気です。

人によっては、これまで当たり前のようにやってきたこのようなマインドのプロセスを停止してみることは、自分というアイデンティティーを失うように感じるため、怖いと想ってしまう人もいるようです。実際には、そんなに大げさなことではないのですが・・・・。


山上の説教の中で、イエスは 人には「内なる光」が存在していることを述べています(マタイによる福音書6章23節を参照)。


人がさばいている時には、マインドがフルに活動しているのです。でも、この時、「内なる光」は暗くなってしまうものなのです。さばくことを得意とするマインドの働きの中にすっぽりと埋もれてしまうと、人は“迷いの人生”を送ってしまうことに。


逆に、このようなマインドの働きのスイッチを“勇気を出して”切って、さばくことをやめた時には、「内なる光」を覆っているブロック(=梁)が取り除かれていく方向で動き出すのです。そして、「内なる光」は輝き始めるようになるのです。本来の輝きを回復してくるわけです。これが、「勇気は今、光になる」ということ。


人の内に存在しているこの「内なる光」こそ、実は、力の源でもあるのです。ここに気づくことは、人が「真っすぐに咲く花のように・・・強くなれる」ために、 とっても大切なことなのです。


それが、

あなたは今気づいていますか? 大きな力はその手にあること  勇気は今、光になる

という歌詞が意味するところなのです。


従って、「さばくな」というイエスの教えというのは、とりわけ重要な教え、注目に値する教え・・・と言えます(マタイによる福音書7章1節)。


ぶつかっていんだ 泣いたっていいんだ」、「傷ついたっていいんだ 間違っていいんだ」というふうに、自分で自分をさばくことなく、自分自身のあるがままを優しく受けとめ、受け入れ、許容していく時に、「その命は強く輝く  風に立つ一輪 僕たちも花になれる 風に咲く一輪 僕たちも花になれるというわけなのです。 

 (9月23日 金曜日 23:44 更新) 



ところで、人が「未来に手を伸ばして 真っすぐに咲く花のように・・・強くなれる」のは、人の人生の最終段階になってから・・・とは限らないと、私は想っています。


植物の場合は、成長し切って最終ステージで花を咲かせ、実を結んでいくという形を取るでしょう。でも、人の場合は、必ずもそうではない・・・と、私は想うのです。将来、いつかきっと自分も「真っすぐに咲く花のように・・・強くなれる」日が来るかも知れない。こんなふうに、“未来という時間軸”に自分の希望を託す必要はないのではないか。


むしろ、“今というこの瞬間、瞬間”こそが、実は、リアルな時間なのであり、本当に価値ある時間軸はここにあるのではないだろうか・・・と、想っているわけです。


また、「真っすぐに咲く花のように・・・強くなれる」日を早めようとして、自分を磨くために絶え間ない努力をしたり、修行生活をしたり、何かに精進したりすることも、ちょっと的が外れているような気もするのです。


『井の中の蛙、大海を知らず』


大海を知る道を自ら閉ざしていて、井の中の蛙でいることを甘んじている限り、「真っすぐに咲く花のように・・・強くなれる」日はやって来ないと想います。


大海にある無尽蔵の情報を知る道を閉ざしてしまうのは、その人が“さばいている”からです。自分は何でも知っていると思い込んで、現時点で自分が持っている情報を絶対的なものだと決めつけて、固定観念を抱いて、そこを基準にして物事を“さばいていく”時に、大海にある潤沢な情報はその人のうちに流れ込んで来なくなってしまうのです。


これを象徴するような出来事がイエスの十字架にかかっていた時に起こりました。イエスの十字架の両脇で、2人の犯罪人が自分たちが犯した罪のために十字架刑を受けていました(ルカによる福音書23章39節~43節、マタイによる福音書27章44節を参照)。


初めのうちは、どちらの犯罪人もイエスを“さばいて”いました。一人の犯罪人は最後までイエスに対して悪く口を言ってさばくことをやめなかったのです。彼が持っていた『井の中』の限られた偏った情報だけを根拠に、誤解と偏見を持って、イエスに対してさばきを下していたのです。


ところが、もう1人の犯罪人は、途中からイエスを“さばくことをやめた”のでした。“さばくこと”から“さばかないこと”にスイッチを切り替えるのに、長い時間は要しないのです。何年も、何十年も訓練や修行をする必要もないのです。“今というこの瞬間”に、スイッチを切り替えることは誰にでも可能なのです。過去の記憶情報というフィルターを通して観ることをやめればいいのです。他人から与えられる情報や判断に頼ることをやめればいいのです。既成概念や常識などですべてを捉えようとすることをやめればいいのです。心を澄ませて、偏見や先入観を捨てて、"今この瞬間"の中で、じかにあるがままを観ていけばいいのです。しっかり観ていく、じっくり観ていく、ノイズを取り払って心を澄ませた状態で、そのような心鏡にあるがまま映し出して観ていく。早急に結論を出そうとしなくていいのです。柔軟性をもって 仮の判断をしていく、一時的な判断をしていくのです。最終的な判断をしたり、確定的な判断や絶対的な判断をしない、決めつけたりしないことが大切です。とにかく、様々な角度から、いろんな次元や視点から観ていくのです。そんなふうに観ていって、情報収集を続けることを専念していく。そして、さばくのではなく、察していくのです。


ところで、後者の犯罪人は  さばかないこと”にスイッチを切り替えた瞬間に、彼の心の目から“”が取り除かれ、視界が開けたのです(マタイによる福音書7章5節を参照)。すると、『大海』にある貴重な情報が、堰を切ったように彼の内に流れ込んできたのでした。その時、彼はこれまで気づかなかった“真実・真理・目に見えない事実”を悟ったのでした。だからこそ、彼は「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、私を思い出してください」(ルカによる福音書23章42節)と言うことができたのです。


今度は、別の歌詞に注目して観ていきたいと想います。



その命は強く輝く 風に立つ一輪 僕たちも花になれる


ここで、“風に立つ一輪”というフレーズには、どのようなニュアンスがあると想いますか?

(9月28日 水曜日 23:32更新) (9月29日 木曜日 23:18補足更新) 


風が吹いてきても倒れたり、折れたりすることなく、凛として立っているような花のように僕たちもなれる。

このようなことをこのフレーズは、述べているのではないか・・・と、私には想えるのです。 

これは、何ものにも依存していない状態を意味しています。むしろ、自立進化した状態。

人として確固とした生き方が何であるのかということを悟ったということ。 

本来、人として生きる道を確かに歩んでいるということ。


この言われている“風に立つ一輪”の花になっている人というのは、イエスの山上の説教の中にあるように「雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているから」という「岩の上に自分の家を建てた賢い人」(マタイによる福音書7章24節~25節)に符号しているように、私は想います。


山上の説教の中で、人はいかにしたら“風に立つ一輪”の花のようになれるのか・・、その秘訣をイエスは教えようとしたのではないか・・・・そんなふうに観ることもできます。


逆に、“風に立つ一輪”の花になっていない人というのは、「雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけてると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどい」と言われている「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」(マタイによる福音書7章26節~27節)に対応しているわけです。


普段は両者の違いは見えないかも知れませんが、いざという時になると両者の違いは歴然としてくるのです。


では一体、この両者の違いというのは、どこから来るものなのでしょうか? 


風に立つ一輪”の花のようになれるかどうかを知るには、人はいかにして「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」の方ではなくて、「岩の上に自分の家を建てた賢い人」の方になれるかを解明するといいわけです。


その答えは、マタイによる福音書7章21節~23節の中に。 皆さんも、心を澄ませて想い巡らせてみて下さい。


実は、ここには 「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」のことが記されているのです。この人たちは自分たちが天国に救われないことがわかった時、次のように主イエスに抗議するというのです。


主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか。」(マタイによる福音書7章22節


これだけ聞くと、天国に入る条件と言われている「天にいますわが父の御旨を行う者」(マタイによる福音書7章21節)を彼らは満たしているようにも想えてしまいます。


イエスは聖書の中で『神の小羊』と呼ばれていて、イエスに抗議する人たちその『羊の衣』(=イエスを信じる信仰による神の義という衣)を来ているように外面的には見えます。ところが、その内側は『強欲なおおかみ』であることを、イエスは見破っているのです(マタイによる福音書7章15節を参照)。つまり、彼らはこれまで行ってきた“天の父の御旨”という自分たちの功績・実績・善行によって、自分たちの救い(=自分の利益)を手に入れようとしているのです。


愛は・・・・自分の利益を求めない」(コリント人への第1の手紙13章4節~5節)とあります。つまり、彼らは主イエスに向かってそのように抗議することによって、自分たちには愛がないこと、愛によって生きてきていなかったこと、それらはすべて愛から出た行動ではなかったことを自分で証明したことになるのです。


言い換えると、『天の父の御旨』にかなうような“わざ”を彼らはやってきたように想えますが、致命的なことに、天の父であることを知らなかった、天の父を見たことがなかった・・・ということなのです(マタイによる福音書5章43節~48節を参照)。


実は、天の父御旨』にかなう行いというのは、天の父がいかなるものであるかに気づくこと、知ることから、自ずと生み出されてくるものなのです。そして、その愛とは“さばかない寛容という愛”なのだと、イエスが説かれたのでした(マタイによる福音書5章45節を参照)。


私たちは、神がわたしたちに対して持っておられるを知り、かつ信じている。神は愛であるのうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。」(ヨハネの第1の手紙4章16節


ではなぜ、 「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」たちは、神の愛を知らない状態で、救いを獲得しようとしてしまったのでしょうか?


山上の説教の冒頭の方で、イエスは次のように述べられました。


心の清い人たちは、さいわいである。彼らは神を見るであろう。」(マタイによる福音書5章8節


これは、一体、どういうことでしょうか? 

(10月1日 土曜日 22:38更新)(10月2日 日曜日 23:03更新)


イエスがここで言われた「心の清い人たち」というのは、心の「目が澄んで」いて、「内なる光」が暗くなっていない人たちのことである(マタイによる福音書6章22節~23節を参照)と、私は観ています。逆に、心の「目が澄んで」おらず、その結果、「内なる光」が暗くなってしまっている人たちは、「信仰の薄い者たち」(同6章30節)と呼ばれているわけで、神が見えていないのです。


“信仰”というのは、ある意味、不可視領域の世界の存在である「神を見る」ための心の目と言えます。従って、心が何かに覆われていたり(コリント人への第2の手紙3章13節~16節を参照)、あるいは、何かにブロックされて視界が遮られてしまっていると、致命傷となるわけです。そのことを、イエスは「目に梁がある」(マタイによる福音書7章4節)と象徴的な表現をしたと想われます。従って、「神を見る」ことのできる「心の清い人たち」になるために、イエスは「自分の目から梁を取りのけるがよい」(同7章5節)と言われたのです。


では、どうやったら、「自分の目から梁を取りのける」ことができるのでしょうか?


その具体的なノウハウとして イエスが伝授して下さったのが、「さばくな」(同7章1節)ということだったのです。



岩の上に自分の家を建てた賢い人」(=風に立つ一輪の花)になれるか、あるいは、「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」になってしまうか・・・の違いは、一体、どこから生まれるのでしょうか?


イエスは、はっきり言うのです、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う」か、「わたしのこれらの言葉を聞いても行わない」かである・・・と。イエスが語ったこれらの言葉、すなわち、山上の説教の中で説かれた教えの中で、最も重要な要は「さばくな」であると、私は観ています。


さばかないことジャッジしないこと、それによって人は自分の心の目から“”を取りのけることが可能となるのです。その結果、心の目(=信仰という目)がはっきりと見えるようになるというわけです(マタイによる福音書7章1節~5節を参照)。ここがイエスが説いた山上の説教において、最も注目すべきポイントであると想うわけです。


逆に、人はさばき続けることによって、自ら“”を自分自身の目の前に創り出して、視界を妨げてしまうことになり、その結果、神の真の栄光を見失ってしまうのです。


さばかないことを実践することによって、さばかない習慣を身に着けることによって、心の目(=信仰の目)が不可視領域の真実、真理、事実に目が開かれ、その人の信仰というものは まわりの環境や人々の意見にも左右されないほどに揺るぎないものとなり、その人の人生の中で たとえ「雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹い」たとしても『風に立つ一輪』になれる、『真っすぐに咲く花のように・・・強くなれる』、言い換えれば、“確固とした人間”になることができるということなのです。


このような視点から聴いていくと、指田郁也が歌う『花になれ』は、とても素晴らしいナンバーであり、私は心に深い感動を覚えるのです。イエスが山上の説教の中で説いた真理と美しく調和しているからです。


イエスが山上の説教で言いたかった貴重な教えは、聖書の世界の中だけにあるのではありません。『花になれ』という歌詞の中にも、脈々と息づいているのです。


(10月7日 金曜日 23:26更新) (10月9日 日曜日 8:49 補足更新) 

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9月19日(月) 22:10 更新  歌詞ブログ 『花になれ』 (パート1)

2016年09月19日 22時10分38秒 | 歌の歌詞に観る“イエス-道”


『花になれ』



指田郁也さしだ ふみや)という男性のシンガーソングライターが2012年6月13日に発売(公開は、2012年4月27日)したナンバーに『花になれ』があります。

 

このナンバーは、羽生結弦の「フィギュアスケート NHK杯」 のエキシビジョンでも使用され、NHK-BSプレミアムのBS時代劇 「陽だまりの樹」の 主題歌でもあるとのこと。

 


私は、つい最近になって初めて、このナンバーを耳にしました。ここで歌われている歌詞に、自然と私の心は惹きつけられました。


まだこのナンバーを知らない方は、ぜひYouTubeなどで


『花になれ』(指田郁也;フルサイズ)

『花になれ』(指田郁也;フィギュアスケート NHK杯


を一度 聴いてみられてはいかがでしょうか?


今回のブログでは、指田郁也の『花になれ』の歌詞をじっくりと味わってみたいと想います。


しばらく、また気長にお付き合いください。    (9月3日 土曜日 23:07 更新)



この歌詞の中で、「僕たちも花になれる」というフレーズが何度も繰り返されていますが、どのようにしたら人は花になれるのか? この「花になれる」という意味を歌詞から探っていくと、それはその未来へ手を伸ばして 真っすぐに咲く花のように 人は誰も強くなれる あなたもきっとなれる」ということです。・・・・・これが今回のブログのテーマです。


ところで、聖書の中には、以下のように記されています。


「あなたがたが新たに生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生ける御言によったのである。『人はみな草のごとく、その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は、とこしえに残る』。これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である。」(ペテロの第1の手紙1章23節~25節


今回の歌詞ブログで探究しようとしていることは、もちろん、朽ちる種から花を咲かせる(この花はやがて散ってしまうからです)という意味ではなく、むしろ、朽ちない種から如何にして私たちが自らの人生の中で“どのようにしたら いかなる風に中にあっても 真っすぐに咲く花のように強くなれるのか・・・・ということ。 これを指田郁也花になれ』の歌詞から読み取っていきたい、解読していきたいと想っているのです。先ほど引用した“とこしえに残る”と言われている主の言葉と符合している、あるいは、調和しているメッセージを『花になれ』の歌詞の中に観ていきたいわけです。

(9月4日 日曜日 23:07 更新) (9月6日 火曜日 22:11 更新) 



では、さっそく指田郁也の『花になれ』の歌詞を観てまいりましょう。


あなたは今笑えてますか?  どんな息をしてますか?

人混みに強がりながら 『負けないように』と歩いているんだろう

足許のその花でさえ 生きる事を迷いはしない


ここでは、人の生き方と 足許の花の生き方とを比べています。

そして、その花は生きる事において迷いはしないというのです。

一方、人の場合は、生きる事において迷っているというわけです。

迷っているからこそ、人混みに強がりながら、“負けないように”と歩いてしまっているというのです。

言い換えれば、自分と他人を比べながら、勝ち負けにこだわって生きているわけです。

そのような生き方をしている限り、心底からは笑えていないのです。 息することも心地よくないものです。

では、人として生きる事において迷うことから脱するためにはどうすればいいのでしょうか?

そのヒントがどこにあるかについて、続く歌詞の中で説明されていきます。


『生きてゆけ』 

僕らは今、風の中で それぞれの空を見上げている。

ぶつかっていいんだ  泣いたっていいんだ


生きてゆけ』・・・・・人は、一体、どのように生きてゆけばいいのでしょうか?

僕らは今、風の中で それぞれの空を見上げている」・・・

つまり、人はそれぞれの人生、それぞれの環境の中で生きている。

その中で、逆風も吹いてくるかもしれない、困難にぶつかることも往々にしてあるかも知れない。

順風満帆の人生だけを望んでも、思いどおりにはいかないもの。

でも、「ぶつかってもいいんだ」・・・というのです。

また、人として強くあるべきだとして、“泣いてはいけない”、弱いところを見せてはいけないということではないのです。

泣いたっていいんだ」・・・というのです。 


さらに、

誰もが今、時の中で それぞれの明日を探している 

ついていいんだ間違っていいんだ 何度も立ち上がればいい

とも言っているのです。


これらの歌詞は、一体、何を教えているのでしょうか?


(9月6日 火曜日 22:57 更新) (9月17日 土曜日 23:19 補足更新)


何かにぶつかっている自分、泣いている自分、傷ついている自分、間違っている自分・・・・・

そのような自分を責めたり、非難したり、卑屈に感じたり、失望・絶望したり、苛立ったりしなくていい・・・

ということなのです。 そのような自分には価値がない・・・などと想わないことです。


今あるがままの自分をそのまま認めることが重要なのです。

つまり、自分で自分自身を“さばかない”ということが必要なのです。

一定の価値基準、既成概念、固定観念に照らして、自分自身を“さばくことをしない”ということです。


これが、人として『花になる』ために、すなわち、“朽ちない種”から花を咲かせるためにとても重要なことなのです。


その胸に抱いている種は いつかきっと 夢を咲かすよ


人は、人生の中で厳しい現実を経験することもあるでしょう。

乗り越えられないように想える高い壁にぶつかることもあるかも知れません。

人生の中で、いろんな風が吹いてくるでしょう。


僕らは今、風の中で それぞれの空を見上げてる

 

自分で、自分に鞭打ったりして、自分で自分に苦痛を与えることによって『花になれる』のではないのです。

むしろ、悲惨な環境の中にあっても、できれば避けたいような現実の中にあって、

自分で自分のあるがままの姿を認めて、それを優しく丸ごと受容していくことが『花になる』ために必要なことなのです。


未完成でいい


今の自分がたとえ“不完全”であると感じたとしても、自分に失望したり、卑屈になったりする必要はないのです。

また、未完成な自分、イコール、ダメな人間・・・と想う必要もないです。

人は、それぞれ、意識進化の途上にいるわけであって、その進化のレベル、あるいは、ステージが各人 違うのは当然です。


ところで、山上の説教の中でイエスは、次のように語っておられます。

あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイによる福音書5章48節


ここで、イエスは の領域における完全さを人に求めているというわけではありません。

人に、人の領域における完全さを求めておられるのです。

でも、この完全さというのは、もはや成長の余地がないような完全さではないと想うのです。

植物は、種から成長して、最後に花を咲かせます。この最終段階だけが完全ではないのです。

花を咲かせるに至るまで、日々成長しているそれぞれのステージにおいて完全であり得るのではないか。

つまり、人においても、同様に、未完成は不完全を意味しないと、私は観るのです。


イエスが、ここで言っておられる「完全」というのは、文脈から明らかなように、神のような“寛容という愛における完全さ”ということなのです(マタイによる福音書5章44節~48節を参照)。


これは、言い換えれば、“ジャッジしない”、“さばかない”ということなのです(マタイによる福音書7章1節を参照)。



あなたは今気づいていますか? 大きな力はその手にあること


あなたは人として、はたして、気づいているでしょうか? 

もしかしたら自分は“弱い存在”、“力のない存在”であると思い込んでいませんか?

人は自分の内には力はない・・・と、長い間、洗脳され、思い込まされてきたかも知れません。


でも、指田郁也の『花になれ』という歌詞には、「大きな力はその手にあること」を「気づいてますか?」と、

私たちに問うているのです。


自分の外側の何かに頼ろうとしたり、そこから力を求めようとすると、“依存症”に陥ってしまうおそれがあります。

そこからは、本当の力は生まれてこないです。

言い換えれば、「その未来へ手を伸ばして 真っすぐに咲く花のように 人は誰も強くなれる」という道を自ら閉ざしてしまいかねないのです。


実は、自分の内側にそのような力がすでに備わっているという事実に気づくことが、とても大切なのです。


 

ぶつかっていいんだ 泣いたっていいんだ 

かならず答えはあるから

『あきらめないで』・・・


逆に言うと、“ぶつかってはいけないんだ、泣いてはダメなんだ”と想っていると、答えを見つけるのが至難の業となってしまうのです。


答えのない毎日に立ち止まっても その涙は始まりのサイン

・・・・・ぶつかっていんだ 泣いたっていいんだ 

必ず答えはあるから 『あきらめないで』・・・


たとえ、なかなか答えを見い出せないように想われたとしても、「あきらめないで」と言うのです。


答えが見つからない時には、諦める(あきらめる)のではなく、明らかにする(あきらかにする)ことが、実は重要なのです。


答えを見い出すことができず、迷ってしまった時には、もうダメだ、万事休す・・・と絶望して、諦めてしまうのではなく、むしろ、そのような時にこそ、心の目を明らかにする絶好のチャンスでもあるのです(エペソ人への手紙1章17節~18節を参照)。


それが「泣いたっていいんだ」ということであり、そして、その「その涙は始まりのサイン」となるのです。


では、人はどのようにしたら、心の目を明らかにすることが出来るのでしょうか?

それは、心の目にある“”を取り除くことによってです(マタイによる福音書7章5節を参照)。

そのための具体的なノウハウというのが、イエスが勧める「さばくな」(マタイによる福音書7章1節)ということなのです。


それが、ぶつかっていんだ 泣いたっていいんだ」、「傷ついていいんだ、間違っていいんだ」と悟ることなのです。


いかなる人(自分でも、他者でも)をも、善悪の固定観念、価値の有る・無し、既成概念、常識などのモノサシで さばいたりしないこと・・・・自分や他人をあるがまま観ていく、認めていく、受けとめていく、受け入れていくこと・・・これに徹することが、とてもとても大事なことなのです。これを日々実践していく時に、心の目にある“”を取り除かれていくことになるのです。


これがイエスが山上の説教の中で語っている中心メッセージであり、指田郁也の『花になれ』の歌詞に秘められたメッセージでもある・・・と、私は観ているのです。



勇気は今、光になる


これは、一体、どういうことでしょうか?

 

・・・・・・続く・・・・・・お楽しみに・・・・・・  (9月18日 日曜日 0:09 更新) (9月19日 月曜日 22:10 更新) 


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ブログ(93) 『時をかける少女』(by 原田知世)の歌詞に観る “イエス - 道(Jesus,the Way)”

2015年02月24日 22時43分13秒 | 歌の歌詞に観る“イエス-道”


ブログ(93) 『時をかける少女(by 原田知世)の歌詞に観る “イエス‐道(Jesus,the Way)”



ながらくお待たせしましたが、今回のブログ(93)では、原田知世が歌っている時をかける少女』の歌詞にイエス‐道(Jesus,the Way)、すなわち、“人として人生を生きていく道”というものを観ていきたいと想います。しばらくまた、想いを解き放って、私と共に心の旅に出かけてみませんか?


時々、YOUTUBEで 時をかける少女(by 原田知世) を聴いたりしながら、当ブログにお付き合い下さい。


ところで、私がイエス‐道(Jesus,the Way)という場合、これは“従来のキリスト教”という宗教とは、全く違った意味合いがあります。“キリスト教”の経典というのは、もちろん、『聖書』であるわけですが、この聖書』を観る視点というものが、“これまでのキリスト教”とは大きく異なっているのです。聖書』の中にあるイエスにある真理というのは、人として自分の現実の人生を歩んでいく上でとても重要なものであり、もし人が自らの人生をしっかりと歩んでいるなら、当然、イエスが『聖書』の中で説いている重要な教えに“なるほど、確かにそれは真理だ”と気づくものであり、逆に、本当に『聖書』の中からイエス教えの奥義をしっかりと掴んでいるなら、自分の人生にそれを応用していくことはさほど難しいことではなくなるはず・・・と、私は想っているのです。


案外、真理というのは身近なところにあるものであり、それに気づくか、気づかないかで、人の人生というものは大きく変わってしまうものではないか・・・と、私は想っているのです。従って、私たちは日頃、耳にする歌の歌詞の中にも、結構、イエスにある真理を見い出すこともできるのではないか・・・と想って、当ブログで皆さんもよくご存知の歌の歌詞のフレーズの一部を引用したりして、説明させていただいているというわけです。


さて、この 『時をかける少女』という映画は、原田知世主演による大ヒット映画であり、監督は大林宣彦で、1983年に公開されました。この映画の主題歌の題も時をかける少女』であり、これを作詞・作曲したのは、ユーミンこと松任谷由実でした。



では、さっそく 『時をかける少女』という主題歌の歌詞の中から、注目すべきフレーズを引用していきたいと想います。そのフレーズとは、


時をかける少女  愛は輝く舟  過去も未来も・・・超えるから・・・


です。“イエス‐道(Jesus,the Way)”という立場から観ると、実に、これが最も注目すべきフレーズに想えてならないのです。


 『時をかける少女』という主題歌のキーワードは、“”です。この“”という概念を、松任谷由実は“”との関係性の中で捉えているわけです。言い換えると、“”というものを“時間”という視点から観た場合、それはどういうことなのか・・・について、松任谷由実は私たちに問いかけているのです。


イエス‐道(Jesus,the Way)”という立場から観ていった時に、この時をかける少女』の歌詞に描かれた最も大切なメッセージというのは何かというと、それは「真実の愛はまさに光り輝く舟のようであり、しかも、その“愛という舟”に人が乗り込むなら、“過去という時間”も“未来という時間”も超越していくことになる・・・」ということなのです。逆に言うと、過去という時間”も“未来という時間”も超越していった時に、人は“本当の”というものを見い出していく・・・ということです。


何を隠そう、イエス山上の説教の中で説かれた重要のメッセージも、実は、このことに触れていることがわかります。では次に、この点について解説して参ります。

(2月22日 日曜日 22:35、更新


マタイによる福音書6章9節~15節には、イエスご自身が語られたいわゆる『主の祈り』について書かれています。しかも、その中心・核心は“ゆるす”ということである・・・と、私は観ています。“ゆるす”ということは、人の想いが過去に囚われないこと、過去にこだわらないこと、過去に執着しないこと、過去から解放されて自由になっていくことなのです。つまり、過去という時間を超越していくことが、“ゆるす”ということなのです。人がすべてをあるがままに認めて、寛容という真実の愛で包み込んで受容していく時に初めて、過去という時間を超越していくことができるのです。


さらに、マタイによる福音書6章25節~34節では、“思いわずらうな”ということがイエスによって繰り返し、繰り返し述べられています。ここで語られている思いわずらうということもそうですが、それだけでなく、人が何かを心配したり、恐れたりするような場合でも、“未来に起こるであろう、起こるかもしれない”というイマジネーション、幻想、思い込み、決めつけによって、人は自分の想いを煩わせたり、想いが心配・不安・恐れに囚われたりしてしまうものです。このメカニズムはどういうことかと申しますと、その人の想い過去情報に囚われ過ぎて、その過去情報に照らして未来はこうなるに違いないと思い込み、決めつけているわけです。つまり、過去情報を根拠に未来という時間に生じるであろう出来事をさばいてしまっているということなのです。このようなメカニズムがわかれば、想い過去情報に囚われず、こだわらず、執着せず、そこから解放されて、自由に羽ばたいていく時、すなわち、過去という時間を超越していった時に、未来という時間をも超越していけることになるわけです。


人は、過去も未来も超えていくことができるのです。どうやって? それは、その人に過去たとえ何があったとしても、その過去を“ゆるす”ことによって・・・。人の想い過去にしがみつく、執着する、こだわる、手放さないことをできますが、逆に、人の想い過去を“Let it go”する、つまり、手放すことで、過去から解放され、自由になっていくこともまた可能なのです。想いそのものは、本来、自由なものなのです。想いを自由なままに保つことができる一方で、反対に、何かに縛られ、囚われて、不自由なままにしておくこともまた、人にはできるのです。どちらを選ぶかも、全くその人の自由なのです。人が、過去という時間未来という時間も超越していくには、“愛という輝く舟”に乗ることによってであると、ユーミンは言いたかったのかも知れません。私も、そう想います。愛という輝く舟”に乗り込むこと、すなわち、“寛容という真実の愛という輝く舟”に乗り込むことによって・・・。つまり、寛容という愛の中で生きていった時に、人の人生行路は明るく照らされて、輝かしい未来へと進んでいくというわけです。そして、さばかない愛寛容という真実の愛に生きる時に、人の“内なる光”も明るく輝くのです(マタイによる福音書6章22節~23節、同5章43節~48節、同7章1節~5節を参照)。


では、過去という時未来という時も超えていった時に、人は一体どこに辿り着くのでしょうか? それは、“今という唯一リアルな時”です。 人は、“今というこの瞬間、瞬間という時”を生きていくようになるのです。ここに辿り着いた人は、ある意味において、悟った人であり、霊的に覚醒した人であり、確固たる人としての歩みをスタートさせた人であり、次元上昇を始めた人であると言えるのではないか・・・と、私は観ます。


このように、過去という時未来という時も超えて、今というこの瞬間、瞬間というリアルな時”の中で、自分の想いを何ものにも束縛されずに、自分の“内なる光”と連動した自由な想いのままに自分の人生というものを創り上げながら、しっかりと生きている人こそが、まさに“”に縛られない、“”から想いが解放され自由となった『時をかける少女』なのであり、『時をかける少年』なのであり、『時をかける若者』であり、あるいは、『時をかける人』なのではないか・・・と、私は想うわけです。

 (2月24日 火曜日 22:43 一部改訂して更新

 

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ブログ(92)『ゆずれない願い』(by 田村直美)の歌詞に観る “イエス - 道(Jesus,the Way)”

2015年02月16日 22時27分03秒 | 歌の歌詞に観る“イエス-道”

1つ前のブログは、ブログ(91) 『PRIDE』(by 今井美樹)の歌詞を“イエス-道”から観る です    

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ブログ(92)ゆずれない願い(by 田村直美)の歌詞に観る “イエス - 道(Jesus, the Way)



1994年11月9日に発売され、テレビアニメ『魔法騎士レイアース』のオープニングテーマとなり、120万枚を超える売り上げを記録したという、田村直美の代表的ナンバー、『ゆずれない願い』の歌詞について、今回は、イエス - 道(Jesus,the Way)”という独自の視点から観ていきたいと想います。


時折、YOUTUBEで、『ゆずれない願い PV』、あるいは、『ゆずれない願い 2013』を聴いたりしながら、しばらくまたお付き合い下さい。


ゆずれない願い』は、「止まらない未来を目指して ゆずれない願いを抱きしめて・・・」という歌い出しの田村直美の有名なナンバーです。ご存知の方も多いかと想います。


今回のブログでは、幾つかの重要なフレーズを引用しながら、重要なメッセージを、“人として人生を生きるコツや秘訣”を汲み取って参りたいと想っています。お楽しみに・・・。 

(2月12日 木曜日 0:57 更新) 


ところで、私が注目している『ゆずれない願い』の中のフレーズというのは、


止まらない未来を目指して ゆずれない願いを抱きしめて


・・・・・・・

いつも飛べないハードルを負けない気持ちでクリアしてきたけど

出し切れない実力は誰のせい?


止まらない未来を目指して ゆずれない願いを抱きしめて

色褪せない心の地図 にかざそう


どれだけ泣けば 朝に出遭えるの

孤独な夜 初めて限界を感じた日

・・・・・・・

に続く坂道で 強さを覚えたい

止まらない未来を夢見て

口を閉ざし 瞳を光らせてきたけれど

もっと大きな優しさが見えた


いつも飛べないハードルを負けない気持ちでクリアしてきたけど

スタートラインに立つたびに怯えていた

止まらない未来を描いて 腕を伸ばし 心を開いて


止まらない未来を目指して ゆずれない願いを抱きしめて

色褪せない心の地図 にかざそう


という辺りです。とは言っても、かなりのフレーズを引用してしまっているわけですが・・・。


さて、このようなフレーズで歌われているこの『ゆずれない願い』というナンバーを、心静かにして(心の中の雑音を消しながら)聴いていくと、“人としての どのような生き方”というものが浮かび上がってくるのでしょうか? 

(2月12日 木曜日 23:03 更新



田村直美が歌うゆずれない願い』というナンバーの歌詞を観ていく時に、幾つか重要なポイントがあります。その中の一つは、この歌詞の中で頻繁に切り返し歌われる“ゆずれない願い”をどのように観ていくかということです。私は、このゆずれない願い”を別々の2つの方向から捉えることが出来るのではないか・・と観ているのです。その2つの捉え方とはどういうことなのかについて、これから説明いたします。


ゆずれない願い”という場合の“ゆずれない”ということを、“こだわり”、“執着”、“固執”、“囚われること”、“しがみつくこと”、“頑固さ”、“頑なさ”、“融通が効かないこと”、“柔軟性がないこと”というふうに観ていった場合、自分の願いを叶えるということは至難のわざになってくるのです。このようなスタンスに立って、自分の願望を達成しようとする人は、実際、多いと想います。実は、このような意味合いの“ゆずれない”想いというのは、イエスの教えとは相容れないものなのです。


この典型的な例というのが、マタイによる福音書19章16節~30節に描かれているのです。ここで、一人の人がイエスに近寄ってきて、「先生、永遠の命を得るためには、どんなよいことをしたらいいのでしょうか」と尋ねたわけです。イエスは、彼の中で『永遠の命を得ることを妨げているもの』というのが何であるかを見抜いておられました。それは、彼の想いが自分が持っている富や財産などに“執着し、囚われ、しがみついていたこと”だったのです。そのことに気づかせようとして、イエスは彼に向かって、「・・・帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と命じたのでした。ところが、彼は、自分の内にあるそのような“想い”が自分自身を永遠の命から引き離している現実・事実に気づかないまま、イエスにそのことを指摘された直後に、逆に、自分の富や財産に対する執着しがみつきさらに増大させてイエスのもとを悲しみながら立ち去っていったというのです。


人は誰でも、自分の人生の中で何とかして叶えたい願いと持っていると想います。でも、もし自分が“願っている結果”に強いこだわりを持ったり、執着したり、しがみついたり・・・という“想い”を増大させていくならば、自分の願いが叶えられないまま、彼のように悲しみと失望を味わうかも知れないのです。実は、このようなことから、「出し切れない実力」、「どれだけ泣けば 朝に出遭えるの」、「孤独な」、「限界を感じ・・・」、「スタートラインに立つたびに怯えていた」ということが生じてくるというわけです。


では、ゆずれない願い”という場合、これとは違う、別の意味合いの“ゆずれないということは、どういうことなのでしょうか? さて、皆さんは、どう想われますか?


ずれない”ということに違った角度から光を当てると、それは“強固なと観ることもできるのではないでしょうか? もちろん、これは想い”が何かに囚われて融通がきかなくなってコチコチと固くなった状態ということではありません。それとは真逆で、“想い”が何ものにも囚われていない自由で伸び伸びとした状態で、なおかつ、“強固さを兼ね備えた想いというわけです。つまり、その人は、“色褪せない心の地図”を鮮明に描けるほどに確固たる想い強い明確な想いを持っていて、それでも、自分の“心で想い描いている地図”という『結果』自体に、必ずしもこだわっていない、囚われていない、執着してはいないという特徴があるのです。自分が想い描いている願いの内容や結果以外にも、もしかしたら最善の答えが有るかも知れない・・・と、想えるような“心のゆとり”というものがあるわけです。これが、寛容の愛と調和した想いなのです。言い換えれば、自分が願っている『結果』すらも、“Let it go(=手放していける)”ができる心の広さ心の寛大さ心の余裕心の奥行きというか、そういうものがあるわけです。


このことが可能となるのは、その人が“心で想い描いている地図(=結果)”をジャッジしていない(=さばいていない)からなのです。すなわち、善悪の固定観念で、好き嫌いの尺度で、損得勘定で、あるいは、優劣といった相対的なモノサシなどで測ったり、価値を判断したりして、『結果』はこうでなければいけないとか、自分が“今”考えていることが唯一絶対で、理想的な結果だ・・・などと決めつけたり、思い込んだりしないこと、それが“さばかない”ということなのです。


実は、このようにさばかないことを実践していく時に、願っていることが自分の“内なる光”に届くというわけです。これが、「ゆずれない願いを抱きしめて 色褪せない心の地図  にかざそう」ということなのです。もし人が自分が願ったことさばいてしまうならば、それをにかざすことはできないのです。さばいている時に、自分の願いの間に“厚い覆い”がかかってしまうからです。そのため、自分の願いがキチンと、内なる光”に届かなくなってしまうのです。仮に、届いたとしても、自分が願っていることと、“内なる光”が想っていることとの間にズレが生じることになってしまうのです。このようなズレが生じている時には、自分の人生を自分が想い描いているように、創造していくことが難しくなってしまうので、注意が必要です。


つまり、「ゆずれない願い」というものをどのように観ていくか、捉えていくか・・・によって、人の人生は全く違った方向に進むことになっていくことになるのです。そして、このゆずれない願い」に深く関わってくるキーワードは、“さばかない(=ジャッジしない)”ということなのです。このことを実践していくかどうかに、人の人生は大きく左右されていくことになるわけです。 


(2月16日 月曜日 22:27 改訂更新

 

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