ブログ(95) 最近の推薦図書3冊(その1)・・・Jesus,the Way(イエス-道)の立場から・・・
ブログの更新が途絶えてしまって、久しくなります。3か月間くらいのブランクがあります。
その間、閲覧のために当ブログをしばしば訪れて下さっておられた方々、本当にありがとうございます。
さて、最近、実際に購入して読んでみて、私の心をとらえた本、皆様にもぜひ読んでいただきたいと想った本が3冊あります。
今回のブログの中で、それらの本についてご紹介したいと想います。
それら三冊の本の題名は何かと申しますと、
1).『地球に生きるあなたの使命』(ムラキテルミ&木村秋則 共著、KKロングセラーズ)
2).『ダメ親と呼ばれても学年ビリの3人の子を信じて どん底家族を再生させた母の話(もう一つのビリギャル)』
(ああちゃん&さやか 共著、KADOKAWA)
3).『幸せになる ひっそり スピリチュアル』(桜井識子著、主婦と生活社)
です。
もしかしたら、皆さんの中にはそれらの本の何冊かをすでに読まれた方のおられるかも知れません。
あるいは、三冊すべてをもう読んだよと言われる方もおられるかも・・・。
(2015年5月22日 夜)
まず、『地球に生きるあなたの使命』(ムラキテルミ&木村秋則 共著、KKロングセラーズ)についてですが、以前のブログの中で、木村秋則さんの別の本から引用して、皆様に紹介したことがありました。従って、今回は、特にムラキテルミさんからのメッセージについて、注目してみたいと想います。
この『地球に生きるあなたの使命』という本は、“驚くほど似ている二つの魂が語りかけます”という構成で、各章においてお二人のメッセージを対比させながら話が進めらていきます。
今回の私のブログでは、ムラキテルミさんからのメッセージとこれまで私がブログで語ってきたメッセージとの間で似ている幾つかの点について皆さんにお伝えしていきたいと想っています。
さて、『地球に生きるあなたの使命』という本の第2章において、余命半年の肝臓ガンを医師に宣告されたムラキテルミさんは、「どうして、この私が?」と、どれだけ思い、その時に、人生の絶頂から、一気にドン底までまっ逆さまに落ちたとあります。
そして、ここからが注目すべき点なのですが、“全てを自分以外の原因にしていましたから、人生は全く好転しません。どんどん落ちぶれて行きました。生活も心も。私はクリスチャンですが、「本当に神様はいるのですか」、「いるなら、なぜ助けてくれないのですか」と、神様に文句タラタラの毎日を送っていました・・・と、ムラキテルミさんは書いておられます(p.39~40を参照)。
さて、このことに関連して、今から私自身のことについて述べてみたいと想います。もちろん、ノンフィクションです。
私におけるキリスト教との関わりについて
実は、私自身は中学生の頃に、“目に見えない世界”に関心を持ち始めました。そして、私は想い、願ったのです、もし宇宙に普遍的な法則(=真理)というものがあるなら、どうしてもそれを知りたいものだ・・・と。ここでいう“目に見えない世界”とは、私にとって、エレクトロニクスの世界であり、精神世界であり、スピリチュアルな世界ということでした。
(5月23日夜)(5月25日23:38に一部改訂して更新)
昔々、私が中学2年生だった頃、エレクトロニクスに興味を抱き、自分で通信講座に申し込みをして、真空管で使ったラジオ受信機を部品から組み立て、空中を飛びかっている電波をアンテナでとらえ、その受信機を通してAMラジオ放送を聴いたりしました。その時の感動は今でも覚えています。その後、トランジスターを使ったFM受信機やトランシーバーも作ったりしました。ただ、トランシーバーは1台しか作らなかったので、果たしてそれが成功したかどうかは確かめることはできませんでしたが・・・。その前後、エレクトロニクス工作の本を買ったりして、パーツを売っている店を探し、そこで必要な部品を購入してから、配線図をみながら、様々なエレクトロニクスの電子機器のおもちゃなどを自作したりして、ワクワクと楽しんでいました。
私の関心事は、そのあたりから、さらにメンタルなこと、スピリチュアルなことへと発展していきました。方位学の本、手相・人相の本、西洋占星術の本、真言密教の本、ジョセフ・マーフィーの潜在意識に関連した本・・・と、いろいろと次から次へとかじっていきました。そのジョセフ・マーフィーの本の中に、信仰や祈りに関する聖書の言葉が引用されていたので、その時に初めて私は聖書の世界に触れたわけです。
大学に入学した時に、アパートの私の部屋の机の上に、私が自ら買った聖書を置いていました。時々、旧約聖書の詩編など開いて読んだいた記憶があります。それらの聖句を読んでいくと、私の心は惹きつけられていくといいますか、心が明るく照らされていくように感じたというのでしょうか、これまで私の人生の中で経験したことのない不思議な感覚を覚えたものでした。聖書には何かあるな・・・と、直観で感じ取りながらも、でも私の頭ではなかなか聖句の深い意味を理解するというところまではいきませんでした。
そんなふうに悶々としている時に、あるキリスト教会から講演会のチラシがアパートに届きました。絶妙なタイミングだったので、シメタ!と想いました。そして、確か3~5日間くらいの講演会だったと想いますが、かかさず出席しました。まあ、そんなふうにして、私はキリスト教に深く関わりを持つようになっていったというわけです。
それから25年間あまり、キリスト教(といいますか、聖書にといいますか)にかかわっていくことになるのですが、それでも、私はキリスト教(プロテスタントの教派でしたが)という宗教に埋没することなく、そこで教えられていることを鵜呑みすることなく、自分で聖書で客観的を確かめて納得していくというスタンスはずーっと堅持していました。
ところで、私の生き方の特徴というのは、これは凄いというものに出会ったら、これまでのものにしがみつかず、手放していけるというところにあると言えるかも知れません。ワンランク上のものを発見したら、ワンランク下のものに対するこだわりを捨てることができるということ・・・・。これは、悪く言えばあきっぽい、長続きしないということ、目移りして他のものにすぐに飛びつくというのでしょうか。逆に、良く言えば、前を向いてひたすら進化していけるということなのでしょうか。
(5月24日夜、5月25日23:48に改訂して更新)
まぁ、そのような私ですが、大学(薬学部)1年のカリキュラムも何とか無事に終わり、やがて大学2年生になろうとしていた春休みのことです。1年間近く、キリスト教会に通い続けた私は、その教会の牧師さんから そのちょっと前からバプテスマを受けないかと勧められていました。でも、私は自ら進んでバプテスマを受けて正式にクリスチャンとなろうという気は起きませんでした。聖書の教えがまだピンときてはいなかったという実感があったというか、しっくりとはまだ理解していない自分がそこにいたからです。心の目の前にまだ濃い霧がかかっていて、よく見えていないといった感じでしょうか。
そのような状況のもとでの春休み、アパートの部屋で一人いた私は祈りながら聖書を読んでいました。開いていたところは、ヨハネによる福音書でした。その時に、私は初めて霊的な不思議な体験をしたのでした。これまではずーっと、頭で聖書の言葉を理解しようとしていた私でしたが、この時は全く違う思考プロセスで聖書の御言葉と向き合うことになったのでした。それはどういうことかと言いますと、私の体はアパートの一室にあったわけですが、私の想いは2000年以上も前のイエスの時代にタイムスリップ(あるいは、リンク)してしまったかのような感覚になったのでした。“2000年という厚い時間の壁”がもろくも崩れ去って、“時間という障壁”はもはや存在していなかったという感じです。つまり、イエスが弟子たちや群衆、パリサイ人や律法学者に語りかけていたその場に、私も立って聴いているような感じというのでしょうか、イエスの口から出てくるメッセージが私の耳に直接ビンビンと入ってくるような感じだったのでした。これまで、私の心の目の前にかかっていた霧は消え去ってしまったような・・・、そんな感覚でした。つまり、イエスが2000年ほど前に、実際に人々に語っていたメッセージが、私に向かって直接 語られている生のメッセージとして響いてきたということです。イエスの口から語られるその一言、一言に、私の心は感動で震えました。イエスは、私にとって、もはや聖書という経典の中にいるだけの単なる歴史的な人物ではなくなったのでした。時を超えて生きておられる存在として、鮮明でリアルな存在として、神から遣わされ、真実の神を伝えようとされていたユニークでスペシャルな存在としてのイエスを、私は自分のすぐそばに感じ取ったというわけです。単に“知識を通して頭でイエスという方を知る”というのではなくて、肌で感じて、体感や直観によって、私には“今”疑いの余地もないくらいハッキリとわかってしまった・・・、そんな体験だったのでした。そのような体験を経て、私は一応 その春休みにバプテスマを受けました。
もちろん、そのような体験をしたからといって、私が聖書の言葉をすべて解読できるようになったということではありません。聖書のどのような箇所の意味もすべて説明できる力がついたということでもありません。それは言い換えれば、長い間、私の心の目の前にかかっていた霧が晴れて(=覆いが取り除かれて)、イエスを信じるための心の準備ができた、十分な確信が得られたということを意味しているのかも知れません。つまり、私の残された生涯で、イエスのうちにある本当に大切な真理をいずれ必ずハッキリと知ることになるであろう・・・、そのような心の準備が出来た・・・といいますか、後は時間の問題だ・・・というわけです。
(5月25日23:55に更新)
さて、大学の薬学部の4年間もほぼ終了し、最後の大きな作業である卒論もなんとか終えて、あと2~3週間くらいで薬剤師の国家試験の受験ということになりました。国立大学の薬学部では、私立の薬科大学とは異なり、国家試験対策というのは授業に盛り込まれていませんので、すべて自分でやらなければなりません。
私は、どちらかというと学校の勉強においてはコツコツ型ではなく、試験日が切迫してこないとエンジンがかからないというタイプなのです。早めに取りかかったとしても、なかなか試験勉強に身が入らないために勉強の効率が悪く、時間ばっかりかかるのに、頭に入らないということになってしまう傾向がありました。そのため、薬剤師の国家試験の過去の試験問題集もだいぶ前に買ってはいたのですが、ほとんど勉強はしていませんでした。私としては、卒業論文を終えてから、本腰を入れて国家試験の勉強をしようと考えていましたが、卒業論文を仕上げるのに徹夜や睡眠不足が続いてしまい、卒論が終わった後に風邪を引いてしまい、発熱もあり、1週間近く体を休めなければならず、そのため国家試験の勉強が手につかない状態になってしまいました。
風邪も治り、さて本腰を入れて、国家試験の勉強をしないと・・・と思った時には、もう1週間~10日間くらいしかなかったという記憶があります。えーっ、果たして大丈夫なのだろうか?・・・と心配している時間的な余裕すらありません。やるっきゃない・・・という、そんな感じです。自分が信じている神様のサポートもお願いしながら、とにかく国家試験の過去問題集を1ページ、また1ページとめくっていって、問題と解答を照らし合わせながら、それを少しでも記憶にとどめようと頭を飽和状態にしていく日々が続きました。朝起きてから、寝るまでずーっと、一心不乱に・・・。
実際に、薬剤師の国家試験の日になって、問題をみてみると結構、初めてみる問題だらけという感じでした。そのような時でも、心配したりせず、恐れたりせず、もうダメだとあきらめたりもせず、黙々と神様のサポートがあることを信じながら、感をフルに働かせながら、与えられた問題の一つ一つを解いていったというわけです。もちろん、知らない問題だらけなので、試験が終わった後も、客観的に自分の選んだ答えの数が合格点に達したかどうかは、通知がくるまで全くわかりませんでした。
お陰様で、後日、合格の通知がきて、その時にホッと安堵したことを覚えています。
ところで、薬剤師の国家試験の合格証書が自宅に届く前に、私は留学のためにすでに渡米していました。
実は、私が大学4年間、通っていたキリスト教会の牧師さん(すでに50歳台だったと思います)がまた異色な人で、仙台市に赴任中に赤門鍼灸柔整専門学校に通って卒業し、柔道整復師の免許も取った方で、その後、確か私が大学4年生だった頃に、公衆衛生学の修士号を取るためにアメリカに留学し、そのかたわら日系人の教会で牧師の仕事もこなしていたのでした。
私自身、腰が重い方なので自分がアメリカに留学して勉強するなんて夢想だにしていませんでした。でも、その牧師さんが私に一生懸命にできるから、大丈夫だから・・・と、アメリカに留学するように強く勧めたのでした。その牧師さんは、「男子たる者、薬に埋もれて一生を過ごすのはもったいない」と、よく言っていました。まぁ、そのような縁があって、私は重い腰を上げることになり、その気になってアメリカへと渡っていったというわけです。
その当時、教会が経営する学校の卒業生がアメリカの西海岸にある大学(同じ教派の本部のあるアメリカの教会が経営)に留学して、医者や歯医者になる勉強をしている学生が多くいました。
私は、アメリカに渡って最初の1年間を英語に慣れるために費やし、その後どうするかについては、3つの選択肢を持っていました。メディカルドクター(=医者;M.D.)をめざすか、デンチスト(歯医者;D.D.S.)をめざすか、ドクター・オブ・カイロプラクティック(D.C.)をめざすか・・・の3つです。最終的に、私は薬を一切使わないで治す治療ということでカイロプラクティックドクターの道を選び、そのための専門のカレッジに入学することになりました。(例の牧師さんも、日本にいる頃からカイロプラクティックを本場のアメリカで勉強しないかと、私に勧めたりもしていましたが・・・。)
アメリカでのカイロプラクティックの勉学を終えて、日本に帰国して、初めの10年間程はカイロプラクティックを生業とし、その後は、薬剤師の仕事を生業の中心にシフトして、カイロプラクティックはその合間にたまにやっているというのが現在の状況です。
ところで、話が前後して申し訳ありませんが、私がアメリカに渡る前から、とても気になっていたのが、旧約聖書の中にあるヨブ記でした。ここには何かあるな・・・と。ヨブ記は難解な書と一般に言われていますが、解明すべき大切な真理が隠されていることを私は肌で感じ取っていて、そのヨブ記の奥義を個人的に解き明かすということが私の課題の1つでもありました。アメリカに滞在中も、もちろん、その解き明かしを試みましたが、本格的な解明は、今から2~3年目くらい前でしょうか。その時にわかったことが、現在の『イエス‐道』という私のブログにも脈々と流れているというわけなのです。今だからこそ言えることは、ヨブ記の奥義がわかれば、イエスの山上の説教の核心的な霊的な教えを解読することができるということ、逆も真なりで、イエスの山上の説教の教えの真意がわかれば、ヨブ記も容易に解読することができるということです。
以上が、まずは序論といいますか、バックグラウンドというものです。これから本論に入っていこうと想います。 (5月25日23:17に更新)
・・・・・・ブログ(96)最近の推薦図書3冊(その2)に続く(少しずつ増補して更新していきます)・・・・・・
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