イエスが説く救いの道とは?
今回のブログは、これまで当ブログで書いてきた内容の復習、まとめ、総括のような内容になるのかも知れません。
これまで聖書の中でイエスが語ってきたメッセージを読んできて断片的だったもの、繋がりがあるとは想えなかったもの、別々のメッセージのようにみえていたもの、そういうものが、実は、一貫性のある内容のメッセージだったことに気づくことになるかと想います。
「どんな良いことをしたら永遠の命が得られるだろうか?」とイエスに質問されたあの富める青年に対するイエスのメッセージ。
幼な子のようにならなければ、神の国に入ることはできないと説かれたイエスのメッセージ。
イエスと共に十字架刑を受けていた犯罪人が死ぬ直前に「あなたは今日、私と一緒にパラダイスにいるであろう」と語られたイエスのメッセージ。
生まれつきの盲人だった人がイエスに癒されたストーリーの中でイエスが語っておられたメッセージ。
あるいは、時代はもっともっと遡りますが、ヨブがあの壮絶な試練の中から解放されることなったキッカケ、理由とは何か?
アブラハムが信仰によって義とされたのは、どのような信仰によってなのか?
主イエスを“まじめに”信じて、神のみ旨を行なってきたはずの大勢のキリスト教信者が主に「あなたがたを全く知らない。出て行け」と言われてしまう悲劇は何故か?
これらのことは、一見、何の繋がりもないかのように想えるかも知れません。
でも、よくよく観ていくと、そうではないということがわかってくるのです。
イエスが教えようとしていたことは、とてもシンプルで、実に明快で、一貫性があり、ブレというものがないということに気づくのです。聖書を観る視点をこれまでとちょっと変えてみることで・・・・。
・・・・・・続く・・・・・
(6月2日 火曜日 3:50 更新)
さらに、福音書の中にはマルタとマリヤの姉妹の家にイエスが迎え入れられた時のストーリーがあります。また、旧約聖書にはロトの妻がうしろを振り返った時に、塩の柱になってしまったことが記されています。これらは、イエスが説く救いと関係があるのでしょうか?
・・・続く・・・ (6月23日 木曜日 0:09に更新)
イエスが説いている"救いの道"というものは、いかなるものなのでしょうか?
それを知るためには、山上の説教でイエス自身が語った次の言葉に注目する必要があります。
「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」(マタイによる福音書7章21~23節)
天国の救いにあずかるには、天の父なる神の御旨を行う者だけだとイエスは言うのです。ところが、キリスト教という宗教に属し、主イエスに対する信仰を表明し、なおかつ、"天の父の御旨"をこれまで行ってきたはずの多くの信者が天国の救いから漏れてしまうことになるというわけです。
つまり、天国の救いにあずかることができないというキリスト教信者は、イエスが言う『天の父の御旨』というものを知らなかった、あるいは、誤解していた、勘違いしていたと言えます。
それでは、この『天の父の御旨』とは、一体、何なのでしょうか?
イエスが語った山上の説教の中のどこに『父なる神の御旨 』というものがあるのでしょうか?
皆さんは、個人的には、どの箇所だと想いますか? 探してみて下さい。
でも、"山上の説教の全部"・・・などとは言わないで下さい。
山上の説教の中で、『天の父なる神の御旨』が明確にイエスが述べられた所はどこなのか?・・・ということてす。言い換えれば、"砂の上に建てた家"ではなく、"岩の上に建てた家"になるために、私たちが行うべき『天の父の御旨』とは何かについてイエスが述べられた箇所は、一体、どこなのか・・・? 直観で探してみて下さい。
(6月26日 日曜日 23:00 更新)
イエスが伝えたかった『天の父なる神の御旨』、それは"マタイによる福音書5章43節~48節"にあるのではないか・・・と、私は想っています。
「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
つまり、"天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい"ということです。
これ以下でも、これ以上でもない・・・と、私は想うのです。
マタイによる福音書19章16節~22節には、ひとりの青年がイエスに近寄ってきて、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」と質問されたことが記されています。
この時、イエスは「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか」。「もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」と答えられました。
これを聞いた彼は、「どのいましめですか」と具体的にどの戒めのことなのかを問いただしました。
すると、イエスは『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』と答えられました。
青年は、すかさずイエスに言います、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。神の戒めをこれまで自分は守ってきたと思っているにもかかわらず、何かしら不完全さを感じていたのでした。
そこで、イエスは彼に言われました。「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう・・・」と。
実は、永遠の命を得るために必要なことは、神の戒めの一つ一つの条項を守ろうとすることによって完全をめざすということではなかったのです(ローマ人への手紙9章31節を参照)。"天の父が完全であるのと全く同じような意味での完全な人になる"ということだったのです(マタイによる福音書5章48節を参照)。
永遠の命を得るためのノウハウを訊ねてきたこの富める青年に対して、イエスは『天の父の御旨』を伝えようとされていたのですが、結局 彼は『天の父の御旨』に気づくことなく、悲しげに立ち去っていったのでした。『天の父の御旨』というのは、"天の父が完全であられるように、人も完全になること"と言えます。
人には、一体、どのような意味での完全さが求められているというのでしょうか?
ここがよく解らないと、イエスが説いている『救いに関する真理』というのは、なかなか見えてこないのです。イエスが説く『救い』は、実は、律法主義にも、信仰主義にも基づいてはいないのです。
確かに、天国に入り損なうキリスト教信者は、主イエスに「不法を働く者どもよ、行ってしまえ」と言われますが、でも、神の律法の条項を一つ一つ厳格に守ることで完全をめざし、それによって救いを獲得しなさい・・・と、イエスが教えているわけではないのです。
また、ただ信じさえすれば救われるとか、あるいは、単に信仰告白をすれぱ救われるというような"信仰至上主義"を教えているわけでもなく、あるいは、何か良い行いをしさえすれば救いが確定する、あるいは、善行を積み上げていけば救いの確信が持てる・・・というような"律法主義"を教えようとしているのでもありません。
人に求められている『神の御旨に叶う完全』というのは、実は、"寛容という愛において完全になるということ"なのです(マタイによる福音書39章48節を参照)。
『救いに関する真理』を解き明かすもう一つのヒントは、主が言われた「あなたがたを全く知らない」という言葉にもあるように 私には想えます。では、これどういうことでしょうか?
・・・続く・・・(7月2日 土曜日 20:19 更新)(7月17日 日曜日 23:39 改訂更新)
ところで、「主よ、主よ、・・・」と主イエスの御名を唱え、神の御旨を実戦してきたと思い込んでいるキリスト教信者のことを 主ご自身が「全く知らない」ということが、本当にあるのでしょうか?
それはあり得ないと想います。主が言われるこの言葉は、裏を返して言えば、彼らこそが、実は、主のことをよく知らなかった・・・ということを意味していると考えられます。彼らは主に知られていたが、主イエスがどういう方であるかについて 彼らには知られていなかった・・・というわけです。彼らは主イエスを信じていたつもりになっていたが、実際には信じていなかった。彼らは主イエスのことをよく知っているつもりになっていたのに、実際には知らなかった、誤解していた、曲解していた、間違って捉えていた・・・そういうことなのです。つまり、彼らの心は覆われていて、その信仰の目には神が見えていなかったのです。
これと同じことを、実は、ヨブ記からも読み取ることができます。
ヨブ記の最後の章には、ヨブの3人の友人たちに対して神の怒りが燃えたことが記されています(ヨブ記42章7節を参照)。3人の友人たちは、神のことをよく知っていると思い込んでおり、試練の真っ只中で苦しんでいたヨブに“神の義”がどういうものであるかをヨブに説き、それを根拠にヨブに罪ありとし、ヨブを責めたり、非難したりしていたわけです。ところが、実際には、3人の友人たちは神ご自身を甚だしく誤解していたのです。だから、神の怒りが燃えたのでした(ヨブ記42章7節を参照)。
でも、何故 ヨブがこのような悲惨な不幸・災い・苦難を経験しなければならないのかについて、友人たちと徹底的に論じていた頃までのヨブの神理解は、友人たちが抱いていたものと比べて、そんなに大差はなかったと私は想います。
ところが、試練が消え去る直前に、ヨブに大きな転機が訪れたのです。ここが、とても重要なところなのです。実はここに、『救いの真理』を解く鍵が隠されているのです。
その鍵というのは、主に向かって「今はわたしの目であなたを拝見いたします」(ヨブ記42章5節)と語ったヨブの告白です。
つまり、試練に遭う以前、神を信じ、神の御旨に忠実に従っていたはずのヨブでさえ、神に対して目が開かれていなかったということなのです。おぼろげにしか、ヨブには神が見えていなかったということです。
そもそも、『信じる(信仰)』というのは、人の心の機能の一部です(ローマ人への手紙10章8~9節を参照)。肉眼では見えないような事実・真実・真理・本質・真髄などを見るというのが、心にある『信じるという機能』と言えます(ヘブル人への手紙11章1節を参照)。従って、心が何かによって覆われていると(これが、“目にある梁”とイエスが山上の説教の中で言っていたもの)、“肉眼で見ることができない神”を信仰の目で見たり、捉えたりすることが出来なくなってしまうのです。その結果、神を甚だしく誤解してしまうことになるのです。真実とはかけ離れた神のイメージを抱くことになるのです。
ヨブの3人の友人たちも、もちろん、例外ではありませんでした。神とはどんなお方なのか、神の義とはどういうものなのかを彼らはよく知っていなかったにもかかわらず、“神の義”をあ~だ、こうだと説いて、それによってヨブの側に“罪あり”として断罪したり、責めたりしていたのでした。つまり、3人の友人たちは、神をさばき、ヨブをさばいていたのです。しかも、間違ったさばきをしていたのです。だからこそ、この3人の友人たちに向かって、神の怒りが燃えたのです。
でもここで、大きな疑問が残ります。ヨブ自身も目が開かれる前までは(友人たちと論争していた最中においても)、ずーっと神を正しく捉えてはいませんでした。ところが、ヨブに対しては神の怒りは燃えませんでした。一体、何故だと想いますか? とても不思議に想えますよね。一見、矛盾しているというか、神がヨブにえこひいきでもしているかのように感じますよね。
皆さんは、このことについて どう想いますか?
その答えは、実は、神の愛(=完全な寛容の愛)にあるのです。この神の愛についてイエスは山上の説教の中で説いていたのです(マタイによる福音書5章43節~46節を参照)。
ヨブは「わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。」(ヨブ記42章5節を参照)と告白しました。つまり、ヨブは“過去”には神が見えていなかったけれども、“今は”目が開かれて神が見えていたのです。神の愛というのは、人の“過去”というフィルターを通してその人の今を見るのではなく、その人の過去のデータや情報を切り離して“今、あるがままの”その人を認め、見るのです。神の寛容の愛は、“過去”のことは過ぎ去ったものとしてリセットして、その人の“今、この瞬間”を見ることができるのです。だからこそ、神の愛は、すなわち、『ゆるしの愛』でもあるのです。人を救う“イエスの十字架での死とよみがえりの福音”が、「イエスによる罪のゆるしの福音」(使徒行伝13章38節)とも呼ばれる由縁です。
神の“完全な寛容という愛”は、同時に、“ゆるしの愛“でもあり、それは“過去”を引きずらないで、“過去”にこだわらないで、“過去”にとらわれないで、純粋に“今というこの瞬間”におけるその人をあるがまま認めて、受容していくのです。だからこそ、神の怒りはヨブの3人の友人たちには燃えたが、ヨブに対しては燃えなかったのです。
(7月10日 日曜日 19:01 更新) (7月18日 月曜日 3:31 増補更新)
イエスの血による契約、すなわち、『新しい契約』において特徴、ユニークな点として注目すべきことは、「もはや、彼らの罪と彼らの不法とを思い出すことはしない」(ヘブル人への手紙10章17節)と述べられていることです。つまり、これは 主イエスの『新しい契約』の祝福・恵みに実際に与っている人たちを神が見られた時に、彼らのうちに罪や不法を神は認めることができないということを意味します。それでは、山上の説教の中で主イエスが「あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ」(マタイによる福音書7章23節)と言われて、天国から閉め出されてしまう“キリスト教信者たち”のことが述べられていますが、何故、そのように言われてしまうのでしょうか?
それは、彼らがヨブ記42章に描かれているようなヨブの3人の友人たちのタイプだからです。過去も、そして、今でもまだ神がよく見えていないのです。神の愛がどのようなものであるかも知らないのです。彼らの心の目の前には“梁”が存在していて、信仰という目の視界を妨げているのです。その証拠に、彼らは天国に入れないことを知ると、“一見、神の御旨にかなった行いのように思えるような”過去に実際にやってきた自分たちの行いをリストアップしていくのです。それによって、自分たちが天国に入る資格があるかのように、主に訴えるのです(マタイによる福音書7章22節を参照)。「愛は・・・自分の利益を求めない」(コリント人への第1の手紙13章4~5節)はずなのに、彼らがこれまでおこなってきた善行の一つ一つが、あたかも『天国に入るための投資である』かのように勘違いをして、自らの救いにおいて利益になると思いながらやっていたことを、主イエスの前で、自分の方から暴露してしまうのです。つまり、彼らは信仰の目は“梁”でブロックされていて、神をあるがまま見ることができなかったのです。従って、神の愛が完全無欠の寛容の愛であり、ゆるしの愛であることも知らなかったということなのです。
心の目から"梁"が取り除かれて、神をあるがまま認め、この『神のさばかない完全無欠の寛容の愛』に気づくこと、知ることがとても重要なのです。
真実の神の愛がわかった時、その人の目の前にはイエスが説かれた『救いの道』が開かれているのです。
(7月18日 月曜日21:44 更新)
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