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12/4(金曜日)23:20更新 ブログ(128):(19)“取税人とパリサイ人の祈り(3)" ーエデンへの回帰と反転

2015年12月04日 23時20分53秒 | イエス-道

このブログは、『イエス-道』:(18)“取税人とパリサイ人の祈り(2)―エデン”からの続きです


『イエス-道』:(19)“取税人とパリサイ人の祈り(3)‐エデンへの回帰と反転”


私は、この譬の中で義とされて自分の家に帰っていった取税人ルカによる福音書18章9節~14節を参照イエスから十字架上で救いを宣言された犯罪人ルカによる福音書23章39節~43節を参照との間には共通点がある・・・と、私は観ています。


その共通点というのは、譬の中のパリサイ人とは違って、盲目ではなかったという点です。つまり、彼らの心の目の視界は“”によってブロックされておらず、見えない真実・事実というものがハッキリと見えていたということです。


この取税人も、また十字架上にかけられていた犯罪人も、自分たちが生きてきたこれまでの人生を振り返ってみたところで、の前に差し出せるような“輝かしい功績や実績、善行、誇るべきものなど”は、何も見つからなかったと想います。もし、彼らの心の奥底から出てくる“に申し上げることができる言葉”があるとするなら、それは「神様、罪人のわたしをおゆるしください」(ルカによる福音書18章13節)・・・、この言葉以外に、に語る言葉としては、彼らには思いつかなかったのではないかと、想うのです。


譬の中のパリサイ人の場合は、自分がいかにこれまで立派な人間だったか、義人だったか、善人だったか、どれほどの素晴らしい功績や実績を自分の人生の中で積み重ねてきたかということ(実は、これが“いちじくの葉”をつづり合わせて、自らの罪によって生じた“ほころび”や“恥”を覆い隠そうとする行為が暗示しているものなのです)をに申し述べようとするのです。それを根拠に、自分こそ優先的に救われるはず・・・と思い込んでいるのです。でも、このように考えていたパリサイ人義と認められなかったと、イエスは言われるのです(ルカによる福音書18章14節を参照) 。


でも、この取税人十字架上にかけられていた犯罪人は、微塵にもそのようには想っていなかったのです。むしろ、“私はに救われるのに値しない人間である”と想っていたのです。救いと交換できるような価値あるものを、自分は全く持ちあわせていないことをよく知っていたのです。の前では、まさに“裸同然”である自分の現実をよく知っていたのです。それでも、彼らは“裸同然の自分”を『いちじくの葉のようなもの』(=マインドが考え出した産物)をつづり合わせて覆い隠そうとはしなかったのです。みずからが考え出し、提供されておられる“皮の着物”(=神の小羊なるイエス・キリストの身代わりの義という着物)で覆われることを、彼らはに祈り求めたです。それが、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」という言葉にはっきりと現われているのです。つまり、盲目になっていたパリサイ人と違って、彼らの目は澄んでいてマタイによる福音書6章22節を参照)、はっきりと見えていたので(同7章5節を参照)、“ゆるし”を、“寛容の愛とあわれみに満ちた”、“善人と悪人を分け隔てをしない完全な愛”をしっかりと、ありのままに認めることができたのです。だからこそ、彼らは義と認められ救いにあずかることができたというわけなのです。


これが、『イエス-道』から観て、解析した“信仰によって義と認められる”という“信仰による義認”の教えと言えるのです。


ここで、もう一度、使徒パウロによる“信仰による義認”について述べた奥深い言葉を直観で体感してみて下さい。あえて、説明はしません。蛇足になってしまうでしょうから。


「しかし、働きはなくても、不信心な者をとするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。ダビデもまた、行いがなくても義と認められた人の幸福について、次のように言っている、『不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、さいわいである。認められない人は、さいわいである』。」(ローマ人への手紙4章5節~8節


ここで、パウロが何を言いたかったかがピンとくる人は、もしかしたら心の目が開かれている人かも知れません。



エデンへの回帰


前に、当ブログ『取税人とパリサイ人の祈り(1)』の中で、救いにあずかるようになるためには、“エデンに回帰していく”・・・ということを述べました。つまり、人類の“”というものの起源・ルーツをエデンの園で起きた出来事における霊的な意味を知っておくことがとても重要になってくるのです。それがわかったら、それをひっくり返していく、すなわち、それを反転させていけば、そこに救いの道が自ずと観えてくると、私には想えるのです。


実は、『取税人とパリサイ人の宮での祈り』という譬を通して、イエスはそういうことを教えたかったのではないか・・・。


エデンの園における“罪のルーツ”というのは、に食べるなと禁じられていた“善悪を知る木の実”を人が取って食べたところにあると聖書的には捉えることができます。その“善悪を知る木の実”を食べると、「あなたがたの目が開け、のように善悪を知る者となる」(創世記3章5節)と言って、へび二人それを食べるように誘導しました。そして、が実際にその木を見てみたところと、「それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいたにも与えたので、彼も食べた」(同3章5節)とあります。「すると、ふたり目が開け、自分たちが裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた」というのです(同3章7節)。


このようにして始まった“罪のルーツ”を解析していくと、一体、何が観えてくるのでしょうか? 


私には、このエデンの園で起こった出来事の中に重要なポイントが隠されているように想えてならないのです。へびは、善悪を知る木から取って食べると、「目が開け、のように善悪を知る者となる」と言いました。ところが、実際には、二人がそれを食べた後に、と全く同じように善悪を知るということにはならなかったのでした。


へびに誘われるまま、“善悪の木の実”を見たところ、それは「食べるに良く目には美しく賢くなるには好ましい」と思われ、それから口にしました。そして、夫にも与えたというのです。つまり、それを食べても何ら問題はないという“思い込み、“見た目がすべて”という考え方、すなわち、外見の美しさ、表面的なきらびやかさなどに惑わされている状態と同等な賢さ(=知恵)ではなかったのです。むしろ、“善悪の固定観念という二元論的な発想”に囚われて物事を見たり、判断したり、解釈したりするようになってしまったということです。言い換えれば、マインドを駆使することによって もたらされる賢さであり、知恵なのです。エデンにおいて始まったこのようなマインド主導の世界が、地球の人類全体を飲み込むようになるのです(ローマ人への手紙5章12節~21節を参照)。このマインド主導の世界が、まさに“この世”なのです。そして、マインド主導の発想で、区別したり、分け隔てしたり、差別したり、比較したり、競合したり、競争したり、争ったり・・・と、さばくことが人間の性(サガ)となってしまっているわけです。これが当たり前のようになっていために、もはや何の違和感も感じなくなっている状態なのです。


このようなマインド主導の世界というのは、神の世界とは接点を持たないのです。マインドによる発想自体が、目の前の“”となってしまい、をあるがまま観ることを妨げてしまうのです(コリント人への第1の手紙18節~2章16節、マタイによる福音書13章14節、詩篇18篇25節~26節を参照)。どうしてもそのものを偏った観かたや捉え方をしてしまうものなのです。


この“”が心の目から取り除かれている人こそが、まさに“心の清い人”なのであり、イエスが山上の説教の冒頭の方で、「心の清い人たちは、さいわいである。彼らはを見るであろう」(マタイによる福音書5章8節)で言われたのは、実はそのことだったのではないか・・・と、私は観ているのです。


これまで長い間、自分の想いマインドによって支配されていた、囚われていた、縛られていたということに気づいていくということが、実は、“霊的な覚醒”への第一歩となるのです。そして、自分の中でこれまでフル活動していたマインドの働きを停止していった時に、目に前には“救いの道”が観えてくるのです。イエスは、「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者は多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」(マタイによる福音書7章13節~14節)と、山上の説教で語りました。私は、マインド主導で生きていくことこそが『滅びに至る門』、『広い道』であり、一方、マインドの働きを停止する術(すべ)を身に着けて、自分をがんじがらめにしてきたすべてのことから想いを解き放って、自由な状態にしていくことが『命にいたる門』、『細い道』となるのではないか・・・そんなふうに、私は観ているのです。


このようなコツを身に着けて、魂の救いを実際に体験していったのが、例をあげると、十字架上で救われた犯罪人であり、イエスが語った譬の中の取税人であり、試練から救われたヨブだったのです。



エデンへの回帰、そして、反転


ヨブは、試練に遭った時に、「わたしはで母の胎を出た。またでかしこに帰ろう」(ヨブ記1章20節)と言いました。ある意味において、ヨブが試練に遭って、自分が持っていたものがことごとく奪われていった時に、“裸の状態の自分を気づいた”ということ。すなわち、エデンにおける原点(創世記3章6節~7節を参照)に回帰していったと言えます。でも、そこからが大事なのです。“原点のさらなる原点”とも言うべきところに回帰していって、そこを反転させていけばいいわけです。


つまり、“善悪の木の実を食べた”ということが暗示しているのは、“善悪の固定観念を自分の中に取り込んでしまった”ということなのです。のように賢くなれると思い込んで・・・。ところが、その賢さというのは、“の賢さ”ではなくて、“マインドが造り上げ、築き上げ、積み上げていく賢さであって、人はそれによって、“のようになろう”、“をも凌駕しよう” 、あるいは、“の存在すらも否定する”といったような傲慢な想いまでも持ってしまったわけです創世記11章1節~9節を参照)。そこには、高慢や高ぶりの精神さばきの精神がプンプン匂うのです(ヤコブの手紙4章6節~16節を参照

 

エデンにおける“原点のさらなる原点”というのは、“さばいた”というところにあります。“さばく”ということは、何かを基準にして、それと比較して判断したり、評価して、最終的な裁定を下すことを意味します。そこには、決めつけがあり、思い込みというものがあるのです。わずかな情報や知識だけで、軽率な判断・評価・最終決定・ファイナルアンサーを出してしまうことが、“さばく”ということです。そして、“さばく”ということの背後には、様々な固定観念があるもの。その最たるものが、“善悪の固定観念”と言えるでしょう。このような固定観念というフィルターを通して、人は“さばいていく”わけです。


では、エデンにおけるその“究極の原点”に回帰していって、そこから“反転させていくには、実際どうすればいいのでしょうか?


それは、“さばくこと”の全く反対のことをやればいいわけです。つまり、“さばくことをしない”、“ジャッジしない”ということです(マタイによる福音書7章1節を参照)。これを実行、実践していくことが、“反転させていく”になるのです。人類にが入ってきた“究極の原点(=さばいたということに、実は密接に関係している)”に回帰していって、そこを反転させていくところに、実に、救いの道が開け、見えてくるのです。イエスの山上の説教の中でさばくな”と説いたことは、実に、重要なメッセージだったと言えます。


「悔い改めて、わたしを信じなさい」、「わたしの名によって、天の父に祈りなさい」、「ゆるしを信じなさい、そうすれば救われる」などとイエスがたとえ語ったとしても、それによって人が実際に救われていくというのは、至難のわざである・・・と、私は想うのです。イエスが語った多くの教えの中から、「さばくな」というたった1つの教えを取り除いただけで、イエスの語った他のすべての教えは崩れ去っていく・・・と、私は観ているのです。それほどまでに大事で、なくてはならない教えというのが、まさに「さばくな」という教えであると言えます。


そして、この「さばくな」(マタイによる福音書7章1節)という教えとペアーになっている教えと言うのが、「自分の目から梁を取りのけるがよい」(同7章5節)なのです。この2つは、“コインの裏と表”のような関係にあると言えるのです。では、何のために自分の目から“”を取りのける必要があるのでしょうか? 


それは、“はっきり見えるようになる”ためです(同7章5節を参照)。はっきり見えていないからこそ、人はさばいてしまうのです。目に“”が存在しているから、はっきり見えないのです。さばくことをやめることで、人は自分の目から“”を取り除くことができ、その結果、はっきり見えるようになるのです。私がここで言いたい霊的メカニズムが、お解りいただけるのでしょうか?


実に、十字架上の例の犯罪人は、自分の人生がまさに終わろうとしていた直前に、“さばかずにイエスを観たので、イエスのうちのある真理(=見えない事実)がはっきり見えたのです。だからこそ、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」(ルカによる福音書23章42節)と言うことができたのでした。そして、彼がパラダイスに救われることを、イエスに宣言されたのでした。


また、イエスが譬の中で語った取税人は、パリサイ人と違って、“さばかなかった”からこそ、すなわち、目の“”が取りのけられていたからこそ、ゆるしをあるがまま、はっきり見ることができたのです。だからこそ、取税人は「神様、罪人のわたしのおゆるしください」と祈ることができたのです。


つまり、十字架上の犯罪人も、譬の中の取税人も、人類史上に罪という問題が生じたきっかけとなった“さばいた”という行為を反転させ、“さばくことをやめた(=マインドの働きを停止させた)”ことで、善悪の固定観念からも自分の想いが解き放たれて、自由となって、魂の救いを得たのであり、義と認められ、ゆるされたのです。


・・・・・・“取税人とパリサイ人の祈り(4)‐ラオデキヤ”へ続きます・・・・(11月26日 木曜日 23:08更新中) (11月29日 日曜日 0:15更新)  (12月4日 金曜日 23:20更新)   


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