意識の進化、次元上昇をアシストする“イエス-道(Jesus,the Way)”

“イエス-道”という視点から、人生を生きる秘訣・コツを考える“斬新的な聖書リサーチ”

2月4日(日)更新 家入レオの『Shine』とヨブ記の謎解き

2018年02月04日 22時41分57秒 | 歌の歌詞に観る“イエス-道”

家入レオの『Shine』とヨブ記の謎解き



今回のブログでは、家入レオの『Shine』というナンバーの歌詞についても、『イエス-』という視点から少し解説してみたいと想います。


私がこのナンバーを初めて聴いた時に、この歌詞の内容に私の心がグイグイと惹き付けられたことを今でも覚えています。


家入レオの『Shine』について、まずYOUTUBE等で聴いてみて下さい。


この歌詞の中にある

一人じゃないよ_君のそばにいるよ

変わらないものは_いつもここにあって

このけがれのない_今を生きるShine

そこにはもう迷いもなくて

というフレーズは、まさにイエスの山上の説教における『あなたの内なる光』を指していると考えられます。


これは、誰の中にも存在していますが、この『内なる光』が明るく輝いているか、暗くなっているかの違いというものはあります。


イエスが山上の説教の中で最も説きたかったこと、それは『あなたの内なる光』を暗くしてはならない····ということだったと、私は観ています(マタイによる福音書6章22節~23節を参照)


旧約聖書のヨブ記をこの家入レオShine』の歌詞と重ね合わせて研究するのも、面白いのではないかと想います。


それでは、これから『Shine』の歌詞の内容が、ヨブが経験したことにどんなふうに対応しているかについて観ていきたいと想います。

 

 「つまづいたその手に掴んだその未来は·····

 

試練に遭遇していた時、ヨブはある意味において"つまづいた"と言えるかも知れません。"つまずいた"と言っても、ヨブが神に対して不従順になったとか、神に向かって反旗を翻したとか、神に対して不信仰を抱いたとか、そういうことを私が言っているのではありません。ヨブはあくまでも神の側にいて、信仰を全うしようと考えていたのです。この点において、ヨブに向かって「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」と言い放ったヨブの妻とは対照的です(ヨブ記2章9節)。

 

ヨブは、一体、何に対して"つまづいた"と思いますか?

 

実は、ヨブ自身、自分が何につまづいているかについて気づいていなかったのです。それに気づかないまま、何故ヨブがこのような悲惨な試練に遭わなければならなかったのかについて、3人の友人たちとあ~でもない、こうでもない····と、時間をかけて議論·論争していたのでした。でも結局、納得のいくような答えを見つけることは出来なかったのでした。

 

さて、さらに『Shine』の歌詞を観ていきましょう。

 

あきらめかけた時に_何かが生まれたんだ

 

ヨブは自分がこれまで蓄積してきた神に関する情報と3人の友人たちが知っている神に関する情報とを激しくぶつけ合って、議論を尽くしたにもかかわらず、自分の試練に対する答えらしきものに到達できませんでした。そのため、ヨブは自分が試練から救われることをなかば諦めかけていたと思われます。でも、そのような時に何かが生まれたというのです。言い換えれば、転機が訪れたのです。試練の解決の糸口が見えてきたのです。

 

とは言え、たまたま偶然に、『棚からぼた餅』風に、ヨブが試練の解決の糸口を発見したということではありませんでした。

 

そう_瞳を閉じれば_あの日の空に包まれてるよ_いつでも_you can shine

 

そうなんです。ここに問題解決のヒントがあるのです。ヨブの試練という難問題を解く鍵があるわけです。

 

すなわち、ヨブが"瞳を閉じる"ということが、試練の答えを見出だすためにどうしても必要なことだったのです。"瞳を閉じたまま"の状態で、いくらヨブが友人たちと議論や論争したとしても、結果は虚しいのです。収穫はないのです。

 

ここで"瞳を閉じる"とは、何を象徴しているのでしょうか?

 

逆にいうと、ヨブが"瞳を開いていた"ために、彼は"つまずいてしまった"、あるいは、"つまづいたままでいた"とも言えます。

 

では、"瞳を閉じる"、あるいは、"瞳を開いている"とは、何を意味していると思いますか?

 

また、瞳を閉じた時にあの日の空に包まれ···るとは、一体、どういうことなのでしょうか?

 

とても意味ありげな感じがしますね。

(1月8日 月曜日更新)

 

空にあるどんよりした雲に覆われていると、輝いている太陽が見えなくなってしまいます。覆っている雲がない状態(これが"あの日の空に包まれる"ということ)なら、大陽の本来の輝きが見えるわけです。

 

そのように、あなたが『内なる光』がいつでも輝ける(=you_can_shine)ために、あなたの瞳を閉じておくことが必要である····というわけです。

 

では、ここでいう"瞳を閉じる"とは、何を意味しているのでしょうか?

 

"瞳"というのは、実は、マインドを象徴しています。

 

従って、"瞳を閉じる"とは、マインドというフィルターを通して見ることをやめることです。マインドを働かせて、あるいは、マインド主導で、物事を見て、判断し、ファイルアンサーを出してしまう習慣や癖から自らを解放することを意味します。

 

マインドが得意とすることは、自分が蓄積してきた過去の記憶情報(他者から聞いたこと、常識、伝統的な考え、固定観念、教育やメディアなどを通してインプットされたもの、洗脳なども含む)に照らし合わせて、物事についての最終的な判断を下すこと、白黒をつけようとすること、決めつけたり、思い込んだりしてしまうことです。

 

このようなマインドに支配されている限り、『あなたの内なる光』である「このけがれのない_今を生きるShine」は輝き出すことはないのです。まずは、マインドという"瞳"を閉じなければならないのです。では、どのようにしたら、この"瞳"を閉じることができるのでしょうか?

 

感じる力_君は持ってるから

 

あなたの内なる光』である「このけがれのない_今を生きるShine」と言われている変わらないものは_いつもここにあって」とあるように、常にあなたの内側に存在しているものなのです。それはあなたの一部だから、いや、あなたの本質であり、あなたの最も神聖なるものであり、あなたの命そのものとも言えます。自分の内にもともとあるものなので、あなたはそれを感じる力は持っているのです。感じる力を使ってこなかったために、感受性は鈍っているかも知れませんが、感じる能力は残っているはずなのです。


あなたの内なる光』である「このけがれのない_今を生きるShine」を感じるというよりは、むしろ、それがもともと自分の中に存在していたという事実に気づく思い出すというべきでしょうか。実は、そのための近道、秘訣、奥義ともいうべきものが、イエスが山上の説教の中で説いた『さばくな』という具体的なノウハウ、実践的な教えなのです(マタイによる福音書7章1節を参照)。

 

さばかない』ことを実践していく時に、マインドの働きは自ずと停止してしまうのです。すると、これまで長い間マインドというフィルターを通して観て認識していたのが、マインドを介さずに直観で観る新しい認識回路が開かれることになるのです。(これこそが、信仰の目で見る、信じるという行為を意味しています。)

 

この時にようやく、これまでマインドが妨げとなっていたために(これがイエスが言っている"目に梁がある"という状態)、入ってこれなかった新たな情報、事実、真実、真理が堰を切ったように、溢れんばかりに流れ込んでくるようになるのです。

 

実は、ヨブはこのような貴重な体験したのです。しかも、ヨブの試練が消え去っていく直前に···。

 

これを裏づけるようなヨブの言葉が、「わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。」(ヨブ記42章5節)である·····と、私は観ています。

 

もちろん、このような貴重な体験をしたのは、ヨブだけではありません。たとえば、例の十字架上でイエスに救われた犯罪人も、マインドを介さずに直観で観る新しい認識回路が開かれたのでした。


また、幼な子のようにならなければ神の国に入れないとイエスが言われたことがありますが、このような幼な子というのは、マインドを働かせて判断することをせず、むしろ、直観でありのまま観て、捉える傾向が強いものなのです。だからこそ、幼な子は神の国に入りやすいのです。

 

また、マリヤとマルタの姉妹がいました。なくてならないものは多くはない、ただ一つだけである、マリヤはそれを選んだ····とイエスは言いました。実は、このマリヤはいざという時には、すぐに自分のマインドを停止して、直観で行動したり、見聞きしたりすることができる人だったようです。だからこそ、すべてのことに優先して、イエスの足元で一言も漏らさすまいと思って、イエスの口から語られる言葉に聞き入ったのでした。

 

さて、先程の質問に戻ります。試練に遭っていた時に、ヨブは何につまづいたと言えるのでしょうか?

 

それは、イエスの教えにつまづいた···と、私は観ています。もっと具体的に言えば、さばくな』というイエスの教えにつまづいたのでした。ヨブ記の謎を解き明かすことができるのは、イエスの山上の説教の核心的教えとも言えるこの『さばくな』という教えなのです。ヨブのつまづきの原因というには、まさにここにあった····と、私は観ています。

 

ヨブと3人の友人たちは共に、実にマインド思考でヨブの試練の原因や神の義やヨブの義などについて議論·論争を展開していたのです。だから、埒があかなかったのです。行き詰まったわけです。マインドというのは、過去の限られた情報から無理やりファイナルアンサーを出そうとするからです。

 

でも、友人たちとの一連の議論や論争は、ヨブにとって無駄ではなかったと私は想います。マインドをフルに稼働させて、過去データを検索し、分析·解析しても、そこには答えがないということを徹底的に知ることができたからです。

 

だからこそ、ヨブはマインドで物事を捉えるという従来の思考パターンに頼ることを諦めることができ、次のステージへと移行する準備ができたかも知れないからです。

 

それが、家入レオの『Shine』の以下の歌詞だったわけです。

 あきらめかけた時に_何かが生まれたんだ

 

そして、ヨブが自分のマインドの働きを停止してみて、さばくことをせずに(この時に、心の目をおおっている覆いが取り除かれ、ヨブの『内なる光』の輝きを取り戻す)、『内なる光』主導で自分の試練をあるがまま観ていった時に、自分が体験している試練の真相、意味、メカニズムがはっきりと見えてきたのです。

 

ヨブの試練が根本から解決されるために必要だったものは、まさに、ヨブが長年馴染んできたマインド思考に支配されて『さばいていく』という癖·習慣に終止符を打つことによって、自分の『内なる光』の本来の輝きを回復させた状態で、そのにあって物事を観ていく、捉えていくという本来の人としての生き方をしていく、たったこれだけだったのです。

 

山上の説教の中でイエスが教えた有名な『主の祈り』を、皆さんはよくご存じかと想います。この中で、試みにあわせないよう、天の父なる神に祈るようにとイエスは教えられました(マタイによる福音書6章13を参照)。実は、この『主の祈り』の中には試みに会うことを避けるコツも、実はイエスが教えられたことを皆さんは知っておられるでしょうか?


そのコツというのは、「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。」( マタイによる福音書6章12節)にあります。


つまり、試練を自ら引き寄せないためには、『人をゆるす』ことです。『人をゆるす』とは、『人をさばかない』ことを意味しています。人を善し悪しでさばかないこと。善悪の固定観念のフィルターを通して人を観ることをやめるということです。


 

試練以前のヨブの信仰


ところで、つまづく前(=試練に遭う前)のヨブの生き方や人生と、ヨブがつまづきの原因に気づいて、そこから立ち上がった彼の手が掴んだ未来のものとを比べて観た場合、ヨブが一段と進化を遂げていった····と察することができます。


つまづく前のヨブの信仰というのは、ある意味、不安定でした。確固たるものではありませんでした。でも、神に褒められる程のヨブの神に対する忠誠、誠実さというものは、その当時の世の人たちのものと比べた場合、確かに雲泥の差があったと思われます(ヨブ記1章8節を参照)。


一体、ヨブがつまづき(試練)から立ち上がった後の信仰の内容というのは、どのような進化を遂げていったのでしょうか? また、それ以前のヨブの信仰には、どのような特徴があったのでしょうか?·········

(1月14日 日曜日更新)(1月21日 日曜日補足更新)

 

 

ヨブの信仰の純化

 

試練を通過しながらヨブの信仰は、純化していきました。一段と信仰に磨きがかかっていったのでした(ペテロの第一の手紙1章5~7節を参照)。

 

そして、"さばかない"という寛容の愛によって働く信仰をヨブは自分のものにしたと、私は観ています。

 

善悪の固定観念というフィルターを通してしか物事を捉えることしかできなかった"さばく信仰"をヨブが卒業したと言えます。そのようなレベルの信仰から、ヨブは解放されていったということです。

 

これは、ヨブにとって大きな進化です。霊的成長と言えます。ヨブの信仰のベクトルにおいて、大きな方向転換がなされたということです。

 

これは、言い換えると、山上の説教においてイエスが説いた『さばくな』と核心的教えをまさに実践していったということを意味しています。

 

"ヨブよ、よくぞ、そこに気づいたな"と、天の父なる神はさぞかし喜んだに違いないと想います。ヨブは旧約の時代にいながらにして、イエスが説いた新約の最重要の教えを会得したからです。

 

『さばく』というマインドの働きを停止した時に、心の目が開かれ、覚醒していくのです。それは、信仰の目から梁が取り除かれて、その結果、はっきりと真理、真実、真相、肉眼では見えない事実が見えてくるということです(マタイによる福音書7章1節~5節を)。········

(1月27日 土曜日更新) 

 ところで、イエスの弟子のヤコブは、特にヨブの忍耐という視点からヨブ記を観ていたようです。

 忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである。」( ヤコブの手紙5章11節)

 

しかし、この聖句の後半の部分に注目してみて下さい。主がヨブになさった結末を見た時に、主がどれほど慈愛とあわれみに富んだかたであるという事実がわかるというのです。

 

でも、皆さん、誤解しないで下さい。ヨブが忍耐したからということで、ヨブが主の人知を超えた愛に気づいたわけではないのです。

 

確かにヨブは耐え忍びました。でも、耐え忍ぶだけでは、新しいものは生まれないのです。家入レオの『Shine』の歌詞を思い起こして下さい。

 「あきらめかけた時に_何かが生まれたんだ


耐え忍んでいる時に、フッと何かをあきらめた時に初めて新たなものが生まれたのです。ヨブ記にあるような起承転結の『転』が生じていったのは、ヨブが何かをあきらめた時だったのです。もし、ヨブ何かをあきらめることをしなかったら、ハッピィエンドな結末(ヨブ記42章10~17節を参照)は、おそらく生まれることはなかったと想います。


家入レオの『Shine』の歌詞の中に「つまづいたその手に掴んだその未来」というフレーズがありますが、ヨブが試練という境遇の中でつまづいたままでも、また、試練そのもを耐え忍んでいるだけでも、ヨブの手はハッピィエンドな未来を掴むことは、なかったのです。

 

実に、ヨブが試練というつまづきの中で耐え忍んでいる時に、これまでずーっとヨブが囚われていた善悪の固定観念という狭小な情報だけに照らして、すべての物事を捉えてさばいていた『井の中の蛙』的な世界観から解放された時に、試練で苦しんできたヨブの人生において大きな転換期、節目を迎えることができたということなのです。これがヨブ記の謎解きにおいて、とても大事なポイントになってくるのです。

 (1月28日 日曜日更新) 

 

 

さらに、ヨブ記の謎に迫る

 

さて、もう一度、以下の聖句を観てみたいと想います。

主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである。」( ヤコブの手紙5章11節)

 

主がヨブになさったハッピィエンドな結末を見ると、確かに私たちは主なる神の愛の深さを納得できると思います。

 

では、ヨブの場合はどうだったのでしょうか?

 

重要なポイントは、ヨブが試練の真っ只中にあって、すなわち、肉眼ではまだ何も変わっていない状況、試練の解決の兆しが一切見えない状況の中にあって、ヨブが主なる神の変わらない深い愛、測り知れない愛がわかったということです。ハッピィエンドな結末が目に見える形となって現象化する以前に、ヨブが『神の愛』という"肉眼では見えないの事実"をしっかりと捉えていたということに注目する必要があるのです。

 

肉眼で確認することが不可能な段階で、結末がどうなるのかが全くわからない····そのような状況の中で、『神の真実の愛』を認めることが、まさに"信仰"と言えるのです。

 

このような信仰のメカニズムを解明するために、以下の詩編の聖句がヒントになると想います。

 

あなたはいつくしみある者には、いつくしみある者となり、欠けたところのない者には、欠けたところのない者となり、清い者には、清い者となり、ひがんだ者には、ひがんだ者となられます。」 (詩篇18篇25節~26節)

 

このような視点からヨブ記を観ていくと、一体、何が見えてくるのでしょうか? 

 

ヨブが神の慈愛やあわれみなどを微塵も"感じられない"ような悲惨な試練の中にあって、それを知ることができる方法というのは、そんなに多くはないと想います。いや、一つだけしかないのではないか·····と、私は観ています。

 

その方法というのが、イエスが山上の説教の中で伝授したノウハウです。それは、『ジャッジしないこと』です。『さばかないことを実践してみること』こそが、ヨブにとっても試練を解決する突破口を大きく開いた····と、私は観ているのです。

 

神の真実の愛の栄光を観るためのは、『さばくのをキッパリとやめること』が最高の方法と言えるのです。一生懸命、自分のマインドを働かせて、思索することことでも、また、自分の想像力をフル回転して神の愛をイメージすることでもないのです。

 

ところで、先ほど引用した詩篇の中に、「あなたはいつくしみある者には、いつくしみある者となり·····」とあります。つまり、神の真実の愛を知るためには、それに先だってヨブ自身が愛のある者になっていなければならないということです。そうでないと、たとえ神の愛を知りたいと思ったとしても、神の愛は歪んで見えてしまうことになるからです。


あなたは···、ひがんだ者には、ひがんだ者となられます。」 

 

では、イエスは山上の説教の中で、天の父なる神の愛の栄光を歪むことなく、ありのまま観るための秘訣というものをどのように語られたのでしょうか?


実は、イによる福音書5章44節~48節において、イエスがその秘訣を明らかに示されたのではないか·····と、私は観ているのです。


「しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。


ここでイエスは、一体、何を言いたかったのでしょうか?

 

完全な天の父を知るためのコツというのは、私たちも同様に完全な者になることであるというのです。もう少しわかりやすく言うと、悪い者と良い者、正しい者と正しくない者とを区別したり、分け隔てしたりしない愛において、天の父なる神にように完全になることだと、イエスは言っているわけです。

 

言い換えれば、寛容という愛です。別の表現で言うと、それは『さばかない』というタイプの愛のことなのです。

 

人は、すべての点において神のように完全になることは不可能と言えます。でも、『さばかないという寛容の愛』において完全になることは、人には可能なのです。"このことに気づきなさい"と、イエスは山上の説教において切々と訴えているように、私には思えてならないのです。

 

使徒パウロは"愛とは何か"について説明していますが、筆頭に『寛容』をあげたことは注目に値します(コリント人への第一の手紙13章4節を参照)。

 

聖書を通じて『神の愛』とはいかなるものかとよくよく観ていくと、実は、『"さばかない"という寛容の愛』がベースとなっている、基調になっている、特徴となっていることがわかります。

 

寛容という愛』は、『ゆるす』とか『あるがまま認める』とか『分け隔てしない』とか『片寄りみない』と同じような意味あいです。山上の説教の中で天の父なる神について、イエス自らが天の父なる神に関して啓示された中身というのが、このような『寛容の愛』だったのです(マタイによる福音書5章44節~48節を参照)。

 

実は、ここにこそ、人が神にアクセスしていくための重要な鍵、あるいは、秘訣があることをイエスは山上の説教の中で教えられたのです。

(1月29日 月曜日更新)(1月31日 水曜日更新)(2月1日 木曜日 補足更新)(2月2日 金曜日 補足更新)

 

 山上の説教で教えられたいわゆる『主の祈り』の中でも、また、それに対する補足のコメントでも、イエスはやはりその重要な鍵·秘訣を述べています。そのことに触れたイエスの言葉を、以下、参考までに引用しておきます。

 

わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。」(マタイによる福音書6章12節)

もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。」(マタイによる福音書6章14節)

 

 この『ゆるすという寛容の愛』を生きることによって初めて、人は『天の父なる神の寛容の愛、ゆるしの愛』というものをありのまま観ること、認めることが可能となり、そして、神と調和していく道が開かれていくのです。

 

天の父なる神にアクセスする、あるいは、接点を持つための鍵·秘訣とも言うべき『ゆるす』、言い換えれば、『寛容という愛』に生きる····そのための具体的なノウハウというのが、まさにイエスがマタイによる福音書7章1節で教えられた『ジャッジしない(さばかない)』を実践することなのです。

 

では、この『さばかない』とはどういうことなのかについて、今一度、整理しておきましょう。

 

さばかない』とは、過去から蓄積された既知の情報だけを検索し、分析して、答えを導きだそうとするマインドに翻弄されないことです。そのようなマインドの働きを意識的に停止することで、初めて、『さばかない』ことが可能になるのです。

 

井の中の蛙、大海を知らず』という諺がありますが、言うなれば、"井の中にある限られた過去情報"(=自分が持っている"既知の情報")だけを元に無理やりファイナルアンサーを導き出そうとすることが『さばく』ということです。

 

一方、『さばかない』とは、そのような『井の中にある"限られた既知の情報"』に依存せずに、むしろ、そこから解放されて、"今というこの瞬間、瞬間というリアルタイム"に自分が生きる軸足を置いて、

"大海にある既知外の溢れんばかりの情報"(=自分がまだ手に入れてない"既知外の情報")に心の大きく開いて、そこから貴重でフレッシュな情報を積極的に取り込んだり、吸収したりしながら、様々な角度や視点や次元から物事を観ていく、捉えていく、判断していくということです。

 

人というのは、心の目に""がある時に、その『既知外にある情報という大海』が見えなくなってしまい、自ずと人は『さばく』という行為をしてしまうものです。

 

心の目からその""が取り除かれた時に初めて、人は『既知外にある溢れるほどの情報という大海』に触れることができ、そこから入手した情報から様々な角度、視点、次元から物事を観たり、捉えたり、判断したりできるようになっていけるのです。その時に、人は『さばく人』から『さばかない人』(=寛容の愛の人)へと進化していくのです。ヨブという人は、試練の中で、実にこのような進化を遂げていったのです。だからこそ、ヨブの心の目は、はっきりと見えるようになり、神を"寛容の愛に満ちた神"として正しく認めることができたのです。だからこそ、ヨブの試練はもはや消えざるを得なかったのです。

 

自分の心の目からこの""を取り除くための具体的なノウハウというのが、『さばかない』ことを実践することだ····と、山上の説教の中でイエスは教えられたわけです。そして、この教えをヨブが実践していった結果、もはや解決しないのではないかとさえ思われたあの悲惨な試練が、なんと急展開を迎えることになったのでした。

 

ヨブ記というのは、山上の説教の中でイエスが説いた核心的教えがしっかりと解った上で読み直すと、実に面白いストーリーであることが判明します。ヨブ記は、とてもわかりやすく、感動的な物語であると言えます。

 

(2月3日 土曜日 更新)(2月4日 日曜日 更新)

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1月7日(日)更新 『ヒーロー』とは?

2018年01月07日 18時50分33秒 | 歌の歌詞に観る“イエス-道”

『ヒーロー』とは?

 

NHKの紅白歌合戦の安室奈美恵が歌ったナンバーは、『Hero』でした。

 

今回のブログでは、『Hero(ヒーロー) 』について、想いを巡らせていきたいと想います。

 

安室奈美恵の『Hero』の歌詞をみていくと、

     I'll be your hero  I'll be your hero.

     ·····今までの君のままで進めばいいから

     ·····君だけのためのhero どんな日もそばにいるよ 

というフレーズがあります。


さて、このように『どんな日もそばにいる』という『君だけのhero』というのは、一体、どこにいるのでしょうか?


あるいは、何を意味しているのでしょうか? 


そのヒントは、マライア·キャリーが歌う『Hero』の歌詞の中にあると、私は観ています。


      Look inside you and be strong

      And you'll finally see the truth

      That a hero lies in you


つまり、ヒーローが存在しているのは、あなたの内側であるというのです。自分のヒーローを外側にあるかのように錯覚してはならないのであり、外側に依存してもならないのです。自分の内側にヒーローがいることに気づくことこそが、とても重要なことなのです。


イエスが山上の説教の中で説いた重要な真理というのは、まさにこのことだったのではないか····というのが私の観かたなのです。


つまり、イエスがこの山上の説教の中で、あなたの内なる光」(マタイによる福音書6章23節)こそが、実は、あなたの『ヒーロー』なんだよ····と言いたかったのではないかと私は想っているです。


自分自身の内にこそ『ヒーロー』がいることに気づく時に、その人は「風の吹くままに揺れ動く海の波」(ヤコブの手紙1章6節)のようでない"確固たる人間"になっていくと想うのです。「信仰の薄い者」(マタイによる福音書6章30節)から脱却することが可能となるのは、自分の内に存在している『内なる光』に気づき、そのが明るく輝く時なのです。


日頃、私たちが何気なく耳にしている歌の中にも、このような真理が語られている場合があります。皆さんは、お気づきだったでしょうか?


ジブリの名曲の中に『いつも何度でも』があります。この歌詞の最後に、「海の彼方にはもうさがさない。輝くものはいつもここにわたしの中に見つけられたから」という注目すべきフレーズがあります。この"輝くもの"というのが内なる光』を意味していると、私は観ています。


また、家入レオが歌う『Shine』というナンバーがあります。ここで歌われている"Shine"こそが『内なる光』である···と私は観ています。従って、この曲を聴く度に私の心は感動するのです。


さらに、Superfly が歌う『輝く月のように』というナンバーがあります。この歌詞の中に「愛を知って輝き出すんだ」、「愛を知って輝いているよ」というフレーズがありますが、愛を知って"輝くもの"は、まさに内なる光』である·····と私は観ています。


(2018年1月1日 月曜日 更新、1月5日 金曜日 補足更新、1月7日 日曜日 改訂更新) 

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1月1日(月)更新 『十人のおとめの譬』を再考する(その2)

2018年01月01日 16時58分26秒 | イエス-道

*** このブログは、『十人のおとめの譬』を再考する(その1)からの続きです ****

 

 

ここで、いわゆる『ラオデキヤ教会へのメッセージ』の中身を観て参りましょう。

 

黙示録3章17節には、「あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない」とあります。


イエス自身は、信じると公言している人たちの現実、現状をしっかりと見ており、把握しておられます。ところが、"信者たち"の多くは自分たちの現実の姿が全く見えていない、気づいていないという状況があるというのです。


かつて、十字架にかかったおられたイエスの口から、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているか、わからずにいるのです。」(ルカによる福音書23章34節)と語られました。


イエスの再臨と神の国の到来を、今か、今かと待ち望んでいるキリスト教徒においても、これと同じような状況が見られるというわけです。


言い換えれば、未信者だけの問題にとどまらず、キリスト教の信者においても見られる、共通した本質的な問題というものがあるということです。両者に共通しているその本質的問題というのは、気づけないほどに、あるいは、わからないほどに、心が鈍くなっている、心が覆われてしまっている·····ということなのです。これはまさに山上の説教の中で言われているように、目に"梁"があるために霊的に盲目になっていることを意味します。

 

さらに、このように記されています。「そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。 ・・・・見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(示録3章18節~20節)


ここでのキーワードは、「火で精錬された金」、「白い衣」、「目にぬる目薬」です。そして、これら3つのものを手に入れることが、「戸をあける」ということである·····と、私は観ています。逆に言うと、これら3つを持っていない人々は、『主イエスに対して心の戸をあけることを拒んでいる』ということです。


では、これら3つのキーワードは、一体、何を象徴しているのでしょうか?


火で精錬された金」というのは、ぺテロの第一の手紙1章5節~7節から観ると、『信仰』を象徴していると考えられます。


目にぬる目薬』とは、エペソ人への手紙1章17節から観ると、「知恵と啓示との霊」と呼ばれている『神の聖霊』を象徴していると考えられます。


白い衣」とは、イザヤ書51章8節、ピリピ人への手紙3章9節、ローマ人への手紙3章21節~28節から観ると、『イエス·キリストを信じる信仰にもとづく神からの義』を象徴していると考えられます。イエスは、山上の説教の中で「あなたがたの義律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。」と語りました(マタイによる福音書5章20節)。ここでイエスが天国に入るための条件として提示された"律法学者やパリサイ人の義にまさっている義"というのは、『神の義』であることは明らかです(マタイによる福音書6章33節)。さらに、使徒パウロは、この『神の義』 は、『福音』の中に啓示されたと述べており、『信仰』との深い関わりについても述べています(ローマ人への手紙1章17節を参照)

 

そして、これら「火で精錬された金」·「白い衣」·「目にぬる目薬」の3つをすべて網羅して、使徒パウロがズバリと述べた言葉というのが、以下のガラテヤ人への手紙5章5節なのです。

わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によってとされる望みを強くいだいている。


このような神の御霊の助けが関与した『信仰による義認』という一つの重要な救いに関する教えこそが、黙示録3章の『ラオデキヤのメッセージ』の内容そのものであるわけです。


 

『神の義』と『神の愛』

 

ところで、主イエスが十字架上で罪の身代わりとして死なれた時に、『神の義』が現されたと使徒パウロは述べています(ローマ人への手紙3章21節~26節を参照)。さらに、パウロはイエスの十字架の死を通して、『神の愛』が現されたことも述べています(ローマ人への手紙5章6節~8節を参照)。


この『神の義』と『神の愛』の関係をどう観るかということも、重要なポイントの一つではないかと、私は想っています。


神の『』と『』を別々に切り離して捉えて、神にはこれら2つの別々の相反する側面があると観る方が、人の頭では(理性的には)わかりやすいかも知れません。


ところが、人の頭の中で、神のイメージが『』の方に振れた時には『』の方が減っているように思え、逆に、『』の方に振れた時には『』の方が減っているように考えてしまう傾向があります。あたかも、『』と『』は、対極にあるもの、一つにはならない別々の相反する神の属性であるかにように捉えるのが、一般的ではないでしょうか? 

 

でも、このような観かたをすると、神は罪人をそのまま受け入れることは不可能であって(神の義が満たされていないので)、神の御子イエスが罪人の身代わりとして十字架上で犠牲となられたために(神の義が満たされたので)、ようやく神が罪人を受け入れることが可能になった·····そのように考えられてしまいます。つまり、無条件の愛、無償の愛で罪を犯した人を受け入れるような神ではなくなってしまうのです。一定に条件や要求が満たされて初めて罪を犯した人を神は愛し受け入れることができるということになってしまうわけです。もしそうなら人間レベルに格下げされた神の愛になってしまいます。もちろん、その方が私たち人間は納得しやすいと想います。この世の常識や善悪の判断基準に照らしても、人は理解しやすいわけです。

 

はたして、そうなのでしょうか? これが『福音』、すなわち、グッドニュースと呼べるものなのでしょうか?


もしそうならば、神の愛というものは、人間の想定内のものに限定されてしまいます。サプライズも、新鮮さも、そこには存在しないのです。

 

2017年12月3日 日曜日 更新、12月5日 火曜日 補足更新、12月17日 日曜日 補足更新


『福音』というものは、人のマインドで納得するようなレベルを超えているもの·····、人が思いつくような範囲から逸脱しているもの····普通の人が想定していることをはるかに超えているもの·····。


イエスは山上の説教の中で、以下のように語られました。

 

『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイによる福音書5章43節~48節)

 

これは、天の父なる神の愛は、人間の想像や想定をはるかに超えた無償の愛、無条件の愛、測り知れない程の愛であることを述べていると想われます。


さらに、イザヤ書55章8節~9節には、

 「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。

とも記されています。つまり、神の思いを人の思いをはるかに超えているのであり、もし人の思いの視点から神を捉えてしまうと、ひどく誤解してしまうことになるのです。

 

使徒パウロも、コリント人への第一の手紙2章7節~11節の中で、以下のような興味深いことを述べています。

「わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。しかし、聖書に書いてあるとおり、『目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた』のである。そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。」

 

つまり、『福音』の中に隠された奥義といえる「神の深み」に関するもの、すなわち、「神の思い」というものは、「人の心に思い浮びもしなかったこと」なのであり、人の思いよりもはるかに高いのです。

 

 使徒パウロはまた、「神の義は、その福音の中に啓示され、······」(ローマ人への手紙1章17節)と述べています。つまり、「神の義」は、『福音』の光を当てて観ないといけないわけです。『福音』の光の中で「信仰」の目で観た時に、真実の「神の義」を観ることが可能になるのです。「神の義」を単にマインドで捉えようとすると、誤って捉えてしまうことになりかねないのです。

 

ところで、使徒行伝13章38節では、福音は「罪のゆるしの福音」と呼ばれています。"罪のゆるし"というのは、神の"寛容の愛"を意味します。神の御霊によって信仰の目が開かれて"福音"の光の中で「神の義」を観る時に、実に「神の義」と「神の愛」が一つのものであったことに気づかされるのです。

 

一方、使徒ヨハネは、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。」(ヨハネによる福音書3章6節~18節)と述べています。

 

でもヨハネがここで言いたいことは、神の御子イエスが罪人である人類の身代わり、罪の犠牲となったから、天の父なる神は罪を犯した人類を愛することができるようになった······ということではないと想います。また、御子イエスの犠牲があったからこそ神は人を愛し、救うことができるようになったということ、そして、それを信じることを条件に、人が神の救いにあずかることができる ?  でもこれは、どこか微妙に違うのはないか······と感じてしまうのは、私だけでしょうか ?

 

ヨハネは、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じるがひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」と述べています。では、私たちが滅びないで、永遠の命を得るためには、一体、どのように御子イエスを信じればいいのでしょうか ? ·······

(12月11日 月曜日 更新、12月17日 日曜日 補足更新) 


イエスが再臨される時に準備が出来ていなくて、戸がしめられて、天国に入り損なってしまうことになる『思慮の浅い者たち』は、自分たちはこれまで神の御子イエスを信じてきたのに、なぜ天国から閉め出されてしまうのかが理解できない、納得がいかないと想います。


滅びることなく、永遠の命を得るためには、ただ単に信仰の対象を『神の御子イエス』に設定することだけでは不十分と言えるのです。なぜなら、「主よ、主よ」と言うキリスト教信者の多くが、神の国に入り損なってしまうことが、山上の説教の中でイエスご自身が指摘されているからです。


信じる』とはどういうことなのかを知らなければならないのです。これは、とても重要なことです。




ヨブ記と『十人のおとめの譬』


皆さんは、旧約聖書のヨブ記を読んだことがあると想います。ヨブ記では『神の義』か『ヨブの義』かということが論争のテーマであると思う人が多いかも知れません。確かに、ヨブ記を読むと、いついかなる時でも変わらぬ『神に対する忠実、誠実、服従』が問われているかのような印象があります。『信仰』とか『信じる』ということは、中心テーマとはなっていないように思われます。そして、結局、なぜヨブが試練から救われたのか、その真相がわからないまま、やがてヨブ記を読むことに興味がなくなってしまった人は多いのではないでしょうか。ヨブ記には希望がない···、ヨブ記を読んでも、感動を覚えない···、ヨブ記は難解過ぎる····。はたして、本当にそうなのでしょうか?


ヨブ記は、一見、『十人のおとめの譬』とは無関係に思えるかも知れませんが、実は、ヨブ記の謎が読み解けると、『思慮の浅い者』が『思慮の深い者』に変身していくことになるのです。

 

ヨブ記の謎解きにおいて注目すべき箇所というのは、ヨブ記42章5節です。

わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。

 

もし、この聖句がなければ、ヨブ記はずーっと謎のままだったと想います。この聖句こそが、実は、イエスの山上の説教における核心メッセージとの接点となるものなのです。ここにこそ、ヨブがいかにして試練から救われたかについての真相があるのであり、また、『思慮の浅い者』が『思慮の深い者』に移行していく秘訣もあるのです。

 

「わたしはあなたの事を耳で聞いていました」というのは、これまでの過去情報(常識、伝統、既成概念、固定観念、噂など)というフィルターを通して間接的に神を捉えていた、見ていたということです。このレベルでヨブと3人の友人たちが神やヨブの試練について論争していても、試練からの解決策や打開策も全く見いだすことは出来なかったのでした。また、神に関してもかなり誤解してしまっていたのでした。

 

ヨブが試練から救われるためにどうしても必要なこと、それはヨブが「わたしの目であなたを拝見」することだったのです。自分の目で神を拝見する、見るということは、過去情報に照らしてマインドを働かせて"さばくということ"をやめることで、心の目(=信仰の目)にある“梁”を取り除いて、神をあるがまま観ていくということを意味します。神に関しての誤解を解くことこそが、ヨブの試練が消えていくために"なくてはならないただ一つのこと"だったのです。これさえなされれば、ヨブにとって試練が存在する意味はなくなってしまうのです。つまり、試練は、自ずと消えていかざるを得なくなるのです。

 

つまり、ヨブ記の中心メッセージは、イエスが語った山上の説教の核心メッセージそのものだったことがわかるのです。

 

そして、『思慮の浅い者』は、"さばくこと"をやめる時に心の目から"梁"が取り除かれて、『思慮の深い者』になっていくというわけです。

(12月17日 日曜日 更新、12月24日 日曜日 補足更新)。



『十人のおとめの譬』の結論


この『十人のおとめの譬』の結論としてイエスは、「だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。」(マタイによる福音書25章13節)と語りました。


ここで言われている『目をさましていなさい』というのは、心の目(=信仰の目)の視界を遮っていた"梁"を取り除いて、ハッキリと肉眼では見えない真実、真相、事実、真理を観て、捉えることを意味します。そして、このことは人がさばくことを止める時に初めて可能となる····というのが、実にイエスの教えなのであり、山上の説教における核心メッセージでもあるのです。

(2018年1月1日 月曜日 更新)。

▦▦▦▦ END  ▦▦▦▦▦

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11月27日(月)更新 『十人のおとめの譬』を再考する(その1)

2017年11月27日 23時35分48秒 | イエス-道

十人のおとめの譬』を再考する(その1)



2013年11月5日に更新した十人のおとめの譬という私が書いたブログがあります。


最近でも、この十人のおとめの譬がしばしば閲覧されているようです。ありがとうございます。


今になって、その時に書いたブログを読み返してみると、一部ですが捉え方が違ってきていることに気がついたので、今回のブログでは、その点を改訂したいと想います。


イエスの山上の説教における核心的教えの一つは、「さばくな」ということであることは、これまで何度も私は繰り返し述べてきました。


それは、“他者をさばかず”ということだけではなく、“自分自身をもさばかず”・・・ということです。


過去、あるいは、今、“自分はこう考える”ということがあるとします。その場合、それを絶対正しいとか、間違いないとかと思い込んだり、決めつけたりしないことが大切なわけです。言い換えれば、自分が判断したこと、考えたこと、結論を出したことを自分のうちで固定化して、固定観念にしないということが重要なわけです。


その時点で自分が持っている情報に照らして捉えると、そのような結論になるが、今後さらに新たな情報が増えてきたり、より高い次元から観ることができるようになったら、その時とは違った観かたや捉え方が可能になるかも知れない・・・というふうに、常に柔軟性のある考え方を身に着けていくことがとても大切であることをイエスは山上の説教で説かれたと、私は想っています。


井の中の蛙、大海を知らず』という諺をいつも肝に銘じ、今の私は  もしかしたら まだ『井の中』という“限られた情報”の中にいる『』なのかも知れない。私が“まだ知らない情報”の『大海』というものが存在しているかも知れない・・・・と、観ていくわけです。これが、「さばかない」ということです。


このような柔軟な観かたや捉え方を捨ててしまう人が、実は、「さばく人」に容易に変身してしまうのです。



あかり


さて、改訂したいのは何かというと、『十人のおとめ』の譬の中で イエスが語った「あかり」は何を象徴しているか・・・・という点です。


「そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。」(マタイによる福音書25章1~13節


2013年11月5日に更新した十人のおとめの譬というブログの中では、「あか」というのは神の御言葉』ではないか・・・と私は捉えていました。でも、このような解釈は、あまりにも漠然とし過ぎています。


その後、イエスが語った山上の説教をさらに読み解いていった結果、あかり」というのは むしろ「あなたの内なる光」(マタイによる福音書6章23節)そのものを象徴していたのではないか・・・・ということに気づきました。


つまり、「わたしたちのあかり消えかかっていますから」というのは、山上の説教の中でイエスが語っておられた「もしあなたがたの内なる光暗ければその暗さは、どんなであろう」(マタイによる福音書6章23節)に対応していたわけです。つまり、「わたしたちのあかり消えかかっていますから」を、言い換えると、「わたしたちの内なる光暗くなっていますから」という意味になるわけです。


そして、譬の「」を「真理の御霊」と捉えていくと、「あかり」と「」の関係もスッキリと解ってくるのです。


今後、当ブログで、このあかり」と「」の関係についての説明も加えていく予定です。


 

知識のかぎ


ところで皆さん、女性シンガー中島美嘉が歌う『WILL』という有名なナンバーをご存じでしょうか? これは、ずっと以前から私が注目しているナンバーの中の一つです。実は、このWILL』の中に興味深いフレーズがあるのです。それは何かと言うと、

   「記憶が星座のように 輝きながら繋がる 

    バラバラに見えていたけど  今ならわかるよ WOW WOW

    記憶が星座のように ひとつになって教える

というフレーズです。


イエスは、かつて、「あなたがた律法学者は、わざわいである。知識のかぎを取り上げて、自分がはいらないばかりか、はいろうとする人たちを妨げてきた。」(ルカによる福音書11章52節)と語ったことがありました。


ここで言われている『知識のかぎ』というのが、イエスが山上の説教で説いた「さばくな」という核心的な教えのことではないか···、そのように私は個人的には観ています。


使徒パウロは、コロサイ人への手紙3章14節で、は、すべてを完全に結ぶ帯であると記しています。


こそが、長い間バラバラだった聖書の教え、あるいは、単なる寄せ集めに過ぎなかった聖書の教え、人を完全に結びつけていくというわけです。その結果、聖書の様々な教えは、輝きながら繋がっていき、パズルがピタッと合うように スーッとひとつにまとまっていき、全体像が姿を現してくるのです。


「神はである」と聖徒たちは、証言しています。そして、イエスは山上の説教の中で示された神の“”というのは、良い者と悪い者、正しい者と正しくない者とを区別したり、別け隔てしたりしない愛、言い換えると、“寛容の愛”のことだったのです。


イエスが説いた山上の説教におけるメッセージにおける核心部分というのは、「さばくな」である・・・と私は捉えています。さばかないことは、実は、寛容の愛に基づいている行為そのものと言えます。


イエスが教えた「さばくな」の重要性とそれがどういうことなのかがわかってきて、しかも、それを実際に実践していくと・・・・

星座のようにこれまでバラバラに見えていた星々が輝きながらスッと繋がり、ひとつの星座となって姿を現して来るのと同様に、 これまで学んで断片的だった聖書の知識、頭の中でバラバラに記憶されていた聖書の数々の教えというものが、「さばくな」というイエスの教えに照らして聖書を学び直して観ると、そこに隠された真理の輝きが見えてくるのです。本来の意味がすーっと伝わってきて、全体像がわかってくるのです。何がいったい重要な真理かということがわかってくるのです。


人はさばくことをやめた時に、その人の心にかかった覆いが取り去られて、心の目の視界が開けてくるので、真理の輝きが見えてくるのです。また、神の本来の栄光も見えてくるようになるのです。これが、マタイによる福音書7章1節~5節が意味していることでもあるのです。これが、その人の『内なる光』が明るく輝いている状態なのです(マタイによる福音書6章22節23節を参照)。


このように、「さばくな」というイエスの教えは、まさに聖書が人に提供している知識を解く“”と言えます。



戸がしめられた


十人のおとめ』の譬の中には「戸がしめられた」とあります。花婿がようやく到着した時に、思慮の浅い者たちが花婿と一緒に婚宴のへやに入ることが出来なかった、すなわち、イエスを再臨を待ちわびていたクリスチャンたちが準備不足のために天国に入り損なってしまったということになります。でも、ここから学ぶべき重要なポイントがあるのではないか·····そのように私には思えてならないのです。


では、この譬にある戸がしめられた」という言葉をどのように観ることができるのでしょうか?

 

黙示録3章には、いわゆる『ラオデキヤ教会へのメッセージ』があります。さて、ここの3章20節には、主イエスが「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている」と描写されています。この箇所と十人のおとめ』の譬の中の「戸がしめられた」とをリンクさせて捉えていくと、面白いのではないかと想います。


どういうことかと言うと······「あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。」(マタイによる福音書7章2節)という視点から観ていくわけです。

 

つまり、戸をしめられてしまうことになる「思慮の浅い者たち」というのは、主イエスが彼らの心の戸を以前に何度も何度もたたいていたにもかかわらず、その戸を内側から開けて迎え入れようとせず、むしろ、戸をかたくロックしていたのです。


これが、『あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ····』ということなのです。


では、「思慮の浅い者たち」は、どのようにして、主イエスに対して心の戸を閉ざしたのでしょうか?


その答えは、『ラオデキヤ教会へのメッセージ』を解読していくとわかります。·············

2017年11月19日 日曜日、11月27日 月曜日 補足更新 ▦▦▦▦ まだまだ続きます。お楽しみに ▦▦▦▦▦

 

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11月18日(土)更新 Superfly『輝く月のように』と “イエス-道”

2017年11月18日 15時34分34秒 | 歌の歌詞に観る“イエス-道”

                    ≪当ブログの中で引用している聖句は、主に『口語訳聖書』です

 

 輝く月のように』(by Superfly)と “イエスー道

 

 

山上の説教の中でイエスが指南された「さばくな」こそ聖書の教えの根幹であるとみなす『イエスー道』の生き方を送っていると、何気なく音楽を聴いていたり、映画を観たり、本を読んでいたり、また、職場や家庭で実際に目の前で繰り広げられる“ドラマ”を観照したりしていると、ハッとさせられることがしばしばあります。つまり、イエスが山上の説教で説かれた核心的な教え·真理の重要性を再発見したり、再認識したり、再確認したり、再評価したりする機会がよくあるのです。

 

今回のブログでは、女性シンガーのSuperflyが歌う『輝く月のように』の歌詞を題材に用いたいと想います。

 

 ところで、イエスの山上の説教のキーワードの一つに『内なる光』があるということは、以前に当ブログでも書きました。人の内にはというものが存在しているということ、そして、その『内なる光』を暗くしてはいけないということをハッキリとイエスは説いておられるのです(マタイによる福音書6章22節~23節を参照)。


私は長年聖書を探究してきて、ようやく、人の『内なる光』の存在の重要性に気づきました。それと共に、この『内なる光』と『さばくな』が密接にリンクしていたことも、よくわかってきたのでした。ここに至るまで、なんと随分 長い年月を費やしてしまったことか······という感じです。でもある意味、この世で生きている間にわかって 良かった···と想うべきかも知れません。 


さて、今回のブログで考えてみたいテーマは、どうやったら 人の『内なる光』を輝かせることが出来るのかということです。実は、これはとても深遠なテーマとも言えます。


「目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。」(マタイによる福音書6章22節~23節)


このようにイエスは述べました。人の『内なる光』を暗くすることなく、むしろ、明るく輝かすためにどうしたらよいのだろうか? このヒントがSuperflyの『輝く月のように』の歌詞の中にもあることを観ていきたいと想っているのです。


これを機会にぜひ 皆さんも、ユーチューブなどで、Superflyの『輝く月のように』を聴いて味わってみて下さい。


ところで、私のスマートフォンに以前ダウンロードしてあった『輝く月のように』を久しぶりに聴いていたところ、「おっ、これは·····」と、私が注目したフレーズがありました。


実は、輝く月のように』の中で、数回、繰り返されるフレーズに、『内なる光』を輝かすためのヒントが隠されているのです。そのフレーズとは、·······


愛を知って輝き出すんだ(2回)、愛を知って輝いているよ(1回)です。


つまり、愛を知った時に、人の『内なる光』がようやく輝き出すようになるということです。逆に言うと、愛を知らないでいると、この『内なる光』を輝かすことは至難のわざになるということです。


では、このヒントから再度 イエスの山上の説教を観ていくと、どういうことが明らかになってくるのでしょうか?


イエスが語った注目すべきメッセージというのは、マタイによる福音書5章44節~48節にあります。


しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。


人の『内なる光』が輝くようになるために イエスは、“天の父なる神の愛”を指し示されたのでした。愛と言っても、漠然とした愛ではありません。愛の様々な側面をあれもこれもと欲張って、たくさんリストアップされたのでもありませんでした。


イエスが示された天の父の愛というのは、悪い者と良い者を別け隔てしない愛、正しい者と正しくない者を別け隔てしない愛、すなわち、『さばかない愛=寛容という愛』だったのです。Supetflyの『輝く月のように』の歌詞の中では、この『寛容の愛』について “私のすべてを受け止めてくれたんだ”というふうに表現されていることに注目したいです。


イエスはまたここで、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」とも言われました。これは敵と味方を区別して、敵を憎んだり 非難したり 批判したり 攻撃したりして、逆に味方を愛して仲良くするというような『従来の常識』をはるかに超えていると言える“敵と味方を別け隔てせずに愛するという、天の父なる神の人知を超えた寛容の愛”を前提として語られたものです。


あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者になりなさい」とイエスが語られたのは、“天の父の神の完全さとは寛容という愛の完全さである”ということを前提にしてのことでした。


寛容の愛とは、無条件で受け入れる愛でもあります。あるがまま受容していく愛です。「あなたのこういうところを変えなければダメだよ」というのではなく、「あなたは、今のあなたのままでいいんだよ」というのが、寛容の愛なのです。


このような“天の父の寛容の”に関する真実、事実、真理に気づくことによって、知ることによって、人は自らの『内なる光』を輝かすことに繋がっていくというわけなのです。


ところが、たとえイエスがそのような“天の父の寛容の愛”を示されたとしても、人の『内なる光』がなかなか輝き出さないことも往々にしてあるのです。このような現実があるのです。一体、何が原因で、そのようになってしまうのでしょうか?


その原因について、イエスは山上の説教の中で「自分の目にある梁」と呼んだのでした(マタイによる福音書7章3節)。


ちなみに使徒パウロは、それを「おおいが彼らの心にかかっている」、「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」というふうに表現しています(コリント人への第2の手紙3章15節,18節)。


ところで、聖所や神殿において、前方の第一室は聖所と呼ばれ、その奥の部屋は至聖所と呼ばれていました。そして、これら二つの部屋は"垂れ幕"(=第二の幕)で覆われていました(ヘブル人への手9紙1節~3章節を参照)。そして、その垂れ幕はイエスが十字架上で息を引き取られた時に上から下まで真っ二つに引き裂かれたと記されています(マタイによる福音書27章50節~51節を参照)。この『垂れ幕』というのが、イエスが言うところの『目にある梁』、使徒パウロが言うところの『顔おおい』、あるいは、『心にかかっているおおい』を暗に示しているのではないか····と私は確信しているのです。


そして、この目にある梁』(=顔おおい心のおおい)があるからこそ、たとえ神の寛容の愛に関する真実が示されたとしても、それを見えなくしてしまっている原因となっていることを、イエスは山上の説教で指摘されたのでした。そのため、見ても見えず、聞いても聞こえず·····というような状況に陥ってしまうわけです。


この目にある梁』の存在が、人の『内なる光』が暗くなっている状態と作り出しているわけですが、実は、これは大きな問題なのです。


どうすれば、この問題を解決することが出来るのでしょうか?


ただ、神の御子イエスを救い主であると信じればいいのでしょうか? あるいは、キリスト教の信仰を告白して、パプテスマを受けて、キリスト教会に所属すればいいのでしょうか? 必ずしも、そのような単純なことで、解決する問題ではないのです。これは、多くの人々の想像をはるかに超えている、もっともっと根深い問題なのです。この世で与えられた1回だけの人生の中で解決できる人は、そんなに多くはいないかも知れません。


では、人の『内なる光』は、どのようにすれば輝き出すというのでしょうか?  


その答えは、言うまでもありません。一つだけ方法があります。それは、自分の目から『』を取り除けばいいのです。


それでは、どうすればその『』を自分の目から取り除くことができるというのでしょうか? そのノウハウは、どこにあるのでしょうか?


この問いに対するイエスの答えは、実に、単純明快なのです。 


さばいてはいけません。(マタイ福音書7章1節;新改訳聖書)

裁いてはならない。マタイ福音書7章1節;フランシスコ会聖書研究所訳)


これこそ、イエスの山上の説教における核心的メッセージと言えます。イエスが山上の説教の中で、もし、このメッセージを語らなかったとしたら、人類は人生という航海において、ちょうどコンパスが故障してしまった船のように、方向感覚を失い、迷いから脱却することが不可能になったに違いありません。その結果、めざす目的地に到達することができなくなってしまうのです。


イエスが、十字架上で言われた言葉があります。それは、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」という言葉です(ルカによる福音書23章34節)。これはまさに、自分たちが迷っていることすら、わからなくなってしまっている状態、霊的に盲目になっていることをイエスが指摘されたのでした。


では、「さばく」とは、どういうことを意味するのでしょうか? 逆に、「さばかない」とは、どういうことを意味するのでしょうか? この違いがよくわかっていないと、「さばく」生き方から、「さばかない」生き方へと移行していくことが難しくなると想うのです。

(11月11日 土曜日更新、11月12日 日曜日 補足更新) 



さて、実際問題として「さばく」とはどういうことなのか、いかに私たちが当たり前のように「さばく」ということをやってしまっているのか、その行為に私たちがどれほど馴染んでしまっている現実があるのか・・・・を知るために、近いうちに、土屋太鳳主演のorange-オレンジ-という“映画ブログ”を書きたいと想っていますので、ご期待下さい。この映画のキャストたちの言葉の中に、「さばく」とは、どういうことなのかについて、具体的に観ていきます。


でも、この映画ブログを書くのに先立って、他のテーマのブログを幾つか更新することになりますので、orange-オレンジ-という“映画ブログ”の公開まで、今しばらくお待ちください。


私は、この映画をレンタルDVDで観て、その後、アマゾンに中古品のDVDを注文して手に入れて何度も観ました。まだこの映画を観たことがない方は、ぜひこの機会に、観られるようお勧めいたします。

 

(11月18日 土曜日更新)  ▦▦▦▦ 近いうちに、orange-オレンジ-という“映画ブログ”に続く ▦▦▦▦▦


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11月11日(土)更新『放蕩息子の譬』(その2) ー "イエスー道"から読み解く

2017年11月11日 13時30分20秒 | イエス-道

『放蕩息子の譬』(その2)-"イエスー道"から読み解く


ところで、使徒パウロは、『信仰が律法を確立する』と言いました(ローマ人への手紙3章31節を参照)。


でも、敢えて私は補足して言いたいのです、『信仰が律法を確立する。そして、その信仰を確立するのが、“さばくな”というイエスの教えである。』 と。真の信仰とは、"さばかない"ということが大前提となって初めて成立するものなのです。さばいていない状態にいる時に、その人の信仰の目の視界は開けて、肉眼や外見では捉えられない真実、事実、真理が姿を現してくるようになるのです。


"さばかないこと"を実践することによって、海の波のように揺れ動いていた信仰は、確固たる信仰へと変わっていくのです。愛なき信仰は、愛によって働く信仰へと変化を遂げていくのです。空虚な信仰は、充実した、地に足がついた信仰へと変貌していくのです。信仰の目が覆われていたために神を頭で捉えてしまって、神をかなり誤解していた人は、"さばくことをやめた"時に、信仰の目の視界が開けて、神の真実の栄光を目の当たりにするのです。


実は、ヨブ記の謎を解き明かす鍵も、ここにあったのです。ヨブは、「今はわたしの目であなたを拝見いたします。」〈ヨブ記42章5節〉と証言しました。 つまり、ヨブが"さばく"というマインド主導の思考プロセスを停止した時に、ヨブの信仰の目が開かれて、「内なる光」〈マタイによる福音書6章23節〉主導の直観で神を捉えたというわけです。その結果、ヨブの試練が霧が晴れるようにサーっと消えて去ったということなのです。


さて、そんなふうに信仰の目が開かれて、神の本来の栄光がハッキリと見えるようになった人たちは、使徒ヨハネと共に「わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます」(ヨハネの第一の手紙4章16節)と、また、使徒パウロと共に「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」(ローマ人への手紙5章6節~8節)と、確信を持って証言するようになるのです。

(11月4日 土曜日更新、11月11日 補足更新) 


ところで、この放蕩息子の人生の流れの方向が変わったターニングポイントがありました。つまり、これまでの放蕩と浪費の人生に終止符を打ち、踵を返して父のもとへと帰っていったターニングポイントです。それは、この放蕩息子が『本心に立ち返った時』だったことは明らかです。


では、イエスの山上の説教の文脈から観ると、"本心に立ち返る"とは何を意味するのでしょうか?


それは、これまで"信仰の目"に「梁」があったために、「内なる光」が暗くなっており、その結果、自らの人生において ずーっと マインドの判断に基づいた行動を取ってきた人が、"さばくこと"をやめた結果、「梁」が取り除かれ、「内なる光」が息を吹き返したように明るく輝きだし、そこから物事を捉えることが可能になったということ(マタイによる福音書6章22節~23節、同7章1節~5節を参照)。そして、自分自身の「内なる光」主導の新しい生き方へとシフトしていったということ。これが "本心に立ち返る"ということ。このように私は観るのです。


この譬にある放蕩息子においてもが“さばくことをやめた“結果、これまでの古い生き方(=マインド主導の生き方)から 新しい生き方(=「内なる光」主導の生き方)にシフトしていったために、自らの「内なる光」に導かれるようにして 父のもとへと帰っていくことができたわけです。同様に、いかなる人も“さばくことをやめた“時に信仰の目が開かれ、神の真実の愛に気づいて、天の父なる神のもとへと立ち帰っていくようになるのです。


一方、放蕩息子の兄の方はどうでしょうか?


兄は、本心に立ち返ることはなかったのです。弟と父をさばき続けていたからです。従って、兄の目から"梁"が取り除かれることはなく、「内なる光」は暗くなったままだったのです。


この世界には、大勢の人間が住んでおり、それぞれの人生を送っています。キリスト教信者の立場から観れば、人類を『クリスチャン』か、『クリスチャンでない』か····の2つのグループに分類するかも知れません。


でも、イエスの山上の説教に基づいた『イエスー道』の視点から観れば、そのような分類には意味がないと、私は想うのです。


むしろ、放蕩息子のようなタイプの人か? あるいは、兄のようなタイプの人か? この2種類に分かれるのではないか。言うまでもなく、『放蕩息子のタイプ』というのは、"さばく生き方"から"さばかない生き方"へとシフトしていった人のことです。一方、『兄のタイプ』というのは、あくまでも"さばく生き方"にとどまり、さばくことに固執する人のことです。


自らの人生において どちらを選ぶかは、その人次第です。誰にでも自由に選ぶ権利があります。他の人が、人の生き方にとやかく言うことはできませんし、無理やり 人の人生の中に介入したり、干渉したりすることは、人に与えられた自由意思を踏みにじることになってしまいます。


人生をどう生きるかにおいて、すべての選択肢はその人の前に置かれています。でも、天の父なる神に立ち返ることが出来るか 出来ないか、天国(神の国)に入れるか入れないか、イエスが提供している救いにあずかれるか あずかれないか、岩の上に建てた家になるか 砂の上に建てた家になるかという点に関して言えば、選択肢は多くはありません。いえ、2つだけです。『さばかない』(=『内なる光』主導の新しい生き方)か『さばく』(=これまでやってきたマインド主導の生き方)かだけしかありません。


果たして、あなたはどちらを選ぶでしょうか?


山上の説教におけるイエスのアドバイスは、とても明解でシンプルです。それは、「さばくな」です。

(11月5日 日曜日、11月11日 土曜日  補足更新)  
 

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11/4(土)更新 『放蕩息子の譬』(その1) - “イエス‐道”から読み解く

2017年11月04日 06時35分58秒 | イエス-道

『放蕩息子の譬』  “イエス‐道”から読み解く

 

 

今回のブログでは、イエスが語った有名な『放蕩息子の譬』を“イエス-道”というスタンスから捉えていくと、どのようなことが浮き彫りになってくるのか·····そういう点を観ていきたいと想います。

 

『放蕩息子の譬』は、ルカによる福音書15章11節~32節にあります。この譬を通してイエスが本当は何を伝えたかったかについて知ることは、とても重要なことである・・・・と、私は観ています。


実際、私がイエスの山上の説教の中に“イエス‐道”を見い出す前と後では、『放蕩息子の譬』の私自身の捉え方が随分と変わりました。


この『放蕩息子の譬』の中にも、実は、山上の説教における核心的な教えである“イエス‐道”の真理そのものが脈々と息づいているのです。これを見逃したら、もったいないと想うわけです。


弟(=放蕩息子)だけではなく、その兄も登場することで、実は、『放蕩息子の譬』に秘められた真理が より鮮明に、また、より立体的に浮かび上がってくるのです。


さて、これからご一緒に、イエスが語られた『放蕩息子の譬』に想いを巡らせて参りましょう。  (10月15日 日曜日 更新)


ところで、イエスが放蕩息子の譬を語られる前に、百匹の羊を持っていた者が、そのうち一匹を羊がいなくなったところ、九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を捜し歩くという譬と、銀貨を十枚持っていた女が、家中にあかりをつけて、そのうちのなくした1枚が見つかるまで注意深く捜し回るという譬を語っておられます。


そして、百匹の羊の譬、10枚の銀の譬、放蕩息子の譬のすべてに共通してイエスが述べられた結論というのは、罪人が一人でも悔い改めて、神のもとに立ち返って救われる時に、天には大きな喜びがあるということです。


ところが、今回、当ブログで取り上げる『放蕩息子』の譬には、百匹の羊の譬や10枚の銀の譬では語られていない重要なメッセージがあるのです。


そして、『放蕩息子』の譬の中でイエスが敢えて語られたこの重要メッセージこそが、実は、“神の救いとは何か?”、言い換えれば、“人は如何にして救われるのか?”を解き明かすための解り易いヒントになります。


譬の中に登場する放蕩息子とその兄の違いが一体どこにあるのかを、じっくりと見極めていく必要があります。


この譬の中で描かれている兄というのは、この当時のパリサイ人たちや律法学者たちを象徴していると考えられますが、実際にはイエスを神の御子と信じると告白している多くの人たちも含まれているのではないか·····と、私は観ています。


兄の考え方をこの世の常識に照らして観た場合、理にかなった、何ら違和感のないものと思われるのではないでしょうか? 実に多くの人たちがこの兄の主張を支持してしまうことになると想うのです。この弟は父の財産のうち自分の取り分を前倒しで父に要求して手に入れ、さっさと自分のものを全部取りまとめて遠い所に行ってしまったのです。そこで放蕩に身を持ちくずして財産をすべて浪費してしまい、まもなく、食べることすらできなくなって困り果ててしまい、意を決して、家に舞い戻ったのでした。


これだけでも虫が良すぎる話と感じられるのに、父も父で“BIP待遇”で弟を喜んで向かい入れて、さらに宴会までも催したというわけです。そのことを知った兄が自分の今の待遇のレベルと比べると、勝手に家出した弟の処遇というのは不公平きわまりない·····というわけで、この兄は頭にきて、家の中にも入ろうとせず、兄をなだめに来た父に抗議さえしているのです。


多くの人は、兄のこの主張は当然と言えば当然のこと、当たり前のこと、常識的なことをいっているわけで、“正論なのでは・・・”と思ってしまう方が多いのではないでしょうか? でも、そのように思ってしまうと、イエスが説こうとしている“救いとは何か?”が解らなくなってしまうのです。言い換えれば、福音の真理が覆われてしまうことになるのです。


放蕩息子に対する父の対応や待遇は、兄の目には理不尽なこと、非常識なことのようにしか映らなかったのです。兄が自分の頭(=マインドによる思考プロセス)でどんなに考えても、それは決して納得できるものでもなく、承服できるようなものでもなかったわけです。


もし自分の取り分を父に要求して、放蕩に身を持ちくずして、無一文になって のこのこと家に舞い戻ってきたこの弟に家の敷居をまたがせないとか、勘当してしまうとか、たとえ家に向かい入れたとしても父が弟にくどくどと説教したり、文句を言ったり、怒りをぶつけたり、キツく叱ったり、また、初めのうちは奴隷のように働かせた上で、それで使い果たした分を取り戻した後に息子として受け入れようと父が言ってたら、この兄も納得がいったかも知れません。


でも、そのような発想や考え方に固執していると、イエスが教えようとしている“神の救いに関する真理”が確実に見えなくなってしまうのです。


この譬の中で弟と兄を対照的に述べることで、“いかにして人は神の救いにあずかることができるのか”についてイエスは語られました。

では、この兄が抱えている問題というのは、いったい、どこにあるのでしょうか?

(10月21日 土日曜日、10月22日 日曜日 更新) 

 

それは、この兄が弟(=放蕩息子)に対する父の思いがどのようなものであるかを全く知らなかったことです。これはまさに、罪人(=神から離れて行った人類一人一人)を一人でも多く救おうとさjれている天の神のうちに秘められた思いがわからなくなってしまっていたことを象徴しています(コリント人への第一の手紙2章6節~11節を参照)。


この放蕩息子に対する父の思いは、愛そのものです。放蕩息子は過去における自分の過ちをしっかりと反省し、これまでの未熟な行為を改めて、償いをしてからようやく受け入れられ、息子としての愛を受ける対象となるということではないのです。


本心に立ち返り、これまでの自分の罪を認めて悔い改めたからというわけで、家に戻った放蕩息子に対する父の愛が以前のような100%の愛に回復して、迎え入れることできたということではありません。まだ本心に立ち返っておらず、自分の罪を悔い改めていなかった時でさえ、父は喜んで迎え入れる程に、彼を愛してやまなかったのです。


「まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。」(ルカによる福音書15章20節~24節)


このようにイエスは譬の中で述べておられますが、ここから読み取れることは何かというと·····。自分の取り分の財産を要求して、それを持って家を出ていったその時でさえ、放蕩に身を持ちくずしているその最中でさえ、また、まだ本心に立ち返っていないその時でさえ、この息子に向けられた父の愛は100%だったのです。つまり、いつ、いかなる時でも、息子は父の惜しみない愛の対象であることに変わりはなかったのです。これまでの過去がどうだったとしても、また今がどういう状況であったとしても、常に変わることなく父は息子をウェルカムなのです。息子のあるがままを包み込むように受け入れることができる、とてつもないほどの懐の広さを持っていたのです。


罪の中にあって さ迷っている人類一人一人に抱いておられる神の愛も、まさにこれと同じなのです(ローマ人への手紙5章8節を参照)。イエスは山上の説教の中で、「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。」(マタイによる福音書5章45節)と語られたように、良い者も悪い者も分け隔てをすることがない"寛容"をベースとした『神の惜しみない愛』の対象から外されることはないのです。生涯において、いかなる失敗、失態、過ち、汚点、黒歴史を持っている人だとしても、神の限りなき愛の対象に変わりはないのです。神から注がれる愛(ローマ人への手紙5章5節を参照)は、差し控えられたり、ストップしたり、減らされたりするようなことはないのです。


さて、ではこの『放蕩息子の譬』から学び取るべき重要なポイントとして、他には何があるのでしょうか? 兄と弟が語った言葉の裏に、そのヒントがあります。    (10月28日 土曜日 更新)


人が取る行動には、それなりの理由があるものです。

 

財産を父から分与してもらって家を出て行ったのに、それをすべて浪費し、使い果たしてから家にノコノコと舞い戻ってきた弟に対する父の一見 不公平、不当にも思えるような“特別待遇”を知った時、「兄はおこって家にはいろうとしなかった」と記されています(ルカによる福音書15章28節)。


その理由として、兄が父に語ったことというのは、「わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。 それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました」でした(同15章29節~30節)。


では、この兄の言い分が意味することというのは、一体、何なのでしょうか?


一方、弟は家でやってきたこれまでの仕事を放棄して、父に願って自分の取り分の財産を前倒して手に入れ、「遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶし同15章30節てしまい、もはや飢え死にするしか道が残されていない状況となります。そこでようやく本心に立ち返った弟は、天に対しても父に対しても罪を犯してしまったことを悔い改めて、父のもとに帰ってきて、自分は「もうあなたに息子と呼ばれる資格はありません。どうぞ雇い人のひとり同様にしてください」と言います。


この弟が語ったこの言葉から、読み取れることというのは、一体、何なのでしょうか?


この兄と弟のそれぞれの言動を観照していると、イエスが十字架に磔にされていた時に、その両側で十字架に磔にされていた二人の強盗にオーバーラップして、私には観えるのです。つまり、兄は最後までイエスに悪口を言い続けた強盗に重ね合わさって観え、一方、弟の方は途中からイエスを悪口を言うのをやめて、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」とイエスに言われた強盗に重ね合わさって観えてくるのです(マタイ福音書27章44節、ルカによる福音書23章39節~43節を参照)。


つまり、何を私が言いたいかというと、兄は最後まで弟と父を『さばいていたということであり、弟は父を「さばいていた」が、途中から「さばくのをやめたということなのです。弟は「本心に立ちかえって」(ルカによる福音書15章17節)と記されていますが、人が本心に立ち返ることができるのは、実は、『さばくことをやめた』時に初めて可能となるものなのです。


兄が実際に語った言葉の内容を分析していくと、それがよくわかります。家での仕事を放棄して外で遊女と好き放題に遊んで財産を使い果たすという放蕩に身を持ち崩してしまった親不孝者である弟に対する父の不当と思えるような“特別待遇”をみた時に、兄は「わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。 それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました」(ルカによる福音書15章29節~30節)と言って父に対して怒りの抗議をしているのです。


このような兄のいら立ち、怒りの感情。弟と自分を比較していること。過去”における自分の実績・優秀さ・立派さを基準にして、“ダメな弟”、“親不孝者の弟”、“遊女を遊んで身代を食いつぶした愚かな弟”を見下すこと。これらはすべて、『さばく』というマインドにおける思考プロセスによって生じてくるものなのです。兄の心の不公平感、不平不満なども、やはり『さばく』ことから生まれてきているものなのです。


実は、イエスは 『ぶどう園の譬』の中でも、これと同じようなことを語って、天国の奥義は一体どこにあるのかについて示そうとされたのでした(マタイによる福音書20章1節~16節を参照)。


この『さばく』というのは、マインド主導の思考プロセスと密接に関わって、生み出されてくる行為と言えます。人の『内なる光』(マタイ福音書6章23節)が暗くなっている時に、マインドに支配されてしまった人が自然とやってしまう行為が『さばく』ということなのです。


この『さばく』ということは、いとも簡単に“信仰”を破壊してしまいます。『さばく』という行為は、“信仰”から“”が切り離された時に、可能となってくるものです。実は、聖書が教えている“信仰”というのは、本来、「愛によって働く信仰」(ガラテヤ人への手紙5章6節)を意味していますコリント人への第一の手紙13章2節も参照)。つまり、使徒パウロの言葉を借りて言うと、『愛によって働く信仰』だけが尊いのであり、『愛なき信仰』は無に等しいというわけです。


信仰は、ある意味、目です。つまり、肉眼では見えない事実・真実・真理・本質を観るための目です(へブル人への手紙11章1節、コリント人への第二の手紙4章18節、同5章7節~8節を参照)。この信仰という目が「はっきりと見えるようになってマタイによる福音書7章5節いくことこそが、実は、とても重要なことなのです。


このためには、どうすればいいのでしょうか? 


もっともっと強く信じようと思ったとしても、その人の信仰の目は開かれないのです。一生懸命に祈ったとしても、信仰は覚醒しないのです。暗記するくらい聖書を読んだとしても、信仰の目の視界を遮っている“覆い”を取り除くことはできないのです。


『愛によって働く信仰』と使徒パウロが言ったことにヒントがあります。つまり、信仰をによって働かせればいいのです。信仰という目を、によって、開くといいのです。信仰という目の視界を妨げている“”や“覆い”をによって取り除けばいいのです。イエスは、山上の説教の中で、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイによる福音書5章48節)と語りました。ここにもヒントがあります。


では、どういう点において、私たちは“天の父のような完全”を持つことができるのでしょうか? 


イエスは、「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも 正しくない者にも、雨を降らしてくださる」と説かれました(マタイによる福音書6章45節)。つまり、悪い者と良い者、正しい者と正しくない者を区別したり、分け隔てしたりしないという“寛容という愛”において完全になりなさいと言われたということです。寛容という愛”は、“さばかないという愛”と言い換えることもできるのです。


私たちは、良かれ、悪しかれ、“さばく”というマインド主導の思考プロセス”を駆使して生きていくという癖を身に着けてしまっています。そして、神をさばき、人をさばくことによって、この世における様々な問題を生み出し、世の闇をさらに一段と濃いものにしてしまったのでした。これまで長きにわたって“さばく”ことに慣れ親しんできた私たちが、神をも人をも“さばかない”生き方へとシフトさせていくことが、ある意味、イエスに課せられた指命であると言えます。


さばかない”で生きるという道へ進んだ時に、その人の信仰の目が開かれるのであり、神の真実の栄光がはっきりと見えてくるのです。“さばかないという寛容の愛”によって目覚めた信仰、息を吹き返した信仰は、神の愛がどのようなものかがさらにはっきりと見えるようになってくるのです。神の愛の高さ、広さ、深さが人知をはるかに超えた とてつもなく絶大なものであることに気づかされ、私たちはただただ驚くことになります。でもその神の愛は近寄りがたいものでもなく、人を寄せ付けないようなものではなく、人を排除・排斥するようなものでもはなく、まさに父が放蕩息子をあるがまま温かく受け入れたように、すっぽりと包み込んでくれるような優しい愛なのです。人の魂がホッと安らぐような安息が得られるのは、信仰の目が開かれて、神の真実の愛に気づいた時、体感した時なのです(へブル人への手紙4章3節を参照)。


また、これまで積年の恨みを抱いていたために人をゆるすことが出来ずにいた人も、“さばくことをやめた”瞬間、過去からのしがらみから想いが解放されるので、人をゆるすということが容易なことになるのです


また、過去の闇に引きずられて生きていた人が、"さばくことをやめた"時に、“今この瞬間、瞬間を生きる”ことが可能になります。天の父なる神と通じるゲートが人に開かれるのは、実に、人の想いが過去という時間から解き放たれて、今この瞬間、瞬間を生きる”ようにシフトした時なのです。


この『放蕩息子の譬』を読むときに、そこにはイエスの山上の説教の核心とも言える「さばくな」という具体的、かつ、明快なメッセージが息づいているように私には観えるのです。「さばかない」という生き方を実践していくことが、実に、信仰という目がはっきり見えるようになるための“イエスが伝授された秘伝”であり、“天の父なる神に通じる生きた道”でもあるのです。私は、これを『イエス-道』と呼ぶのです。・・


(11月4日 土曜日 更新) ***『放蕩息子の譬』(その2)に続く ***

  

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10/15(日)更新 『天国に入り損なう人たち(3)』 - 山上の説教を読み解く

2017年10月15日 17時08分46秒 | 山上の説教の考察

 ・・・・これは、『天国に入り損なう人たち(2)』からの続きです・・・・


天国に入り損なう人たち(3)

 

 

ところで、必ず天国に入れると自分では思い込んでいたのに、結果的に、天国に入り損なってしまう人たちは 『あなたがたを全く知らない。・・・』」(マタイ福音書7章23節)と主にはっきりと言われる・・・と、山上の説教の中では描かれています。一体、なぜでしょうか? 

 

キリスト教を長年にわたって信じて、教会にも在籍し、礼拝にも積極的に参加し、定期的に献金もささげ、主イエスのため、天の父なる神のため、善行もなし、祈りもささげ、聖書もそれなりに読んできた彼ら"忠実なキリスト教信者たち"のことを主イエスも父なる神も何も知らないはずはない·····なのに、なぜ「あなたがたを全く知らない」と言われるのでしょうか?

 

父なる神も、神の御子イエスも全てのことを知り尽くしておられるはずなのに、どうして“知らんぷり”をされるのでしょうか? 常識的に考えると、とても不思議な感じがし、違和感すら覚える方も多いのではないでしょうか? このことに関して、私たちはどのように理解したらよいのでしょうか? 聖書を学んでいくと、しばしばこのように、一見、矛盾に思えるような聖句に出会うことがあります。

 

今回は、この点について さらに突っ込んで考察してみたいと想います。


主イエスが「あなたがたを全く知らない」と言われる場合、これを裏を返して観ると、『天国に入り損なう人たち』自身が主イエスのことも、父なる神のこともよく知っていると単に思い込んでいただけであり、実際には知らなかったということでもあります。つまり、主イエスも父なる神も、『天国に入り損なう人たち』に知られていなかった、誤解されていた、曲解されていた・・・、ということ。


個人的な聖書の学びを通して、また、教会での説教などを通しても、神の御子イエスや父なる神のことを学ぶ機会、知る機会がしばしばあったはずなのに、神が本当はどのようなお方なのかが、実は、彼らには知られてはいなかったというわけです。


何故なのでしょうか? まだ腑に落ちないのではないかと思います。


実は、ヒントになる聖句があるのです。


それは、次に引用する使徒パウロの言葉です。


人が神を愛するなら、その人は神に知られている。」(コリント第1の手紙8章3節)


つまり、「あなたがたを全く知らない」と言われる『天国に入り損なう人たち』というのは、『神に知られていない人たち』のこと、すなわち、『神を愛していない人たち』である····と観ることもできるのです。でも、彼ら自身は “わたしは、これまで神を愛してきた”と思い込んでいるかも知れませんが。


ところで、使徒ヨハネはこのようにも記しています。


現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。」(ヨハネ第1の手紙4章20節)


これから、『天国に入り損なう人たち』というのは、「現に見ている兄弟を愛さない者」である······とも言えます。


では、現に見ている人を“愛する”とは、どういうことなのでしょうか? ここから、本格的な聖書の探究が始まるのです。


愛するとは、どういうことなのかについて知るヒントは、実に、イエスの山上の説教の中にある·····と、私は観ています。


そのヒントというのは、'マタイによる福音書5章43節~48節'です。


ここでイエスは、「悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さる」天の父なる神の愛について触れています。


つまり、この山上の説教の中でイエスが指し示しておられる'神の愛'というのは、『寛容の愛』のことだったのです。悪い者と良い者と分け隔てしないという寛容の愛、言い換えれば、『'さばかない'という寛容の愛』のことを言っていたのです(マタイによる福音書7章1節を参照)。人を善悪という基準でさばくことなく、人をあるがまま認めて受け入れていくという大きな包容力 · 受容性というのが、イエスが語っている愛の中身というか核心部分なのです。


   「愛は寛容であり、····」(コリント人への第一の手紙13章4節)


そして、「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」とイエスが言われる時、それは 天の父が『'さばかない'という寛容の愛において』完全であられるように、あなたがたも『'さばかない'という寛容の愛において』完全な者となりなさい····という意味なのです。


'あらゆる点において、天の父なる神と全く同じように完璧な存在になれ'という風に、イエスが私たちに命じているわけではないのです。

 

そして、天の父なる神が持っておられるこの『寛容の愛』という点において完全になるということは、私たちに十分に可能なのです。そのためには、イエスが命じられたように、'さばく'ということをやめさえすればいいのです(マタイによる福音書7章1節を参照)。私たちのマインドにおいて、'さばく'という思考プロセスを停止した上で、ただあるがまま観て察していく、観照していく、捉えていく、認めていく、受けとめていく······これが、重要な'鍵'となります


'さばく'という頭の思考パターンに馴染んでしまった私たちが、'さばかない'という新たな思考回路を切り開いていく、シフトしていく、そのコツを学んでいくというのが、ある意味、『信心の訓練』において最も重要な部分と言えるかも知れません。


さらに、山上の説教の中でイエスは、「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。」(マタイによる福音書6章14節~15節)ということも語っておられます。

 

'人をゆるさない'ということは、その人に関する『過去の情報』に囚われ、こだわり、固執し、根にもって、その『過去』というフィルターを通して その人の『今』を観て 'さばいている'ことを意味します。


逆に、'人をゆるす'ということは、その人の『過去の情報』に囚われることなく、こだわることもなく、固執することもなく、根に持つこともなく、つまり、『過去』というものを切り離した上で、『今、この瞬間』に存在しているその人をあるがまま認めていく、受容していくということ。すなわち、人をゆるすとは、『過去』というフィルターを通して  その人を観てあ~だ、こ~だと思い込んだり、決めつけたりしないこと········言い換えると、'さばかない'という寛容の愛そのものに基づいた行為であることがわかります。


このように、人をゆるすということ、言い換えれば、'人をさばかない'ということが、天の父なる神に通じる道であり、神の国へのゲートを大きく開いていくことにもなるのです。


'私はクリスチャンだから天国に救われる'とか、'私はキリスト教の信仰を持っているから天国に救われる'とか、あるいは、'私は、長年にわたって、キリスト教信者としての実績も積んできたから天国に救われるはずだ'というふうには、単純には言えないわけです(マタイによる福音書7章21節~23節を参照)。


信仰という目が開かれていること、信仰という目が澄んでいること、信仰という目ではっきりと見えていることが、実はとても重要なのです(マタイによる福音書6章22節~23節、同7章5節を参照)。そのために必要不可欠なことが、'さばく'というマインドプロセスを停止するという具体的なノウハウ、秘伝をイエスは山上の説教の中で説いたというわけです(マタイによる福音書7章1節を参照)。


イエスは「わたしは、道である」と言われました。天の父なる神へと通じる道、天にある神の御国へと通じる道、永遠の命に至る道。そして、イエスが命じた「さばくな」を実践している人は、この道をすでに歩いているのです。


この「さばくな」ということが、イエスの山上の説教の中で説かれている重要かつ核心的な真理であり、メッセージなのです。また、様々な聖書の教えを解く鍵となっていくのです。


山上の説教でイエスが説いた『さばくな』という教えを聖書研究の中心に据えて聖書全体を解き明かしていこうとする私のユニークなスタンスというのは、従来のキリスト教とは、観る視点が随分と異なっているので、これを『イエス-道』(=Jesus,the Way)と私は名付けたわけです。


日本には、柔道、剣道、合気道などのような武道、あるいは、茶道、書道、華道·····究めるべき様々な『道』というものがあります。私は、従来のキリスト教という『宗教』をこのような『道』のレベルまで昇格させ、『イエス-道』なるものがあってもいいのではないか····と想っているのです。'伝統的なキリスト教的な視点'から聖書の世界を観ることから卒業、あるいは、脱却して、'イエス自身の視点'からもう一度聖書を捉え直していくということが、今の時代、必要なのであり、とても重要なのではないでしょうか?


そして、特に'山上の説教'の中でイエスが説いた'人として生きていく道'-----'さばかない'という生き方-----を自分が日々生きる道として実践していく。これこそが『岩の上に家を建てる賢い人の生き方』であり、何ものにも流されることなく、翻弄されることなく、着実なる人生、確実なる人生をこの世で送ることが可能となるのではないでしょうか?(マタイによる福音書7章24節~25節を参照)

(9月24日 日曜日、10月9日 月曜日、10月15日 日曜日 更新) 


   次のブログ放蕩息子の譬』は、“イエス-道”の視点から光を当てて、観ていきます。


    *        *       *    

 

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9/18(月)更新 『天国に入り損なう人たち(2)』 - 山上の説教を読み解く

2017年09月18日 23時14分24秒 | 山上の説教の考察

       ·····これは、『天国に入り損なう人たち(1)』からの続きです ·····

 

天国に入り損なう人たち(2)』 - 山上の説教を読み解く

 


主イエスの山上の説教を読み解くにあたって、『内なる光』というのも重要なポイントの一つです。つまり、人が自分自身の『内なる光』を暗くすることなく、常に明るく輝いている状態に保つことがとても重要であるということです。


目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。」(マタイによる福音書6章22節~23節)。

 

『天国に入り損なう人たち』というのは、この『内なる光』が暗くなっている人たちであるとも言えます。


また、イエスが『信仰の薄い者たち』(マタイによる福音書6章30節)と呼んだのも、やはり『内なる光』が暗い人たちのことなのです。


『律法学者やパリサイ人の義にまさった"神の義"を持っていない人たち』も同様です(マタイによる福音書5章20節,6章33節を参照)。


偽善者』とイエスが呼んでいる人たちの『内なる光』も、やはり暗くなっています。


滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い」(マタイによる福音書7章13節)とイエスは述べましたが、このような人たちの『内なる光』も、もちろん、暗くなっているのです。


砂の上に自分の家を建てた愚かな人』(マタイによる福音書7章26節)も、言い換えれば、『内なる光』が暗くなってしまった人たちのことなのです。


さらに、イエスの再臨を待望しながらも、その準備ができていない『思慮の浅い女たち』(マタイによる福音書25章1節~13節を参照)の本質的な問題も、実は、その人たちの内なる光』が暗いというところにあるのです。


 

それでは、どうしたら私たちは自分の『内なる光』を明るく輝かすことができるのでしょうか? 

 

イエスが説いた山上の説教の中には、実は、それを解くヒントも答えもあるのです。そのヒントというのは、以下の言葉にあります。

 

「目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。」(マタイによる福音書6章22節~23節)

 

ここで言われている『目』というのは、もちろん、“肉眼”を指しているのではありません。霊的な目、すなわち、心の働きの一つである“信仰”という目を指しています。

 

わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」(コリント人への第2の手紙4章18節)

わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。」(同5章7節)

信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。··········これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。」(ヘブル人への手紙11章1節、13節)

 

このことからわかるように、「目が悪ければ」というのは、信仰という目に『』があって、それが視界を遮っているため、肉眼では見えない真理 · 真実 · 天の宝 · 天の御国 · 神の栄光がはっきりと見えていない状態を意味しています。

 

では、どうすれば、はっきりと見えるようになるのでしょうか? 


イエスの答えは、信仰の目の視界を遮っている“を取り除くということにあります。

 

まず自分の目からを取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって·····。」(マタイによる福音書7章5節)

 

この『目から梁をとりのけ』ということの具体的なノウハウというのが、実は、「さばくな」というイエスの教えを実践することだったのです(マタイによる福音書7章1)。


これこそがイエスの山上の説教に隠された秘伝であり、奥義であったのです。これは、イエスの山上の説教における核心(コア)部分であり、革新的メッセージと言えるものなのです。長きにわたって“地中に隠され、埋もれていた真理の宝”なのです。キリスト教において、“見失われていた盲点”とも言えます。イエスが語られた様々な教えの土台、礎ともいうべきものが、この『さばくな』いう単純かつ明快かつ深遠な教えを実践することにあったのです。これなくして、聖書の様々な貴重な教えが生気を失い、またバラバラになって、崩壊してしまうことにもなるのです。「主よ、主よ」と言いながらも、実際には、主イエスとも、天の父なる神との接点がないということもあり得るのです(マタイによる福音書6章16節、同7章23節を参照)。

 

さばかないこと』を実践する。皆さんにとっては、これは簡単なことのように思えるでしょうか? あるいは、難しいことのように思えるでしょうか? 


これは、一概には言えないと想います。ある人にとっては、それを実践することが不可能なことのように想えるかも知れないのです。他の人にとっては、そんなに難しいことではないかも知れないのです。

 

この世の中で生きてきて、一定の基準を設けて、それによって価値判断を下したり、損得勘定で行動したり、善悪二元論的な固定観念に囚われて生きていくことを当たり前のようにやってきて、すっかりそれに馴染んでしまっていたり、これまで長い間かけて常識や社会通念を絶対化して生きてきたり、自分の過去の経験や蓄積してきた知識に照らして物事をあーだ、こうだと決めつけながら(=これが、さばくということ)、自分の人生を送ってきていると、なかなかこれまで築き上げてきた自分の考えや発想を転換していくことに対して、大きな抵抗感・不安感・恐怖感などを感じる場合が多くなるものです。イエスのもとに来て、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」と質問を投げかけたたくさんの資産を持っていた青年』は、このような理由で、悲しみながら立ち去っていったのでした。


でも、自分自身のマインドの働きを一時的に停止するコツさえ掴んで、『井の中の蛙』が“井の中”にそのまま留まり続けることをせず、思い切って“大海”へ飛び出して行きさえすれば、信仰の目がはっきりと見えるようになっていくのです。そして、さばかないこと』を実践していくことは必ずしも不可能なことではなくなるのです。『さばかない』で生きていくことが、その人にとっての新しい生き方となり、生きていくための新たな指針となっていくのです。


物事や人や環境などを『さばきながら』生きていく人には、その人にとって貴重で新鮮な情報はもはや入って来なくなってしまうのです。自らそれらをシャットアウトしてしまっているからです。


一方、『さばくことをやめて』、物事や自分が置かれている環境や自分と関りのある人たちを『さばかず』に、あるがまま観照して認めていく、受け入れていくというような生き方にシフトしていくならば、その人にとって本当に必要な情報は、堰を切ったようにドンドンと流れ込んでくるようになります。実に、さばくことをやめた瞬間、例の『十字架上の犯罪人』の心の中に、イエスを通して天の御国の栄光に関する情報が堰を切ったように溢れて流れ込んできたのでした。だからこそ、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」(ルカによる福音書23章42節)という言葉が、彼の口から出てきたのでした。つまり、さばく』というマインドのプロセスを停止して、心をオープンにしていくなら、救いはそんなに遠くないのです。いや、救いは、すぐ身近にあるものなのです。


さばくことをやめた』時に、“”が取り除かれて、その結果、信仰の目が開かれ、“肉眼では見えない真実”がはっきりと見えるようになるのです。『さばかない』時に、信仰は正常に作動し、愛によって働くようになるのです。この時、その人の『内なる光』は明るく輝いているのです。そして、このような人たちに、天国の扉が開かれているのです。


一方、『さばき続ける』限り、“”は大きくなり、その数も増えていくのです。その人の救いに必要な情報もその"梁"によって遮断されてしまい、心の中に入って来れなくなるのです。その人は、霊的に盲目状態に陥いるのです。信仰の目は、その黒いベールで厚く覆われたままになり、その人の『内なる光』も暗くなってしまうのです。このような人たちが、天国に入り損なうことになるのです。


(9月18日 月曜日 更新) ・・・『天国に入り損なう人たち(3)』に続く・・・

 

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9月10日(日)更新 『天国に入り損なう人たち (1) 』ー 山上の説教を読み解く

2017年09月10日 23時25分45秒 | 山上の説教の考察

 

 『天国に入り損なう人たち(1)』 - 山上の説教を読み解く

  

 

主イエスは山上の説教の中で、次のように語られました。


わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」(マタイによる福音書7章21節)

 

これは端的に言うと、“私は主イエスを信じています”と信仰を表明しているクリスチャンだからと言って確実に天国に入れるという保証はないということです。

 

自分は仏教徒でもなく、イスラム教徒でもなく、ユダヤ教徒でも、無神論者でもない。イエス·キリストを神の子、唯一の救い主であると信じ、そのように長年にわたって信仰告白をしてきた。聖書もよく読んだし、主イエスの名によって父なる神に祈りもささげてきた。教会での礼拝にも毎週参加してきたし、奉仕活動や伝道活動にも積極的に参加してきた。だから、自分は最終的に天国に迎え入れられるはずだ。このように、多くのキリスト教徒は考えているかも知れません。

 

ところが、山上の説教を読む限り、どのような人が天国に救われるのかについての主イエスのコメントは、とても単純明快です。それは、「ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」ということです。

 

天にいますわが父の御旨』を行っているならば、誰であっても天国に救われるのであり、逆にこの条件を満たしていないならば、たとえこれまで主イエスと共に歩んできたはず(?)のクリスチャンであっても天国に入り損なってしまうのであり、これまでやってきたすべての努力が無に帰してしまう危険があるのです(マタイによる福音書7章22節~23節を参照)。

 

ところで、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(ルカによる福音書23章43節)と主イエスに宣言された“十字架にはりつられていた犯罪人”は、この世における自らの人生が閉じられようとしていた直前に天国への入国が許されたのでした。これは、彼が十字架刑を受けていた時に、その隣におられた救い主イエスにたまたま遭遇できたという幸運に恵まれたので天国に迎え入れられた.....ということではないのです。なぜなら、もう一人の犯罪人も、彼と同じような状況にあったにもかかわらず、天国には迎え入れらることがなかったからです。これら二人の犯罪人を比べると、実に決定的な違いがあったのです。

 

天国に迎え入れられた犯罪人の方は、実に、山上の説教の中で主イエスが語られた『天にいますわが父の御旨』にかなった対応を取ったからこそ、救われたと言えます

 

たとえ聖書の多くの知識を持っていたとしても、キリスト教の教義を熟知していたとしても、聖書の神を頭で(=マインド的に)よく知っていたとしても、あるいは、聖書の中で推奨されている善行をたくさんやってきたとしても、聖霊の力によって力あるわざを数多くやってきたとしても、神に熱心に祈ってきたという実績を持っている祈りの人だったとしても、もし主イエスが山上の説教の中で説かれた『天の父なる神の御旨』を知らなかったり、あるいは、それにかなった生き方をしていないならば、最終的に天国に入り損なうおそれがあると言えます。

 

では、山上の説教の中で主イエスは、天国に救われるための秘技、秘訣、奥義とも言える『天の父なる神の御旨』についてどにように語られたのでしょうか? 


今回のブログでは、この重要なポイントを読み解いていきたいと想うのです。これまであまり評価されてこなかった山上の説教の説教におけるイエスの教えの醍醐味を、これから皆さんと共にぜひ味わってみたいのです。

 (2017年8月4日 金曜日 更新)  (2017年9月1日 金曜日 改訂更新) 


山上の説教の中で、「だれも二人の主人に兼ね仕えることはできない。······神と富に兼ねことはできない」と主イエスは言われました(マタイによる福音書6章24節)。


ここで“神とサタン(=悪魔)に兼ね仕えることはできない”とは、イエスは言われなかったという点に私は注目しています。

 

”か“サタン”かの二者択一ではなくて、“”か“”の二者択一という選択なのだ・・・と、主イエスはなぜ言われたのでしょうか?


皆さんは、このような視点から捉えたことはあるでしょうか? 聖書は、いろんな角度から、様々な視点から観ていくことがとても重要なのです。 過去の伝統的な考え方に囚われることなく、いったんこれまで蓄えられた情報や知識をゼロリセットした上で、読み返してみるというわけです。そうしないと、イエスにある真理に触れることは難しいと想います。


さて、話を戻します。

 

”か“”の二者択一という選択なんだと語られるのに先立って、主イエスは、天にこそ宝を蓄えるべきであって、地上に宝を蓄えるべきでない.....ということを強調しています(マタイ福音書6章19節~20節を参照)。

 

このような『神 vs 富』という対比構図は、言い換えれば、『天に蓄えられた宝 vs 地上に蓄えられた宝』というふうにも、イエスは言い換えています。そして、人がどちらの人生、あるいは、生き方を選ぶかということが、実は、その人が天国に入れるか、あるいは、天国に入り損なうかを左右してしまうことになるわけです。

 

「えっ、つまり、これはどういうこと?」と、主イエスが言っている意味が掴みどころがない・・・、まだ腑に落ちない・・・、このように想われるかと想います。

 

“富に仕える生き方”は、“地上に宝を蓄えるという生き方”でもあります。でも、そのような生き方をしていると、天国に入り損なうということなのです。


“地上に蓄える宝”という場合、もちろん、ニュアンスとしては物質的なお金や資産も含まれていると想います(ヤコブの手紙5章1節~6節、マタイ福音書19章21節~24節を参照)。


でも、主イエスがこの山上の説教中で言いたいことは、物質的な富にとどまらず、“地上でその人が蓄えてきたすべてのもの(肉眼で見えないものも含めて)”である·······と私は観ています。


そして、それらのうちの何かにその人の心が囚われていたり、奪われていたり、固執していたりすると、天国の扉は閉ざされてしまうというわけです。つまり、らくだが針の穴を通るよりも難しくなってしまうというわけです(マタイによる福音書19章24節を参照)。

 

さて、主イエスの山上の説教の中で、「主よ、主よ、······」と言いながらも、天国に入り損なってしまう“キリスト教信者たち”が主に向かって語った言葉があります。それを引用してみると、


わたしたちはあなたに名によって預言したのではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか。」(マタイ福音書7章22節)


つまり、彼らは、自分たちがこの地上において過去から現在に至るまで実際に積み上げてきた(=確立してきた、=築き上げてきた、=手に入れてきた)実績、成績、功労、名声、栄誉、輝かしい活動状況などをリストアップしていることがよくわかります。彼ら全員が自分自身の生涯の中で、主イエスのためにやってきたわざが『天の父なる神の御旨』にかなうものである····と思い込んでいたのです。自分たちが『天の父なる神の御旨』だと思っていたことの裏付けや証拠を一つ一つ示して、自分たちは天国に入れる資格があるはずだ・・・という考えを持っているので、"なぜ、私は天国に入れないのですか?"と、主イエスに強く抗議するのです。これはまさに『自分の義を立てようと努めていること』なのであって、それ自体が自分が天国に入るのにふさわしくないことを立証し、暴露していることになるのです。そのような義は、『信仰による神の義』とは対極にあるものなのです(ローマ人への手紙10章1節~4節を参照)。


実は、このような考え方、生き様、生き方こそがまさに『地上に宝を蓄える』ことであったことに、聖書を学んでいながら彼らは気づくことができなかったのです。これが、天国に入り損なうキリスト教信者における“致命的傷”となってしまうのです。


この地上におけるその人の生涯においてどんな立派なことをやってきたか、如何に輝かしい業績に満ちた人生を送ってきたかということを思い起こして、それをリストアップして『天の父なる神』に示すことによって、天国に入ろうとするキリスト教信者が大勢いるというのです。あるいは、実際に、証人を連れてきて、自分がいかに天国に入れるのにふさわしい人間であるかを立証しようと試みる人もいるでしょう。でも、天国に入ろうとする彼らの試みはことごとく失敗してしまう・・・とイエスは山上の説教で教えたのです。


言い換えれば、人が過去から現在に至るまで蓄えてきた宝(=いかなる輝かしい業績、実績、善行、宗教的活動、奉仕活動、立派な行いなど)に頼ったり、しがみついたりして、それを根拠にして天国に入ろうと試みたとしても、「あなた方を全く知らない。・・・・行ってしまえ」(マタイ福音書7章23節)と言われて、間違いなく天国から閉め出されることになってしまうのです。


『神の御旨を行う者』というのは、言い換えれば、『神に仕える者』です。それは、さらに言い換えると、『天に宝を蓄える者』のことです。そのような人たちは、決して、地上における自分の生涯で蓄えたもの(=資産、名声、名誉、達成したこと、実績、功績、人としての立派さなど)に、自分たちが救われる根拠であるとは全く考えてはいないのです。そのようなものには、彼らの関心は向いてはいないのです。


天国に迎え入れられる人たちの心は、地上のものにではなく、天にあるものに引かれているのです。真摯に天の御国を求めている人たちは、天に尽きることのない宝を蓄えるのです。そして、宝を蓄えている天に、その人たちの心もあるというのです。天にある御国に心が引かれてやまないのです(ヘブル人への手紙11章13節~16節を参照)。


「ただ、御国を求めなさい。·······自分のために古びることのない財布をつくり、盗人も近寄らず、虫も食い破らない天に、尽きることのない宝をたくわえなさい。あなたがたの宝のある所には、心もあるからである。」(ルカによる福音書12章32~34節)


「上にあるものを求めなさい。·········あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。」(コロサイ人への手紙1章1節~2節)


ここでもう一度、主イエスに天国への入国が許された十字架上の犯罪人のことを思い起こしてみましょう。


主イエスにパラダイスの救いを宣言される直前に、この犯罪人が語った言葉に注目。


「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください。」(ルカによる福音書23章42節)


この言葉には、一体、どういう意味合いがあるのでしょうか。


天国に入り損なう『"主よ、主よ"という多くのキリスト教信者たち』が主に語った言葉の内容とは全く異なっていることがわかります。これらの人たちは、天国に救われようとしていますが、彼らの心は自分たちがこれまで地上で蓄えてきた宝(=彼らが自分たちの生涯で築き上げた過去の実績、功績、達成したこと、成し遂げたことなど)に囚われ、固執しているのです。自分たちが地上で蓄えてきた宝が、天国に有利に救われるためにポイントの加算になると思い込んでいたというわけです。


一方、十字架上の犯罪人の心は、地上の宝には向いてはおらず、それに全く囚われてもおらず、ただ天の御国に向いていた、引きつけられていたのでした。彼の心の目は、イエスのうちに御国の権威、御国の輝かしい栄光を確かに観たと想われます。それが、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」という彼の言葉から察することができます。

 

彼は、自分のこれまでの生涯の中で犯した罪のために十字架刑を受けて、自分の命が絶たれようとしていました。その時に、彼が自分の過去の生涯を振り返って、一つでも二つでも何か自分が行った善行を思い起こし、主イエスに申し述べて、そのことを根拠に自分を天国に救ってもらおうとしたなら、『"主よ、主よ"という多くのキリスト教信者たち』と同様、天国に入り損なってしまいます。


また、逆にこの十字架上の犯罪人が、自分の生涯を振り返ってみたところで何も良いところを見つけることができなくて、自分は天国に救われる資格はない。「私のようにこんなダメな人間が天国に入るのは、絶対無理だ」と諦め、自暴自棄になっても、やはり天国に入り損なってしまいます。


ところが、彼が自分の人生の最終場面で選んだのは、そのどちらでもなかったのでした。彼の口から発せられた言葉は、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」でした。


このように彼が言い得たというのは、すごいことではないか·····と私は観ています。つまり、彼の心の想いは、この地上のこと(=自分の地上生涯において過去から現在に至るまで蓄積された全ての記憶情報)から解き放たれて、しっかりと『天の輝かしい御国』に照準を向けられていたのです。彼の心は、天にあったのです。これはイエスの山上の説教の視点から観ると、彼の心の目から"梁"が取り除かれていて、もはや彼の視界は『地上に蓄えられた宝』で遮られることなく、直接『天に属する宝』の方に開かれていたのです。そのため、イエスのうちに神の御国の権威や輝かしい栄光が彼の心鏡にはっきりと映し出されており、彼の心はその輝かしい神の御国の栄光に魅せられていた····、それゆえ、彼は主イエスに向かって 

「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」

と語ったのではないか·····と私には察せられるのです。


人の心の目(=信仰の目)が開けて、天に属するもの(=天の宝、神の御国の栄光、神の義など)をハッキリと認めることを可能にする秘訣、それは山上の説教の中でイエスが提示された「さばくな」であると私は観ています。この『さばかないこと』こそが、

わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」(マタイによる福音書7章21節)

とイエスが述べられた『天の神の御旨』の核心部分ではないか·····と、私は捉えています。


そして、十字架上の犯罪人は、自分の生涯の最終場面で、この『さばかないこと』(=神の御旨)を実践したというわけです。実は、この点が、『"主よ、主よ"という多くのキリスト教信者たち』や『最後までイエスに悪口を言い続けたもう一人の犯罪人』と根本的に違うところだったのです。


天国に入るにために大事なことは、自分の地上生涯において宝を蓄えること(=キリスト教信者としての良い行いの実績を積み重ねていくこと、一生懸命に信じようと努めること、熱心な祈りの人になることなど)ではないのです。


ところで、『地上に宝を蓄える』ことによって天国に救われようとすることは、自分の"過去"の実績、功績、築き上げてきたもの、栄光、義を振り返って、そのことを根拠に自らの救いを獲得しようとすることを意味します。それはまた、地上に心が引かれている、囚われている、執着している、こだわっていることでもあります。


一方、『天に宝を蓄える』ためには、イエスが山上の説教の中で提示された『さばくな』ということが、実は、重要な鍵を握っていることに気づく人は幸いです。


『さばかないこと』(="過去の情報"をもとに比較検討し、分析や解析をして、最終的な判断を下して、それを"唯一かつ絶対に正しい答えだ"と決めつけようとする『マインドの働き』を停止すること)を実践していくことで、はじめて心の目から"梁"を取り除かれるのであり、その結果、ハッキリと見えるようになって天に属するもの、すなわち、『天の宝』、『天の御国』、『天の父なる神』に心がスーっと開かれていくものなのです。これが、実は、イエスの山上の説教の教えの最も重要なポイントなのです。


単に天国に救われたいと望めば、誰でも天国に入れる·····というわけではありません。

「私は、主イエスを神の御子、救い主として信じます」というようなキリスト教徒としての信仰告白をすれば、誰でも天国に迎え入れられるというわけでもありません。

「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」(マタイによる福音書7章21節)と山上の説教の中でイエスが述べているからといって、主イエスに対する信仰告白と共に、主イエスや天の神のために働いてきたクリスチャンとして『地上で蓄えてきた宝』(=物質的なこの世の富だけではなく、これまでの地上生涯において築き上げてきた実績、功績、築き上げてきた義といった目に見えない富も含む)のリストを主イエスに提示すれば、天国に優先的に入れてもらえる····というわけでもありません。

以上のようなことは、一見、キリスト教における正統な考え方、聖書を学んでいる多くのクリスチャンたちが当たり前にように思ってきたこと、あるいは、疑いようもない常識的なことと見なされていたかも知れません。


ところが、山上の説教を通じて主イエスが訴えたかったことは、このようなキリスト教的な常識、通念とは、随分、解離していたのです。


このブログで繰り返し述べてきたように、イエスが説いた「さばくな」ということが、実に、『天国への救い』の決め手となる最重要メッセージだったことに気づく必要があるのです。『さばかないこと』を実践することによって、神の国のゲートが開かれるということが、イエスの山上の説教における核心的な教えであり、かつ、革新的な教えであるというのが、従来のキリスト教の捉え方、考え方とは一線を画している『イエス-道』のスタンスなのです。


「さばかないこと」が具体的にどういうことであるかを知り、かつ、それを実践して身につけていくことにより、聖書が言っている『救い』、『信じる』とはどういうことだったのかが、手に取るようにわかってきます。そういうことだったのね······と。


また、使徒パウロは「『だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか』。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。」(コリント第一の手紙2章16節)と書いていますが、このような『キリストの思い』がどういうものだったかを体感する近道というのも、実に、キリストが教えた『さばくな』を実践していくことにあるのです。

(9月10日 日曜日 増補更新) 

・・・『天国に入り損なう人たち(2)』へ続く・・・お楽しみに

 

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1月28日(土) 23:57 更新  『イエスの山上の説教の真髄』 その2

2017年01月28日 23時57分47秒 | 山上の説教の考察

 『イエスの山上の説教の真髄』 その2

 

 

1月2日に車のエンジンオイルを交換してもらいに行きつけの店を私が訪れた時に、湯呑み茶碗をいただきました。

その湯呑み茶碗に、相田みつを氏の次のような名言が書かれていました。

 

    あなたの心がきれいだから

    なんでもきれいに見えるんだなあ


この名言は、イエスが山上の説教の中で説いた核心的メッセージに通じるものがあるのではないだろうか....と、私は観ています。

 

イエスは山上の説教の中で、私たちに向かって

『もっと信じなさい』とか

『熱心に祈りなさい』とか

『もっともっと義人になりなさい』とか

勧めてはいません。

 

山上の説教の冒頭の方で、イエスは「心の清い人たちは、さいわいである、

彼らは神を見るであろう。」(マタイによる福音書5章8節)

と、語りました。

これは、まさに 相田みつを氏の名言そのものと言っていいと想います。

 

これは、一体、どういうことなのでしょうか ?    (1月15日 日曜日 23:59 更新) 

 

山上の説教においてイエスが語った重要なことというのは、神をありのまま見ることなのです。神を信じるように努めることでも、信じこもうとすることでもないのです。他の人々の義と比べて、さらにまさった義を持つということでもないのです。

 

清い心で神をあるがまま認めること、観ることこそが大切である·····と、イエスは言いたかったのだと私は想うのです。

 

では、神を見ることのできる清い心というのは、一体、どういう状態なのでしょうか?

それは、目が澄んでいて全身が明るい状態(マタイによる福音書6章22節を参照)でもあると想います。

 

ある意味において、イエスは『信じるということはどういうことなのか』、つまり、『信仰の本質』について山上の説教の中で語っていると、観ることもできます。

 

そもそも『信じる』とは、心の行為です。使徒パウロも、「心で・・・・信じる」と書いています(ローマ人への手紙10章9節)。

 

さらに、ヘブル人への手紙11章1節には、信仰の定義として、肉眼では見えない事実を確認することであると記されています。

 

言い換えるなら、信仰とは 『見えない事実 · 真実 · 真理を見る心の目』と言えるのです。

 

これらのことを考慮に入れつつ、イエスの山上の説教を読み返していくと、重要な真理がおのずと見えてきます。

 

そして、“心の目”である信仰が正しく作動するためには、心の目の視界が遮断されていないことが重要になってくるわけです。言い換えるなら、もし心の目の視界が何かによって遮断されているとしたら、それを取り除くことが肝要となるのです。この遮断しているものをイエスは山上の説教で、「目にある梁」(マタイによる福音書7章3節)と呼んだのでした。 

 (1月22日 日曜日 23:18 更新)

 

ただ、信じればいいのか? いえ、実は、そんなに単純なことではないのです。

人の心の目に〝梁”があって、信仰の視界がそれによって遮られているなら、その人の信仰は゛盲目”なのです。

〝盲目的な信仰”をもったままだと、いずれはつまづいてしまうことになります。

やがて、倒れてしまう危険があります(マタイによる福音書7章26節~27節を参照)。

そのような〝盲目的な信仰”を持っている人たちのことを、イエスは「ああ、信仰の薄い者たちよ」(マタイによる福音書6章30節)と呼んだのでした。

〝盲目的な信仰”を持っている人たちこそが、自分たちが天国に入れないことを知った時に、『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』(マタイによる福音書7章22節)と主に抗議することになるわけです。

 

問題は彼らがこれまでキリスト教信者として何をやってきたかということではないのです。根本的な問題、本質的な問題というのは、実は、彼らの心の目が開かれていなかったこと、霊的な視界が何かに遮られていたということ、見えているようで、実際には見えていなかったということであり(マタイによる福音書13章14節~15節を参照)、言い換えれば、霊的に盲目であったというところにあるのです。

このような重要なテーマがリアルに描かれている箇所というのが、実は、ヨハネによる福音書9章1節~41節なのです。

 

では、一体、何が 信仰という心の目の視界を遮ってしまうのでしょうか? 

 

その答えは、「人をさばくな」(マタイによる福音書7章1節)という イエスが語った山上の説教の中で語ったフレーズの中に隠されているのです。 

 

この〝さばかないこと”こそが、実は、とてもとても大切なことなのです。 

 

逆に言うと、〝さばく”という思考プロセスをフル活動させてしまうことによって、人は自分の目に〝”を創り出してしまい、信仰が正常に作動しなくなってしまうということをイエスは教えているのです。

 

これをさらに裏返して言うと、人は〝さばかないこと”を実践していくことによって、自分の目にある〝梁”を取り除くことができるということなのです。

 

さばかないこと”の実践こそが、実は、信仰の目を開くための近道なのです。

 

使徒パウロは、「信心のために自分を訓練しなさい」と言いました(テモテへの第1の手紙4章7節)。

 

信心のための訓練の中で最も効果的なものは、イエスが山上の説教の中で説いた「さばくな」を実践してみることではないか・・・と私は想います。・・・・・・・ 

 (1月28日 土曜日 23:57 更新) ・・・『天国に入り損なう人たち』に

続いてます・・・


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1月10日(日) 23:00 更新  『イエスの山上の説教の真髄』 その1

2017年01月10日 23時00分11秒 | 山上の説教の考察

 

イエスの山上の説教の真髄

 

 

これまで、何度も申し上げてきましたが、当ブログは いわゆる『キリスト教という宗教』を皆さんに紹介するブログではありません。


イエスは、純粋に何を言いたかったのか? 


本当は、何を一番、イエスは教えたかったのか?


イエスの真意は、一体全体、どこにあるのか? 


イエスの教えの真髄は、何か?


聖書を紐解く“鍵”というのは、何か?


人類が意識進化や霊的な成長を遂げていく上で、イエスがどのような重要な教えを提示したのか?


このような視点から(従来のキリスト教という宗教的な視点や枠組みに囚われることなく)、イエスが直接語った『山上の説教』を直接 解読して、人として生きていく上で役立てていきたい、人生をもっと輝かせていきたい・・・・そのような目的のために、私はこのブログをひたすら書いているわけです。


これまで、度々、当ブログにおいてイエスの“山上の説教”から引用してきましたが、今回のブログでは、イエスが説いた『山上の説教』そのものをテーマとして、想いを巡らせていってみたいと考えているのです。


この『山上の説教』の中に、イエスの重要な教えが網羅されている、集約されている・・・・・そんなふうに、私は観ています。

 (10月9日 日曜日 23:18 更新)


イエスの口から語られた山上の説教において、特に注目すべき点は 以下の箇所であると、私は観ています。


「目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。」(マタイによる福音書6章22~23節)


ここでのキーワードは、『内なる光』です。

 

自分自身のうちに存在している光そのものに気づき、そして、その光を暗くしないことが、極めて大切なことなのです。

 

キリスト教においては、長い間、このことはほとんど評価されてこなかったように、私には想えてならないのです。

 

さらに、自分の内にある光を輝かせておくための秘訣も、実は、イエスの山上の説教の中に隠されていることがわかります。その秘訣とは、熱心に祈るということでもなく、また、信じようと努力することでもないのです。イエスが命じられた「さばくな」(マタイによる福音書7章1節)の実践にあるのです。

 

イエスの弟子たちの書簡をみると、彼らもこの「さばくな」という重要な教えをしっかりと継承していることがわかります。

 

さばかない時に、実は、肉眼では観ることができない事実、真実、真理を捉える信仰という心の目が開かれるのであり、『内なる光』が明るく輝くことになるのです。

 

逆に、さばいている時には、その人の信仰という心の目の視界がブロックされる(これをイエスは、目の梁と呼んでいる)のであり、『内なる光』は暗くなってしまうわけです。

 

このようなポイントがしっかりと解ってくると、ようやく旧約聖書も新約聖書も読み解くことが可能になってくるのです。これまで抱いてきた様々な誤解も、自ずと解けてくるのです。

 

たとえ自分にはキリスト教の信仰があると主張したとしても、もしその人たちの「内なる光」が暗ければ、その信仰は本物ではないのです。思い込み、憶測の域を越えてはいないのです。「ああ、信仰の薄い者たちよ」(マタイによる福音書6章30節)と、イエスに言われてしまうのです。

 

イエスが言う「信仰」と「さばくな」という教えは、実に、密接に関係しているのです。

 

『さばかない』という教えの重要さを学んで、自分の人生の中で実践している人こそ、'生きた信仰'、'愛によって働く信仰'を持っている人なのであり、まさに「岩の上に自分の家を建てた賢い人」(同7章24節)と呼ぶのにふさわしいのです。

 

一方、「さばくな」という教えの重要性に気づくことなく、その教えを実践しない人は、空虚な信仰、薄い信仰、愛に基づかない信仰を持っているのであり、「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」(同7章26節)と呼ばれているわけです。

 

(1月8日 日曜日 23:55 更新、1月10日 火曜日 23:00 補足更新) ・・・続く・・・お楽しみに


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10月9日(日) 8:49 更新  歌詞ブログ 『花になれ』 (パート2)

2016年10月09日 08時49分37秒 | 歌の歌詞に観る“イエス-道”


『花になれ』 (パート2)



勇気は今、光になる


これは、一体、どういうことでしょうか?


観かたを変えると、どのような勇気を持つ時に、人は光になることができるのか・・・・・ということ。


私が想うに、それは“さばくことをやめるという勇気”です。 

言い換えると、自分の“マインドにおける『さばく』というプロセスを停止するという勇気”です。

自分の内に蓄積されている過去の記憶情報に根ざした固定観念、価値基準などで物事を観ることをやめるという勇気です。

人によっては、これまで当たり前のようにやってきたこのようなマインドのプロセスを停止してみることは、自分というアイデンティティーを失うように感じるため、怖いと想ってしまう人もいるようです。実際には、そんなに大げさなことではないのですが・・・・。


山上の説教の中で、イエスは 人には「内なる光」が存在していることを述べています(マタイによる福音書6章23節を参照)。


人がさばいている時には、マインドがフルに活動しているのです。でも、この時、「内なる光」は暗くなってしまうものなのです。さばくことを得意とするマインドの働きの中にすっぽりと埋もれてしまうと、人は“迷いの人生”を送ってしまうことに。


逆に、このようなマインドの働きのスイッチを“勇気を出して”切って、さばくことをやめた時には、「内なる光」を覆っているブロック(=梁)が取り除かれていく方向で動き出すのです。そして、「内なる光」は輝き始めるようになるのです。本来の輝きを回復してくるわけです。これが、「勇気は今、光になる」ということ。


人の内に存在しているこの「内なる光」こそ、実は、力の源でもあるのです。ここに気づくことは、人が「真っすぐに咲く花のように・・・強くなれる」ために、 とっても大切なことなのです。


それが、

あなたは今気づいていますか? 大きな力はその手にあること  勇気は今、光になる

という歌詞が意味するところなのです。


従って、「さばくな」というイエスの教えというのは、とりわけ重要な教え、注目に値する教え・・・と言えます(マタイによる福音書7章1節)。


ぶつかっていんだ 泣いたっていいんだ」、「傷ついたっていいんだ 間違っていいんだ」というふうに、自分で自分をさばくことなく、自分自身のあるがままを優しく受けとめ、受け入れ、許容していく時に、「その命は強く輝く  風に立つ一輪 僕たちも花になれる 風に咲く一輪 僕たちも花になれるというわけなのです。 

 (9月23日 金曜日 23:44 更新) 



ところで、人が「未来に手を伸ばして 真っすぐに咲く花のように・・・強くなれる」のは、人の人生の最終段階になってから・・・とは限らないと、私は想っています。


植物の場合は、成長し切って最終ステージで花を咲かせ、実を結んでいくという形を取るでしょう。でも、人の場合は、必ずもそうではない・・・と、私は想うのです。将来、いつかきっと自分も「真っすぐに咲く花のように・・・強くなれる」日が来るかも知れない。こんなふうに、“未来という時間軸”に自分の希望を託す必要はないのではないか。


むしろ、“今というこの瞬間、瞬間”こそが、実は、リアルな時間なのであり、本当に価値ある時間軸はここにあるのではないだろうか・・・と、想っているわけです。


また、「真っすぐに咲く花のように・・・強くなれる」日を早めようとして、自分を磨くために絶え間ない努力をしたり、修行生活をしたり、何かに精進したりすることも、ちょっと的が外れているような気もするのです。


『井の中の蛙、大海を知らず』


大海を知る道を自ら閉ざしていて、井の中の蛙でいることを甘んじている限り、「真っすぐに咲く花のように・・・強くなれる」日はやって来ないと想います。


大海にある無尽蔵の情報を知る道を閉ざしてしまうのは、その人が“さばいている”からです。自分は何でも知っていると思い込んで、現時点で自分が持っている情報を絶対的なものだと決めつけて、固定観念を抱いて、そこを基準にして物事を“さばいていく”時に、大海にある潤沢な情報はその人のうちに流れ込んで来なくなってしまうのです。


これを象徴するような出来事がイエスの十字架にかかっていた時に起こりました。イエスの十字架の両脇で、2人の犯罪人が自分たちが犯した罪のために十字架刑を受けていました(ルカによる福音書23章39節~43節、マタイによる福音書27章44節を参照)。


初めのうちは、どちらの犯罪人もイエスを“さばいて”いました。一人の犯罪人は最後までイエスに対して悪く口を言ってさばくことをやめなかったのです。彼が持っていた『井の中』の限られた偏った情報だけを根拠に、誤解と偏見を持って、イエスに対してさばきを下していたのです。


ところが、もう1人の犯罪人は、途中からイエスを“さばくことをやめた”のでした。“さばくこと”から“さばかないこと”にスイッチを切り替えるのに、長い時間は要しないのです。何年も、何十年も訓練や修行をする必要もないのです。“今というこの瞬間”に、スイッチを切り替えることは誰にでも可能なのです。過去の記憶情報というフィルターを通して観ることをやめればいいのです。他人から与えられる情報や判断に頼ることをやめればいいのです。既成概念や常識などですべてを捉えようとすることをやめればいいのです。心を澄ませて、偏見や先入観を捨てて、"今この瞬間"の中で、じかにあるがままを観ていけばいいのです。しっかり観ていく、じっくり観ていく、ノイズを取り払って心を澄ませた状態で、そのような心鏡にあるがまま映し出して観ていく。早急に結論を出そうとしなくていいのです。柔軟性をもって 仮の判断をしていく、一時的な判断をしていくのです。最終的な判断をしたり、確定的な判断や絶対的な判断をしない、決めつけたりしないことが大切です。とにかく、様々な角度から、いろんな次元や視点から観ていくのです。そんなふうに観ていって、情報収集を続けることを専念していく。そして、さばくのではなく、察していくのです。


ところで、後者の犯罪人は  さばかないこと”にスイッチを切り替えた瞬間に、彼の心の目から“”が取り除かれ、視界が開けたのです(マタイによる福音書7章5節を参照)。すると、『大海』にある貴重な情報が、堰を切ったように彼の内に流れ込んできたのでした。その時、彼はこれまで気づかなかった“真実・真理・目に見えない事実”を悟ったのでした。だからこそ、彼は「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、私を思い出してください」(ルカによる福音書23章42節)と言うことができたのです。


今度は、別の歌詞に注目して観ていきたいと想います。



その命は強く輝く 風に立つ一輪 僕たちも花になれる


ここで、“風に立つ一輪”というフレーズには、どのようなニュアンスがあると想いますか?

(9月28日 水曜日 23:32更新) (9月29日 木曜日 23:18補足更新) 


風が吹いてきても倒れたり、折れたりすることなく、凛として立っているような花のように僕たちもなれる。

このようなことをこのフレーズは、述べているのではないか・・・と、私には想えるのです。 

これは、何ものにも依存していない状態を意味しています。むしろ、自立進化した状態。

人として確固とした生き方が何であるのかということを悟ったということ。 

本来、人として生きる道を確かに歩んでいるということ。


この言われている“風に立つ一輪”の花になっている人というのは、イエスの山上の説教の中にあるように「雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているから」という「岩の上に自分の家を建てた賢い人」(マタイによる福音書7章24節~25節)に符号しているように、私は想います。


山上の説教の中で、人はいかにしたら“風に立つ一輪”の花のようになれるのか・・、その秘訣をイエスは教えようとしたのではないか・・・・そんなふうに観ることもできます。


逆に、“風に立つ一輪”の花になっていない人というのは、「雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけてると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどい」と言われている「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」(マタイによる福音書7章26節~27節)に対応しているわけです。


普段は両者の違いは見えないかも知れませんが、いざという時になると両者の違いは歴然としてくるのです。


では一体、この両者の違いというのは、どこから来るものなのでしょうか? 


風に立つ一輪”の花のようになれるかどうかを知るには、人はいかにして「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」の方ではなくて、「岩の上に自分の家を建てた賢い人」の方になれるかを解明するといいわけです。


その答えは、マタイによる福音書7章21節~23節の中に。 皆さんも、心を澄ませて想い巡らせてみて下さい。


実は、ここには 「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」のことが記されているのです。この人たちは自分たちが天国に救われないことがわかった時、次のように主イエスに抗議するというのです。


主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか。」(マタイによる福音書7章22節


これだけ聞くと、天国に入る条件と言われている「天にいますわが父の御旨を行う者」(マタイによる福音書7章21節)を彼らは満たしているようにも想えてしまいます。


イエスは聖書の中で『神の小羊』と呼ばれていて、イエスに抗議する人たちその『羊の衣』(=イエスを信じる信仰による神の義という衣)を来ているように外面的には見えます。ところが、その内側は『強欲なおおかみ』であることを、イエスは見破っているのです(マタイによる福音書7章15節を参照)。つまり、彼らはこれまで行ってきた“天の父の御旨”という自分たちの功績・実績・善行によって、自分たちの救い(=自分の利益)を手に入れようとしているのです。


愛は・・・・自分の利益を求めない」(コリント人への第1の手紙13章4節~5節)とあります。つまり、彼らは主イエスに向かってそのように抗議することによって、自分たちには愛がないこと、愛によって生きてきていなかったこと、それらはすべて愛から出た行動ではなかったことを自分で証明したことになるのです。


言い換えると、『天の父の御旨』にかなうような“わざ”を彼らはやってきたように想えますが、致命的なことに、天の父であることを知らなかった、天の父を見たことがなかった・・・ということなのです(マタイによる福音書5章43節~48節を参照)。


実は、天の父御旨』にかなう行いというのは、天の父がいかなるものであるかに気づくこと、知ることから、自ずと生み出されてくるものなのです。そして、その愛とは“さばかない寛容という愛”なのだと、イエスが説かれたのでした(マタイによる福音書5章45節を参照)。


私たちは、神がわたしたちに対して持っておられるを知り、かつ信じている。神は愛であるのうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。」(ヨハネの第1の手紙4章16節


ではなぜ、 「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」たちは、神の愛を知らない状態で、救いを獲得しようとしてしまったのでしょうか?


山上の説教の冒頭の方で、イエスは次のように述べられました。


心の清い人たちは、さいわいである。彼らは神を見るであろう。」(マタイによる福音書5章8節


これは、一体、どういうことでしょうか? 

(10月1日 土曜日 22:38更新)(10月2日 日曜日 23:03更新)


イエスがここで言われた「心の清い人たち」というのは、心の「目が澄んで」いて、「内なる光」が暗くなっていない人たちのことである(マタイによる福音書6章22節~23節を参照)と、私は観ています。逆に、心の「目が澄んで」おらず、その結果、「内なる光」が暗くなってしまっている人たちは、「信仰の薄い者たち」(同6章30節)と呼ばれているわけで、神が見えていないのです。


“信仰”というのは、ある意味、不可視領域の世界の存在である「神を見る」ための心の目と言えます。従って、心が何かに覆われていたり(コリント人への第2の手紙3章13節~16節を参照)、あるいは、何かにブロックされて視界が遮られてしまっていると、致命傷となるわけです。そのことを、イエスは「目に梁がある」(マタイによる福音書7章4節)と象徴的な表現をしたと想われます。従って、「神を見る」ことのできる「心の清い人たち」になるために、イエスは「自分の目から梁を取りのけるがよい」(同7章5節)と言われたのです。


では、どうやったら、「自分の目から梁を取りのける」ことができるのでしょうか?


その具体的なノウハウとして イエスが伝授して下さったのが、「さばくな」(同7章1節)ということだったのです。



岩の上に自分の家を建てた賢い人」(=風に立つ一輪の花)になれるか、あるいは、「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」になってしまうか・・・の違いは、一体、どこから生まれるのでしょうか?


イエスは、はっきり言うのです、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う」か、「わたしのこれらの言葉を聞いても行わない」かである・・・と。イエスが語ったこれらの言葉、すなわち、山上の説教の中で説かれた教えの中で、最も重要な要は「さばくな」であると、私は観ています。


さばかないことジャッジしないこと、それによって人は自分の心の目から“”を取りのけることが可能となるのです。その結果、心の目(=信仰という目)がはっきりと見えるようになるというわけです(マタイによる福音書7章1節~5節を参照)。ここがイエスが説いた山上の説教において、最も注目すべきポイントであると想うわけです。


逆に、人はさばき続けることによって、自ら“”を自分自身の目の前に創り出して、視界を妨げてしまうことになり、その結果、神の真の栄光を見失ってしまうのです。


さばかないことを実践することによって、さばかない習慣を身に着けることによって、心の目(=信仰の目)が不可視領域の真実、真理、事実に目が開かれ、その人の信仰というものは まわりの環境や人々の意見にも左右されないほどに揺るぎないものとなり、その人の人生の中で たとえ「雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹い」たとしても『風に立つ一輪』になれる、『真っすぐに咲く花のように・・・強くなれる』、言い換えれば、“確固とした人間”になることができるということなのです。


このような視点から聴いていくと、指田郁也が歌う『花になれ』は、とても素晴らしいナンバーであり、私は心に深い感動を覚えるのです。イエスが山上の説教の中で説いた真理と美しく調和しているからです。


イエスが山上の説教で言いたかった貴重な教えは、聖書の世界の中だけにあるのではありません。『花になれ』という歌詞の中にも、脈々と息づいているのです。


(10月7日 金曜日 23:26更新) (10月9日 日曜日 8:49 補足更新) 

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9月19日(月) 22:10 更新  歌詞ブログ 『花になれ』 (パート1)

2016年09月19日 22時10分38秒 | 歌の歌詞に観る“イエス-道”


『花になれ』



指田郁也さしだ ふみや)という男性のシンガーソングライターが2012年6月13日に発売(公開は、2012年4月27日)したナンバーに『花になれ』があります。

 

このナンバーは、羽生結弦の「フィギュアスケート NHK杯」 のエキシビジョンでも使用され、NHK-BSプレミアムのBS時代劇 「陽だまりの樹」の 主題歌でもあるとのこと。

 


私は、つい最近になって初めて、このナンバーを耳にしました。ここで歌われている歌詞に、自然と私の心は惹きつけられました。


まだこのナンバーを知らない方は、ぜひYouTubeなどで


『花になれ』(指田郁也;フルサイズ)

『花になれ』(指田郁也;フィギュアスケート NHK杯


を一度 聴いてみられてはいかがでしょうか?


今回のブログでは、指田郁也の『花になれ』の歌詞をじっくりと味わってみたいと想います。


しばらく、また気長にお付き合いください。    (9月3日 土曜日 23:07 更新)



この歌詞の中で、「僕たちも花になれる」というフレーズが何度も繰り返されていますが、どのようにしたら人は花になれるのか? この「花になれる」という意味を歌詞から探っていくと、それはその未来へ手を伸ばして 真っすぐに咲く花のように 人は誰も強くなれる あなたもきっとなれる」ということです。・・・・・これが今回のブログのテーマです。


ところで、聖書の中には、以下のように記されています。


「あなたがたが新たに生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生ける御言によったのである。『人はみな草のごとく、その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は、とこしえに残る』。これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である。」(ペテロの第1の手紙1章23節~25節


今回の歌詞ブログで探究しようとしていることは、もちろん、朽ちる種から花を咲かせる(この花はやがて散ってしまうからです)という意味ではなく、むしろ、朽ちない種から如何にして私たちが自らの人生の中で“どのようにしたら いかなる風に中にあっても 真っすぐに咲く花のように強くなれるのか・・・・ということ。 これを指田郁也花になれ』の歌詞から読み取っていきたい、解読していきたいと想っているのです。先ほど引用した“とこしえに残る”と言われている主の言葉と符合している、あるいは、調和しているメッセージを『花になれ』の歌詞の中に観ていきたいわけです。

(9月4日 日曜日 23:07 更新) (9月6日 火曜日 22:11 更新) 



では、さっそく指田郁也の『花になれ』の歌詞を観てまいりましょう。


あなたは今笑えてますか?  どんな息をしてますか?

人混みに強がりながら 『負けないように』と歩いているんだろう

足許のその花でさえ 生きる事を迷いはしない


ここでは、人の生き方と 足許の花の生き方とを比べています。

そして、その花は生きる事において迷いはしないというのです。

一方、人の場合は、生きる事において迷っているというわけです。

迷っているからこそ、人混みに強がりながら、“負けないように”と歩いてしまっているというのです。

言い換えれば、自分と他人を比べながら、勝ち負けにこだわって生きているわけです。

そのような生き方をしている限り、心底からは笑えていないのです。 息することも心地よくないものです。

では、人として生きる事において迷うことから脱するためにはどうすればいいのでしょうか?

そのヒントがどこにあるかについて、続く歌詞の中で説明されていきます。


『生きてゆけ』 

僕らは今、風の中で それぞれの空を見上げている。

ぶつかっていいんだ  泣いたっていいんだ


生きてゆけ』・・・・・人は、一体、どのように生きてゆけばいいのでしょうか?

僕らは今、風の中で それぞれの空を見上げている」・・・

つまり、人はそれぞれの人生、それぞれの環境の中で生きている。

その中で、逆風も吹いてくるかもしれない、困難にぶつかることも往々にしてあるかも知れない。

順風満帆の人生だけを望んでも、思いどおりにはいかないもの。

でも、「ぶつかってもいいんだ」・・・というのです。

また、人として強くあるべきだとして、“泣いてはいけない”、弱いところを見せてはいけないということではないのです。

泣いたっていいんだ」・・・というのです。 


さらに、

誰もが今、時の中で それぞれの明日を探している 

ついていいんだ間違っていいんだ 何度も立ち上がればいい

とも言っているのです。


これらの歌詞は、一体、何を教えているのでしょうか?


(9月6日 火曜日 22:57 更新) (9月17日 土曜日 23:19 補足更新)


何かにぶつかっている自分、泣いている自分、傷ついている自分、間違っている自分・・・・・

そのような自分を責めたり、非難したり、卑屈に感じたり、失望・絶望したり、苛立ったりしなくていい・・・

ということなのです。 そのような自分には価値がない・・・などと想わないことです。


今あるがままの自分をそのまま認めることが重要なのです。

つまり、自分で自分自身を“さばかない”ということが必要なのです。

一定の価値基準、既成概念、固定観念に照らして、自分自身を“さばくことをしない”ということです。


これが、人として『花になる』ために、すなわち、“朽ちない種”から花を咲かせるためにとても重要なことなのです。


その胸に抱いている種は いつかきっと 夢を咲かすよ


人は、人生の中で厳しい現実を経験することもあるでしょう。

乗り越えられないように想える高い壁にぶつかることもあるかも知れません。

人生の中で、いろんな風が吹いてくるでしょう。


僕らは今、風の中で それぞれの空を見上げてる

 

自分で、自分に鞭打ったりして、自分で自分に苦痛を与えることによって『花になれる』のではないのです。

むしろ、悲惨な環境の中にあっても、できれば避けたいような現実の中にあって、

自分で自分のあるがままの姿を認めて、それを優しく丸ごと受容していくことが『花になる』ために必要なことなのです。


未完成でいい


今の自分がたとえ“不完全”であると感じたとしても、自分に失望したり、卑屈になったりする必要はないのです。

また、未完成な自分、イコール、ダメな人間・・・と想う必要もないです。

人は、それぞれ、意識進化の途上にいるわけであって、その進化のレベル、あるいは、ステージが各人 違うのは当然です。


ところで、山上の説教の中でイエスは、次のように語っておられます。

あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイによる福音書5章48節


ここで、イエスは の領域における完全さを人に求めているというわけではありません。

人に、人の領域における完全さを求めておられるのです。

でも、この完全さというのは、もはや成長の余地がないような完全さではないと想うのです。

植物は、種から成長して、最後に花を咲かせます。この最終段階だけが完全ではないのです。

花を咲かせるに至るまで、日々成長しているそれぞれのステージにおいて完全であり得るのではないか。

つまり、人においても、同様に、未完成は不完全を意味しないと、私は観るのです。


イエスが、ここで言っておられる「完全」というのは、文脈から明らかなように、神のような“寛容という愛における完全さ”ということなのです(マタイによる福音書5章44節~48節を参照)。


これは、言い換えれば、“ジャッジしない”、“さばかない”ということなのです(マタイによる福音書7章1節を参照)。



あなたは今気づいていますか? 大きな力はその手にあること


あなたは人として、はたして、気づいているでしょうか? 

もしかしたら自分は“弱い存在”、“力のない存在”であると思い込んでいませんか?

人は自分の内には力はない・・・と、長い間、洗脳され、思い込まされてきたかも知れません。


でも、指田郁也の『花になれ』という歌詞には、「大きな力はその手にあること」を「気づいてますか?」と、

私たちに問うているのです。


自分の外側の何かに頼ろうとしたり、そこから力を求めようとすると、“依存症”に陥ってしまうおそれがあります。

そこからは、本当の力は生まれてこないです。

言い換えれば、「その未来へ手を伸ばして 真っすぐに咲く花のように 人は誰も強くなれる」という道を自ら閉ざしてしまいかねないのです。


実は、自分の内側にそのような力がすでに備わっているという事実に気づくことが、とても大切なのです。


 

ぶつかっていいんだ 泣いたっていいんだ 

かならず答えはあるから

『あきらめないで』・・・


逆に言うと、“ぶつかってはいけないんだ、泣いてはダメなんだ”と想っていると、答えを見つけるのが至難の業となってしまうのです。


答えのない毎日に立ち止まっても その涙は始まりのサイン

・・・・・ぶつかっていんだ 泣いたっていいんだ 

必ず答えはあるから 『あきらめないで』・・・


たとえ、なかなか答えを見い出せないように想われたとしても、「あきらめないで」と言うのです。


答えが見つからない時には、諦める(あきらめる)のではなく、明らかにする(あきらかにする)ことが、実は重要なのです。


答えを見い出すことができず、迷ってしまった時には、もうダメだ、万事休す・・・と絶望して、諦めてしまうのではなく、むしろ、そのような時にこそ、心の目を明らかにする絶好のチャンスでもあるのです(エペソ人への手紙1章17節~18節を参照)。


それが「泣いたっていいんだ」ということであり、そして、その「その涙は始まりのサイン」となるのです。


では、人はどのようにしたら、心の目を明らかにすることが出来るのでしょうか?

それは、心の目にある“”を取り除くことによってです(マタイによる福音書7章5節を参照)。

そのための具体的なノウハウというのが、イエスが勧める「さばくな」(マタイによる福音書7章1節)ということなのです。


それが、ぶつかっていんだ 泣いたっていいんだ」、「傷ついていいんだ、間違っていいんだ」と悟ることなのです。


いかなる人(自分でも、他者でも)をも、善悪の固定観念、価値の有る・無し、既成概念、常識などのモノサシで さばいたりしないこと・・・・自分や他人をあるがまま観ていく、認めていく、受けとめていく、受け入れていくこと・・・これに徹することが、とてもとても大事なことなのです。これを日々実践していく時に、心の目にある“”を取り除かれていくことになるのです。


これがイエスが山上の説教の中で語っている中心メッセージであり、指田郁也の『花になれ』の歌詞に秘められたメッセージでもある・・・と、私は観ているのです。



勇気は今、光になる


これは、一体、どういうことでしょうか?

 

・・・・・・続く・・・・・・お楽しみに・・・・・・  (9月18日 日曜日 0:09 更新) (9月19日 月曜日 22:10 更新) 


    *        *       *     


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9月3日(土) 22:16 更新 『イエスが説く救いの道』(その2)

2016年09月03日 22時16分40秒 | 徒然なるままに聖書

『イエスが説く救いの道』(その2)



「主よ、主よ・・・」と主の名を呼びながら、神の御旨に沿ったわざを行ってきたはずのいわゆる『キリスト教信者』の多くが、「あなたがたを全く知らない。出て行け」と主に言われて、天国から閉め出されてしまうことになることを、山上の説教の中でイエスが言及されました。


でもそれは、天の父なる神や主イエスにその人たちが知られていないというのではなく、むしろ、"多くの『キリスト教信者』の方が神のことも主イエスのことも全く知らなかったのではないか"という私の観かたを前回のブログで述べました。


今回は、この点をもう少し説明したいと想います。ここでヒントになる聖句は、「愛さない者は、神を知らない。神は愛である。」(ヨハネの第1の手紙4章8節)です。  

  (7月22日 金曜日 0:24 更新)


ヨハネが書いたこの聖句に、はたしてどういうニュアンスがあるのかということを、今から私なりに観ていくと・・・。


つまり、山上の説教の中でイエスが言っている『天国の救いから漏れてしまったキリスト教信者たち』というのは、長い間 教会で説教を聞いたり、また、自分でも聖書を読んだり、さらに人々に伝道をして人々をキリスト教に導いたりもして、聖書で啓示された神を世の人々の誰よりもよく知っていると自分では思い込んでいたのですが、実際には"神を知らなかったし、神の愛も知らなかった"ということなのです。 


言い換えれば、彼らは"愛さない者"であるということなのです。のため、主イエスのため、多くの力あるわざ、良き行いは沢山やってきたのかも知れませんが、"愛するということにおいて、失敗した"、"愛を実践してこなかった"、"愛というものが、如何なるものなのかを実は知らなかった"ということなのです。


だからこそ、自分たちが当然 天国に入れるものと思っていたのに、それか叶わなかったことがわかると、これまで自分たちがやってきたこと、積み上げてきた『一見、神の御旨にかなっていると思われる外面的な善行』をリストアップして、主イエスに訴え、抗議するのです。


確かに彼らは、キリスト教の聖典である聖書に書かれている『良いこと』を真面目に、熱心にやってきたかも知れません。


でも、イエスが「わたしはあなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい」と言われたことが何を意味しているかを実際には知らなかったわけで、だからこそ、それを自分の人生の中で実践することはできなかったわけです。


それは、イエスのもとに来て「永遠の命を得るために、どんな良いことをしたらいいでしょうか?」と尋ねたあの"富める青年"のケースと全く同じだったと言えます。


この青年の問いかけに対して、イエス神の十戒の律法に触れ、さらに互いに愛し合うべきことの大切さを指摘されました(マタイによる福音書19章18節~19節を参照)。


それを聞いた青年は、それらを守ってきたということをイエスに自信をもって答えたのでした。でも彼は十戒を外面的に守っていただけであり、その十戒の精神、真髄、本質であった“”が意味するところについては 全く知らなかったのでした(ローマ人への手13章8節~10節を参照)。この青年が頭で知っていた“”というものが、イエスが教えている“”とは、本質的に異なっていたのです。大きく解離していたのです。イエスとは全く違う次元の“愛の概念”だったわけです。実は、天国の救いから漏れてしまうキリスト教信者においても、これと同じことが言えると想います。


ここでもう一度、イエスが山上の説教の中で語っていた愛"とはどのような愛だったのかについて想い起こしてみましょう。


マタイによる福音書5章43節~48節を観ると、味方と敵を区別して、前者を愛して、後者を憎むというタイプの愛というものが現に存在しており、それはこの世ではとても一般的であり、誰でも生まれつき持っているような“”と言えます。


ところが、イエスはこれとは全く質を異にする“”があると言われるのです。そして、これこそが「天にいますあなたがたのの子となるため」(マタイによる福音書5章45節)だと、イエスは言うのです。


すなわち、イエスが山上の説教の中で説いた“”というのは、味方と敵とを区別したり、善人と悪人を別け隔てしたりしないようなタイプの“”なのです。敵を愛しなさいとは、そういうことなのです。このような“”を実践することは、通常の人間、並の人間には至難のわざと言えます。


しかし、このような“”なくしては、天の父なる神の子になることはできないとイエスは明言されるのです。


これと同じようなことを、イエスは『主の祈り』に関連して述べておられるのです(マタイによる福音書6章9節~15節を参照)。つまり、自分に失礼なこと、無礼なこと、危害を加えた人であっても "ゆるしなさい"ということです。いわば自分が"敵"や"悪い人"とみなしている相手であったとしても、ゆるし、受け入れ、あたかも自分の味方であるかのように愛していくということです。言い換えるなら、敵-味方、悪人-善人というふうに区別して捉える固定観念自体を手放してしまうということを意味します。これこそが、互いに愛し合いなさいというイエスの新しい戒めが、私たちの心に与えられるということであり、私たちの思いのうちに書きつけられるということなのです(ヘブル人への手紙10章16節を参照)。


このようなタイプの“”を実践していかない限り、天の神の御旨を行っていることにはならないわけです。また、天の神とうまく付き合っていくことは、ままならないのです。良好な関係を築くことはできないのです(マタイによる福音書6章15節を参照)。


自分に好意を抱いている人を愛すること、自分を愛している人を愛することは、比較的簡単なことです(マタイによる福音書5章46節~47節を参照)。


でも、そのようなレベルの愛し方を、山上説教の中でイエスが説いているわけではないのです。一般の人間には、たとえ逆立ちしてもできないような、一見、実践不可能に想えるような愛し方を要求しておられるのです。


わたしはあなたがたに新しい戒めを与える。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」とイエスは命じられましたが、実は、そこにはこれと同じような意味合いがあるのです。


では、一体、どうしたらそれができるというのでしょうか?  イエスの答えは、どこにあるのでしょうか?  山上の説教の中に その答えを見つけることができます。答えは多くはないと想います。イエスの明確な答えが、たった一つだけ用意されているのです。 でもそれは、『信じるということでもなく、『神に対して熱心に祈る』、あるいは、ただ『聖書をしっかり通読すること』でも、『聖句を暗唱したり、暗記したりすること』でもありません。


たった一つのイエスの答えがあると、私は観ています。それは・・・


さばくな」(マタイによる福音書7章1節)


です。   ・・・ 続く ・・・

(7月24日 日曜日 7:03 更新)(7月31日 日曜日 23:05 、8月20日 土曜日 6:44 補足更新)


人を愛するとは、人をさばかないことを意味しています。さばきながら、人を愛するということはできません。

そして、さばかない"コツ"が身についている人の前には、救いの道が開かれているのです。

さばかないことの重要性を教えたイエスが語っている様々なメッセージの中には、よくよく観ていくと、救いの道が指し示されていることがわかってきます。

一見、救いとは関係のないことを語っているように見えても、救いの奥義についてイエスが語っていた・・・ということが、実に、多いのです。

人は救いの道を歩いているか、あるいは、救いの道から外れて歩いているかのいずれかであると言えます。

救いへの"ハードル"はとても高いように、多くの人には思えるかも知れません(マタイによる福音書19章34節を参照)。そのために、多くの人々は(もちろん、クリスチャンも例外ではありません)、自らの救いを獲得するためにポイントを稼ごうと努めてきたわけです(マタイによる福音書7章22節を参照)。

でも、その"ハードル"を高くしているのはの側ではなく、むしろ、人間の側なのです。

救いの道を見えなくしている"ハードル"という存在をイエスは『あなたがたの目にある梁』(マタイによる福音書7章3節)と表現していたわけです。

そして、その『目にある梁』を作り出していくか、逆にそれを取り除いていくかは、その人が『さばく』か、『さばかない』か・・・によるのです。イエスは、「自分の目から梁を取りのけるがよい」(マタイによる福音書7章5節)と言いました。その方法というのが、「さばくな」(マタイによる福音書7章1節)ということに密接に関係してくるのです。



幼な子のような者


マタイによる福音書19章13節~15節には、次のように記されています。

「そのとき、イエスに手をおいて祈っていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。するとイエスは言われた、『幼な子らをそのままにしておきなさい。わたしのところに来るのをとめてはならない。天国はこのような者の国である』。そして手を彼らの上においてから、そこを去って行かれた。」


天国というのは、幼な子のような者の国である・・・と、ここでイエスは言われました。

多くの大人のキリスト教信者にとって天国への"ハードル"が高すぎて、その救いから漏れてしまうというのに、幼な子らにとっては、そのような"ハードル"は存在していないというわけです。

なぜでしょうか?  単に、幼な子だから・・・というわけではありません。幼な子というのは、大人たちと違って、『さばく』というマインド・プロセスを使わないで捉えるがゆえに "ハードル"というものが存在しないのです。まさに、さばかない』ことが、天国の救いの扉をいとも容易に開くことのできる鍵と言えるのです。



十字架上の犯罪人


ころで、イエスが十字架にかけられていた時に、その両側に犯罪人も十字架刑に処せられていました。最後までイエスをののしり続けていた犯罪人の方ではなく、もう一人の犯罪の方がイエスにパラダイスへの救いを宣言されました。なぜでしょうか?  後者の犯罪人の方の罪が比較的軽かったからでしょうか?  いえ、そうではありません。後者の犯罪人の方が、『さばくことをやめた』からなのです。 “さばく”というマインド・プロセスを停止した時に、目に見えない真実、事実、真相、真理を捉えることができる目が開かれたわけです。



ぶどう園の譬


イエスは、「天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。・・・」(マタイによる福音書20章1節~16節)という譬を引用して、救いの奥義を語ったことがあります。ここをこの世の既成概念でザッと読むと、イエスが何を言いたかったのだろうか・・・と、理解に苦しむことになるのではないかと想います。というのは、長時間にわたって真面目に働いた人の賃金が、遅く雇われてわずかしか働かなかった人の賃金と比べたら不公平感が生じてしまうからです。つまり、一日あたり1デナリを支払うと主人が約束をしたのはよかったのですが、夜が明けて間もなく雇った労働者にも、午前9時ごろに雇った労働者にも、12時ごろと午後3時ごろに雇った労働者にも、さらには、夕方5時ごろに雇った労働者にも、同じ賃金の1デナリを支払ったというのです。


天国というのは、このようなものであると、イエスは言われるのです。長時間にわたって、一日中、労苦と暑さを辛抱しながら主人のために働いた労働者が、ほんのわずかしか働いていない労働者と同等な報酬しかもらえないとしたら、頭にきて主人に当然のことながら抗議をしたくなります、「あまりにも不公平過ぎる!」と。 


実は、ここで抗議する労働者の心理というのは、まさに、山上の説教の中で 「主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったのではありませんか」(マタイによる福音書7章22節)と主イエスに向かって抗議するキリスト教信者たちの心理を全く同じではないか・・・と、私には想えるのです。


どちらもイエスが説く『救いの奥義』というものをわかっていないと言えます。


この『ぶどう園の譬』を通して、イエスは『救いの道』を指し示しておられました。でも、この譬の中では、信じるとか、信じないとか、そのようなことに関しては直接語られていません。つまり、“信仰によって救われる”というような教えをイエスは、単に 説こうとしていたのではないのです。


では、この『ぶどう園の譬』をどのように読み解くべきなのでしょうか? 


人に与えられる救いというのは、神の勝手気ままな不公平さにある・・・ということを、イエスがこの『ぶどう園の譬』で言いたいのではありません。人のうちにある既成概念、固定観念、常識といった過去の記憶情報に照らすこと(=マインドを働かせること)によって 物事を観たり、捉えたり、断定したり、決めつけたりしようとする(=これが"さばく"ということ)と、自分と他人の報酬の額を比べてしまい、不平不満、不公平感などが生じてしまうというメカニズムを知るべきなのです。


つまり、イエスがこの譬を通して教えようとしておられたのは、『さばくな』ということだったのです。自分のうちにあるマインドの働きを停止して、さばくことをやめた時に、そこに救いの道が開けてくる、救いの奥義を知ることになるということなのです。


イエスが "神の国は、あなたがたのただ中にある"と言われたのは、まさにそのようなニュアンスがあると、私は観ているのです。

 

 (8月11日 木曜日 12:29 更新 (8月13日 土曜日 22:16、8月20日 7:12 更新) (9月3日 土曜日 22:16 改訂更新)


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