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意識の進化、次元上昇をアシストする“イエス-道(Jesus,the Way)”

“イエス-道”という視点から、人生を生きる秘訣・コツを考える“斬新的な聖書リサーチ”

11/5(木曜日)22:52更新 ブログ(124)『イエス-道』:(15)“七たびを七十倍するまで・・・”

2015年11月05日 22時52分21秒 | イエス-道

“イエス‐道”の世界へようこそ


『イエス-道』:(15) 七たびを七十倍するまで・・・” 


内容的に、前回のブログからの続きになっています。


さて、前回のブログでは、“ゆるされること”だけでなく、“ゆるすように、私たちも人々をゆるしていくことがとても重要であることを述べました。


人をゆるすこと”が自分の生き方そのものとまだ同化していない場合には、ここでイエスにさらに突っ込んで質問してみたくなってくる人がいると想います。弟子のペテロもそうでした。実際、彼は、イエスのもとに来てこのように尋ねたのでした、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」(マタイによる福音書18章21節)と。


これは、通常の人間としては、至極当然な質問ではないか・・・と想います。


この問いに対するイエスからの回答というのは、「わたしは七たびまでと言わない。七たびの七十倍するまでにしなさい・・・」(同18章22節)でした。この後に続けて、イエスは「それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。・・・」同18章23節)と言って、たとえ話を語り始めます。


このマタイによる福音書18章22節~35節の中で、イエスは、一体、何を言いたかったと、皆さんは想いますか?


七たびの七十倍するまでゆるしなさいと言われる場合、7回×70=490回までゆるして、491回目以降はゆるさなくてもいい・・・と、イエスは教えられたのでしょうか? 私は、そうではないと想います。


度々イエスに“人をゆるすこと”の大切さを教えられて、ペテロもそれを実行しようと思ったことでしょう。でも、自分に対して罪を犯した人をゆるす場合、実際問題として、“たとえ多く見積もっても、7回もゆるしたら十分過ぎるくらいだろう・・・”と、ペテロは自分の頭の中で考えていたのかも知れません。ところが、イエスに“7回というゆるしの回数”をあっけなく否定されて、さらにその70倍の490回ゆるしなさいと言われたのでした。この時、おそらくペテロは気の遠くなるような回数ように感じられたのではないか・・・と想うのです。


「それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。・・・」(同18章23節~35節イエスが続けて話された譬え全体を解読していくと、結局、ゆるしたようにゆるしていないという実態・現実をここで指摘されたということを、以下のイエスの言葉から十分に読み取ることができます。


わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか」(同18章33節


「あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、・・・」同18章35節

11月2日 月曜日 22:26更新


つまり、ゆるしたように私たちもゆるしていないと、心からゆるしたことにはならないというわけです。


従来型の人間レベルの“ゆるしというのは、心からのゆるしなのではなく、ただ自分の中では相手をゆるしたと思い込んでいるに過ぎないのです。実際には、ゆるした相手に関する記憶情報をきよめてもいないし、削除してもいないのです。たとえ削除したと想ったとしても、それは頭にある『通常ファイル』から頭の奥のほうに保管されている『ゴミ箱のファイル』に一時的に移動したに過ぎないわけです。このようなレベルの“ゆるし”を続けていっていると、『ゴミ箱ファイル』の中に“ゆるしたはずの記憶情報”が着実に確実に溜まっていっているのです。そして、そんなふうにして、仮に490回まで相手を“ゆるした”とします。ところが、その相手が491回目の罪(=過ち)を犯したら、どうなるでしょうか? すると、これまで490回も“ゆるしてきた人”は、とうとう堪忍の緒が切れてしまい、これまでずーっと自分の頭の中の『ゴミ箱ファイル』に溜め込んでいた記憶情報をすぐに『通常ファイル』に再び呼び戻して、それらの過去データも一緒に引き合いに出して、今回のものに上乗せした上で、相手を非難したり、責めたり、報復したり、恨んだり、憎んだり、怒りを爆発させたり、切れまくったりしてしまうのです。この時に放出されれるエネルギーは、とても凄まじいものです。長い間、溜め込んだままに、あるいは、抑圧したままにしてきたわけですから、時期が来るとそれは大爆発を起こしたり、火山のように噴火したりしまうことになるのです。それは、自分自身や関わっている人を破壊したり、ダメージを与えたりする威力も秘めているのです。

 

実は、通常の人間がやっている“このようなレベルのゆるし”をイエスが、私たちに勧めているわけではないのです。繰り返して申しますが、ゆるすようにゆるしていくということが、イエスが言う「ゆるしなさい」ということの意味なのです。


では、どうやったらゆるすように、私たちもゆるすことができるのでしょうか? 皆さんは、どうお考えになられますか?

 11月3日 火曜日 22:42更新 


実は、“ゆるす”とは、『過去という時間』を超越した人ができる行為と言えるのです。逆に言うと、『過去の記憶情報』にその人の“想い”が囚われていたり、こだわっていたり、固執していたり、縛られたりしている限り、“ゆるすように、ゆるす”ということは実行不可能と言えるのです。自分の中にある『過去の記憶情報』というデータベースに自動検索をかけて抽出されてきた“過去情報”と照合して判断しようとする(=これが、“さばく”ということ)のが、マインド(mind)の主な働きなのです。このような自分のマインドの働きに“想い”が振り回されてしまっていると、過去という時間』を超越することができなくなってしまうのです。


自分の“想い”が優位に立って、自分のマインドをコントロールしていくこと、それが 心からゆるす”ために、つまり、ゆるすように、ゆるす”ためにどうしても必要になってくるのです。


「私は、あの人を嫌いだが、でもゆるさないといけない・・・よし、ゆるすように努めよう。私はあの人をゆるした。ゆるした、ゆるした・・・」というふうに、自分に言い聞かせるたり、あるいは、自己暗示をかけたりすることによって“ゆるせる”ようになるのではありません。


では、どうしたらいいのでしょうか? その答えは、やはり、イエスが説いた「さばくな」(マタイによる福音書7章1節)にある・・・と、私は観ているのです。


さばいている状態”においては、その人のマインドはフル稼働しているのです。さばくことをやめた時”に、マインドの働きを停止させることができるのです。


“さばくことをやめた時”というのは、自動車で例えると、アイドリングストップした時のように、動いていたエンジンが一時的に実際に止まっている状態のようなものです。この原理、あるいは、法則に則っていく時に、人は救いを見つけたり、また、これまで“ゆるすことの難しさ”を感じていた人は、案外容易に人をゆるすことができるようになったりしていくのです。


これまでも当ブログでも書いた事ですが・・・。イエスが十字架にかかっていた時に、左と右にそれぞれ犯罪人が刑を受けるために十字架にかけられていました。一人の犯罪人は最後までイエスに悪口を言い続けたと聖書に記されています。ところが、もう一人の犯罪人は「・・・このかたは何も悪いことをしたのではない」、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と言ったのでした(ルカによる福音書23章41節~42節)。その時、この犯罪人イエスから「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(同23章43節)と言われ、救いを保証されたのでした。


この犯罪人がイエス救いを保証されたのは、彼がイエス“さばくことをやめた”から・・・と私は観ています。つまり、これまで彼の耳に入ってきた誤った情報、偏見に満ちた情報、この世の常識的な考え、固定観念や既成概念などといった自分の中にある『過去から蓄積されてきた記憶情報』に検索をかけてヒットした情報に照らしてイエスを観ることをしなかったということ。むしろ、そのような“マインド主導の思考プロセス”をすべて停止させて、今、自分の目の前にいるイエスをいかなるフィルターも通さずにただあるがままを観て、捉えていったわけです。その時に、この犯罪人の心のスクリーンに、イエスに関する真実・事実・真理というものがくっきりと映し出されていったと想われます。だからこそ、「このかたは何も悪いことをしたのではない」、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と言うことができたのでした。


 (11月4日 水曜日 22:07更新) (11月5日 木曜日 22:52更新) 

 ・・・・・・『イエス-道』:(16)“神に義と認められること”に続く・・・・・  

 

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11/1(日曜日)23:03更新 ブログ(123)『イエス-道』:(14)“罪のゆるし”

2015年11月01日 23時03分55秒 | イエス-道

“イエス‐道”の世界へようこそ


『イエス-道』:(14) “罪のゆるし” 



聖書を長年にわたって探究していくと、罪のゆるしというのがとても重要なキーワードではないか・・・と、私は想っています。言葉を換えていうと、聖書における核心的なメッセージというのは、罪のゆるしにあるのではないかと言いたいのです。


ここで、“罪の許し”(=罪を許可する、罪を許容する、罪を見過ごす、罪を見ても見ぬふりをする)というレベルのことを言っているのではありません。


聖書で述べられている“罪のゆるし”という言葉には含蓄があるのです。この言葉は実に重いのです。おそらく、その意味するところが解ってくると、人の生き方そのものを一変してしまう程の力があるのではないか・・・、人生の軌道のベクトル自体を大きく変えてしまうことにもなるのでは・・・。そんなふうに想えてならない私がいるのです。


今回のブログでは、この罪のゆるしということについて、皆さんと一緒に想いを巡らせてみたいのです。


使徒行伝13章38節に、「このイエスによる罪のゆるしの福音が、今やあなたがたに宣べ伝えられている」と書かれています。“罪のゆるし”=イエス福音・・・というわけです。従って、この“罪のゆるし”の意味が解らないと、“イエス福音”もわからなくなってしまうのです。なぜそれが福音、つまり良き知らせ喜びのニュース・使信と言えるのかすらピンとこなくなってくるのです。まさに、『馬の耳に念仏』になってしまうおそれがあるのです。福音を聞いたとしても、心に感動を覚えることはないのです。「福音なんか、とうの昔からよく知っているよ。今さら何を・・・?」という程度の認識しか持たないのです。


「私は、長年にわたってキリスト教を信じています」、「私は、聖書の神様をまじめに信仰しています」などと言う人がおられたとしても、もし罪のゆるしの意味していることが何も解っていなかったとしたら・・・大変なことです。この重要な点においてチンプンカンプンな状態であれば、“信仰”も“確信”もあったものではありません。イエスに「信仰の薄い者たちよ」と云われかねないのです。もしかしたら、その人の信仰は、実質的には、もうすでに破綻しているのかも、あるいは、風前の灯であるかも知れません。


冒頭で、聖書の教えにおける核心的なメッセージは、『罪のゆるし』ではないだろうか・・・と述べました。 でもそれは、 単に“ゆるされる”という受け身のメッセージなのではありません。つまり、自分の罪がゆるされていること”を知って、に「ありがとうございます」と感謝を表明したり、をほめたたえたりして、それでおしまい・・・めでたし、めでたし・・・というようなものではないのです。


ここで私たちが知らなければならない、2つの重要な9イントがあると想います。


まず1つ目のポイントは、『ゆるした』と宣言される場合に、それは何を意味しているのかということ。


が『罪をゆるした』と宣言される場合、それは「もはや、彼らの罪と彼らの不法とを、思い出すことはしない」(ヘブル人への手紙10章17節)と述べられているわけです。つまり、“あなたの罪はゆるされた”と言われたとしたら、それは『あなたの過去の罪(=あなたの人生における黒歴史)』に関する記憶情報をはきれいサッパリときよめられたということ、つまり、デリートされたこと(=削除すること、きれいに取り除くこと)を意味しているのです。


言い換えれば、はご自分のうちにある記憶のデータベースから『あなたの過去における罪・過ちに関する記憶情報』を削除してしまったということなのです。つまり、は“いったんゆるしたこと”を後になって“しまった・・・と、後悔して”、それを呼び戻したりはしないということです。過去のことを再び蒸し返して、あなたをそのことで責めたり、非難したり、断罪したり、報復したりなどをすることは決してないということ。にとっての“ゆるし”とは、『ゆるした過去のこと』は“すでに過ぎ去ってしまって、もはや現存しないもの・・・ということ。すなわち、においては、それはすでに完了しているのであり、はじめからそれはなかったもの・・・という扱いになっているということを意味しているわけです。ここが、実に、“ゆるし”と “通常の人間レベルゆるし”と大きく違う点なのです。 だからこそ、義とされた(=罪をゆるされた)ということは、本当に有難いことなのです。


「ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、次のように言っている、『不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、さいわいである。罪を主に認められない人は、さいわいである』。」(ローマ人への手紙4章6節~8節


一方、“完全なるゆるし”(きよめ永久消去も含む)と違ってが誰かをゆるすという場合には、単に一時的に忘れる程度のレベルだからです。そこには、きよめ永久消去は含まれてはいないわけです。言い換えれば、“ゆるす側の人”の記憶情報のデータベースにはゆるしたはずの相手の情報というものが何も清められないままで、静かに奥の方に一時保管された状態になっているだけなのです。従って、相手がその後に再び過ちを犯したならば、“以前ゆるしたはずの情報”をすぐに引っ張り出してきて、それを今回の過ちに上乗せした上で、相手を責めたてたり、批判したり、非難したり、怒ったり、恨んだり、憎んだり、嫌ったりなど・・・してしまうことになるわけです。(それはちょうど、消去した情報をパソコンのゴミ箱に一時的に移動したに過ぎないのに似ています。その後、何かのきっかけがあれば、すぐにまた消去したはずの情報をゴミ箱から呼び出して、元あったファイルに戻して使うことになるのです。) 


このように、ゆるしには、決定的な相違点があるわけです。


2つ目のポイントは、“私が他の人々をゆるすように、私もにゆるされる”という点です(マタイによる福音書7章14節~15節を参照)。 つまり、“私自身”がゆるすということに積極的に関わっていくということがとても重要になってくるということです。 ただ、に自分の“罪がゆるされること”を乞うだけではなく、が人をゆるすように、“私”も自分自身をゆるし、さらに、同様に、他の人々をもゆるしていくということが重要になってくるのです(コロサイ人への手紙3章13節、マタイによる福音書19章19節、ローマ人への手紙13章9節を参照)。


このような点が、いわゆる 主の祈り』において、実は、とても重要なポイントにもなっているのです。 山上の説教の中でイエスが「あなたがたはこう祈りなさい」と言われた『主の祈り』の中には、「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください」とあるのです(マタイによる福音書6章9節、12節)。


ここで、“わたしたちに負債のある者を、今はまだ、ゆるしていません。いずれ近い将来、ゆるそうと思いますので、わたしたちの負債は どうか 今 おゆるしください”と祈りなさいと言っているのでもなく、あるいは、“わたしたちに負債のある者を、これからも絶対に、ゆるす気はありませんが、でもわたしたちの負債はおゆるしください”と祈りなさいと言っているのでもないのです。イエスは、間違いようのない程にハッキリと、「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください」と祈りなさいと言われているのです。つまり、他の人々の罪や過ちを私たちが“すでにゆるした”ということが大前提となっていて、その上で、私たち自身の罪がにゆるされることをお願いするというのが、イエスが教えた『主の祈り』の特徴なのです。従って、たとえ一人であったちしても、もし私たちがゆるすことができていない状態で『主の祈り』をに向かって唱えているとするならば、“私たちの祈りの言葉”と“私たちの行動”は矛盾していることになり、それは本当の『主の祈り』とは言えず、むしろ“偽善的な祈り”、“自分がやっていることと言っていることが一致していない祈り”、“口先だけの祈り”になってしまっていることになるわけです。


これらの2つの重要なポイントが解ったら、が私たちをゆるすように、わたしたちも他の人々をゆるしていくということが、一体、どういうことを意味しているのか、その重大さというものが解ってくるのではないでしょうか?


多くの人々は、自分がゆるされるという祝福にあずかることを願って、に祈るかも知れません。確かにそれは重要なことです。でも、それと同様に重要なことは、が私たちをゆるすように、私たちも たとえ相手がどのような人であったとしても 快くゆるしていくということなのです。“ゆるすようにゆるす”とは、自分の損得勘定や善悪の固定観念や自分自身が持っている正義感の基準などといったモノサシで計って人をさばかないということ。また、人をゆるすということは、その人に関する“過去の記憶情報”を“今この瞬間に存在しているその人”から完全に切り離すことができた時にのみ可能となると言えます。つまり、私たちが“過去という時間”に囚われることなく、こだわることなく、固執することなく、それを超越していって、解放されて自由になれた時に、“人をゆるす”という行為が私たちにとって現実のものとなってくるものなのです。私たちが人をゆるそうと“努めること”よっては、人をゆるせるようになれるわけではありません。言い換えれば、頭(=マインド mind)で人をゆるそうと考えても、ゆるすようにゆるすというのは至難のわざと言えるのです。“過去の記憶情報”を検索して、そのデータに照合して“さばいていく”というマインドの思考プロセスを停止した時に初めて、人をゆるすという行為が現実化していくものなのです。言い換えれば、私たちが“さばかないという寛容という愛”に生きていった時に、人々をごく自然にゆるしていくことが可能になるのです。山上の説教の中でイエスが説かれた「人をさばくな」(マタイによる福音書7章1節)という教えは、このように『過去情報』に照らして“さばく”というマインドの思考プロセスを停止することによって、人をゆるし、愛していけるようになるためノウハウなのであり、まさに秘伝伝家の宝刀と言えるものなのです。



完全な者となりなさい


ところで、主イエスは山上の説教において、私たちに“完全”を求めておられます。


「・・・あなたがたの天の父完全であられるように、あなたがた完全な者となりなさい。」(マタイによる福音書5章48節


では一体、ここでイエスは、私たち人間にどのような完全を求めておられるのでしょうか? あらゆる点において、のようになれ・・・と、言っているのでしょうか?


いえ、私はそうではないと想います。マタイによる福音書5章43節~47節をよくよく観てみると、イエスがここで言われた“完全”というのは、天の父がそうであるように、悪い者と良い者とを分け隔てをしない、そして、敵をも愛するという“寛容という愛”において完全な者となるように・・・ということであることがわかります。さらにここを、マタイによる福音書7章1節と併せて観ていくと、“さばかないという寛容の愛実践していくこと”を意味していることも解ってきます。


もし、ここでイエスが「絶対に間違うことなく、正確にさばきなさい」と、もし私たちに命じていたとしたら、実際、これは不可能なことです。と同等レベルの知識と情報を持っていなければ、正しくさばくことなど出来ないからです。従って、「正しくさばきなさい」と言われるよりは、むしろ、「さばくな」と言われることの方がはるかに簡単なことなのです。イエスの「さばくな」という教えは、まさに人がすぐにでも実行・実践可能な教えと言えるのです。イエスが、十字架の上にかけられていた時に、その左に一人の強盗が、右にもう一人の強盗が十字架にかけられていました。その中の一人の強盗が十字架刑で亡くなる直前にイエスを「さばかないこと」を実行していった時に、パラダイスへの救いを確保してしまったのです(ルカによる福音書23章39節~43節を参照)。つまり、「さばくな」の実践は、決して難しいことではないのです。「さばかないこと」を実行に移していく時に、その人の信仰の目が開眼するのです。そして、今まで見ても見えなかった事実が、真実が、真理が本来の輝かしい姿を現してくるのです。その人の心鏡に映し出されてくるようになるのです。・・・・・


・・・・・・続く・・・・・お楽しみに・・・・・・  10月30日 金曜日23:58更新、11月1日 日曜日 23:03更新中

 

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10/30(金)22:59更新 ブログ(122)『イエス-道』:(13)“罪とは?”

2015年10月30日 22時59分23秒 | イエス-道

ブログ(122) 『イエス-道』:(13)“罪とは?” 



”とは、一体、何なのでしょうか? そして、“罪からの救い”とは何? 


もちろん、このことに対して、伝統的なキリスト教における説明や解釈というものはあるでしょう。


でも、そのような伝統的解釈や既成概念といったものをいったん脇に置いて、心をニュートラルにし、先入観を取っ払って、イエスの語る言葉に静かに耳を傾けて、聖書の中で述べられている『』、『罪からの救い』などといった言葉の意味合いを探ってみるのも、また面白いというか、興味深いのではないか・・・と想うのです。


今回のブログでは、“”ということについて、皆さんと一緒に想いを巡らせてみたいのです。時間がある時に、少しずつ補足更新していこうと想っていますので、気長にまたお付き合い下さい。

10月26日 月曜日23:42に更新


“聖書でいう”とは何か?・・・と問われると、神の律法(=戒め)を犯すこと。こう観るのが、一般的なのではないでしょうか? というのは、“この世における罪”というのはこの世の法律をやぶることであるから、それと同じような発想をしていくと、“聖書でいう”というのは、神の律法(=戒め)を破ることだ・・・と捉えるのが自然だからです。


確かに、使徒ヨハネも“罪”=不法、罪を犯す者=不法を行う者というふうに述べています。


すべて罪を犯す者は、不法を行う者である。罪は不法である。」(ヨハネの第1の手紙3章4節


使徒パウロも、同様に、「このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない。・・・」と述べています(テトスへの手紙2章14節)。


さらに、天国から締め出されてしまう人々に、はこう言われます、「あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ」と(マタイによる福音書7章23節)。 


このような視点から“聖書でいう”を捉えていくと、“罪からの救い”のためには、神の律法の一つ一つを完全に順守することがとても大切・・・ということになります。もちろん、イエス自身も、山上の説教において、神の律法を決して軽んじてはおらず、それを守ることの重要性を説いています(マタイによる福音書5章17節~20節を参照)。


このような視点だけから観ていった場合、神の義の律法を守っていない人よりも、真面目に守っている人のほうが、神の救い天国(=神の国)近いという結論になります。ところが、聖書には“パラドックス”があるのです。つまり、実際は必ずしもそうではない・・・ということが、使徒パウロによって指摘されているわけです。


を追い求めなかった異邦人は、義、すなわち、信仰による義を得た。しかし、義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった。なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。彼らは、つまずきの石につまずいたのである。・・・・兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのためににささげる祈は、彼らが救われることである。・・・」(ローマ人への手紙9章30節~32節、10章1節


いのちに導くべき戒めそのものが、かえってわたしを死に導いて行くことがわかった。」(ローマ人への手紙7章10節


律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。」ローマ人への手紙3章20節


”は不法であるからといって、じゃ、罪から救われるためには、神の義の律法をがんばって守ればいいのか?・・・というと、そんなに単純な問題ではないということがここでわかります。従って、『罪=不法=神の義の律法を犯すこと』という視点とは違う別の視点からも“”という問題を観ていかなければ、全体像が見えてこないというわけです。つまり、『群盲、象を撫でる』という状況に陥ってしまうおそれがあるということなのです。


これから当ブログでは、従来とは異なる視点から、“”という問題を観ていきたいと考えているわけです。それは、イエスが観ている視点でもあるのです。


私がブログの内容を展開していく前に、まずは皆さんに重要なヒントとなる聖書の箇所をリストアップしておきます。一緒に考えて、想いを巡らせてみて下さい。以下の2箇所です。


   (1).マタイによる福音書13章14節~16節

   (2).  ヨハネによる福音書9章41節

10月27日 火曜日22:47更新


”という問題を観ていく時に、私が特に注目しているのは、「あなたがたが『見えると言い張るところに、あなたがたのがある」(ヨハネによる福音書9章41節)というイエスの言葉です。“”という問題の本質的な部分というのは、目の前に“”(=心の覆い)が存在しているために、実際には見えていないという現実がある(つまり、霊的には盲目な状態になっている)にもかかわらず、そのことに気づかずにいて、自分には“見えている”と思い込んでいるところにあるのです。このような致命的な問題そのものを解決しない限り、“”からの解放も、“”からの自由も、“”からの救いも、天国神の国に救われることマタイによる福音書7章21節を参照も、永遠の命を得ること(マタイによる福音書19章16節を参照)も望めないわけです。つまり、これまでのすべての努力が、最後には徒労に終わってしまうおそれがあるというわけです(マタイによる福音書7章21節~27節を参照)。


善であり義である神の律法”を一点の落ち度のなく守ろうとする“頑張(がんば)リズム”や“真面目イズム”の中に『罪からの救い』があるのではなく、“”の本質的な部分に関わっている目の“”(=覆い)を実際に取り除いていくところにこそ、実は、“”からの解放があり、自由があり、救いがあるのです(マタイによる福音書6章22節~23節、同7章5節、コリント人への第2の手紙3章12節~18節、エペソ人への手紙1章17節~18節を参照してみて下さい)。


ここで、旧約聖書に登場するヨブのことを思い出してみて下さい。ヨブという人物は、サタンに自慢するほどにに忠実であり、敬虔な信仰を持っており、神の義の律法も大切にしていた立派な人だったと言えます(ヨブ記1章8節、2章3節を参照)。ところが、ヨブから遠ざかることによって、(=神の律法が要求する義)に近づいていくものだという考えを持っていたようなのです(ヨブ記1章1節を参照)。“”と“”、“不義”と“”は対極にあるという概念です。すなわち、二元論的な発想、二極相反という固定概念に囚われていて、そのためにヨブの人生に想定外の試練・災い・苦難・不幸を引き寄せてしまった・・・と、私は観ています。ヨブの場合、まさにそのような善悪の固定観念というものが心の目の視界を遮断する“”となってしまい、その結果、見るべきものが見えなくなってしまったことが、実は、根底にある問題だったのです。ヨブは、遠方からはるばるやってきた三人の友人たちと議論しましたが、全員の目の前に“”があったために、ヨブの試練の問題を解く糸口さえも見つけることができませんでした。そして、最終段階で、が登場してヨブと直接論じることに。その結果ヨブの目から“”が取り除かれていったのでした。その直後に、彼の人生から試練が“霧が晴れていくように”スーッと消えていったのでした。


ところで、目に“”が存在していると、人は必ずと言っていいほど、限られた知識や情報だけで“さばくようになってしまう”ものです。そして、さばくことによって、その“”を増やし、強大にしてしまうという“負のスパイラル”が生じてしまうのです。恐ろしいことです。雪だるま式に、ドンドン厚くなって、巨大化していくのです。そして、心の闇がますます深まっていくことになるのです。


さばくことに生きがいを感じている人、さばくことが好きな人、周りの人をさばくことで自分のストレスを発散している人、人をさばくことで自らの優越感や快感を感じている人、いつもさばきまくっている人、・・・そのような“さばき人”にとって、永遠の命に至る門は実に狭く、その道は細過ぎるのです。神の国のゲートがどこにあるかを見いだすことは至難のわざでしょう(マタイによる福音書7章13節~14節を参照)。たとえ、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また、『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカによる福音書17章20節~21節)というイエスの言葉を聞いたとしても、“さばき人”には中々ピンと来ないのです。その意味が解らないのです。“ちんぷんかんぷん”なのです。というのは、“さばき人”の目にある“”は霊的な視界を遮断していて、見えなくしているからなのです。見ても、見えず・・・、聞いても聞こえず・・・というような状態になっているというわけです(マタイによる福音書13章13節~15節を参照)。“さばき人”がさばくことをやめた時に初めて、見えてくるもの、聞こえてくるものがあるのです。


それが“真実”であり、“見えない事実”であり、“真理”というものなのです心の目の“(=心の覆い”が取り除かれ、長きにわたってその人に覆われ、隠されていたこのような“真実・目に見えない事実・霊的な真理”というものが見えてきて、あるがままそれを認めて、しっかりと捉えていく時に、人は“進化成長”を遂げていくことになるのです(コリント人への第2の手紙3章12節~18節を参照)。


その“おおい(=””)は、キリストにあってはじめて取り除かれると、使徒パウロはここで述べています。私は、この“キリストにあって”という場合、それは具体的にはイエスが山上の説教で説かれた「さばくな」の実践にあると想っているのです。


山上の説教においてイエスが説かれたさばくなを実践していくことは、実は、自分の目からを取り除いていく上で、ものすごく重要なことであり、それが実践的ノウハウと言えるのです(マタイによる福音書7章24節~27節を参照)。ここに、神の国へのゲートが開いているとも言えますし、“”からの解放自由救いがあるとも言えます。


さばくな」というのは、イエスが説かれた数々のメッセージの中で最も貴重な“実践的真理”であり、“普遍的な真理”、“永遠の真理”ではないか・・・と、私は観ているのです。


この「さばくな」というイエスの教えこそ、聖書の盲点と言えるものであり、人が霊的に盲目になってしまうか、あるいは、霊的に覚醒していくかは、実に、「さばかない」、「ジャッジしない」という生き方を実践していくか否かにかかっていると言っても過言ではないと想うのです。


・・・・・・このブログは、内容的に『イエス-道』:(14)“罪のゆるし” に続いています・・・・・   10月28日 水曜日22:53更新) (10月29日 木曜日23:27更新  10月30日 金曜日22:59更新)

 

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10/25(日)22:16更新 ブログ(121)『イエス-道』:(12)“まず あなたの目から”

2015年10月25日 22時16分22秒 | イエス-道

『イエス-道』:(12)まずあなたの目から”


山上の説教の中で、イエスまず自分の目から梁を取りのけるがよい」(マタイによる福音書7章5節)と言われました。これは、とても大切なことではないか・・・と、私は想っています。


このことを怠ると、人は、自分のことはさておいて、他人のあら探しに精を出すことになってしまうことに。すると、人は自分の思うままに相手を操ろうとしたり、支配したりしようとしてしまうもの。これが、『さばく』ということなのです(マタイによる福音書7章1節~4節を参照)。


すると、相手が自分の意のままに動いてくれないと、ムッとしたり、イラついたり、怒ったり、恨んだり、憎んだり、説教したり、批判したり、非難したり、攻撃したり、報復したり・・・することに・・・。


このような対関係が、対関係にまで及んでしまうと、一体どうなってしまうのでしょうか?  


人は、あたかも自分の召し使いや奴隷でもあるかのように思い違いをして、こき使おうとするのです。自分の目的を果たそう、自分にとって有利な展開になっていくように、に祈って利用しようとするのです。あたかも自分の“願望達成器”でもあるかのように・・・。そこで、「私のために、あ~して下さい、こうして下さい」と祈ったり、願掛けをしたりすることになるわけです。 つまり、を自分の願いを叶えたり、欲望を満たしたりするための“道具や手段”としてしか観ていないということです。


これは、との間における“本来あるべき関係”とは言えないと想います。


山上の説教のマタイによる福音書7章21節~27節には、天国からによって締め出されてしまう“信仰者たち”のことが描かれています。彼らは、単に、自分たちが“天国に入れるという特権”にあずかろうとして多くのわざをやってきただけであったこと、つまり、自分の利益を意識しての善行に過ぎなかったことを自ら暴露してしまうことになると、ここでイエスは語っているのです。


つまり、自分にとっての“損得勘定”で、を観てしまったり、を利用してしまったりする・・・というわけです。が自分の意にかなうようなことをやってくれれば、に感謝をしたり、を賛美したりするわけです。ところが、自分が想定した“利益”が得られないことがわかると、に対して急によそよそしくなったり、を嫌ってみたり、を憎んでみたり、に文句を言ってみたり、を呪ってみたりしてしまうことになるのです。これは、まさに人がをさばいていることになるのです。


天国に入ろうとする時に、に拒まれてしまう人たち(=“信仰者たち”)も、同様にに対して文句を言うことになることを、イエス山上の説教の中で語られたのでした(マタイによる福音書7章21節~22節を参照)。


そのような人たちに共通している問題点は何かというと、自分の目に“”がしっかりと存在しているのにもかかわらず、そのことに気づいていないということなのです(ヨハネによる福音書9章41節を参照)。気づいていないために、自分自身の“”を取り除くことを怠ってしまうのです。


を信じる」・・・という人が、もしやらなければならないことがあるとすれば、それはまず自分自身の目から“”を一刻も早く取り除くことであって、一生懸命信じようと心がけることでもなく、に祈ることに精を出すことでもないのです。すべてのことに先立って、まず自分の目から“”をしっかりと取り除いて、ハッキリと見えるようになること、開眼すること、霊的な覚醒をすること・・・これが最重要課題なのではないだろうか。『イエス‐道』における核心部分は、まさにここにあるのです。


人を霊的に盲目な状態にしているのは、目の前にある“”という存在なのであって、そのために、自分が何をしているのかすらわからなくなってしまっているのです。実は、ここにこそ“罪の恐ろしさ”というものがあるのではないでしょうか? 


イエスが十字架上で語った次の言葉を、心にしっかりと留めておくべきでは?


そのとき、イエスは言われた、『よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。』」(ルカによる福音書23章34節


自分の目から“”が取り除くということを、後回しにすることなく、最優先してやっていく。もし他人の目の“”を気にするような余裕があるならば、それはさておいてまでも、まず自分自身の目の“”の存在に気づいて、それをしっかりと取り除くことに精進していくべき・・・・というのが、実は、イエスの山上の説教における最重要メッセージであると言えるのです。この点が、長い間にわたって、『盲点』となっていたのでは・・・と、想うわけです。このような盲点が存在する限り、いかなる“信仰者”も『群盲、象を撫でる』の域を越えることが出来なくなってしまうのです。『井の中の蛙、大海を知らず』という世界に埋没してしまうことになるというわけです。そのような人に限って、自分が属している宗教以外をすべて異端とみなしたり、邪教と考えて、軽蔑したりしてしまうことになりかねないのです。つまり、“宗教的な寛容”がなくなってしまうというわけです。


そこには、唯一絶対神に特有な(=宇宙のように広大な寛容の愛)に共鳴するものは、もはやなくなってしまっているのです。実は、このようなこそが神の律法を全うし、完成するものであるというのに・・・(ローマ人への手紙13章8節~10節参照)。


イエスが山上の説教の中で教えた「人をさばくな(マタイによる福音書7章1節という尊い教えを地道に実践していく者たちというのは、まさに「岩の上に自分の家を建てた賢い人」(7章24節)なのであり、他人の目の“”に気づいても目くじらを立てることもなく、非難したり、攻撃したりはしないのです。そのような時には、もしかしたら自分の目にもそのような気づいていない“”が存在しているのかも知れないと考えて、まず自分の心眼の視界を遮断している“”(=覆い、ブロック)を取り去ることに努め、精を出すのです。つまり、いかなる場合でも、“人をさばかないこと”を実践していくことによって、“”を一つ一つ取り除いていくわけです。それが効果的になされるようにと、のサポートを積極的に求めていこうとするのです(コリント人への第2の手紙3章12節~18節、テモテへの第2の手紙2章19節~21節を参照)。


人をさばかない、それはいかなる人をもあるがまま観て、認めていくこと、『過去の情報やデータ』というフィルターを通して、今目の前にいる人を捉えたり、判断したり、価値の有無を評価したり、善悪のものさしで計ったりしないことを意味します。『過去のデータベース』に囚われることなく、こだわることなく、固執することなく、『過去のしがらみ』を切り離して“今、この瞬間に存在している”その人を観て、認めて、受容していく。これが、人をゆるすということなのであり(マタイによる福音書6章14節~15節を参照)、人を愛するということなのであり、の属性でもある寛容の愛でその人を包み込み、受け入れていくということなのです(コリント人への第1の手紙13章4節、マタイによる福音書5章43節~45節を参照)。


そして、このような生き方を『自分の生きる道』として確立していく時に、おのずとにおいて共鳴するようになり、との本来あるべき関係を保っていくことが可能になってくるというわけです。これが山上の説教の中でイエスが語った最も重要なメッセージであると、私は観ているのです。

 

・・・・・・続く・・・・・お楽しみに・・・・・・   10月22日 木曜日22:50に更新10月25日 日曜日22:16に更新

 

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10/18(日)17:30更新 ブログ(120)『イエス-道』:(11)“イエス-道における世界観”

2015年10月18日 17時30分00秒 | イエス-道

 

前回のブログ(119)『イエス-道』:(10)“神のサポートを得るために”から内容的に続いています


イエス-道”における世界観 

 


ところで、私が長年にわたって聖書を探究してきて、現在、最も関心を持っていることは、イエス山上の説教における教えであり、イエスの世界観です。言い換えると、イエスが説いた“としてどのようにして生きていくか”ということについてです。のようになろうとすることでもなく、に対抗しようとすることでもなく、以上になろうとすることでもありません。として存在意義や価値があるのであり、として存在意義や価値がある。としての役割があり、としての役割がある。また、神という存在を"偶像化する"ことなく、あるいは、自分の都合に合わせて神を"カスタマイズする"ことなく、ただ神を在るがまま観て、捉えていって、その存在価値や意義を認め、受け入れていった上で、神と人の協力体制を築き、"共に"働いていく・・・これが神と人における本来のあるべき関係なのではないだろうか・・・『イエス道』を提唱する私としては、こんなふうに想っているわけです。


人が“本来の人としての生き方を全うしていく”ことが大事なのであって、単に、にすがって生きていくとか、に依存して生きていくとか、にぶら下がって生きていくとか、に甘えて生きていくとか、・・・そういうのは、ちょっとピントがズレているように私には想えるのです。確固とした人間”として生きていくことを、神自身も望んでおられるのではないのだろうかと、想うわけです。そのためには、もサポートを惜しまず、人に喜んで提供されるのではないか。


イエス山上の説教において、が“確固とした人”として生きていく上でのベースとなる秘訣・コツを教えていることに、私は注目しているのです。山上の説教の中に貴重な数々の教えが散りばめられていますが、特にマタイによる福音書7章1節~5節は、一般的には素通りされてしまうというか、あまり魅力が感じられないような箇所に見えるかも知れません。もっと霊的に励まされる聖句、ぜひ暗唱してみたいと想う聖句、心が引きつけられる聖句、紙にでも書いて壁に貼っておきたい聖句・・・などが、他に沢山あるかも知れません。


でも、私は、このマタイによる福音書7章1節~5節の中に、“人が人として生きるべき道”が説かれているゆえに、これらのイエスの言葉の奥に真理の輝きを観るのです。ここで語られている内容は、まさに『イエス-道』においてコアとなる教えでもあります。


さて、マタイによる福音書1章1節において、イエスは “さばくな”と教えている。さばかないジャッジしない、それはどういうことなのでしょうか? 人が何かをさばく(=ジャッジする)時に、そこには一体どのようなメカニズムがあるのでしょうか? “さばくこと”と“さばかないこと”の違いというか、境界線というのは、どのあたりにあるのでしょうか?


さばかない(=ジャッジしない)”ということは、もちろん、“何も判断しない”ということではありません。それはまた、マインドの働きをすべて停止するということでもないと想います。“さばかない”という場合でも、一定の判断、その場での判断、その時点での判断というのはするわけです。「こういうことなのかな・・・」。「こんなふうにも考えられるな」。「でも、もしかしたら私が考えていることとは、実際は違うのかも知れないな」。「現時点においては、私はこう思うが、ずーっと後になって、もっと様々な情報が集まって来たら違う答えが見つかるかも知れない」。このようにアイドリングを持った、柔軟性のある、余裕のある、固定化されていない観方や捉え方をしているわけです。ところで、“さばかない人”というのは、他人が自分と違っていても、それ自体はあまりストレスにはならないのです。違いを違いとして、そのまま受けとめようとする心の余裕・ゆとり・寛容さを持っているからです。100人いれば、100人が違って当然・・・と想えるわけです。


一方、“さばいている”場合は、これとはだいぶ違うのです。自分でファイナルアンサーを出してしまうのです。「私の判断は、絶対間違いはない。正論なのだ」。白か黒かをどうしてもハッキリさせたいのです。“ファジーなこと”をとても嫌うのです。自分の“正しい考え”、“自分の理想とするところ”、“自分が出した結論”と違うものを決して受け入れたくはないのです。固定化された思考パターンがそこにはあるのです。つまり、“さばく人”というのは、何らかの固定観念や既成概念や常識や先入観などによって支配されているわけです。これらが人の目の“”を構成している要素でもあるのです。そして、さばく人”は、自分の好き嫌いによって判断する傾向が強く、憎しみ・怒り・苛立ち・ゆるさない精神・怨念・報復心などの露骨にあらわすことが多いのも特徴となっているのです。さらに自分の基準に到達しない相手が身近な存在であれば、批判・非難・軽蔑・侮辱・攻撃したりして、自分の“正論”に従わせようとしたり、自分に謝らせようとしたり、場合によっては排斥したり、拒絶したりもすることもあるのです。さばく人”というのは、自分と違うことを嫌う傾向が強く、違っていること自体がストレスとなってしまい、それを解消するために相手を変えようとして、注意したり、あら捜しをしたり、批判したり、攻撃したりすることによって、相手を“教育”しようとしたり、“説教”したり、“高圧的”になったり、“鬼のような形相”になって相手を睨みつけたりすることも往々にしてあるのです。


ところで、“さばく”ということにおいて問題になってくるのは、やはり、このような心の目の前にある“”という存在です。この“”という問題をクリアーすること、その結果、心の目の視界が開けて、ハッキリと見えるようになるということが最も重要なことなのであって、その時に“さばく”生き方から“さばかない”生き方へと自然にシフトしていくことになるわけです。このようなことをマタイによる福音書7章1節~5節の中でイエスは教えている・・と、私は観ているのです。


さばかない人”は、相手がたとえ今どのような人であったとしても、その人のうちに“内なる光”(マタイによる福音書6章23節)が存在していることを知っているのです。“さばかない人”の心の目の前からは“”が取り除かれ、視界が開けているので、不可視領域の隠れた部分も観たり、直観で気づいたりすることもできるからです。


一方、“さばく人”は、自分のはもちろんのこと、他人の“内なる光”という存在にも気づいていないのです。さばく人”の心の目の前にある“”が視界を遮断してしまって、見えなくしてしまっているからです(マタイによる福音書7章3節~5節を参照)。



さばかないためのコツ・秘訣


「私は、これから“さばかない人”になろう」と想ったり、自分に言い聞かせたりすることによって、“さばかない人”になれるというわけではありません。事はそんなに簡単でも、単純でもないのです。長年にわたって身についている“さばく癖”を直すのは、思ったほどにたやすいことではないのです。それほどまでに、そのというのは、体と心の中に、深く、深く染み込んでいるものなのです。


さばかない人”になるためには、ちょっとしたコツ秘訣があるのです。イエスは、山上の説教の中でまず自分の目から梁を取りのけるがよい」(マタイによる福音書7章5節)と語っていますが、“はい、わかりました。ではそれを取り除きます”と決意するだけでは、それを成功させることはできないのです。


私は、このコツ秘訣に3つのアプローチ・ノウハウがあると観ているのです。そして、これら3つを同時進行でやっていけば、案外、効率よく、さばかない人”へとシフトしていけるのではないか・・・と想っているのです。


(1).“さばく”という行為に直接関わっている『自分のマインド部分の働き・メカニズム』に気づいて、それを意図的に停止させてしまえばいいのです。これまで優位になっていたマインドに支配されていた自分の想いを逆転させて、自分の想いの優位性に気づいて、高めていって、マインドを支配し、コントロールしていくというわけです。つまり、目の前にあることを判断する際に、『過去からの記憶情報が蓄積された自分のうちにあるデーターベース』に検索をかけて、ヒットした情報に照らし合わせて「これは、こういうことだ」と決めつけていたマインドの思考プロセスを凍結させてしまうというわけです。


(2).人は、物事を“さばく”場合には、必ず自分の中にある『過去から蓄積された記憶情報のデータベース』に照らして“さばいている”ものです。従って、『自分が現在保有している情報』がすべてをカバーできているのではないということ、『自分の情報量』は実際には微々たるものである(広い砂浜のほんの一握りの砂のようなレベル)ということに気づく必要があります。そして、何か物事を判断する必要がある場合には、ファイナルアンサーを出さず、最終的な判断・決定を下さず、いわゆる゛決めつけてしまうこと”をしないで、仮の判断、一時的な判断にとどめておくわけです。つまり、『過去情報、既成概念や常識や通念など』は、参考程度の扱いにするということ、言い換えれば、それらを絶対的なものとみなさないわけです。 


(3).そして、その後、判断の元になる情報のデータベース』の中に追加情報をさらに増やし続けていくことをしていくわけです。つまり、アンテナをさらに高く、もっと広範囲に張り巡らせて、様々な視点や角度からの情報、未知の情報、既成外の概念も含めて、精力的に情報の収集活動をやっていくわけです。このようなことを日々実践して、習慣として身につけていくことで、『井の中の蛙、大海を知らず』という“狭小な情報世界”からその人の想いは解放されて、自由となり、これまで見えなかったことが見えてきたり、気づいていなかったことを気づけるようになったりして、自分のこれまでの判断というものは絶対的なもの、無謬なものではなかった・・・ということをいずれは悟ることになるのです。


このようなプロセスを経て、これまで“さばきまくっていた人”、“さばいてばかりいた人”、“さばくことが当たり前になっていた人”が“さばかない人”へとシフトしていく道が大きく開けていくのです。その時に、その人にとって、“今ある世界”はずいぶんと変わって見えてくるに違いありません。それは、その人の“世界観”そのものが大きく変わったためなのです。


このようにして目にある“”が取り除かれていった時に初めて、「信仰の薄い者たちよ」(マタイによる福音書6章30節)とイエスに言われた人たちの信仰は“確立された信仰”へとシフトしていくことになり、「なぜ・・・思いわずらうのか」「あすのことを思いわずらうなマタイによる福音書6章28節、34節イエスに言われた人たちは、思い煩うことから卒業していくことになるのです。また、イエスは「神の国と神の義とを求めなさい」(マタイによる福音書6章33節)とも言われましたが、目にある“”が取り除かれた人たちが、この“神の国と神の義”をあるがまま捉え、観ることができるようになるのです。心の目にある”が取り除かれた人たちこそ、実に「心の清い人たち」なのであり、彼らは「神を見る」ことができるのです(マタイによる福音書5章8節)。だからこそ、神の国と神の義”をもありのままに見ること、捉えることが可能となるのです(エペソ人への手紙1章17節~19節を参照)。


また、イエスが教えたいわゆる主の祈り』も、目にある“”が取り除かれていった時に、有形無実化することなく、意味のある祈りとなるのです。なぜなら、『主の祈り』の核心部分とも言える“ゆるす”という行為マタイによる福音書6章12節を参照)は、心の目にある“”が取り除かれて“さばかない寛容の愛”へとシフトしていった人のみが自然にできる行為だからです。さらに、ゆるす”ということによって、想いにおいて“寛容の愛そのものである”と調和・共鳴していて、神と常に良好な関係を保っているのです。


イエスは、「にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう」(マタイによる福音書7章13節~16節)と山上の説教の中で語りましたが、目にある“”が取り除かれてハッキリと見えるようになった人たちマタイによる福音書7章5節を参照)が、見誤るというようなことはあり得ないと想います。


山上の説教の最後の締めくくりとして、イエスは「わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人・・・・、聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな者に比べることができよう」(マタイによる福音書7章5節を参照)と述べています。行うか?、行わないか? と イエスが 問われた「これらの言葉」の核心部分というのは、「人をさばくなマタイによる福音書7章1節と「自分の目から梁を取りのけなさい」(マタイによる福音書7章5節)の2点である・・・と、私は観ています。というのは、ベースとなるこれら2つの教えが実践されないと、イエスが語った他の教えはすべて無になってしまい、崩壊してしまうおそれがあるからです。

・・・・・・『イエス-道』:(12)“イエス-道・・・まずあなたの目から”続いています・・・・・・   

(10月14日 水曜日22:26に更新)(10月16日 金曜日23:46に更新)10月18日 日曜日17:30に第一段落に補足して更新

*お詫び・・・「ウインドウズ7」から「ウインドウズ10」にアップグレードしたら、ブログの文字の色が不安定になってしまい、今までのように見やすく色分けができなくなってしまいました。とても見にくくなってしまい、大変申し訳ありません。


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10/13(火)23:10更新 ブログ(119)『イエス-道』:(10)“神のサポートを得るために”

2015年10月13日 23時10分54秒 | イエス-道

 

前回の ブログ(118)『イエス-道』:(9)“最近の私の体験談” から内容的には何となく続いています

 


『イエス-道』:(10)“神のサポートを得るために”



人は、“孤独一人ぼっち)”なのではないということを前回のブログで書きました。肉眼では見えないながらも、『を含む不可視領域の様々な高次元の存在』も人の人生に深く関わっているからです。でも、が自分の方からそのようなとの関係を破壊していってしまうおそれもあるので、注意が必要になってきます。つまり、これはから人が自ら“孤立・離反”してしまうおそれがあるということです。


との関係を、の方から損なわないために重要なことは何か? これをイエスの山上の説教の中で探すことができると想います。その前に、がどのようなお方なのかについて観ていくことも、ヒントになるかと想うのです。


天国は、ほんとうにある』という映画の中で、トッド牧師が“である”ということに目が開かれたということを先ほど述べました。このというのは、“無償の愛”であり、“見返りを求めない愛”であり、分け隔てをしないですべてを包み込むような“寛容の愛”であり、それは取りも直さず“ゆるす愛”でもあるのです。このようなとの関係をが自ら断絶したり、切断したりしてしまうことがあるとすれば、それはどんな時なのでしょうか?


人は立派にならなければに愛されないということではありません。祈るから愛されるのでもなく、への信仰を表明するから人が救われるということでもありません。また、自分に欠点や弱点があるからというわけで、に嫌われるわけでもありません。過去に過ちや失敗をしたからというわけで、によく想われないというわけでもありません。


それでは、との関係を人間の方から破壊してしまわないために気をつけなければならない“一つだけ”というのは何か? その答えはマタイによる福音書6章14節~15節にあると想います。それはズバリ、人をゆるすということです。イエスは、主の祈りの中でも、その重要性を明確に述べられました、「わたしたちに負債のあるものをゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください」(同6章12節)と。


人を“ゆるす”か、“ゆるさない”かということが、に問われているのです。との関係において、どうもそれが決定的な影響を及ぼすようなのです。イエスに対する信仰を表明するか・しないか、に祈るか・祈らないか・・・というようなレベルの話ではないのです。


この『イエス-道』というブログの中でも、これまで繰り返し、繰り返し書きました、イエスの山上の説教における中心的メッセージ核心的なメッセージというのは“人をさばくな”である・・・と。人を“さばかない”とは、人を“ゆるす”ことでもあります。人をゆるすということは、“さばかないという寛容の愛”に生きるということです。


神ご自身が“さばかない寛容の愛(=ゆるす愛)”のお方であがゆえに(マタイによる福音書5章44節~45節を参照)、人が“人々のあやまちをゆるそうとしない想い”を抱いてしまう時にとの間の共鳴性がすぐに失われてしまうのです。との関係性に速やかに亀裂が入ってしまうことになるのです(マタイによる福音書6章14節~15節を参照)。


使徒パウロは、「あなたがたは、・・・寛容を身につけなさい。互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのようにあなたがたもゆるし合いなさい。これらいっさいのものの上にを加えなさい。は、すべてを完全に結ぶ帯である」(コロサイ人への手紙3章12節~14節)と述べています。


パウロのこのような視点から観ていった時に、との間のリンク、絆を断ち切らないために 人が気をつけることがあるとするなら、それはを含めたすべての存在ゆるしていくことなのではないか・・・。それは、いかなる存在をもさばくこと(=過去から蓄積されたデータに照らして評価を下すこと、決めつけてしまうこと)をしないで存在しているすべてのものを今この瞬間”においてあるがままを観ていく、認めていく、受け留めていくということではないでしょうか。これが、愛の本来のかたち愛の原則というべきものなのでは・・・。



“さばかない”対象をもっと広範囲に拡げていく


このような愛の原則、あるいは、愛の生き方というのは、人間関係においてだけではなく、人間以外の『不可視領域のすべての存在』にも対象を拡げていく必要がある・・・と、私は想っています。ともすれば、“従来型のキリスト教”の宗教的な考え方に染まってしまっている人々の場合、たとえば日本に昔からいる『様々な神々や神仏といった不可視領域の存在』を“異教のもの”だからといって、“善悪の固定観念のモノサシ”でさばいてしまって、あたかもの“”であるかのようにみなして、全否定してしまったり、敵対心を抱いたりしてしまう傾向があるのではないでしょうか?


それはいかがなものか・・・というのが、『イエス-道』を提唱する私の現時点におけるスタンスなのです。つまり、すでに存在しているすべてさばくことなく、あるがまま観ていく、捉えていく、受容していく、助け合って、協力し合って、共に進化成長を遂げていこうとすることこそが大切なのではないか・・・と、想うわけです。そもそも、こういった存在は、唯一絶対神とは実際には敵対関係にはない・・・と想います。すべてを統べ治めておられる唯一無二の絶対神にあっては、存在しているすべてのものは、エネルギーの質に応じて、一定の秩序の中で組み込まれていて、それらが実際に存在している限りにおいては、存在する意義・役割・目的をそれぞれ持っているのではないか・・・と想うのです。


もしが自分のうちに何かの存在を“敵視する想い”を抱いてしまうと、相手からもそれと同じ想いが跳ね返ってくることになります。これは、想いにおける“作用・反作用の法則”です。そうすると、気づかないうちに、戦いや争いに巻き込まれていってしまうおそれがあるのです。



と富という二人の主人


ところで、イエス山上の説教において「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、と富とに兼ね仕えることはできない。」(マタイによる福音書6章24節)と言いました。


ここで私が面白い表現だと想ったのは、“ふたりの主人”を“サタン(or 悪魔)”とかというふうにイエスが言っていない点です。人は、に仕えるか、サタン(=悪魔)に仕えるか、どちらかを選べ・・・と言えばスッキリするようにも想われるのに、イエスはそのような対比はされなかったのです。


例の資産家の青年イエスに「先生、永遠の命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」(マタイによる福音書19章16節)と質問した時にも、イエスサタン(=悪魔)のことについては一切触れなかったのです。あくまでも、問題の核心というものがどこにあるかというと、サタン(=悪魔という存在自体にあるのではなくて、むしろ、人の想いが“”に執着・固執してしまっていること、“”に想いが囚われ、こだわり、離れなくなってしまっていること、すなわち、何かに固着してしまっている人の想い自由度が失われてしまっている人の想いこそが問題なのだ・・・とイエスは言いたかったのではないか。だからこそ、イエスは、最後まで自分のというものに執着・固執し、囚われていた青年の想いを解放し、自由にしようと「帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」(マタイによる福音書19章21節)と命じられたと想うのです。


ヨブ記を観ても、そのことがわかります。確かに、ヨブの試練にサタンは確かに関与はしているものの、ヨブサタンを敵対視してはいませんし、まや、ヨブサタンとに戦いを繰り広げて勝利を勝ち取ったために試練が解決したということも、ヨブ記のどこを探しても書いていないのです。むしろ、“おそれおののき”に囚われていたヨブ想いが、そこから解放され、自由になっていった時に試練が消え去って行ったということが自然に読み取れるのです。


従って、人の心にある想いのあり方想いのベクトルの方向想いが何ものにも囚われないで自由になっているかどうか・・・そのようなところに注目すべきではないだろうかと想うのです。このような人の想いに大きな影響を及ぼしてくるもの、つまり、人の想い(=神の国天の父)に向けさせ、そことリンクを張るために重要になってくるもの、それがイエスが説いた“さばくな”を実践していくことにあるのではないか。これこそが人が神の国のゲートを通過していくために必要なこと、あるいは、にアクセスしていって、さらに良好な関係性を築いていくための秘訣、ノウハウである・・・と、イエスは教えられたのではないか・・・と、私は観ているのです。



イエス-道』の世界観


イエス-道』という世界観においては、“さばかない”という生き方がベースとなっているのです。それは、“過去に生きる”のではありません。“今、この瞬間、瞬間という唯一リアルな時間”を生きていくことに尽きると言えます。これは、“過去”との連続性の中で“今という時”を捉えないということを意味しています。“過去”のことは、字義通り“すでに過ぎ去ったもの”として、ただ去っていくがままに任せておくということ、手放していく(=Let it go)ということをしていくのです。過去にこだわって”生きていってしまうと、の想いの中には憎しみ、怒り、恨み、怨念といったようなネガティブな感情が溜り続けていくことになるのです。従って、“ゆるすこと”などは必然的にできなくなってしまうものなのです。“過去に生きる人”の想いというのは、『過去の情報・データ』に支配され、囚われ、縛られ、振り回され、固執している状態です。このような状態にある人が、すべての人を愛し、ゆるしていくということは至難のわざとなってしまうのです。


これとは対照的に、“今を生きている人”の想いというのは、『過去から蓄積されているデータベースにおける情報』からしっかりと解放されて、もはや自由となっているので、“ゆるしていく”ということはごく自然にできてしまうものなのです。なぜなら、その人の想いは、“今という、この瞬間、瞬間”を“過去の記憶情報”と切り離した状態で、観ることができるからなのです。


このことを応用していくと、自分がはたして『過去に生きている人間』なのか、『今を生きている人間』なのかということを判別する“めあす”がわかってきます。もし一人でもゆるせない人がいるなら、“過去に生きている”ことになります。そのような人は、“今という時”を“すでに過ぎ去ってしまった過去という時間”から切り離すことに失敗しているということです。


一方、自分にはゆるせない一人もいない、敵も人いない、おそれも不安も心配も思い煩いなどもなく、心がいつも穏やかであるというならば、“今という瞬間、瞬間を生きている”という可能性が高くなります。


さばかない”ということをベースとして生きている人の器というものは、徐々に、大きくなっていくことになります。受け入れる許容量が、日々増えていくのです。私の場合、ある時点では数名の構成メンバーだったのが、今や230名ほどにまで増えています。おそらく、私の想いがリンクしている『ハイパー宇宙ネットワーク』への参加メンバーは、これからも増え続けていくと想います。でも、個性も能力も役割などもそれぞれ違うメンバーが、どんなに増えていったとしても、秩序が乱れて収拾が取れなくなっていくというようなことはありません。互いに、“さばかない寛容という愛”の想いによって一つに結ばれているからです。これからもそれぞれの構成メンバーそれぞれが意識の進化成長を遂げながら、これまで築いてきた協力体制や信頼関係をさらに深めていくことになると想います。


また、“さばかない”ということをベースとして生きている人の想いの中には、“敵”は存在していないのです。今、現に存在しているものは、たとえそれがいかなる存在であっても、それぞれ何かしらの存在目的があり、意義があり、役割があると観ているからです。


さらに、“さばかない生き方”を貫いている人たちの心の目は澄んでいて、その内なる光は暗くなることなく、いつも明るく輝いているものなのです(マタイによる福音書6章22節~23節、7章1節~5節を参照)。


さばかないという何ものにも囚われない自由な想いというのが“信仰や祈り”、“との関係”、“人間関係”、“確固とした人としての生き方”などにおいても鍵を握っているのです。そして、この心の中にある“想い”こそが人の人生における様々なドラマを創り出している可能性があるのです。つまり、不可視領域における潜象可視領域における現象を生み出しているというメカニズムが・・・。だから、自分の心の中にある想いを解放し、清めていくことが、とても大切になってくるのです(ルカによる福音書11章39節~41節、マタイによる福音書15章16節~20節、同5章8節を参照)。そして、不可視領域における潜象に及ぼす人の“想い”の影響はとても大きいと想われます(ヨブ記3章25節を参照)。

 ・・・・・・続く・・・・・・   

(10月12日 月曜日21:56に更新)(10月13日 火曜日23:10に改訂更新)

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10/7(水)23:20更新 ブログ(117)『イエス-道』:(8)『“信じる”とか“信仰”とかではなくて』(その5)

2015年10月07日 23時20分00秒 | イエス-道

『イエス-道』:(8)『“信じる”とか“信仰”とかではなくて』(その5)


このブログは、『イエス-道』:(8)『“信じる”とか“信仰”とかではなくて』(その4)からの続きです




人を自由にする真理


もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたを自由にさせるであろう。」(ヨハネによる福音書8章32節~32節


このように、イエスは語られたことがあります。人の想いがもし何かに囚われているなら、本当の意味において、人は自由とは言えません。


では、イエス実際に語った言葉の中で、何が一体、人の想いを囚われから解放し、“自由をもたらす真理”と言えるのでしょうか?


それは、イエス信じるということなのでしょうか? イエスの御名によって祈ること? イエス十字架の福音を信じるということ? イエスのために救霊活動にいそしむこと? いえ、そういうことではない・・・と私は想うのです。

10月4日 日曜日 18:00 更新


想いがいかなるものにも縛られない、囚われない、固着・執着・固執しないで、ニュートラルな状態に保っているということが、人は本当に自由と言えるわけですが、これを可能にするノウハウイエスの言葉の中に探そうとすると、マタイによる福音書7章1節~5節の中にその答えが隠されているのではないか・・・と、私は観るのです。それは、「さばくな同19章1節と「自分の目から梁を取りのけるがよい同19章5節という言葉です。ここに天の父御旨マタイによる福音書7章21節を参照)が凝縮されているように、私には想えてならないのです。


コインの裏表


そして、私は、イエスが山上に説教の中で説いたこのさばくなと「自分の目から梁を取りのけるがよい」の2つのメッセージの一方が“コインの表”とすれば、他方は“コインの裏”。このような関係にあると観ているのです。つまり、この2つは“表裏一体の関係”にあるというわけです。このような“コイン”を自分の心のうちに持っているかどうかということが問われている・・・と想うのです。イエスはまた、「持っている人は更に与えられ、持っていないは、持っていると思っているものまでも、取り上げられるであろう」(ルカによる福音書8章18節)と言われました。ここで持っているとか、持っていないとか言われているものというのは、この“コイン”のことである・・・と観ることもできる。


マルタとマリヤ

マルタマリヤのストーリー(ルカによる福音書10章38節~42節を参照)の中で、イエスは「しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」(同10章42節)と言われました。この“無くてならぬ・・・一つだけ”というのも、この“コイン”のことであると観ることができます。今、自分の目の前におられるイエスの口から語られる御言葉を一言も漏らすまいと想いながら聞き入っていたマリヤは、イエスをさばくことなく、先入観や偏見という“”も取り除かれた状態だったといえます。一方、「よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」(同10章40節)とイエスに進言したマルタは、自分の多忙さと妹のマリヤが何もしないでイエスの話を聞いている暇さ加減を比較したり、今の接待のため猫の手も借りたいような忙しい状況にあるというのに、この場の空気を読んでいないイエスの無神経さにいら立っていたのでは・・・と推測できます。つまり、マルタマリヤイエスをさばいていたのであり、目の前にいるイエスの口から語れている貴重なメッセージの価値がいかなるものかに気づけない程に、マルタの目からは“”が取り除かれていなかったということなのです。つまり、マリヤはこの“コイン”を持っていたが、マルタはこの“コイン”を持っていなかったということなのです。


十字架上の二人の強盗

イエスが十字架上にかけられていたその時に、二人の強盗も、一人が右に、一人が左にやはり十字架にかけられていました(マルコによる福音書15章27節~33節、ルカによる福音書23章39節~43節を参照)。この強盗の一人は、最後までイエスに悪口を言い続けたと記されている。ところが、もう一人の強盗は、「お互いは自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない。・・・イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」(ルカによる福音書23章41節~42節)と語ったのでした。つまり、一方的な情報(うわさ)だけを根拠にイエスをさばき、イエス自身の目に見えない真実が見えていなかった前者の強盗目には“梁”が取り除かれないままだったのです。すなわち、この“コイン”を持っていなかったということ。一方、回りの人々の偏見に満ちた誤情報にも翻弄されることなく、今、自分の目の前におられるイエスをさばくことなく、あるがまま観て、認めることができた後者の強盗の目からは“”が取り除かれていたのです。すなわち、この“コイン”を持っていたということなのです。


では、このさばくなと「自分の目から梁を取りのけるがよい」とが表裏一体になっている“コイン”について、さらに考察してみましょう。


この2つがちょうど“コイン”の表裏のように一体になっている・・・と私がなぜ言うのかというと、さばくなと「自分の目から梁を取りのけるがよい」の2つは、実は、互に密接にリンクし、連動しているからなのです。


さばかないこと”を実践していくことによって、人は“自分の目から“”を取り除いていくこと”ができるのです。逆に、人は“さばき続けること”によって、自分の目に“”を増やしていってしまうことになるのです。


逆に、人の目に“”があると、『目に見えない事実』を観て、認めていくという心の目(=信仰の目)の視力に支障をきたしてしまうことになるのです。“今、この瞬間、瞬間に入ってくるリアルな情報”、“目に見えない事実や真実に関わる情報”、“既成概念を越えた既成外の道の貴重な情報”などを受け取ることができなくなってしまい、その結果、『過去から蓄積されてきた既成概念や常識、固定観念、洗脳された情報、誤情報、偏見や先入観で歪曲された情報など』に照らして物事を判断するようになってしまうので、“正しいさばき”ではなく、“誤ったさばき”を下すようになってしまうのです。



信仰と祈りを確立するもの


そして、このような密接な関係があることを理解し、これを上手に利用していくことで、いわゆる“信心の訓練”をすることも可能になってくるわけです。また、“信仰”と“祈り”を確立する道も開かれてくるのです。


使徒パウロは、信仰”のゆえに“律法”を無効にするのではない、むしろ、信仰”によって律法”を確立するのだ・・・と言いました(ローマ人への手紙3章31節を参照)。でも、私はさらに突っ込んで言いたいのです、その“信仰”を確立していくのが、実は、さばくなと「自分の目から梁を取りのけるがよい」というイエスの教え(=ちょうど“コイン”のようにこれら2つが表裏一体になっている教え)であると。


山上の説教において、イエスは思い煩っている者たちのことを「ああ、信仰の薄い者たちよ」(マタイによる福音書6章30節)と言いました。このような“薄い信仰(=確立されていない信仰)”というのは、実は、さばくなと「自分の目から梁を取りのけるがよい」が表裏一体になっている“コイン”によって “確立された信仰”にシフトしていくのです。


祈り”についてもイエスは山上の説教の中で語られました。それは、有名な『主の祈り』です(マタイによる福音書6章9節~13節を参照)。この祈りにおける核心部分というのは、“わたしたちがゆるす」ということです。に祈る『主の祈り』の内容のほとんどは「・・・ように」、「・・・ください」というお願い・依頼の表現になっているのですが、唯一、私たちが実践すべき明確なことというのが「わたしたちがゆるしていく」ということなのです。そのことがとても重要であるために、『主の祈り』をイエスが教えたすぐ後に、再度、“私たちが人々のあやまちをゆるすこと”の重要性を繰り返し説いているのです(同6章14節~15節を参照)。との関係において、人間の側から亀裂や断絶をもたらさないためにも、“ゆるすこと”は物凄く大事なことなのです。実は、この“ゆるす”ということは、“さばかない愛(=寛容の愛)”そのものなのです。また、自分の目から“”が取り除かれて、心の目の視界が開けてくると、人を観る視点もこれまでとは変わってくるので、“ゆるす”ことも容易になってくるものです。もし、私たちが人々を“ゆるすこと”を実践していかないならば、主の祈り』は有形無実化してしまうことになります。いわゆる、口先だけの祈りになってしまうのです。


ヨブのケース


では、旧約聖書のヨブ記の主人公、ヨブのケースはどうなのでしょうか? よくよく観ていくと、ヨブイエスの山上の説教の中で語られていたこの“コインのように表裏一体になった教えに気づいた時に、ヨブの人生から試練が消えていったことがわかります。ヨブはもちろん、イエスの山上の説教を聞いたことはありません。でも、ここに紹介されている普遍的なノウハウに自分の体験の中で気づくことができた故に、試練は役割を終えて消え去っていくしかなかったのです。ヨブの場合、“コイン”の1つの側面(=目から取り除かれなければならない“)というのは、“善悪の固定観念”と“おそれおののきの原因となっていた過去の記憶情報”ではなかったかと推測することができます(ヨブ記1章1節、3章25節を参照)。そして、“コイン”のもう1つの側面(=さばくな)というのは、ヨブ試練そのもの、、それに自分自身を含めてすべてのことをさばくことをやめて、あるがまま認め、受け留め、包み込むように受け入れていった時に、霧が晴れるように試練が消え去って行ったというところに観ることができます。


イエスの十字架の意義


天の神から遣わされたというイエス十字架の意義というのは、皆さんはどこにあると想いますか? イエス十字架は、“罪のゆるしの福音”(使徒行伝13章38節とも呼ばれていますこれも、ある意味において、“コイン”のような表裏一体の教えそのものであることがわかります。イエス十字架は、“あなたの罪をさばこうとする(=断罪する、責める)のではなく、むしろ、あなたの罪をゆるした”というの宣言であり、啓示であると言えます。ここで“罪をゆるした”ということは、さばかない寛容の愛”であなたを包み込んでいる、受容しているということなのです(ヨハネによる福音書3章17節を参照)。これが“コイン”の表だとすると、“コイン”の裏(=“を取り除く”)というのは、イエス十字架上で死なれた時に、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けたという現象にも現れている(マタイによる福音書27章50節~51節を参照)。人の体というのは、が宿る神殿だと言われている。ところが、罪の結果、(=覆い)が人の心にかかっているため、栄光を受けられなくしてしまっている現実を使徒パウロは述べているわけです(ローマ人への手紙3章23節を参照)。つまり、イエスが死なれた瞬間に神殿の幕が上から下まで裂けたという現象というのは、栄光が心に届いて隅々まで明るく照らすようにするために、人の心にかかっている(=覆い)と取り除こうとしているのわざを示しているのです。


これがイエス十字架に秘められたの側からの救いのアプローチなのです。すなわち、をさばこうとしているのではなく、むしろ、ゆるして、救おうとされている『における目に見えない事実・真実』がここにあるのです。そして、その事実・真実に人が気づけるようにと、は人の心の目を覆っている(=)を取り除こうとしておられるのです。つまり、ここにも“コイン”の裏表があるわけです。


十字架イエス対して、の側からどのようにアプローチしていくべきかが、ここでとても重要になってきます。もしここでがさばくことをやめ、自分の心の目の“(=)”を取り除いて、イエス十字架をあるがまま観ていき、認めていき、受け留めていくなら、そこににおける目に見えない事実・真実』がその人の心のスクリーンに映し出されてくるというわけです。ここにも、“コイン”の裏表があるわけです。実に、このようなプロセスを経て、例の十字架上の強盗は、「お互いは自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない。・・・イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」(ルカによる福音書23章41節~42節)と言うことができたのです。

(10月5日 月曜日 22:44 更新)(10月6日 火曜日 23:35 一部改訂して更新


ところで、『時間』という視点から観ていくと、が高次元の存在であるとの接点を持つためには、“今、この瞬間の時”においてアクセスするしかないのではないか・・・と、私は想っています。過去を探しても、未来を探しても、を見つけることはできないのではないか・・・と。今、この瞬間の時”こそ“唯一リアルな時間”なのではないだろうかと。神界には、人間界にあるような『時間の概念』というものは存在しないように想えるのです。過去の記憶の中に救いを見い出すのでもなく、未来に救いを期待するのでもなく、“今、この瞬間、瞬間”にこそ『リアルな救い』というものが存在しているのではないのか・・・と。私には、そのように想えてならないのです。


従って、人の想いが過去に囚われてもならないし、未来にシフトしてしまってもよくないのではないかと想うのです。人の想いというものが、過去や未来にシフトして、そこにこだわったり、囚われたり、縛られたり、固執したりするところから、恐怖、思い煩い、失望や絶望、心配、不安、怒り、憎しみ、報復心、怨念といったようなネガティブな想念が生み出されていくのではないか。


人が今、この瞬間”を生きるようになるためのノウハウとして、イエスが教えたものというのがマタイによる福音書7章1節~5節の中に凝縮されていると私は想うのです。それは、ちょうど“一枚のコイン”のようなものであると観ているわけです。そのコインには裏面と表面があり、しかもそれらの両面は表裏一体なのです。すなわち、さばくなという面と「自分の目から梁を取りのけるがよい」という面が表裏一体になっている“コイン”こそが、過去という幻想でもなく、不確定な未来にでもなく、今、この瞬間”という唯一リアルな時間の一点に人を留まらせることができるというわけです。ここにおいて、とアクセスが可能となるのです。の栄光を観ることになるのです。の国の開かれたゲートを見い出すことができるのです。


 10月7日 水曜日 23:20 更新) ・・・・・・まだまだ続きます・・・・・・お楽しみに・・・

 

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10/4(日)17:32更新 ブログ(116)『イエス-道』:(8)『“信じる”とか“信仰”とかではなくて』(その4)

2015年10月04日 17時32分05秒 | イエス-道

『イエス-道』:(8)『“信じる”とか“信仰”とかではなくて』(その4)



『イエス-道』:(8)『“信じる”とか“信仰”とかではなくて』(その3)からの続きです。



このことを理解するためには、特に、マタイによる福音書6章14節~34節をカバーして解読していくことが必要になってくるように想えます。では、さっそく観て参りましょう。


まずは、“地上に宝をたくわえること”と“天に宝をたくわえること”が、イエスによって対照的に述べられていることがわかります。


再び、途中の説明を省いて言ってしまうと、実は、“地上に宝をたくわえる”こと(マタイ6章19節を参照)というのは、“人をゆるさない”こと(同6章15節)、“あなたの目が悪い”こと(同6章23節を参照)、“富に仕える”こと(同6章24節を参照)、“思い煩う”こと(同6章25節~34節を参照)、“信仰の薄い者たち”(同6章30節)に密接に関連していることがわかります。


一方、“天に宝をたくわえる”こと(マタイ6章20節を参照)というのは、反対に、“人々のあやまちをゆるす”こと(同6章14節)、“あなたの目が澄んでいる”こと(同6章22節を参照)、“仕える”こと(同6章24節を参照)、“思い煩わない”こと(同6章25節~34節を参照)、“の国との義とを求める”こと(同6章33節を参照)に密接に関連していることもわかります。


そして、“天に宝を”とはどんな意味なのかを解読するための『ヒント』をイエス与えておられるのです。それは、「あなたの宝のある所には、心もあるからである」(同6章21節)という言葉です。


つまり、“天に宝が持つ”、とか、“天に宝を蓄える”というのは、人のにあるということ、言い換えれば、その人のに引きつけられている心のベクトルの方向をしっかりと向いているということ。さらに観かたを変えて言うなら、心の目が“”でブロックされていない(=目が澄んでいるということ)ため、天(=神の国天の神)をハッキリと見ているということなのです。このような人たちにとって、人をゆるすということはそんなに難しいことではないのです。地上のことで心を悩ませたり、思い煩ったりもしないわけです。なぜなら、“Let it go(=手放す)”という生き方を身につけているからです。


逆に、“地上に宝が持つ”、“地上に宝を蓄える”というのは、人の地上にあり、地上のものが引かれている、囚われているということ、言い換えれば、その人の心のベクトル地上の方向を向いているということであり、心の目が“”でブロックされていて(→そのために目が悪くなっている、信仰が薄くなっている)、(=神の国天の神が見えなくなっているという現実があるのです。その結果、人の想いは地上のものに引かれたり、地上の様々なことで思い煩ったり、人をゆるすことすらできなくなってしまうのです。このような人々には、“Let it go(=手放す)”という生き方が身についていないのです。むしろ、“Get it(=それを得よう”という想いが強く、また、自分がすでに得たもの(=自分が持っているものや、これまで自分が蓄えてきたもの、自分の心の中にある固定観念や既成概念など)に依存したり、しがみついたり、執着したり、固執したり、囚われたり、縛られてしまっているのです。


資産家の青年は、「持ち物を売り払って、・・・」というイエスの言葉を聞くと、悲しみのうちにその場を立ち去って行きました。なぜでしょうか? 自分の持ているもの、自分の所有物として蓄積してきたもの(=財産や資産)に対して、青年の想いがあまりにも強く引きつけられていたために、Let it go(=手放す)ことがどうしてもできなかったからなのです。


では、人がLet it go(=手放す)”ことができるようになるためのコツ秘訣というものはあるのでしょうか? 

(9月29日 火曜日 夜 更新


この資産家の青年の場合、イエスに言われた通りに自分の財産をすべて売り払うことができるようになるために、に向かって、もっともっと熱心に精力的に祈ること』が必要だったのでしょうか? 『今以上にもっと強く信じること』が重要だったのでしょうか? あるいは、心の中で自分が所有している財産を手放そうと強く想ったり、念じたりしたらよかったのでしょうか? そうすれば、彼は実際には無一文となるものの、“天に宝を持つ”ことになり、その結果、永遠の命を得ることになった・・・というのでしょうか? そして、こうなることがこの青年にとって、最も理想的な展開だったと言えるのでしょうか?


しかし、私には、どうしてもそのようには想えないし、合点がいかないのです。つまり、イエスがご自身の心の中でそのように描いていた、あるいは、計画していたとは、到底、私には想像できないのです。イエスご自身、その後ですぐに「にはそれはできない・・・マタイによる福音書19章26節の前半と明言されたからです。でも、人にはできないという現実をしっかりと認めながらも、「にはなんでもできない事はないマタイによる福音書19章26節の後半)というふうにイエスは語られたのです。


ここでイエスは、“通常、が思いつくような『いかなる方法』を使っても絶対に無理であるが、『が用意・提供された方法』ならそれは可能である・・・”と言いたかったように私には想えてならないのです。言い換えると、の側で信仰を一生懸命働かせるとか、精力的に祈ってみるとか、手放したり、捨て切るように自分の“想い”を強化してみるとか、あるいは、自己暗示をかけたりしてみるとかして、イエスに言われたことを実行に移そうとしても、この資産家の青年にはもともとできなかった・・・ということ。これが私の現在の観かたなのです。


では、『が用意・提供された方法』とは、一体、何なのでしょうか? もちろん、この方法というのは、が何もせずに、ただに依存して、に代わってやっていただこうというような“虫のいい話”ではないと想います。もしそうであるならば、は進化成長を遂げていくことはできないからです。に提示された“ノウハウ”というのは、の側で実践すべきことなのです。すなわち、を効率よくサポートしていけるように、の側でやるべきことなのです。の側でやるべきことがあり、の側でもやるべきことがあるのです。その時に、との絶妙な協力体制というものが構築され、その中にあっては進化成長していくことが可能になるのではないか・・・と想うのです。イエスを通して示された『の方法』というのは、律法主義でもなく、信仰主義でもなく、あるいは、祈りによってに依存していくという方法でもなかった。つまり、がむしゃらに何か良いことをやればいいとか、単に信じればいいとか、祈ればいいとか・・・そういうものではないと、私は観ているわけです。この点が、“従来のキリスト教的な考え方”と“イエス―道(Jesus the Way)の考え方”を比べていくとハッキリしてくる大きな違いではないか・・・と想うのです。



資産家の青年とアブラハムに与えられた共通の課題


その『の方法』というものを説明する前に、旧約聖書にあるアブラハム息子イサクにささげるという場面を振り返って観てみることは、案外、理解の助けになるのではないか・・・と想う。資産家の青年の場合は、自分の財産をすべて“Let it go(=手放す)”こと(=売り払うこと)ができるかが問われていましたが、ここではアブラハムイサクを“Let it go(=手放す)”ことができるかどうかということが試されていた。このように、両者には、共通点があるからです。

10月1日 木曜日 22:15 更新10月2日 金曜日 23:45 更新


さて、が約束されていた“あとつぎ”となる息子イサクが生まれたのは、年老いたアブラハムがすでに100歳の時でした(創世記21章1節~5節を参照)。そして、アブラハムの子孫が、この息子を通して星の数ほどになるであろうと、にかつて言われていたのでした。ところが、一人息子のイサクがまだ子供だった時に、アブラハムに課題(=試み)が与えられたのでした。すでに高齢になっていたアブラハムと妻サラの間にイサクが生まれたこと自体がの祝福だったわけですが、さらに星の数ほどの子孫も与えられるという大きな祝福が与えられると約束されていたにもかかわらず、その前に、アブラハムにとってかなりキツイ試練が与えられたというわけです。それは、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」(創世記22章2節)というの指示でした。これは、例の資産家の青年に「帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」(マタイによる福音書19章21節)とイエスが言われたことと同じようなタイプの試練だったと想われます。


この資産家の青年の想いは自分の財産・所有物に対して執着して、囚われてしまっていたようです。同様に、一人息子イサクに対するアブラハムの想い入れは、自分の目の中に入れても痛くない程の溺愛レベルにあったのではないか・・・と考えられるのです。つまり、両者に対して、そのような想いをキッパリと断ち切れるかどうか、すなわち、“Let it go(=手放す)”ことができるかどうかという共通の試練(=課題)が与えられたということです。


資産家の青年の場合は、結局、想いにおいてはLet it go(=手放す)”ことができずに、そのままイエスのもとを悲しげに立ち去って行ってしまいましたが、アブラハムの場合は想いにおいてLet it go(=手放す)”ことができて、その後、が約束された通りに星の数ほどの子孫が与えられることになります。


ここでちょっと立ち止まって考えてみましょう。現実的にも、想いにおいても、資産家の青年は自分の財産・所有物手放さなかったわけです。一方、アブラハムの場合は、に命じられた通りに一人息子イサクを燔祭としてささげようと刃物を執って殺そうとした時に、想いにおいては手放したのでした。ところが、主の使いが現れて、それを直前に中止されたので、現実的にはイサク手放さずに済んでイサクはそのまま生きていたわけです(創世記22章9節~18節を参照)。

10月3日 土曜日 23:24 更新


このことは、私たちに何を教えているのでしょうか? 


が注目して観ておられるのは、単に人の外面的な行ないがどうなのかではなくて、むしろ、心の中にある想いのベクトル”がどちらを向いているか(=心がどこにあるか)ということではないでしょうか(マタイによる福音書6章21節を参照)?


しかしサムエルに言われた、『・・・・わたしが見るところは人とは異なる。・・・・は心を見る』」(サムエル記上16章7節


イエスは山上の説教の中でも、「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」(マタイによる福音書6章24節)と説かれたことからもわかると想います。つまり、人の“想いのベクトル”は一つの方向しか向くことができないという特徴があるため、ふたりの主人のうちのいずれかにしか、あるいは、のいずれかにしか向くことができないということです。


からの賜物”として与えられたイサク(=地上の宝)にずーっと向けられ固着・愛着していたアブラハム想いのベクトルは、から“イサク手放すという課題”が与えられた時に、イサク(=地上の宝からふっ切れて、天の宝)へとしっかりと方向転換をしていたのでした。一方、資産家の青年想いのベクトルの向きは、自分の財産・所有物(=地上の宝)を手放すという課題が与えられた後も、方向転換することはなかったのです。つまり、彼の想いは、課題が与えられたビフォーもアフターも、依然として“地上の宝”に執着し続けていたというわけです。


資産家の青年は「永遠の命を得るためには、どんなよいことをしたらいいのでしょうか」(マタイ19章16節)とイエスに質問したわけですが、地上に宝を持ったり、蓄えたりするところには永遠の命はなかったということなのです。つまり、心の想い地上の宝に向けられている、囚われている、執着しているところには、永遠の命はないということ。言い換えると、永遠の命を得るためには、この地上で“いかなる良い行ない”を積んだり、蓄えたりした自分の所有物(それが物質であっても、良い行ないであっても)に自分の想いが囚われていてはならないということなのです。 地上で自分が築き上げた“いかなる良い行ない”も、永遠の御国に入るための交換条件として提示することはできないのです(マタイによる福音書7章22節~23節を参照)。永遠の命を得るための鍵というのは、実に、人の心の中にある想いのベクトルが(=天の神神の国)を向いていることにあるからです。


イエスは、山上の説教の中で明確に言われました、「天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである」(マタイによる福音書6章20節~21節)と。


それでは、人の想いが地上のものに囚われず、執着・固執せず、しがみつくことなく、引きつけられないようにする秘訣・コツというのは、どこにあるのでしょうか? どうしたら、人の想いを上手にコントロールすることができるのでしょうか? 言い換えれば、それは人の想いを解放し、自由にするノウハウは何かということでもあります。

10月4日 日曜日 17:32 更新

・・・・・・『“信じる”とか“信仰”とかではなくて』(その5)に続いています・・・・・・

 

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9/29(火)22:47更新 ブログ(115)『イエス-道』:(8)『“信じる”とか“信仰”とかではなくて』(その3)

2015年09月29日 22時47分45秒 | イエス-道

『イエス-道』:(8)“信じる”とか“信仰”とかではなくて』(その3)


このブログは、『イエス-道』:(8)『“信じる”とか“信仰”とかではなくて』(その2)からの続きです



イエスが教えようとしておられた事というのは、人が永遠の命を得る(=神の国あるいは天国に入る)には、すなわち、人が救われるためには、その人が「天に宝を持つ」ことが必要なのだ、あるいは、「天に宝を持つ」ことがすなわち“救い”なのである・・・と言いたかったのではないのか・・・と、私には想えるのです。



Get it”ではなく、“Let it go”の発想


途中の説明をすべてカットして、結論を最初に言ってしまうと、イエスが教えようとされていた救いに関する真理というのは、“Get it”しようとすると人は救いを見失ってしまい、逆に“Let it go”するところにこそ救いがあるということ。つまり、救いを手に入れよう(=得よう)、自分のものにしよう、自分のもとに蓄えていこうというような発想を持ってしまうと、人の救いはまさに「らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」(マタイによる福音書19章24節)ということになってしまうということです。


通常の人が抱く発想とは真逆の発想へと転換をしない限り、の国(=天国)への入り口の重い扉は開くことはないということをイエスは教えようとされたのではないか・・・。弟子たちが「では、だれが救われることができるのだろう」と言った時に、イエスは「人にはそれ(=救われること)はできないが、にはなんでもできない事はない」と述べられました(マタイによる福音書19章26節)。が提供している救いに至るために大きな発想の転換が人に求められているわけです。そして、山上の説教の中においても、イエスは明確にその救いの道を示されたのでした。


人は救われようとして、それをGetしようという発想をしてしまうものです。資産家の青年イエスに「永遠の命を得るためどんなよいことをしたらいいのでしょうか」と質問したのは、まさに“Get it の発想(=それを得ようとする発想)”と言えるのです。


ところが、イエスがこの青年に気づいてほしかった事というのは、青年が持っていたのと正反対の発想の中にこそ“あなたが求めている永遠の命があり、救いがある”ということ。つまり、“Get it の発想”から“Let it go の発想”へと発想の転換を図っていく必要性を気づかせようとしておられたのでした。“Let it go の発想”とは、“手放していくということ”です。言い換えれば、いかなるものにも人の想いが捕らわれない、固執しない、執着しない、こだわらない、しがみつかない、囚われないということ。ここに、実は、人が救われるための秘訣があるのです。


このようなことに気づかせようとして、イエスはこの青年に「・・・帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう」(マタイによる福音書19章21節)と語ったのでした。このイエスの言葉を聞いて青年が悲しげに立ち去った後のイエス弟子たちの間にかわされたやり取りをみても、やはりそうだったのか・・・とわかります。


・・・ペテロイエスに答えて言った、『ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。・・・』・・・イエスは彼らに言われた、『・・・おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てたは、その幾倍をも受け、また永遠の命を受けつぐであろう。・・・・』」(同19章27節~29節


捨てる”ということ、つまり、“手放すという発想”(=Let it goの発想)を持って生きていく時に、人は初めてそれを“得ることができる”ということなのです。逆に、“Get it の発想=それを得ようとする発想”を持って生きていくと、それを“失なう”ということです。ここにイエスが説く救いの奥義が隠されているのです。このことを知っている方は、一体、どれくらいおられるでしょうか? 聖書を学び、教会に通い、長年にわたって信仰を持っておられる人々の中にも、もしかしたらまだよく理解しておられないかも知れません。


イエス自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。(マタイによる福音書10章39節)、自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。ルカによる福音書9章24節)と語ったことがありましたが、この“パラドックス”のように想えるようなこの言葉が意味していることをよくわかった時に、“イエスが教えようとしていた“救い”とは一体どこにあるのか”ということを人は知ることになると想うのです。


「私は信仰を持っているから、救われるはずだ」とか、「私は熱心に祈っているから、私はに救ってもらえるはずだ」と想ってしまったら、それもまた“Get it の発想=それを得ようとする発想”そのものなのです。自分が持っているものによって、自分がこれまでやってきたことを根拠にして、あるいは、自分のこれまでの生涯の中で積み上げてきたこと(=功績、成績、努力や達成してきたことなど)、そういうものによって救いを得ようとする発想、その見返りとして救いを得ようとする発想、それを根拠にしてに救っていただこうとする発想・・・というのは、イエスの言葉を聞いて悲しげに立ち去って行った資産家の青年の発想となんら違いはないのです。この点がよくわかっていないと、自分ではイエスを信じているつもりなのに、実際には、イエスにつまづいていることになるのです。


実は、山上の説教の中でも、人類が天国に迎え入れられるその日に、自分がイエスにつまづいていたという事実に最後まで気づくことがなかった多くのキリスト教信者が出てくることをズバリ指摘されたのでした。


わたしにむかって『よ、よ』という者が、みな天国にはいるのではなく、ただ天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者、わたしにむかって『よ、よ、わたしはたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』というであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」(マタイによる福音書7章21節~23節


このような主イエスの言葉を聞くことは、悲し過ぎます。あまりに悲し過ぎて、涙すら出ないかも知れません。 ここで言われているのは、イエスを信じてこなかった人々のことではないのです。主イエスを長年にわたって信じてきたはずの多くの信者が天国から締め出されてしまうというのです。一体、なぜなのでしょうか?


そこには、実は、共通点があるのです。彼らの発想の問題です。つまり、彼らの救いの真理に関する捉え方に問題があるということです。


自分の救いを得るために、自分の中に自分が救われるための理由、根拠、保障、功績、実績、生涯の中で積み上げてきたことに依存し、頼っていたという事実が、“今ここで”判明したということに過ぎないといえるのです。言い換えれば、自分がこれまで“Get”して、自分の中に蓄えてきたものによって、救いを得よう、救いを買い取ろう、救いを交換しようという発想を持っていたということなのです。これは、まさに「先生、永遠の命を得るためには、どんなよいことをしたらいいのでしょうか」(マタイによる福音書19章16節)とイエスに質問してきた資産家の青年がもっていた発想と全く同じものなのです。


人が生涯を通して“Get してきたもの”が、たとえのために、主イエスのために、救霊のために、人々への奉仕のために・・・・という名目でやってきた行為であったとしても、もしそれらすべてを自分の想いにおいて“しっかりと手放し”(=Let it go)、捨て切ることができるならば、天国の入り口の扉は彼らの為に軽やかに開いて、迎え入れるのです。このように全てを手放し、捨て切るという“Let it go の発想”で生き抜いていくならば、その人の救いは確かなものになるのです。資産家の青年も、イエスに「帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう」(マタイによる福音書19章21節)と言われた時に、実は、ここに気づくべきだったのです。ここに気づきさえしたら、この青年はたとえ資産家であったとしても天に宝を確保することができ、結果的に永遠の命を得ることもできたはずなのです。

9月26日 土曜日 0:55 更新) (9月26日 土曜日 20:35 更新


 

“天に宝”


さて、前回のブログ『“信じる”とか“信仰”とかではなくて』(その2)において、マタイによる福音書19章における重要なキーワードは「天に宝を持つ」(同19章21節)ではないか・・・と述べました。


このセクションでは、“天に宝”という視点から、マタイによる福音書19章16節~22節捉え直してみましょう。はたして、ここからどのような真理が姿を現してくるのでしょうか?


イエスは、資産家の青年に対して、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」(同19章21節)と語ったのですが、この“天に宝”というキーワードに隠された意味を探ろうとしたら、これにリンクしているイエス山上の説教におけるメッセージに注目しなければなりません。


ここで、イエスは「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。・・・」(マタイによる福音書6章19節~20節)と説かれたのでした。


では、“天に宝を持つ”、あるいは、“天に宝をたくわえる”とは、一体、どういうことを意味しているのでしょうか? このことを理解するためには、特に、マタイによる福音書6章14節~34節をカバーして解読していくことが必要になってくるように想えます。では、さっそく観て参りましょう。


まずは、“地上に宝をたくわえること”と“天に宝をたくわえること”が、イエスによって対照的に述べられていることがわかります。


再び、途中の説明を省いて言ってしまうと、実は、“地上に宝をたくわえる”こと(マタイ6章19節を参照)というのは、“人をゆるさない”こと(同6章15節)、“あなたの目が悪い”こと(同6章23節を参照)、“富に仕える”こと(同6章24節を参照)、“思い煩う”こと(同6章25節~34節を参照)、“信仰の薄い者たち”(同6章30節)に密接に関連していることがわかります。


一方、“天に宝をたくわえる”こと(マタイ6章20節を参照)というのは、反対に、“人々のあやまちをゆるす”こと(同6章14節)、“あなたの目が澄んでいる”こと(同6章22節を参照)、“神に仕える”こと(同6章24節を参照)、“思い煩わない”こと(同6章25節~34節を参照)、“神の国と神の義とを求める”こと(同6章33節を参照)に密接に関連していることもわかります。


そして、イエスは“天に宝を”とはどんな意味なのかを解読するための『ヒント』も与えておられるのです。それは、「あなたの宝のある所には、心もあるからである」(同6章21節)という言葉です。


つまり、“天に宝が持つ、天に宝を蓄える”というのは、人のにあるということ、言い換えれば、その人の心のベクトルの方向をしっかりと向いているということ。それは、心の目が“”でブロックされていない(=目が澄んでいるということ)ので、(=神の国や天の神)をハッキリと観ること、認めることができるということなのです(マタイによる福音書7章5節を参照)。このような人たちにとって、人をゆるすということは難しいことではないのです。地上のことで思い煩うこともないわけです。“Let it go(=手放す)”という生き方を心得ているからです。


逆に、“地上に宝が持つ、地上に宝を蓄える”というのは、人の地上にあり、地上のものに心が引かれている、囚われているということ、言い換えれば、その人の心のベクトル地上の方向を向いているということであり、心の目が“”でブロックされていて(→そのために目が悪くなっている、信仰が薄くなっている)、が見えなくなってしまっているという現実があるのです。その結果、人の想いは地上のものに引かれたり、地上の様々なことで思い煩ったり、人をゆるすことすらできなくなってしまうのです。“Let it go(=手放す)”という生き方が身についていないのです。逆に、“Get it(=それを得よう)”という想いが強く、また、自分がすでに得たもの(=自分が持っているものや、これまで自分が蓄えてきたもの、自分の心の中にある固定観念や既成概念など)に依存したり、しがみいたり、執着したり、固執したり、囚われたり、縛られてしまっているのです。


9月27日 日曜日 23:26 更新9月29日 火曜日 22:47 補足更新


・・・・・・『イエス-道』:(8)『“信じる”とか“信仰”とかではなくて』(その4)続く・・・・・・

 

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9/25(金)23:12更新 ブログ(114)『イエス-道』:(8)『“信じる”とか“信仰”とかではなくて』(その2)

2015年09月25日 23時12分14秒 | イエス-道

『イエス-道』:(8)“キーワードは 信じる”とか“信仰”とかではなくて・・・』(その2)

 

 

このブログは、イエス-道:(8)『“信じる”とか“信仰”とかではなくて』(その1)からの続きです。

 

 

こんなふうに観てくると、ヨブ記の主人公であるヨブも、単に、信じ抜いたからとか、最後まで耐え忍んだからというわけで試練から救われたのではないということがわかる。そんな単純な理由ではなかったのです。そこには裏があったのです。そのことを裏付ける証拠、あるいは、ヒントが、もちろん、ヨブ記に記されているのです。


それはヨブ記のどの箇所だと、皆さんは想いますか?


私が注目しているのは、ヨブが最後にに対して語った以下の言葉です。

わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします」(ヨブ記42章5節


ヨブは、今や自分自身の目で主なるを見たというのです。この言葉の意味するところは、何でしょうか? イエスの山上の説教に照らして観ると、ヨブの目から“”が取り除かれたが故に、ありのままの栄光を見たのではないか・・・ということを容易に察することができるのです(マタイによる福音書7章5節を参照)。また、使徒パウロの書簡に照らして観た場合には、長きに渡ってヨブの心をおおっていた“覆い”が今や取り除かれた・・・ということがわかるのです(コリント人への第2の手紙3章12節~18節を参照)。


ヨブ記から、あるいは、ヨブの体験から私たちはどのような重要なポイントを学ぶべきか?・・・というと、それは“忍耐すること”でも、何があっても“信仰を貫き通すこと”でも、“に祈り続けること”でもなかった。ここで私は、“忍耐すること”や“信じること”や“祈ること”そのものを軽んじているわけではありません。試練の中にいたヨブにとって、実は、それよりもっと、もっと重要なことがあったと言っているのです。


ヨブ記を探究するにあたって、特に注目すべきポイントは二つあるのではないか・・・・と私は観ている。


一つ目のポイントは、人の想いは何ものにも捕らわれてはいけないということです。ヨブの場合、彼の想いが、特に“恐れ”というネガティブな想念に捕らわれてしまったことが試練・不幸・災い・苦難を自らの人生の中に引き寄せ、引き込む“きっかけ”を作ってしまったと察することができるからです。

わたしの恐れるものが、わたしに臨み、わたしの恐れおののくものが、わが身に及ぶ。」(ヨブ記3章25節


これは、ヨブ自身の口から語られた言葉です。もし、ヨブの想いが“恐れ”に捕らわれていなかったとしたら、彼の人生はヨブ記に書いてあるような“苦難に満ちた人生”とはまた違ったものになっていたはずなのです。


ヨブ記に私たちが学ぶべき二つ目のポイント、それはヨブの人生から試練が消え去っていった『転機』は何だったということに関連しているのです。その『転機』というのは、ヨブ心の目が開かれた時だったということです。言い換えれば、ヨブ心の目の視界を遮っていた“(=心の覆い)”が取り除かれて、はっきりと見えるようになった時だったのです(マタイによる福音書7章5節を参照)。実際に私たちの人生において何らかの課題が与えられている時に、このコツをいかに応用していったらよいのか・・・、このことをヨブの体験から学ぶべきなわけです。


もちろん、すべての人がヨブと全く同じような霊的な体験ができるわけではありません。ヨブの人生の中にが直接介入してきて、いろんなことをヨブと論じている(ヨブ記38章~41章を参照)。これは、レアな体験と言える。しかし、私たちの人生における様々な課題、問題、トラブル、壁、逆境、不運な出来事などに遭遇しているような時に、ヨブの人生から試練が消え去っていく引き金となったのは、ヨブの心の目から“(=心の覆い)”が取り除かれていった結果、ハッキリと見えるようになったことであることに私たちが気づくことは、とても重要なことです。そのコツを学んでいくことは、この世の中にあって人としてそれぞれの人生を送っていく上で、きわめて重要なことだと想うのです。


ところで、ヨブの場合はの直接の関与があり、神ご自身の創造の一つ一つの具体的なみわざにヨブの想いを転換して向けさせることによってヨブ心の目にかかっていた“(=心の覆い)”が取り除かれ、ハッキリと見えるなった時に、試練という問題が消え去っていったということですが、私たちはそれと同じようなことを他の方法でやっていけばいいわけです。


今、学ぶべきポイントは二つあると言いましたが、突き詰めていくと、これら二つのポイントというのは、一つに集約されるのがわかる。


では、そのノウハウについて学んで参りましょう。


実は、イエス自身山上の説教の中で、そのノウハウを説いているのです。それは当ブログでも何度も繰り返して、皆さんに伝えてきたものです。多くの人々が、何気なく読み過ごしていたような聖句でもあると想う。


それは、「人をさばくな」(マタイによる福音書7章1節)ということです。とても単純に想えるかも知れませんが、実に、これがイエスが教えた“人としてこの世を生きていく上でのノウハウであり、コツであり、秘訣”と言えるのです。もちろん、これは“人をさばかない”ということだけではなく、“神をさばかない”、“イエスをさばかない”、“起った出来事や状況、置かれた環境などもさばかない”など、“一切をさばかない”というふうに普遍的な真理として捉えていった方がよいのではないか・・・と私は考えている。でも、その人が“さばかない生き方”をしているか、あるいは、“さばく生き方”をしているかは、その人の人間関係において顕著に現れてくることは確かです。目に見えない神を愛しているかどうかすら、目に見える人々を愛しているかどうかにそのまま反映されてくるように(ヨハネの第1の手紙4章20節を参照)。


何を信仰の対象としてきたかとか、しっかりと信じなさいとか、熱心に神に祈りなさいとか、信仰者として忍耐をしているとか・・・、そういうこと以上に、実は、「さばくな」というイエスの教えを実践していくことがとても大切なのです。イエスは、山上の説教の最後のところで、“砂の上に建てた家”と“岩の上に建てた家”の違いについて語っている。私たちが自分の人生の中で積み上げてきたものが、砂上の楼閣のようになってしまうかどうかの決定的な違いというのは、イエスが山上の説教の中で語った言葉を「聞いて行う」か「聞いても行わない」かにあると明言されたのです(マタイによる福音書7章24節~27節を参照)。そして、イエスがこの説教の中で語った言葉の中で最も重みのある言葉というのが、「さばくな」(ジャッジするな)という言葉ではないかと、私は観ているのです。


この「さばかない」ということは、一体どういうことなのかについて、今から観ていき 、再確認して参りましょう。  

(9月21日 月曜日 23:46に更新)9月22日 火曜日 23:20 更新)(9月23日 水曜日 9:28 更新


さばく」というのは、自分の中にある『過去から蓄積された記憶の情報のデータベース』に検索をかけてヒットした“特定の情報”に照らして、物事を評価したり、判断したりしていった上で、さらに自分が評価や判断の基準としたその “特定の情報”が絶対に間違いがない、無謬であるとみなして、自分が下したその評価や判断を絶対的なものであるとし、唯一の答え、もしくは、ファイナルアンサーとして決めつけてしまうことを意味している。


そのような思考プロセスの中で、“さばく人”の想いというのは“損得勘定、善悪の固定観念、自分にとっての価値の有無、好き嫌いの感情など”のいろんな影響を受けてしまうもの。物事をあるがまま、ありのまま、素直に観ていくというような心の余裕などは微塵もないということも特徴です。また、物事を観ていく視点や角度もそれほど多くはないものです。 自分が知っている情報というのは実際には微々たるもので、知らない情報は自分の心の視界が遮られている向こう側にまだまだ無限に近いほど存在している事実を知らずにいるのです。まさに、『井の中の蛙、大海を知らず』の世界に埋没してしまっている人というのが、“さばく人”と言えるのです。


このように「さばく」ということがどういうことなのかということがよくわかってくると、逆に、「さばかない」ということの意味するものが何であるのかが自ずとわかってくる。 人の想いというのは、本来、自由なものです。自由な発想をしていくのか、ワンパターンの固定化された発想をしていくのかは、その人自身に実は任されているのです。本来自由なものであるはずの自分の想いに制限を設けていく、縛りをかけていくのは、実は、自分自身なのです。何か現象や出来事や課題が生じた時に、それをどのような想いで捉えていくか、受け留めていくかは、まさにその人次第なのです。


さばく人”の想いの自由度はかなり狭くなっていることは、皆さんにも容易に想像できるのではないでしょうか? つまり、“さばく人”の想いは、何かに囚われている、縛られている、がんじがらめになっている、こだわっている、固執している、執着している状態にあるわけです。


たくさんの資産を持っていた1人の青年が、イエスに近寄ってきて 「先生、永遠の命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」(マタイによる福音書19章16節)と尋ねたことがありました。その時、イエスは 「もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」(同19章17節)と答えたのでした。すると、すかさず青年は「どのいましめですか同19章18節と、旧約聖書にいろいろと記されている戒めの中のどの戒めのことを言っているのか特定してもらうために、さらに質問をしたのでした。これに対して、イエスは人間関係に関わる戒めを旧約聖書から引用したのでした。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証をたてるな、父と母を敬え』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』。」(同19章18節~19節


この時、この青年はおそらく 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証をたてるな、父と母を敬え』という前半の戒めに関しては、これまで自分は守ってきたという一定の自信は持っていたかも知れません。後半の『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』という戒めについては、青年は自分のことも、隣り人のことも愛していると“思い込んでいた”のではないか・・・と、私は想うのです。“隣り人”というのは、必ずしも自分に好意を持っている人であるとは限らないのです。場合によっては、自分が嫌いだと思っている人、憎んでいる人、ゆるせない人、もしかしたら敵対心を持っている人であるかも知れないのです。たとえいずれの場合であっても、自分を愛するように、“隣り人”を愛するということなど、そんなに簡単なことではないのです。


そのイエスの答えを聞いた青年は、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう同19章20節と言ったのでした。つまり、“永遠の命を得るための条件”としてイエスが提示したすべて戒めを落ち度なく、この青年守ってきたと思い込んでいたということです。でも、永遠の命を自分は得ているという“確信”はなかったのでした。だから、この青年の魂の深いところでは、正直なところ、何らかの“不足感”、“不完全感”を感じ取っていたのです。


すると、イエス青年が魂の奥底で“何かまだ物足りない”と感じ取っていたその“正体”を明らかにするために、あえて続けてこう言われたのでした。「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい。」(同19章21節


この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。同19章22節と、弟子のマタイは結んでいる。


ここまで読んできて、イエスは一体、この青年に何を気づいてほしかったと、皆さんは想いますか? この青年の経験から、一体何を学ぶべきなのでしょうか? 実は、ここには結構 深い真理が語られているように、私には想えるのです。


青年が立ち去ってから、イエス弟子たちに 「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方がもっとやさしい」(マタイによる福音書19章23節~24節)と語ったのですが、これがイエスが最も言いたかった『最終的な結論』だったのでしょうか? イエスのこの言葉を聞いた弟子たちは、自分たちの救いについても心配になってきたみたいで、「では、だれが救われることができるだろうか」(同19章25節)という驚きの言葉が思わず彼らの口から出てきたのでした。


お金持ちが永遠の命を得るという祝福にあずかることは至難のわざだ・・・というのが、弟子たちにイエスが教えようとしていた真理だったのでしょうか? つまり、この青年の本質的な問題というのは、たくさんの資産を持っていたにあったと? 正直なところ、私にはどうしてもそのようには想えないのです。  


あるいは、この青年の問題というのは、“イエスに対する信仰”が不足していたことだったとか、日頃からに熱心に祈っていなかったことが問題だったとか・・・そのような答えもピントが外れているように、私には想えてならないのです。


永遠の命を得る(=神の国あるいは天国に入る)ことに関してイエス青年との間でかわされたやり取りが記されているこのマタイによる福音書19章16節~26節奥深くには、一体全体どのような真理が隠れているのでしょうか? 当ブログでは、この点についてさらに想いを巡らし、探究を続けていきたいと考えているのです。


さて、「では、だれが救われることができるのだろうか」という弟子たちの不安げな言葉を聞いて、イエスはすかさず「人にはできないが、には何でもできない事はない」(同19章26節)と明言したのでした。つまり、永遠の命を得るのにどうしたらよいのかとか、神の国(=天国に入るためにはどうしたらよいのかとかということが、ここでのテーマになっているわけです。これを言葉を換えて言えば、『人はどうしたら救われるのか』というとても重要なことが、実は、イエスに対するこの青年の質問の“核心”といえるのです。このような人の永遠の救いがかかっている重大な問いかけの答えが、“富んでいる者が救われ難くて、貧しい人の方が比較的容易に救いにあずかれる”というのが、もしイエスからのファイナルアンサーだったとしたら、私は自分の耳を疑ってしまいたくなるのです。イエスが本当に伝えたかったことというのは、それとは全く違う次元の内容だったのではないか・・・私はそう確信しているのです。


従って、どうしても、マタイによる福音書19章16節~26節の中に隠されている真相(=人の救いに関する真理)の中身を解明していく必要があると想うのです。

 

ところで、このマタイによる福音書19章における重要なキーワードは「天に宝を持つ」(同19章21節)ではないか・・・と、私は観ている。この聖句の霊的な意味合いを深く、さらに奥深くへと掘り進んでいくと、埋もれている真理を発見できるのでは・・・と。このキーワードは、実は、イエスの山上の説教の中で語られた「天に、宝をたくわえなさい」(マタイによる福音書6章20節)という箇所にリンクしていて、ここからイエスのもとを悲しみのうちに立ち去ったこの青年が抱えていた問題の本質というものが見えてくるような気がしてならないのです。


9月23日 水曜日 23:44)9月25日 金曜日 23:12 更新中


 ・・・・・・このブログは、『イエス-道』:(8)『“信じる”とか“信仰”とかではなくて』(その3)に続く・・・・・・

 

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9/21(月)20:24更新 ブログ(113)『イエス-道』:(8)『“信じる”とか“信仰”とかではなくて』(その1)

2015年09月21日 20時24分31秒 | イエス-道

 このブログは、『イエス-道』:(7)“神と人との関係性”(その2)からの続きです

 

『イエス-道』:(8)キーワードは“信じる”とか“信仰”とかではなくて・・・

 


またまた変な題をつけて・・・と想わないで下さい。 さて、聖書を観ていくと、“信じる”とか“信仰”という言葉を頻繁に目にする。従って、聖書を読み解くためのキーワードは、“信じる”、“信仰”ではないか・・・と多くの人たちは考えているのではないでしょうか。確かに、聖書の表向きのキーワードは、“信じる”とか、“信仰”と言えるのかも知れませんが、私には隠れたキーワードがあるように想えて仕方がないのです。


キリスト教信者は、“世の人たち”やいわゆる“異教徒たち”と比べて、自分たちが神の子イエス天の父なる神神の聖霊に対する“信仰”を持っていることが大きな違いなんだ・・・、そのことを自分たちが“信じている”点こそが根本的に違うところなんだ・・・・と想っておられるのではないでしょうか? 自分たちのアイデンティティーを確認するためにも、自分たちの“信じている”対象の違いや、自分たちの“信仰”の強さというものを結構意識しているのではないか・・・と想うのです。「自分にとっては、“信仰”がすべて」と想って生涯を過ごして来られたような熱心なクリスチャンであれば、「自分の人生から“信仰”を取ったら、もう何も残らないよ」と考えるかも知れない。


今回のブログでは、『イエス-道』の視点から、“信仰”の対象が何なのかということが重要なのでしょうか・・・、“信じる” とは一体どういうことを意味しているのかという本質的な問題をこれから皆さんと一緒に想い巡らしてみたいのです。


しばらくまた、私の心の旅に気長にお付き合いを・・・。 


ところで、“信じていること”と、“信じていると思い込んでいること”は同じではなく、そこには大きな違いがあるように私には想えるのです。イエスユダヤ人たちとのやり取りを観ていくと、それがわかるのではないでしょうか(ヨハネによる福音書8章31節~59節を参照)。この箇所を観ると、ユダヤ人たちは「わたしたちの父はアブラハムである」というふうにイエスに語り、自分たちこそアブラハムの末裔、すなわち、神に選ばれた民、“正統継承者”であることを主張したのでした。つまり、ユダヤ人たちはアブラハムが信じたそのをまさに信じているということを言ったのでした。「わたしたちにはひとりの父がある。それはである。」(ヨハネによる福音書8章41節


この時、イエスは彼らに、「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている」(ヨハネによる福音書8章44節)とズバリ指摘したのでした。つまり、イエスに言わせると、これらのユダヤ人たちアブラハムを“信じている”と単に思い込んでいただけなのであり、実際に“信じていた”のは悪魔だったというわけです。を“信じていた”つもりが、実際には、と対極にある悪魔を気づかずに“信じていた”ということがあり得るというわけです。


これはどういうことかと言うと、信仰の対象自体に問題がなくても、“信じている”と本人が思い込んでいる『対象』と、実際に信じている『対象』が一致しておらず、全く異なるような場合がある・・・ということを意味しているのです。


聖書のこの箇所を読むキリスト教信者は、“私たちキリスト教信者の場合は、イエスを受け入れようとしなかったこれらのユダヤ人たちとは全く立場が違う”と想うかも知れない。本当にそうなのでしょうか?


イエス山上の説教の中で語った内容を読むと、必ずしもそうではないということがわかるのです。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのでははく、・・・。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。・・・行ってしまえ』」(マタイによる福音書7章21節~23節)。 つまり、ユダヤ人たち信じていると言っていたが、が遣わされたイエスを拒んだことがまずかったんだ。でも、キリスト教信者の場合はだけでなく、さらにが遣わされたイエス・キリストのことも同時に信じているのだから大丈夫・・・」ということでは必ずしもないということなのです。


本人が“信仰”と想っていることが、実は、“憶測”や“思い込み”に過ぎないという場合があるということです。つまり、「私には、“信仰”がある」と想って、安心したり、油断したりしてはいけない・・・ということ。

 

使徒パウロは、主イエスが再臨されることを想い、信仰と愛と救いの望みを持ち続けることの大切さを次のように説いた。「兄弟たちよ。その時期と場合とについては、書き送る必要はない。あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る。・・・・だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。・・・わたしたちは昼の者なのだから、信仰との胸当を身につけ、救の望みのかぶとをかぶって、慎んでいよう」(テサロニケ人への第1の手紙5章1節~8節)。


ところが、イエスがご自分が再臨される頃に、人々がその“信仰”をしっかりキープしていくことがいかに難しいことであるのかを見通しておられたようなのです。というのは、イエスはご自身が再びこの地上に戻られる時のことを想い、次のように語られたからです。

しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」(ルカによる福音書18章8節


主イエスの再臨に備える人々にとっては、“信仰”というのはとても重要な要素であるはずなのに、その“信仰”自体が地上に見られなくなってしまうという現実をとても危惧しておられたようなのです。


ところで、ヨハネの黙示録1章~3章にかけて、『7つの教会の預言』が書いてあります。その中で、7つ目のラオデキヤにある教会の御使に、送られたメッセージに特に注目してみたいのです。これは、主イエスの再臨の直前のキリスト教会の状態であるというふうに観ることもできます。


ここで主イエスは、次のように指摘されているのです。「・・・あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買いなさい、また、あなたの裸の恥をさらさないため身につけるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。・・・」(ヨハネの黙示録3章17節~18節


ここで特に注目したいキーワードというのは、“火で精錬された金です。聖句を聖句で解釈するという原則から観ていった時に、この“火で精錬された金”というのは、実は、“信仰”を象徴していることがわかります。ペテロの第1の手紙1章5節~7節に照らして、ヨハネの黙示録3章18節を観ていくと、そのことを確認することができます。


あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰によりの力に守られているのである。そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変わるであろう。」(ペテロの第1の手紙1章5節~7節


このことからも主イエスがこの地上へ再び戻られることを待ち望んでいる人々にとって、“信仰”をしっかりと保っていくということはとても大事なことであることがわかります。


ところが、この大事な“信仰”というものがどういうわけか、再臨の直前に地上の人々から見失われてしまっているおそれがある・・・と主イエスは言われたのでした。 


何故でしょうか? 一体、どこに原因があるのでしょうか? この点について、皆さんは、どう想いますか?


人々が“信仰至上主義”に陥ってしまう時に、このような不幸が起こってしまうのではないかと、私は想うのです。人々が“律法主義”に陥ってしまっても、もちろん、イエスの再臨の備えをすることは無理でしょう。でも、それと同じくらい“信仰至上主義”に陥ってしまった場合も、再臨の準備はできなくなってしまうのではないかと、私は観ているのです。“信仰至上主義”に陥ってしまうと、“信仰”は幻想になってしまうのです。“信仰”は空虚なものになってしまうのです。“信仰”は、実体にないものになってしまうのです。“信仰”は、憶測思い込みとすり替わってしまうのです。私たちは、自分の“信仰”にすら依存してはならないのです。


では、主イエスの再臨に対して賢明に準備して、安心して神の国に迎え入れられるためには、言い換えれば、イエスの譬え話にあるような“五人の思慮の浅い者”ではなく、“五人の思慮深い者”になるためには(マタイによる福音書25章1節~13節を参照)、私たちはどうしたら良いのでしょうか? 


このブログを通して、イエスが“信仰”が地上から見られなくなってしまうと指摘されたその原因を解明し、そうならないための対策は何かについて、これから皆さんと共に考えていきたいと想っているのです。

 

では、主イエスが再臨される前に、この地上から“信仰”が見られなくなってしまう原因対策は、一体、どこにあるのでしょうか?


先ほど引用したヨハネの黙示録ラオデキヤ教会へのメッセージの中にも、実は、その原因対策についてのヒントがハッキリと主イエスによって述べられていたのです。


・・・あなたは、・・・目の見えない者・・・であることに気がついていない。そこで、あなたに勧める。・・・わたしから・・・見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい」(ヨハネの黙示録3章17節~18節)つまり、“信仰”が見られなくなってしまう原因というのは、“主よ、主よ”と言う再臨信徒たちの「目がみえない」ことにあるのであり、対策というのは主イエスから「目に塗る目薬を買いなさい」ということにあるのです。これはどういうことかというと、主イエス山上の説教に照らして観た時にもっとわかりやすくなると想う。


まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきりと見えるようになって、・・・。」(マタイによる福音書7章5節


つまり、主イエスが「さばくな」と山上の説教の中で明言されていたにもかかわらず、その教えの重要性に気づかないまま、イエスのこと、物事、状況、置かれた環境などを“さばいている”ために、“信仰”が『風前の灯火』のような状態になっているということなのです。“さばいている”人の、心の目は“(=覆い)”でブロックされ、視界が遮断されてしまうのです。逆も真なりで、心の目が“(=覆い)”でブロックされ、視界が遮断されてしまっていると、その人はいろんなことを“さばいてしまう”のであり、“信仰”は働かなくなっているのです。もし人の“信仰”に何かトラブルが起こるとすれば、その原因はその人が“さばいていること”、あるいは、心の目が“(=覆い)”でブロックされ、覆われて、視界が遮断されてしまっているところにあるのです。


実は、『さばくこと』と『心の目が“(=覆い)”でブロックされ、視界が遮断されていること』というのは、ちょうど“コインの裏表の関係にある”とも言えるでしょう。


従って、“信仰”を回復させるための手立て・対策というのは、自ずとわかってくると想う。つまり、『さばかないこと』であり、『自分の心の目をブロックし、視界を遮断していた“(=覆い)”を取り除くこと』にあるわけです。『さばかないこと』と『自分の心の目をブロックし、視界を遮断していた“(=覆い)”を取り除くこと』も、実は、互に“コインの裏表の関係にある”のです。『さばかないこと』を実践していくことで、自分の心の目をブロックし、視界を遮断していた“(=覆い)”を取り除かれていくのです。逆に、『自分の心の目をブロックし、視界を遮断していた“(=覆い)”を取り除くこと』によって、その人は自ずとさばかなくなっていくものなのです。


信仰”というのは、“見えない事実・真実・真理”を認め、観て、捉えていくという心の働きなのです(ヘブル人への手紙11章1節、ローマ人への手紙10章9節、コリント人への第2の手紙5章7節を参照)。この“信仰”という心の目が開かれた時、人はとはいかなるものかをハッキリと認め、観ることができるのです。


心の清い人たちは、さいわいである。彼らはを見るであろう。」(マタイによる福音書5章8節


これは、もはや“盲目的な信仰”や“曖昧な信仰”、“実際はどうかわからないけど取り敢えず信じておこう”・・・といったようなものではなくて、今や “確信”となるのです。


だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。」(ヘブル人への手紙10章35節


さばくこと”を放棄し、“さばかない”という生き方に自らの人生の舵を大きく切った人たちの信仰の目というのは、かつては霊的には「盲目であった」が、「今は見えるということ」なのです(ヨハネによる福音書9章25節)。このような人たちは、使徒パウロと共に、「わたしたちの賜わっている聖霊によって、がわたしたちの心に注がれている・・・」(ローマ人への手紙5章5節)と証言するのです。この聖霊というのが、実は、ヨハネの黙示録ラオデキヤ教会へのメッセージにもあった“目に塗る目薬”だったのです(エペソ人への手紙1章17節~18節を参照)。彼らはまた、使徒ヨハネと共に、「わたしたちは、がわたしたちに対して持っておられる知り、かつ信じているである」(ヨハネの第1の手紙4章16節)と証言するのです。


信仰”と“さばかないこと(=心の目からを取り除くこと)”の関係がよくわかっていただけたでしょうか?


ところで、使徒パウロはまた、「あなたがた自身がよく知っているとおり、の日は盗人が夜くるように来る。・・・・だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。・・・わたしたちは昼の者なのだから、信仰との胸当を身につけ、救の望みのかぶとをかぶって、慎んでいよう」(テサロニケ人への第1の手紙5章2節~8節)と、信仰と共にの重要性についても触れている。このというのは信仰がそうであるように、“さばかないこと”と密接に関係しているのです。このは、に属するなのであって、まさに“さばかない寛容の愛”、“さばかずに、ゆるしていく愛”そのものを意味しているのです。


寛容でありは情深い。」(コリント人への第1の手紙13章4節


あなたがたの寛容をみんなの人に示しなさい。主は近い。」(ピリピ人への手紙4章5節


・・・あなたがたは、に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい。互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさいもあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい」(コロサイ人への手紙3章12節~13節

 

 (9月17日 木曜日~9月21日 日曜日 20:24に更新

・・・・・・イエス-道:(8)『“信じる”とか“信仰”とかではなくて』(その2)に続く・・・・・・


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9/17(木)21:44に更新: ブログ(112)『イエス-道』:(7)“神と人との関係性”(その2)

2015年09月17日 22時07分53秒 | イエス-道

このブログは、『イエス-道』:(7)“神と人との関係性”(その1)からの続きです


『イエス-道』:(7)神と人との関係性”(その2)


従って、もし人々あやまちをゆるさない(=あるがまま受容しないで、拒否することを意味する)というのであれば、それは取りも直さず、に対してもそのようにしていることになるのです。どの人の“内なる光”も奥の奥のずーっと奥の方ではと通じている・・・、とリンクしている・・・、と繋がっている・・・、あるいは、とエネルギー的に共鳴している・・・のではないかと、私は観ているのです。このように観ていと、人々のあやまちをゆるさないは、自分の方からとの信頼関係を壊していることになるのです。だからこそ、現に見ている人々を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできないというイエスの弟子ヨハネの言葉はまさに真理である・・・と言えるわけです(ヨハネの第1の手紙4章20節を参照)。


ところで、肉体をもった人類)の中にに起源をもつ神聖なものといえるこのような内なる光”を創造されたという事実を気づく時に、あるいは人類という存在は、深遠で綿密な計画と目的のもとに創造されたのではないだろうかと、想わざるを得ないのです。以下は、使徒パウロの言葉です。彼自身も、もしかしたらこのようなことに何となく気づいていたのかも知れない。 

 

ああ深いかな、の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。『だれが、の心を知っていたか。だれがの計画にあずかったか。・・・」(ローマ人への手紙11章33節~34節


コトハという視点から観ていった時に、“”(=)を“”(=とどめる)と書いて、ヒト”となります。であるとするならば、そのを内にとどめてヒト(=)という存在が出来上がっていると捉えることができる。このように観ると、にとっても特別な存在としてを創造されたのではないか・・・。未だにまだ十分に明らかになっていないの御旨のうちに秘められた奥義(=深遠な計画と目的)というものがあって、内なる光”を兼ね備えたという存在がこの物質世界で創造されたとするなら、にはかけがえのない尊厳、存在価値、存在意義というものがある・・・と言えるのではないだろうか。



寛容の愛を基調とする信頼関係の上に成り立っている協力関係


このような視点からとの関係性を観ていくと、の前に卑屈になったり、自己卑下をしたりする必要はなく、逆にまた、の前で尊大になったり、に対して対抗意識を持ったり、あるいは、のようになろうなどと傲慢になったりする必要もないのでは・・・と私は想うのです。はあくまで“として”のユニークな価値と尊厳と能力が与えられているのであり、は“として”のユニークな価値と尊厳と能力を備えているわけです。として“確固たる人”へと進化成長していけばいいのです。


従って、の関係性というものを観ていく時に、どちらが上で、どちらが下というふうに“上下関係”で捉えるべきではなく、あるいは、支配する・支配されるというような関係もいかがなものか・・・と私は想うのです。それぞれの立場能力役割存在意義というものを互いにあるがまま認め合い、尊重しつつ、受容し合って、寛容の愛を基調とする信頼関係の上に成り立っている協力体制を築き上げていく、構築していくことこそがこれからの世界(物質世界だけではなく、それ以外の様々な世界も含めて)のために、特に重要になってくるのではないか。このように、私は捉えているのです。


ところで、使徒パウロローマ人への手紙8章28節で、「は、を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」と記している。


と共に働くという言葉のニュアンスは、をご自分の支配下に置いて“操り人形”のように想いのままに操るとか、あるいは、“奴隷やロボット”のようにこき使うということではなくて、お互いにそれぞれの自由意思ユニークな能力与えられた役割などを認め合いながら、信頼関係に基づいた協力体制を築いて、一緒に力を合わせて働くということ。このように、私は観ているのです。


には、が持っていない肉体という器が与えられている。ここにもまた、としてのユニークな存在意義があると言える。


使徒パウロは、また「あなたがたはの宮であって、の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。・・・の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。」(コリント人への第1の手紙3章16節~17)とも記している。この肉体という器には、様々な次元の存在を宿すことが可能になっている。そして、この肉体にを宿すことによって、神殿として機能させ、とが協力し合って、共に事を成していくということが期待されているわけです。


さて、出エジプト記の17章8節~16節を観てみると、興味深いことが書かれている。レピデムというところで、イスラエルとアマレクが戦った場面がここに描かれているのです。モーセが自分の手を上げていると、イスラエルが勝ち、手を下げるとアマレクが勝ったというのです。モーセという人を通して、彼と共に働かれる場合に、の器となっていたモーセの手の上げ下げによって、の働きが左右されたというのです。“を宿す器であるモーセ”と“モーセを通して働かれる”の両者の息の合った共同作業、協調した働きというものが必要となってくることを象徴しているように私には想えるのです。


一方、神の御子でありながら、自らを“人の子”と呼んだイエス自身の地上での生涯における働きを観ていく時にとの関係というのが本来どうあるべきなのかについてのヒントがあるように、私には想えてならないのです。


以下は、イエス自身が、語った言葉です。

わたしとは一つである。・・・・もしわたしのわざを行わないとすれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、もし行っているなら、たといわたしを信じなくても、わたしのわざを信じるがよい。そうすれば、わたしにおり、また、わたしにおることを知って悟るであろう。ヨハネによる福音書10章30節、37節~38節

わたしにおり、わたしにおられることをあなたは信じないのか。・・・・わたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。わたしにおり、わたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。」(同14章10節~11節


このような “人の子”としてのイエス父なる神との関係を観ていくと、そこには何の断絶もない、わずかな亀裂も入っていない良好な関係を保っていたことがわかるのです。


そして、さらにイエスは言われるのです。それは、実は、わたしたち人間との間で良好な関係を築いていくための秘訣と言えるでしょう。

わたしのうちにいなさい。もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしのうちにおるのである。それはわたしわたしの父のいましめを守ったので、そののうちにいるのと同じである。・・・・・わたしいましめは、これである。わたしあなたがた愛したようにあなたがた互に愛し合いなさい」(ヨハネによる福音書15章9節~12節


ここでイエスが何を言っているかというと、“イエスあなたがた人間愛されたのと同じ愛で、人間同士互に愛し合いなさいというイエス戒めを実践していくことが、実に、と間で良好な関係を築いていくためのコツであるというのです。


私は、あの人を絶対ゆるさない」、「私の心を傷つけたあの人を一生恨んでやる、憎くてしょうがない、仕返しをしないと気が収まらない」というような生き方は、まさにわたしあなたがた愛したようにあなたがた互に愛し合いなさい」というイエスいましめを実践することを拒んでいることに他ならないのです。


人を愛するとは、その人のあやまちをゆるしていくということです。人をゆるすとは、その人をさばかないことです。すなわち、さばかない寛容の愛を持って、いかなる人(過去どうだったにせよ、今どういう状態であるにせよ)をもあるがまま認め、受け留め、やさしく包み込むように受容していくことです。このようなの生き方こそが、実は、とが愛の絆で堅く結ばれた信頼関係、そして、協調・協力体制を構築していく道を大きく開いていくことになるのです。このような生き方を自らの人生の中で実践している人たちの“内なる光”というのは暗くなってはおらず、本来の明るさを回復して輝いているのです(マタイによる福音書6章23節を参照)。


使徒パウロは、「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており・・・」(ローマ人への手紙3章23節)と書きましたが、このような人の心には神の栄光がしっかりと届くのです。によってもたらされた覆いが、このような人の心から取り除かれているからです(コリント人への第2の手紙3章12節~18節、同4章6節、エペソ人への手紙1章17節~18節を参照)。

9月13日日曜日23:05に更新9月14日月曜日23:06に更新9月17日木曜日21:44に更新



神に依存しないで、神と共に生きる


に対して依存症になってしまって、自分の意思を殺して、ただの言いなりになって、が生きていこうとする時に、その霊的成長意識進化というものは進んでいかないのではないか・・・と私は想うのです。つまり、との間の依存関係を卒業するということは、人が“人として進化成長”を遂げていくということを意味しているわけです。何でも任せ、にぶら下がって生きていくこと、に甘えてばかりの生き方というのは、神ご自身もおそらく望んでおられないのでは・・・。本当の親であればわが子の成長を心から喜ぶように、もそうなのではないか。


では、“神に依存しないで、神と共に生きる”とは、実際にどのような生き方になるのでしょうか?


とコミュニケーションを取りながらも、人の側でも様々な経験を通して学んでいくこと(=経験知)が大切ではないかと想います。つまり、経験知を通して、自らの経験値を高めていくということ。人は自分の人生を生きていくにあたって、いろいろな出来事に遭遇したり、壁にぶち当たったり、きつい人生の“山”を越えなければならなかったり、様々な人生の課題や難問が与えられたりしていくものです。このような場合には、度々、人は自分がその段階で持っている能力や情報・知識では対応ができないことが判明するもの。そのような時に、神に依存して生きている人というのは、ただ神に祈って、自分の身に降りかかった問題をの力で解決してもらおうとするのです。これは“依存的信仰”と言えます。これでは、人の経験値は上がることはないのです。つまり、人は、進化成長を遂げることができなくなってしまうわけです。


旧約聖書のヨブ記を観ていくと、ヨブが実際に経験していったことからとても貴重なことを学べるのではないか・・と、私は想うのです。私がヨブ記を観る限り、ヨブは単に自分の人生の中で起った試練を単に頼みして解決を図ろうとはしていないのです。なぜ自分がこのような試練に遭遇することになったか、そのわけを知ろうとして、3人の友人たちとも論争(=意見交換)をしたのでした。そして、ヨブは自分のうちに蓄積されているデータベースにアクセスし、検索して自分でも納得のいくような答えを見つけようと努めたのでした。このような想定外の人生の課題が与えられた時に、自分でも探索し、探究していくことは重要なのです。そして、ヨブが最後に到達した情報源というのが、“の知恵”だったのでした(ヨブ記28章12節~24節を参)。


ヨブのように、自分がそれまで持っている既知の情報に照らしても答えが見つからない時には、もしかしたら自分がまだ知らない情報の中に答えがあるのではないかと考えて、さらなる情報を求めて精力的な収集活動をやっていくべきなわけです。つまり、自分に与えられた課題を解けない時に、という助っ人に代わりに解いてもらおうとするのではなく、むしろ、自分に与えられた課題を自分自身で解けるようににガイドしてもらう、にヒントを与えてもらう、あるいは、それを解くために必要な新たな情報を受け取れるように、に自分の直観力、洞察力、理解力を高めていただく、または、その問題を解決するのを妨げている自分の心の目をおおっている覆い(=目の)を取り除いてもらうことをにやっていただくのです。実は、ヨブに対してもこのような対応をしたのでした。人生において、試練に遭遇したり、何か課題が与えられた時に、このような対処をしていくためにこそ、に相談したり、とコミュニケーションを図ったりしていく時に、人は進化成長と遂げていくことになるのです。

 

 ・・・・・・続く・・・・・9月15日 火曜日23:11に更新) (9月17日 木曜日22:07に補足更新

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9/13(日)22:09に更新: ブログ(111)『イエス-道』:(7)“神と人との関係性”(その1)

2015年09月13日 22時09分00秒 | イエス-道

イエス-道』:(7)神と人との関係性(その1)



ここ最近、私の心にすーっと浮かんできて、ブログで書いてみたいなぁと想っているテーマ、それは、の間柄というか、どういう関係を保っていくのがよいのかに関することです。


当ブログでは、従来の宗教的な捉え方とは違った角度から、すなわち、『イエス-道』という独自の視点から『との関係性』について観ていきたいのです。


これまでの人類の歴史上、長い期間にわたって、どちらかというと、を信じる者にとってはに寄りかかって生きる、あるいは、にすがりついて生きていくべきに寄り頼んで生きるのがベスト・・・というふうに想ってきたのではないでしょうか?


つまり、依存して生きていくべきだ・・・、それが宗教というものだという“固定観念”を持っておられる方が多いのではないでしょうか?


このような考え方を持っておられる人は、たとえば、

・・・あなたがたの信仰と望みとは、にかかっているのである。」(ペテロの第1の手紙1章21節

よ、わたしはあなたに寄り頼みます」(詩篇31篇1節

み名を知る者はあなたに寄り頼みますよ、あなたを尋ね求める者をあなたは捨てられたことがないからです。」(詩篇9編10節

に寄り頼むは人にたよるよりも良い。に寄り頼むはもろもろの君にたよるよりも良い。」(篇118編8節~9節

主に寄り頼む者はさいわいである。篇34編8節

といったような聖書の中にある聖句を案外好むかも知れない。


でも、『イエス-道』というスタンスに立っている私としては、はたして、それでいいのだろうか・・・と、今回、あえて疑問を投げかけてみたいのです。


誤解のないように申しますが、私はに寄り頼むということ”自体を否定しているというわけではないのです。私が言いたいことは、寄り頼む”ということは“依存する”こととはイコールではない・・・ということ。との関係において、“依存関係”というのは本来のあるべき関係ではないのではないか・・・と私自身は考えているのです。聖書に記されている寄り頼む”という言葉のニュアンスは、“依存関係”というよりは、むしろ、との間における“信頼関係ではないか・・・と私は観るのです。


従って、聖書が本来教えているに対する信仰というのは、依存していくようなか細い気弱な信仰なのではなくて、むしろ、とのしっかりとした信頼関係に基づいた自立した確固とした信仰なのではないか・・・と、私は観ているのです。


依存してしまうような人というのは、実は、自分という存在がどういうものであるのか、また、が実際にどのような方なのかということについても実はよく知らないのではないか・・・と想えてしまうのは私だけでしょうか。


に対する無知自分自身に対する無知、この2つが揃う時に依存してしまうようになるのではないだろうか。


依存しないで生きる”ということは、に背を向けて生きるのでもなく、から離反して生きていくというのでも、自分の力だけに頼って生きていくということでもないのです。それは、むしろ、人として自立していくことが大前提になるわけですが、であることをやめて、のようになるということではないのです。それは、が“確固とした人”になるということです。その上で、との間で相互の信頼関係を築き互いにそれぞれの能力を認め合い、尊重しつつ協力体制を築いていくということが重要である・・・と、私は観ているわけです。このような信頼関係を築き、深めていくためにも、について無知であってはならないと想うのです。をよく知っておくこと、と上手に付き合っていくことが大切なのです。


さて、と親しくなって、信頼関係を深め、協力体制を築いていく上で、注意すべきことがあるのを皆さんはご存じでしたか?



最低限の礼儀


親しき仲にも礼儀あり”とよく言われますが、と親しくなっていく上で、に対する“最低限の礼儀”というものが必要になってくるということを、イエス山上の説教の中で教えているのです。それは、一体、何なのでしょうか?


その“最低限の礼儀”というのは、いわゆるイエスの『主の祈り』の中でも触れられており、それに続く言葉の中でも明確に説かれているのです(マタイによる福音書6章8節~15節を参照)。それは何かというと、“自分に負債のある者をゆるす”、“人々のあやまちをゆるす”ということ。つまり、ゆるしの実践です。


一般には、このような“ゆるしの実践”というのは、ほとんど重要視されてこなかったと想うのです。自分に失礼や無礼なことをした人、自分に対して精神的あるいは肉体的に傷つけた人などを“絶対にゆるさない”、“それ相応の罪を償いをまずしてもらわないと気がおさまらない”、“一生、憎み、恨んでやる”というに心の中で想ったり、実際に口に出したりするというのが常識になってしまっている、何の違和感も感じなくなってしまっている、当たり前のことのようにみなされてしまっているのです。との間で、理想的な信頼関係・協力体制を構築していく上で妨げになるものがあるとすれば、それは人々をゆるさない精神であり、ゆるそうとしない精神であり、あるいは、ゆるすことを拒む精神なのです。これが、「目には目を、歯には歯を」(マタイによる福音書5章38節)というような“としての旧来型の生き方”と言えるのです。このような“ゆるさない精神”を心に抱いていると、自分の方からとの関係を破壊してしてしまっているという霊的現実を忘れてはならないのです(マタイによる福音書6章15節を参照)。


ところで、つい先日、私は仕事で使うために、4本のゲルインクのリフィルが入れられるボールペンの本体(=PILOTのハイテックCコレト エヌ)と、その中に入れる4種類の専用リフィル(青色の0.3と0.4、緑色の0.3と0.4)なるものをスーパーマケットの事務用品コーナーで見つけて購入。さっそく車の中で説明書きを見ながら4種類の専用リフィルをボールペンの本体に挿入して、持っているメモ帳に試し書きをしようとしたのです。ところが、書こうとすると、ゲルインクの芯が引っ込んでしまって、書けないのです。家に帰ってからも、なぜかなぁ・・・と考えながら再度チャレンジしたのですがやはりダメだったのです。私の挿入のしかたに問題があるのか、あるいは、たまたまこれが不良品だったのか・・・と想いながら、翌日、スーパーマーケットのサービスコーナーの女性店員にもその不具合を実際に見てもらったのでした。でも、この女性店員でも埒(らち)が明かず、女性店員はそのゲルインクボールペンを持って、他の若い男性の店員に見てもらいに行ったのでした。数分後、戻ってきた女性店員が言うには、専用リフィルの入れ方が前後が逆だったのが原因だったということでした。


私は自分なりに説明書を一通り読んで、なんだ簡単じゃないかと想いつつ、4本の専用リフィルをボールペン本体に挿入したわけですが、なんと私の入れ方自体に問題があったことが判明したというわけです。説明書を自分の目で見るには見たのですが、ポイントをしっかりと押さえていなかったというわけです。


人が“見えない神”とかかわっていく場合やつき合っていく場合にも、これと同様に、人間の側の思い違い、思い過ごし、思い込み、誤解、先入観などといったものが邪魔をしているために、との正しい関係が保たれていないことが実際に起こっているのではないか・・・。


多くの人々が聖書を学び、キリスト聖霊などを知り、信仰を深め、祈りも習慣になって、自分はもう十分にキリスト教の教義・信条もわかっているし、教会にもまじめに通っているし、「神様も自分のことを認めてくれているに違いない」、「の国に入る資格も自分にはある」、「キリスト教を信じていない人々に比べれば、私は神様と良い関係を保っている」と想っているかも知れない。でも、もしこれが思い込みに過ぎなかったとか、勘違いがあったりしたら、大切なポイントを押さえていなかったとしたら・・・どうなってしまうのでしょうか?


イエスが山上の説教の中で、と良い関係を築いていく上でとても重要な注意事項をはっきりと説かれていたにもかかわらず、もしそれが正しく理解され、実践されていないと、今回、私が経験した“ゲルインク・ボールペン問題”と似たようなトラブルが起こってしまうおそれがあるかも・・・。せっかく、聖書のにご縁ができたのに、あるいは、長年にわたって“クリスチャン”をやってきたのに、やがてすべてが台無しになってしまう、使いものにならなくなってしまう・・・というようなことも起こり得るのです。


イエス山上の説教の中で最後に言われた言葉は、そういう意味において、とても重要と言える。


わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を打ちつけると、倒れてしまう。そして、その倒れ方はひどいのである。」(マタイによる福音書7章26節~27節


イエスが山上の説教の中で説いた言葉の中でとても重みのある重要な言葉というのが、実は、人々をゆるすということ。そのように私は観ているのです。



神との関係において、なぜ人をゆるすことが大切なのか?


では、人々をゆるすということが、との関係において、なぜそれほどまでに重要になってくるのでしょうか? 質問を換えると、はもともと別々の存在なのに、なぜ人々を“ゆるそうとしない”時に、人ととの関係においてヒビが入ってしまうのでしょうか?


ここで、聖書の他の箇所を観てみると・・・


を愛している』と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えないを愛することはできないを愛する者は、兄弟をも愛すべきである。この戒めを、わたしたちはから授かっている。」(ヨハネの第1の手紙4章20節~21節


ここでまた、新たな疑問が生じることになるのです。この可視領域の世界に住んでいる“現に見ている人々”を愛することが取りも直さず、それは不可視領域の世界の存在である“見えない神”を愛することになり、逆に、“現に見ている人々”を愛さない(=ゆるさない)を愛していないことと同じことだと、イエス弟子のヨハネは言っているのです。一体、これはどういうことなのでしょうか?


このブログでも「に対する無知自分自身に対する無知、この2つが揃う時に依存してしまうようになるのではないだろうか」と書いたのですが、ここにおいて神という存在人という存在について、さらに知っておく必要性が出てくるわけです。


弟子のヨハネは、実は、について、「であってには少しの暗いところもない」(ヨハネの第1の手紙1章5節)と書いている。


イエス自身、山上の説教において、人のうちにがあることを説いたのです。「もしあなたがた内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。」(マタイによる福音書6章23節) 


さらに旧約聖書の創世記1章27節には、「自分のかたちを創造された。すなわち、かたちに創造し、男と女に創造された。」と記されているのです。


ここで、かたちに創造されたという場合に、の共通部分であるこの“”に私は着目しているのです。そして、人の内なる光の部分こそが最も神聖なるところなのであり、ここにこそかたちが現わされていると言えるのではないか・・・と、私は観ているのです。


イエスはまた、「であるから、礼拝をする者も、とまことをもって礼拝すべきである。」(ヨハネによる福音書4章24節)と語られた。このような視点から観ると、人の“内なる光”というのは、“分霊”に相当するのではないか・・・とも想うのです。つまり、すべての人の“内なる光”というのは、もともとに属するものであり、その起源(origin)というのはにあると観てよいと想うのです。


  ・・・・・・『イエス-道』:(7)“神と人との関係性”(その2)に続く・・・・・・


9月10日木曜日夜に更新)(9月11日金曜日23:17に更新)(9月12日土曜日22:43に更新 9月13日日曜日22:09に更新) 

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9/5(土)22:53に更新: ブログ(110)『イエス-道』:(6)“目には目を、歯には歯を”ではない生き方

2015年09月05日 22時53分22秒 | イエス-道

イエス-道』:(6)“目には目を、歯には歯を”ではない生き方



さて、ここまで『イエス-道』というものを5つの視点から観てきたのですが、今回はさらに別の視点から捉えてみたいと想った次第です。


イエス-道』を生きようとする時に、どういうことを経験していくのか、イエスは一体どのようなアドバイスをしておられるのか・・・を観ていきたいと想うのです。


今回のサブタイトルを何にしようかと、しばらく迷っていたのですが、ちょっと変な題になってしまいましたが、“目には目を、歯には歯を”ではない生き方についさっき決定したばかりです。


今回は、イエスが説いた山上の説教の中で、特に以下の箇所に注目したいと想うのです。


わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。求める者には与え、借りようとする者を断るな。」(マタイによる福音書5章39節~42節


“従来のキリスト教的な解釈”ではどうか・・・ということではなくて、イエス-道』という視点から捉えていった場合にこれらの箇所にはどのようなニュアンスがあるのか・・・ということを観ていきたいと想っているのです。


しばらく、また気楽に、気長に当ブログお付き合いのほど、よろしくお願いします。

9月3日 木曜日 22:26 更新


ところで、従来型の人の生き方、この世における一般的とも言える生き方、良く目にするありふれた生き方、・・・それが「目には目を、歯には歯を」というような生き方。つまり、自分が被害を受けたら、加害者に対してそれ相応の仕返しをするという生き方です。


日本では、昔、“仇討”というものもありましたが、これもやはり「目には目を、歯には歯を」というような生き方に属するものです。


現実的には目に対して目を代償として、歯に対しては歯を代償として払ってもらう(=自分が受けた被害と全く同じもので相手に責任を取ってもらう)ということは不可能ですので、実際には、それに相当するものを要求しようとするか、あるいは、それすら出来ないような場合には、相手を憎むとか、恨むとか、怒るとか、怨念を持つとか、呪うとか、絶対ゆるさないという強い念を抱くとか、中傷するとか、陰でその人の悪口を言うとか、いろんな形に変えたり、あるいは、ネガティブな念(悪念)のエネルギーに変換して相手に送るとかして、報復や仕返しをしようとするのが、この世の通常の人の生き方になっていると想うのです。


ところが、イエス山上の説教の中で説いているのは、それとは正反対の生き方なのです。それが、先ほども引用した、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。求める者には与え、借りようとする者を断るな。」(マタイによる福音書5章39節~42節)という生き方だったのです。


ここで、イエスは一体、どのような“として生き方”というものを本当は教えたかったのでしょうか? 

9月5日 土曜日 0:30 更新


このイエスの言葉を単に字義的に解釈するということではなく、イエスは一体どういうことを意図しておられたのか、この世界で自分に与えられた人生を生きていくにあたっての心構え、生き方のコツや秘訣というのは何なのか・・・、そのような視点から観ていきたいと想っているわけです。


さて、この世界には大きく分けて、“さばく人”と“さばかれる人”と“さばかない人”という立場の人がいると、私は想うのです。もちろん、さばく人”も他の“さばく人”によってさばかれてさばかれる人”になってしまうこともあるし、“さばかない人”も“さばく人”によってさばかれてさばかれる人”になってしまうこともあるわけです。しかし、さばく人”が同時にさばかない人”であることは有り得ないし、逆に、さばかない人が同時にさばく人”であるということも決してないのです。


マタイによる福音書5章39節~42節に描かれているようなイエスが説いた“目には目を、歯には歯をではない生き方というのは、実にさばかない人”がこの世の人生をいかに生きていくべきなのかということについての指針・マニュアル・ヒントと言えるものではないか・・・と私は観ているのです。つまり、この世においてはマイナリティーと言えるさばかない人”が、マジョリティーと言える“さばく人”とどのように向き合っていくべきなのかということに関してイエスは説いたものではないか・・・と。


いかにして“”というものがこの世に入ったそのルーツ創世記2章15節~17節、同3章1節~7節の中に観ていくと、人が“さばく人”になってしまったところにあることがわかるのです。それ以降、この世には、“互いにさばき合う人たち”が溢れかえっているのです。


イエスは“”から救うためにから遣わされたというのが聖書が教えるところであり、従って、イエスの教えの中心・核心というのは山上の説教の中でも説かれたように「人をさばくな」(マタイによる福音書7章1節)ということなのです。そして、この教えはイエスの弟子たちによってもしっかりと継承されていることが聖書を観るとわかります。というのは、異口同音に、“互いにさばき合うことをやめよう”と言っているからです。


ヨハネによる福音書17章というのは、直接的には、イエス父のに向けて語られた言葉なのですが、ある意味において、天の神のもとへ帰っていく前にイエスがこの世に残された弟子たちに託された“遺言の言葉”と観ることも可能です。その“遺言”の内容の一部を引用すると・・・・


わたしは彼らに御言を与えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではないからです。わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません。真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの言葉は真理であります。」(ヨハネによる福音書17章14節~17節


これを『イエス-道』の視点から大胆にかみ砕いて言うと、以下のようになるかと・・・。


わたし(=イエス)は彼らに「人をさばくな」という言葉を与えましたが、“さばく人たち”が主流であるこの世の人々は彼らを憎みました。わたし(=イエス)がこの世のマジョリティーである“さばく人たち”でないように、わたし(=イエス)の言葉を守る彼らもさばく人たち”でないからです。わたし(=イエス)がお願いするのは、彼らをこの世の“さばく人たち”から隔絶してしまうことでもなく、あるいは、彼らを天に今すぐ連れていってしまうことでもありません。むしろ、彼らを悪しき者(=サタンサタンに共鳴して“さばいている人たち”)から守って下さることであります。・・・・・この世のマジョリティーである“さばく人たち”と同化してしまわないように、また、“さばく人たち”の中にあって上手に生きて行けるように、真理(=イエスが教えられたさばかないで生きていくための秘訣・秘伝・コツ)によって、彼らを聖別して下さい。あなた(=天の父)から託されてわたし(=イエス)が語ってきた言葉は真理です。


さて、イエス山上の説教の中で語られた「わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。求める者には与え、借りようとする者を断るな。」(マタイによる福音書5章39節~42節)という生き方というものを、私なりの言葉で言い換えると、以下のようになるのです。


(1)この世の“さばく人たち”に手向かわないこと、つまり、戦わないこと、争わないこと、仕返しや報復をしようとしないこと、対抗しようとしないことです。さばく人たち”をさばかないが故に、このことがさばかない人たち”にとっては可能なわけです。


(2)だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向ける。これは観かたを変えて捉えると、さばく人たち”から受ける様々な形態の攻撃を受けた時に、仕返しや報復をするのではなくて、それをそのまま受け留めていく生き方を意味していると想うのです。そして、その時に“さばかない人たち”は自分たちの心が痛み、疼くのをしっかりと経験していくわけです。このように“さばかれた人”の心がとても傷つくという自らの辛い経験を通してよくわかっているので、さばかない人たち”というのはすべての人たちをさばかないという生き方にさらに徹していくようになっていくのです。


(3)下着を取ろうとする者には、上着をも与えるだれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行く。これはどういうことかというと、さばく人たち”からの要求を単に拒否したり、反対したり、無視したりするというのではなくて、それすらもさばかずに、それはそれとして受け留めていくということ。さばく人たち”は相手にもそれくらいできるだろうと思い込んで、人が持っている能力はそれぞれ違うということや、得手・不得手なことがあること、長所や短所が人によって異なっているということに気づかずに、自分たちが設定した基準やルールに基づいて、相手にも要求してくるのです。もし要求されたことをできなければ、その人を怒ったり、苛立ちをぶつけたり、軽蔑したり、バカ扱いしたり、価値のない人間だとみなしたりして、さばいてくるのです。たとえ自分がこのようにさばく人たち”からさばかれてそのような扱いを受けた時であっても、自分が自分自身をさばかないことが重要なのです。“さばく人たち”のまねをして、自分自身をさばくことを絶対にしてはならないのです。さばく人たち”がさばいた同じ量りで自分自身をさばいてしまうと、すでに傷ついてしまっている自分の心の傷口がさらに広がってしまうことになるからです。従って、自分が現在持っている能力の不足に関してはそのまま認めて受け入れつつも、「だから自分はダメな人間なんだ」とか、「自分は無価値な人間なんだ」とか、「自分は生きている存在価値もない人間なんだ」とか想わないこと。「“さばく人たち”からグサッグサッと突き刺すように指摘されたように、自分にとってその点は、確かに、弱点であり、欠点かも知れない。でもそうだからと言って、自分は生きていく価値もないダメな人間なのではない」というふうに捉えていって、自分の中に、しっかりと“人間としての尊厳と価値”を認めていって、やさしく包み込むように自分自身を受け入れていくのです。そして、自分で自分自身を愛して、エネルギーを注ぎ込んで、“さばく人たち”から要求された以上のことができるように自分自身を進化成長させていくきっかけにしていく生き方


ここで、イエスは、山上の説教の中で、「もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう」(マタイによる福音書6章23節)と語っているのを想い出してみて下さい。さばく人たち”がさばいたのと同じ量りで、自分で自分をさばいてしまうと、この“内なる光”はもっと暗くなってしまうのです。すると、その人自身が本来持っているユニークな能力も発揮されなくなってしまうのです。逆に、たとえさばく人たち”から何を言われようと、攻撃されようと、あら探しをされようとも、自分で自分を決してさばくことをせず、あるがままの自分を認め、受け入れ、寛容の愛を自分自身に注ぎ続けていく時に、この“内なる光”は本来の明るさを取り戻し、輝くようになっていくのです。その時に、人としての進化が始まっていくのであり、その人に与えられている独自の能力が活気づいてくるようになるのです。


以上のことから、イエス山上の説教で説いた“目には目を、歯には歯をではない生き方というのは、まさに、さばかない生き方そのものなのであり、さばかない生き方というのは具体的のどのようなものなのかについてのコツを教えているのです。


9月5日 土曜日 22:53 更新

 

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8/31(月)23:41に更新: ブログ(109)『イエス-道』:(5)『イエスの十字架の奥義』に迫る

2015年09月01日 22時30分18秒 | イエス-道

ブログ(109)『イエス-道』:(5)『イエスの十字架の奥義』に迫る

 


今回のブログでは、聖書の中で最も重要な真理・・・、この世に遣わされたというイエスの重大な使命・・・とも深く関係してくる『イエスの十字架の奥義』について述べてみたいと想う。このテーマは、以前このブログでも扱ったことがあるのですが、重要なテーマなだけに、再度、観直してみたいと想った次第です。


今回、このようなテーマを深く掘り下げて観ていくことで、『イエス-道』の“神髄”も垣間見えてくるのではないでしょうか? そして、『従来のキリスト教』的な観かたではなくて、なぜ今、『イエス-道』的な観かたなのか?・・・というわけも解ってくるのではないかと想うのです。

 

キリスト教という宗教における特徴的な教えは?・・・というと、イエスが“神の御子”であり、キリスト(救い主)であると信じれば救われる・・・とか、イエス・キリストは人類(自分も含め)の罪の身代わりとして十字架上で死んで下さったことを信じ、受け入れるならば救われる・・・とか、このような点が、キリスト教と“他の宗教”との大きな違いである・・・というふうに一般的には理解されているのではないでしょうか? 


もちろん、今述べたようなことを否定したり、軽んじたりする気持ちを私は持ってはいないのですが、でも果たして、それが最重要なポイントなのか?・・・・・と、今一度問い直してみたいのです。


イエスの“十字架の奥義”を知らずして、「私は、キリスト教を信じてます」、「私は、キリスト教徒です」などと、軽々しく言えるものなのでしょうか・・・。


ところで、使徒パウロは、次のように述べています。


むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それはが、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知ってたなら、栄光の主十字架につけはしなかったであろう。」(コリント人への第1の手紙2章7節~8節


イエスの十字架の奥義』は隠されている故、誰でもたやすくアクセスすることも、簡単に知ることも出来ないわけです。でも、この『十字架の奥義』の内容をキチンと把握していないと、キリスト教の信仰というものは実に薄っぺらなものになってしまうのではないか・・・と、私には想えてならないのです(マタイによる福音書6章30節を参照)。


そういうわけで、今回のブログ(109)を通して、皆さんと一緒に、ズバリ、イエスの十字架の奥義』を知るための心の旅に出かけてみたいと想っているのです。しばらくまた、気楽な気持ちで、この旅にお付き合いしませんか?

8月28日 金曜日 22:50 更新


私は、イエスの十字架の奥義』を解き明かすための鍵は、イエス十字架上で死なれたちょうどその時に「神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた」(マタイによる福音書27章51節)という“目に見える現象が起こったこと”にあると観ているのです。4人の弟子たちがそれぞれ書いた福音書のうち、3人(マタイマルコルカ)がこの現象を記載しています。でも、ヨハネだけは記載なしです。


もし、このような現象がイエス十字架上の死と共に起らなかったとしたら・・・という仮定は私には考えられないのです。それほどまでに、この現象にはとても重要な意味があったと、私は観ているのです。むしろ、人間に対するの配慮を考えると、この現象は必然的だった。人間にとってはどうしても必要だったために、あえては起こした・・・と観るべきでしょう。


この世界は“可視領域中心”の世界です。一方、霊的なことは“不可視領域”の世界に属しているのです。たとえが何か重大な計画を実行に移したとしても、もしそれが肉眼で捉えられない“不可視領域”の世界だけでなされたとしたら、“可視領域”を中心に生きている私たち人間は何も気づくことはないかも知れないのです。つまり、特殊な能力を持っている人なら問題はないかも知れませんが、通常の人間の能力しか持ち合わせていない私たちは“見えない事実・真実・真理”を信仰で確認するところまでは至らないのではないか・・・・と想うのです。


従って、そのような通常の能力しか持っていない人間でも気づこうと想えば気づけるように、は“不可視領域”でなされた事を、同時進行で、“可視領域”の世界に住んでいる人たちが肉眼でも確認できるようなサインとして、現象・事象・現実の出来事などを起こされたと想うわけです。これは、人間に対するの“特別の配慮”と言えます。これが、イエスの公生涯を通して、からの“サイン(しるし)”として、目に見える様々な奇跡を行なった理由なのではないか・・・。

 

さて、先ほど神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた」という現象に『イエスの十字架の奥義』を解くための鍵があると述べましたが、実は、イエスが“山上の説教”の中で、『隠された奥義(=十字架の奥義)』を解くための重要なヒントを私たち人間に与えていたのです。このことに、皆さんはお気づきになっていたでしょうか? 


その箇所というのは、次の聖句です。

目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでいれば、全身も明るいだろう。しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。」(マタイによる福音書6章22節~23節


では、ここでイエスは、一体、私たちにどのようなヒントを語られたというのでしょうか? 実は、これは神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた」という現象に隠されているメッセージを読み解くのに役立つヒントなのです。


ここで、イエスは“全身を明るくするためには、何よりもまず目が澄んでいる必要がある”と言っているのです。そして、これを霊的な事柄に当てはめると、“人が犯した霊的な罪の結果ずーっと暗くなってしまっていた『内なる光』を本来の明るさに輝かすためには、心の目澄ませる、つまり、心の目の視界を遮っている(=覆い)を取り除くということがどうしても必要になってくるのだ”と言っているわけです。


そして、人の心の目にかかっている“(=覆い)”を取り除くというのわざが、実は、イエス十字架上で息を引き取られた時に『神殿の幕が上から下まで真っ二つに引き裂かれた』という“肉眼でも確認できるような現象として実際に起こったというわけなのです。もちろん、実際に幕を引き裂いたのがの手によるものか、あるいは、の命令で部下(天使)がやったのかは聖書に書いていないので断定することはもちろん出来ませんが・・・。


つまり、についての真実(真理)、にある救いを人が自分の心の目でしっかりと観て確認し、認めて、信じることが出来るようにと、その人の心の目の視界を遮断している“(=覆い)”を取り去るというのわざがイエス十字架上で死なれたその瞬間に成されたということなのです。その肉眼でも確認可能な“しるし”、“サイン”としてから与えられたのが、『神殿の幕が上から下までを真っ二つに裂けたという現象』だったというわけです。


さて、以前に当ブログでも書いたことがある『生まれつきの盲人だった人が見えるようになったという奇跡のストーリー』をここでもう一度想い起こしていただきたいのです(ヨハネによる福音書9章を参照)。

 

ヨハネによる福音書9章をしっかりと読むと、この“生まれつきの盲人”が主イエスを“信じた”のは、実は、盲目が癒された後だったということがわかります。この生まれつきの盲人は、癒された後に、再びイエスに会った時にイエスメシア(=救い主)と認めて、スーっと“信じることができた”のですが、これとは対照的に、パリサイ人たちどこまでも信じようとはしなかったのでした。これは一体なぜでしょうか?


このヨハネによる福音書9章を観ていく時に、この生まれつきの盲人”は自分の肉眼では確かに“可視領域の事柄”は見ることはできなかったかも知れませんが、“不可視領域の事柄”を見る心の目開いていたと、私は想うのです。だから、イエスメシアと認めて信じ受け入れることができたのではないか。つまり、この生まれつきの盲人”の心の目の視界は“(=覆い)”で遮断されていなかったということです。 一方、パリサイ人たちの肉眼では可視領域の事柄”を見ることは可能だったのですが、“不可視領域の事柄”を見ることはできなかったのです。心の目開いていなかったからです。つまり、彼らの心の目の視界は“(=覆い)”で遮断されていて、霊的には目は閉ざされていて、まさに盲目の状態だったのです。


イエスが最後にパリサイ人たちに言われた言葉に注目。「あなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところにあなたがたの罪がある」(同9章41節) つまり、心の目の視界が“(=覆い)”で遮断されているために正しい情報が実際には届いていないにもかかわらず、“自分のうちにある狭小な情報、誤った情報”によって物事を“さばいて”、自分の判断は正しいと言い張っていることに罪の本質があることを、イエスはここで指摘しているわけです。


イエスはまた「しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているからさいわいである」(マタイによる福音書13章16節)とも言われた。これは、心の目心の耳ブロックされていないために、正しい情報(=真実・真理)がそのまま心の中にスーッと入ってくる人のことを言っているのです。


さて、この生まれつきの盲人”がイエスすんなりと信じることができたのは、「世界が始まって以来、聞いたことが」(ヨハネによる福音書9章32節)ないような奇跡を体験したからで、一方、信じようとしなかったパリサイ人たちはそのような体験をしなかったからだ・・・と想う人もいるかも知れません。


でも、そのように私にはどうしても想えないのです。


ルカによる福音書17章11節~19節を読んでみて下さい。ここで、イエスは十人のらい病人に出会われて、彼らから「イエスさま、私達をあわれんでください」と言われた時に、10人全員をイエスは癒したのですが、なんと一人だけが「自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、イエスの足もとにひれ伏して感謝した」が、他の9人は癒されたにもかかわらず、「神をほめたたえるために帰って」は来なかったという(同17章13節、15節~16節、18節)。


つまり、身体が癒されたからというわけで、その人がに対する正しい信仰に導かれるわけではないのです。その人の心の目開かれているか否かということが“信仰”が正しく作動するかどうかの鍵を握っているわけです


従って、イエス十字架の奥義というのは、今述べた『生まれつき盲人が癒された』というストーリーの中にも、『10人のらい病人が癒された』というストーリーの中にも、実は、脈々と流れていることがわかるのです。


イエスが十字架上であなたの罪の身代わりとして死んで下さったんだよ。そのイエスを自分の救い主をして信じなさい、そうすれば、あなたも救われますよ”、“は、あなたを罪と滅びから救うために御子イエスを十字架上で身代わりの死を遂げさせたんだ。ここにあなたに対するの愛があるんだよ”と誰かによって教えられることによって、必ずしも人は信じる者になれるのでもないし、救われるわけでもない・・・と私は想う。


人の心の目をブロックしていた“”、“覆い”が取り除かれていった時に、心の目の視界が開け、“不可視領域の世界にある現実、事実、真実、真理”というものをあるがまま観ることができるようになって、すーっと信じることができるようになっていくのです。ここが十字架の奥義を理解するにあたって、しっかりと押さえておくべきポイントなのではないか。


これが、イエスが十字架上で死なれたその瞬間に、神殿のこの幕が、人の心の目の視界をブロックしている“”、心の目の視界を遮ってにおける真実真理を見えなくしてしている“覆い”を象徴しているが上から下まで真っ二つに引き裂かれたという『肉眼でも確認できる現象』が起こったのは、私たち人間における霊的な罪の結果、遮断され、ブロックされたため「神の栄光を受けられなくなって」(ローマ人への手紙3章23節)いた状況に置かれていたのを、「隠された奥義としての神の知恵・・・は神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである」(コリント人への第1の手紙2章7節)と使徒パウロが書いてあるように、幕を引き裂くことによって、つまり、心の目にかかった梁や覆いを取り除くことによって、私たちがもう一度、栄光にあずかれるようになるためのノウハウ(=奥義秘伝、救いの道)をイエスが“十字架で死なれたその瞬間に現実に起こった現象”にからませて明らかにされたということなのです。

 

イエスは、なんと“山上の説教”においてもこの奥義を語っておられたのです。

まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって・・・」(マタイによる福音書7章5節

目はからだのあかりである。だから、あなたがたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。・・・」(同6章22節~23節


使徒パウロも、このようなの「御旨の奥義エペソ人への手紙1章9節を知っていたようです。だからこそ、次のように言うことができたのです。

どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、・・・エペソ人への手紙1章17節~18節


このようにして、長い間遮っていたものが取り除かれて、心の目が開かれていく時に、私たちはたとえ人に言われなくても、人に教えられなくても、自分の心に“にある真実・真理”がすーっと伝わってくるようにして解ってくるのです。そして、旧約聖書のヨブのように、「わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします」(ヨブ記42章5節)と、に語るのです。


8月31日 月曜日 23:41 更新) 9月1日 火曜日 22:30 補足更新)  

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