“イエス‐道”の世界へようこそ
『イエス-道』:(15) “七たびを七十倍するまで・・・”
内容的に、前回のブログからの続きになっています。
さて、前回のブログでは、“神にゆるされること”だけでなく、“神がゆるすように、私たちも人々をゆるしていくこと”がとても重要であることを述べました。
“人をゆるすこと”が自分の生き方そのものとまだ同化していない場合には、ここでイエスにさらに突っ込んで質問してみたくなってくる人がいると想います。弟子のペテロもそうでした。実際、彼は、イエスのもとに来てこのように尋ねたのでした、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」(マタイによる福音書18章21節)と。
これは、通常の人間としては、至極当然な質問ではないか・・・と想います。
この問いに対するイエスからの回答というのは、「わたしは七たびまでと言わない。七たびの七十倍するまでにしなさい・・・」(同18章22節)でした。この後に続けて、イエスは「それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。・・・」(同18章23節)と言って、たとえ話を語り始めます。
このマタイによる福音書18章22節~35節の中で、イエスは、一体、何を言いたかったと、皆さんは想いますか?
“七たびの七十倍するまでゆるしなさい”と言われる場合、7回×70=490回までゆるして、491回目以降はゆるさなくてもいい・・・と、イエスは教えられたのでしょうか? 私は、そうではないと想います。
度々イエスに“人をゆるすこと”の大切さを教えられて、ペテロもそれを実行しようと思ったことでしょう。でも、自分に対して罪を犯した人をゆるす場合、実際問題として、“たとえ多く見積もっても、7回もゆるしたら十分過ぎるくらいだろう・・・”と、ペテロは自分の頭の中で考えていたのかも知れません。ところが、イエスに“7回というゆるしの回数”をあっけなく否定されて、さらにその70倍の490回ゆるしなさいと言われたのでした。この時、おそらくペテロは気の遠くなるような回数ように感じられたのではないか・・・と想うのです。
「それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。・・・」(同18章23節~35節)とイエスが続けて話された譬え全体を解読していくと、結局、神がゆるしたようにゆるしていないという実態・現実をここで指摘されたということを、以下のイエスの言葉から十分に読み取ることができます。
「わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか」(同18章33節)
「あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、・・・」(同18章35節)
(11月2日 月曜日 22:26更新)
つまり、神がゆるしたように私たちもゆるしていないと、心からゆるしたことにはならないというわけです。
従来型の人間レベルの“ゆるし”というのは、“心からのゆるし”なのではなく、ただ自分の中では相手を“ゆるしたと思い込んでいる”に過ぎないのです。実際には、ゆるした相手に関する記憶情報をきよめてもいないし、削除してもいないのです。たとえ削除したと想ったとしても、それは頭にある『通常ファイル』から頭の奥のほうに保管されている『ゴミ箱のファイル』に一時的に移動したに過ぎないわけです。このようなレベルの“ゆるし”を続けていっていると、『ゴミ箱ファイル』の中に“ゆるしたはずの記憶情報”が着実に確実に溜まっていっているのです。そして、そんなふうにして、仮に490回まで相手を“ゆるした”とします。ところが、その相手が491回目の罪(=過ち)を犯したら、どうなるでしょうか? すると、これまで490回も“ゆるしてきた人”は、とうとう堪忍の緒が切れてしまい、これまでずーっと自分の頭の中の『ゴミ箱ファイル』に溜め込んでいた記憶情報をすぐに『通常ファイル』に再び呼び戻して、それらの過去データも一緒に引き合いに出して、今回のものに上乗せした上で、相手を非難したり、責めたり、報復したり、恨んだり、憎んだり、怒りを爆発させたり、切れまくったりしてしまうのです。この時に放出されれるエネルギーは、とても凄まじいものです。長い間、溜め込んだままに、あるいは、抑圧したままにしてきたわけですから、時期が来るとそれは大爆発を起こしたり、火山のように噴火したりしまうことになるのです。それは、自分自身や関わっている人を破壊したり、ダメージを与えたりする威力も秘めているのです。
実は、通常の人間がやっている“このようなレベルのゆるし”をイエスが、私たちに勧めているわけではないのです。繰り返して申しますが、神がゆるすようにゆるしていくということが、イエスが言う「ゆるしなさい」ということの意味なのです。
では、どうやったら神がゆるすように、私たちもゆるすことができるのでしょうか? 皆さんは、どうお考えになられますか?
(11月3日 火曜日 22:42更新)
実は、“ゆるす”とは、『過去という時間』を超越した人ができる行為と言えるのです。逆に言うと、『過去の記憶情報』にその人の“想い”が囚われていたり、こだわっていたり、固執していたり、縛られたりしている限り、“神がゆるすように、ゆるす”ということは実行不可能と言えるのです。自分の中にある『過去の記憶情報』というデータベースに自動検索をかけて抽出されてきた“過去情報”と照合して判断しようとする(=これが、“さばく”ということ)のが、マインド(mind)の主な働きなのです。このような自分のマインドの働きに“想い”が振り回されてしまっていると、『過去という時間』を超越することができなくなってしまうのです。
自分の“想い”が優位に立って、自分のマインドをコントロールしていくこと、それが “心からゆるす”ために、つまり、“神がゆるすように、ゆるす”ためにどうしても必要になってくるのです。
「私は、あの人を嫌いだが、でもゆるさないといけない・・・よし、ゆるすように努めよう。私はあの人をゆるした。ゆるした、ゆるした・・・」というふうに、自分に言い聞かせるたり、あるいは、自己暗示をかけたりすることによって“ゆるせる”ようになるのではありません。
では、どうしたらいいのでしょうか? その答えは、やはり、イエスが説いた「さばくな」(マタイによる福音書7章1節)にある・・・と、私は観ているのです。
“さばいている状態”においては、その人のマインドはフル稼働しているのです。“さばくことをやめた時”に、マインドの働きを停止させることができるのです。
“さばくことをやめた時”というのは、自動車で例えると、アイドリングストップした時のように、動いていたエンジンが一時的に実際に止まっている状態のようなものです。この原理、あるいは、法則に則っていく時に、人は“救い”を見つけたり、また、これまで“ゆるすことの難しさ”を感じていた人は、案外“容易に人をゆるすこと”ができるようになったりしていくのです。
これまでも当ブログでも書いた事ですが・・・。イエスが十字架にかかっていた時に、左と右にそれぞれ犯罪人が刑を受けるために十字架にかけられていました。一人の犯罪人は最後までイエスに悪口を言い続けたと聖書に記されています。ところが、もう一人の犯罪人は「・・・このかたは何も悪いことをしたのではない」、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と言ったのでした(ルカによる福音書23章41節~42節)。その時、この犯罪人はイエスから「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(同23章43節)と言われ、救いを保証されたのでした。
この犯罪人がイエスに救いを保証されたのは、彼がイエスを“さばくことをやめた”から・・・と私は観ています。つまり、これまで彼の耳に入ってきた誤った情報、偏見に満ちた情報、この世の常識的な考え、固定観念や既成概念などといった自分の中にある『過去から蓄積されてきた記憶情報』に検索をかけてヒットした情報に照らしてイエスを観ることをしなかったということ。むしろ、そのような“マインド主導の思考プロセス”をすべて停止させて、今、自分の目の前にいるイエスをいかなるフィルターも通さずに、ただあるがままを観て、捉えていったわけです。その時に、この犯罪人の心のスクリーンに、イエスに関する真実・事実・真理というものがくっきりと映し出されていったと想われます。だからこそ、「このかたは何も悪いことをしたのではない」、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と言うことができたのでした。
(11月4日 水曜日 22:07更新) (11月5日 木曜日 22:52更新)
・・・・・・『イエス-道』:(16)“神に義と認められること”に続く・・・・・
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