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意識の進化、次元上昇をアシストする“イエス-道(Jesus,the Way)”

“イエス-道”という視点から、人生を生きる秘訣・コツを考える“斬新的な聖書リサーチ”

ブログ(100) 推薦図書があります

2015年07月20日 23時09分41秒 | 推薦図書

ブログ(100) 推薦図書


7月12日に近場の書店で私が購入した本で、まだ全部は読み終えてはいないのですが・・・。内容のレベルも、捉えている視点も、説明における言葉の選び方においても、これなら皆さんにぜひお勧めしたいという本があります。


それは、宮崎ますみ著の『ピュア・バランス』(ヒカルランド;2015年6月30日発行)というヒプノセラピーに関する本です。


私は、もちろん、宮崎ますみさんのようにヒプノセラピーは致しません(私のアプローチは、あくまでも、“ハイパー宇宙ネットワークのメンバー達”とリンクして生み出す“共創造のエネルギー”によるヒーリングです)。


確かに、私とアプローチの仕方において全く異なるものの、それでも私の提唱している“イエス‐道”の立場から観ても、ほとんど違和感は感じられないのです。とても調和しているような内容なのでした。本質はやはり同じなんだな、行き着くところは同じなんだということです。山に登るのに、通る道は違っても、辿り着く頂上は同じなんだなというわけです。


私自身がこの本を読んで感じたことを申し述べた上で、オーリングメンターを通して “ハイパー宇宙ネットワークのメンバー達”からも総合的な評価も訊いてみましたが、なんと“97%OK”という回答でした。なるほど、やはりかなり高い確率だなぁと想いました。


・・・・・・続くかも(近いうちにまた増補更新するかも)・・・・・・ 

 (7月20日 月曜日 23:09に更新) 

 

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ブログ(97) 最近の推薦図書3冊(その3)・・・Jesus,the Way(イエス-道)の立場から・・・

2015年05月29日 12時05分50秒 | 推薦図書

ブログ(97) 最近の推薦図書3冊(その3)

 

  ・・・このブログは、ブログ(96) 最近の推薦図書3冊(その2)からの続きです・・・



さて、推薦図書の2冊目、『ダメ親と呼ばれても 学年ビリの3人の子を信じて どん底家族を再生させた母の話』という本(351ページにわたる結構厚い本)と、3冊目の『幸せになるひっそりスピリチュアル作法』という本ですが、特に、私がコメントするまでもないと、想いましたので、省略させていただきます。まだの方は、ぜひ、皆様もお読みください。お薦めいたします。


ただ、桜井識子さんの本について、私なりのコメントをちょっとだけ添えておきたい・・・と想いました。桜井識子さんの場合、特殊な能力をお持ちのようなので、私が知りえない具体的な貴重な情報(神仏眷属の性質、特徴、エネルギーの質などについての情報、うまく付き合っていくための具体的なアドバイスの関する情報。唯一無二の絶対神の位置づけなど)をブログや書籍を通して提供して下さっておられますので、私にとって重要と想われる情報は積極的に役立たせてもらっております。私が、知らない情報だからといって、毛嫌いしたり、距離を置いたりするとか、軽視や無視したりするというのではなく、「へ~、そうなんだ」と認め受け入れ、想いやエネルギー的に共鳴できそうであれば積極的に関わりを持ち、必要な情報やエネルギーがあれば実際に活用してみたり、「この情報に関しては、もうちょっと独自に確かめたいな・・・」と想えば、私が現時点ですでに情報リンク(エネルギー的リンク)をしている“ハイパー宇宙ネットワークのメンバーたち”に独自の“オーリングメンター”という手法で直に詳細な情報を調べたりもします。そういうことを通して、『井の中の蛙、大海を知らず』にならないように、新たな視点で観ていったり、これまでとは違った角度から捉えてみたりなど、情報量をどんどん増やしていくよう、常に心がけているというわけです。特定の"存在"にだけ、寄りすがったり、ぶら下がったりするのではなく、いろいろな"存在"の観方、捉え方を尊重しつつ、それらの全体の総意を受け止めて、私自身が判断しで、行動したり、エネルギーを共創造したりして実際に活用したりしているというわけです。


たとえば、『幸せになるひっそりスピリチュアル作法』という桜井識子さんの本のp.27~p.30には『守護霊はいつもそばにいる』という項目があります。すると、「へ~、守護霊という存在というものが、誰にでもあるんだ」と認め、受け入れて、さっそくハイパー宇宙ネットワークのメンバー”の一員に加えて、私は毎朝、ご挨拶したり、サポートをお願いしたりするわけです。


これまで桜井識子さんが書かれた1冊目の本である『ひっそりスピリチュアルしていま』や、2冊目の本である『神社仏閣 パワースポットで神さまとコンタクトしてきました』という本も、私はもちろん購入して、興味深く読ませていただきました。その時に、読んで「ふ~ん、そうなんだ」で終わるのではなく、私の場合は、日本の神社仏閣のおられる方がどのような“存在”なのかについての桜井識子さんの具体的な説明を読んだ時に、このような“存在”とご縁を持ちたい、深く関わりたい、サポートを頂きたいな・・・と想ったら、私はオーリングメンター”を通じて、それらの“存在”に自分の方からコンタクトして、「もしよろしければ、私が現在これこれの活動を、これこれの想いを抱いてやっておりますが、もしそれにご賛同いただければ、私の“ハイパー宇宙ネットワークのメンバー”に加わっていただけないでしょうか?」とお願いしてみて、もし“OK”ということであれば「ありがとうございます。では、これから、何卒よろしくお願い致します」と。


もちろん、桜井識子さんが本やブログで情報提供して下さった“存在”だけではありませんが、こんなふうにして これまで私が様々なルートと通してご縁を持って、私のハイパー宇宙ネットワークのメンバー”に加わって下さった“存在”の総数は徐々に増えていっており、現時点で212名にもなっています。従って、毎朝、全メンバーの名前をお呼びして、ご挨拶していくと、時間にして約30~40分間はかかってしまいます。でも、毎朝かかさずやっております。


桜井識子さんも、ご自分の幸せになるひっそりスピリチュアル作法』という3冊目の本の中で、サポートの存在の数が人によって違うこと、また、桜井識子さんの場合、サポートの存在の数がだんだん増えてきていること、人助けをサポートするために人数が増えていることを書いておられますが(p.29)、私もこの箇所を読んで、「あぁ~、同じだ」と想いました。

 

おそらく、一般的なクリスチャンであれば、聖書に書いてあるような父なる神、神の子キリスト、聖霊、聖天使などは受け入れるとは想いますが、それ以外の不可視領域の存在がたとえ高次元の存在であっても、認めようとしない、受け入れようとしないのではないか。


キリスト教で教えている存在だけを正統なものとして受け入れ、たとえば、もともと日本にある神社仏閣に関わる“存在”のすべてを拒絶したり、軽視や無視したり、軽蔑したり、距離を置いたり・・・、はたして、それでいいのだろうか・・・と、私は想ってしまうのです。


キリスト教の教えだけが唯一正しくて、他のものは全て邪道、異教とみなすというのは、いかがなものか・・・と、今の私は考えているのです。もちろん、私自身、自分のこれまでの人生の3分の2においてキリスト教というか聖書に関わってきた人間です。でも、イエスの教えも最も大事な教えが山上の説教でも説かれた“さばくな”(つまり、さばかずに、すべてのことをあるがまま認めて、受け入れいく寛容という愛を実践していくこと)であることに気づいた時に、日本に現にある多くの存在の素晴らしい価値も観えてきたのです。


このような意味において、私がこのブログで書き続け、提唱している“イエス‐道”というのは、“既成の伝統的なキリスト教の教え”とは一線を画するものであると言えます。でも、このイエス‐道”というのは、もちろん、キリスト教そのものを否定するものではないと、私は想っています。譬えて言うならば、キリスト教という“学校”に見切りをつけて、そこを中退したり、退学したりするのではなく、むしろ、そのキリスト教という“学校を卒業して、さらに進学していくような感覚です。あるいは、キリスト教という“学校にずーっと留年するのではなく、そこで学んだ大切なことを胸に秘めて、広い社会に出て行って、それを活かし、実践し、応用しながら確かな人生を送っていく・・・そんな感じです。

5月28日 木曜日 23:51に更新


あるいは、会社に譬えるなら、会社員の一人である私が、トップである社長や地位の高い幹部の人たちだけに敬意を払って、それよりも下にいる会社関係者や同僚には敬意すら払わず、あたかも存在していないかのように軽視や無視したり、または、悪意を抱いたり、軽蔑したりするならどうでしょうか? 会社全体は、うまく機能していかないと想います。目に見えない世界も同様ではないか・・・・と、私には想えるのです。唯一無二の絶対神だけに敬意を払うのではなく、その下に無数にいる存在にも、同じように存在価値や意義を認めて、互いに協力し合って、それぞれの能力を出し合って、一丸となって事をなしていく・・・・というのが本来のあり方ではないかと想うのです。そのことを可能とする唯一の教えというのが、イエスが山上の説教でも説いた“さばくな”ということだと想うのです。さばかずに目を開いて(霊的覚醒)、それぞれの存在をあるがまま認め、互いに受容していく(寛容の愛)、そして、協力体制を築いて、助け合っていく・・・そのようにして、宇宙全体の調和というものを回復させながら、同時に、人もそれぞれの存在も進化成長していく。そのような生き方こそが、トップである唯一無二の絶対神は、お喜びになられるのではないか・・・と、想うわけです。

5月29日金曜日 12:05に更新)  ・・・・・・続く(少しずつ増補して更新していきます)・・・・・・

 

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ブログ(96) 最近の推薦図書3冊(その2)・・・Jesus,the Way(イエス-道)の立場から・・・

2015年05月27日 21時21分29秒 | 推薦図書

 ブログ(96) 最近の推薦図書3冊(その2)    

    これは ブログ(95) 最近の推薦図書3冊(その1)からの続きです


さて、ムラキテルミさんの話に戻りますが、彼女が肝臓ガンになった原因は大量の抗生物質であったかも知れないが、もう一つ絶対的な原因が自分の中にあった「怒り」であったことに気づいたそうですp.117を参照)。彼女は、「怒り」の大きな代償が「ガン」と「余命宣告」であったとも書いておられます(p.120を参照)。


ムラキテルミさんのこのような気づきというのは、凄いと私は想います。でも、この気づきだけで終わるのではなく、さらに彼女がその後、何を実践していったかに、特に注目していただきたいと想うのです。


ムラキテルミさんが、その時に手に取った聖書の開くページページに、不思議なことに“許せ許せ”と出てきたというのです。そして、彼女は「怒り」を抱えて死んでも仕様がない・・・と諦めの気持ちで、“全てを許す”と自分に宣言したというのです(p.118を参照)。「許す」と心が緩み、心地よく感じ、さらに「怒り」の対象であった人や出来事を思い出しても、腹が立たないし、気にも障らないというような境地まで達したようです。たとえ、「怒り」を感じるようなことが起っても、「許す許す」と、呪文のように唱えることが習慣となり、彼女の人生から「怒り」が消えていったとも記しています(p.119を参照)。


そうなんです、ムラキテルミさんが日々実践していったことというのは、全てを許す”ということだったのです。それまでの彼女の人生の中でやってきていなかったことであった、徹底的に許していくことということを自分の生き方として取り込んで確実に実践していったというのです。


ここでいう「全てを許していく」ということ、これこそがイエスが教えたかった『人としての生き方のコツ』ではないか・・・と私は想っているのです。イエスは山上の説教において「さばくな」と説きました。つまり、“さばくことなく、ゆるしていく、あるがままに認めて、包み込むようにして受け入れていく”ということです。これこそが、イエスが教えた“愛する”ということの中身ではないかと想います。イエスが教えた、いわゆる『主の祈り』の中で最も重要なことは、このような“ゆるすという愛”ではないか・・・と、私も以前のブログ(2014年06月23日)で度々書きました。   アナと雪の女王の歌詞を読み解く(15) “時を超える祈り”-その2 などを参照してみて下さい。


他にも、クリスチャンであるムラキテルミさんが気づいた重要なことがあります。それは、「二元性のシステムという呪縛」に関することです。


これはどういうことなのでしょうか? ムラキテルミさんの言葉を引用しておきます。


「私たちは『二元性』の中で暮らしています。・・・・・二元性のシステムは、『憎しみ』を覚えれば、『愛』を学ばされ、『悪』に対して、『善』を。『争』えば、『平和』を求め、『疑い』と『信頼』は、お対。『絶望』すれば、『希望』に救われ、『光』を求めれば、必ず『闇』がセットで付いてくる。『暗闇』がないと『光』は存在出来ないからです。『プラス』には『マイナス』が、『ポジティブ』には『ネガティブ』が、お伴で付いてきてしまうのです。『良い』と判断すれば、『悪い』ものが生まれてしまう。自分が判断した『良い』を、他人にも同意を求め、自分の信念を守らなくてはならなくなる。そうやって、自分で自分をどんどん縛っていってしまうことになります。」(p.120~121


私も、実は、この二元性に関して、以前のブログ(2013年03月09日でも触れたことがあります。   イエスはいったい何を教えたかったのか?(15) 『“さばくこと”のルーツ』 改訂更新版を参照してみて下さい。


私が想像するのです、おそらく聖書の神を信じるクリスチャンたちの多くは、このような二元性のシステムという呪縛」があることすら気づいていないのではないかと・・・。むしろ、まじめなクリスチャンほど、二元性という固定観念の縛られているのではないか・・・と。なぜなら、聖書には、二元性のシステムに関連した聖句があまりにも溢れているからです。『善』 vs 『悪』、『光』 vs 『闇』、『祝福』 vs 『呪い』、『希望』 vs 『失望』、『信仰』 vs 『不信仰』、『平安』 vs 『不安』、『義』 vs 『罪』、『幸(さいわい)』 vs 『災(わざわい)』・・・・などなど、挙げたらきりがありません。二元性に囚われ、縛られ、そのような固定観念によって洗脳されている限り、イエスのうちにある“真の救い”を見い出すことは難しいのではないか・・・と想うのです。イエスが説いた“救い”というのは、実に、二元性のシステム(あるいは、固定観念)という呪縛」からの救いにあるのではないか・・・とさえ私は考えているのです。


旧約聖書のヨブ記に登場するヨブという人は、本人も気づかずに、この世に存在している二元性のシステム(=善・悪という固定観念)という呪縛」に囚われていたために試練の中で苦しむことになり、また、試練から解放されるまで時間がかかったのではないか・・・と、私は想っているのです(ヨブ記1章1節、2章3節を参照)。


それでは、このような二元性のシステムという呪縛から、どうやったら逃れることが出来るのでしょうか? ムラキテルミさんも、この本の中で、このような問いかけをしておられます(p.121を参照)。  そして、ムラキテルミさん自身は、一体、どのような答え(=コツ、秘訣、奥義)を見い出したというのでしょうか? それはとても難しいことなのでしょうか? この点に関して、私もとても興味津々です。

5月26日 火曜日 21:55に更新


ムラキテルミさんは言います、「コツは至って簡単、至極シンプルでした」(p.122)と。


真理は、とても簡単で、単純なことだというのです。彼女は次のように説明を続けます。


「『プラス』でも『マイナス』でもない。『ポジティブ』でも『ネガティブ』でもない。『ゼロ』の状態が、『幸せ』の至極でした。『ゼロ』とは、『零』=『霊』を表し、『ゼロ』は『空』を表し、『空』は『宇宙のエネルギー』を表します。『光』や『愛』も、うんと振り幅の小さな、細やか波動です。宇宙は、エネルギーが共鳴したものを受け取れるシステムになっています。感情の起伏や、心の状態が、『ゼロ』に近ければ近いほど、宇宙の流れに乗れるのです。宇宙の流れに乗る、キーワードは『ゼロ』です。」(p.122~p.123


まさに、ムラキテルミさんがここで言いたい内容というのは、私が5年前に書いたブログで述べていたことと同じものではないか・・・と想います。以下のブログは、公開をずーっとしばらく中止にしていたものですが、今回、参考までに・・・と想い、閲覧できるように復活させ、非公開→公開にしておきました。

 


さらに、ムラキテルミさんは、本の中で以下のように記しておられます。これも、とても興味深い説明であると、私は想います。


「すべてのはじまりは『ゼロ』から。無限の広がりのスタートも『ゼロ』から。陰陽でいう『中庸』。・・・『ゼロ』ほどパワフルな状態はない! そう気づいて以来、感情をニュートラルな状態に保つべく自分を見張っていました。まあ、どれだけ、日々、批判し、裁き、疑い、執着し、思い込んでいることか。我ながら呆れ果てました。・・・・・常にこうあるべきだ、とか、こうでなくてはならないと、確証と確実性を求め、自分で自分の心を縛りつけていたのです。不確実性は、無限の可能性を秘めていました。確実を求めることで安心感を得られると思っていました。確実性を求めると、思いもかけないことが起こる可能性が妨げられてしまいます。・・・・・もしかしたら、確実なことはないかもの気づきが人生を軽やかにしてくれました。・・・どんな結果であれ、最善であると、と思えるようになれたのです。すべての執着を手放すと、心の自由が手に入ります。時間にも追われず、空間にも何にも縛られない。・・・・・良いとか悪い、最善や最悪、最強・最弱という二極を超えた世界に足を突っ込むことが出来るようです(p.155~p.158)。


地球に生きるあなたの使命』という本を観る限り、今引用した中にあるような発見・気づきこそがムラキテルミさんの貴重で、かけがえのない真理(メッセージ)”ではないかと、私は捉えているのです。聖書をずーっと学んでいても、なかなか見えてこない“地中に埋もれた宝のような真理というのは、実は、ムラキテルミさんの表現を借りて言えば、『ゼロ』であり、『中庸』であり、『ニュートラルな状態』、『二極を超えた世界に足を突っ込むことではないか・・・と、私は観ているのです。


私も、“相対軸”(二極の分極した世界観、善・悪、好き・嫌い、損・得などといった相対的なとらえ方や固定観念でさばくということ)と“時間軸”(過去・現在・未来という時の流れ)とが交叉する点を『絶対ゼロ座標点』(“今この瞬間”を生きていくという絶対的世界観、一切をさばかずにあるがまま観て、認め、受け入れていく生き方)と呼んで、このポイントに自分の軸足を置いて生きていくこその重要性を以前のブログでも書いてきたわけです。


イエスが教えたかった最も大事な教えというのは、このことではないのか・・・と、私は観ているのです。


イエスを神の子、救い主であると単に“信じれば”、あなたは永遠に救われるとか、天国に入れるとか・・・、そういうことではないのではないか・・・と、私は想うのです。もちろん、私は、キリスト教が教えている“信仰”自体を、私は軽視したり、無視したり、否定したりしているわけではありません。

聖書が教えている“信仰”というのは、“心の目(霊的な目)”です(コリント人への第2の手紙3章15節~18節、同4章3節~4節、同4章18節、マタイによる福音書6章21節~23節、ヘブル人への手紙11章27節、エペソ人への手紙1章17節~18節、ヨハネによる福音書9章35節~41節を参照)。たとえ、自分には“信仰”があると思ったり、自分の“信仰”を表明したりしても、もし信仰という霊的な目が何かに覆われ、ブロックされていて、実際にハッキリと見えていないとすれば、その人の“信仰”は虚しいわけです。つまり、“本当の信仰”ではなくて、盲信ということになってしまうのです。


そのような“信仰”が正しく機能していくために必要なことがあります。それは、その人の“信仰という目”がハッキリと見えるようなるということです。この重要性について、イエスは、山上の説教の中で次のように明確に説かれたのでした。


「まず自分の目から取りのけるがよいそうすれば、はっきりと見えるようになって、・・・」(マタイによる福音書7章5節


自分の信仰という目から“”(=覆い、ブロック)を取りのけるということを可能とするのが、イエスが教えた「さばくな」の実践にあるというのです(マタイによる福音書7章1章)。人が“さばくこと”を徹底的にやめていく時に、つまり、相対的なモノサシで測って“さばくこと”をやめ、すべてのことをさばくことなく(人をさばかず、自分をもさばかず、物事や事象や現象や置かれた環境をもさばかず)、あるがまま観て、認めて、包み込むように受容していく時に、信仰という目を覆っていた“”が崩壊し、取り除かれていくというわけです。このことが最も大切なことなのであって、これが目を覚ますということ(マタイによる福音書24章42節、同25章13節を参照)、すなわち、霊的覚醒を意味するのです。


このように、“さばかないこと”の実践をひたすら続けて、身につくようになると、ムラキテルミさんの言葉を借りて言えば、その人はやがて二極を超えた世界』に確実に突入していくのです。これこそが、イエスが教えたいと想っておられる“信仰の世界”、すなわち、“信仰という霊眼によってしか見ることのできない世界なのではないか・・・と、私は観るのです。


5月27日 水曜日 21:21に更新)  

・・・・・・ブログ(97) 最近の推薦図書3冊(その3)続く(少しずつ増補して更新していきます)・・・・・・


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ブログ(95) 最近の推薦図書3冊(その1)・・・Jesus,the Way(イエス-道)の立場から・・・

2015年05月25日 23時55分13秒 | 推薦図書

ブログ(95) 最近の推薦図書3冊(その1)・・・Jesus,the Way(イエス-道)の立場から・・・

 

 

ブログの更新が途絶えてしまって、久しくなります。3か月間くらいのブランクがあります。

その間、閲覧のために当ブログをしばしば訪れて下さっておられた方々、本当にありがとうございます。


さて、最近、実際に購入して読んでみて、私の心をとらえた本、皆様にもぜひ読んでいただきたいと想った本が3冊あります。

今回のブログの中で、それらの本についてご紹介したいと想います。

 

それら三冊の本の題名は何かと申しますと、


1).『地球に生きるあなたの使命』(ムラキテルミ&木村秋則 共著、KKロングセラーズ)

2).『ダメ親と呼ばれても学年ビリの3人の子を信じて どん底家族を再生させた母の話(もう一つのビリギャル)

  (ああちゃん&さやか 共著、KADOKAWA)

3).『幸せになる ひっそり スピリチュアル』(桜井識子著、主婦と生活社)


です。

 

もしかしたら、皆さんの中にはそれらの本の何冊かをすでに読まれた方のおられるかも知れません。

あるいは、三冊すべてをもう読んだよと言われる方もおられるかも・・・。

 (2015年5月22日 夜


まず、『地球に生きるあなたの使命』(ムラキテルミ&木村秋則 共著、KKロングセラーズ)についてですが、以前のブログの中で、木村秋則さんの別の本から引用して、皆様に紹介したことがありました。従って、今回は、特にムラキテルミさんからのメッセージについて、注目してみたいと想います。


この地球に生きるあなたの使命』という本は、“驚くほど似ている二つの魂が語りかけます”という構成で、各章においてお二人のメッセージを対比させながら話が進めらていきます。


今回の私のブログでは、ムラキテルミさんからのメッセージとこれまで私がブログで語ってきたメッセージとの間で似ている幾つかの点について皆さんにお伝えしていきたいと想っています。


さて、地球に生きるあなたの使命』という本の第2章において、余命半年の肝臓ガンを医師に宣告されたムラキテルミさんは、「どうして、この私が?」と、どれだけ思い、その時に、人生の絶頂から、一気にドン底までまっ逆さまに落ちたとあります。

そして、ここからが注目すべき点なのですが、“全てを自分以外の原因にしていましたから、人生は全く好転しません。どんどん落ちぶれて行きました。生活も心も。私はクリスチャンですが、「本当に神様はいるのですか」、「いるなら、なぜ助けてくれないのですか」と、神様に文句タラタラの毎日を送っていました・・・と、ムラキテルミさんは書いておられます(p.39~40を参照)。


さて、このことに関連して、今から私自身のことについて述べてみたいと想います。もちろん、ノンフィクションです。



私におけるキリスト教との関わりについて


実は、私自身は中学生の頃に、“目に見えない世界”に関心を持ち始めました。そして、私は想い、願ったのです、もし宇宙に普遍的な法則(=真理)というものがあるなら、どうしてもそれを知りたいものだ・・・と。ここでいう“目に見えない世界”とは、私にとって、エレクトロニクスの世界であり、精神世界であり、スピリチュアルな世界ということでした。 

5月23日夜5月25日23:38に一部改訂して更新


昔々、私が中学2年生だった頃、エレクトロニクスに興味を抱き、自分で通信講座に申し込みをして、真空管で使ったラジオ受信機を部品から組み立て、空中を飛びかっている電波をアンテナでとらえ、その受信機を通してAMラジオ放送を聴いたりしました。その時の感動は今でも覚えています。その後、トランジスターを使ったFM受信機やトランシーバーも作ったりしました。ただ、トランシーバーは1台しか作らなかったので、果たしてそれが成功したかどうかは確かめることはできませんでしたが・・・。その前後、エレクトロニクス工作の本を買ったりして、パーツを売っている店を探し、そこで必要な部品を購入してから、配線図をみながら、様々なエレクトロニクスの電子機器のおもちゃなどを自作したりして、ワクワクと楽しんでいました。


私の関心事は、そのあたりから、さらにメンタルなこと、スピリチュアルなことへと発展していきました。方位学の本、手相・人相の本、西洋占星術の本、真言密教の本、ジョセフ・マーフィーの潜在意識に関連した本・・・と、いろいろと次から次へとかじっていきました。そのジョセフ・マーフィーの本の中に、信仰や祈りに関する聖書の言葉が引用されていたので、その時に初めて私は聖書の世界に触れたわけです。


大学に入学した時に、アパートの私の部屋の机の上に、私が自ら買った聖書を置いていました。時々、旧約聖書の詩編など開いて読んだいた記憶があります。それらの聖句を読んでいくと、私の心は惹きつけられていくといいますか、心が明るく照らされていくように感じたというのでしょうか、これまで私の人生の中で経験したことのない不思議な感覚を覚えたものでした。聖書には何かあるな・・・と、直観で感じ取りながらも、でも私の頭ではなかなか聖句の深い意味を理解するというところまではいきませんでした。


そんなふうに悶々としている時に、あるキリスト教会から講演会のチラシがアパートに届きました。絶妙なタイミングだったので、シメタ!と想いました。そして、確か3~5日間くらいの講演会だったと想いますが、かかさず出席しました。まあ、そんなふうにして、私はキリスト教に深く関わりを持つようになっていったというわけです。


それから25年間あまり、キリスト教(といいますか、聖書にといいますか)にかかわっていくことになるのですが、それでも、私はキリスト教(プロテスタントの教派でしたが)という宗教に埋没することなく、そこで教えられていることを鵜呑みすることなく自分で聖書で客観的を確かめて納得していくというスタンスはずーっと堅持していました。


ところで、私の生き方の特徴というのは、これは凄いというものに出会ったら、これまでのものにしがみつかず、手放していけるというところにあると言えるかも知れません。ワンランク上のものを発見したら、ワンランク下のものに対するこだわりを捨てることができるということ・・・・。これは、悪く言えばあきっぽい、長続きしないということ、目移りして他のものにすぐに飛びつくというのでしょうか。逆に、良く言えば、前を向いてひたすら進化していけるということなのでしょうか。  

 5月24日夜、5月25日23:48に改訂して更新


まぁ、そのような私ですが、大学(薬学部)1年のカリキュラムも何とか無事に終わり、やがて大学2年生になろうとしていた春休みのことです。1年間近く、キリスト教会に通い続けた私は、その教会の牧師さんから そのちょっと前からバプテスマを受けないかと勧められていました。でも、私は自ら進んでバプテスマを受けて正式にクリスチャンとなろうという気は起きませんでした。聖書の教えがまだピンときてはいなかったという実感があったというか、しっくりとはまだ理解していない自分がそこにいたからです。心の目の前にまだ濃い霧がかかっていて、よく見えていないといった感じでしょうか。


そのような状況のもとでの春休み、アパートの部屋で一人いた私は祈りながら聖書を読んでいました。開いていたところは、ヨハネによる福音書でした。その時に、私は初めて霊的な不思議な体験をしたのでした。これまではずーっと、頭で聖書の言葉を理解しようとしていた私でしたが、この時は全く違う思考プロセスで聖書の御言葉と向き合うことになったのでした。それはどういうことかと言いますと、私のはアパートの一室にあったわけですが、私の想いは2000年以上も前のイエスの時代にタイムスリップ(あるいは、リンク)してしまったかのような感覚になったのでした。“2000年という厚い時間の壁”がもろくも崩れ去って、“時間という障壁”はもはや存在していなかったという感じです。つまり、イエスが弟子たちや群衆、パリサイ人や律法学者に語りかけていたその場に、私も立って聴いているような感じというのでしょうか、イエスの口から出てくるメッセージが私の耳に直接ビンビンと入ってくるような感じだったのでした。これまで、私の心の目の前にかかっていた霧は消え去ってしまったような・・・、そんな感覚でした。つまり、イエスが2000年ほど前に、実際に人々に語っていたメッセージが、私に向かって直接 語られている生のメッセージとして響いてきたということです。イエスの口から語られるその一言、一言に、私の心は感動で震えました。イエスは、私にとって、もはや聖書という経典の中にいるだけの単なる歴史的な人物ではなくなったのでした。時を超えて生きておられる存在として、鮮明でリアルな存在として、神から遣わされ、真実の神を伝えようとされていたユニークでスペシャルな存在としてのイエスを、私は自分のすぐそばに感じ取ったというわけです。単に“知識を通して頭でイエスという方を知る”というのではなくて、肌で感じて、体感や直観によって、私には“今”疑いの余地もないくらいハッキリとわかってしまった・・・、そんな体験だったのでした。そのような体験を経て、私は一応 その春休みにバプテスマを受けました。


もちろん、そのような体験をしたからといって、私が聖書の言葉をすべて解読できるようになったということではありません。聖書のどのような箇所の意味もすべて説明できる力がついたということでもありません。それは言い換えれば、長い間、私の心の目の前にかかっていた霧が晴れて(=覆いが取り除かれて)、イエスを信じるための心の準備ができた、十分な確信が得られたということを意味しているのかも知れません。つまり、私の残された生涯で、イエスのうちにある本当に大切な真理をいずれ必ずハッキリと知ることになるであろう・・・、そのような心の準備が出来た・・・といいますか、後は時間の問題だ・・・というわけです。

5月25日23:55に更新


さて、大学の薬学部の4年間もほぼ終了し、最後の大きな作業である卒論もなんとか終えて、あと2~3週間くらいで薬剤師の国家試験の受験ということになりました。国立大学の薬学部では、私立の薬科大学とは異なり、国家試験対策というのは授業に盛り込まれていませんので、すべて自分でやらなければなりません。


私は、どちらかというと学校の勉強においてはコツコツ型ではなく、試験日が切迫してこないとエンジンがかからないというタイプなのです。早めに取りかかったとしても、なかなか試験勉強に身が入らないために勉強の効率が悪く、時間ばっかりかかるのに、頭に入らないということになってしまう傾向がありました。そのため、薬剤師の国家試験の過去の試験問題集もだいぶ前に買ってはいたのですが、ほとんど勉強はしていませんでした。私としては、卒業論文を終えてから、本腰を入れて国家試験の勉強をしようと考えていましたが、卒業論文を仕上げるのに徹夜や睡眠不足が続いてしまい、卒論が終わった後に風邪を引いてしまい、発熱もあり、1週間近く体を休めなければならず、そのため国家試験の勉強が手につかない状態になってしまいました。


風邪も治り、さて本腰を入れて、国家試験の勉強をしないと・・・と思った時には、もう1週間~10日間くらいしかなかったという記憶があります。えーっ、果たして大丈夫なのだろうか?・・・と心配している時間的な余裕すらありません。やるっきゃない・・・という、そんな感じです。自分が信じている神様のサポートもお願いしながら、とにかく国家試験の過去問題集を1ページ、また1ページとめくっていって、問題と解答を照らし合わせながら、それを少しでも記憶にとどめようと頭を飽和状態にしていく日々が続きました。朝起きてから、寝るまでずーっと、一心不乱に・・・。


実際に、薬剤師の国家試験の日になって、問題をみてみると結構、初めてみる問題だらけという感じでした。そのような時でも、心配したりせず、恐れたりせず、もうダメだとあきらめたりもせず、黙々と神様のサポートがあることを信じながら、感をフルに働かせながら、与えられた問題の一つ一つを解いていったというわけです。もちろん、知らない問題だらけなので、試験が終わった後も、客観的に自分の選んだ答えの数が合格点に達したかどうかは、通知がくるまで全くわかりませんでした。


お陰様で、後日、合格の通知がきて、その時にホッと安堵したことを覚えています。


ところで、薬剤師の国家試験の合格証書が自宅に届く前に、私は留学のためにすでに渡米していました。


実は、私が大学4年間、通っていたキリスト教会の牧師さん(すでに50歳台だったと思います)がまた異色な人で、仙台市に赴任中に赤門鍼灸柔整専門学校に通って卒業し、柔道整復師の免許も取った方で、その後、確か私が大学4年生だった頃に、公衆衛生学の修士号を取るためにアメリカに留学し、そのかたわら日系人の教会で牧師の仕事もこなしていたのでした。


私自身、腰が重い方なので自分がアメリカに留学して勉強するなんて夢想だにしていませんでした。でも、その牧師さんが私に一生懸命にできるから、大丈夫だから・・・と、アメリカに留学するように強く勧めたのでした。その牧師さんは、「男子たる者、薬に埋もれて一生を過ごすのはもったいない」と、よく言っていました。まぁ、そのような縁があって、私は重い腰を上げることになり、その気になってアメリカへと渡っていったというわけです。


その当時、教会が経営する学校の卒業生がアメリカの西海岸にある大学(同じ教派の本部のあるアメリカの教会が経営)に留学して、医者や歯医者になる勉強をしている学生が多くいました。


私は、アメリカに渡って最初の1年間を英語に慣れるために費やし、その後どうするかについては、3つの選択肢を持っていました。メディカルドクター(=医者;M.D.)をめざすか、デンチスト(歯医者;D.D.S.)をめざすか、ドクター・オブ・カイロプラクティック(D.C.)をめざすか・・・の3つです。最終的に、私は薬を一切使わないで治す治療ということでカイロプラクティックドクターの道を選び、そのための専門のカレッジに入学することになりました。(例の牧師さんも、日本にいる頃からカイロプラクティックを本場のアメリカで勉強しないかと、私に勧めたりもしていましたが・・・。)


アメリカでのカイロプラクティックの勉学を終えて、日本に帰国して、初めの10年間程はカイロプラクティックを生業とし、その後は、薬剤師の仕事を生業の中心にシフトして、カイロプラクティックはその合間にたまにやっているというのが現在の状況です。


ところで、話が前後して申し訳ありませんが、私がアメリカに渡る前から、とても気になっていたのが、旧約聖書の中にあるヨブ記でした。ここには何かあるな・・・と。ヨブ記は難解な書と一般に言われていますが、解明すべき大切な真理が隠されていることを私は肌で感じ取っていて、そのヨブ記の奥義を個人的に解き明かすということが私の課題の1つでもありました。アメリカに滞在中も、もちろん、その解き明かしを試みましたが、本格的な解明は、今から2~3年目くらい前でしょうか。その時にわかったことが、現在の『イエス‐道』という私のブログにも脈々と流れているというわけなのです。今だからこそ言えることは、ヨブ記の奥義がわかれば、イエスの山上の説教の核心的な霊的な教えを解読することができるということ、逆も真なりで、イエス山上の説教の教えの真意がわかれば、ヨブ記も容易に解読することができるということです。


以上が、まずは序論といいますか、バックグラウンドというものです。これから本論に入っていこうと想います。 5月25日23:17に更新

  ・・・・・・ブログ(96)最近の推薦図書3冊(その2)に続く(少しずつ増補して更新していきます)・・・・・・


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イエスはいったい何を教えたかったのか?(35)『当ブログの推薦図書』パート8〓8月14日水曜日19:01更新〓

2013年08月14日 19時01分24秒 | 推薦図書

 この内容は、ブログ(35)パート7から続いています・・・

 

天にいますわが父の御旨”のままに生きる、あるいは、『ヒトのナビゲーションシステム』にナビゲートされながら生きるということは、寛容に生きるということです。では、寛容に生きるとは、一体、どういう生き方をすることなのでしょうか? 

 

それは、何よりもまず自分自身に対して寛容な想いをかけていくということです。これが大切です。もちろん、寛容な想いをかけていくということは、甘やかすこととは意味が違います。

 

自分に対して寛容の想いをかけていくことというのは、ありのままの自分をそのまま認めた上で、その認めたこと(弱さ、欠点、醜さ、見劣りする点なども全てを含めて)善悪の固定観念や好き嫌いの尺度でさばくことを一切しないで、その全てを包み込むように受容していくことを意味します。どのような自分であっても、どのような状況に置かれた自分であっても、自分を責めたり、嫌ったりせずに、自分のあるがままを観て、愛おしんでいくのです、大切に大切にしていくのです、自分に対して限りなく優しくしていくのです。イエスが教えたように天の父がそのように宇宙のように広い寛容な方であるゆえ、私たちもそのような寛容さをもって自分自身を愛し、愛し尽くしていくのです。たとえ自分を理解してくれる人が誰もいなくても、自分が自分自身の理解者になっていくのです。たとえ誰一人、自分を愛してくれる人がいないと感じたとしても、自分で自分を最高に愛し、いたわっていくのです。あるがままの自分を認めながらも、それを丸ごとそのまま包み込んでいって、やさしく愛を注ぎ続けていくのです。そのように自分自身を広い寛容な想いでしっかりと受け留め、寛容な想いをかけ続けていく時に、やがて、自分の想いは神の想いと調和していくようになり、神からの清浄なエネルギーが自然に流入するようになって、自分の魂が光り輝き始めるようになるのです。内なる光が輝き出すのです。

 

ところで、イエスは人の心から出てくる悪い思いというのは、人を汚すと言われました。「悪い思い・・・は、心の中から出てくるのであって、これらのものが人を汚すのである。」(マタイによる福音書15章19~20節)  

 

それとは反対に、人が心に抱く寛容な想いというのは、自分に向けられるならば自分を清めるのであり、もし他者に寛容な想いを向けられるなら他者を清めることになるのです。なぜなら、寛容な想いというのは、宇宙の神と調和・共鳴する想いなので、そこから清める澄んだ透明なエネルギーが自然とその人の内に流れ込んでくるからです。



さて、自分自身に対して十分に寛容になれた時、その次に進むべきステージとして、自分自身に向けられたその寛容の想いを、今度は自分の回りの人々にも同様に向けていけばいいのです。自分に対して寛容であるように、回りの人々に対しても同様に寛容になっていく・・・、これが、実に、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛しなさい』ということであり、これこそがイエスの視点からみた神の律法の真髄なのです。このようにして生きていくということが、愛に生きるということなのであり、神の御旨と調和した生き方になってくるわけです。言い換えれば、このような寛容な想いをもって自分の人生を生きることが、すなわち、『ヒトのナビゲーションシステムにナビゲートされて(=導かれて)生きるということを意味している。こんなふうに、私は観ています。

 

このように寛容な想いをもつことの重要性をイエスは、聖書の随所で語られています。

弟子のペテロがイエスのもとに、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」と質問された時に、イエスはペテロに、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい」と言われて、一つの譬を語られました。天国は王が僕(しもべ)たちと決算をするようなものという譬です。決算が始まった時に、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきました。でも、返済することが出来なかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じました。すると、この僕は主人の前にひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。でも、多額のその負債を返済することは無理だと承知していた僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやったのでした。主人に自分の負債をすべて帳消してもらったこの僕は、その場を出て行きました。さて、外に出てみると、なんとこの僕が以前百デナリを貸しているひとりの仲間に出会いました。その時に、この僕はどうしたのでしょう? その仲間をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言ったのでした。そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだのですが、この僕は承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れてしまったというのです。その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話しました。そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。そして、主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたしたというのです。

この譬の締めくくりとして、イエスは、「あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」と言われました(マタイによる福音書18章21~35節を参照)。

 

人をあわれむこと、人をゆるすということは、寛容な想いをもって人のあるがままを認めて、受容していくことを意味します。それは、もし反省したら受け入れるということではないのです。もし悔い改めたら、受け入れるということでもないのです。自らの罪を認め、謝罪したら受け入れるということでもないのです。たとえその人が何も変わっていなくても、現状のままのその人を無条件に受け入れていくのが、イエスがいう寛容という愛なのです。敵をも愛するというような寛容を、良い者も悪い者も分け隔てをすることのない寛容をイエスは山上の説教で教えているのです(マタイによる福音書5章43~48節を参照)。

 

人を進化・成長・次元上昇させていく上で欠くことのできない『ヒトのナビゲーションシステム』の最も重要な要素というのは、このような“容という想い”ではないかな・・・と、私は観ています。人が確固としたヒトになっていく上でなくてはならないもの、それが“容という名の愛”ではないかと思うのです。

 

以下は、使徒パウロの有名な言葉です。

「たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もしがなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。
たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もしがなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もしがなければ、いっさいは無益である。寛容でありは情深い。また、ねたむことをしない。は高ぶらない、誇らない。
不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望とと、この三つであるこのうちで最も大いなるものは、である。」(コリント人への第1の手紙13章1~13節

 

愛は、寛容なのです。いつまでも存続し、かつ、最も大いなるもの、それが寛容という愛なのです。この寛容を標準装備した『ヒトの心のナビゲーションシステム』がしっかりと機能して、それによって、人の想いがナビゲートされていくならば、かの日に天国のゲートの前で『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』マタイによる福音書7章21~23節)と、主イエスに言われることは決してないはずです。なぜなら、寛容の想いで自分の人生を生き抜いていった人は、主イエス天の父にも「完全に知られている」からです。そして、また寛容の想いによって、心がナビゲートされて生きていった人たちは、主イエス天の父を「完全に知る」ことにもなるのです。人が抱く寛容の想いは、主イエス天の父にある寛容の想いと調和し、共鳴するからです。この寛容の想いこそが、人の心と“主イエス天の父の心”とを一つに結び付けるものだからです。(このことが理解できると、使徒パウロの書簡であるコリント人への第1の手紙2章の意味が自ずとわかってまいります。) 

 

一方、このような寛容の想いを持たずに、ただ“さばいて”ばかりいる生き方をしている人たちの心というのは、主イエス天の父の心からいつも遠く離れているのです。

「偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう適切な預言をしている、『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。』・・・」(マタイによる福音書15章7~8節

彼らは神を知っていると、口では言うが、行いではそれを否定している。彼らは忌まわしい者、また不従順な者であって、いっさいの良いわざに関しては、失格者である。」(テトスの手紙1章16節(⇒さらに、マタイによる福音書7章21~23節を参照

 8月9日[金] に更新)→ 8月10日[土] 19:06に増補更新)→ 8月14日[水] 19:01に一部改訂更新)

・・・この内容は、ブログ(35)パート9に続いていますよ・・・  

 

 ブログ(35)パート1 ブログ(35)パート2 ブログ(35)パート3 ブログ(35)パート4 ブログ(35)パート5 ブログ(35)パート6

 ブログ(35)パート7

 

 (適宜、ブログの内容を訂正したり、改訂したり、増補したりして、更新することがありますので、ご了承を・・・)

 

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イエスはいったい何を教えたかったのか?(35)『当ブログの推薦図書』パート7〓8月8日木曜日 更新〓

2013年08月08日 23時25分49秒 | 推薦図書

・・・この内容は、ブログ(35)パート6からの続きです・・・

ところで、このブログ(35)のパート2では、岡本茂樹氏が絶対に言ってはいけないこととして“正論”“説諭”をあげていることを紹介しました。相手の考えを間違いだと決めつけたり、相手がやったことを悪いことだとレッテルを貼って叱ったりして、相手を無理やり変えようとすると、その後、その人は二度と本音を話さなくなったり、心を閉ざしたり、面従腹背の態度になったりして、ピンチがチャンスとならず、さらなるピンチを招いておそれがあり、相手との関係をも悪化させてしまう“言葉の凶器”となり得ることを指摘しておられました(『反省させると犯罪者になります』のp187~188を参照)。

このような“正論”や“説諭”という“言葉の凶器”が、実は、イエスの山上の説教の中でのメッセージである“人をさばくな”ということの反対である『人をさばく』という行為にあたります。そのような行為に背後には、必ずといっていいほど善悪の固定観念が隠されているものです。すなわち、『私は絶対正しくて善であり、あなたが明らかに間違っている、あなたが絶対悪い』という善悪の固定観念に囚われ、とりつかれているために、相手を批判したり、非難したりできるわけです。ここでは、相手をあるがまま受け入れようとする寛容の想いは働いておらず、むしろ、排他的な想い軽蔑の想い怒りや憎しみの想いなどが“さばく人”の心の中で渦巻いているのです。“私のアドバイスや勧告の通りに相手がもし変わったら受け入れよう、愛してあげよう”という条件付きの受容なのです。それは、イエスが説かれている“寛容”という想いに根ざした生き方から、もはや外れてしまっているのです。

イエスは山上の説教において、「天の父は良い者にだけに太陽をのぼらせ、正しい者にだけに雨を降らして下さる」とは言われなかったのです。イエスは、「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さる」(マタイによる福音書5章45節)と言われたのでした。そして、続けてイエスは、「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイによる福音書5章48節)と言われました。善い者も悪い者も分け隔てをすることなく、あるがまま受け入れて愛してくださる“寛容の愛”こそが天の父の属性そのものであることをイエスは言いたかったのではないか・・・と私は観ています。

ここにおけるポイントというのは、『寛容』ということです。自分が好きな人、自分にとってメリットがある人、自分を慕ってくれる人、自分を愛してくれる人だけを受け入れ、逆に、嫌いな人や自分にとって何のメリットもない人や目障りな人を拒絶してしまうというのは、“さばくという生き方”と言えます。寛容に生きるとは、自分の好き嫌い、自分の損得勘定、善悪の固定概念を超えて、すべての存在をあるがまま認めて、自分と違うような考えを持っていたとしても、それをむげに拒絶することなく、むしろ敬意を払って、それはそれとして認めて受け入れようとしていく生き方を意味しています。そして、このような生き方こそが、地球人類のこれからの意識の進化・成長のために、次のステージである新しい世界を築いていく上でも、とても大切な要素のなってくるのではないか・・・と思います。『寛容』という要素を「ヒトのナビゲーションシステム」の中にキチンと組み込んでいくことが、人類が正しい方向へと迷わずに、着実に進んでいくことにおいて、とても重要なポイントになってくるのではないかと、私は観ています。(8月1日 木 更新→8月2日 金 改訂更新

*      *      *      *      *      *

ところで、さばいている状態というのは、その人の“心の目”にがあって(マタイによる福音書7章1~5節を参照)、それによって視界が妨げられている状態です。そのため、見えるはずのものが見えていない。つまり、本質的なものが見えていない。そのために、さばいている人は、かなり本質からズレた観かた、考え方、捉え方をしてしまっている。それがさばいている人の特徴と言えましょう。このというのは、岡本茂樹氏の言葉を借りると、その人の心に刷り込まれた誤った考えや価値観ということもできると思います。

また、さばいている人というのは、自分が持っている知識がすべてであるかのような錯覚をしているために、自分の考えを押し通して、物事を決めつけたり、自分は絶対間違いないと断定したり、思い込みが強くなっているものです。まさに、“井の中の蛙、大海を知らず”の世界にどっぷりと浸かって生きていると言えます。そして、“井の中の蛙、大海を知らず”の狭小な知識の世界に長く住んでいると、心はだんだんと“かたくな”(=心が硬化してしまうこと)になっていきます。

「あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、・・・」(ヘブル人への手紙3章13節

「彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ、自ら無感覚になって、・・・」(エペソ人への手紙4章18~19節

そのような人に限って、自分と違っている“他人の考えや価値観”を受容することができないので、“それは間違っている、悪い考え方だ”などと否定したり、拒否したり、非難や攻撃をしたりしようとする傾向を持っています。自分と相いれない考えを持っている人を憎んだり、軽蔑したり、馬鹿にしたり、苛立ったり、怒ったりすることもあるのです。

 
寛容に生きる人というのは、さばきに生きている人とは異なり、心を絶えず柔軟な状態に保って、自分の今の考えを絶対的だと思わず、今の自分はこのように思うが、もしかしたら実際はそうでないかも知れない…と、ゆとりを持った考え方をしていくのです。とりあえず、自分は今はこう思うので、まずはやってみて、もし違っていることが分かったら後から軌道修正すればいい…と、柔軟に考えていくのです。他人の考え方が、たとえ自分のものと違っていても、それを頭から否定することなく、そういうふうな考え方もあるんだ…と認めて、自分と違う様々な考えをも取り込みつつ、前へ前へと進んでいくわけです。また、自分が現在持ちあわせている知識だけを根拠に、物事を決めつけたり、レッテルを貼ったりせず、断定したりもしないのです。何か判断したりするような場合には、もしかしたらこれはこういうことかな…というふうに、一時的に自分なりに仮説を立て、実際にそれをやってみて その仮説が有効かどうか、確かなものかどうかを時間をかけて検証していこうとする姿勢をもっているのです。そうやって、“経験知”を増やしていく生き方をしていくのです。そして、常に物事を色々な視点から、様々な次元から観るという習慣を養っていくのです。これが寛容に生きるということではないか・・・というふうに私は理解しています。 (8月2日 金 更新→8月3日 土 一部改訂更新)  

*      *      *      *      *      *

さて、これまで「ヒトのナビゲーションシステム」に標準装備すべきものは、『寛容』であるということを述べてまいりました。では、『寛容』以外には、どのようなものを標準装備する必要があると、皆さんは思われますか?

それは『自立』ではないかと、私は観ています。つまり、“依存”ということではなくて、“自立”ではないか・・・ということなのです。これまでの人類歴史上で、長い期間にわたって神と人との関係や関わり方というのは、どちらかというと“依存関係”にありました。言い換えれば、神が人を支配し、人は神に依存していくというような関係と言えます。つまり、人が神を信じるということは、人が神に依存していくという意味合いが濃厚だったわけです。 ところで、使徒ペテロは、以下のように記しています。

「あなたがたは、このキリストによって、彼を死人の中からよみがえらせて、栄光をお与えになった神を信じる者となったのであり、したがって、あなたがたの信仰と望みとは、神にかかっているのである。」(ペテロ第1の手紙1章21節

この聖句は、明らかに信仰によって人が神に依存していることを示しているものではないかと、私は観ています。

 

ところで、私の個人的なことを話します。今から5年くらいも前のことでしたでしょうか。Sさん(男性)とご縁があって--Sさんも私と同様に治療家なのですが――、Sさんが自分の体をエネルギー調整の治療してもらいたいということで、私にコンタクトをとって、それから1~2年間にわたって、だいたい週に1回程度のペースで来られ、私はSさんを治療しながら、それはそれは次元のレベルの高いお話をSさんからいろいろと聞く機会があったのでした。何でそのようなことまで知っているの??と思うくらい、私の知らない世界やエネルギーの世界、次元の話、創造についてなど、毎回数時間にわたって“集中講義”を受けていたような感じでした。すぐには私もついていけないような内容も多くあり、それらを忘れないように自分の心にとめて置こうと私は精一杯でした。エネルギー治療をやってきて、多少はエネルギーの知識はあったのですが、Sさんは私の知らないエネルギーの世界についてさらに詳細な情報を持っておられました。ある程度の月日が経ってから、あの時にSさんが話していたことはこういうことだったのかと分かってくることがしばしばでした。

世の中には、常識を超えた能力を持っておられる方がいるものです。明らかにSさんは、私が到底及びもしないような超感覚的な能力を生まれつき持っておられたのでした。通常レベルの人間が見えないものが見えたり、聞こえたり、会話したりもできるのでした。たとえば、神社に行けばそこで祀られている存在と会話ができたり、亡くなってこの世にまだ留まっている方も見え、会話をすることはもちろん、天使や神という存在も見えたり、会話したりすることも出来るのでした。

これまで書籍からの情報やイマジネーションとして観念的に私が理解していた目に見えない世界の存在を、実にリアルに見たり、またコミュニケーションをはかることにできる人間もいるんだということが分かったわけです。おそらく私が一生かかっても学ぶことのできないであろう情報、ハイレベルの情報に触れる機会が私の人生の時の一部として与えられたのでした。Sさんと関わることで、私も様々な体験も致しました。そして、やがて、Sさんは「出逢いの時があれば、別れの時がある」と言って、私のもとを去って行かれたのでした。

私は短期間でありましたが、Sさんから実に多くのことを学ばせて頂きました。また、多くのことに気づかせて頂きました。Sさんは、決して先に答えを言いませんでした。Sさんは時々、私に質問を投げかけました。そして、時間をかけて、私は頭をひねってしばらく考えて、答えたわけです。Sさんに遭った当時の私の頭はかたかったようで、Sさんは私に頭をもっとやわらかくして考えてみて・・・とよく言われました。

ところで、このSさんは、人の心の中の情報を読み取ることもできました。そして、Sさんが幾たびか私にあることを指摘されたことがありました。それは、私が“メシヤ依存症”になっているということでした。私は長年にわたって聖書を研究し、イエスにある体験などもしており、私の人生において聖書の中の“イエスという存在”と深い関わりをもってきたわけですが、そのような私が“メシヤ依存症”に陥っていることをズバリ指摘されたのでした。そのように言われた当初は、ピンとはきませんでしたが、でも私は心に留めておきました。やがて時間が経つにつれて、その意味がだんだん分かり始めてきました。ところで、Sさんがしばしば口にしておられたことの中に、“確固とした人間”になること・・・がありました。何かに依存している限り、人は“確固とした人間”になることはできないもの・・・。“確固とした人間”になること、それは“自立した人間”になることを意味していると思います。依存している限り、人の心は何かと不安定になりやすいのです。揺れ動く波の如く(ヤコブの手紙1章6節を参照)、変動が激しすぎるのです。ちょっとしたことで、心が動揺しやすいものなのです。何か問題があれば、すぐに自分以外のせいに、つまり、環境のせいにしたり、他人に責任転嫁したりするという弱さを露呈してしまうのです。そして、人は“依存症”に陥っている時に、自分の本領(本来の能力)を発揮することは出来なくなります。

イエスや神という存在を信じるということは、従来の考え方からすると、それらに寄り頼む、すがっていく、言い換えればそれは、“依存する”というような意味合いがあったと思うのです。それは、もちろん、間違っていることでも、悪いことでもないと思います。やはり、一つの過程としては、人は通常そこを通るものだと思います。親子関係においても、それが当てはまります。人は生まれてから、一定期間はどうしても親に“依存”して育っていかざるを得ないものだからです。でも、親への依存が一生涯にわたって続くとどうなるでしょうか? 人は大人になり切れず、一人立ちができなくなってしまいます。それはまさに“病的”と言わざるを得ません。人が“イエスや神という存在”と関わる場合においても、同様なことが言えるのではないでしょうか?

私が思うに、依存症に陥っている人というのは、信仰はまだ十分に確立されていないのであり、イエスが山上の説教の中で語られたような“信仰の薄い者たち”(マタイによる福音書6章30節)に分類されるのではないか?  

では依存症から脱却して“自立”へと進んでいった時に、人と“イエスや神という存在”との関わりは一体どのようになっていくのでしょうか? “自立”していった時に、人は“イエスや神という存在”に背を向けて生きていくことなのでしょうか? あるいは、神に敵対して生きる道を選ぶことになるのでしょうか? そういうことではないと、私は思います。 “イエスや神という存在”と人との間の従来の依存的な関係を解消し、お互いの存在の特性や能力や立場や役割の違いを認め、受け入れつつ、イエスや神の想いと共鳴しつつ、イエスや神という高次元の存在を自分の肉体に宿しつつ、共に働いて、次のステージの新しい世界を創造していくという、“共創造”の働きに積極的に関わっていくことになるのではないかと思います。

そして、ここでいう“自立”というのは、もちろん、自分だけがよければそれでいいというような身勝手な生き方なのではなく、人それぞれが自分が本来持っている能力を独自に発揮しつつ、互いの弱いところは補い合いつつ、助け合いつつ、協力し合いつつ、全体として調和を保ちつつ、さらに互いに進化と成長を遂げていくという生き方になっていくと思うのです(コリント人への第1の手紙12章18節~27節を参照)。

これからの地球人類が新しい世界への突破口を開いていくための進化・成長を遂げるために、“依存症”から脱却して、“自立した人間”になっていくことがますます重要になってくるのではないか・・・と思うのです。従って、『人類進化ためのヒトのナビゲーションシステム』の中に標準装備として組み込まれるべき二点目のものというのは、“自立”ではないか、そして、三点目というのは、やはり“共創造”という概念ではないかと、私は観ているのです。  (8月3日 土 更新 → 8月7日 水 に一部改訂更新)

 *      *      *      *      *      *

ところで、イエスは山上の説教の最後に、次のように語られました。

「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」 マタイによる福音書7章21~23節

“主イエスは私の救い主である”と信仰を表明し、かつ、イエスの名によって数々の目覚ましい働きを実際にやってきたはずの多くの者が、イエスに“あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ”と言われてしまうというのです。何という悲劇なのでしょう。なんて、悲しいことなのでしょう。

そのようになってしまう理由、それは“天にいますわが父の御旨”に反しているから・・・というのです。たとえ、イエスのことを聖書を学んで知っていたとしても、また“私はイエスを救い主として信じている”と告白していたとしても、もし“天にいますわが父の御旨”に反した生き方しているなら、その人はイエスに知られていないと言えます、イエスと親しい間柄であるとは言えないのです。これまで、自分の生涯の大半をかけてイエスを信じてきたと思っていたとしても、もし最後の場面でイエスに「あなたがたを全く知らない」と言われる程、ショックで悲しいことはないのではないでしょうか? 

天にいますわが父の御旨”を行なっていなかった者は、言い換えれば、『ヒトのナビゲーションシステム』を持っていなかった、あるいは、それが機能していなかったために、その人の生き方がそれによってナビゲートされてこなかったというわけです。

イエスがかつて地上でやってきたわざを単に模倣することによっては、天国のゲート(門)を通過することは不可能なわけです。天にいますわが父の御旨”が組み込まれた『ヒトのナビゲーションシステム』にナビゲートされない限り(=導かれない限り)、天国のゲートは開かれないのです。

山上の説教においてイエスは、天にいますわが父の御旨”の重要なポイントを語っておられたのでした。その中心ポイントというのは、“さばくな”であることをこれまで繰り返し繰り返し、当ブログで述べてきました。この“さばくな”とは、“寛容であれ”ということです。天国から締め出されることになる“信仰者たち”というのは、自分が“イエスが行なってきたようなわざ”を積み上げ、その実績を提示することによって天国への入国を許可されるはずだと、思い違いをしている人たちなのです。ところが、それが、天国への入国ビザではなかったのです。天にいますわが父の御旨”である“寛容”な想いをもって生きていくところに(マタイによる福音書5章43~48節を参照)、実は、天国への入国ビザというものがあったのです。 8月8日[木]に更新)

・・・この内容は、ブログ(35)パート8に続いています ・・・

 

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 (適宜、ブログの内容を訂正したり、改訂したり、増補したりして、更新することがありますので、ご了承を・・・)

 

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イエスはいったい何を教えたかったのか?(35)『当ブログの推薦図書』パート6〓7月30日火曜日更新〓

2013年07月30日 23時07分18秒 | 推薦図書

・・・この内容は、ブログ(35)パート5からの続きです・・・

 

もちろん、“ヒトを正しくナビゲートしていくナビ”といっても、そのような機械や装置が実際にあるというわけではありません。これからのいわゆる次元上昇の波に乗っていくために、あるいは、人類が次なるステージへと移行していくための指針、つまり意識の変革が必要となり、心の想いの在り方を正しくナビゲートしていくということがとても重要になってくるように思います。

と言っても、ここで私は、“特定の宗教に入らなければいけない”などと、野暮ったいことを皆さんに言うつもりは毛頭ありません。でも、このようなことを申しますと、“キリストを信じなければ、キリストへの信仰を告白しなければ、・・・人類の救いはないはず・・・”と、多くのクリスチャンたちからクレームが来るかも知れません。

ある時、イエスは、イザヤの預言を引用して、次のように言ったことがありました。「この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。」(マタイによる福音書15章8節)  そして、このように言った後に、人を汚すもの、それは人の心の中から出てくる思いであることをイエスは明言されたのでした(マタイによる福音書15章10節~20節を参照)。

人の心の想いのありかたの重要性ついて、イエスがいったいどのように語っておられるのかを知ること、そして、それを実践して、それを生きていくこと、これこそが重要なのではないか・・・と私はお伝えしているのです。単に、“自分はキリスト教を信じているんだ”というような宗教帰属意識にこだわったり、囚われたり、満足して、そこに留まってしまうというのではなく、イエスの思いを自分の思いとしイエスの生き方を自分の生き方とし、単にイエスの教えに同意するのではなく、イエスの大切な教えを生きがいとして実践していくことによって、これからの未来を開いていくこと、このようなことこそがむしろ大事なことなのではないか・・・と、私は申し上げたいわけです。

「・・・わたしたちはキリストの思いを持っている。」(コリント人への第1の手紙2章16節

わたしたちもこの世にあって彼のように生きているので、さばきの日に確信を持って立つことができる。そのことによって、愛がわたしたちに全うされているのである。」(ヨハネの第1の手紙4章17節

「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。」(マタイによる福音書7章24~25節

 

地球人類の本来の創造目的、あるいは、創造計画を成功させるための指針(=ナビゲーション)イエスは、聖書に残して置かれたのではないか・・・と私は観ています。それは心の指針に関してであり、それにナビゲートされつつ、人の心の想いをいかにして高次元の存在と共鳴させていくのか、“共創造”という形で今後どのように展開していくのか、その具体的なノウハウをいかにして実践・応用していくのかがこれからの人類の課題となってくるのではないかと、私は観ています。

わが子よ、わたしの言葉に心をとめ、わたしの語ることに耳を傾けよそれを、あなたの目から離さず、あなたの心のうちに守れ。それは、これを得る者の命であり、またその全身を健やかにするからである。油断することなく、あなたのを守れ命の泉は、これから流れ出るからである。」(箴言4章20~23節)

そして、このような心の指針(=ナビゲーション)としてイエスが山上で説教で語られたのが”さばくな”という教えなのであり、その根底にある受容・寛容(=心という器を常に広くし、拡大させていくこと)という心の想いのありかたというのがとても重要になってくるのではないかと、私は観ています。(7月29日 月曜日 更新 → 7月30日 火曜日 改訂更新) 

・・・このブログの内容は、ブログ(35)パート7に続いています・・・

 

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イエスはいったい何を教えたかったのか?(35) 『当ブログの推薦図書』パート5〓7月28日<日>更新〓

2013年07月28日 17時52分29秒 | 推薦図書

・・・これは、ブログ(35)パート4からの続きです・・

 

ナビゲーション

ところで先日、我が家の高校球児の息子(投手)の野球の試合(夏の甲子園の地方大会)があり、その応援に38kmほど離れたところにある球場に出かけた時のことです。会社の車を普段借りて使っているのですが、ついこの間、以前使用していた車が廃車になって、別の車に変わったばかりでした。そして、この車にはバージョンは多少古いのですが、カーナビがついてました。“ラッキー”と思いました。私にとって初めて行く球場なので、さっそく出発前にこのカーナビに目的地を入力して、準備は万全。カーナビにナビゲートされながら、“これで大丈夫”と安心して、私は球場に向かって車を走らせたのでした。

球場の近くまでは、まず何とかカーナビの指示に従って辿りつけたのですが、その後、民家のある小路に迷い込んでしまったりして、結局、同じところを3周もグルグルと回るはめになって、時間をだいぶロスしてしまいました。さすがに、私は“どうもこれはカーナビが狂っているな・・・。このカーナビ通りにこのまま従って行っても、きっと目的地の野球場には着けないな・・・”と感じ取りました。

そこで、私は車を一旦とめて、たまたま自分のスマートフォンに以前インストールしていたナビの無料アプリを起動させて、その指示を従ってみようと思い、再び車をスタートさせました。そして、あるT字路にさしかかった時です。私のスマホのナビが「右へ曲がって下さい」と音声アナウンスしている時に、なんと車に装着されているカーナビは「左に曲がって下さい」と音声アナウンスしているではありませんか。つまり、ナビの指示が全く正反対になっていたのです。私は、カーナビのこれまでの指示では野球場につけないことはすでに分かっていたので、カーナビの方の指示を無視して、もちろん、私のスマホのナビの指示に従って車のハンドルを切って進んでいったわけです。その結果、ようやく目的の野球場に到着することができたのでした。野球の試合は、すでに始まっていましたが・・・。

 

同様に、地球の人類が果たしてこれから将来正しい方向に進化していけるか、あるいは、破滅の方向に向かっていってしまうのか、どちらを選ぶのかは、やはり、“正しくナビゲートするナビ”を持っているかどうかにかかっている・・・と言えるのではないでしょうか?

 

その後も私は、スマホのナビを起動させて、その指示に従って、いろいろと車を走らせてみたりして、その性能がどうなのかを試してみたりしました。目的地に到着するのに、うっかりスマホのナビの指示通りに曲がらずに、行き過ぎてしまったこともありましたが、そのような時には、スマホ・ナビは今度は別ルートを示してくれて、目的地に辿りつけるようナビゲートしてくれるのでした。また、曲がる地点が近づいてくると、スマホの地図画面が自動的に拡大されて見やすくなるのでした。無料のアプリなのに、なんて素晴らしい性能なんだろうと、私は感銘を受けた次第です。

これと同様に、人類が正しい方向に向かって成長し、進化して、輝かしい未来を創り出していくためのルートは、一つだけではないと私は感じています。多くのクリスチャンは、キリスト教に改宗しなければ救われない、つまり、通るべき道は一つだけしかないと思っているのではないでしょうか。他の宗教を信じている信者も、自分たちの宗教が教える道に従わなければ、明るい未来はないと信じているかも知れません。

でも、私は思うのです。目が開かれ(=霊的に覚醒して)意識進化を遂げるためのルートは一つではなく、実際は、数多くあるのではないかと・・・。つまり、日常生活を送りながらも覚醒したり、主婦業をキチンとこなしながら、また、田畑を耕す仕事に従事しながら、山という自然界の中で仕事をしながら、日頃の人間関係に揉まれながらでも、ヨブのように人生の試練に遭遇しながらでも、“正しくナビゲートするナビ”さえ持っているならば、それぞれ置かれた境遇や立場にあって、霊的に覚醒して、人として十分に意識進化していけるチャンスというのはあるのではないか…と思うのです。

では、地球の人類を“正しくナビゲートしていくナビ”とは、いったい何なのでしょうか? (以上、2013年7月28日 日曜日 更新)  

・・・続きのブログ(35)パート6はこちらからどうぞ・・・

 

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イエスはいったい何を教えたかったのか?(35) 『当ブログの推薦図書』パート4〓7月27日<土>更新〓

2013年07月27日 23時54分01秒 | 推薦図書

この内容は、ブログ(35)パート3からの続きです

ところで、岡本茂樹氏は本の中で、「自分のなかに、正しいと思って刷り込まれた価値観が多ければ多いほど、他者に対して“許せない部分”が増えていきます」と書いています(p.158)。岡本氏のこのような観かたも、鋭いと思います。このような視点からヨブ記を読み直して観ると、よくわかります。ヨブの人生から試練が消え去っていく前に、ヨブがいったい何をしたのかに注目してみて下さい。

ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄をもとにかえし、そして主はヨブのすべての財産を二倍に増された。」(ヨブ記42章10節)

つまり、3人の友人たちの誤った価値観によってさばかれて、ヨブの心痛は逆に増す結果となりました。このように、慰めるためにきたはずがヨブを苦しめることになってしまったので、この世の常識では3人の友人たちをヨブが責めたり、非難したりするのが普通です。ところが、ヨブは3人の友人たち全員をすでにゆるしていたので、彼らのために神にとりなしの祈りをしたのです。

これは何を意味するのかといいますと、これまで長い間にわたってヨブ自身の人生の中で刷り込まれてきた偏った考え方や価値観というものが、試練がヨブの人生から消えていく直前の段階において、キチンと処理されて、ヨブの心からすでに取り除かれていたという事実がわかります。もしそうでなければ、ヨブがそのような行為に及ぶことはなかったはずです。仮に口先で、あるいは、形式的に3人の友人たちをゆるし、とりなしの祈りをしたとしても、それは心にある想いと実際の行動が矛盾しているが故に、それは“偽善”となってしまいます。すると、神はそれを当然のことながらいとも簡単に見抜いてしまうでしょう。

神はヨブの友人の一人であるエリパズに対し、次のように言われました。「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである。それで今、あなたがたは雄牛七頭、雄羊七頭を取って、わたしのしもべヨブの所へ行き、あなたがたのために燔祭をささげよ。わたしのしもべヨブはあなたがたのために祈るであろう。わたしは彼の祈を受けいれるによって、あなたがたの愚かを罰することをしない。」(ヨブ記42章7~8節)

これは人間の心をも見通すことのできる神が、ヨブが“偽善”からではなく、“本心”から3人の友人を完璧にゆるすことができる(寛容=受容)レベルにまで“意識進化”を遂げていたことをすでにご存じであったからこそ、「わたしのしもべヨブはあなたがたのために祈るであろう。わたしは彼の祈を受けいれるによって、あなたがたの愚かを罰することをしない」と明言できたのではないかと思います。

偏った考えと価値観に囚われてヨブを責めて、断罪していた3人の友人たち”を赦すことができたのは、ヨブが自身の人生の試練を経験している中にあって、これまでずーっとヨブ自身の心の奥に刷り込まれてきていた偏った考えや価値観(特に、善悪の固定観念)があったことを素直に認めた上で(受容)、自らの心からそれを清めて(クリーニング)、取り除くことができた(デリート)からだと思います。私は、このようなプロセスの中に新しい契約の神髄福音の核心信仰による義認の教えを観ることができるように思えてならないのです。そして、ここにこそ人が自分の人生の中で体験する試練の意義や意味を正しく捉え、かつ、試練に呑み込まれずに、試練を増大させずに、逆に、試練を乗り越えていくヒント、あるいは、試練を過ぎ去らせていく秘訣というものが隠されているのではないかと観ているのです。 

人の心の中に刷り込まれてしまっている“善悪の固定観念”に囚われていたために、ヨブもヨブの3人の友人たちも神の真の栄光が観えていなかった、遮られていたために、神について互いに語っていたのにもかかわらず、実は、神の正しい知識を持ち合わせていなかったことが判明したというのが、実は、ヨブ記の筋書きなのではないか・・・と、私には思えてならないのです。悪に遠ざかり、善を追及していたヨブの心が、実は、いつの間にか“善悪の固定観念”に囚われてしまったために、ヨブの人生に歪みが生じてきた、あるいは、人生の歯車が狂いだしてきたのではないか。それが、試練という形で現象化してきたのではないか。そして、試練がなぜ自分の人生に起こってしまったかについて、よくよく考える機会が与えられて、最後におそらくヨブは気づいたと思うのです。自分の心が“善悪の固定観念”に囚われていたために、これまで真の神が観えていなかったということを。自分の人生の起こった試練の意味や存在意義というものが何であるかを。

だからこそ、ヨブは自分の口で、「・・・わたしはみずから悟らない事を言い、みずから知らない、測り難い事を述べました。・・・わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います。」(ヨブ記42章3~6節)と語ったのだと思います。

ヨブが、誰よりも先にこのことにハッと気づいたのでした。この段階で、ヨブの人生をこれまで悩ませてきた試練は、力を失っていたはずです。試練の背後にある意味、試練の存在意義をヨブは認め、捉えたからです。試練はこれまでと変わらず、依然としてそこにあったにもかかわらず、ヨブを圧倒するような力を試練はもはや持っていなかったのです。ヨブの意識の中では、試練はもはや解決されたのと同然だったからです。自分が“善悪の固定観念”に囚われていたことを認めた上で、それからヨブは自由になっていった時に、これまで長い間気づかった神の姿が見え始めてきたのです。それが、このヨブ記42章3~6節の言葉に現れていると、私は観ています。

この段階ではまだ、ヨブの3人の友人たちは“善悪の固定観念の闇”の中に彷徨っていたのでした。そこで、先にそこから這い出たヨブが、とりなしの祈りをすることによって、彼らからも“善悪の固定観念の闇”を追い払ってあげたわけです。それによって、3人の友人たちも同様に、神の真実の姿を観れるように手助けしてあげたわけです。神は、善悪の固定観念の中にはおられないのです。それを超越したところに存在しておられるのです。

イエスが山上の説教で、「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。」(マタイによる福音書5章45節)と、語られた時に、善い者も悪い者も分け隔てせずに、等しく愛される“善悪を超越した存在”を人類に知らせようとされたのではないかと思うのです。

このようにして、偏った考えと価値観というものから心が解放されていく時に、ヨブの場合と同様に、一見荒れ果ててみえるような人生というものが修復され始めていくわけです。(ここで、イザヤ書61章の霊的な意味を味わいながら読んでみたいところです。)

(以上、7月25日 木に更新 → 7月27日 土にさらに改訂更新) 

・・・続くブログ(35)パート5は、こちらへどうぞ・・・ 

   

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イエスはいったい何を教えたかったのか?(35) 『当ブログの推薦図書』パート3〓7月23日<火>更新〓

2013年07月23日 08時17分11秒 | 推薦図書

この内容は、ブログ(35)パート2からの続きです

 

内面の問題を理解する

岡本茂樹氏はこの本の中で、真の「反省」とは何かについても説明しておられます。岡本茂樹氏の深い洞察力を観る思いがします。罪の言葉を繰り返すことが真の反省ではないこと、自分の心の中にさまざまな偏った考え方や価値観が深く根付いていて、それらがどのような過程でつくられていったかを理解する必要があること、そして、自分の心にある内面にある否定的な感情と向き合った結果として、自然と心の底から湧きあがってくる“罪の意識”こそ、本当の“反省”であると言っているのですp.130~133を参照)。

一般に誰しも大なり小なり、内面の問題を抱えているものです。すなわち、様々な偏った考えや価値観が心の奥深くに根付いているわけです。この世に生きている限り、やむを得ないことなのかも知れません。五感を通して日々大量の情報が心の中に流れ込んできているからです。掃除機を想像していただければ、分かると思います。購入したばかりの掃除機は、吸い込みもよく問題はないのですが、毎日、ゴミを吸い込んでいると、掃除機の中に入っているゴミ袋が徐々に目詰まりを起こして吸い込みが悪くなってきます。それと同様に、人間のも膨大な情報が毎日毎日入り込んできていますので、遅かれ早かれいずれは“心の目詰まり”を起こしてしまうものです。これらの“心の目詰まり”の原因というのが様々な偏った考えや価値観であるわけです。そして、その人の人生に『何か問題が生じた時』というのが、そのような“心の目詰まり”に気づく絶好のチャンスとも言えるわけです。 (以上、7月17日 水曜日 8:32に更新

知らず知らずのうちに心の目詰まりを起こしてしまった様々な偏った考え方や価値観と、それらが原因で引き起こされたいる心の内面の問題というものをシッカリと見つめ、認識し、理解していくことが、とても重要な作業となるのです。心の内面の問題に対応して引き起こされた結果的な現象や事象というものに振り回され、翻弄され、右往左往してしていても、状況は一向に改善されては来ないわけです。私たちに人生に何か問題や課題が生じてしまった時に、注目すべきことは自分のうちにある内面の問題であり、どのような偏った考えや価値観というものが自分の心を蝕んでいたのかに気づいていくことこそが大事なのです。

前回のブログ(34)でも触れましたが、ヨブの人生の中で起こった試練のケースにおいては、サタンの介入という外部要因に気づくということはそんなに重要なことではありませんでした。だから、もあえてヨブにそのような情報を一切伝える必要がなかったのでした。ヨブが知り、気づかなければならなかった重要なことは、むしろ内部要因にあったわけです。ヨブにおける内面の問題、それは彼の心をジワジワと蝕んできていた“おそれおののき”でした。恐怖という想いはとても強力なもので、健全な信仰をも破壊してしまう力を秘めていて、恐れている心が想い描いていることが現象化・現実化してしまうことがよくあるのです。良いことを望んでいるはずなのに、恐怖に囚われた想いの方が上回ってしまうために、ヨブが“望んでいない”現象と現実の方が人生の中で生じてしまうことになるのです。それがヨブの試練の“実体”だったと言えます(ヨブ記3章25節を参照)。

 

ヨブ記におけるヨブの人生というものが教えていることは、人の人生に何かトラブルと思えるような現象が起こった時に、サタンのせいにしたり、サタンに対して敵意や憎しみなどを抱いて血のにじむような戦いを繰り広げて勝利を勝ち取ろうとするということではないのです。(こんな風に書きますと、聖書を読まれている多くのクリスチャンたちは驚くかも知れませんが・・・。) そうではなくて、むしろ、サタンが人の欠点や隙を突いてきたところ、すなわち、人の心の奥底に内面の問題があったことに気づくこと、さらに、人が抱いているネガティブな想いヨブの場合は“おそれおののき”)が持続され、強化されていった時に、それがイメージしたこと現実化されてしまうほど力があるというこを知ることが特に大切なのではないかと思うのです。思い煩っている人の恐れの想いが増強されていく時に、自分が望んでいることや信じていることとは反対のこと、つまり、恐れていたことが実際に起こってきてしまったというのが、ヨブの人生が示していることではないかと思います。このようにネガティブな想い信仰のレベルをはるかに上回ってしまうような人のことをイエスは山上の説教で、“信仰の薄い者よ”と言われたのではないかと思うのです。“信仰の薄い者”が信じていることよりも、その人の恐れおののきという想いは強く、持続性があるので、より現実化しやすいものなのです。

以上のことからも分かるように、ヨブの人生の試練が消え去っていったのは、実に、ヨブが自分自身の内面の問題を解決したからではないかと思います。つまり、ヨブが自分の心の中に巣くっていた“恐れ”を取り除くことができたが故に試練は結果的に消えていったわけです。サタンと一戦を交えてヨブが勝利したから、ヨブの人生から試練が消えていったということではないのです。ヨブ記を観る限り、ヨブは、サタンとは戦ったという事実は書いてはいません。また、ヨブは自分の人生の苦難にサタンが関与していることすら知らされていなかったようなのです。使徒ヨハネは「には恐れがない完全な愛恐れをとり除く恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、が全うされていないからである」と記しました(ヨハネ第1の手紙4章18節)。

だからこそ、イエスも“恐れるな”と言われたのであり、さらに、恐怖から人類を解放するために、良い者も悪い者も区別することなく、恵みを与えられる天の父の完全な愛宇宙のように広い寛容の愛というものを山上の説教において啓示されたのでした(マタイによる福音書5章43節~45節を参照)。 (以上、7月23日 火曜日 改訂更新)    

   ブログ(35)パート4に続いています!

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イエスはいったい何を教えたかったのか?(35) 『当ブログの推薦図書』 パート2

2013年07月15日 18時44分00秒 | 推薦図書

これはブログ(35)パート1からの続きです

 

受容的な対応と態度で

 

岡本茂樹氏は、『反省させると犯罪者になります』の本の中で、以下のように記していることにも注目したいと思います。

「・・・問題行動が出たときは、反省文を書かせるのではなく、受容的な対応をすれば、その後の子どもの人生は良い方向に向かうことが分かります。」(p.65)

 

また、第5章の“我が子と自分を犯罪者にしないために”の中でも、とても貴重なことが書かれています。この本を皆さんに直接読んでいただいた方がよいと思いますが・・・。

「普通、問題行動を起こした子どもは、叱られるものと思っています。そこで大人が、“今回、問題を起こしたことは、君がいい方向に向かうためのチャンスとしたい”と伝え、“今回、なぜこのようなことが起きたのか、いっしょに考えよう”と問題行動を起こした背景を子どもといっしょに考える姿勢でいることを伝えます。・・・叱るという態度ではなく、受容的な態度で臨みます。まずは“日頃から思っていたことを自由に話してくれないか”と切り出してみましょう。本音を言ってもかまわないという気持ちになれば、時間がかかるかもしれませんが、子どもは少しずつ本音を語り始めます。本音を語り出したら、大人はしばらく口をはさむことを控え、子どもの言葉にひたすら耳を傾けます。途中で、子どもが間違った考え方を言ったとしても、それを指摘せずに、子どもの語りをさえぎらないようにしてください。話のなかで、子どもが不満やストレスを話し出せば、それが問題行動を起こした要因と捉えることができるでしょう。親が聞き手であった場合、親自身が否定されるような言葉を聴くことになって、耳の痛い思いをするかもしれませんが、親も自分の気づいていなかったことを子どもから教えてもらう気持ちになって、子どもの話を最後まで聴いてください。そして、大人は、子どもが不満やストレスといった否定的なことを話すためには勇気が必要であることを知っておいてください。子どもでなくても、誰もが自分のネガティブな感情を人前で話すことを恥ずかしく思うものです。だからこそ、子どもが本音を言えたら、大人は“よく話してくれたなあと子どもが話してくれたことをねぎらいます。“辛い思いをしてたんだな。1人でずっと悩んでいたのではないの? 話してくれてありがとう”などと言って下さい。親が自分に問題があることに気づいたら、”お父さん(お母さん)にもまずいところがあったんだなあ。ごめんな”と言って素直に謝罪しましょう。本音で話し合えれば、親子関係はぐっと深くなります。問題行動をきっかけに親子関係が好転し、その後は素直に本音を言い合える豊かな関係になります。」(p.185~186 

 

さらに、岡本茂樹氏は続けて、“絶対言ってはいけないこと”について語ります。

「子どもが本音を話しているときに、絶対に言ってはいけないことがあります。正論です。“お前の考えは間違っている”“未成年なのにタバコを吸うことは許されない。身体にも悪い”や“このままだと、いい学校に行けなくなる”などといった説諭です。大人の言っていることは間違っていません。間違っていないからこそ、子どもは何も言い返せなくなるのです。そうすると、子どもはようやく開きかけた心を再び閉ざします子どもは本音を話したことを後悔し、結局反省の言葉を引き出すパターンに陥ってしまいます。下手すると、それ以降、子どもは親や大人に対して“絶対に本当のことを言わない!”と心の中で決意し、二度と本音を話さなくなるかもしれません。あるいは、面従腹背の態度になるかもしれません。表面上はまじめな態度を取りながら、心のなかで舌を出しているのです。こうなると最悪です。ピンチがチャンスとならず、さらなるピンチを招き、それが爆発(非行や犯罪)へと向かう出発点となります。正論を言えば、親が勝って子どもが負けるという構図になります。結果として残るのは、親子関係の悪化です。正論は、相手の心を閉ざす“言葉の凶器”と考えてみいいでしょう。親と子どもの関係にとどまらず、あらゆる人間関係において、正論を言うことは相手との関係を悪くする可能性があることを理解しておきたいものです。」(p187~188)

 

岡本茂樹氏がここで言っている“受容的な対応をする”とか“受容的な態度で臨む“いうことは、当ブログで強調してきた“寛容”ということであり、“あるがまま認めて受容していく”ということであります。“正論”や“説諭”を絶対言ってはいけないということは、当ブログで繰り返し、繰り返し引用してきた“人をさばくな”というイエスの山上での教えそのものと言えます。この本を読んでいくと、他にも当ブログでこれまで書いてきたことと符合する点をたくさん見つけることができます。

 

正直なところ、岡本茂樹氏の『反省させると犯罪者になります』という本を読んだ時に、私はまさに“イエスが言いたかった本当の教え”を観ているような思いがしました。実に、私は驚きを禁じ得ませんでした。   (以上、2013年7月15日〈月〉に更新) 

 

この内容は、ブログ(35)パート3に続いています 

 

 (適宜、ブログの内容を訂正したり、改訂したり、増補したりして、更新することがありますので、ご了承を・・・)

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イエスはいったい何を教えたかったのか?(35)『当ブログの推薦図書』パート1

2013年07月14日 16時15分27秒 | 推薦図書

これまでのブログを通して独自の視点から、聖書における『イエスの教え』というものを観てきました。従来のいわゆるキリスト教的な視点やアプローチとは、多少?随分?異なっていることに気づかれた“このブログの読者”も多いのではないでしょうか?

実は、当ブログというのは、皆様をキリスト教における従来の“伝統的な既成概念や常識に導くためにあるのではなく、むしろそのような“目にある梁”、“心の覆い”を取り除くことによって、イエスが語りたかった本当の教え、真理、核心、神髄が何であるのかということに気づいていただくためにあります。キリスト教という“宗教的教え”を介してではなく、イエスの語った真理そのものによって目が開かれて、心が自由にされ、“創造の源の究極の源なる存在”といえる『根源なる存在』と直接繋がっていけるように手助けをしたいと想い、このブログを公開しているわけです。そのためにこそ、情報提供をしようと努めているのです。

 

ところで、6月29日(土曜日)に、私は書店で“ある本”をたまたま目にして、手に取りました。たまたまと言っても、この本に“偶然に”出会った・・・というよりも、むしろ“必然的に”出会ったというべきでしょうか? “出会うべくして出会った”と言ったらいいのでしょうか? なぜなら、これまでのブログで述べてきたような視点から聖書や人生というものを観ることができていなければ、たとえ書店で私が“この本”を手にして、ざーっと立ち読みしたとしても、おそらく購入するという行為まで及ばなかったと思うからです。

 

今回のブログでは、“この本”を皆様に紹介したいと思いました。“この本”というのは、2013年5月20日発行された新潮新書の岡本茂樹著の『反省させると犯罪者になりますという題の本です。これが、このブログの読者の皆様にも、ぜひ読んでみていただきたいと思った本なのです。

 

 

 

著者の岡本茂樹氏は、立命館大学産業社会学部教授(臨床教育学博士)で、日本ロールレタリング学会理事長でもあり、刑務所で累犯受刑者の更生支援にも関わっておられる方です。

 

岡本茂樹氏は、この本の中でなんと、犯罪やいじめ、心の病、人に生き辛さを生じさせてしまう根底にある原因とそれらの解決策を説いておられるのです。この方が捉えている視点というのが、実に注目に値するのです。まさに、私が当ブログで提示してきた“観かた”と、ある意味で、調和しているのです。イエス山上の説教で語られた“人をさばくな”という教えにも通じるものがあると思うのです。聖書には“人類を罪から救う道が示されている”とみるのであれば、岡本茂樹氏の『反省させると犯罪者になります』という本の中にあるような視点で回りの人々や自分自身を捉え観ていく術(すべ)を身に着けるということが、とても重要になってくるのではないか・・・・と、私は観ています。

 

さらに、人の人生において、家庭内で、社会において様々な問題が生じたような場合でも、このような視点から観ていくことが、解決の道を開いていく上で、とても大事なことになってくるのではないか・・・と私には思えるのです。

 

この本は、子育てを始める前に、子育てに行き詰った時や子供が手に負えなくなったと感じるようになった時などにも、じっくりと読んでもらいたい本でもあります。

(以上、2013年7月7日{日} に一部改訂更新 【7月5日{金} に公開スタート】)

 

この本の著者である岡本茂樹は、受刑者の更生に深く関わることで、従来の更生のやり方では、逆効果であることに気づいたようです。彼の本の結論は、「悪いことをした人を反省させると、その人はやがて犯罪者になります。自分自身が悪いことをして反省しても、同じ結果です。つまり犯罪者になります」ということです(p.3)。つまり、これまでの常識とは、全く反対のことを述べているわけです。

 

これは、犯罪を犯すような特殊な環境で育った人たちだけではなく、一般の家庭での子育てにおいても、また、学校の教育現場でも当てはまることなのです。

 

悪いことをする」 → 「『すみませんと言って反省する」 → 「終了」というパターンを繰り返していると、自分が育てた子ども、また、学校で教育を受けているはずの子どもでも、やがて非行や犯罪に走るかも知れないというのです。あるいは、自分の子供でなくても、自分の家系のいずれかの世代(孫やひ孫など)で、誰かが重大な犯罪を起こす可能性があるというのです。非行や犯罪でなくても、心の病になってしまうことも考えられるというのです。従って、誰かがどこかの時点で、「悪いことをしたら反省させるという育て方を止めなければならないと、この著者は強く訴えているのです(p.4~5を参照)。

 

キリスト教においても、これまで罪を悔い改めること(=反省すること)の重要性が説かれてきたと思います。でも、これも場合によっては、逆効果になることがあると言えます。自分の犯した過ちをたとえ反省し、悔い改めたとしても、その後、それが何度も何度も同じ過ちが繰り返されてしまう、あるいは、形を変えて過ちが繰り返されてしまうということがあり得るのです。何か大事なことが、そこに欠落しているからだと思います。これまでの常識既成概念を超えた全く新しい視点から観ていく、捉え直していくことが必要となってくるわけです。

 

実に、著者が関わってきた受刑者たちも、幼いころから周囲の者に何度も叱られ、反省を繰り返してきたのであり、それでも、また悪いことをして、それがエスカレートした結果が犯罪だというのです。そして、実際に犯罪者たちの更生支援に深くたずさわってきた体験にも裏付けされて、犯罪を犯した受刑者たちを本当に更生させるためには、「反省させてはいけない」ということに、著者は気づいたのです。反省させようとする方法が受刑者をさらに悪くさせ、反省させない方法が本当の反省をもたらすというのです(p.5~6を参照)。このような、一見、逆説的に思えるようなところに、あるいは、これまでの常識からかけ離れたところに、実は、真理というものが隠れているのではないかと、私は思います。

 

まさに、これまでの常識既成概念を超えている内容が、『反省させると犯罪者になります』という本の中で書かれているのです。この本をじっくりと読んで、その理由真相真実がわかってくると、私たちの“目からウロコが取れていく”、目にあるが取り除かれていく、心をおおっていた覆いが取り去られていくのではないかと思います。

 

この本で述べている内容は聖書のヨブ記の謎を解き明かす上でも、大いに役立つのではないかと、私は観ています。 (以上、2013年7月7日{日}に改訂更新) ⇒ (8月14日{水}8:22に一部改訂更新)

・・・まだまだ続きますよ・・・

 

*     *     *     *     *     *

 

“まだまだ続きますよ”と、前回の7月7日{日}に更新したブログで書きましたが、その“続き”として岡本茂樹氏の反省させると犯罪者になります』という本の中身を引用して、解説したりして、私なりのコメントをしようと考えていました。それで、この本に幾たびか目を通していましたが、もし私があえてこの本について解説を加えたりするなら、それは“蛇足”になってしまうのではないかと、続きのブログを更新するのをためらっていました。

ぜひ皆さんご自身が岡本茂樹氏の反省させると犯罪者になります』という本をご購入されて、問題解決のための岡本茂樹氏の視点、観かた、捉え方、受け止め方の素晴らしさに注目しながら、この本の内容をまずはじっくりと、繰り返し、繰り返し読んでみていただきたいと・・・正直なところ、そう思ったのです。そして、これまで当たり前に世の中でなされてきたやり方との違いを、皆さんが肌で感じて取ってほしいのです。そして、その本を読んで、“なるほど”と腑に落ち、納得し、私と同じ感動を共有した上で、さらに共に熟考し、一歩先へと進んでみたいと思った次第です。

(以上、2013年7月13日{土}に改訂更新)

 

問題をチャンスと捉える:

 ところで、岡本茂樹氏は、『反省させると犯罪者になります』という本の中で、以下のように記しています。

子どもの問題行動はチャンスなのです。親は、なぜ子どもが問題行動を起こしたのかを考える機会を与えられたと考えるべきです。」(p.50) 

問題行動が出たときはチャンスなのです。ピンチに変えてはいけません」(p.217

他者の視点が入り込まないかぎり何も変わりません。」(p.57)

 

つまり、何か問題が生じた時に、それをどんなふうに受け留めるか、どんな想いで捉えていくのかということがとても重要になってくるのです。目の前の問題をこれまでと違った視点から観ていくことで、その問題を“チャンス”に変えていくこともできるし、逆に、これまでの“井の中の蛙”の世界に留まって、これまでと同じ視点で目の前の問題に強引に対処しようとしたら“ピンチ”に変えてしまうことにもなるのです。

ヨブ記を振り返ってみましょう。ヨブの人生に大変な問題(試練、苦難、不幸、病気など)が起こった時に、もしヨブこれまで自分が持っていた視点だけで観て、その問題の解決を図ろうとしたら、“ピンチ”を招いて、ヨブが置かれた状況というのはさらに悪化した可能性があります。しかし、ヨブは試練という問題をこれまで気づかなかった新たな視点から観なおして今までと違った想いで受け留めていったゆえ、ズタズタにしてしまう修復不可能な致命的なダメージを彼の人生にもたらすような“ピンチ”には発展せず、むしろ逆に、試練に遭う前の2倍の恵みが与えられるという“チャンス”へと変わっていったのでした。

 (以上、2013年7月14日{日} に改訂更新)

 

岡本茂樹氏は、『反省させると犯罪者になります』の本の中で、一生懸命に頑張って子育てをする、頑張って子どもをしつけようとすることが犯罪者をつくったり、心の病気を生み出したり、あるいは、生き辛さを生じさせていると記しています。

“頑張る”子育ては、“しっかりとした子どもに育てよう”という意識と容易に結びつきます。そして“しっかりした子ども”とは、“我慢できること” “1人で頑張ること” “弱音を吐かないこと” “人に迷惑をかけないこと”のできる子どもを育てるパターンになりがちです。なぜらな、今の若者たちの多くがそのような言われて育てられてきたからです。確かに “我慢できること” “1人で頑張ること” “弱音を吐かないこと” “人に迷惑をかけないこと”といった価値観は、社会生活を送るうえでは必要なことです。ほとんどの者は、これらの価値観を何の疑いもなく“正しいもの”と受け入れているのではないでしょうか? しかしこれらの価値観は、子どもに(大人にとっても)生き辛さを与える側面があることに気づいている人は少ないでしょう。  “我慢できること” は、見方を変えれば、“自分の気持ちを出さ(せ)ないこと”になります。そうするとストレスがたまっていき、爆発(犯罪か心の病気)を引き起こすことになります。」(p.153~154)

いじめが起きる背景には、私たちの心の中に正しいと思って刷り込まれている価値観があることを見逃してはいけません。すなわち、先に述べた“我慢できること” “1人で頑張ること” “弱音を吐かないこと” “人に迷惑をかけないこと”といった価値観が『いじめ』を引き起こす原因にもなっているのです。具体的に言うと、“我慢できること” という価値観を強く刷り込まれた者は、“我慢できない人”を見ると、その人の我慢できない態度が許せなくなります。 “1人で頑張ること” が大切だとたたき込まれた者は、“1人で頑張れず途中であきらめてしまう人”や“他者にすぐに助けを求める人”を目にするとイライラします。“弱音を吐かない”と言われた者は、すぐに泣きごとを言う人を許せなくなります。“人に迷惑をかけないこと”が当たり前と思っている人は、“人に迷惑をかけられる人(=人に甘えられる人)を見ると、腹が立ってくるのです。相手に対して抱く不快感は、自分の心のなかに植え付けられた価値観が原因となっているのです。自分のなかに、正しいと思って刷り込まれた価値観が多ければ多いほど、他者に対して“許せない部分”が増えていきます。そうすると他者との間で良い人間関係が築けないどころか、いじめまで発展していく場合があるのです。その最悪の結果が、いじめによる犯罪なのです。」(p.157~158)

 

では、ヨブの場合、彼が試練に遭遇する前の長い期間にわたって培ってきた視点価値観というのは、何だったでしょうか? それは、ヨブ記を観て推察すると、『善悪の固定観念』ではなかったと思います(ブログ34も参照して下さい)。この世や自分の人生で起こる物事や現象を善悪のモノサシで量って捉えていた(=さばいていた)と言えます。ヨブの人生に生き辛さ(=試練)を引き起こした価値観があるとすれば、それはこの『善悪の固定観念』ではなかったかと、私には観えるのです。

聖書を土台(経典、聖典)としたキリスト教を信じている人たちにとっては、善と悪の対立軸の中で、この世の出来事、物事、事象、現象をすべて捉えていこうとするような『価値観』は、何の疑いもなく、“正しいもの”として受け入れているのではないかと思います。確かに、善悪という視点から捉えるということは、社会生活や宗教生活を送っていく上で必要なことであると、私も思います。

ところが、その善悪の捉え方が“固定観念化”して囚われてしまい、もはや別の視点から観ることができないくらい霊的に盲目になってしまうと、心の柔軟性がなくなってしまい、心がかたくなになってしまうおそれがあるのです。すると、しばしば“正義感”や“正論”という武器にして人々をバッサ、バッサと“さばいていく人”に変身していってしまうのです。「自分は相手のために言っているんだ」と思いながら、実は、相手の心に大きな傷を負わせてしまったりしているのです。相手を正そうとしてしているつもりが、現実的には、相手の生涯にわたって消すことが困難なほどの誤った価値観を刷り込んでしまっていることさえあるのです。

試練に遭ったあと、ヨブ3人の友人たちといろいろと議論(=対話)していくことになりますが、全員が『善悪の固定観念』という価値観に囚われて自分の考えを述べていたのです。ヨブの人生にこのような悲惨な試練が起こった原因を、ヨブのどっちが“”で、どっちが“”であるためなのかと、あくまでも『善悪の価値観』の中に見い出そうとしていたのでした。

善悪の固定観念』の中で考えていこうとするなら、次のようになります。もし善で正しい方であるとすれば、ヨブの人生にこのような悲惨な試練が起こった原因というのは、ヨブが何か悪(=罪)を行なったはずだ。3人の友人たちには特に試練が来ていないとすれば、ヨブ3人の友人たちよりも何かもっと罪深いことをしたに違いないということになります。逆に、もしヨブ善で正しいとするならば、悪であり、不正であるというこということになってしまいます。現実的には、どちらの考えも成立しないわけです。

善悪の固定観念』という価値観唯一絶対のものであると思い込むところに、実は、大きな問題、致命的な過ちがあったのです。だから、答えがどうしても見えてこなかったのです。従って、当然のことながら彼らの議論はやがて行き詰ってしまったのでした。

自分の人生に何か問題(試練、不幸、病気、逆境、悩み、苦難など)が生じた時こそ、“正しいと思って刷り込まれてきた価値観”がいったい何なのかということに気づいて、それらの刷り込まれた価値観思い込んでいる価値観囚われている自分の心解放していく絶好のチャンスであるとも言えるのです。

 

岡本茂樹氏は、『反省させると犯罪者になります』の本の中で言います。

一般的には肯定される価値観も、角度を変えてみると、問題となる側面があるものです。要するに、絶対的に正しい価値観絶対に誤った価値観など存在しないということです。物事は見方を変えれば、長所にも短所にもなるということです。」(p.207

 

 (以上、2013年7月14日〈日〉に補足更新)  この内容はブログ(35)パート2に続いています。

 

(適宜、ブログの内容を訂正したり、改訂したり、増補したりして、更新することがありますので、ご了承を・・・)

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