『イエスが説く救いの道』(その2)
「主よ、主よ・・・」と主の名を呼びながら、神の御旨に沿ったわざを行ってきたはずのいわゆる『キリスト教信者』の多くが、「あなたがたを全く知らない。出て行け」と主に言われて、天国から閉め出されてしまうことになることを、山上の説教の中でイエスが言及されました。
でもそれは、天の父なる神や主イエスにその人たちが知られていないというのではなく、むしろ、"多くの『キリスト教信者』の方が神のことも主イエスのことも全く知らなかったのではないか"という私の観かたを前回のブログで述べました。
今回は、この点をもう少し説明したいと想います。ここでヒントになる聖句は、「愛さない者は、神を知らない。神は愛である。」(ヨハネの第1の手紙4章8節)です。
(7月22日 金曜日 0:24 更新)
ヨハネが書いたこの聖句に、はたしてどういうニュアンスがあるのかということを、今から私なりに観ていくと・・・。
つまり、山上の説教の中でイエスが言っている『天国の救いから漏れてしまったキリスト教信者たち』というのは、長い間 教会で説教を聞いたり、また、自分でも聖書を読んだり、さらに人々に伝道をして人々をキリスト教に導いたりもして、聖書で啓示された神を世の人々の誰よりもよく知っていると自分では思い込んでいたのですが、実際には"神を知らなかったし、神の愛も知らなかった"ということなのです。
言い換えれば、彼らは"愛さない者"であるということなのです。神のため、主イエスのため、多くの力あるわざ、良き行いは沢山やってきたのかも知れませんが、"愛するということにおいて、失敗した"、"愛を実践してこなかった"、"愛というものが、如何なるものなのかを実は知らなかった"ということなのです。
だからこそ、自分たちが当然 天国に入れるものと思っていたのに、それか叶わなかったことがわかると、これまで自分たちがやってきたこと、積み上げてきた『一見、神の御旨にかなっていると思われる外面的な善行』をリストアップして、主イエスに訴え、抗議するのです。
確かに彼らは、キリスト教の聖典である聖書に書かれている『良いこと』を真面目に、熱心にやってきたかも知れません。
でも、イエスが「わたしはあなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい」と言われたことが何を意味しているかを実際には知らなかったわけで、だからこそ、それを自分の人生の中で実践することはできなかったわけです。
それは、イエスのもとに来て「永遠の命を得るために、どんな良いことをしたらいいでしょうか?」と尋ねたあの"富める青年"のケースと全く同じだったと言えます。
この青年の問いかけに対して、イエスは神の十戒の律法に触れ、さらに互いに愛し合うべきことの大切さを指摘されました(マタイによる福音書19章18節~19節を参照)。
それを聞いた青年は、それらを守ってきたということをイエスに自信をもって答えたのでした。でも彼は十戒を外面的に守っていただけであり、その十戒の精神、真髄、本質であった“愛”が意味するところについては 全く知らなかったのでした(ローマ人への手13章8節~10節を参照)。この青年が頭で知っていた“愛”というものが、イエスが教えている“愛”とは、本質的に異なっていたのです。大きく解離していたのです。イエスとは全く違う次元の“愛の概念”だったわけです。実は、天国の救いから漏れてしまうキリスト教信者においても、これと同じことが言えると想います。
ここでもう一度、イエスが山上の説教の中で語っていた愛"とはどのような愛だったのかについて想い起こしてみましょう。
マタイによる福音書5章43節~48節を観ると、味方と敵を区別して、前者を愛して、後者を憎むというタイプの愛というものが現に存在しており、それはこの世ではとても一般的であり、誰でも生まれつき持っているような“愛”と言えます。
ところが、イエスはこれとは全く質を異にする“愛”があると言われるのです。そして、これこそが「天にいますあなたがたの父の子となるため」(マタイによる福音書5章45節)だと、イエスは言うのです。
すなわち、イエスが山上の説教の中で説いた“愛”というのは、味方と敵とを区別したり、善人と悪人を別け隔てしたりしないようなタイプの“愛”なのです。敵を愛しなさいとは、そういうことなのです。このような“愛”を実践することは、通常の人間、並の人間には至難のわざと言えます。
しかし、このような“愛”なくしては、天の父なる神の子になることはできないとイエスは明言されるのです。
これと同じようなことを、イエスは『主の祈り』に関連して述べておられるのです(マタイによる福音書6章9節~15節を参照)。つまり、自分に失礼なこと、無礼なこと、危害を加えた人であっても "ゆるしなさい"ということです。いわば自分が"敵"や"悪い人"とみなしている相手であったとしても、ゆるし、受け入れ、あたかも自分の味方であるかのように愛していくということです。言い換えるなら、敵-味方、悪人-善人というふうに区別して捉える固定観念自体を手放してしまうということを意味します。これこそが、互いに愛し合いなさいというイエスの新しい戒めが、私たちの心に与えられるということであり、私たちの思いのうちに書きつけられるということなのです(ヘブル人への手紙10章16節を参照)。
このようなタイプの“愛”を実践していかない限り、天の神の御旨を行っていることにはならないわけです。また、天の神とうまく付き合っていくことは、ままならないのです。良好な関係を築くことはできないのです(マタイによる福音書6章15節を参照)。
自分に好意を抱いている人を愛すること、自分を愛している人を愛することは、比較的簡単なことです(マタイによる福音書5章46節~47節を参照)。
でも、そのようなレベルの愛し方を、山上説教の中でイエスが説いているわけではないのです。一般の人間には、たとえ逆立ちしてもできないような、一見、実践不可能に想えるような愛し方を要求しておられるのです。
「わたしはあなたがたに新しい戒めを与える。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」とイエスは命じられましたが、実は、そこにはこれと同じような意味合いがあるのです。
では、一体、どうしたらそれができるというのでしょうか? イエスの答えは、どこにあるのでしょうか? 山上の説教の中に その答えを見つけることができます。答えは多くはないと想います。イエスの明確な答えが、たった一つだけ用意されているのです。 でもそれは、『信じるということ』でもなく、『神に対して熱心に祈る』、あるいは、ただ『聖書をしっかり通読すること』でも、『聖句を暗唱したり、暗記したりすること』でもありません。
たった一つのイエスの答えがあると、私は観ています。それは・・・
「さばくな」(マタイによる福音書7章1節)
です。 ・・・ 続く ・・・
(7月24日 日曜日 7:03 更新)(7月31日 日曜日 23:05 、8月20日 土曜日 6:44 補足更新)
人を愛するとは、人をさばかないことを意味しています。さばきながら、人を愛するということはできません。
そして、さばかない"コツ"が身についている人の前には、救いの道が開かれているのです。
さばかないことの重要性を教えたイエスが語っている様々なメッセージの中には、よくよく観ていくと、救いの道が指し示されていることがわかってきます。
一見、救いとは関係のないことを語っているように見えても、救いの奥義についてイエスが語っていた・・・ということが、実に、多いのです。
人は救いの道を歩いているか、あるいは、救いの道から外れて歩いているかのいずれかであると言えます。
救いへの"ハードル"はとても高いように、多くの人には思えるかも知れません(マタイによる福音書19章34節を参照)。そのために、多くの人々は(もちろん、クリスチャンも例外ではありません)、自らの救いを獲得するためにポイントを稼ごうと努めてきたわけです(マタイによる福音書7章22節を参照)。
でも、その"ハードル"を高くしているのは神の側ではなく、むしろ、人間の側なのです。
救いの道を見えなくしている"ハードル"という存在をイエスは『あなたがたの目にある梁』(マタイによる福音書7章3節)と表現していたわけです。
そして、その『目にある梁』を作り出していくか、逆にそれを取り除いていくかは、その人が『さばく』か、『さばかない』か・・・によるのです。イエスは、「自分の目から梁を取りのけるがよい」(マタイによる福音書7章5節)と言いました。その方法というのが、「さばくな」(マタイによる福音書7章1節)ということに密接に関係してくるのです。
幼な子のような者
マタイによる福音書19章13節~15節には、次のように記されています。
「そのとき、イエスに手をおいて祈っていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。するとイエスは言われた、『幼な子らをそのままにしておきなさい。わたしのところに来るのをとめてはならない。天国はこのような者の国である』。そして手を彼らの上においてから、そこを去って行かれた。」
天国というのは、幼な子のような者の国である・・・と、ここでイエスは言われました。
多くの大人のキリスト教信者にとって天国への"ハードル"が高すぎて、その救いから漏れてしまうというのに、幼な子らにとっては、そのような"ハードル"は存在していないというわけです。
なぜでしょうか? 単に、幼な子だから・・・というわけではありません。幼な子というのは、大人たちと違って、『さばく』というマインド・プロセスを使わないで捉えるがゆえに "ハードル"というものが存在しないのです。まさに、『さばかない』ことが、天国の救いの扉をいとも容易に開くことのできる鍵と言えるのです。
十字架上の犯罪人
ところで、イエスが十字架にかけられていた時に、その両側に犯罪人も十字架刑に処せられていました。最後までイエスをののしり続けていた犯罪人の方ではなく、もう一人の犯罪の方がイエスにパラダイスへの救いを宣言されました。なぜでしょうか? 後者の犯罪人の方の罪が比較的軽かったからでしょうか? いえ、そうではありません。後者の犯罪人の方が、『さばくことをやめた』からなのです。 “さばく”というマインド・プロセスを停止した時に、目に見えない真実、事実、真相、真理を捉えることができる目が開かれたわけです。
ぶどう園の譬
イエスは、「天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。・・・」(マタイによる福音書20章1節~16節)という譬を引用して、救いの奥義を語ったことがあります。ここをこの世の既成概念でザッと読むと、イエスが何を言いたかったのだろうか・・・と、理解に苦しむことになるのではないかと想います。というのは、長時間にわたって真面目に働いた人の賃金が、遅く雇われてわずかしか働かなかった人の賃金と比べたら不公平感が生じてしまうからです。つまり、一日あたり1デナリを支払うと主人が約束をしたのはよかったのですが、夜が明けて間もなく雇った労働者にも、午前9時ごろに雇った労働者にも、12時ごろと午後3時ごろに雇った労働者にも、さらには、夕方5時ごろに雇った労働者にも、同じ賃金の1デナリを支払ったというのです。
天国というのは、このようなものであると、イエスは言われるのです。長時間にわたって、一日中、労苦と暑さを辛抱しながら主人のために働いた労働者が、ほんのわずかしか働いていない労働者と同等な報酬しかもらえないとしたら、頭にきて主人に当然のことながら抗議をしたくなります、「あまりにも不公平過ぎる!」と。
実は、ここで抗議する労働者の心理というのは、まさに、山上の説教の中で 「主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったのではありませんか」(マタイによる福音書7章22節)と主イエスに向かって抗議するキリスト教信者たちの心理を全く同じではないか・・・と、私には想えるのです。
どちらもイエスが説く『救いの奥義』というものをわかっていないと言えます。
この『ぶどう園の譬』を通して、イエスは『救いの道』を指し示しておられました。でも、この譬の中では、信じるとか、信じないとか、そのようなことに関しては直接語られていません。つまり、“信仰によって救われる”というような教えをイエスは、単に 説こうとしていたのではないのです。
では、この『ぶどう園の譬』をどのように読み解くべきなのでしょうか?
人に与えられる救いというのは、神の勝手気ままな不公平さにある・・・ということを、イエスがこの『ぶどう園の譬』で言いたいのではありません。人のうちにある既成概念、固定観念、常識といった過去の記憶情報に照らすこと(=マインドを働かせること)によって 物事を観たり、捉えたり、断定したり、決めつけたりしようとする(=これが"さばく"ということ)と、自分と他人の報酬の額を比べてしまい、不平不満、不公平感などが生じてしまうというメカニズムを知るべきなのです。
つまり、イエスがこの譬を通して教えようとしておられたのは、『さばくな』ということだったのです。自分のうちにあるマインドの働きを停止して、さばくことをやめた時に、そこに救いの道が開けてくる、救いの奥義を知ることになるということなのです。
イエスが "神の国は、あなたがたのただ中にある"と言われたのは、まさにそのようなニュアンスがあると、私は観ているのです。
(8月11日 木曜日 12:29 更新) (8月13日 土曜日 22:16、8月20日 7:12 更新) (9月3日 土曜日 22:16 改訂更新)
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