“最高の自分を引き出すー『意志力』(その3)”
このブログは、“最高の自分を引き出すー『意志力』(その2)”からの続きです
さて、スタンフォード大学の心理学者であるケリー・マクゴニガルは、“最高の自分を引き出す”ために自分の意志力を作動させるコツの一つに『自分への思いやりを持つ』ことの重要性を説いており、この点に私が注目していることについて、当ブログで書きました。
このことは、イエスの山上の説教の流れの中で観ていった時に、『自分をさばかない』ということと、同じような意味合いであると私は考えています。
つまり、『自分への思いやりを持つ』 = 『自分をさばかない』 ということになります。さらに、以下のように、イコールで結ぶこともできると想います。
『自分への思いやりを持つ』 = 『自分をさばかない』 = 『寛容という愛で自分を愛する』
では、『さばかない』とか、あるいは、これとは反対の『さばく』ということは、一体、どういうことなのでしょうか? 今回のブログでは、このことについて今一度 復習、または、考察してみたいと想うわけです。
ところで、『さばかない』と『さばく』の大きな違い、決定的な違いというのは、どこにあると想いますか?
それは、マインド(mind)の関与の有無にあると言えます。つまり、『さばかない』とは、マインドの働きを停止しておくことを意味します。一方、『さばく』とは、マインドが活発に働いていることを意味しているのです。
この“マインド”が働くメカニズムを観ていくと、“マインド”は頭の中にある『過去から蓄積されてきた記憶情報というデータベース』に検索をかけて、そこから得られた情報に照らして、現在のことや将来のことを捉えていく、判断を下していく、最終的な結論を導き出していく・・・これが『さばく』というメカニズムの実体というか特徴と言えます。実は、このような頭の中の作業というのは、誰でも日頃の生活の中で当たり前のように自然にやっているものです。
もちろん、私はこのような“マインド”の働きは不要だとか、ダメだとか、悪いものだ・・・と言おうとしているのではありません。私が言いたいことは、このような“マインド”の働きがすべてなのではないということに気づくこと、“マインド”の働きに支配されて 身動きも取れないようになってはいけない、意図的に“マインド”の働きを一時停止する術(すべ)を身につけることが重要である・・・ということを言いたいのです。つまり、自らの意志で“マインド”のスイッチをいつでも自由にオン・オフに切り替えられるようにしておくことが、とても大事なことなのです。
言い換えると、たとえ“マインド”が自動的に働いて、いろんな答えを提示してきたとしても、その答えを絶対的なものだと決めつけなければいいのです。もしかしたら 現時点では それが一つの答えかも知れない。でも、後になって、もっと情報が集まってきたら、別の答えが観えてくるかも知れない・・・というふうに、いついかなる時でも頭を柔軟にしておくことが重要なわけです。このように、“マインド”が提示してきた答えに囚われない、こだわらない、固執しない、振り回されないということが、『さばかない』ということに繋がってくるわけです。
(4月17日〈日〉22:30に更新、18日〈月〉19:12に改訂更新)
“盲人を手引きする盲人”ではなく、真の“観察者”になる
ところで、“さばかない”という生き方を別の角度から観ていくこともできます。
イエス・キリストは、「・・・あなたがたは、教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである。」(マタイによる福音書23章10節)と言われました。もちろん、教師に向いている人というのは、確かにいるとは想います。ここで、イエスは何を言いたかったのでしょうか?
“さばく人”は、自分が正しいと思っていたり、思い込んでいたりすることを他の人々に教えようとしたり、説教したり、諭したりする傾向が強いものです。でも、このことが誤った結果をもたらしてしまうおそれがあります。
“さばく人”に限って、このような意味での教師や説教家になろうとするもの。すなわち、上から目線で、人に教えたり、お説教したり、注意したり、批判したり、非難したり、叱ったり、責め立てたり、責任を追及したりすることで、“未熟”に思える人を“立派”な人間に変えようとしたり、“ダメな人”をもっと“ましな人間”に成長させようと試みるのです。でも、その多くは期待された結果が出ないことが多いものなのです。
イエスは言われます、「彼らは盲人を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう。」(マタイによる福音書15章14節)と。
一方、“さばかないという生き方に徹する人”は、そのような教師や説教家にはならないのです。実は、このような点においても、“さばく人”と“さばかない人”との大きな違いがあるのです。
イエスは、山上の説教の中で、「自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。・・・まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう」(マタイによる福音書7章4節~5節)と言われました。
つまり、“さばく人”にとって目障りに想えるようなもの(=目のちり)があれば、人に干渉してまで、無理やりそれを取り除いてあげようと努めるのです。“さばく人”にとっては、自分自身の目にある梁には気づかないのに、人の目にあるちっぽけなちりの存在が大きなストレスに感じられてしまうものなのです。
一方、相手の目にあるちりは、“さばかない人”にとっては、そんなに目障りなものとは感じないものなのです。人の目にあるちりというものは、自分自身の目にある梁に比べたら、ほとんど気にならない程度のものに過ぎないのです。 “さばかない人”は、人のあら探しをすることに時間を費やさずに、まずは自分自身の目にある梁を何とか取り除こうと努めて、自分自身がはっきりと見えるようになることを最優先するのです。
“さばかない人”は、むしろ、自分自身の目の梁を取り除くことに精進するものなのです。自分自身がはっきりと見えるようになるために、まずはこの点において、最大限の努力を惜しまないものなのです。盲人が盲人を手引きすることは、絶対あってはならない・・・ということを“さばかない人”はよくわかっているからです。盲人が盲人を手引きすることは、手引きする本人にとっても、手引きされる人にとっても、益にはならない・・・ということを“さばかない人”は知っているからです。自分自身がまずはっきりと見えるようになった時に、ようやく、相手の目からちりを取りのけるグットタイミングと、取りのける最適な方法が自ずとわかってくるものだからです。
“さばく人”というのは、往々にして、『干渉者』になります。自分自身が抱えている深刻な問題はさておいて(あるいは、それには気づかないで)、相手に干渉してくるのです。相手の人生の中に土足で踏み込もうとするのです。しかも、自分は善意でやっていること思い込んでいるものなのです。自分が正しいと思っている“教え”を説くことによって、相手を救おうとしたり、変えようとしたりするのです。“さばく人”は自分自身が変わる必要があることには気づくことはなく、むしろ、相手こそ変わらなければならない・・・と思い込んで、相手の人生に深く干渉してくるのです。“さばく人”は自分の“正しい考えや理想”に相手を従わせようと試みるのです。相手の人生をコントロールしようとするのです。
一方、“さばかない人”は、『干渉者』にはならず、むしろ、真の『観察者』になることを選ぶのです。つまり、相手をあるがまま認めて、やさしく観守っていこうとするのです。真の『観察者』になるためには、自分自身の目から梁を取り除くことが必要になってきます。他人、あるいは、隣人の目にあるチリを気にしたり、いら立ったり、干渉したりすることに時間を費やすことをしないで、むしろ、一にも二にも、まずは自分自身の目から梁を取り除いていくことに時間を費やし、そのことに日々精進していこうとするのです。そのような精進を続けながら、相手のことも観守っていくのです。偏見や先入観を持たずに、冷静に相手を観ていくのです。寛容な想いで包み込むようにして、相手を観つめていくのです。そして、自分の目の梁が取り除かれて、はっきりと見えるようになってきた段階になった後で、絶妙なタイミングで、最適な方法を用いて、“おしつけがましく”ではなくて、“さりげなく” 相手の目からちりを取り除くためのサポートをしていくのです。
(4月29日〈金〉23:54に更新)(4月30日〈土〉22:50に補足更新)(5月5日〈木〉20:46に更新)
自分の弱さと向き合う
さて、最高の自分を引き出すために、人は自分が持っている弱さに対してどのように向き合っていくか・・・ということも、大きな課題になってくると想います。今回はこの点について、想いを巡らせてみたいのです。
ところで、いきものがかりのナンバーに『風が吹いている』 というのがあります。この歌詞に、次のようなフレーズがあります。
「・・・・強さを手にするより 弱さを越えたいんだよ・・・・」
誰でも何かしら“弱さ”を持っているもの。“強さ”を手に入れようとするよりも、むしろ、“弱さ”を越えたいんだ・・・という気持ちはよくわかります。
では、この“弱さ”を越えるためには、どうしたらよいのでしょうか? 言い換えれば、どうやって自分の“弱さ”に向き合っていけばいいのでしょうか?
(5月5日〈木〉21:04に更新)
自分の“弱さ”を嫌ったり、ダメなものと想ったり、悪いものと決めつけたり、あるいは、自分の“弱さ”から逃げたり、自分の“弱さ”を見て見ぬふりをしたり、自分の“弱さ”と戦ってみたり、自分の“弱さ”を無理やり“強さ”に変えようとしたり・・・・と、人はいろいろなことを試みるのではないでしょうか?
でも、“弱さ”を持った自分と上手に付き合っていくための重要な鍵は、自分の“弱さ”をさばかないこと・・・にあると私は想っているのです。つまり、自分の“弱さ”を善・悪で観ないこと、価値判断をしないこと、優劣をつけないことです。自分の“弱さ”を、あるがままを認めていくこと、そのまま受け入れていくこと、優しく包み込むように、愛おしむように受容していくことがとても大事なのではないか・・・と想うわけです。
イエスは、「自分を愛さないで、あなたの隣り人を愛しなさい」というふうには言われなかったのです。「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛しなさい」と明確に言われました。“自分を愛する”と言っても、それは自分が持っている“弱さ”を“強さ”に変えてからに、自分を愛するということではないのです。様々な“弱点”や“短所”を抱えたままの自分をまるごと愛しなさい・・・・と言われるのです。
“愛する”という行為は、単に感情的なもの、情緒的なものではないと想います。“愛する”というのは、曖昧なものでも、抽象的なものでもなく、むしろ、『原則』と言えます。ある『原則』がベースになっているものが、“愛”なのではないか・・・と、私は観ているのです。
愛の特質は、“寛容”にあります(コリント人への第1の手紙13章4節を参照)。“寛容という愛”は、自分の中にある“強さ”も“弱さ”も区別することなく、良し悪しでさばかずに、あるがまま認めて、包み込むように優しく受容していくという『原則』を貫いていくこと、実践していくことの中にこそ息づいているものだと、私は想うのです。
イエスは山上の説教において、敵を愛するように言われた(マタイによる福音書5章43節~44節を参照)。愛というのは、自分を迫害している相手であっても、自分を苦しめている相手であっても、自分にとって不快に思えるような相手であっても、“敵”とみなさない、“敵”として認識しない、“敵”と決めつけたり、断定したりはしないものなのです。特定の人を自分に“味方”なのか“敵”なのかというような二者択一の判断や決めつけはしないのが、愛というものなのです。愛は、“さばくことをしない寛容の愛”そのものだからです。
同様に、自分の中にある“弱さ”であっても、敵対視してはならないのです。敵であるかのように思い込んで、戦いを挑んではならないのです。
(5月6日〈金〉23:27に更新)
自分の“弱さ”というものを、戦うべき対象にしてはならないのです。“弱さ”=悪、“強さ”=善 というように考えてはならないのです。実は、そのように想ってしまうと、自分の“弱さ”を越えることは至難のわざになってしまうのです。
『作用-反作用の法則』というのがあります。自分の“弱さ”を嫌って、それを力づくで“強さ”を変えようと試みたとします。すると、こちらが力で押した分だけ、“弱さ”も押し返してくるのです。その互いの力の押し合いで、エネルギーが消耗して疲れてしまうことにもなるのです。戦いを挑んで押す側も、逆に押されて反撃してくる側も、実は、自分自身なのですから。そのようなエネルギーの無駄使いで、人生を消耗しても、なんのメリットもありません。
自分のうちにある“弱さ”を良し悪しで判決を下すことなく、あるがまま、優しく包み込むように受け入れていくのが、自分を愛するということなのであり、その“弱さ”を変えることに躍起になるのではなく、その“弱さ”があるままで受容していって、包み込むような寛容の愛(=さばかない愛)を注ぎ続けていく・・・・このようにする時に、自分の“弱さ”を超越していく道が自ずと開けていくのではないだろうか・・・。
いきものがかりの『風が吹いている』 にある「強さを手にするより 弱さを越えたいんだよ」という歌詞のフレーズと、イエスが山上の説教の中で説いた“さばくな”というメッセージは、今私が述べたような形で、リンクしていると想うのです。
(5月7日〈土〉23:30に更新)・・・・・・今度は、別のテーマに移ります・・・・・・。
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