意識の進化、次元上昇をアシストする“イエス-道(Jesus,the Way)”

“イエス-道”という視点から、人生を生きる秘訣・コツを考える“斬新的な聖書リサーチ”

6月19日〈日〉7:17 更新 『イエスが説いた道』

2016年06月19日 07時17分40秒 | 徒然なるままに


イエスが説いた道



久しぶりのブログの更新となります。

 

長年にわたって聖書を読み、研究・探究してきてみて、聖書の教え、あるいは、イエスの教えの中で最も重要なものは、さばかない」ということの実践にある・・・・これこそが、私が最終的に辿り着いた結論でした。


これこそが聖書を解く鍵ではないか・・・と、私は観ています。この鍵を使うと、聖書の中にある罪の本質はどこにあるのかということも、また、救いに関する真理も見えてきてしまうのです。

 

この一点が見失われてしまう時に、これが盲点になってしまう時に、これが軽んじられてしまう時に、これが実践されない時に、たとえどんなに素晴らしい真理や教えがあったとしても、それらは無に帰してしまう、これまで築き上げてきたものがすべて崩壊していってしまう(マタイによる福音書7章26節~27節を参照)。そのように私は想えてならないのです。


イエスが説いた教えを集約していった時に、山上の説教の中でも明確に説かれた「さばくな」というの教えに絞り込むことができる・・・と、私は観ている。“信じる”とか、“祈る”とかということではなく、「さばくな」ということです。


信じる”ということも、“祈る”ということも、実は、さばかない」という実践があってこそ、はじめて成立するものだからです。


私は、現在、“キリスト教という宗教”自体には特にこだわってはおりません。とは言っても、それを否定するということではありません。私はイエスがじかに説いた教えに回帰したいのです。一切のノイズをクリアーして、イエスが説いた教えそのものに直接耳を傾けていく・・・・それが、今の私のスタンスなのです。『キリスト教という宗教』という枠組み内に“とどまる”ということではなくて、むしろ、そこから“卒業していく”、“超越していく”という感じと言えます。


ここで、キリスト教に現在籍を置いている人たちに、そこから離れなさいとか、籍を抜きなさい・・・と、私は勧めているわけではありません。心の面において、『キリスト教という宗教』に対するこだわり囚われ執着などから、自分の想いを解放していくこと、自由にしていくことが大切なのではないかということです。(これが「自分の目から梁を取りのける」(マタイによる福音書7章5節)ということなのです。) そして、これまでの先入観や偏見、教え込まれてきたこと、洗脳、ノイズから解放された状態で、キリスト教の経典である聖書、その中でイエスが直に説いた教えを観ていく、捉え直していく、俯瞰していく。その時にやがて、その中に“宗教という枠組み”を超えた、『普遍的な真理』が輝いて見えてくるのではないでしょうか? また、“真実の栄光”がその人の心鏡に映し出されてくるのではないでしょうか?


私が書いているこのブログの目的は、もちろん、いわゆる『キリスト教の伝統的な教え』に関する情報を皆さんに提供することではありません。イエスの口から語られた“人が人として生きるべき道”は『さばかないという生き方』にある・・・ということを、私はお伝えしたいのです。そのために、『さばかない』とはどういうことなのか、その反対の『さばく』とはどういうことなのかについても、私なりに皆さんに情報提供をしているというわけです。

6月11日〈土〉23:50 更新



信じる(信仰)とは?


信仰(=信じること)とは、肉眼では見ることのできない事実を確認し、捉えることです(ヘブル11章1節を参照)。


霊的に盲目であるということは、“盲信”以外の何ものでもありません。 信仰が正常に働くためには、霊的な目がはっきり見えていなければなりません(マタイによる福音書6章22節23節を参照)。そのことをイエスは、自分の目からを取りのけなさい・・・と言われたのでしたマタイによる福音書7章5節を参照


では、信仰の目からこのを取り除いて、視界をクリアーするにはどうすればいいのでしょうか? そのことに対するイエスの答えが、『さばくな』ということだったのですマタイによる福音書7章1節を参照


これまで、意識的に、あるいは、無意識的に さばいていた人が『さばくこと』をキッパリとやめる時に、その人の目に立ちはだかっていたが崩壊していくのであり、その結果、信仰の目が開け、ハッキリと見えるようになっていくわけです。 このことからもわかるように、信じるということは、『さばかないこと』によって初めて可能となるのです。



祈るということ


では、真に祈るためには、何が重要になってくるのでしょうか?


山上の説教の中で“祈り”について、イエスが解説したことをよくよく観れば、その答えが自ずと解ってきます。


それは何かと言うと、『ゆるす』ということです(マタイによる福音書6章12節、14節~15節を参照)。


ゆるす』とは、一体、どういうことでしょうか? それは、“過ぎ去ってしまったこと”に、こだわらないこと、固執しないこと、執着しないこと、囚われないことです。過去に起ったことを手放すということ。“過去のこと”に対する個人的な思い入れや思い込みを“今、この瞬間”まで引きずらないことです。過去と切り離して、“今というこの瞬間、瞬間”を生きるということです。それは、別の言葉でいうと、マインドで『さばかないこと』を意味しているのです。


以上からわかるように、真の祈りにおいて、『さばかないということ』が大前提になっている、とても重要になってくるというわけです。


聖書の中でイエスが説いた数々の教えの背後には、『さばくな』という普遍的な真理が脈々と息づいていることがよくわかります。何故、イエスはこういうことを語ったのかな・・・と、ちょっと首を傾けたくなるような場合でも、よくよく観ていった時に、やはり、そこには『さばくな』という真理が見え隠れしていることがわかります。


さばくな』という真理の光を当てながら、聖書を読み返していく時に、これまで見えてこなかった大切なメッセージを読み取ることも可能になってくることでしょう。聖書の探究は、目からウロコが取れ、感動の連続になってきます。これまでなぜ自分は、このことに気づかなかったんだろう・・・と。

6月12日〈日〉23:00 更新) 



さて、次回のブログの予告です。

 山上の説教の最後の方でイエスが語られたことに注目を向けてみたいと想います。イエスを長い間信じ、神の御旨をおこなってきたと思っていた立派な信者たちの多くが「あなたがたを全く知らない。出て行け」と主に言われて、結局、天国から閉め出されてしまうという場面です。

コリント人への第一の手紙の中で、使徒パウロはイエスの福音によって救われると確かに書いています。この福音を′信じている′多くのキリスト教信者が、理論上、救われるはずなのですが、実際にはそういうことにはならない・・・と、イエスは言われるのです。

では、山上の説教の中で描かれている『天国から閉め出されてしまう不幸な信者たちの悲劇』は、イエスの福音による救いという観点から、どう説明がつくのでしょうか?

次回のブログでは、このような深遠なテーマに挑んでみたいと想っているわけです。それによって、イエスの福音とは、一体、何なのかという、いわば聖書の中で説かれている『福音の真理の核心』に迫っていこうと考えているのです。

もちろん、′イエス・キリストを信じさえすれば救われる′・・・などと言った表面的なことを私は書こうとしているのではありません。イエスが教えようとしていた『救い』というのは、実は、こういうことだったのか・・・福音書の中でイエスが語っていた様々なことは、一つの大事なことを指し示していたのか・・・目からウロコが取れた、これでようやく腑に落ちた、合点がいった・・・そんな皆さんのサプライズ、感動に繋がっていければ・・・と想いつつ、次回のブログを書き進めたいと考えているのです。

どうか続くブログも、お楽しみに・・・。

(6月19日 日曜日 7:17 更新)


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コメント (1)
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