意識の進化、次元上昇をアシストする“イエス-道(Jesus,the Way)”

“イエス-道”という視点から、人生を生きる秘訣・コツを考える“斬新的な聖書リサーチ”

10/15(日)更新 『放蕩息子の譬』 - “イエス‐道”から読み解く

2017年10月15日 23時10分12秒 | イエス-道


放蕩息子の譬- “イエス‐道”から読み解く

 

 

今回のブログでは、イエスが語った有名な『放蕩息子の譬』に想いを巡らせてみたいと考えています。

 

『放蕩息子の譬』は、ルカによる福音書15章11節~32節にあります。この譬を通してイエスが本当は何を伝えたかったかについて知ることは、とても重要なことであると、私は観ています。


実際、私がイエスの山上の説教の中に“イエス‐道”を見い出す前と後では、『放蕩息子の譬』の私自身の捉え方がガラリと変わりました。


なんと、この『放蕩息子の譬』の中にも、山上の説教における核心的な教えである“イエス‐道”の真理そのものが脈々と息づいていることがわかります。


弟(=放蕩息子)だけではなく、その兄も登場することで、実は、『放蕩息子の譬』に秘められた真理が よりハッキリ、また、より立体的に見えてきます。


さて、これからご一緒に、イエスが語られた『放蕩息子の譬』に想いを巡らせて参りましょう。


・・・続く・・・ (10月15日 日曜日 更新) 

 

 

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10/15(日)更新 『天国に入り損なう人たち(3)』 - 山上の説教を読み解く

2017年10月15日 17時08分46秒 | 山上の説教の考察

 ・・・・これは、『天国に入り損なう人たち(2)』からの続きです・・・・


天国に入り損なう人たち(3)

 

 

ところで、必ず天国に入れると自分では思い込んでいたのに、結果的に、天国に入り損なってしまう人たちは 『あなたがたを全く知らない。・・・』」(マタイ福音書7章23節)と主にはっきりと言われる・・・と、山上の説教の中では描かれています。一体、なぜでしょうか? 

 

キリスト教を長年にわたって信じて、教会にも在籍し、礼拝にも積極的に参加し、定期的に献金もささげ、主イエスのため、天の父なる神のため、善行もなし、祈りもささげ、聖書もそれなりに読んできた彼ら"忠実なキリスト教信者たち"のことを主イエスも父なる神も何も知らないはずはない·····なのに、なぜ「あなたがたを全く知らない」と言われるのでしょうか?

 

父なる神も、神の御子イエスも全てのことを知り尽くしておられるはずなのに、どうして“知らんぷり”をされるのでしょうか? 常識的に考えると、とても不思議な感じがし、違和感すら覚える方も多いのではないでしょうか? このことに関して、私たちはどのように理解したらよいのでしょうか? 聖書を学んでいくと、しばしばこのように、一見、矛盾に思えるような聖句に出会うことがあります。

 

今回は、この点について さらに突っ込んで考察してみたいと想います。


主イエスが「あなたがたを全く知らない」と言われる場合、これを裏を返して観ると、『天国に入り損なう人たち』自身が主イエスのことも、父なる神のこともよく知っていると単に思い込んでいただけであり、実際には知らなかったということでもあります。つまり、主イエスも父なる神も、『天国に入り損なう人たち』に知られていなかった、誤解されていた、曲解されていた・・・、ということ。


個人的な聖書の学びを通して、また、教会での説教などを通しても、神の御子イエスや父なる神のことを学ぶ機会、知る機会がしばしばあったはずなのに、神が本当はどのようなお方なのかが、実は、彼らには知られてはいなかったというわけです。


何故なのでしょうか? まだ腑に落ちないのではないかと思います。


実は、ヒントになる聖句があるのです。


それは、次に引用する使徒パウロの言葉です。


人が神を愛するなら、その人は神に知られている。」(コリント第1の手紙8章3節)


つまり、「あなたがたを全く知らない」と言われる『天国に入り損なう人たち』というのは、『神に知られていない人たち』のこと、すなわち、『神を愛していない人たち』である····と観ることもできるのです。でも、彼ら自身は “わたしは、これまで神を愛してきた”と思い込んでいるかも知れませんが。


ところで、使徒ヨハネはこのようにも記しています。


現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。」(ヨハネ第1の手紙4章20節)


これから、『天国に入り損なう人たち』というのは、「現に見ている兄弟を愛さない者」である······とも言えます。


では、現に見ている人を“愛する”とは、どういうことなのでしょうか? ここから、本格的な聖書の探究が始まるのです。


愛するとは、どういうことなのかについて知るヒントは、実に、イエスの山上の説教の中にある·····と、私は観ています。


そのヒントというのは、'マタイによる福音書5章43節~48節'です。


ここでイエスは、「悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さる」天の父なる神の愛について触れています。


つまり、この山上の説教の中でイエスが指し示しておられる'神の愛'というのは、『寛容の愛』のことだったのです。悪い者と良い者と分け隔てしないという寛容の愛、言い換えれば、『'さばかない'という寛容の愛』のことを言っていたのです(マタイによる福音書7章1節を参照)。人を善悪という基準でさばくことなく、人をあるがまま認めて受け入れていくという大きな包容力 · 受容性というのが、イエスが語っている愛の中身というか核心部分なのです。


   「愛は寛容であり、····」(コリント人への第一の手紙13章4節)


そして、「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」とイエスが言われる時、それは 天の父が『'さばかない'という寛容の愛において』完全であられるように、あなたがたも『'さばかない'という寛容の愛において』完全な者となりなさい····という意味なのです。


'あらゆる点において、天の父なる神と全く同じように完璧な存在になれ'という風に、イエスが私たちに命じているわけではないのです。

 

そして、天の父なる神が持っておられるこの『寛容の愛』という点において完全になるということは、私たちに十分に可能なのです。そのためには、イエスが命じられたように、'さばく'ということをやめさえすればいいのです(マタイによる福音書7章1節を参照)。私たちのマインドにおいて、'さばく'という思考プロセスを停止した上で、ただあるがまま観て察していく、観照していく、捉えていく、認めていく、受けとめていく······これが、重要な'鍵'となります


'さばく'という頭の思考パターンに馴染んでしまった私たちが、'さばかない'という新たな思考回路を切り開いていく、シフトしていく、そのコツを学んでいくというのが、ある意味、『信心の訓練』において最も重要な部分と言えるかも知れません。


さらに、山上の説教の中でイエスは、「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。」(マタイによる福音書6章14節~15節)ということも語っておられます。

 

'人をゆるさない'ということは、その人に関する『過去の情報』に囚われ、こだわり、固執し、根にもって、その『過去』というフィルターを通して その人の『今』を観て 'さばいている'ことを意味します。


逆に、'人をゆるす'ということは、その人の『過去の情報』に囚われることなく、こだわることもなく、固執することもなく、根に持つこともなく、つまり、『過去』というものを切り離した上で、『今、この瞬間』に存在しているその人をあるがまま認めていく、受容していくということ。すなわち、人をゆるすとは、『過去』というフィルターを通して  その人を観てあ~だ、こ~だと思い込んだり、決めつけたりしないこと········言い換えると、'さばかない'という寛容の愛そのものに基づいた行為であることがわかります。


このように、人をゆるすということ、言い換えれば、'人をさばかない'ということが、天の父なる神に通じる道であり、神の国へのゲートを大きく開いていくことにもなるのです。


'私はクリスチャンだから天国に救われる'とか、'私はキリスト教の信仰を持っているから天国に救われる'とか、あるいは、'私は、長年にわたって、キリスト教信者としての実績も積んできたから天国に救われるはずだ'というふうには、単純には言えないわけです(マタイによる福音書7章21節~23節を参照)。


信仰という目が開かれていること、信仰という目が澄んでいること、信仰という目ではっきりと見えていることが、実はとても重要なのです(マタイによる福音書6章22節~23節、同7章5節を参照)。そのために必要不可欠なことが、'さばく'というマインドプロセスを停止するという具体的なノウハウ、秘伝をイエスは山上の説教の中で説いたというわけです(マタイによる福音書7章1節を参照)。


イエスは「わたしは、道である」と言われました。天の父なる神へと通じる道、天にある神の御国へと通じる道、永遠の命に至る道。そして、イエスが命じた「さばくな」を実践している人は、この道をすでに歩いているのです。


この「さばくな」ということが、イエスの山上の説教の中で説かれている重要かつ核心的な真理であり、メッセージなのです。また、様々な聖書の教えを解く鍵となっていくのです。


山上の説教でイエスが説いた『さばくな』という教えを聖書研究の中心に据えて聖書全体を解き明かしていこうとする私のユニークなスタンスというのは、従来のキリスト教とは、観る視点が随分と異なっているので、これを『イエス-道』(=Jesus,the Way)と私は名付けたわけです。


日本には、柔道、剣道、合気道などのような武道、あるいは、茶道、書道、華道·····究めるべき様々な『道』というものがあります。私は、従来のキリスト教という『宗教』をこのような『道』のレベルまで昇格させ、『イエス-道』なるものがあってもいいのではないか····と想っているのです。'伝統的なキリスト教的な視点'から聖書の世界を観ることから卒業、あるいは、脱却して、'イエス自身の視点'からもう一度聖書を捉え直していくということが、今の時代、必要なのであり、とても重要なのではないでしょうか?


そして、特に'山上の説教'の中でイエスが説いた'人として生きていく道'-----'さばかない'という生き方-----を自分が日々生きる道として実践していく。これこそが『岩の上に家を建てる賢い人の生き方』であり、何ものにも流されることなく、翻弄されることなく、着実なる人生、確実なる人生をこの世で送ることが可能となるのではないでしょうか?(マタイによる福音書7章24節~25節を参照)

(9月24日 日曜日、10月9日 月曜日、10月15日 日曜日 更新) 


   次のブログ放蕩息子の譬』は、“イエス-道”の視点から光を当てて、観ていきます。


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9/18(月)更新 『天国に入り損なう人たち(2)』 - 山上の説教を読み解く

2017年09月18日 23時14分24秒 | 山上の説教の考察

       ·····これは、『天国に入り損なう人たち(1)』からの続きです ·····

 

天国に入り損なう人たち(2)』 - 山上の説教を読み解く

 


主イエスの山上の説教を読み解くにあたって、『内なる光』というのも重要なポイントの一つです。つまり、人が自分自身の『内なる光』を暗くすることなく、常に明るく輝いている状態に保つことがとても重要であるということです。


目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。」(マタイによる福音書6章22節~23節)。

 

『天国に入り損なう人たち』というのは、この『内なる光』が暗くなっている人たちであるとも言えます。


また、イエスが『信仰の薄い者たち』(マタイによる福音書6章30節)と呼んだのも、やはり『内なる光』が暗い人たちのことなのです。


『律法学者やパリサイ人の義にまさった"神の義"を持っていない人たち』も同様です(マタイによる福音書5章20節,6章33節を参照)。


偽善者』とイエスが呼んでいる人たちの『内なる光』も、やはり暗くなっています。


滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い」(マタイによる福音書7章13節)とイエスは述べましたが、このような人たちの『内なる光』も、もちろん、暗くなっているのです。


砂の上に自分の家を建てた愚かな人』(マタイによる福音書7章26節)も、言い換えれば、『内なる光』が暗くなってしまった人たちのことなのです。


さらに、イエスの再臨を待望しながらも、その準備ができていない『思慮の浅い女たち』(マタイによる福音書25章1節~13節を参照)の本質的な問題も、実は、その人たちの内なる光』が暗いというところにあるのです。


 

それでは、どうしたら私たちは自分の『内なる光』を明るく輝かすことができるのでしょうか? 

 

イエスが説いた山上の説教の中には、実は、それを解くヒントも答えもあるのです。そのヒントというのは、以下の言葉にあります。

 

「目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。」(マタイによる福音書6章22節~23節)

 

ここで言われている『目』というのは、もちろん、“肉眼”を指しているのではありません。霊的な目、すなわち、心の働きの一つである“信仰”という目を指しています。

 

わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」(コリント人への第2の手紙4章18節)

わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。」(同5章7節)

信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。··········これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。」(ヘブル人への手紙11章1節、13節)

 

このことからわかるように、「目が悪ければ」というのは、信仰という目に『』があって、それが視界を遮っているため、肉眼では見えない真理 · 真実 · 天の宝 · 天の御国 · 神の栄光がはっきりと見えていない状態を意味しています。

 

では、どうすれば、はっきりと見えるようになるのでしょうか? 


イエスの答えは、信仰の目の視界を遮っている“を取り除くということにあります。

 

まず自分の目からを取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって·····。」(マタイによる福音書7章5節)

 

この『目から梁をとりのけ』ということの具体的なノウハウというのが、実は、「さばくな」というイエスの教えを実践することだったのです(マタイによる福音書7章1)。


これこそがイエスの山上の説教に隠された秘伝であり、奥義であったのです。これは、イエスの山上の説教における核心(コア)部分であり、革新的メッセージと言えるものなのです。長きにわたって“地中に隠され、埋もれていた真理の宝”なのです。キリスト教において、“見失われていた盲点”とも言えます。イエスが語られた様々な教えの土台、礎ともいうべきものが、この『さばくな』いう単純かつ明快かつ深遠な教えを実践することにあったのです。これなくして、聖書の様々な貴重な教えが生気を失い、またバラバラになって、崩壊してしまうことにもなるのです。「主よ、主よ」と言いながらも、実際には、主イエスとも、天の父なる神との接点がないということもあり得るのです(マタイによる福音書6章16節、同7章23節を参照)。

 

さばかないこと』を実践する。皆さんにとっては、これは簡単なことのように思えるでしょうか? あるいは、難しいことのように思えるでしょうか? 


これは、一概には言えないと想います。ある人にとっては、それを実践することが不可能なことのように想えるかも知れないのです。他の人にとっては、そんなに難しいことではないかも知れないのです。

 

この世の中で生きてきて、一定の基準を設けて、それによって価値判断を下したり、損得勘定で行動したり、善悪二元論的な固定観念に囚われて生きていくことを当たり前のようにやってきて、すっかりそれに馴染んでしまっていたり、これまで長い間かけて常識や社会通念を絶対化して生きてきたり、自分の過去の経験や蓄積してきた知識に照らして物事をあーだ、こうだと決めつけながら(=これが、さばくということ)、自分の人生を送ってきていると、なかなかこれまで築き上げてきた自分の考えや発想を転換していくことに対して、大きな抵抗感・不安感・恐怖感などを感じる場合が多くなるものです。イエスのもとに来て、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」と質問を投げかけたたくさんの資産を持っていた青年』は、このような理由で、悲しみながら立ち去っていったのでした。


でも、自分自身のマインドの働きを一時的に停止するコツさえ掴んで、『井の中の蛙』が“井の中”にそのまま留まり続けることをせず、思い切って“大海”へ飛び出して行きさえすれば、信仰の目がはっきりと見えるようになっていくのです。そして、さばかないこと』を実践していくことは必ずしも不可能なことではなくなるのです。『さばかない』で生きていくことが、その人にとっての新しい生き方となり、生きていくための新たな指針となっていくのです。


物事や人や環境などを『さばきながら』生きていく人には、その人にとって貴重で新鮮な情報はもはや入って来なくなってしまうのです。自らそれらをシャットアウトしてしまっているからです。


一方、『さばくことをやめて』、物事や自分が置かれている環境や自分と関りのある人たちを『さばかず』に、あるがまま観照して認めていく、受け入れていくというような生き方にシフトしていくならば、その人にとって本当に必要な情報は、堰を切ったようにドンドンと流れ込んでくるようになります。実に、さばくことをやめた瞬間、例の『十字架上の犯罪人』の心の中に、イエスを通して天の御国の栄光に関する情報が堰を切ったように溢れて流れ込んできたのでした。だからこそ、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」(ルカによる福音書23章42節)という言葉が、彼の口から出てきたのでした。つまり、さばく』というマインドのプロセスを停止して、心をオープンにしていくなら、救いはそんなに遠くないのです。いや、救いは、すぐ身近にあるものなのです。


さばくことをやめた』時に、“”が取り除かれて、その結果、信仰の目が開かれ、“肉眼では見えない真実”がはっきりと見えるようになるのです。『さばかない』時に、信仰は正常に作動し、愛によって働くようになるのです。この時、その人の『内なる光』は明るく輝いているのです。そして、このような人たちに、天国の扉が開かれているのです。


一方、『さばき続ける』限り、“”は大きくなり、その数も増えていくのです。その人の救いに必要な情報もその"梁"によって遮断されてしまい、心の中に入って来れなくなるのです。その人は、霊的に盲目状態に陥いるのです。信仰の目は、その黒いベールで厚く覆われたままになり、その人の『内なる光』も暗くなってしまうのです。このような人たちが、天国に入り損なうことになるのです。


(9月18日 月曜日 更新) ・・・『天国に入り損なう人たち(3)』に続く・・・

 

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9月10日(日)更新 『天国に入り損なう人たち (1) 』ー 山上の説教を読み解く

2017年09月10日 23時25分45秒 | 山上の説教の考察

 

 『天国に入り損なう人たち(1)』 - 山上の説教を読み解く

  

 

主イエスは山上の説教の中で、次のように語られました。


わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」(マタイによる福音書7章21節)

 

これは端的に言うと、“私は主イエスを信じています”と信仰を表明しているクリスチャンだからと言って確実に天国に入れるという保証はないということです。

 

自分は仏教徒でもなく、イスラム教徒でもなく、ユダヤ教徒でも、無神論者でもない。イエス·キリストを神の子、唯一の救い主であると信じ、そのように長年にわたって信仰告白をしてきた。聖書もよく読んだし、主イエスの名によって父なる神に祈りもささげてきた。教会での礼拝にも毎週参加してきたし、奉仕活動や伝道活動にも積極的に参加してきた。だから、自分は最終的に天国に迎え入れられるはずだ。このように、多くのキリスト教徒は考えているかも知れません。

 

ところが、山上の説教を読む限り、どのような人が天国に救われるのかについての主イエスのコメントは、とても単純明快です。それは、「ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」ということです。

 

天にいますわが父の御旨』を行っているならば、誰であっても天国に救われるのであり、逆にこの条件を満たしていないならば、たとえこれまで主イエスと共に歩んできたはず(?)のクリスチャンであっても天国に入り損なってしまうのであり、これまでやってきたすべての努力が無に帰してしまう危険があるのです(マタイによる福音書7章22節~23節を参照)。

 

ところで、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(ルカによる福音書23章43節)と主イエスに宣言された“十字架にはりつられていた犯罪人”は、この世における自らの人生が閉じられようとしていた直前に天国への入国が許されたのでした。これは、彼が十字架刑を受けていた時に、その隣におられた救い主イエスにたまたま遭遇できたという幸運に恵まれたので天国に迎え入れられた.....ということではないのです。なぜなら、もう一人の犯罪人も、彼と同じような状況にあったにもかかわらず、天国には迎え入れらることがなかったからです。これら二人の犯罪人を比べると、実に決定的な違いがあったのです。

 

天国に迎え入れられた犯罪人の方は、実に、山上の説教の中で主イエスが語られた『天にいますわが父の御旨』にかなった対応を取ったからこそ、救われたと言えます

 

たとえ聖書の多くの知識を持っていたとしても、キリスト教の教義を熟知していたとしても、聖書の神を頭で(=マインド的に)よく知っていたとしても、あるいは、聖書の中で推奨されている善行をたくさんやってきたとしても、聖霊の力によって力あるわざを数多くやってきたとしても、神に熱心に祈ってきたという実績を持っている祈りの人だったとしても、もし主イエスが山上の説教の中で説かれた『天の父なる神の御旨』を知らなかったり、あるいは、それにかなった生き方をしていないならば、最終的に天国に入り損なうおそれがあると言えます。

 

では、山上の説教の中で主イエスは、天国に救われるための秘技、秘訣、奥義とも言える『天の父なる神の御旨』についてどにように語られたのでしょうか? 


今回のブログでは、この重要なポイントを読み解いていきたいと想うのです。これまであまり評価されてこなかった山上の説教の説教におけるイエスの教えの醍醐味を、これから皆さんと共にぜひ味わってみたいのです。

 (2017年8月4日 金曜日 更新)  (2017年9月1日 金曜日 改訂更新) 


山上の説教の中で、「だれも二人の主人に兼ね仕えることはできない。······神と富に兼ねことはできない」と主イエスは言われました(マタイによる福音書6章24節)。


ここで“神とサタン(=悪魔)に兼ね仕えることはできない”とは、イエスは言われなかったという点に私は注目しています。

 

”か“サタン”かの二者択一ではなくて、“”か“”の二者択一という選択なのだ・・・と、主イエスはなぜ言われたのでしょうか?


皆さんは、このような視点から捉えたことはあるでしょうか? 聖書は、いろんな角度から、様々な視点から観ていくことがとても重要なのです。 過去の伝統的な考え方に囚われることなく、いったんこれまで蓄えられた情報や知識をゼロリセットした上で、読み返してみるというわけです。そうしないと、イエスにある真理に触れることは難しいと想います。


さて、話を戻します。

 

”か“”の二者択一という選択なんだと語られるのに先立って、主イエスは、天にこそ宝を蓄えるべきであって、地上に宝を蓄えるべきでない.....ということを強調しています(マタイ福音書6章19節~20節を参照)。

 

このような『神 vs 富』という対比構図は、言い換えれば、『天に蓄えられた宝 vs 地上に蓄えられた宝』というふうにも、イエスは言い換えています。そして、人がどちらの人生、あるいは、生き方を選ぶかということが、実は、その人が天国に入れるか、あるいは、天国に入り損なうかを左右してしまうことになるわけです。

 

「えっ、つまり、これはどういうこと?」と、主イエスが言っている意味が掴みどころがない・・・、まだ腑に落ちない・・・、このように想われるかと想います。

 

“富に仕える生き方”は、“地上に宝を蓄えるという生き方”でもあります。でも、そのような生き方をしていると、天国に入り損なうということなのです。


“地上に蓄える宝”という場合、もちろん、ニュアンスとしては物質的なお金や資産も含まれていると想います(ヤコブの手紙5章1節~6節、マタイ福音書19章21節~24節を参照)。


でも、主イエスがこの山上の説教中で言いたいことは、物質的な富にとどまらず、“地上でその人が蓄えてきたすべてのもの(肉眼で見えないものも含めて)”である·······と私は観ています。


そして、それらのうちの何かにその人の心が囚われていたり、奪われていたり、固執していたりすると、天国の扉は閉ざされてしまうというわけです。つまり、らくだが針の穴を通るよりも難しくなってしまうというわけです(マタイによる福音書19章24節を参照)。

 

さて、主イエスの山上の説教の中で、「主よ、主よ、······」と言いながらも、天国に入り損なってしまう“キリスト教信者たち”が主に向かって語った言葉があります。それを引用してみると、


わたしたちはあなたに名によって預言したのではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか。」(マタイ福音書7章22節)


つまり、彼らは、自分たちがこの地上において過去から現在に至るまで実際に積み上げてきた(=確立してきた、=築き上げてきた、=手に入れてきた)実績、成績、功労、名声、栄誉、輝かしい活動状況などをリストアップしていることがよくわかります。彼ら全員が自分自身の生涯の中で、主イエスのためにやってきたわざが『天の父なる神の御旨』にかなうものである····と思い込んでいたのです。自分たちが『天の父なる神の御旨』だと思っていたことの裏付けや証拠を一つ一つ示して、自分たちは天国に入れる資格があるはずだ・・・という考えを持っているので、"なぜ、私は天国に入れないのですか?"と、主イエスに強く抗議するのです。これはまさに『自分の義を立てようと努めていること』なのであって、それ自体が自分が天国に入るのにふさわしくないことを立証し、暴露していることになるのです。そのような義は、『信仰による神の義』とは対極にあるものなのです(ローマ人への手紙10章1節~4節を参照)。


実は、このような考え方、生き様、生き方こそがまさに『地上に宝を蓄える』ことであったことに、聖書を学んでいながら彼らは気づくことができなかったのです。これが、天国に入り損なうキリスト教信者における“致命的傷”となってしまうのです。


この地上におけるその人の生涯においてどんな立派なことをやってきたか、如何に輝かしい業績に満ちた人生を送ってきたかということを思い起こして、それをリストアップして『天の父なる神』に示すことによって、天国に入ろうとするキリスト教信者が大勢いるというのです。あるいは、実際に、証人を連れてきて、自分がいかに天国に入れるのにふさわしい人間であるかを立証しようと試みる人もいるでしょう。でも、天国に入ろうとする彼らの試みはことごとく失敗してしまう・・・とイエスは山上の説教で教えたのです。


言い換えれば、人が過去から現在に至るまで蓄えてきた宝(=いかなる輝かしい業績、実績、善行、宗教的活動、奉仕活動、立派な行いなど)に頼ったり、しがみついたりして、それを根拠にして天国に入ろうと試みたとしても、「あなた方を全く知らない。・・・・行ってしまえ」(マタイ福音書7章23節)と言われて、間違いなく天国から閉め出されることになってしまうのです。


『神の御旨を行う者』というのは、言い換えれば、『神に仕える者』です。それは、さらに言い換えると、『天に宝を蓄える者』のことです。そのような人たちは、決して、地上における自分の生涯で蓄えたもの(=資産、名声、名誉、達成したこと、実績、功績、人としての立派さなど)に、自分たちが救われる根拠であるとは全く考えてはいないのです。そのようなものには、彼らの関心は向いてはいないのです。


天国に迎え入れられる人たちの心は、地上のものにではなく、天にあるものに引かれているのです。真摯に天の御国を求めている人たちは、天に尽きることのない宝を蓄えるのです。そして、宝を蓄えている天に、その人たちの心もあるというのです。天にある御国に心が引かれてやまないのです(ヘブル人への手紙11章13節~16節を参照)。


「ただ、御国を求めなさい。·······自分のために古びることのない財布をつくり、盗人も近寄らず、虫も食い破らない天に、尽きることのない宝をたくわえなさい。あなたがたの宝のある所には、心もあるからである。」(ルカによる福音書12章32~34節)


「上にあるものを求めなさい。·········あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。」(コロサイ人への手紙1章1節~2節)


ここでもう一度、主イエスに天国への入国が許された十字架上の犯罪人のことを思い起こしてみましょう。


主イエスにパラダイスの救いを宣言される直前に、この犯罪人が語った言葉に注目。


「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください。」(ルカによる福音書23章42節)


この言葉には、一体、どういう意味合いがあるのでしょうか。


天国に入り損なう『"主よ、主よ"という多くのキリスト教信者たち』が主に語った言葉の内容とは全く異なっていることがわかります。これらの人たちは、天国に救われようとしていますが、彼らの心は自分たちがこれまで地上で蓄えてきた宝(=彼らが自分たちの生涯で築き上げた過去の実績、功績、達成したこと、成し遂げたことなど)に囚われ、固執しているのです。自分たちが地上で蓄えてきた宝が、天国に有利に救われるためにポイントの加算になると思い込んでいたというわけです。


一方、十字架上の犯罪人の心は、地上の宝には向いてはおらず、それに全く囚われてもおらず、ただ天の御国に向いていた、引きつけられていたのでした。彼の心の目は、イエスのうちに御国の権威、御国の輝かしい栄光を確かに観たと想われます。それが、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」という彼の言葉から察することができます。

 

彼は、自分のこれまでの生涯の中で犯した罪のために十字架刑を受けて、自分の命が絶たれようとしていました。その時に、彼が自分の過去の生涯を振り返って、一つでも二つでも何か自分が行った善行を思い起こし、主イエスに申し述べて、そのことを根拠に自分を天国に救ってもらおうとしたなら、『"主よ、主よ"という多くのキリスト教信者たち』と同様、天国に入り損なってしまいます。


また、逆にこの十字架上の犯罪人が、自分の生涯を振り返ってみたところで何も良いところを見つけることができなくて、自分は天国に救われる資格はない。「私のようにこんなダメな人間が天国に入るのは、絶対無理だ」と諦め、自暴自棄になっても、やはり天国に入り損なってしまいます。


ところが、彼が自分の人生の最終場面で選んだのは、そのどちらでもなかったのでした。彼の口から発せられた言葉は、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」でした。


このように彼が言い得たというのは、すごいことではないか·····と私は観ています。つまり、彼の心の想いは、この地上のこと(=自分の地上生涯において過去から現在に至るまで蓄積された全ての記憶情報)から解き放たれて、しっかりと『天の輝かしい御国』に照準を向けられていたのです。彼の心は、天にあったのです。これはイエスの山上の説教の視点から観ると、彼の心の目から"梁"が取り除かれていて、もはや彼の視界は『地上に蓄えられた宝』で遮られることなく、直接『天に属する宝』の方に開かれていたのです。そのため、イエスのうちに神の御国の権威や輝かしい栄光が彼の心鏡にはっきりと映し出されており、彼の心はその輝かしい神の御国の栄光に魅せられていた····、それゆえ、彼は主イエスに向かって 

「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」

と語ったのではないか·····と私には察せられるのです。


人の心の目(=信仰の目)が開けて、天に属するもの(=天の宝、神の御国の栄光、神の義など)をハッキリと認めることを可能にする秘訣、それは山上の説教の中でイエスが提示された「さばくな」であると私は観ています。この『さばかないこと』こそが、

わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」(マタイによる福音書7章21節)

とイエスが述べられた『天の神の御旨』の核心部分ではないか·····と、私は捉えています。


そして、十字架上の犯罪人は、自分の生涯の最終場面で、この『さばかないこと』(=神の御旨)を実践したというわけです。実は、この点が、『"主よ、主よ"という多くのキリスト教信者たち』や『最後までイエスに悪口を言い続けたもう一人の犯罪人』と根本的に違うところだったのです。


天国に入るにために大事なことは、自分の地上生涯において宝を蓄えること(=キリスト教信者としての良い行いの実績を積み重ねていくこと、一生懸命に信じようと努めること、熱心な祈りの人になることなど)ではないのです。


ところで、『地上に宝を蓄える』ことによって天国に救われようとすることは、自分の"過去"の実績、功績、築き上げてきたもの、栄光、義を振り返って、そのことを根拠に自らの救いを獲得しようとすることを意味します。それはまた、地上に心が引かれている、囚われている、執着している、こだわっていることでもあります。


一方、『天に宝を蓄える』ためには、イエスが山上の説教の中で提示された『さばくな』ということが、実は、重要な鍵を握っていることに気づく人は幸いです。


『さばかないこと』(="過去の情報"をもとに比較検討し、分析や解析をして、最終的な判断を下して、それを"唯一かつ絶対に正しい答えだ"と決めつけようとする『マインドの働き』を停止すること)を実践していくことで、はじめて心の目から"梁"を取り除かれるのであり、その結果、ハッキリと見えるようになって天に属するもの、すなわち、『天の宝』、『天の御国』、『天の父なる神』に心がスーっと開かれていくものなのです。これが、実は、イエスの山上の説教の教えの最も重要なポイントなのです。


単に天国に救われたいと望めば、誰でも天国に入れる·····というわけではありません。

「私は、主イエスを神の御子、救い主として信じます」というようなキリスト教徒としての信仰告白をすれば、誰でも天国に迎え入れられるというわけでもありません。

「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」(マタイによる福音書7章21節)と山上の説教の中でイエスが述べているからといって、主イエスに対する信仰告白と共に、主イエスや天の神のために働いてきたクリスチャンとして『地上で蓄えてきた宝』(=物質的なこの世の富だけではなく、これまでの地上生涯において築き上げてきた実績、功績、築き上げてきた義といった目に見えない富も含む)のリストを主イエスに提示すれば、天国に優先的に入れてもらえる····というわけでもありません。

以上のようなことは、一見、キリスト教における正統な考え方、聖書を学んでいる多くのクリスチャンたちが当たり前にように思ってきたこと、あるいは、疑いようもない常識的なことと見なされていたかも知れません。


ところが、山上の説教を通じて主イエスが訴えたかったことは、このようなキリスト教的な常識、通念とは、随分、解離していたのです。


このブログで繰り返し述べてきたように、イエスが説いた「さばくな」ということが、実に、『天国への救い』の決め手となる最重要メッセージだったことに気づく必要があるのです。『さばかないこと』を実践することによって、神の国のゲートが開かれるということが、イエスの山上の説教における核心的な教えであり、かつ、革新的な教えであるというのが、従来のキリスト教の捉え方、考え方とは一線を画している『イエス-道』のスタンスなのです。


「さばかないこと」が具体的にどういうことであるかを知り、かつ、それを実践して身につけていくことにより、聖書が言っている『救い』、『信じる』とはどういうことだったのかが、手に取るようにわかってきます。そういうことだったのね······と。


また、使徒パウロは「『だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか』。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。」(コリント第一の手紙2章16節)と書いていますが、このような『キリストの思い』がどういうものだったかを体感する近道というのも、実に、キリストが教えた『さばくな』を実践していくことにあるのです。

(9月10日 日曜日 増補更新) 

・・・『天国に入り損なう人たち(2)』へ続く・・・お楽しみに

 

    *        *       *    

 

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1月28日(土) 23:57 更新  『イエスの山上の説教の真髄』 その2

2017年01月28日 23時57分47秒 | 山上の説教の考察

 『イエスの山上の説教の真髄』 その2

 

 

1月2日に車のエンジンオイルを交換してもらいに行きつけの店を私が訪れた時に、湯呑み茶碗をいただきました。

その湯呑み茶碗に、相田みつを氏の次のような名言が書かれていました。

 

    あなたの心がきれいだから

    なんでもきれいに見えるんだなあ


この名言は、イエスが山上の説教の中で説いた核心的メッセージに通じるものがあるのではないだろうか....と、私は観ています。

 

イエスは山上の説教の中で、私たちに向かって

『もっと信じなさい』とか

『熱心に祈りなさい』とか

『もっともっと義人になりなさい』とか

勧めてはいません。

 

山上の説教の冒頭の方で、イエスは「心の清い人たちは、さいわいである、

彼らは神を見るであろう。」(マタイによる福音書5章8節)

と、語りました。

これは、まさに 相田みつを氏の名言そのものと言っていいと想います。

 

これは、一体、どういうことなのでしょうか ?    (1月15日 日曜日 23:59 更新) 

 

山上の説教においてイエスが語った重要なことというのは、神をありのまま見ることなのです。神を信じるように努めることでも、信じこもうとすることでもないのです。他の人々の義と比べて、さらにまさった義を持つということでもないのです。

 

清い心で神をあるがまま認めること、観ることこそが大切である·····と、イエスは言いたかったのだと私は想うのです。

 

では、神を見ることのできる清い心というのは、一体、どういう状態なのでしょうか?

それは、目が澄んでいて全身が明るい状態(マタイによる福音書6章22節を参照)でもあると想います。

 

ある意味において、イエスは『信じるということはどういうことなのか』、つまり、『信仰の本質』について山上の説教の中で語っていると、観ることもできます。

 

そもそも『信じる』とは、心の行為です。使徒パウロも、「心で・・・・信じる」と書いています(ローマ人への手紙10章9節)。

 

さらに、ヘブル人への手紙11章1節には、信仰の定義として、肉眼では見えない事実を確認することであると記されています。

 

言い換えるなら、信仰とは 『見えない事実 · 真実 · 真理を見る心の目』と言えるのです。

 

これらのことを考慮に入れつつ、イエスの山上の説教を読み返していくと、重要な真理がおのずと見えてきます。

 

そして、“心の目”である信仰が正しく作動するためには、心の目の視界が遮断されていないことが重要になってくるわけです。言い換えるなら、もし心の目の視界が何かによって遮断されているとしたら、それを取り除くことが肝要となるのです。この遮断しているものをイエスは山上の説教で、「目にある梁」(マタイによる福音書7章3節)と呼んだのでした。 

 (1月22日 日曜日 23:18 更新)

 

ただ、信じればいいのか? いえ、実は、そんなに単純なことではないのです。

人の心の目に〝梁”があって、信仰の視界がそれによって遮られているなら、その人の信仰は゛盲目”なのです。

〝盲目的な信仰”をもったままだと、いずれはつまづいてしまうことになります。

やがて、倒れてしまう危険があります(マタイによる福音書7章26節~27節を参照)。

そのような〝盲目的な信仰”を持っている人たちのことを、イエスは「ああ、信仰の薄い者たちよ」(マタイによる福音書6章30節)と呼んだのでした。

〝盲目的な信仰”を持っている人たちこそが、自分たちが天国に入れないことを知った時に、『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』(マタイによる福音書7章22節)と主に抗議することになるわけです。

 

問題は彼らがこれまでキリスト教信者として何をやってきたかということではないのです。根本的な問題、本質的な問題というのは、実は、彼らの心の目が開かれていなかったこと、霊的な視界が何かに遮られていたということ、見えているようで、実際には見えていなかったということであり(マタイによる福音書13章14節~15節を参照)、言い換えれば、霊的に盲目であったというところにあるのです。

このような重要なテーマがリアルに描かれている箇所というのが、実は、ヨハネによる福音書9章1節~41節なのです。

 

では、一体、何が 信仰という心の目の視界を遮ってしまうのでしょうか? 

 

その答えは、「人をさばくな」(マタイによる福音書7章1節)という イエスが語った山上の説教の中で語ったフレーズの中に隠されているのです。 

 

この〝さばかないこと”こそが、実は、とてもとても大切なことなのです。 

 

逆に言うと、〝さばく”という思考プロセスをフル活動させてしまうことによって、人は自分の目に〝”を創り出してしまい、信仰が正常に作動しなくなってしまうということをイエスは教えているのです。

 

これをさらに裏返して言うと、人は〝さばかないこと”を実践していくことによって、自分の目にある〝梁”を取り除くことができるということなのです。

 

さばかないこと”の実践こそが、実は、信仰の目を開くための近道なのです。

 

使徒パウロは、「信心のために自分を訓練しなさい」と言いました(テモテへの第1の手紙4章7節)。

 

信心のための訓練の中で最も効果的なものは、イエスが山上の説教の中で説いた「さばくな」を実践してみることではないか・・・と私は想います。・・・・・・・ 

 (1月28日 土曜日 23:57 更新) ・・・『天国に入り損なう人たち』に

続いてます・・・


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1月10日(日) 23:00 更新  『イエスの山上の説教の真髄』 その1

2017年01月10日 23時00分11秒 | 山上の説教の考察

 

イエスの山上の説教の真髄

 

 

これまで、何度も申し上げてきましたが、当ブログは いわゆる『キリスト教という宗教』を皆さんに紹介するブログではありません。


イエスは、純粋に何を言いたかったのか? 


本当は、何を一番、イエスは教えたかったのか?


イエスの真意は、一体全体、どこにあるのか? 


イエスの教えの真髄は、何か?


聖書を紐解く“鍵”というのは、何か?


人類が意識進化や霊的な成長を遂げていく上で、イエスがどのような重要な教えを提示したのか?


このような視点から(従来のキリスト教という宗教的な視点や枠組みに囚われることなく)、イエスが直接語った『山上の説教』を直接 解読して、人として生きていく上で役立てていきたい、人生をもっと輝かせていきたい・・・・そのような目的のために、私はこのブログをひたすら書いているわけです。


これまで、度々、当ブログにおいてイエスの“山上の説教”から引用してきましたが、今回のブログでは、イエスが説いた『山上の説教』そのものをテーマとして、想いを巡らせていってみたいと考えているのです。


この『山上の説教』の中に、イエスの重要な教えが網羅されている、集約されている・・・・・そんなふうに、私は観ています。

 (10月9日 日曜日 23:18 更新)


イエスの口から語られた山上の説教において、特に注目すべき点は 以下の箇所であると、私は観ています。


「目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。」(マタイによる福音書6章22~23節)


ここでのキーワードは、『内なる光』です。

 

自分自身のうちに存在している光そのものに気づき、そして、その光を暗くしないことが、極めて大切なことなのです。

 

キリスト教においては、長い間、このことはほとんど評価されてこなかったように、私には想えてならないのです。

 

さらに、自分の内にある光を輝かせておくための秘訣も、実は、イエスの山上の説教の中に隠されていることがわかります。その秘訣とは、熱心に祈るということでもなく、また、信じようと努力することでもないのです。イエスが命じられた「さばくな」(マタイによる福音書7章1節)の実践にあるのです。

 

イエスの弟子たちの書簡をみると、彼らもこの「さばくな」という重要な教えをしっかりと継承していることがわかります。

 

さばかない時に、実は、肉眼では観ることができない事実、真実、真理を捉える信仰という心の目が開かれるのであり、『内なる光』が明るく輝くことになるのです。

 

逆に、さばいている時には、その人の信仰という心の目の視界がブロックされる(これをイエスは、目の梁と呼んでいる)のであり、『内なる光』は暗くなってしまうわけです。

 

このようなポイントがしっかりと解ってくると、ようやく旧約聖書も新約聖書も読み解くことが可能になってくるのです。これまで抱いてきた様々な誤解も、自ずと解けてくるのです。

 

たとえ自分にはキリスト教の信仰があると主張したとしても、もしその人たちの「内なる光」が暗ければ、その信仰は本物ではないのです。思い込み、憶測の域を越えてはいないのです。「ああ、信仰の薄い者たちよ」(マタイによる福音書6章30節)と、イエスに言われてしまうのです。

 

イエスが言う「信仰」と「さばくな」という教えは、実に、密接に関係しているのです。

 

『さばかない』という教えの重要さを学んで、自分の人生の中で実践している人こそ、'生きた信仰'、'愛によって働く信仰'を持っている人なのであり、まさに「岩の上に自分の家を建てた賢い人」(同7章24節)と呼ぶのにふさわしいのです。

 

一方、「さばくな」という教えの重要性に気づくことなく、その教えを実践しない人は、空虚な信仰、薄い信仰、愛に基づかない信仰を持っているのであり、「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」(同7章26節)と呼ばれているわけです。

 

(1月8日 日曜日 23:55 更新、1月10日 火曜日 23:00 補足更新) ・・・続く・・・お楽しみに


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10月9日(日) 8:49 更新  歌詞ブログ 『花になれ』 (パート2)

2016年10月09日 08時49分37秒 | 歌の歌詞に観る“イエス-道”


『花になれ』 (パート2)



勇気は今、光になる


これは、一体、どういうことでしょうか?


観かたを変えると、どのような勇気を持つ時に、人は光になることができるのか・・・・・ということ。


私が想うに、それは“さばくことをやめるという勇気”です。 

言い換えると、自分の“マインドにおける『さばく』というプロセスを停止するという勇気”です。

自分の内に蓄積されている過去の記憶情報に根ざした固定観念、価値基準などで物事を観ることをやめるという勇気です。

人によっては、これまで当たり前のようにやってきたこのようなマインドのプロセスを停止してみることは、自分というアイデンティティーを失うように感じるため、怖いと想ってしまう人もいるようです。実際には、そんなに大げさなことではないのですが・・・・。


山上の説教の中で、イエスは 人には「内なる光」が存在していることを述べています(マタイによる福音書6章23節を参照)。


人がさばいている時には、マインドがフルに活動しているのです。でも、この時、「内なる光」は暗くなってしまうものなのです。さばくことを得意とするマインドの働きの中にすっぽりと埋もれてしまうと、人は“迷いの人生”を送ってしまうことに。


逆に、このようなマインドの働きのスイッチを“勇気を出して”切って、さばくことをやめた時には、「内なる光」を覆っているブロック(=梁)が取り除かれていく方向で動き出すのです。そして、「内なる光」は輝き始めるようになるのです。本来の輝きを回復してくるわけです。これが、「勇気は今、光になる」ということ。


人の内に存在しているこの「内なる光」こそ、実は、力の源でもあるのです。ここに気づくことは、人が「真っすぐに咲く花のように・・・強くなれる」ために、 とっても大切なことなのです。


それが、

あなたは今気づいていますか? 大きな力はその手にあること  勇気は今、光になる

という歌詞が意味するところなのです。


従って、「さばくな」というイエスの教えというのは、とりわけ重要な教え、注目に値する教え・・・と言えます(マタイによる福音書7章1節)。


ぶつかっていんだ 泣いたっていいんだ」、「傷ついたっていいんだ 間違っていいんだ」というふうに、自分で自分をさばくことなく、自分自身のあるがままを優しく受けとめ、受け入れ、許容していく時に、「その命は強く輝く  風に立つ一輪 僕たちも花になれる 風に咲く一輪 僕たちも花になれるというわけなのです。 

 (9月23日 金曜日 23:44 更新) 



ところで、人が「未来に手を伸ばして 真っすぐに咲く花のように・・・強くなれる」のは、人の人生の最終段階になってから・・・とは限らないと、私は想っています。


植物の場合は、成長し切って最終ステージで花を咲かせ、実を結んでいくという形を取るでしょう。でも、人の場合は、必ずもそうではない・・・と、私は想うのです。将来、いつかきっと自分も「真っすぐに咲く花のように・・・強くなれる」日が来るかも知れない。こんなふうに、“未来という時間軸”に自分の希望を託す必要はないのではないか。


むしろ、“今というこの瞬間、瞬間”こそが、実は、リアルな時間なのであり、本当に価値ある時間軸はここにあるのではないだろうか・・・と、想っているわけです。


また、「真っすぐに咲く花のように・・・強くなれる」日を早めようとして、自分を磨くために絶え間ない努力をしたり、修行生活をしたり、何かに精進したりすることも、ちょっと的が外れているような気もするのです。


『井の中の蛙、大海を知らず』


大海を知る道を自ら閉ざしていて、井の中の蛙でいることを甘んじている限り、「真っすぐに咲く花のように・・・強くなれる」日はやって来ないと想います。


大海にある無尽蔵の情報を知る道を閉ざしてしまうのは、その人が“さばいている”からです。自分は何でも知っていると思い込んで、現時点で自分が持っている情報を絶対的なものだと決めつけて、固定観念を抱いて、そこを基準にして物事を“さばいていく”時に、大海にある潤沢な情報はその人のうちに流れ込んで来なくなってしまうのです。


これを象徴するような出来事がイエスの十字架にかかっていた時に起こりました。イエスの十字架の両脇で、2人の犯罪人が自分たちが犯した罪のために十字架刑を受けていました(ルカによる福音書23章39節~43節、マタイによる福音書27章44節を参照)。


初めのうちは、どちらの犯罪人もイエスを“さばいて”いました。一人の犯罪人は最後までイエスに対して悪く口を言ってさばくことをやめなかったのです。彼が持っていた『井の中』の限られた偏った情報だけを根拠に、誤解と偏見を持って、イエスに対してさばきを下していたのです。


ところが、もう1人の犯罪人は、途中からイエスを“さばくことをやめた”のでした。“さばくこと”から“さばかないこと”にスイッチを切り替えるのに、長い時間は要しないのです。何年も、何十年も訓練や修行をする必要もないのです。“今というこの瞬間”に、スイッチを切り替えることは誰にでも可能なのです。過去の記憶情報というフィルターを通して観ることをやめればいいのです。他人から与えられる情報や判断に頼ることをやめればいいのです。既成概念や常識などですべてを捉えようとすることをやめればいいのです。心を澄ませて、偏見や先入観を捨てて、"今この瞬間"の中で、じかにあるがままを観ていけばいいのです。しっかり観ていく、じっくり観ていく、ノイズを取り払って心を澄ませた状態で、そのような心鏡にあるがまま映し出して観ていく。早急に結論を出そうとしなくていいのです。柔軟性をもって 仮の判断をしていく、一時的な判断をしていくのです。最終的な判断をしたり、確定的な判断や絶対的な判断をしない、決めつけたりしないことが大切です。とにかく、様々な角度から、いろんな次元や視点から観ていくのです。そんなふうに観ていって、情報収集を続けることを専念していく。そして、さばくのではなく、察していくのです。


ところで、後者の犯罪人は  さばかないこと”にスイッチを切り替えた瞬間に、彼の心の目から“”が取り除かれ、視界が開けたのです(マタイによる福音書7章5節を参照)。すると、『大海』にある貴重な情報が、堰を切ったように彼の内に流れ込んできたのでした。その時、彼はこれまで気づかなかった“真実・真理・目に見えない事実”を悟ったのでした。だからこそ、彼は「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、私を思い出してください」(ルカによる福音書23章42節)と言うことができたのです。


今度は、別の歌詞に注目して観ていきたいと想います。



その命は強く輝く 風に立つ一輪 僕たちも花になれる


ここで、“風に立つ一輪”というフレーズには、どのようなニュアンスがあると想いますか?

(9月28日 水曜日 23:32更新) (9月29日 木曜日 23:18補足更新) 


風が吹いてきても倒れたり、折れたりすることなく、凛として立っているような花のように僕たちもなれる。

このようなことをこのフレーズは、述べているのではないか・・・と、私には想えるのです。 

これは、何ものにも依存していない状態を意味しています。むしろ、自立進化した状態。

人として確固とした生き方が何であるのかということを悟ったということ。 

本来、人として生きる道を確かに歩んでいるということ。


この言われている“風に立つ一輪”の花になっている人というのは、イエスの山上の説教の中にあるように「雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているから」という「岩の上に自分の家を建てた賢い人」(マタイによる福音書7章24節~25節)に符号しているように、私は想います。


山上の説教の中で、人はいかにしたら“風に立つ一輪”の花のようになれるのか・・、その秘訣をイエスは教えようとしたのではないか・・・・そんなふうに観ることもできます。


逆に、“風に立つ一輪”の花になっていない人というのは、「雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけてると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどい」と言われている「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」(マタイによる福音書7章26節~27節)に対応しているわけです。


普段は両者の違いは見えないかも知れませんが、いざという時になると両者の違いは歴然としてくるのです。


では一体、この両者の違いというのは、どこから来るものなのでしょうか? 


風に立つ一輪”の花のようになれるかどうかを知るには、人はいかにして「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」の方ではなくて、「岩の上に自分の家を建てた賢い人」の方になれるかを解明するといいわけです。


その答えは、マタイによる福音書7章21節~23節の中に。 皆さんも、心を澄ませて想い巡らせてみて下さい。


実は、ここには 「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」のことが記されているのです。この人たちは自分たちが天国に救われないことがわかった時、次のように主イエスに抗議するというのです。


主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか。」(マタイによる福音書7章22節


これだけ聞くと、天国に入る条件と言われている「天にいますわが父の御旨を行う者」(マタイによる福音書7章21節)を彼らは満たしているようにも想えてしまいます。


イエスは聖書の中で『神の小羊』と呼ばれていて、イエスに抗議する人たちその『羊の衣』(=イエスを信じる信仰による神の義という衣)を来ているように外面的には見えます。ところが、その内側は『強欲なおおかみ』であることを、イエスは見破っているのです(マタイによる福音書7章15節を参照)。つまり、彼らはこれまで行ってきた“天の父の御旨”という自分たちの功績・実績・善行によって、自分たちの救い(=自分の利益)を手に入れようとしているのです。


愛は・・・・自分の利益を求めない」(コリント人への第1の手紙13章4節~5節)とあります。つまり、彼らは主イエスに向かってそのように抗議することによって、自分たちには愛がないこと、愛によって生きてきていなかったこと、それらはすべて愛から出た行動ではなかったことを自分で証明したことになるのです。


言い換えると、『天の父の御旨』にかなうような“わざ”を彼らはやってきたように想えますが、致命的なことに、天の父であることを知らなかった、天の父を見たことがなかった・・・ということなのです(マタイによる福音書5章43節~48節を参照)。


実は、天の父御旨』にかなう行いというのは、天の父がいかなるものであるかに気づくこと、知ることから、自ずと生み出されてくるものなのです。そして、その愛とは“さばかない寛容という愛”なのだと、イエスが説かれたのでした(マタイによる福音書5章45節を参照)。


私たちは、神がわたしたちに対して持っておられるを知り、かつ信じている。神は愛であるのうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。」(ヨハネの第1の手紙4章16節


ではなぜ、 「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」たちは、神の愛を知らない状態で、救いを獲得しようとしてしまったのでしょうか?


山上の説教の冒頭の方で、イエスは次のように述べられました。


心の清い人たちは、さいわいである。彼らは神を見るであろう。」(マタイによる福音書5章8節


これは、一体、どういうことでしょうか? 

(10月1日 土曜日 22:38更新)(10月2日 日曜日 23:03更新)


イエスがここで言われた「心の清い人たち」というのは、心の「目が澄んで」いて、「内なる光」が暗くなっていない人たちのことである(マタイによる福音書6章22節~23節を参照)と、私は観ています。逆に、心の「目が澄んで」おらず、その結果、「内なる光」が暗くなってしまっている人たちは、「信仰の薄い者たち」(同6章30節)と呼ばれているわけで、神が見えていないのです。


“信仰”というのは、ある意味、不可視領域の世界の存在である「神を見る」ための心の目と言えます。従って、心が何かに覆われていたり(コリント人への第2の手紙3章13節~16節を参照)、あるいは、何かにブロックされて視界が遮られてしまっていると、致命傷となるわけです。そのことを、イエスは「目に梁がある」(マタイによる福音書7章4節)と象徴的な表現をしたと想われます。従って、「神を見る」ことのできる「心の清い人たち」になるために、イエスは「自分の目から梁を取りのけるがよい」(同7章5節)と言われたのです。


では、どうやったら、「自分の目から梁を取りのける」ことができるのでしょうか?


その具体的なノウハウとして イエスが伝授して下さったのが、「さばくな」(同7章1節)ということだったのです。



岩の上に自分の家を建てた賢い人」(=風に立つ一輪の花)になれるか、あるいは、「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」になってしまうか・・・の違いは、一体、どこから生まれるのでしょうか?


イエスは、はっきり言うのです、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う」か、「わたしのこれらの言葉を聞いても行わない」かである・・・と。イエスが語ったこれらの言葉、すなわち、山上の説教の中で説かれた教えの中で、最も重要な要は「さばくな」であると、私は観ています。


さばかないことジャッジしないこと、それによって人は自分の心の目から“”を取りのけることが可能となるのです。その結果、心の目(=信仰という目)がはっきりと見えるようになるというわけです(マタイによる福音書7章1節~5節を参照)。ここがイエスが説いた山上の説教において、最も注目すべきポイントであると想うわけです。


逆に、人はさばき続けることによって、自ら“”を自分自身の目の前に創り出して、視界を妨げてしまうことになり、その結果、神の真の栄光を見失ってしまうのです。


さばかないことを実践することによって、さばかない習慣を身に着けることによって、心の目(=信仰の目)が不可視領域の真実、真理、事実に目が開かれ、その人の信仰というものは まわりの環境や人々の意見にも左右されないほどに揺るぎないものとなり、その人の人生の中で たとえ「雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹い」たとしても『風に立つ一輪』になれる、『真っすぐに咲く花のように・・・強くなれる』、言い換えれば、“確固とした人間”になることができるということなのです。


このような視点から聴いていくと、指田郁也が歌う『花になれ』は、とても素晴らしいナンバーであり、私は心に深い感動を覚えるのです。イエスが山上の説教の中で説いた真理と美しく調和しているからです。


イエスが山上の説教で言いたかった貴重な教えは、聖書の世界の中だけにあるのではありません。『花になれ』という歌詞の中にも、脈々と息づいているのです。


(10月7日 金曜日 23:26更新) (10月9日 日曜日 8:49 補足更新) 

    *        *       *    

 

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9月19日(月) 22:10 更新  歌詞ブログ 『花になれ』 (パート1)

2016年09月19日 22時10分38秒 | 歌の歌詞に観る“イエス-道”


『花になれ』



指田郁也さしだ ふみや)という男性のシンガーソングライターが2012年6月13日に発売(公開は、2012年4月27日)したナンバーに『花になれ』があります。

 

このナンバーは、羽生結弦の「フィギュアスケート NHK杯」 のエキシビジョンでも使用され、NHK-BSプレミアムのBS時代劇 「陽だまりの樹」の 主題歌でもあるとのこと。

 


私は、つい最近になって初めて、このナンバーを耳にしました。ここで歌われている歌詞に、自然と私の心は惹きつけられました。


まだこのナンバーを知らない方は、ぜひYouTubeなどで


『花になれ』(指田郁也;フルサイズ)

『花になれ』(指田郁也;フィギュアスケート NHK杯


を一度 聴いてみられてはいかがでしょうか?


今回のブログでは、指田郁也の『花になれ』の歌詞をじっくりと味わってみたいと想います。


しばらく、また気長にお付き合いください。    (9月3日 土曜日 23:07 更新)



この歌詞の中で、「僕たちも花になれる」というフレーズが何度も繰り返されていますが、どのようにしたら人は花になれるのか? この「花になれる」という意味を歌詞から探っていくと、それはその未来へ手を伸ばして 真っすぐに咲く花のように 人は誰も強くなれる あなたもきっとなれる」ということです。・・・・・これが今回のブログのテーマです。


ところで、聖書の中には、以下のように記されています。


「あなたがたが新たに生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生ける御言によったのである。『人はみな草のごとく、その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は、とこしえに残る』。これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である。」(ペテロの第1の手紙1章23節~25節


今回の歌詞ブログで探究しようとしていることは、もちろん、朽ちる種から花を咲かせる(この花はやがて散ってしまうからです)という意味ではなく、むしろ、朽ちない種から如何にして私たちが自らの人生の中で“どのようにしたら いかなる風に中にあっても 真っすぐに咲く花のように強くなれるのか・・・・ということ。 これを指田郁也花になれ』の歌詞から読み取っていきたい、解読していきたいと想っているのです。先ほど引用した“とこしえに残る”と言われている主の言葉と符合している、あるいは、調和しているメッセージを『花になれ』の歌詞の中に観ていきたいわけです。

(9月4日 日曜日 23:07 更新) (9月6日 火曜日 22:11 更新) 



では、さっそく指田郁也の『花になれ』の歌詞を観てまいりましょう。


あなたは今笑えてますか?  どんな息をしてますか?

人混みに強がりながら 『負けないように』と歩いているんだろう

足許のその花でさえ 生きる事を迷いはしない


ここでは、人の生き方と 足許の花の生き方とを比べています。

そして、その花は生きる事において迷いはしないというのです。

一方、人の場合は、生きる事において迷っているというわけです。

迷っているからこそ、人混みに強がりながら、“負けないように”と歩いてしまっているというのです。

言い換えれば、自分と他人を比べながら、勝ち負けにこだわって生きているわけです。

そのような生き方をしている限り、心底からは笑えていないのです。 息することも心地よくないものです。

では、人として生きる事において迷うことから脱するためにはどうすればいいのでしょうか?

そのヒントがどこにあるかについて、続く歌詞の中で説明されていきます。


『生きてゆけ』 

僕らは今、風の中で それぞれの空を見上げている。

ぶつかっていいんだ  泣いたっていいんだ


生きてゆけ』・・・・・人は、一体、どのように生きてゆけばいいのでしょうか?

僕らは今、風の中で それぞれの空を見上げている」・・・

つまり、人はそれぞれの人生、それぞれの環境の中で生きている。

その中で、逆風も吹いてくるかもしれない、困難にぶつかることも往々にしてあるかも知れない。

順風満帆の人生だけを望んでも、思いどおりにはいかないもの。

でも、「ぶつかってもいいんだ」・・・というのです。

また、人として強くあるべきだとして、“泣いてはいけない”、弱いところを見せてはいけないということではないのです。

泣いたっていいんだ」・・・というのです。 


さらに、

誰もが今、時の中で それぞれの明日を探している 

ついていいんだ間違っていいんだ 何度も立ち上がればいい

とも言っているのです。


これらの歌詞は、一体、何を教えているのでしょうか?


(9月6日 火曜日 22:57 更新) (9月17日 土曜日 23:19 補足更新)


何かにぶつかっている自分、泣いている自分、傷ついている自分、間違っている自分・・・・・

そのような自分を責めたり、非難したり、卑屈に感じたり、失望・絶望したり、苛立ったりしなくていい・・・

ということなのです。 そのような自分には価値がない・・・などと想わないことです。


今あるがままの自分をそのまま認めることが重要なのです。

つまり、自分で自分自身を“さばかない”ということが必要なのです。

一定の価値基準、既成概念、固定観念に照らして、自分自身を“さばくことをしない”ということです。


これが、人として『花になる』ために、すなわち、“朽ちない種”から花を咲かせるためにとても重要なことなのです。


その胸に抱いている種は いつかきっと 夢を咲かすよ


人は、人生の中で厳しい現実を経験することもあるでしょう。

乗り越えられないように想える高い壁にぶつかることもあるかも知れません。

人生の中で、いろんな風が吹いてくるでしょう。


僕らは今、風の中で それぞれの空を見上げてる

 

自分で、自分に鞭打ったりして、自分で自分に苦痛を与えることによって『花になれる』のではないのです。

むしろ、悲惨な環境の中にあっても、できれば避けたいような現実の中にあって、

自分で自分のあるがままの姿を認めて、それを優しく丸ごと受容していくことが『花になる』ために必要なことなのです。


未完成でいい


今の自分がたとえ“不完全”であると感じたとしても、自分に失望したり、卑屈になったりする必要はないのです。

また、未完成な自分、イコール、ダメな人間・・・と想う必要もないです。

人は、それぞれ、意識進化の途上にいるわけであって、その進化のレベル、あるいは、ステージが各人 違うのは当然です。


ところで、山上の説教の中でイエスは、次のように語っておられます。

あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイによる福音書5章48節


ここで、イエスは の領域における完全さを人に求めているというわけではありません。

人に、人の領域における完全さを求めておられるのです。

でも、この完全さというのは、もはや成長の余地がないような完全さではないと想うのです。

植物は、種から成長して、最後に花を咲かせます。この最終段階だけが完全ではないのです。

花を咲かせるに至るまで、日々成長しているそれぞれのステージにおいて完全であり得るのではないか。

つまり、人においても、同様に、未完成は不完全を意味しないと、私は観るのです。


イエスが、ここで言っておられる「完全」というのは、文脈から明らかなように、神のような“寛容という愛における完全さ”ということなのです(マタイによる福音書5章44節~48節を参照)。


これは、言い換えれば、“ジャッジしない”、“さばかない”ということなのです(マタイによる福音書7章1節を参照)。



あなたは今気づいていますか? 大きな力はその手にあること


あなたは人として、はたして、気づいているでしょうか? 

もしかしたら自分は“弱い存在”、“力のない存在”であると思い込んでいませんか?

人は自分の内には力はない・・・と、長い間、洗脳され、思い込まされてきたかも知れません。


でも、指田郁也の『花になれ』という歌詞には、「大きな力はその手にあること」を「気づいてますか?」と、

私たちに問うているのです。


自分の外側の何かに頼ろうとしたり、そこから力を求めようとすると、“依存症”に陥ってしまうおそれがあります。

そこからは、本当の力は生まれてこないです。

言い換えれば、「その未来へ手を伸ばして 真っすぐに咲く花のように 人は誰も強くなれる」という道を自ら閉ざしてしまいかねないのです。


実は、自分の内側にそのような力がすでに備わっているという事実に気づくことが、とても大切なのです。


 

ぶつかっていいんだ 泣いたっていいんだ 

かならず答えはあるから

『あきらめないで』・・・


逆に言うと、“ぶつかってはいけないんだ、泣いてはダメなんだ”と想っていると、答えを見つけるのが至難の業となってしまうのです。


答えのない毎日に立ち止まっても その涙は始まりのサイン

・・・・・ぶつかっていんだ 泣いたっていいんだ 

必ず答えはあるから 『あきらめないで』・・・


たとえ、なかなか答えを見い出せないように想われたとしても、「あきらめないで」と言うのです。


答えが見つからない時には、諦める(あきらめる)のではなく、明らかにする(あきらかにする)ことが、実は重要なのです。


答えを見い出すことができず、迷ってしまった時には、もうダメだ、万事休す・・・と絶望して、諦めてしまうのではなく、むしろ、そのような時にこそ、心の目を明らかにする絶好のチャンスでもあるのです(エペソ人への手紙1章17節~18節を参照)。


それが「泣いたっていいんだ」ということであり、そして、その「その涙は始まりのサイン」となるのです。


では、人はどのようにしたら、心の目を明らかにすることが出来るのでしょうか?

それは、心の目にある“”を取り除くことによってです(マタイによる福音書7章5節を参照)。

そのための具体的なノウハウというのが、イエスが勧める「さばくな」(マタイによる福音書7章1節)ということなのです。


それが、ぶつかっていんだ 泣いたっていいんだ」、「傷ついていいんだ、間違っていいんだ」と悟ることなのです。


いかなる人(自分でも、他者でも)をも、善悪の固定観念、価値の有る・無し、既成概念、常識などのモノサシで さばいたりしないこと・・・・自分や他人をあるがまま観ていく、認めていく、受けとめていく、受け入れていくこと・・・これに徹することが、とてもとても大事なことなのです。これを日々実践していく時に、心の目にある“”を取り除かれていくことになるのです。


これがイエスが山上の説教の中で語っている中心メッセージであり、指田郁也の『花になれ』の歌詞に秘められたメッセージでもある・・・と、私は観ているのです。



勇気は今、光になる


これは、一体、どういうことでしょうか?

 

・・・・・・続く・・・・・・お楽しみに・・・・・・  (9月18日 日曜日 0:09 更新) (9月19日 月曜日 22:10 更新) 


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9月3日(土) 22:16 更新 『イエスが説く救いの道』(その2)

2016年09月03日 22時16分40秒 | 徒然なるままに聖書

『イエスが説く救いの道』(その2)



「主よ、主よ・・・」と主の名を呼びながら、神の御旨に沿ったわざを行ってきたはずのいわゆる『キリスト教信者』の多くが、「あなたがたを全く知らない。出て行け」と主に言われて、天国から閉め出されてしまうことになることを、山上の説教の中でイエスが言及されました。


でもそれは、天の父なる神や主イエスにその人たちが知られていないというのではなく、むしろ、"多くの『キリスト教信者』の方が神のことも主イエスのことも全く知らなかったのではないか"という私の観かたを前回のブログで述べました。


今回は、この点をもう少し説明したいと想います。ここでヒントになる聖句は、「愛さない者は、神を知らない。神は愛である。」(ヨハネの第1の手紙4章8節)です。  

  (7月22日 金曜日 0:24 更新)


ヨハネが書いたこの聖句に、はたしてどういうニュアンスがあるのかということを、今から私なりに観ていくと・・・。


つまり、山上の説教の中でイエスが言っている『天国の救いから漏れてしまったキリスト教信者たち』というのは、長い間 教会で説教を聞いたり、また、自分でも聖書を読んだり、さらに人々に伝道をして人々をキリスト教に導いたりもして、聖書で啓示された神を世の人々の誰よりもよく知っていると自分では思い込んでいたのですが、実際には"神を知らなかったし、神の愛も知らなかった"ということなのです。 


言い換えれば、彼らは"愛さない者"であるということなのです。のため、主イエスのため、多くの力あるわざ、良き行いは沢山やってきたのかも知れませんが、"愛するということにおいて、失敗した"、"愛を実践してこなかった"、"愛というものが、如何なるものなのかを実は知らなかった"ということなのです。


だからこそ、自分たちが当然 天国に入れるものと思っていたのに、それか叶わなかったことがわかると、これまで自分たちがやってきたこと、積み上げてきた『一見、神の御旨にかなっていると思われる外面的な善行』をリストアップして、主イエスに訴え、抗議するのです。


確かに彼らは、キリスト教の聖典である聖書に書かれている『良いこと』を真面目に、熱心にやってきたかも知れません。


でも、イエスが「わたしはあなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい」と言われたことが何を意味しているかを実際には知らなかったわけで、だからこそ、それを自分の人生の中で実践することはできなかったわけです。


それは、イエスのもとに来て「永遠の命を得るために、どんな良いことをしたらいいでしょうか?」と尋ねたあの"富める青年"のケースと全く同じだったと言えます。


この青年の問いかけに対して、イエス神の十戒の律法に触れ、さらに互いに愛し合うべきことの大切さを指摘されました(マタイによる福音書19章18節~19節を参照)。


それを聞いた青年は、それらを守ってきたということをイエスに自信をもって答えたのでした。でも彼は十戒を外面的に守っていただけであり、その十戒の精神、真髄、本質であった“”が意味するところについては 全く知らなかったのでした(ローマ人への手13章8節~10節を参照)。この青年が頭で知っていた“”というものが、イエスが教えている“”とは、本質的に異なっていたのです。大きく解離していたのです。イエスとは全く違う次元の“愛の概念”だったわけです。実は、天国の救いから漏れてしまうキリスト教信者においても、これと同じことが言えると想います。


ここでもう一度、イエスが山上の説教の中で語っていた愛"とはどのような愛だったのかについて想い起こしてみましょう。


マタイによる福音書5章43節~48節を観ると、味方と敵を区別して、前者を愛して、後者を憎むというタイプの愛というものが現に存在しており、それはこの世ではとても一般的であり、誰でも生まれつき持っているような“”と言えます。


ところが、イエスはこれとは全く質を異にする“”があると言われるのです。そして、これこそが「天にいますあなたがたのの子となるため」(マタイによる福音書5章45節)だと、イエスは言うのです。


すなわち、イエスが山上の説教の中で説いた“”というのは、味方と敵とを区別したり、善人と悪人を別け隔てしたりしないようなタイプの“”なのです。敵を愛しなさいとは、そういうことなのです。このような“”を実践することは、通常の人間、並の人間には至難のわざと言えます。


しかし、このような“”なくしては、天の父なる神の子になることはできないとイエスは明言されるのです。


これと同じようなことを、イエスは『主の祈り』に関連して述べておられるのです(マタイによる福音書6章9節~15節を参照)。つまり、自分に失礼なこと、無礼なこと、危害を加えた人であっても "ゆるしなさい"ということです。いわば自分が"敵"や"悪い人"とみなしている相手であったとしても、ゆるし、受け入れ、あたかも自分の味方であるかのように愛していくということです。言い換えるなら、敵-味方、悪人-善人というふうに区別して捉える固定観念自体を手放してしまうということを意味します。これこそが、互いに愛し合いなさいというイエスの新しい戒めが、私たちの心に与えられるということであり、私たちの思いのうちに書きつけられるということなのです(ヘブル人への手紙10章16節を参照)。


このようなタイプの“”を実践していかない限り、天の神の御旨を行っていることにはならないわけです。また、天の神とうまく付き合っていくことは、ままならないのです。良好な関係を築くことはできないのです(マタイによる福音書6章15節を参照)。


自分に好意を抱いている人を愛すること、自分を愛している人を愛することは、比較的簡単なことです(マタイによる福音書5章46節~47節を参照)。


でも、そのようなレベルの愛し方を、山上説教の中でイエスが説いているわけではないのです。一般の人間には、たとえ逆立ちしてもできないような、一見、実践不可能に想えるような愛し方を要求しておられるのです。


わたしはあなたがたに新しい戒めを与える。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」とイエスは命じられましたが、実は、そこにはこれと同じような意味合いがあるのです。


では、一体、どうしたらそれができるというのでしょうか?  イエスの答えは、どこにあるのでしょうか?  山上の説教の中に その答えを見つけることができます。答えは多くはないと想います。イエスの明確な答えが、たった一つだけ用意されているのです。 でもそれは、『信じるということでもなく、『神に対して熱心に祈る』、あるいは、ただ『聖書をしっかり通読すること』でも、『聖句を暗唱したり、暗記したりすること』でもありません。


たった一つのイエスの答えがあると、私は観ています。それは・・・


さばくな」(マタイによる福音書7章1節)


です。   ・・・ 続く ・・・

(7月24日 日曜日 7:03 更新)(7月31日 日曜日 23:05 、8月20日 土曜日 6:44 補足更新)


人を愛するとは、人をさばかないことを意味しています。さばきながら、人を愛するということはできません。

そして、さばかない"コツ"が身についている人の前には、救いの道が開かれているのです。

さばかないことの重要性を教えたイエスが語っている様々なメッセージの中には、よくよく観ていくと、救いの道が指し示されていることがわかってきます。

一見、救いとは関係のないことを語っているように見えても、救いの奥義についてイエスが語っていた・・・ということが、実に、多いのです。

人は救いの道を歩いているか、あるいは、救いの道から外れて歩いているかのいずれかであると言えます。

救いへの"ハードル"はとても高いように、多くの人には思えるかも知れません(マタイによる福音書19章34節を参照)。そのために、多くの人々は(もちろん、クリスチャンも例外ではありません)、自らの救いを獲得するためにポイントを稼ごうと努めてきたわけです(マタイによる福音書7章22節を参照)。

でも、その"ハードル"を高くしているのはの側ではなく、むしろ、人間の側なのです。

救いの道を見えなくしている"ハードル"という存在をイエスは『あなたがたの目にある梁』(マタイによる福音書7章3節)と表現していたわけです。

そして、その『目にある梁』を作り出していくか、逆にそれを取り除いていくかは、その人が『さばく』か、『さばかない』か・・・によるのです。イエスは、「自分の目から梁を取りのけるがよい」(マタイによる福音書7章5節)と言いました。その方法というのが、「さばくな」(マタイによる福音書7章1節)ということに密接に関係してくるのです。



幼な子のような者


マタイによる福音書19章13節~15節には、次のように記されています。

「そのとき、イエスに手をおいて祈っていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。するとイエスは言われた、『幼な子らをそのままにしておきなさい。わたしのところに来るのをとめてはならない。天国はこのような者の国である』。そして手を彼らの上においてから、そこを去って行かれた。」


天国というのは、幼な子のような者の国である・・・と、ここでイエスは言われました。

多くの大人のキリスト教信者にとって天国への"ハードル"が高すぎて、その救いから漏れてしまうというのに、幼な子らにとっては、そのような"ハードル"は存在していないというわけです。

なぜでしょうか?  単に、幼な子だから・・・というわけではありません。幼な子というのは、大人たちと違って、『さばく』というマインド・プロセスを使わないで捉えるがゆえに "ハードル"というものが存在しないのです。まさに、さばかない』ことが、天国の救いの扉をいとも容易に開くことのできる鍵と言えるのです。



十字架上の犯罪人


ころで、イエスが十字架にかけられていた時に、その両側に犯罪人も十字架刑に処せられていました。最後までイエスをののしり続けていた犯罪人の方ではなく、もう一人の犯罪の方がイエスにパラダイスへの救いを宣言されました。なぜでしょうか?  後者の犯罪人の方の罪が比較的軽かったからでしょうか?  いえ、そうではありません。後者の犯罪人の方が、『さばくことをやめた』からなのです。 “さばく”というマインド・プロセスを停止した時に、目に見えない真実、事実、真相、真理を捉えることができる目が開かれたわけです。



ぶどう園の譬


イエスは、「天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。・・・」(マタイによる福音書20章1節~16節)という譬を引用して、救いの奥義を語ったことがあります。ここをこの世の既成概念でザッと読むと、イエスが何を言いたかったのだろうか・・・と、理解に苦しむことになるのではないかと想います。というのは、長時間にわたって真面目に働いた人の賃金が、遅く雇われてわずかしか働かなかった人の賃金と比べたら不公平感が生じてしまうからです。つまり、一日あたり1デナリを支払うと主人が約束をしたのはよかったのですが、夜が明けて間もなく雇った労働者にも、午前9時ごろに雇った労働者にも、12時ごろと午後3時ごろに雇った労働者にも、さらには、夕方5時ごろに雇った労働者にも、同じ賃金の1デナリを支払ったというのです。


天国というのは、このようなものであると、イエスは言われるのです。長時間にわたって、一日中、労苦と暑さを辛抱しながら主人のために働いた労働者が、ほんのわずかしか働いていない労働者と同等な報酬しかもらえないとしたら、頭にきて主人に当然のことながら抗議をしたくなります、「あまりにも不公平過ぎる!」と。 


実は、ここで抗議する労働者の心理というのは、まさに、山上の説教の中で 「主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったのではありませんか」(マタイによる福音書7章22節)と主イエスに向かって抗議するキリスト教信者たちの心理を全く同じではないか・・・と、私には想えるのです。


どちらもイエスが説く『救いの奥義』というものをわかっていないと言えます。


この『ぶどう園の譬』を通して、イエスは『救いの道』を指し示しておられました。でも、この譬の中では、信じるとか、信じないとか、そのようなことに関しては直接語られていません。つまり、“信仰によって救われる”というような教えをイエスは、単に 説こうとしていたのではないのです。


では、この『ぶどう園の譬』をどのように読み解くべきなのでしょうか? 


人に与えられる救いというのは、神の勝手気ままな不公平さにある・・・ということを、イエスがこの『ぶどう園の譬』で言いたいのではありません。人のうちにある既成概念、固定観念、常識といった過去の記憶情報に照らすこと(=マインドを働かせること)によって 物事を観たり、捉えたり、断定したり、決めつけたりしようとする(=これが"さばく"ということ)と、自分と他人の報酬の額を比べてしまい、不平不満、不公平感などが生じてしまうというメカニズムを知るべきなのです。


つまり、イエスがこの譬を通して教えようとしておられたのは、『さばくな』ということだったのです。自分のうちにあるマインドの働きを停止して、さばくことをやめた時に、そこに救いの道が開けてくる、救いの奥義を知ることになるということなのです。


イエスが "神の国は、あなたがたのただ中にある"と言われたのは、まさにそのようなニュアンスがあると、私は観ているのです。

 

 (8月11日 木曜日 12:29 更新 (8月13日 土曜日 22:16、8月20日 7:12 更新) (9月3日 土曜日 22:16 改訂更新)


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7月18日(月) 21:44 更新 『イエスが説く救いの道』(その1)

2016年07月18日 21時44分03秒 | 徒然なるままに

イエスが説く救いの道とは?



今回のブログは、これまで当ブログで書いてきた内容の復習、まとめ、総括のような内容になるのかも知れません。


これまで聖書の中でイエスが語ってきたメッセージを読んできて断片的だったもの、繋がりがあるとは想えなかったもの、別々のメッセージのようにみえていたもの、そういうものが、実は、一貫性のある内容のメッセージだったことに気づくことになるかと想います。


「どんな良いことをしたら永遠の命が得られるだろうか?」とイエスに質問されたあの富める青年に対するイエスのメッセージ。

幼な子のようにならなければ、神の国に入ることはできないと説かれたイエスのメッセージ。

イエスと共に十字架刑を受けていた犯罪人が死ぬ直前に「あなたは今日、私と一緒にパラダイスにいるであろう」と語られたイエスのメッセージ。

生まれつきの盲人だった人がイエスに癒されたストーリーの中でイエスが語っておられたメッセージ。

あるいは、時代はもっともっと遡りますが、ヨブがあの壮絶な試練の中から解放されることなったキッカケ、理由とは何か? 

アブラハム信仰によって義とされたのは、どのような信仰によってなのか? 

主イエスを“まじめに”信じて、神のみ旨を行なってきたはずの大勢のキリスト教信者がに「あなたがたを全く知らない。出て行け」と言われてしまう悲劇は何故か? 


これらのことは、一見、何の繋がりもないかのように想えるかも知れません。

でも、よくよく観ていくと、そうではないということがわかってくるのです。

イエスが教えようとしていたことは、とてもシンプルで、実に明快で、一貫性があり、ブレというものがないということに気づくのです。聖書を観る視点をこれまでとちょっと変えてみることで・・・・。

・・・・・・続く・・・・・

(6月2日 火曜日 3:50 更新)


さらに、福音書の中にはマルタとマリヤの姉妹の家にイエスが迎え入れられた時のストーリーがあります。また、旧約聖書にはロトの妻がうしろを振り返った時に、塩の柱になってしまったことが記されています。これらは、イエスが説く救いと関係があるのでしょうか?

・・・続く・・・ (6月23日 木曜日 0:09に更新)


イエスが説いている"救いの道"というものは、いかなるものなのでしょうか?

それを知るためには、山上の説教でイエス自身が語った次の言葉に注目する必要があります。

「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」(マタイによる福音書7章21~23節)

天国の救いにあずかるには、天の父なる神の御旨を行う者だけだとイエスは言うのです。ところが、キリスト教という宗教に属し、主イエスに対する信仰を表明し、なおかつ、"天の父の御旨"をこれまで行ってきたはずの多くの信者が天国の救いから漏れてしまうことになるというわけです。

つまり、天国の救いにあずかることができないというキリスト教信者は、イエスが言う『天の父の御旨』というものを知らなかった、あるいは、誤解していた、勘違いしていたと言えます。

それでは、この『天の父の御旨』とは、一体、何なのでしょうか?

イエスが語った山上の説教の中のどこに『父なる神の御旨 』というものがあるのでしょうか?  

皆さんは、個人的には、どの箇所だと想いますか?  探してみて下さい。

でも、"山上の説教の全部"・・・などとは言わないで下さい。

山上の説教の中で、『天の父なる神の御旨』が明確にイエスが述べられた所はどこなのか?・・・ということてす。言い換えれば、"砂の上に建てた家"ではなく、"岩の上に建てた家"になるために、私たちが行うべき『天の父の御旨』とは何かについてイエスが述べられた箇所は、一体、どこなのか・・・?    直観で探してみて下さい。

(6月26日 日曜日 23:00 更新)

 

イエスが伝えたかった『天の父なる神の御旨』、それは"マタイによる福音書5章43節~48節"にあるのではないか・・・と、私は想っています。

「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

つまり、"天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい"ということです。

これ以下でも、これ以上でもない・・・と、私は想うのです。

 

マタイによる福音書19章16節~22節には、ひとりの青年がイエスに近寄ってきて、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」と質問されたことが記されています。

この時、イエスは「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか」。「もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」と答えられました。

これを聞いた彼は、「どのいましめですか」と具体的にどの戒めのことなのかを問いただしました。

すると、イエスは『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』と答えられました。

青年は、すかさずイエスに言います、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。神の戒めをこれまで自分は守ってきたと思っているにもかかわらず、何かしら不完全さを感じていたのでした。

そこで、イエスは彼に言われました。「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう・・・」と。

実は、永遠の命を得るために必要なことは、神の戒めの一つ一つの条項を守ろうとすることによって完全をめざすということではなかったのです(ローマ人への手紙9章31節を参照)。"天の父が完全であるのと全く同じような意味での完全な人になる"ということだったのです(マタイによる福音書5章48節を参照)。

永遠の命を得るためのノウハウを訊ねてきたこの富める青年に対して、イエスは『天の父の御旨』を伝えようとされていたのですが、結局 彼は『天の父の御旨』に気づくことなく、悲しげに立ち去っていったのでした。『天の父の御旨』というのは、"天の父が完全であられるように、人も完全になること"と言えます。

人には、一体、どのような意味での完全さが求められているというのでしょうか?

ここがよく解らないと、イエスが説いている『救いに関する真理』というのは、なかなか見えてこないのです。イエスが説く『救い』は、実は、律法主義にも、信仰主義にも基づいてはいないのです。 

確かに、天国に入り損なうキリスト教信者は、主イエスに「不法を働く者どもよ、行ってしまえ」と言われますが、でも、神の律法の条項を一つ一つ厳格に守ることで完全をめざし、それによって救いを獲得しなさい・・・と、イエスが教えているわけではないのです。

また、ただ信じさえすれば救われるとか、あるいは、単に信仰告白をすれぱ救われるというような"信仰至上主義"を教えているわけでもなく、あるいは、何か良い行いをしさえすれば救いが確定する、あるいは、善行を積み上げていけば救いの確信が持てる・・・というような"律法主義"を教えようとしているのでもありません。

人に求められている『神の御旨に叶う完全』というのは、実は、"寛容という愛において完全になるということ"なのです(マタイによる福音書39章48節を参照)。

 

『救いに関する真理』を解き明かすもう一つのヒントは、主が言われた「あなたがたを全く知らない」という言葉にもあるように 私には想えます。では、これどういうことでしょうか?

・・・続く・・・(7月2日 土曜日 20:19 更新)(7月17日 日曜日 23:39 改訂更新)

 

ところで、「主よ、主よ、・・・」と主イエスの御名を唱え、神の御旨を実戦してきたと思い込んでいるキリスト教信者のことを 主ご自身が「全く知らない」ということが、本当にあるのでしょうか?

それはあり得ないと想います。主が言われるこの言葉は、裏を返して言えば、彼らこそが、実は、主のことをよく知らなかった・・・ということを意味していると考えられます。彼らは主に知られていたが、主イエスがどういう方であるかについて 彼らには知られていなかった・・・というわけです。彼らは主イエスを信じていたつもりになっていたが、実際には信じていなかった。彼らは主イエスのことをよく知っているつもりになっていたのに、実際には知らなかった、誤解していた、曲解していた、間違って捉えていた・・・そういうことなのです。つまり、彼らの心は覆われていて、その信仰の目には神が見えていなかったのです。

 

これと同じことを、実は、ヨブ記からも読み取ることができます。

ヨブ記の最後の章には、ヨブの3人の友人たちに対しての怒りが燃えたことが記されています(ヨブ記42章7節を参照)。3人の友人たちは、のことをよく知っていると思い込んでおり、試練の真っ只中で苦しんでいたヨブに“”がどういうものであるかをヨブに説き、それを根拠にヨブに罪ありとし、ヨブを責めたり、非難したりしていたわけです。ところが、実際には、3人の友人たち神ご自身を甚だしく誤解していたのです。だから、の怒りが燃えたのでした(ヨブ記42章7節を参照)。

でも、何故 ヨブがこのような悲惨な不幸・災い・苦難を経験しなければならないのかについて、友人たちと徹底的に論じていた頃までのヨブ理解は、友人たちが抱いていたものと比べて、そんなに大差はなかったと私は想います。

ところが、試練が消え去る直前に、ヨブに大きな転機が訪れたのです。ここが、とても重要なところなのです。実はここに、『救いの真理』を解く鍵が隠されているのです。

その鍵というのは、に向かって「はわたしの目であなたを拝見いたします」(ヨブ記42章5節)と語ったヨブの告白です。

つまり、試練に遭う以前、を信じ、の御旨に忠実に従っていたはずのヨブでさえ、神に対して目が開かれていなかったということなのです。おぼろげにしか、ヨブにはが見えていなかったということです。

そもそも、『信じる(信仰)』というのは、人の心の機能の一部です(ローマ人への手紙10章8~9節を参照)。肉眼では見えないような事実・真実・真理・本質・真髄などを見るというのが、心にある『信じるという機能』と言えます(ヘブル人への手紙11章1節を参照)。従って、心が何かによって覆われていると(これが、“目にある梁”とイエスが山上の説教の中で言っていたもの)、“肉眼で見ることができない”を信仰の目で見たり、捉えたりすることが出来なくなってしまうのです。その結果、を甚だしく誤解してしまうことになるのです。真実とはかけ離れたのイメージを抱くことになるのです。

ヨブの3人の友人たちも、もちろん、例外ではありませんでした。とはどんなお方なのか、とはどういうものなのかを彼らはよく知っていなかったにもかかわらず、“”をあ~だ、こうだと説いて、それによってヨブの側に“罪あり”として断罪したり、責めたりしていたのでした。つまり、3人の友人たちは、をさばき、ヨブをさばいていたのです。しかも、間違ったさばきをしていたのです。だからこそ、この3人の友人たちに向かって、の怒りが燃えたのです。

でもここで、大きな疑問が残ります。ヨブ自身も目が開かれる前までは(友人たちと論争していた最中においても)、ずーっとを正しく捉えてはいませんでした。ところが、ヨブに対してはの怒りは燃えませんでした。一体、何故だと想いますか?  とても不思議に想えますよね。一見、矛盾しているというか、がヨにえこひいきでもしているかのように感じますよね。

皆さんは、このことについて どう想いますか?

その答えは、実は、(=完全な寛容の愛)にあるのです。このについてイエスは山上の説教の中で説いていたのです(マタイによる福音書5章43節~46節を参照)。

ヨブは「わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。」(ヨブ記42章5節を参照)と告白しました。つまり、ヨブは“過去”にはが見えていなかったけれども、“今は”目が開かれてが見えていたのです。というのは、人の“過去”というフィルターを通してその人の今を見るのではなく、その人の過去のデータや情報を切り離して“今、あるがままの”その人を認め、見るのです。寛容の愛は、“過去”のことは過ぎ去ったものとしてリセットして、その人の“今、この瞬間”を見ることができるのです。だからこそ、は、すなわち、『ゆるしの愛』でもあるのです。人を救う“イエス十字架での死とよみがえりの福音”が、「イエスによる罪のゆるしの福音」(使徒行伝13章38節)とも呼ばれる由縁です。

完全な寛容という愛”は、同時に、“ゆるしの愛“でもあり、それは“過去”を引きずらないで、“過去”にこだわらないで、“過去”にとらわれないで、純粋に“今というこの瞬間”におけるその人をあるがまま認めて、受容していくのです。だからこそ、の怒りはヨブの3人の友人たちには燃えたが、ヨブに対しては燃えなかったのです。

(7月10日 日曜日 19:01 更新) (7月18日 月曜日 3:31 増補更新)


イエスの血による契約、すなわち、『新しい契約』において特徴、ユニークな点として注目すべきことは、「もはや、彼らの罪と彼らの不法とを思い出すことはしない」(ヘブル人への手紙10章17節)と述べられていることです。つまり、これは 主イエスの『新しい契約』の祝福・恵みに実際に与っている人たちをが見られた時に、彼らのうちに罪や不法をは認めることができないということを意味します。それでは、山上の説教の中で主イエスが「あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ」(マタイによる福音書7章23節)と言われて、天国から閉め出されてしまう“キリスト教信者たち”のことが述べられていますが、何故、そのように言われてしまうのでしょうか?

それは、彼らがヨブ記42章に描かれているようなヨブの3人の友人たちのタイプだからです。過去も、そして、今でもまだがよく見えていないのです。がどのようなものであるかも知らないのです。彼らの心の目の前には“”が存在していて、信仰という目の視界を妨げているのです。その証拠に、彼らは天国に入れないことを知ると、“一見、神の御旨にかなった行いのように思えるような”過去に実際にやってきた自分たちの行いをリストアップしていくのです。それによって、自分たちが天国に入る資格があるかのように、主に訴えるのです(マタイによる福音書7章22節を参照)。「愛は・・・自分の利益を求めない」(コリント人への第1の手紙13章4~5節)はずなのに、彼らがこれまでおこなってきた善行の一つ一つが、あたかも『天国に入るための投資である』かのように勘違いをして、自らの救いにおいて利益になると思いながらやっていたことを、主イエスの前で、自分の方から暴露してしまうのです。つまり、彼らは信仰の目は“梁”でブロックされていて、神をあるがまま見ることができなかったのです。従って、神の愛が完全無欠の寛容の愛であり、ゆるしの愛であることも知らなかったということなのです。

心の目から"梁"が取り除かれて、神をあるがまま認め、この『神のさばかない完全無欠の寛容の愛』に気づくこと、知ることがとても重要なのです。

真実の神の愛がわかった時、その人の目の前にはイエスが説かれた『救いの道』が開かれているのです。

(7月18日 月曜日21:44 更新) 

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6月19日〈日〉7:17 更新 『イエスが説いた道』

2016年06月19日 07時17分40秒 | 徒然なるままに


イエスが説いた道



久しぶりのブログの更新となります。

 

長年にわたって聖書を読み、研究・探究してきてみて、聖書の教え、あるいは、イエスの教えの中で最も重要なものは、さばかない」ということの実践にある・・・・これこそが、私が最終的に辿り着いた結論でした。


これこそが聖書を解く鍵ではないか・・・と、私は観ています。この鍵を使うと、聖書の中にある罪の本質はどこにあるのかということも、また、救いに関する真理も見えてきてしまうのです。

 

この一点が見失われてしまう時に、これが盲点になってしまう時に、これが軽んじられてしまう時に、これが実践されない時に、たとえどんなに素晴らしい真理や教えがあったとしても、それらは無に帰してしまう、これまで築き上げてきたものがすべて崩壊していってしまう(マタイによる福音書7章26節~27節を参照)。そのように私は想えてならないのです。


イエスが説いた教えを集約していった時に、山上の説教の中でも明確に説かれた「さばくな」というの教えに絞り込むことができる・・・と、私は観ている。“信じる”とか、“祈る”とかということではなく、「さばくな」ということです。


信じる”ということも、“祈る”ということも、実は、さばかない」という実践があってこそ、はじめて成立するものだからです。


私は、現在、“キリスト教という宗教”自体には特にこだわってはおりません。とは言っても、それを否定するということではありません。私はイエスがじかに説いた教えに回帰したいのです。一切のノイズをクリアーして、イエスが説いた教えそのものに直接耳を傾けていく・・・・それが、今の私のスタンスなのです。『キリスト教という宗教』という枠組み内に“とどまる”ということではなくて、むしろ、そこから“卒業していく”、“超越していく”という感じと言えます。


ここで、キリスト教に現在籍を置いている人たちに、そこから離れなさいとか、籍を抜きなさい・・・と、私は勧めているわけではありません。心の面において、『キリスト教という宗教』に対するこだわり囚われ執着などから、自分の想いを解放していくこと、自由にしていくことが大切なのではないかということです。(これが「自分の目から梁を取りのける」(マタイによる福音書7章5節)ということなのです。) そして、これまでの先入観や偏見、教え込まれてきたこと、洗脳、ノイズから解放された状態で、キリスト教の経典である聖書、その中でイエスが直に説いた教えを観ていく、捉え直していく、俯瞰していく。その時にやがて、その中に“宗教という枠組み”を超えた、『普遍的な真理』が輝いて見えてくるのではないでしょうか? また、“真実の栄光”がその人の心鏡に映し出されてくるのではないでしょうか?


私が書いているこのブログの目的は、もちろん、いわゆる『キリスト教の伝統的な教え』に関する情報を皆さんに提供することではありません。イエスの口から語られた“人が人として生きるべき道”は『さばかないという生き方』にある・・・ということを、私はお伝えしたいのです。そのために、『さばかない』とはどういうことなのか、その反対の『さばく』とはどういうことなのかについても、私なりに皆さんに情報提供をしているというわけです。

6月11日〈土〉23:50 更新



信じる(信仰)とは?


信仰(=信じること)とは、肉眼では見ることのできない事実を確認し、捉えることです(ヘブル11章1節を参照)。


霊的に盲目であるということは、“盲信”以外の何ものでもありません。 信仰が正常に働くためには、霊的な目がはっきり見えていなければなりません(マタイによる福音書6章22節23節を参照)。そのことをイエスは、自分の目からを取りのけなさい・・・と言われたのでしたマタイによる福音書7章5節を参照


では、信仰の目からこのを取り除いて、視界をクリアーするにはどうすればいいのでしょうか? そのことに対するイエスの答えが、『さばくな』ということだったのですマタイによる福音書7章1節を参照


これまで、意識的に、あるいは、無意識的に さばいていた人が『さばくこと』をキッパリとやめる時に、その人の目に立ちはだかっていたが崩壊していくのであり、その結果、信仰の目が開け、ハッキリと見えるようになっていくわけです。 このことからもわかるように、信じるということは、『さばかないこと』によって初めて可能となるのです。



祈るということ


では、真に祈るためには、何が重要になってくるのでしょうか?


山上の説教の中で“祈り”について、イエスが解説したことをよくよく観れば、その答えが自ずと解ってきます。


それは何かと言うと、『ゆるす』ということです(マタイによる福音書6章12節、14節~15節を参照)。


ゆるす』とは、一体、どういうことでしょうか? それは、“過ぎ去ってしまったこと”に、こだわらないこと、固執しないこと、執着しないこと、囚われないことです。過去に起ったことを手放すということ。“過去のこと”に対する個人的な思い入れや思い込みを“今、この瞬間”まで引きずらないことです。過去と切り離して、“今というこの瞬間、瞬間”を生きるということです。それは、別の言葉でいうと、マインドで『さばかないこと』を意味しているのです。


以上からわかるように、真の祈りにおいて、『さばかないということ』が大前提になっている、とても重要になってくるというわけです。


聖書の中でイエスが説いた数々の教えの背後には、『さばくな』という普遍的な真理が脈々と息づいていることがよくわかります。何故、イエスはこういうことを語ったのかな・・・と、ちょっと首を傾けたくなるような場合でも、よくよく観ていった時に、やはり、そこには『さばくな』という真理が見え隠れしていることがわかります。


さばくな』という真理の光を当てながら、聖書を読み返していく時に、これまで見えてこなかった大切なメッセージを読み取ることも可能になってくることでしょう。聖書の探究は、目からウロコが取れ、感動の連続になってきます。これまでなぜ自分は、このことに気づかなかったんだろう・・・と。

6月12日〈日〉23:00 更新) 



さて、次回のブログの予告です。

 山上の説教の最後の方でイエスが語られたことに注目を向けてみたいと想います。イエスを長い間信じ、神の御旨をおこなってきたと思っていた立派な信者たちの多くが「あなたがたを全く知らない。出て行け」と主に言われて、結局、天国から閉め出されてしまうという場面です。

コリント人への第一の手紙の中で、使徒パウロはイエスの福音によって救われると確かに書いています。この福音を′信じている′多くのキリスト教信者が、理論上、救われるはずなのですが、実際にはそういうことにはならない・・・と、イエスは言われるのです。

では、山上の説教の中で描かれている『天国から閉め出されてしまう不幸な信者たちの悲劇』は、イエスの福音による救いという観点から、どう説明がつくのでしょうか?

次回のブログでは、このような深遠なテーマに挑んでみたいと想っているわけです。それによって、イエスの福音とは、一体、何なのかという、いわば聖書の中で説かれている『福音の真理の核心』に迫っていこうと考えているのです。

もちろん、′イエス・キリストを信じさえすれば救われる′・・・などと言った表面的なことを私は書こうとしているのではありません。イエスが教えようとしていた『救い』というのは、実は、こういうことだったのか・・・福音書の中でイエスが語っていた様々なことは、一つの大事なことを指し示していたのか・・・目からウロコが取れた、これでようやく腑に落ちた、合点がいった・・・そんな皆さんのサプライズ、感動に繋がっていければ・・・と想いつつ、次回のブログを書き進めたいと考えているのです。

どうか続くブログも、お楽しみに・・・。

(6月19日 日曜日 7:17 更新)


     *       *       *          

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5月21日(土)23:11に更新 “信じること” と “信じないこと”

2016年05月21日 23時11分02秒 | イエス-道


信じること” と “信じないこと



今回のブログでは、“信仰”というものにメスを入れてみたいと想っています。


信じる”とは、どういうことなのでしょうか? 逆に、“信じない”とは、どういうことなのでしょうか?


聖書という経典の上に成り立っている『キリスト教』においては、イエス神の子キリストであることを“信じる”ということが重要なことであるとみなされています。もちろん、私は、そのような伝統的な捉え方を否定するつもりはありません。


でも、“信仰”というものを従来とは違う視点で捉えてみるということも、重要なことではないだろうか・・・と、私は想うのです。


今回、注目したいことは、イエス自身の口から直接語られた以下の有名な言葉です。


御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく御子によって、この世が救われるためである。

信じる者は、さばかれない

信じない者は、すでにさばかれている神のひとり子の名を信じることをしないからである。

そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。

悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。

しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、にあってなされたということが、明らかにされるためである。」

ヨハネによる福音書3章17節~21節


イエスは、一体、ここで何を言いたかったのでしょうか?


これまでは、とりわけ、何を信じるかということが問題視されてきたと想います。つまり、信じる対象というものが、がつかわされた“神のひとり子であるイエス”であり、そのイエス信じる”ということこそが大切・・・と、みられてきたわけです。そして、それが『キリスト教』という宗教なのだ・・・と。


でも、イエスと仰ぎ、その主イエスを信じてきたはずの多くの“信者”が、やがて「あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ」とイエスに言われてしまうことになるであろうことが、山上の説教の中で述べられているのです(マタイによる福音書7章23節を参照)。


もちろん、“信じる”ということは、大切なことです。でも、ここで言われている“信じる”とは、どういうことなのでしょうか? 何を意味しているのでしょうか? 確かに、イエスは、「あなたの信仰が、あなたを救ったのです」と、繰り返し、繰り返し、福音書の中で述べられていますので、信仰”、あるいは、“信じる”ということが、重要なキーワードになってくること自体に、間違いはないと想います。


しかし、それは、あくまで“表面上に現れたキーワード”であって、その奥に“隠れたキーワード”があると、私は観ているのです。


その隠れたキーワード”というのは、先ほど引用したヨハネによる福音書3章17節~21節から探していくと、“さばくためではなく”、“さばかれない”という言葉です。


信仰”あるいは“信じる”ということと、“さばかない”ことは、実は、密接な関係があるのです。ある意味、“信じる”とは、“さばかない”ということなのです。言い換えれば、人が“さばくことをやめた”時に、“信仰が正しく作動する”ようになるのです。つまり、“さばかないという信仰”が、人を救うことになるというわけです。従って、「あなたの信仰が、あなたを救った」とイエスが言われる時、そこには「あなたがさばくことをせず、あるがままを認めて、受け入れたから救われたんだよ」というニュアンスがあるわけです。イエスが言われている“信仰”とは、“さばかない信仰”である・・・と、私は観ているのですなぜなら、人がさばくことをやめる時に、信仰の目開かれるからです。信仰の目開かれる時に初めて、人は真理・真実・見えない事実というものを明らかに認めることが可能となるのです。


このことを、イエスは「はからだのあかりである。だから、あなたの目澄んでおれば、全身も明るいだろう。しかし、あなたの目悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。」(マタイによる福音書6章22節~23節)と言われたのだと、私は想っています。・・・・・


不信仰”あるいは“信じない”ということは、“さばいている”ということです。“信じない人”というのは、同時に、“さばいている人”でもあるのです。“さばくことに没頭している人”は、結局、信仰の目が閉じている状態なので、信じていない人”であるとも言えます。つまり、「さばいてしまっているあなたは、救いを体験することを 自分から避けている、遠ざけてしまっている」というニュアンスがあるのです。人が「私は信じています」と語ったとしても、もしその人がさばいているならば、その人に信仰実際には正しく働いていないのです。その人の“信仰”は、虚しいのです。その人の“信仰”は“薄い”と言えるのです(マタイによる福音書6章30節を参照


ここで、“澄んでいる”、あるいは、“悪い”とイエスが言われる場合、それは何のことかと言いますと、マタイによる福音書7章1節~5節を観ると自ずとわかってくると想います。すなわち、がある状態が“悪い”ことであり、からが取りのけられている状態が“澄んでいる”ことなわけです。そして、人が“さばく”時に、実は、このが目に生じてしまい、信仰の視界を妨げてしまい、真理・真実・見えない事実が見えなくなってしまうということなのです。逆に、人がさばくことをキッパリとやめる時に、目の前から梁が崩壊していって、信仰の視界が開けてくるのです。


このことがわかると、なぜ十字架上の犯罪の一人が救われ、もう一人の犯罪人は救われなかったのかについての真相が見えてくるのです(ルカによる福音書23章39節~43節を参照

5月14日〈土〉22:12に更新5月17日〈火〉22:02に補足して更新5月21日〈土〉22:32に補足して更新



さばかないという信仰”と“さばくという不信仰”の違いを、時間軸という視点から観ることも可能です。


さばくという不信仰”を持っている人というのは、過去”の出来事の体験などの記憶情報に囚われて生きている人のことである・・・と言えます。しかも、その記憶情報には必ずと言っていいほど、好き嫌い、善悪の固定観念、損得勘定などに関係したネガティブな感情も伴っているもの。従って、もし現在においても何かのきっかけがあると、すぐに頭にきたり、激しく怒ったり、憎悪を燃やしたり、腹を立てたり・・・、容易に爆発してしまったり、あるいは、失望したり、絶望したり、恐れたり、不安を感じたり・・・などは日常茶飯事のこと。“今この瞬間”起こっていることは、“過去”のこととは直接関係はないにもかかわらず、“過去の記憶情報”というフィルターを通してしか “”を観ることができなくなってしまっているのです。つまり、“過去”を切り離した“”というものを考えることができなくなってしまっているのが、“さばくという不信仰”を持っている人の特徴になっているのです。つまり、自らの人生を生きるための軸足を“過去という幻想の世界”に置いてしまっているということなのです。“過去”のことにこだわり、“過去”に囚われ、“過去”に振り回されているために、人をあるがまま受け入れていくということ、人をゆるすということは、さばく人にとっては至難の業に想えるものなのです(マタイによる福音書6章12節、14節~15節を参照)。“過去”に生きている人は、また、必然的にストレス多き人生を自ら選んでいってしまうものです。不平不満、欲求不満、ため息、葛藤、不快感、自分は不幸だという想い、憎しみ、憎悪、怒り、失望、不安や心配、・・・そういうものから解放されることはないのです。さばいている限り・・・・。


一方、“さばかないという信仰”を持っている人というのは、“過去”を手放せた人と言えます。“今この瞬間という唯一リアルな時間”を生きていく喜びを知った人でもあります。このような“さばかないという生き方のコツを掴んだ人”というのは、人をあるがまま認めて受容していくゆるしていくことは、何も難しいことではないのです。また、“さばくというマインドのプロセス”を意のままに一時停止することが可能なので、心をリセットすることができ、限りなくストレス・フリーに近い人生を送ることも可能なのです。


「その道は楽しい道であり、その道筋はみな平安である。」(箴言3章17節)・・・・・


5月21日〈土〉23:11 更新  ・・・・・・続く・・・・・・お楽しみに。 


     *       *       *         


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5月7日(土)23:30に更新 “最高の自分を引き出すー『意志力』(その3)”

2016年05月07日 23時30分01秒 | イエス-道

 “最高の自分を引き出すー『意志力』(その3)”

 

 

このブログは、“最高の自分を引き出すー『意志力』(その2)”からの続きです



さて、スタンフォード大学の心理学者であるケリー・マクゴニガルは、最高の自分を引き出す”ために自分の意志力を作動させるコツの一つに『自分への思いやりを持つ』ことの重要性を説いており、この点に私が注目していることについて、当ブログで書きました。


このことは、イエス山上の説教の流れの中で観ていった時に、『自分をさばかない』ということと、同じような意味合いであると私は考えています。


つまり、『自分への思いやりを持つ』 = 『自分をさばかない』 ということになります。さらに、以下のように、イコールで結ぶこともできると想います。


自分への思いやりを持つ』 = 『自分をさばかない』 = 『寛容という愛で自分を愛する


では、『さばかない』とか、あるいは、これとは反対の『さばく』ということは、一体、どういうことなのでしょうか? 今回のブログでは、このことについて今一度 復習、または、考察してみたいと想うわけです。


ところで、『さばかない』と『さばく』の大きな違い、決定的な違いというのは、どこにあると想いますか?


それは、マインドmind)の関与の有無にあると言えます。つまり、『さばかない』とは、マインドの働きを停止しておくことを意味します。一方、さばく』とは、マインドが活発に働いていることを意味しているのです。


この“マインド”が働くメカニズムを観ていくと、マインド”は頭の中にある『過去から蓄積されてきた記憶情報というデータベース』に検索をかけて、そこから得られた情報に照らして、現在のことや将来のことを捉えていく、判断を下していく、最終的な結論を導き出していく・・・これがさばく』というメカニズムの実体というか特徴と言えます。実は、このような頭の中の作業というのは、誰でも日頃の生活の中で当たり前のように自然にやっているものです。


もちろん、私はこのようなマインド”の働きは不要だとか、ダメだとか、悪いものだ・・・と言おうとしているのではありません。私が言いたいことは、このようなマインド”の働きがすべてなのではないということに気づくこと、マインド”の働きに支配されて 身動きも取れないようになってはいけない意図的に“マインド”の働きを一時停止する術(すべ)を身につけることが重要である・・・ということを言いたいのです。つまり、自らの意志で“マインド”のスイッチをいつでも自由にオン・オフに切り替えられるようにしておくことが、とても大事なことなのです。


言い換えると、たとえ“マインド”が自動的に働いて、いろんな答えを提示してきたとしても、その答えを絶対的なものだと決めつけなければいいのです。もしかしたら 現時点では それが一つの答えかも知れない。でも、後になって、もっと情報が集まってきたら、別の答えが観えてくるかも知れない・・・というふうに、いついかなる時でも頭を柔軟にしておくことが重要なわけです。このように、マインド”が提示してきた答えに囚われない、こだわらない、固執しない、振り回されないということが、『さばかない』ということに繋がってくるわけです。

 

4月17日〈日〉22:30に更新、18日〈月〉19:12に改訂更新



“盲人を手引きする盲人”ではなく、真の“観察者”になる


ところで、“さばかない”という生き方を別の角度から観ていくこともできます。 


イエス・キリストは、「・・・あなたがたは、教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである。」(マタイによる福音書23章10節)と言われました。もちろん、教師に向いている人というのは、確かにいるとは想います。ここで、イエスは何を言いたかったのでしょうか?


さばく人は、自分が正しいと思っていたり、思い込んでいたりすることを他の人々に教えようとしたり、説教したり、諭したりする傾向が強いものです。でも、このことが誤った結果をもたらしてしまうおそれがあります。


さばく人”に限って、このような意味での教師説教家になろうとするもの。すなわち、上から目線で、人に教えたり、お説教したり、注意したり、批判したり、非難したり、叱ったり、責め立てたり、責任を追及したりすることで、“未熟”に思える人を“立派”な人間に変えようとしたり、“ダメな人”をもっと“ましな人間”に成長させようと試みるのです。でも、その多くは期待された結果が出ないことが多いものなのです。


イエスは言われます、「彼らは盲人を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう。」(マタイによる福音書15章14節)と。


一方、“さばかないという生き方に徹する人”は、そのような教師説教家にはならないのです。実は、このような点においても、“さばく人”と“さばかない人”との大きな違いがあるのです。


イエスは、山上の説教の中で、「自分の目にはがあるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。・・・まず自分の目からを取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう」(マタイによる福音書7章4節~5節)と言われました。


つまり、さばく人”にとって目障りに想えるようなもの(=目のちり)があれば、人に干渉してまで、無理やりそれを取り除いてあげようと努めるのです。さばく人”にとっては、自分自身の目にあるには気づかないのに、人の目にあるちっぽけなちりの存在が大きなストレスに感じられてしまうものなのです。


一方、相手の目にあるちりは、“さばかない人”にとっては、そんなに目障りなものとは感じないものなのです。人の目にあるちりというものは、自分自身の目にあるに比べたら、ほとんど気にならない程度のものに過ぎないのです。 さばかない人”は、人のあら探しをすることに時間を費やさずに、まずは自分自身の目にあるを何とか取り除こうと努めて、自分自身がはっきりと見えるようになることを最優先するのです。


さばかない人”は、むしろ、自分自身の目のを取り除くことに精進するものなのです。自分自身がはっきりと見えるようになるために、まずはこの点において、最大限の努力を惜しまないものなのです。盲人が盲人を手引きすることは、絶対あってはならない・・・ということをさばかない人”はよくわかっているからです。盲人が盲人を手引きすることは、手引きする本人にとっても、手引きされる人にとっても、益にはならない・・・ということをさばかない人”は知っているからです。自分自身がまずはっきりと見えるようになった時に、ようやく、相手の目からちりを取りのけるグットタイミングと、取りのける最適な方法が自ずとわかってくるものだからです。


さばく人”というのは、往々にして、『干渉者』になります。自分自身が抱えている深刻な問題はさておいて(あるいは、それには気づかないで)、相手に干渉してくるのです。相手の人生の中に土足で踏み込もうとするのです。しかも、自分は善意でやっていること思い込んでいるものなのです。自分が正しいと思っている“教え”を説くことによって、相手を救おうとしたり、変えようとしたりするのです。さばく人”は自分自身が変わる必要があることには気づくことはなく、むしろ、相手こそ変わらなければならない・・・と思い込んで、相手の人生に深く干渉してくるのです。“さばく人”は自分の“正しい考えや理想”に相手を従わせようと試みるのです。相手の人生をコントロールしようとするのです。


一方、さばかない人”は、『干渉者』にはならず、むしろ、真の『観察者』になることを選ぶのです。つまり、相手をあるがまま認めて、やさしく観守っていこうとするのです。真の『観察者』になるためには、自分自身の目からを取り除くことが必要になってきます。他人、あるいは、隣人の目にあるチリを気にしたり、いら立ったり、干渉したりすることに時間を費やすことをしないで、むしろ、一にも二にも、まずは自分自身の目からを取り除いていくことに時間を費やし、そのことに日々精進していこうとするのです。そのような精進を続けながら、相手のことも観守っていくのです。偏見や先入観を持たずに、冷静に相手を観ていくのです。寛容な想いで包み込むようにして、相手を観つめていくのです。そして、自分の目のが取り除かれて、はっきりと見えるようになってきた段階になった後で、絶妙なタイミングで、最適な方法を用いて、“おしつけがましく”ではなくて、“さりげなく” 相手の目からちりを取り除くためのサポートをしていくのです。 


4月29日〈金〉23:54に更新4月30日〈土〉22:50に補足更新5月5日〈木〉20:46に更新



自分の弱さと向き合う


さて、最高の自分を引き出すために、人は自分が持っている弱さに対してどのように向き合っていくか・・・ということも、大きな課題になってくると想います。今回はこの点について、想いを巡らせてみたいのです。


ところで、いきものがかりのナンバーに『風が吹いている というのがあります。この歌詞に、次のようなフレーズがあります。


・・・・強さを手にするより 弱さを越えたいんだよ・・・・


誰でも何かしら“弱さ”を持っているもの。“強さ”を手に入れようとするよりも、むしろ、“弱さ”を越えたいんだ・・・という気持ちはよくわかります。


では、この“弱さ”を越えるためには、どうしたらよいのでしょうか? 言い換えれば、どうやって自分の“弱さ”に向き合っていけばいいのでしょうか? 

5月5日〈木〉21:04に更新


自分の“弱さ”を嫌ったり、ダメなものと想ったり、悪いものと決めつけたり、あるいは、自分の“弱さ”から逃げたり、自分の“弱さ”を見て見ぬふりをしたり、自分の“弱さ”と戦ってみたり、自分の“弱さ”を無理やり“強さ”に変えようとしたり・・・・と、人はいろいろなことを試みるのではないでしょうか?


でも、“弱さ”を持った自分と上手に付き合っていくための重要な鍵は、自分の“弱さ”をさばかないこと・・・にあると私は想っているのです。つまり、自分の“弱さ”を善・悪で観ないこと、価値判断をしないこと、優劣をつけないことです。自分の“弱さ”を、あるがままを認めていくこと、そのまま受け入れていくこと、優しく包み込むように、愛おしむように受容していくことがとても大事なのではないか・・・と想うわけです。


イエスは、「自分を愛さないで、あなたの隣り人を愛しなさい」というふうには言われなかったのです。「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛しなさい」と明確に言われました。“自分を愛する”と言っても、それは自分が持っている“弱さ”を“強さ”に変えてからに、自分を愛するということではないのです。様々な“弱点”や“短所”を抱えたままの自分をまるごと愛しなさい・・・・と言われるのです。


愛する”という行為は、単に感情的なもの、情緒的なものではないと想います。“愛する”というのは、曖昧なものでも、抽象的なものでもなく、むしろ、『原則』と言えます。ある『原則』がベースになっているものが、“”なのではないか・・・と、私は観ているのです。


の特質は、“寛容”にあります(コリント人への第1の手紙13章4節を参照)。寛容という愛”は、自分の中にある“強さ”も“弱さ”も区別することなく、良し悪しでさばかずに、あるがまま認めて、包み込むように優しく受容していくという『原則』を貫いていくこと、実践していくことの中にこそ息づいているものだと、私は想うのです。


イエスは山上の説教において、愛するように言われた(マタイによる福音書5章43節~44節を参照)。というのは、自分を迫害している相手であっても、自分を苦しめている相手であっても、自分にとって不快に思えるような相手であっても、“敵”とみなさない、“敵”として認識しない、“敵”と決めつけたり、断定したりはしないものなのです。特定の人を自分に“味方”なのか“敵”なのかというような二者択一の判断や決めつけはしないのが、というものなのです。は、“さばくことをしない寛容の愛”そのものだからです。


同様に、自分の中にある“弱さ”であっても、敵対視してはならないのです。敵であるかのように思い込んで、戦いを挑んではならないのです。

5月6日〈金〉23:27に更新

 


自分の“弱さ”というものを、戦うべき対象にしてはならないのです。“弱さ”=悪、“強さ”=善 というように考えてはならないのです。実は、そのように想ってしまうと、自分の“弱さ”を越えることは至難のわざになってしまうのです。


『作用-反作用の法則』というのがあります。自分の“弱さ”を嫌って、それを力づくで“強さ”を変えようと試みたとします。すると、こちらが力で押した分だけ、“弱さ”も押し返してくるのです。その互いの力の押し合いで、エネルギーが消耗して疲れてしまうことにもなるのです。戦いを挑んで押す側も、逆に押されて反撃してくる側も、実は、自分自身なのですから。そのようなエネルギーの無駄使いで、人生を消耗しても、なんのメリットもありません。


自分のうちにある“弱さ”を良し悪しで判決を下すことなく、あるがまま、優しく包み込むように受け入れていくのが、自分を愛するということなのであり、その“弱さ”を変えることに躍起になるのではなく、その“弱さ”があるままで受容していって、包み込むような寛容の愛(=さばかない愛)を注ぎ続けていく・・・・このようにする時に、自分の“弱さ”を超越していく道が自ずと開けていくのではないだろうか・・・

 

いきものがかりの『風が吹いている』 にある強さを手にするより 弱さを越えたいんだよ」という歌詞のフレーズと、イエス山上の説教の中で説いた“さばくな”というメッセージは、今私が述べたような形で、リンクしていると想うのです。


5月7日〈土〉23:30に更新・・・・・・今度は、別のテーマに移ります・・・・・・。 


     *       *       *        

 

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3月25日(金)22:34更新 “最高の自分を引き出すー『意志力』(その2)”

2016年03月25日 22時34分40秒 | イエス-道

 

“最高の自分を引き出すー『意志力』(その2)”



このブログは、最高の自分を引き出すー『意志力』(その1)からの続きです



さばく”ということのメカニズム・仕組み・プロセス


さて、ケリー・マクゴニガルは、意志力を強するノウハウの一環として“自分に思いやりを持つこと”の重要性を教えていますが、当ブログではこれを別の視点から観ていきたい想います。このようなノウハウとは違ったアプローチで意志力の強化という同じ目標を達成を図っていきたいと考えているのです。


ケリー・マクゴニガルはスタンフォード大学で教えているのが『思いやりの科学』という講座だとすれば、私が当ブログで書いているのは『さばくということに関する科学』の講座と言えるかも知れません。人の人生に暗い影を落としている究極の原因と考えられる“さばく”ということをいろんな角度から光をあてて観ていって、分析し、解析していくことで答えを見つけだして、その結果、意志力を強め、人生を好転させていこうと想っているからです。


さばく”ということのメカニズム・仕組み・プロセスがどのようなものかということを知ることによって、意志力が働くのを妨げている要因・原因というものを実際に取り除いていくことも可能である・・・と、私は考えているのです。


なぜなら、人は 自分をさばいている限り、“自分に思いやりを持つこと”はできないものだからです。逆に言うと、自分をさばくことをやめた時に、自分に“思いやりを持つこと”が可能なのです。


これは、ある意味、同じことだと想います。“自分に思いやりを持っている人”は、“自分をさばいていない人”でもあるのです。逆に言うと、“自分をさばかない人”は、“自分に思いやりを持っている人”でもあるのです。


ほとんどの人は、“知らずに”と言いますか、“無意識的に”と言いますか、他人をさばき、かつ、自分をもさばいているものです。生まれつきなのか、あるいは、後天的に染みついてしまったというのでしょうか、“さばく”という習性が身についてしまっているものです。


さばくこと”と“愛すること”は、対極にあるものだと私は想っています。さばいている人は、“愛すること”の意味を知らないと言えます。さばかない人は、“愛すること”の意味を知っていると言えます。従って、山上の説教の中で イエスが「人をさばくな」という場合、それは「人を愛しなさい」ということの裏返しでもあるのです。


ここで、“さばく”ということを科学していきたいと想うわけですが、科学の基本は、先入観や偏見、バイアスした考えを持たずに、じっくりと現実や現象を観察していって、そこから一定の法則、メカニズム、仕組みなどを解明していって、そこからさらに発展させていって、その真逆の“さばかないこと”はどういうことなのかを知ることが重要になってきます。でも、この段階では、それはまだ『仮説』の域を越えません。その後、解き明かされてきた法則やノウハウを実際に自分の人生の中で適用(=実践)してみて、その仮説が本当(=事実)であったかどうかを実証、あるいは、確証していくというわけです。これが、“科学者”としての本来の姿勢と言えるのではないでしょうか?


聖書の信仰というものも、このような探究の姿勢がとても大切なのでは・・・。そうでなければ、聖書の信仰が“盲信”、“誤解”、“思い込み”、“妄想”になってしまうおそれがあるからです。ヘブル人への手紙11章1節によると、信仰とは“見えない事実を確認すること”であると記されています。この確認作業に科学的な手法を取り入れることが必要なのではないか・・・と、私は想うのです。


人の『人生の意味や意義』、『人生における謎、不思議さ、複雑さ、問題や課題』というものを解き明かしていくためには、人の心の法則の中に組み込まれてしまった、あるいは、染み込んでしまった “さばくということ”がどういうことなのかをよく観察してデータを収集して、分析し、解析していくことによって、 科学していく・・・。それによって究極的な答えを見つけていく・・・これがとても重要なことではないか。そのように、私は想うのです。


それでは、“さばく”ということが、一体、どういうことであるのかを様々な角度から 見つめていきたいと想います。なぜなら、“さばく”ということの実態やメカニズムというものが分かってくると、それとは正反対の“さばかない”ということのコツも掴めるようになり、その結果、自分の人生においてもっと“さばかない生き方”を実践しやすくなるからです。



中島美嘉の『WILL』の歌詞に再び注目


中島美嘉の『WILL』というナンバーを私が聴いていて、最も“意味深”に聴こえてくる“あるフレーズ”があります。運命の支配に翻弄されることなく、自らの意志で決めていって、自由を生きていくための秘伝というものが“あるフレーズ”に隠されているように、私には想えるのです。


それは、「瞳(め)を閉じて見る夢よりも 瞳を開きながら WOW WOW」というフレーズです。このフレーズは、2回 出てきます。


このフレーズは、一体、何を意味しているのでしょうか?


瞳(め)を閉じて見る夢」というフレーズが暗示していることは、今、自分の目の前にある現実・現象・置かれている状況などに目を閉ざしたり、目を逸らしたままで 夢を追い求めるという生き方です。でも、目を閉じている状態のままで、たとえ どのような夢を自分の心に想い描いたとしても、運命の支配から逃れることはできないということ。


運命の支配から自由になって自分の人生をしっかりと生きていく上で大切なことは、「瞳(め)を開きながら・・・」とあるように、今 現に自分の目の前にある現実・現象・置かれている状況などから目を逸らすことなく、あるがまま認め、受け入れていくこと、しっかりと観察していくこと。言い換えると、自分の目の“”を取り除いた澄んだ目で、ハッキリと見ていくこと、しかもさばかずにじっくりと観ていくこと、外見・外面・表面的なことに惑わされることなく、それらを引き起こしている究極の原因といえる“目に見えない事実”というものを察していく、捉えていく、気づいていくこと・・・・・・これが重要なことなのです(マタイによる福音書6章22節~23節、同7章1節~5節を参照)。



さばかないこと、ゆるすこと


イエスが山上の説教の中で説いた教えの“核心”というのは、『さばかない』ということであり、それと同じような意味合いの『ゆるす』ということである・・・と、私は観ています。ここに最も注目しているのが、実は、私が当ブログで提唱している『イエス-道』なのです。ここが従来のキリスト教と比べて、観る視点が大きく異なっているところと言えます。


さばかない』ということ、あるいは、『ゆるす』ということが、実際、どういうことなのかを悟らない限り、キリスト教は完成しない・・・と、私は想います。つまり、『さばかない』という生き方に全面的にシフトしていかないと、キリスト教の信仰というのは “盲目的な信仰”、“近視眼的な信仰”になってしまうおそれがあると想うわけです(マタイによる福音書23章16節・17節・19節・24節、同15章14節、マルコによる福音書8章18節、ルカによる福音書6章39節、ペテロの第2の手紙1章9節を参照)。


以前にもこのブログで書いたように、使徒パウロは、「信仰・・・によって律法を確立するのである」(ローマ人への手紙3章31節)と述べましたが、私はさらに進んで、「さばかないことによって信仰が確立されるのであり、その結果として、律法が確立されることにもなる」と言いたいのです。



さばかない(=寛容という愛)ためのコツ


使徒パウロは、以下のようにテサロニケ人にあてた手紙を書きました。


「すべての人に対して寛容でありなさい。だれもをもってに報いないように心がけ、お互に、またみんなに対してを追い求めなさい。」(テサロニケ人への手紙5章14節~15節


寛容の愛をもっている人は、さばくことをしないものです。逆に、さばかない人は、寛容の愛をもった人であると言えます。


このような“寛容の愛”というものを考えるにあたって、“という問題”が出てきます。ここで使徒パウロが述べていることは、“”をもって“”に報いないように心がけること、そして、お互いに、また皆に対して“”を追い求めることによって、結果的に、人は“寛容の愛”の人になれるんだ・・・ということを述べているのではないと想います。 むしろ、人が寛容になった時に、“”をもって“”に報いないようになれるのであり、また、お互いに、また皆に対して“”を追い求めることも可能になってくる・・・というのが真実ではないだろうかと、私は想うのです。


もちろん、人は寛容になろうと想っただけで、寛容になれるというわけではありません。寛容になるためのコツは、“さばかない”ことにあります。言い換えれば、“さばく”という自分の中にある『マインドの働き・プロセス』を停止することが、寛容になるための秘訣といえるのです。



ヨブの人生に学ぶ


という問題”に対して、人がどのように向き合い、対処していくのかが、人が寛容になれる否かということを考えるにあたって、とても大切なことになってきます。旧約聖書のヨブ記を観ると、その答えがわかってきます。ヨブの人生を俯瞰していくと、それに関する貴重な真理が見えてきます。


ヨブに関して、次のように旧約聖書のヨブ記の中で描写されています。


「ウズの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ、正しく、を恐れ、に遠ざかった。」


サタンに言われた、『あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、を恐れ、に遠ざかる者の世にないことを気づいたか』。」(ヨブ記1章8節


つまり、ヨブは“”に遠ざかることを意識的にやっていたのです。“”に遠ざかろうとすることは、その真逆の“”を強く意識していて、かつ、“”を追い求めようとしていたということが伺えます。そして、その当時の人としてはが認めるほど全く、かつ、正しい人間であり、にも忠実であったヨブは、そのような生き方を守り通していった結果、逆に、あのような悲惨な試練を引き寄せてしまったのでした(ヨブ記3章25節を参照)。そして、“”を追い求めるために、“”に遠ざかろうとするような生き方を もし最後の最後まで貫いていたとしたら、おそらくヨブの試練は解決することのないまま、この世におけるヨブの人生は終わっていたのではないか・・・と、私は観るのです。このことをヨブの人生から学び取ることは、とても重要なことです。


ヨブが採用した『“”から遠ざかるように心がけることが“”を追い求めることに繋がり、結果的に、“”を手に入れることができるはず・・・』というような発想は、人間的に考えれば、一見 納得がいくものであり、論理的にも間違いがないように想えるかも知れません。でもこのような二元論的なvsというふうに対比させて捉えるような善悪の固定観念』こそが人間界における様々な不幸の根底にあるのです。


従って、イエスが山上の説教を通して私たちに教えようとされたことは、ヨブがやったこのような方法ではなかったのでした。つまり、ヨブとは全く異なった意外なアプローチだったのでした。イエスが、私たちに示された最善の方法・生き方というのが、なんと

さばくなマタイによる福音書7章1節

ということだったのです。


これは、試練に遭遇する前のヨブには、想像することもできないような方法・生き方だったのでした。実際、試練に遭って苦しんでいたヨブがこのことに気づくまで相当な時間を要しました。でも、ヨブが最終的にこのことに気づいたとたん、ヨブの前から“残酷に想えたような試練”は霧が晴れるようにサーっと消え去ってしまったのでした。


ヨブサタンと直接対決して、サタンに打ち勝った結果、試練が解決したというのではなかったのです。サタンと争うことなく、戦うことなく、ヨブの試練は解決していったというのが真相なのです。


自分が抱えている問題を解決しようとして、自分の外側にサタンという敵という存在を作り上げて、それと戦おうとしてはならないのです。“”を追い求める自分の道を塞いでいるのは、究極の悪の存在といえるサタンだと決めつけて、そのサタンに戦いを挑もうとしてはならないのです。


それはちょうど、小学生がプロの横綱を相手に相撲をとって勝とうとするようなものです。勝敗は、勝負をする前からわかっています。大相撲にも不戦勝があります。でも、大相撲の場合は、戦う相手がケガをしたりして休場した時に、戦わずして自分の勝ち星となります。ヨブの試練の背後には、確かにサタンが関与があったことが記されています。でも、このようなヨブの場合にも、やはり不戦勝こそ、勝利の秘訣なのです。たとえサタンが関与しているとは言え、ヨブは“の大争闘”に巻き込まれてはならなかったのです。


では、どのようにして人はそのような“の大争闘”に巻き込まれてしまうのでしょうか? それは、『善悪の固定観念』に囚われてしまった時なのです。『善悪の固定観念』というフィルターを通して、この世に起こる現象や現実や事象や諸問題を観て、問題の解決を図ろうとした時なのです。ヨブヨブの3人達の間で論争した内容というのは、実に、このような『善悪の固定観念』という既成概念の枠内のものだったのでした。だから、どんなに激しく論争しても、また、時間をかけて論争し尽くしても、そこからヨブの試練を解決できるような答えを見つけることは出来なかったのでした。


ところが、ヨブイエスがこの地上に誕生するはるか以前の人間でしたので、イエスの山上の説教の核心とも言える「さばくな」という真理に触れる機会は、当然のことながら、ありませんでした。では、ヨブの場合、どのようにして「さばくな」という普遍的な真理に気づくことができたのでしょうか?


ヨブ記38章を観ると、ヨブ3人の友人たちとの間の論争が十分に尽くされたのを見計らって、みずから つむじ風の中からヨブに答えられたことがわかります。は、地球の創造、地上の生き物、空を飛ぶ鳥、海の源、地の広さ、気象現象、天体などの具体例をヨブに見せることによって、の創造計画の偉大さ、広大さ、深遠さ、緻密さ、きめ細やかな配慮と優しさなどに関する溢れんばかりの情報をヨブに提供されたのでした。この時、の広大な知識、深遠な知恵、悟りの深さに触れた時に、ヨブは自分がいかに無知だったかということに気づかされたのでした(ヨブ記42章1節~3節を参照)。『井の中の蛙、大海を知らず』という諺にもあるように、自分が持っている情報が不足過ぎていたため、ヨブはこれまで間違って“さばいていた”、思い込みで“さばいていた”、『既成概念や固定観念』というフィルターを通して観て、決めつけて“さばいていた”ことに気づいたのでした。その時、ヨブはキッパリと“さばくことをやめた”のです。ヨブの場合においては、主によって“大海”という世界へと引き出され、これがきっかけとなって“さばくのをやめたように想えます。つまり、自分の中にあった先入観、偏見、洗脳、狭小化な考え、狭い視野に基づいた価値判断などを手放して、自分の『マインドの働き』を停止して、ゼロにリセットしていったというわけです。・・・・・・

 

(3月12日〈土〉23:43 更新)(3月19日〈土〉6:26更新)(3月20日〈日〉23:57更新)(3月25日〈金〉22:34に一部改訂して更新)

・・・・・・“最高の自分を引き出すー『意志力』(その3)”に続いています・・・・・・に。 

     *       *       *        

 

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3月6日(日)6:03更新 "最高の自分を引き出すー『意志力』(その1)"

2016年03月06日 06時03分00秒 | イエス-道

 

最高の自分を引き出す-意志力



今回のブログでは、“スタンフォードの奇跡の教室”で有名なケリー・マクゴニガル(心理学者)が教えている“意志力”について、想いを巡らせてみたいと想います。

 

ケリー・マクゴニガルの『最高の自分を引き出す法DVDブック]』を参考にしながら、“イエス-道”の視点からも人の“意志力”というものを今回は観ていきたいと考えているわけです。彼女の科学的な分析も加えての心理学的アプローチで行き着いた結論と、“イエス-道”が説いている教えとの類似点も見えてくるので、とても興味深いものがあります。


最高の自分を引き出す”ためには、自分の“意志力”というものを上手に活用していかなければならないようなのです。


今回のテーマは、聖書の中でも取り扱われている重要なテーマでもあります。特にローマ人への手紙7章で、使徒パウロ意志”の問題そのものに真剣に取り組んでいる様子が見受けられます


「わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、をしようとする意志は、自分にあるが、それをするがないからである。すなわち、わたしの欲しているはしないで、欲していないは、これを行っている。もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っているである。そこで、をしようと欲しているわたしに、がはいり込んでいるという法則があるのを見る。すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。」(ローマ人への手紙7章18節~24節)


これから分かるように、意志の問題というのは、自分の意志が望んでいるをしないで、逆に、自分の意志が望んでいないを行ってしまうという問題にいかに対処していくかということ、また、心の法則罪の法則が熾烈な戦いを挑んでくるという問題をどうやって納めていくか、その答えを見つけていくこと。言い換えれば、意志力というものを窮めていこうとすることは、救いどこにあるのかということを探究することでもあります。人の意志力というものを真正面から取り組むことをせずに、素通りしてしまうと、真の救いというものも見えてこないのではないか・・・と、私は想うわけです。


人の意志力がキチンと働いていない時には、その人の信仰は“依存的な信仰”になってしまうのが落ちで、“成熟した信仰”へと発展していかなくなってしまうのではないだろうか・・・と、私は危惧するのです。また、意志力が正常に作動していない状態で、がむしゃらな信仰生活を送っていこうとしている人の心の中では、絶えず葛藤や欲求不満や不平不満などが渦巻くことになります。意志力信仰が、共に一体となって働くことこそが重要なのです。


人間が抱えているそのような“重大な問題”に、私たちはこれから挑もうとしているわけです。この問題に対する答えは一体どこにあるのか・・・それを見い出そうとしているわけです。今回のブログで書こうとしていることは、意志力を作動させていくためのコツは、一体、どこにあるのかということについてです。

 


中島美嘉が歌う『WILL


ところで、中島美嘉が歌う『WILL』というナンバーがあります。皆さんもご存知かと想います。この歌詞の中で、3回繰り返されるフレーズがあります。それは、

運命の支配ではなくて 決めていたのは 僕の「WILL」”

という箇所です。私はこのフレーズを以前から注目していました。


運命に支配されて生きていく人生は、むなしいもの。それは、自由を生きているというよりは、何かに流されて生きているということ。何かに囚われて生きているということ。喜びも生まれてこないかも。生き甲斐というものもない・・・と想うのです。


運命に翻弄されて人生を生きるのではなく、むしろ、自らの意志(=WILL)で自分の将来の人生を動かしていく、人生を決めていく、人生を切り開いていく、人生を創造していく・・・そのことのために、実は、人生というものが与えられている・・・・・私は、そのような気がします。


ケリー・マクゴニガルは、「意志力というのは、もっている人ともっていない人がいるというような性質でもなければ、美徳でもなく、脳と体で起こる現象である」(最高の自分を引き出す法[DVDブック]』の29ページ)と述べています。


従って、自分の意志の力発揮できる状態できない状態の違いを知っておく必要があるわけです。そして、ケリー・マクゴニガルによると、心拍数数や呼吸などの数値を測定していった結果、前者が『休止・計画反応』の状態であり、後者が『闘争・逃走反応(=ストレス反応)』の状態であることであることが突き止められているというのです。従って、意図的に心拍数を下げ、呼吸を遅くするような体の状態にもっていくこと、睡眠を取って脳を十分に休めておくこと、血糖値を一定レベルに高めておくことは、意志力を発揮することにおいて役立つというのです。


先ほど引用した使徒パウロの言葉に、「をしようとする意志は、自分にあるが、それをするがないからである。・・・」とありましたが、人に与えられたその“意志力(=Will Power)”の重要性をキチンと認めて、それを発揮させていくということが自らの人生を生きていくにあたって必要なのではないか。信仰を強調するあまり、意志力の重要性が見失われてはならない・・・、ただ信じればいいんだということではない・・・と、私は想うわけです。


 

意志力における3つの力


ケリー・マクゴニガル(スタンフォード大学の心理学者)は、意志力には3つの力があると述べています。


(1). ‘I Will’ powerやる力)・・・大きな視野で物事を見て、長期的な目標を見失わずに、たとえ困難であっても、こうしてよかった、とあとから思えるようなことをするための力。脳の前頭前皮質の左側の部分が、このような『困難なことを行なう力』を司っているというのです。この脳の部分が働くと、私たちはやる気を起こし、難しくてもやってやろう、という気になるというのです。 

(2). ‘I Won't’ powerやらない力)・・・一方、脳の前頭前皮質の右側の部分は、誘惑に抵抗するという重要な役割を持っているという。たとえ体じゅうが誘惑に負けて目の前の快楽に走ること望んでも「イエス」と言おうとしても、脳のこの部分はきっぱりと「ノー」というのだそうです。自分自身がよくない方向に傾き、自己破壊的な行動に走りそうになった時に、「ノー」という力なわけです。

(3). ‘I Want’ power望む)・・・これは、気が散ったり、誘惑に出会ったりしても、自分が本当に望んでいることを忘れない、「望む力」というわけです。この力は、常に自分にとって大事な目標を忘れず、こういう人生にしたい、というビジョンをはっきりと思い続ける力であって、「やる力」や「やらない力」と勝るとも劣らない重要なスキルであり、力であると、ケリー・マクゴニガル博士は述べています。


そして、彼女は“意志力の科学”というスタンフォード大学の講座で、「最高の自分」を引き出すために知っておくべき“5つの考え方”を紹介しているというのです。その具体的な内容に関しては、直接最高の自分を引き出す法DVDブック]』などを読むことをお勧めします。この本を読んだり、付属のDVDを観たりすると、科学的な裏付けのある幾つかの貴重な情報に触れることができます。



では、これから、ケリー・マクゴニガルが述べていることの中で、特に私が注目している点について取り上げて、そこに想いを巡らせていきましょう。それは、『イエス-道』における核心部分とオーバーラップする点、あるいは、共鳴する点でもあるのです。



自分に思いやりをもつ


ケリー・マクゴニガルは、「自分を批判したり恥に思ったり、罪悪感を抱いたりするよりも、自分に対して思いやりをもったほうが、はるかに自己コントロールを発揮することができる・・・。実際、罪悪感や恥の意識や自己批判のせいで自己コントロールが弱くなることはあっても、強くなることはありません。自分を許し、自分の抱えているストレスや苦しみ、そして自分の弱ささえも受け入れることで、私たちは強くなれるのです。」(『最高の自分を引き出す法[DVDブック]の75~76ページ)と述べて、喫煙に関する“拷問テスト”についての実験結果を紹介しています。実に興味深い内容です。


ケリー・マクゴニガルは、80~83ページの中で、次のように述べています。それは、意志力を強化する方法の一つは、自分に思いやりをもつようにすることだというのです。つらいことがあったら、自分への思いやりをもってじっと見つめる自分に対する思いやりをもちながら、自分の感じている欲求や苦しみにじっと注意を払っていく自分の欲求を素直に受けとめてじっと見つめながらも、思いやりをもつ


このように、ストレスに対して、自分に対する思いやりをもって対処していくと、ストレスや欲求に関連する領域の活動が鈍くなり、さらに重要なことに、ストレスや欲求に関わる脳の領域と、欲求に反応して行動を起こさせる脳の領域との連絡が、途絶えることがわかったというのです。このようなことが、科学的に検証されたというのです。


また、自分に思いやりをもった時に、意志力が深く関係している前頭前皮質が働くようになるとも述べています(88~89ページを参照)。自分の失敗を恥じたり、罪悪感を抱いたりすると、意志力が奪われてしまう。しかし、自分に思いやりをもてば、それと逆のことが起こるというのです。


このように、自分に思いやりをもつことが、意志力を強化することに繋がることを科学的にも裏づけつつケリー・マクゴニガルは述べているわけですが、『自分に思いやりを持つ』ということはとても大事なことではないか・・・と、私も想います。


自分に思いやりをもつこと』(これは、英語では“self compassion”となっていますが)は、ケリー・マクゴニガルが述べているノウハウの中で最も重要なものであり、注目に値すべき点ではないか・・・と、私は観ているのです。


この『自分に思いやりをもつこと』ということは、表現を換えて言うと、どういうことなのでしょうか?


実は、これは当ブログでこれまでずーっと一貫して述べてきた『自分をさばかないこと』と内容は全く同じことなのです。『さばかないということ』は、『寛容の愛を持って自分をあるがまま認めて、優しく包み込むようにして受け入れていくこと』です。

ところで、この『さばかないこと』を実践していくことは、簡単なように想えますが、実際は結構難しいことかも知れません。これまで、あまりにも“さばくこと”に人は慣れ過ぎてしまっているからです。


人が“さばく”生き方から『さばかない』生き方を移行していくためには、まず、“さばくというプロセス”の実体、正体、メカニズムをよく知っておく必要があります。では、それはどういうことなのでしょうか?


ケリー・マクゴニガルは「意志力の科学」の講座で、以下のように述べていることは、とても興味深いことです。


「科学者になったつもりで考えることです。科学者は実際に起きている現象を、偏見をもたずに好奇心をもって観察します。物事がどのような仕組みで働くかにとても興味があり、自分自身でさえその興味の対象になります。みなさんも科学者になったつもりで自分自身をじっと観察し、どういう仕組みになっているかを解き明かしてみましょう理解を深めるにつれ、その仕組みをうまく利用できえうようになります。自分自身を対象に意志力の実験を行っていると考えれば、新しい考え方や行動のしかたを色々試し、その結果を観察することができます。」(95~96ページ


「また、私がいつもお勧めしているのは、自分のさまざまな側面を知ることです。・・・・私自身の経験からも言えることですが、あまり感心できないようなことをしようとする自分も含め、色々な自分を理解するうちに、もっとほかにどんな側面があるのか知りたくなりますそうやって自覚を深めるほど、どんな自分になるかを選択できるようになるわけです。」(96~97ページ


今、引用した内容というのは、まさにイエスが山上の説教の中で説いた「さばくな」という教えの核心を突いている・・・と言えます。自分自身を“さばかない”ということは、『善悪という固定観念』で自分を批判したり、非難したり、レッテルを貼ったりせずに、むしろ自分の様々な側面を知ろうとすること、あるがままの自分を観察していくこと、認めていくこと、理解していくこと、包み込むように受け入れていくことを意味しているのです。そのようなことをやっていくにつれて、自分の目にある“”が取り除かれていって、現に起きている物事や現象の背後にある道理や仕組みがハッキリと観えるようになり、自ずと解き明かされていくようになります。そして、意志力というものがフルに発揮されていって、自らしかるべき選択をして、自ら答えを見つけていくようになります。これが、“依存”と“意識の退化”とは真逆の“自立”と“意識進化”へとシフトしていく道と言えるのです。


このために、当ブログでは“さばくこと”と“さばかないこと”のメカニズムや仕組み、プロセスというのはどういうことなのかについて様々な角度から光を当てて、解明しようとしているのであり、そして、解ったことを皆さんにもぜひお伝えしたい、あるいは、シェアーしたいと想っているわけです。

(2月23日〈火〉22:50更新)、2月24日〈水〉21:20 補足して更新)(2月27日〈土〉20:15更新、2月28日〈日〉23:09 補足更新)(3月1日〈火〉0:07 補足更新)(3月3日〈木〉22:47更新)(3月6日〈日〉6:03 補足し改訂更新 


・・・・・・“最高の自分を引き出すー『意志力』(その2)”に続いています・・・・・・


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