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意識の進化、次元上昇をアシストする“イエス-道(Jesus,the Way)”

“イエス-道”という視点から、人生を生きる秘訣・コツを考える“斬新的な聖書リサーチ”

7月18日(月) 21:44 更新 『イエスが説く救いの道』(その1)

2016年07月18日 21時44分03秒 | 徒然なるままに

イエスが説く救いの道とは?



今回のブログは、これまで当ブログで書いてきた内容の復習、まとめ、総括のような内容になるのかも知れません。


これまで聖書の中でイエスが語ってきたメッセージを読んできて断片的だったもの、繋がりがあるとは想えなかったもの、別々のメッセージのようにみえていたもの、そういうものが、実は、一貫性のある内容のメッセージだったことに気づくことになるかと想います。


「どんな良いことをしたら永遠の命が得られるだろうか?」とイエスに質問されたあの富める青年に対するイエスのメッセージ。

幼な子のようにならなければ、神の国に入ることはできないと説かれたイエスのメッセージ。

イエスと共に十字架刑を受けていた犯罪人が死ぬ直前に「あなたは今日、私と一緒にパラダイスにいるであろう」と語られたイエスのメッセージ。

生まれつきの盲人だった人がイエスに癒されたストーリーの中でイエスが語っておられたメッセージ。

あるいは、時代はもっともっと遡りますが、ヨブがあの壮絶な試練の中から解放されることなったキッカケ、理由とは何か? 

アブラハム信仰によって義とされたのは、どのような信仰によってなのか? 

主イエスを“まじめに”信じて、神のみ旨を行なってきたはずの大勢のキリスト教信者がに「あなたがたを全く知らない。出て行け」と言われてしまう悲劇は何故か? 


これらのことは、一見、何の繋がりもないかのように想えるかも知れません。

でも、よくよく観ていくと、そうではないということがわかってくるのです。

イエスが教えようとしていたことは、とてもシンプルで、実に明快で、一貫性があり、ブレというものがないということに気づくのです。聖書を観る視点をこれまでとちょっと変えてみることで・・・・。

・・・・・・続く・・・・・

(6月2日 火曜日 3:50 更新)


さらに、福音書の中にはマルタとマリヤの姉妹の家にイエスが迎え入れられた時のストーリーがあります。また、旧約聖書にはロトの妻がうしろを振り返った時に、塩の柱になってしまったことが記されています。これらは、イエスが説く救いと関係があるのでしょうか?

・・・続く・・・ (6月23日 木曜日 0:09に更新)


イエスが説いている"救いの道"というものは、いかなるものなのでしょうか?

それを知るためには、山上の説教でイエス自身が語った次の言葉に注目する必要があります。

「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」(マタイによる福音書7章21~23節)

天国の救いにあずかるには、天の父なる神の御旨を行う者だけだとイエスは言うのです。ところが、キリスト教という宗教に属し、主イエスに対する信仰を表明し、なおかつ、"天の父の御旨"をこれまで行ってきたはずの多くの信者が天国の救いから漏れてしまうことになるというわけです。

つまり、天国の救いにあずかることができないというキリスト教信者は、イエスが言う『天の父の御旨』というものを知らなかった、あるいは、誤解していた、勘違いしていたと言えます。

それでは、この『天の父の御旨』とは、一体、何なのでしょうか?

イエスが語った山上の説教の中のどこに『父なる神の御旨 』というものがあるのでしょうか?  

皆さんは、個人的には、どの箇所だと想いますか?  探してみて下さい。

でも、"山上の説教の全部"・・・などとは言わないで下さい。

山上の説教の中で、『天の父なる神の御旨』が明確にイエスが述べられた所はどこなのか?・・・ということてす。言い換えれば、"砂の上に建てた家"ではなく、"岩の上に建てた家"になるために、私たちが行うべき『天の父の御旨』とは何かについてイエスが述べられた箇所は、一体、どこなのか・・・?    直観で探してみて下さい。

(6月26日 日曜日 23:00 更新)

 

イエスが伝えたかった『天の父なる神の御旨』、それは"マタイによる福音書5章43節~48節"にあるのではないか・・・と、私は想っています。

「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

つまり、"天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい"ということです。

これ以下でも、これ以上でもない・・・と、私は想うのです。

 

マタイによる福音書19章16節~22節には、ひとりの青年がイエスに近寄ってきて、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」と質問されたことが記されています。

この時、イエスは「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか」。「もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」と答えられました。

これを聞いた彼は、「どのいましめですか」と具体的にどの戒めのことなのかを問いただしました。

すると、イエスは『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』と答えられました。

青年は、すかさずイエスに言います、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。神の戒めをこれまで自分は守ってきたと思っているにもかかわらず、何かしら不完全さを感じていたのでした。

そこで、イエスは彼に言われました。「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう・・・」と。

実は、永遠の命を得るために必要なことは、神の戒めの一つ一つの条項を守ろうとすることによって完全をめざすということではなかったのです(ローマ人への手紙9章31節を参照)。"天の父が完全であるのと全く同じような意味での完全な人になる"ということだったのです(マタイによる福音書5章48節を参照)。

永遠の命を得るためのノウハウを訊ねてきたこの富める青年に対して、イエスは『天の父の御旨』を伝えようとされていたのですが、結局 彼は『天の父の御旨』に気づくことなく、悲しげに立ち去っていったのでした。『天の父の御旨』というのは、"天の父が完全であられるように、人も完全になること"と言えます。

人には、一体、どのような意味での完全さが求められているというのでしょうか?

ここがよく解らないと、イエスが説いている『救いに関する真理』というのは、なかなか見えてこないのです。イエスが説く『救い』は、実は、律法主義にも、信仰主義にも基づいてはいないのです。 

確かに、天国に入り損なうキリスト教信者は、主イエスに「不法を働く者どもよ、行ってしまえ」と言われますが、でも、神の律法の条項を一つ一つ厳格に守ることで完全をめざし、それによって救いを獲得しなさい・・・と、イエスが教えているわけではないのです。

また、ただ信じさえすれば救われるとか、あるいは、単に信仰告白をすれぱ救われるというような"信仰至上主義"を教えているわけでもなく、あるいは、何か良い行いをしさえすれば救いが確定する、あるいは、善行を積み上げていけば救いの確信が持てる・・・というような"律法主義"を教えようとしているのでもありません。

人に求められている『神の御旨に叶う完全』というのは、実は、"寛容という愛において完全になるということ"なのです(マタイによる福音書39章48節を参照)。

 

『救いに関する真理』を解き明かすもう一つのヒントは、主が言われた「あなたがたを全く知らない」という言葉にもあるように 私には想えます。では、これどういうことでしょうか?

・・・続く・・・(7月2日 土曜日 20:19 更新)(7月17日 日曜日 23:39 改訂更新)

 

ところで、「主よ、主よ、・・・」と主イエスの御名を唱え、神の御旨を実戦してきたと思い込んでいるキリスト教信者のことを 主ご自身が「全く知らない」ということが、本当にあるのでしょうか?

それはあり得ないと想います。主が言われるこの言葉は、裏を返して言えば、彼らこそが、実は、主のことをよく知らなかった・・・ということを意味していると考えられます。彼らは主に知られていたが、主イエスがどういう方であるかについて 彼らには知られていなかった・・・というわけです。彼らは主イエスを信じていたつもりになっていたが、実際には信じていなかった。彼らは主イエスのことをよく知っているつもりになっていたのに、実際には知らなかった、誤解していた、曲解していた、間違って捉えていた・・・そういうことなのです。つまり、彼らの心は覆われていて、その信仰の目には神が見えていなかったのです。

 

これと同じことを、実は、ヨブ記からも読み取ることができます。

ヨブ記の最後の章には、ヨブの3人の友人たちに対しての怒りが燃えたことが記されています(ヨブ記42章7節を参照)。3人の友人たちは、のことをよく知っていると思い込んでおり、試練の真っ只中で苦しんでいたヨブに“”がどういうものであるかをヨブに説き、それを根拠にヨブに罪ありとし、ヨブを責めたり、非難したりしていたわけです。ところが、実際には、3人の友人たち神ご自身を甚だしく誤解していたのです。だから、の怒りが燃えたのでした(ヨブ記42章7節を参照)。

でも、何故 ヨブがこのような悲惨な不幸・災い・苦難を経験しなければならないのかについて、友人たちと徹底的に論じていた頃までのヨブ理解は、友人たちが抱いていたものと比べて、そんなに大差はなかったと私は想います。

ところが、試練が消え去る直前に、ヨブに大きな転機が訪れたのです。ここが、とても重要なところなのです。実はここに、『救いの真理』を解く鍵が隠されているのです。

その鍵というのは、に向かって「はわたしの目であなたを拝見いたします」(ヨブ記42章5節)と語ったヨブの告白です。

つまり、試練に遭う以前、を信じ、の御旨に忠実に従っていたはずのヨブでさえ、神に対して目が開かれていなかったということなのです。おぼろげにしか、ヨブにはが見えていなかったということです。

そもそも、『信じる(信仰)』というのは、人の心の機能の一部です(ローマ人への手紙10章8~9節を参照)。肉眼では見えないような事実・真実・真理・本質・真髄などを見るというのが、心にある『信じるという機能』と言えます(ヘブル人への手紙11章1節を参照)。従って、心が何かによって覆われていると(これが、“目にある梁”とイエスが山上の説教の中で言っていたもの)、“肉眼で見ることができない”を信仰の目で見たり、捉えたりすることが出来なくなってしまうのです。その結果、を甚だしく誤解してしまうことになるのです。真実とはかけ離れたのイメージを抱くことになるのです。

ヨブの3人の友人たちも、もちろん、例外ではありませんでした。とはどんなお方なのか、とはどういうものなのかを彼らはよく知っていなかったにもかかわらず、“”をあ~だ、こうだと説いて、それによってヨブの側に“罪あり”として断罪したり、責めたりしていたのでした。つまり、3人の友人たちは、をさばき、ヨブをさばいていたのです。しかも、間違ったさばきをしていたのです。だからこそ、この3人の友人たちに向かって、の怒りが燃えたのです。

でもここで、大きな疑問が残ります。ヨブ自身も目が開かれる前までは(友人たちと論争していた最中においても)、ずーっとを正しく捉えてはいませんでした。ところが、ヨブに対してはの怒りは燃えませんでした。一体、何故だと想いますか?  とても不思議に想えますよね。一見、矛盾しているというか、がヨにえこひいきでもしているかのように感じますよね。

皆さんは、このことについて どう想いますか?

その答えは、実は、(=完全な寛容の愛)にあるのです。このについてイエスは山上の説教の中で説いていたのです(マタイによる福音書5章43節~46節を参照)。

ヨブは「わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。」(ヨブ記42章5節を参照)と告白しました。つまり、ヨブは“過去”にはが見えていなかったけれども、“今は”目が開かれてが見えていたのです。というのは、人の“過去”というフィルターを通してその人の今を見るのではなく、その人の過去のデータや情報を切り離して“今、あるがままの”その人を認め、見るのです。寛容の愛は、“過去”のことは過ぎ去ったものとしてリセットして、その人の“今、この瞬間”を見ることができるのです。だからこそ、は、すなわち、『ゆるしの愛』でもあるのです。人を救う“イエス十字架での死とよみがえりの福音”が、「イエスによる罪のゆるしの福音」(使徒行伝13章38節)とも呼ばれる由縁です。

完全な寛容という愛”は、同時に、“ゆるしの愛“でもあり、それは“過去”を引きずらないで、“過去”にこだわらないで、“過去”にとらわれないで、純粋に“今というこの瞬間”におけるその人をあるがまま認めて、受容していくのです。だからこそ、の怒りはヨブの3人の友人たちには燃えたが、ヨブに対しては燃えなかったのです。

(7月10日 日曜日 19:01 更新) (7月18日 月曜日 3:31 増補更新)


イエスの血による契約、すなわち、『新しい契約』において特徴、ユニークな点として注目すべきことは、「もはや、彼らの罪と彼らの不法とを思い出すことはしない」(ヘブル人への手紙10章17節)と述べられていることです。つまり、これは 主イエスの『新しい契約』の祝福・恵みに実際に与っている人たちをが見られた時に、彼らのうちに罪や不法をは認めることができないということを意味します。それでは、山上の説教の中で主イエスが「あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ」(マタイによる福音書7章23節)と言われて、天国から閉め出されてしまう“キリスト教信者たち”のことが述べられていますが、何故、そのように言われてしまうのでしょうか?

それは、彼らがヨブ記42章に描かれているようなヨブの3人の友人たちのタイプだからです。過去も、そして、今でもまだがよく見えていないのです。がどのようなものであるかも知らないのです。彼らの心の目の前には“”が存在していて、信仰という目の視界を妨げているのです。その証拠に、彼らは天国に入れないことを知ると、“一見、神の御旨にかなった行いのように思えるような”過去に実際にやってきた自分たちの行いをリストアップしていくのです。それによって、自分たちが天国に入る資格があるかのように、主に訴えるのです(マタイによる福音書7章22節を参照)。「愛は・・・自分の利益を求めない」(コリント人への第1の手紙13章4~5節)はずなのに、彼らがこれまでおこなってきた善行の一つ一つが、あたかも『天国に入るための投資である』かのように勘違いをして、自らの救いにおいて利益になると思いながらやっていたことを、主イエスの前で、自分の方から暴露してしまうのです。つまり、彼らは信仰の目は“梁”でブロックされていて、神をあるがまま見ることができなかったのです。従って、神の愛が完全無欠の寛容の愛であり、ゆるしの愛であることも知らなかったということなのです。

心の目から"梁"が取り除かれて、神をあるがまま認め、この『神のさばかない完全無欠の寛容の愛』に気づくこと、知ることがとても重要なのです。

真実の神の愛がわかった時、その人の目の前にはイエスが説かれた『救いの道』が開かれているのです。

(7月18日 月曜日21:44 更新) 

     *        *       *          

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6月19日〈日〉7:17 更新 『イエスが説いた道』

2016年06月19日 07時17分40秒 | 徒然なるままに


イエスが説いた道



久しぶりのブログの更新となります。

 

長年にわたって聖書を読み、研究・探究してきてみて、聖書の教え、あるいは、イエスの教えの中で最も重要なものは、さばかない」ということの実践にある・・・・これこそが、私が最終的に辿り着いた結論でした。


これこそが聖書を解く鍵ではないか・・・と、私は観ています。この鍵を使うと、聖書の中にある罪の本質はどこにあるのかということも、また、救いに関する真理も見えてきてしまうのです。

 

この一点が見失われてしまう時に、これが盲点になってしまう時に、これが軽んじられてしまう時に、これが実践されない時に、たとえどんなに素晴らしい真理や教えがあったとしても、それらは無に帰してしまう、これまで築き上げてきたものがすべて崩壊していってしまう(マタイによる福音書7章26節~27節を参照)。そのように私は想えてならないのです。


イエスが説いた教えを集約していった時に、山上の説教の中でも明確に説かれた「さばくな」というの教えに絞り込むことができる・・・と、私は観ている。“信じる”とか、“祈る”とかということではなく、「さばくな」ということです。


信じる”ということも、“祈る”ということも、実は、さばかない」という実践があってこそ、はじめて成立するものだからです。


私は、現在、“キリスト教という宗教”自体には特にこだわってはおりません。とは言っても、それを否定するということではありません。私はイエスがじかに説いた教えに回帰したいのです。一切のノイズをクリアーして、イエスが説いた教えそのものに直接耳を傾けていく・・・・それが、今の私のスタンスなのです。『キリスト教という宗教』という枠組み内に“とどまる”ということではなくて、むしろ、そこから“卒業していく”、“超越していく”という感じと言えます。


ここで、キリスト教に現在籍を置いている人たちに、そこから離れなさいとか、籍を抜きなさい・・・と、私は勧めているわけではありません。心の面において、『キリスト教という宗教』に対するこだわり囚われ執着などから、自分の想いを解放していくこと、自由にしていくことが大切なのではないかということです。(これが「自分の目から梁を取りのける」(マタイによる福音書7章5節)ということなのです。) そして、これまでの先入観や偏見、教え込まれてきたこと、洗脳、ノイズから解放された状態で、キリスト教の経典である聖書、その中でイエスが直に説いた教えを観ていく、捉え直していく、俯瞰していく。その時にやがて、その中に“宗教という枠組み”を超えた、『普遍的な真理』が輝いて見えてくるのではないでしょうか? また、“真実の栄光”がその人の心鏡に映し出されてくるのではないでしょうか?


私が書いているこのブログの目的は、もちろん、いわゆる『キリスト教の伝統的な教え』に関する情報を皆さんに提供することではありません。イエスの口から語られた“人が人として生きるべき道”は『さばかないという生き方』にある・・・ということを、私はお伝えしたいのです。そのために、『さばかない』とはどういうことなのか、その反対の『さばく』とはどういうことなのかについても、私なりに皆さんに情報提供をしているというわけです。

6月11日〈土〉23:50 更新



信じる(信仰)とは?


信仰(=信じること)とは、肉眼では見ることのできない事実を確認し、捉えることです(ヘブル11章1節を参照)。


霊的に盲目であるということは、“盲信”以外の何ものでもありません。 信仰が正常に働くためには、霊的な目がはっきり見えていなければなりません(マタイによる福音書6章22節23節を参照)。そのことをイエスは、自分の目からを取りのけなさい・・・と言われたのでしたマタイによる福音書7章5節を参照


では、信仰の目からこのを取り除いて、視界をクリアーするにはどうすればいいのでしょうか? そのことに対するイエスの答えが、『さばくな』ということだったのですマタイによる福音書7章1節を参照


これまで、意識的に、あるいは、無意識的に さばいていた人が『さばくこと』をキッパリとやめる時に、その人の目に立ちはだかっていたが崩壊していくのであり、その結果、信仰の目が開け、ハッキリと見えるようになっていくわけです。 このことからもわかるように、信じるということは、『さばかないこと』によって初めて可能となるのです。



祈るということ


では、真に祈るためには、何が重要になってくるのでしょうか?


山上の説教の中で“祈り”について、イエスが解説したことをよくよく観れば、その答えが自ずと解ってきます。


それは何かと言うと、『ゆるす』ということです(マタイによる福音書6章12節、14節~15節を参照)。


ゆるす』とは、一体、どういうことでしょうか? それは、“過ぎ去ってしまったこと”に、こだわらないこと、固執しないこと、執着しないこと、囚われないことです。過去に起ったことを手放すということ。“過去のこと”に対する個人的な思い入れや思い込みを“今、この瞬間”まで引きずらないことです。過去と切り離して、“今というこの瞬間、瞬間”を生きるということです。それは、別の言葉でいうと、マインドで『さばかないこと』を意味しているのです。


以上からわかるように、真の祈りにおいて、『さばかないということ』が大前提になっている、とても重要になってくるというわけです。


聖書の中でイエスが説いた数々の教えの背後には、『さばくな』という普遍的な真理が脈々と息づいていることがよくわかります。何故、イエスはこういうことを語ったのかな・・・と、ちょっと首を傾けたくなるような場合でも、よくよく観ていった時に、やはり、そこには『さばくな』という真理が見え隠れしていることがわかります。


さばくな』という真理の光を当てながら、聖書を読み返していく時に、これまで見えてこなかった大切なメッセージを読み取ることも可能になってくることでしょう。聖書の探究は、目からウロコが取れ、感動の連続になってきます。これまでなぜ自分は、このことに気づかなかったんだろう・・・と。

6月12日〈日〉23:00 更新) 



さて、次回のブログの予告です。

 山上の説教の最後の方でイエスが語られたことに注目を向けてみたいと想います。イエスを長い間信じ、神の御旨をおこなってきたと思っていた立派な信者たちの多くが「あなたがたを全く知らない。出て行け」と主に言われて、結局、天国から閉め出されてしまうという場面です。

コリント人への第一の手紙の中で、使徒パウロはイエスの福音によって救われると確かに書いています。この福音を′信じている′多くのキリスト教信者が、理論上、救われるはずなのですが、実際にはそういうことにはならない・・・と、イエスは言われるのです。

では、山上の説教の中で描かれている『天国から閉め出されてしまう不幸な信者たちの悲劇』は、イエスの福音による救いという観点から、どう説明がつくのでしょうか?

次回のブログでは、このような深遠なテーマに挑んでみたいと想っているわけです。それによって、イエスの福音とは、一体、何なのかという、いわば聖書の中で説かれている『福音の真理の核心』に迫っていこうと考えているのです。

もちろん、′イエス・キリストを信じさえすれば救われる′・・・などと言った表面的なことを私は書こうとしているのではありません。イエスが教えようとしていた『救い』というのは、実は、こういうことだったのか・・・福音書の中でイエスが語っていた様々なことは、一つの大事なことを指し示していたのか・・・目からウロコが取れた、これでようやく腑に落ちた、合点がいった・・・そんな皆さんのサプライズ、感動に繋がっていければ・・・と想いつつ、次回のブログを書き進めたいと考えているのです。

どうか続くブログも、お楽しみに・・・。

(6月19日 日曜日 7:17 更新)


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8/1に最終更新: ブログ(101) 『ゼロ学占い』 と 私

2015年08月01日 20時51分18秒 | 徒然なるままに

ブログ(101) “ゼロ学占い” と 私


ところで、私が以前 勤務していた会社の社長が一時、“ゼロ学占い”というものに凝っていて、会社の将来についてとか、どのようなタイミングでどのような行動を取るべきかなど、その筋の専門の人に時々占ってもらったりしていたことを覚えています。


そういうこともあって、その当時、私も“ゼロ学占”というものにちょっと関心を持ち、本当かどうか自分なりに客観的に確かめてみようと想い、本を5~6冊ほど買って、調べたりしたことがありました。特に、私は“ゼロ学占い”から観た“人の性格や考え方や生き方などの特徴や傾向”というものに興味がありました。

 

このゼロ学占い視点から観ていった時に、私自身も、私の家内も、子ども達も結構当てはまっていたのでした。


もちろん、100%すべての人に当てはまるということはないのではないか・・・と、私は個人的には考えています。以前、勤務していた職場の事務の女性のケースでは、ほとんど当てはまっていないなぁ・・・と感じました。もちろん、それなりに理由があるとは想いますが。でも、ゼロ学占い”の本で書いてある通りのそのままの性格、生き方をしているような人もまた現実に存在していたのです。


ゼロ学占い”の本を観ていて素晴らしいと私が個人的に想ったことは、人が生まれながらにして持っている運命的な性格がわかった時に、悲観的になったり、あきらめたりするというのではなく、そういう性格だからこそ、その人はどのような点に気を付けていったら、運命が好転していくのか・・・というアドバイスも記されている点です。


私の場合、ゼロ学占いでは“用心深く、何でも心に決めて納得してからスタートするタイプ”、“わき上がってくる感情を常に理性でコントロールし、衝動や欲望から行動することは、まずありません”、“緻密な思考をするという特性”、“なにかにつけ頭脳を働かせずにはいられない”、“不測の事態に直面しても、慌てることなく「なぜそうなったのか」「次にどうすべきか」と冷静に対処しようとします。・・・考えることが苦にならない星。というより、何事もじっくり考えずにはいられない性分”、“芯が強く、逆境にめげないのも・・・長所”、“我慢することが人生”、“もっとも得意とするところは我慢することです”、“障害が高ければ高いほど、「よーし、頑張るぞ」と張り切っているようにも見えます”、“最も忍耐力と体力に優れた星”、“というようなことが書かれていました。 そして、私が分類されるような星に属する人の場合では、“問題は、考えすぎて、ささいなことをクヨクヨ悩んだり、自分のなかで「こうだ」と思い込むと、臨機応変に対応ができず、なかなか軌道修正がきかないところ”、“さまざまな角度から見て、「これもありだな」と受け入れる柔軟性を身につけることも大切です”、“・・・その場の状況や環境応じて臨機応変に対応する判断力や柔軟性も必要”というアドバイスが書いてあるのです山本令菜著 『金運をつかむための0学占い』・『0学占い-運気をつかんで愛とお金を引きよせる』、御射山令元著 『もっともわかりやすい0学占術』)。

 

このようなアドバイスを観て、私にはピンとくるものがあったのでした。


振り返って観ると、私はこれまで聖書を探究してきて、私の関心と興味が向けられていた箇所というのは、旧約聖書では『ヨブ記』、新約聖書では福音書の中にある“イエスの山上の説教”でした。これらの研究を含む私の長年にわたる一連の聖書研究をして到達したというか、観えてきたというか、結局のところイエスの教えの核心はこれなんだな・・・と、ようやく私の目が開かれて気づいたことというのは、なんと“ゼロ学”の本にあったこのアドバイスと不思議なことに一致していたのでした。


物事を一面からだけから、一方向からだけから観たり、捉えたりするのではなく、あるいは、自分が現時点で持っている知識、情報、既成概念だけに照らして物事を決めつけたり、断定したり、最終的な結論を出すのではなくて、様々な角度や方向から観ていく、いろんな次元から光を照らして観ていく、今すぐ最終結論を出すのではなく、今後さらにいろんな情報を収集してから観なおしていく心の余裕、広さ、許容量を持つことこそが、実は、全ての人にとっても大事なことなのではないか・・・と、私は想うのです。


自分の人生の中で遭遇する現実、現象、事象、状況、環境、人間模様、人間関係などをじっくりと、よ~く観ていく、さばくことをしないで、早急な結論を下さないで、心に受け留めていく・・・。


大事なことは、自分の心の目にかかっている“”(=覆い、ブロックしているもの)を一つ一つ取り除いていくこと。“梁”を取り除いていくという心の作業を実践しながら、さらにまたじっくりと観ていく。幅広い情報を収集したり、触れたりしていく。“大海を知らない井の中の蛙”にならないこと。これが、当ブログで提唱している“イエス-道”の生き方のスタンスと言えるのです。


よく、ヨブ記というものを、“神の義 VS 自己義”、“神を信ずる者の忍耐の大切さや美徳”、“どのようなことが起ころうとも、信仰を全うしていくことの重要性”などといった観点から捉えようとする傾向が一般的にあるように想えます。


でも、私自身は、今や、そのような観かたをしていません。むしろ、これまでの“常識”、“既成概念”、“固定観念”、“伝統的な教えや解釈”などに囚われないこと、“自分の中に蓄積されている微々たる情報や知識”を基準にして 全てのことを決めつけたりしないことの大切を説いている書こそが、ヨブ記なのではないか・・・と、私は考えているのです。人というものは、“常識”や“既成概念”や“固定観念”などといった偏った情報狭小な情報に照らして、さばいているものなのです。そのようにさばいている間は、物事の本質や神髄は観えてこないし、本当の答えというのはなかなか見つからないものです。


イエスが山上の説教で説いたように、『さばかない』ことをヨブが実践していったことが、ヨブの人生に生じた試練そのものの解決に繋がったのではないか・・・と、私は観ています。心の目の前をブロックして視界を妨げている“”を取り除くことこそが何よりも大切なことなのです。これこそが、“目をさましていなさい”とイエスが語った霊的覚醒なのであり、悟りであり、気づきなのです。


さばかないこと』、それは言い換えれば、善-悪、好き-嫌い、損-得などといった相対的な捉え方をしないこと、二元論的な観かたをしないこと、何かと比べてそのものの価値を断定しないことでもあります。自分と違うからダメだと想うのではなく、違いは違いとしてあるがまま受け留めていく懐の深さ、許容量の広さ、つまり、寛容の愛をもって全てを観て、受容していくという生き方のスタンスこそが『さばかないこと』を意味しているわけです。


ヨブ記の中でヨブの人生そのものを観ていくと『忍耐の人』としばしば呼ばれるヨブは、(あくまでも私の想像なのですが) もしかしたら私と同じ生まれ星の基本的性格を持っていたのではないか、私の思考パターンと似ているのではないか、・・・と、私には想えてならないのです。先ほども引用した“ゼロ学”が私の生まれ星の特徴を言っていること、つまり、“不測の事態に直面しても、慌てることなく「なぜそうなったのか」「次にどうすべきか」と冷静に対処しようとします。・・・考えることが苦にならない星。というより、何事もじっくり考えずにはいられない性分”、“芯が強く、逆境にめげないのも・・・長所”、“我慢することが人生”、“もっとも得意とするところは我慢することです”“障害が高ければ高いほど、「よーし、頑張るぞ」と張り切っているようにも見えます”、“最も忍耐力と体力に優れた星”というのは、まさに試練の中にいたヨブの生きざまを観ていくと、なるほどと納得してしまいます。


ヨブは、試練の真っ只中にあって、遠方からはるばるやって来た3人の友人たちと論争(=意見交換)をしながら真剣に考えたのではないかと想います、自分のこれまでの生き方はどうだったのか、自分の人生の意義はどこにあるのか、なぜ自分の人生の中で過酷な試練が生じたのか、どうしたら自分はこの試練から救われることができるのだろうか・・・などについて。(この箇所は、7月31日に補足更新)


試練の中で苦しんでいたヨブに向かって、なんと彼の妻は「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。をのろって死になさい」(ヨブ記2章9節)と言い放ったのでした。それでも、ヨブは軽率な言動を取ることはしなかったのでした。ヨブはずーっと考えていましたが、なぜ自分の人生の中でこのような“むごい試練、逆境、不幸、災い”が起こってしまったかというその理由がなかなか理解できませんでした。確かに絶望をいうものを経験し、それを認めながらも、ヨブは「わたしは絶望だ。しかしなおわたしはわたしの道を彼の前に守り抜こう。これこそわたしの救いとなる。を信じない者は、の前に出ることができないからだ」(ヨブ記13章15節~16節)と語ったのでした。


ここでヨブは「わたしの道を・・・守り抜こう」と言っていますが、もしヨブがこれまでの人生を生きてきた“わたしの道”を最後の最後まで守り抜いていたとしたら、おそらくヨブが生きている間には試練は消え去ることはなかったのではないか・・・と、私は推測するのです。


ヨブは“わたしの道”にトコトンこだわり続けていっても、そこには試練の解決に繋がるような答えは見つからないことに、やがて、気づき始めることになるのです。そうです、ヨブはまさに“さまざまな角度から見て、「これもありだな」と受け入れる柔軟性を身につけることが必要だったのです。


そして、ヨブは次にように語ったのでした、「しかし知恵はどこに見いだされるか。悟りのある所はどこか。人はそこに至る道を知らない。・・・・それでは知恵はどこから来るのか。悟りのある所はどこか。これはすべての生き物の目に隠され、空の鳥にも隠されている。滅びも死も言う、『われわれはそのうわさを耳に聞いただけだ』。これに至る道を悟っておられる。彼はそのある所を知っておられる。彼は地の果までもみそなわし、天が下を見きわめられるからだ」(ヨブ記28章12節~24節)と。


つまり、ここに至って、ヨブは自分に与えられた課題(=試練)の謎を解き明かし、根本的な解決をもたらすであろう知恵や悟りに至る道』にシフトしていくことになるのです。つまり、ヨブがこれまでの自分の人生の中でこだわり続けて、生きてきた『わたしの道』(たとえかつてはそれがサタンに「あなたは、わたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」(ヨブ記2章3節と言っていた時に生きていた道であったとしても)にこだわり、固執することをやめて、それから解放されて、知恵や悟りに至る道に移行していったということなのです。


実は、この『知恵や悟りに至る道』というのが、まさに『イエス-道』そのものなのであり、さばかずにすべてを受け留めて、生きてい”ということなのではないか・・と、私は観ているのです。


新約聖書のコロサイ人への手紙2章2節~3節には、「豊かな理解力を十分に与えられ、神の奥義なるキリストを知るに至る・・・。キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。」と記されています。この“知恵と知識との宝”を見い出す道というのが、『イエス-道』、すなわち、“さばかないで生きていく”というイエスの教えにあるのです。


ヨブの『わたしの道』というのは、善を追い求めるために、悪から遠ざかるという生き方だったのでした。つまり、善悪の固定観念の中で、の前で正しく生きていこうとする生き様、生きるスタンスというものをヨブがずーっと長い間持ってきたわけです。ところが、そのような過去の生き方をガラリと変えて、ヨブは『イエス-道』を実践していくことにシフトしていったというわけです。すなわち、善と悪を対比させない発想で、つまり、心を善にも悪にも偏らないで、ニュートラルの状態へともっていったというわけです。このようなニュートラルな心の状態で物事を観ていく、捉えていくというのが、イエスが山上の説教において説いた『さばくな』、『ジャッジするな』ということであり、『寛容の愛に生きる』ということなのです。


ヨブは、これまで歩んできた『わたしの道』にいつまでもしがみついていてはならなかったのです。そこを途中経過として、さらにそこからステップアップして、進化成長を遂げることが必要だったのです。善悪の固定観念、相対的に物事を捉えていく癖、二元論的な発想などというものに、これまでこの世のほとんどの人々の心が囚われてきました。もちろん、キリスト教という宗教においても、しかりです。これが“さばく”ということの根底にあるものなのです。物事を偏って観ないこと、心をニュートラルな状態にしてあるがまま観ていくこと、一定の基準を設けて、それに照らして物事の価値や好き嫌いや損得や善悪などを決めつけないこと、それがイエスが山上の説教の中で説いた『さばくな』ということなのです。このような寛容さの中にこそ、神のの原点があるのだ・・・と、イエスは言いたかったのではないでしょうか。“さばかない寛容の愛”の中で、すべてを観ていく、捉えていく、受容していく、生きていくというのが、すなわち、『イエス-道』の極意なのです。ヨブという人は、これまで長い間生きてきた自らの人生を生きてきた『わたしの道』から、この『イエス-道』へと大きくハンドルを切って軌道修正した・・・ということを、ヨブ記から私は観て取ったわけです。


ヨブの人生の中で続いていた試練が消え去っていく直前に、ヨブの心境において生じたそのような大きな変化、すなわち、に対するヨブの観かたや試練の捉え方がこれまでとガラッと変わった状況が私にも何となくわかるような気がするのです。「あなたもそのことに気づいたんだね・・・」と、もしヨブがそばにいたら、きっと私は思わず声を語りかけたくなると想います。


ヨブの人生の中で起った試練というものは、ヨブが後になって振り返って観たら、決して善悪の固定観念の中で捉えるべきものなのではなかったということ、むしろ、自分自身を“確固とした人間”として自立させるため、進化成長させるため・・・という大事な役割があったということに気づいたのではないか・・・と私は想うのです。  


ヨブ記を読み解こうとする時に、しばしば“神の義 vs ヨブの自己義”という視点から捉えようとする場合があります。でも、私は個人的にはヨブ記というのは、当ブログですでに書いたように “イエス-道 vs ヨブの「わたしの道」” という視点から観ていった方がもっと解りやすいのではないか・・・と想っています。このような観点から捉えて、私たちが自らの人生の中で出会う様々な出来事、現象、現実、トラブル、課題などに実際に応用していく時に、それらのことに押し潰されることもなく、行き詰ることもなく、もしろ、それらを乗り越えていける、超越していける、不思議な方法で道が開けていくようになるのではないか・・・と、想うのです。 

 

聖書を神の言葉として信じ受け入れ、イエスに対する信仰や信条を真面目に守っていくというキリスト教徒は多いかも知れませんが(もちろん、そのこと自体を私は否定するつもりはありませんが)、イエスが山上の説教の中で説いた核心的な教えである「さばくな」という“神にある寛容の愛を生きる”という普遍的、かつ、重要な教えを自分自身の人生の中で遭遇する出来事、現実、現象、課題、問題などの一つ一つに応用していく、活用していく、実践していく、生かしていくということ、すなわち、『イエス-道』を生きるということは最も大切なことではなのではないか・・・、そこに人間として自らの人生を生きていくことの醍醐味、生き甲斐というものがあるのではないか・・・、そうすることによって(依存的な人間ではなくて)確固とした人間として進化成長を遂げていく道が開かれていくのではないか・・・、と私は強く感じるのです(マタイによる福音書7章24節~27節を参照)。心にかかっていた覆い(=目の前の“梁”)が取り除かれて、これまで長く見失われてきた“ヨブ記における隠れた真理”の輝きが観えてくると、そのことに気づかされることになるのです。


(7月22日 水曜日に更新)(7月24日 金曜日に更新)(8月1日 土曜日に更新) (7月27日 月曜日に更新)(7月28日 火曜日に補足して更新)(7月29日 水曜日に増補更新) (7月30日 木曜日に増補更新)(7月31日 金曜日に更新8月1日 土曜日 20:51 最終更新


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ブログ(99) 私事になりますが(私が体験していること)・・・(7/20 月曜日 夜に更新)

2015年07月20日 22時36分19秒 | 徒然なるままに

ブログ(99) 私事になりますが(私が体験していること)・・・ 



(これは、ブログ98からの続きです) 

願書を郵送してから数日後に、先方から私のスマホに電話が入り、面接することになりました。そして、その面接の場で採用が決まったのでした。そして、10日後からその新しい職場での勤務がスタートしたわけです。


自分にとってベストな職場を・・・という私の想いをハイパー宇宙ネットワークのメンバー達に発信した結果、答えられた就職先で私は働くことになったというわけなのですが・・・。


ここで、ちょっとまた皆さんと考えてみたいことがあります。


それは、高次元の存在や意識が考える“ベスト”と、私たち人間が一般的に考える“ベスト”というものが、ズレている場合があるということ。


皆さんの中で、桜井識子さんの『ひっそりスピリチュアルしています』という本を読まれた方もおられると想います。この本の中で、彼女はとても重要なメッセージを書いている・・・と、私は想っています。まだの方は、ぜひ169ページ171ページをじっくりと読んでみて下さい。


一般的に人間が期待すること、望んでいる事というのは、“楽な生き方、安逸な生活”というものかも知れません。だから、人が“神頼み”する時に、試練や苦しみ、悩みから自分を救ってくれるように、あるいは、目の前の問題が解決するようにと“神頼み”をすることが多いのではないかと想います。もちろん、そういうことを望む事自体が良くないことだ・・・と言うつもりは毛頭ありません。それはそれでいいと想います。


ただ、私がここで皆さんに言いたいことは、桜井識子さんの言葉を借りていえば、「この唯一神から見て、何よりも大事なことは、“魂の成長”、“霊格の向上”です。この人はこの部分を直せばもっと霊格が上がる、と思われたら、そこが直るような出来事を起こします。・・・出来事が起こった時、本人はつらい目に遭うのですが、“格段に霊格が向上する”方が大事なので、実行されます。・・・そういう目に遭うからこそ、人は深く考えることをし、いろいろなことに気づき、悟り、霊格が向上するのです。平坦な道を歩くような、何もない人生は、うっかりするとそのままで終わってしまいます。そして、つらい出来事が一段落して後から考えると、自分の良くなかった部分が直され、霊格が大きく向上しているのがちゃんとわかります。自分では直すことが出来ない部分、考え方、そういうものを矯正してくれるのです。それはこの唯一神しか出来ないことなのです。『深くあふれる愛情』=『何もトラブルがない人生にしてあげる』ではありません。・・・」(桜井識子著 ひっそりスピリチュアルしています』 p.169~170から引用)ということなのです。


聖書を読んだことがある方は、きっと以下に引用する聖句が想い起されると想います。

主は愛する者を訓練し、・・・。すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。」(ヘブル人への手紙12章6節~11節


私が、日頃“オーリングメンター”を通してコミュニケーションを取っていると言いますか、リンクさせていただいているといいますか、そのような対象であるハイパー宇宙ネットワークのメンバー達というのは、様々な個性も能力も、観かたも違うような高次元の存在や意識です。現時点では、220名にも増えていますが、この中には、もちろん唯一無二の絶対神も含まれています。そして、私は少数の特定の存在や意識に限定して、意見や判断を聴くのではなく、220名にものぼるメンバー達の意見を包括し、総合的な判断を導き出して聴いてきたというわけです。そのようにして、私はこれまで勤めてきた職場を去るベストなタイミングがいつなのかということも何年間にもわたって調べてきましたし、次に、私がどのような職場で働くのが私自身にとってベストなのかということを時間をかけて相談し、また、その都度必要な行動を取ってきたというわけなのです。


その結果、私が現在勤務しているという職場は、はたしてどんな職場だと想像しますか? 私にとって“ベスト”な職場というのは、どういう状況だったと皆さんは想像しますか?

7月7日 火曜日 22:34に更新


実は、当の私自身、実際にそこで働いてみて驚いたのでした。私が期待していたような“楽な職場”ではなかったのでした。これまで働いてきた職場も、しばしば一日中ずーっと神経を張りつめて、集中力を持続させていかないとならない状況で、この世の一般人が昼食を食べる時間に昼食を食べれることはめったになく、夕食を食べるような時間になってようやく昼食を食べるということが当たり前でした。食事の時間も不規則で、さらに寝るのも不規則で、この世の一般的な人たちの平均的な睡眠時間も取れませんでした。実質的な睡眠時間が3~4時間というのも日常茶飯事でした。しまいには職場で椅子にもたれ掛かって仮眠する時間の方が、家で横になって寝る時間よりも多くなっていきました。残業も、“フリー残業”でした。働いた時間に見合った収入が手元に入るというわけでもありませんでした。


ここで皆さんに私の不満を聞いてもらおうと、私が考えているわけではありません。いろんな状況、環境、人生があり、人それぞれ違う課題が与えられているということだけ心に留めていただきたいのです。自分に与えられた“大変な状況、環境、人生”といったものをいかに受け留め、観ていくか、捉えていくかは、実は、その当事者次第、当事者の自由なのです。


イエス‐道』における生きる道、生き方の本質というのは、自分をも、他者をも、自分に与えられた環境・境遇・状況なども“さばかずに”受け留めていく、あるがまま観ていく、包み込むように受容していく・・・というところにあるのではないか・・・と、私は想っているのです。つまり、二元論的な観かた、捉え方をしないということでもあります。善・悪の固定観念で観ない、損・得勘定で捉えない、好き・嫌いで判断しない、幸・不幸で人生を観ない、・・・といことでもあります。自分の中に蓄積された“既成概念という過去データ”に照らして物事の良し悪しを決めつけないということでもあります。


私が職場で経験している大変な状況、環境、境遇を“さばいて”、不平不満や文句を経営者にぶつけたとしても、私が進化成長を遂げることはなかったと想います。ただ私は、現状を客観的に伝えることだけをしました。もちろん、経営者の方は少しでも私の仕事の負担を軽くしてあげようと、彼が可能な範囲で具体的にやってくれたことはあります。でも、それは残念ながら“焼け石に水”という状況でした。


必要なことは、“今の状況”を否定して嫌がったり、怒ったり、憎んだり、失望したり、恨んだり、避けたり、逃げたりするのではなく、“今の状況”の下で自分を進化成長させることはできないだろうか・・・と受け留めていくこと、許容していくこと、受容していくことではないだろうか。そんなふうに私は観るのです。ぬくぬくとした温室のような環境や状況では、人は進化成長を遂げることは難しいと言われています。むしろ、人の能力の限界を試されるような“課題”、“問題”が与えられたり、壁にぶつかったりした時に、これまでの“既成概念という枠組み”から解放されて、新たな能力に目覚めたり、自分でも気づかなたった能力を伸ばしていったりして、人は進化成長を遂げていくチャンスを掴みやすいのではないか・・・と想うのです。


私が転職した職場というのは、これまでの職場とは全く対照的な職場だったのでした。これまでの職場とは、全く違う意味で大変な職場でありました。同じ資格をもって働く職場でも、こんなにも仕事内容が違うものなのか・・・と、私は驚きました。まさに社会人1年生になったような感じです。覚えなければならないことが、それはそれは沢山あったのです。よく言えば安全管理が徹底されているといいますか、こまごましたマニュアル、規則、ルールというものが一杯あるのです。私にとって最も苦手な分野で働いていくということが、これからも次の私の仕事になったのでした。 7月13日 月曜日 22:06に更新 


このように書いてくると、聖書の以下の聖句が想い起されます。


それゆえ、主の言葉は彼らに、教訓に教訓、教訓に教訓、規則に規則、規則に規則、ここにも少し、そこにも少しとなる。これは彼らが行って、うしろに倒れ、破られ、わなにかけられ、捕えられるためである。」(イザヤ書28章13節;口語訳聖書


職場での毎日、毎日の私の行動の“一挙手一投足”が、これはこうだ、あれはあ~だ・・・と注意と指導が入ってくるわけです。自分のやり方、自分がやりやすいように、自分の能力に合わせて徐々に覚えていくとか慣れていくというようなことも許されないわけです。決められた通りの手順で仕事をこなしていくこと、最も効率よくやっていくこと、スピーディーにテキパキとやっていくこと、間違わずに正確にやっていくこと、教えられた通りにやっていくことなどが強く求められる・・・、そういう職場なのです。


どちらかというと、これまで私は自分の能力に応じて、自分が最もやりやすい方法で、自分が納得のいくやり方で仕事をやってきたという感じでしたし、実際に、そういうことが可能な職場、融通がきくような職場でありました。


ところが、私の新たな勤務先というのは、それとは全く正反対の管理型社会そのものだったのでした。決められたルールに則って効率よくやっていくことが求められるそんな職場だったのです。私にとっては、最も苦手、不得手、できたら避けたいところ、それが私にとっての“ベストな職場”というのが、“ハイパー宇宙ネットワークのメンバー達”からの回答だったのでした。私自身のさらなる進化成長とっては、“ベストな環境”なのでしょう・・・。


ここで、使徒ペテロが書いた聖句も想い出されてきます。


・・・今しばらくのあいだは、さまざまな試練で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりも尊いことが明らかにされ・・・」(ペテロの第1の手紙1章5節~7節;口語訳聖書


また、これまで私が働いてきた職場では、私が最も快適に仕事ができるようにクーラーやストーブを使って温度調整ができましたが、今の職場では私には暑過ぎて、汗だくになって働いています。毎日、かなりの発汗があります。発汗といっても、今述べたような暑いための発汗だけではありません。緊張とストレスとハラハラくる“冷や汗”による発汗も結構あるのです。交感神経の興奮からくる発汗作用というわけです。これほどまでに汗をかいて、もし水を飲まなかったら、私はきっと脱水症状で体調を崩すことになると想います。


でも、ラッキーなことにこの職場に勤める数週間前に、私は“良い水”にちょうどいいタイミングで出会ったのでした。どのようにして私がその水を知ったか、そして、それはどのような水なのかと申しますと・・・・ 7月16日 木曜日 22:52に更新


近くの書店に行った時に、私の目に入った本の中に 『体をつくる水、壊す水』(藤田紘一郎 、ワニブックスPLUS新書)がありました。この本の中で幾つかの水が紹介されていたのでした。そして、その中でまず私の関心を引いた水(=宮崎県小林市で採水した北霧島山系のシリカ水、“iNochi PREMIUM”)をインターネットで取りあえず注文して手に入れて、2~3日間飲んでみました。その後、私はオーリングメンターを通して“ハイパー宇宙ネットワークのメンバー達”の総合的な判断を聞いてみたのです。すると、ハッキリとOKサインが出たのでした。もちろん、スーパーに行けば、いろんな種類の日本産のボトルウォーター、外国産のボトルウォーターが売られています。でも、ハイパー宇宙ネットワークのメンバー達”の視点からエネルギーレベルでチェックしてもらうと、なかなかOKとなる水がこれまでになかったのでした。そして、今回ようやく“これだったら大丈夫だよ”という水に出会い、それがこの北霧島山系の中硬水でシリカ(=ケイ素)が豊富に溶け込んでいる水である“iNochi PREMIUM”だったのです。


どの水が自分の体にとってベストなのかということは、水の販売元や本の紹介された内容だけでは、なかなかわからないものです。そこで言われていることを信じるか信じないかの世界になってしまうのが落ちです。同様に、たとえどんな高価な健康食品であっても、広告にある通りに、あるいは、書かれている他人の体験談通りに、はたして自分にもそれが当てはまるかどうかを正しく判断することは一般的にはかなり難しいものです。


従って、私は販売元や製造元の広告とか、あるいは、本の紹介文の内容を一応、参考程度にまずは観ることにしています。そして、その説明に納得がいったものの中から“これは・・・”と思うものがあれば、購入してみたりして、実際に確かめることをするわけです。


どうやって確かめるかというと、“生身の人体”というセンサーを使って調べるわけです。被験者の内臓や脳などが毒素波動フリー、感染波動フリーな状態になっているかをまず触診検査でチェックしてみるわけです。その結果、特に問題がなかったら、その被験者に調べたいもの(=今回の場合は、水の入ったボトルなわけですが)を手に持ってもらった状態で、もう一度、その人の肝臓や腎臓、胃や脳といった部位のインディケーターを触診し、圧痛が出ないかどうかを調べてみるのです。その時に圧痛が全く生じなければ、調べている対象に毒素波動や感染波動(あるいは、放射能波動も)がないということになるわけです。


こんなふうにして、人体の触診検査を通して健康に害を及ぼすことはなさそうだということがわかると、今度は、高次元のハイパー宇宙ネットワークのメンバー達”のそれぞれの視点からも総合的に判断していただき、その意見を聞くこともするわけです。そして、OKが出たら、私はずーっとそれを続けていくことになるわけです。 

7月18日 土曜日 23:58に更新


汗を多く流すと、体から塩分やミネラルも排泄されるので、これらの成分も補わないと脱水症状を起こしてしまう可能性もありますので、私はさらに工夫して、この“iNochi PREMIUM”のボトルウォーターの中に、毎回 『徳用くん液ミネラル塩』(グローバルクリーンから注文したもの)を指で軽~くつまんで入れて飲んでいます。このようにすると、さらに体にいい水になるということを、ハイパー宇宙ネットワークのメンバー達”にオーリングメンターを通して確認したからです。 

・・・・・・続く(近いうちにまた増補更新していきます)・・・・・・ 

 7月20日 月曜日 22:36に更新 

 

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