意識の進化、次元上昇をアシストする“イエス-道(Jesus,the Way)”

“イエス-道”という視点から、人生を生きる秘訣・コツを考える“斬新的な聖書リサーチ”

映画「君の膵臓をたべたい」の深読み⑯ “赤いリュック(1)”

2018年12月20日 21時50分13秒 | 映画ブログ

赤いリュック(1)

 

Osann: 「春樹と一緒に博多に旅行した時に、桜良は赤い大きな

     リュックを背負っていたよね。

     行く途中に電車の中で、春樹は『ずいぶん大きなバック

     だね』というふうにも桜良に言ってたし、·····

     この赤い大きなリュックってどういう意味合いがある

     のか わかる❔」


ハジメ: 「そう言えば、映画キミスイを観ていると、やけに

     桜良の背中にあるこの赤い大きなリュックが目立って

     たよね。桜良が病院を一時退院して、家に帰って

     おめかしをして、春樹と一緒に旅行して満開の桜を

     観るため 家を出た時も、やはり同じ赤いリュック

     背負ってたしね。何かとても意味ありげな気がする

     んだけど····。どんな意味があるんだろう。」


Osann : 「この“赤いリュック”というのは、聖書の真理に

     照らして観ると、実に、とても重要であることが

     わかるんだ。

     そして、この赤いリュックの謎を解くヒントが、

     後になると、ハッキリと示されるんだ。

     そのヒントは、街頭ビジョンのニュースにハッキリと

     映像として 映し出されることになるんだ。」


ハジメ: 「そう言えば、その街頭のニュースの中で、桜良の

     赤いリュックが地面に置かれてあって、そのすぐ

     そばに 桜良から流れ出た見えてたよね。」


Osann : 「そうなんだ。つまり、この赤いリュックというのは、 

     桜良が流す血を暗示していたんだ。


     ついでに言うと、この映画には 実は 天国に関連した

     シーンが3ヶ所あるんだけど、全部 気づいてた❔

     1つ目は、桜良が高校の屋上にある階段を上って

     いって、春樹に向かって『ほら! 天国で会おうよ!』

     と語った、いわゆる、“天国への階段”のシーン。

     2つ目は、スウィーツパラダイスのシーンなんだ。

     なぜなら、パラダイスは天国ということだから。

     3つ目は、うっかりすると見逃しちゃうかも知れない

     けど、恭子にあてた桜良の遺書の手紙にあったんだ。

     この映画中では、この遺書の内容というのは 桜良の

     声で恭子に語りかけられるという形になってるんだ

     けど·····。ところが、この遺書の手紙の最後の文章が、

     桜良の声で読まれていないんだ。でも、映画のDVD

     を一時停止した状態で、この手紙をよく見てみると

     このように書かれてたんだ。つまり、追伸の前に

     『天国からいつも見守ってるね。』と。


     で、これら3つ天国に関係しているシーンには、

     それぞれ重要なメッセージ(つまり、一緒に天国に入る

     のに必要な条件みたいもの)が隠されていたんだ。


     1つ目の天国シーンでのキーワードは、桜良の背後に

     あった吸い込まれそうな“青空”なんだ。これについて

     は、また後で説明するとして······


     3つ目の天国シーンでは、春樹にずーっと敵意を持って

     いた恭子が春樹と和解して、友だちになるということ。

     これについても、後で説明するとして·····。


     で、2つ目の天国シーンであるスウィーツパラダイスに

     おける隠れたメッセージというのは、この店の内装や

     椅子のなどの色がやけに赤いということなんだ。

     実は、これが桜良の赤いリュックと共に桜良の死んだ時

     に流したを象徴してたんだ。


     聖書の黙示録を観ると、天国(神の国)には十字架で罪人

     のために犠牲となってを流されたイエス▪キリストを

     象徴している“ほふられた神の小羊”が描かれていると

     いうわけなんだ。


     聖書によると、人と神との間に結ばれた契約は、二つ

     あって、一つ目は旧約(つまり、古い契約)、二つ目は

     新約(つまり、イエスによる新しい契約)。

     そして、この二つ目の契約というのは、“イエスの

     よる契約”とも呼ばれてるんだ。 この契約の効力の

     お陰で、天国(神の国)というのがリアルなものとなった

     わけなんだ。」


ハジメ: 「それで、なんで赤い色が象徴する桜良が流した

     イエスが流したが関係してくるわけ❔」


Osann : 「映画『君の膵臓をたべたい』を一番大事なところ

     (つまり、それ食べると魂がその人の中で生き続ける

     と桜良が言ったけど、“食べる”というのはどういう

     ことなのかということ)を解き明かしていくことは、

     すなわち、聖書の奥義(つまり、イエスの肉を食べ

     イエスの血を飲むというのは どういうことなのか)

     解き明かしていくことにも通じるんだ。


     だから、ここからが、実は、とても大事な話になって

     くるんだ。映画キミスイの真髄を理解するためにも、

     また、聖書の中にある とても大切な真理がわかるため

     にも·····。


                     これから話すことの重要性を考えたら、これまで話して

     きたことは、ほんの序論に過ぎないと言ってもよいか

     知れないよ。」 


ハジメ: 「へ~、そうなんだ。それで、それで❔」


Osann : 「これから話そうとしていることは、実は、映画

     『君の膵臓をたべたい』であっても、また、聖書で

     あっても、ボーッと観ていると、見逃してしまい

     そうなことなんだ。でも、心の目をしっかり開いて

     観ていくなら、発見することができるんだ。


     一番大切なこと(=隠れた宝) は、目に見えない。

     じゃ、どうやって見ていけばいいんだろうか❔

     これから話そうとしていることは、そのような

     テーマかも知れない。


    『君の膵臓をたべたい』の映画を観ていると、

     この映画全体がそのような壮大なテーマに照準を

     当てながら、ストーリーが無駄なく展開している。

     そんなふうに、私には思えてならないんだ。」


ハジメ: 「この映画では、『君の膵臓を食べたい』という

     言葉が度々 出てくるんだけど、これはどう理解した

     らいいのかな❔」


Osann :  「これは字義通りに捉える必要はないと思うんだ。

     別に食べる対象が“膵臓”でなくても、また、体の

     他の特定の部位とかでなくてもいいと思うんだ。

     これは、あくまでも象徴的な表現と捉えた方がよい

     と思う。

     ”食べる”ことで、その食物が持っている栄養とか

     エネルギーが食べた人の中で同化し、一体化すると

     いうことを象徴していると思うんだ。


     でね、ここで聖書の世界から『食べる』ということが

     何を意味しているのか一度確認してから、再び  映画

      『キミスイ』に戻って観ると 案外 わかりやすいと思う

                     んだ。」


イエスを食べる


Osann :   「ではさっそくイエスの口から語られた言葉に耳を

     傾けてみようか。


     『私の肉を食べ、私の血を飲む者には、永遠の命が

      あ···る···。わたしの肉はまことの食物、わたしの

      血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ、

      わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしも

      またその人におる。

      生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが

      父によって生きているように、わたしを食べる者も

      わたしによって生きるであろう。

                         (ヨハネによる福音書6章54節~57節)


     実は、イエスのこの言葉を聞いた多くの弟子たちは、

     『これはひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いて

      おられようか。』(同6章60節)」

                    と言って、去っていき、もはやイエスと行動を共に

     しなかったというんだ。そして、イエスのもとに

     残ったのは、ほんの一握りだけ····12弟子くらいだった

     ようなんだ(同6章66節~67節を参照)。


     イエスが語ったこれらの言葉は、実は、字義通りに

     捉えるべきではなかったんだ。


     実際、イエスはこんなことを語っているんだ。


     『人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも

      立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は

      霊であり、また命である』(同6章63節)


                    つまり、イエスが語られた言葉というのは、霊的に

     捉えないと、真意がわからないばかりか、むしろ、

     誤解したり、曲解したりしてしまうことになるんだ。


     では、イエスを“食べる”とは、霊的な視点からみて

     どういうことなのか·····それは宝を探すように注意深く

     観ていかないといけないんだ。


     でも、この霊的な意味を解明していくためのヒント、

     あるいは、カギというのは あるんだ。」


ハジメ: 「ヒントになる聖書の言葉というのは、どこにあるの❔」


Osann :   「そのヒントと言えるイエスの言葉というのは、ヨハネ

     による福音書6章40節にあるんだ。

     『わたしの父のみこころは、子を見て信じるが、

      ことごとく永遠の命を得ることなのである。


     これを先程の『私の肉を食べ、私の血を飲む者には、

     永遠の命があ···る』というイエスの言葉と重ね合わせて

     読むとわかるんだ。

 

     つまり、イエスを食べるとは、イエスを信じることを

     意味しているというわけ。


     “なあんだ、そういうこと”····と、思うかも知れない

     けど、実は、問題は ここで言われている信じるって

     どういうことなのか····てことにあるんだ。

     

     “信じる”って、思い込むことでも、マインドで納得して

     同意することでもないんだ。また、『私はキリスト教を

     信じます』とか『私はイエス▪キリストを救い主として

     信じます』などと 信仰告白をすることが、必ずしも

     ここで言っている“信じる”ことにはならないんだ。


     信じる”ためには、心の目が開かれていること心の

     目が澄んでいることが、とても重要になってくるんだ。


     肉眼では見えない“隠れた真実(真理という宝)”をはっきり

     と認めることができるくらいに心が明るく照されている

     ことが重要になってくるわけなんだ(マタイによる福音書

     6章19節~23節、同7章3節~5節)、ヘブル人への手紙

     11章1節を参照)。


     隠れた真実(=見えない事実▪真理の宝)をありのまま

     見ること、認めることが、すなわち、“信じる”という

     こと。


     そのためには、心が清いことが大切になってくることを

     イエスは山上の説教の冒頭で指摘したんだ(マタイによる

     福音書5章8節を参照)。


     ところで、イエスが神から遣わされたということを

     イエスの口から何度も語られており、また神から遣わさ

     れたという そのイエスを信じることが人の救いにおいて

                     重要であることも説かれているわけなんだけど·····。

     そもそも、イエスは何のために神から遣わされたと

     思う❔ 言い換えれば、神から遣わされたイエスに

     託された最も大切な使命って何だと思う❔」


ハジメ: 「そう言えば、以前 シロアムの池での奇跡について

     話してたよね。それがイエスの使命と何かしら関係

     しているのかな。」


Osann : 「実は、そうなんだ。その点について、今一度

     再確認してみようね。······」

               

*二人の興味深い会話は、⑰『赤いリュック(2)』へ 続いていく(お楽しみに)**

 (2018年12月9日~20日)

 

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映画「君の膵臓をたべたい」の深読み⑮ “心で見る”

2018年12月09日 18時59分55秒 | 映画ブログ

心で見る

 

Osann :   「この映画を観ていると、『星の王子さま』の本が

     度々 出てくるよね。

     つまり、とても重要ってことなんだ。


     でね、この本の中には、キツネが星の王子さまに

     言った言葉として、こんなふうに書かれてるんだ。


      『じゃあ秘密を教えるよ。とてもかんたんな

       ことだ。ものごとはね、心で見なくては

       よく見えないいちばんたいせつなことは、

       目に見えない』(新潮文庫、河野万里子訳)

     

                     いちばん大切なことは目に見えないからこそ、

     心で見ないといけない····と、キツネは秘密を

     教えたわけだけど、“心で見るって どういう

     ことなのか わかる❔」


     また、イエスの場合は山上の説教の冒頭のほうで、

      『心の清い人たちは、さいわいである。

       彼らは 神を見るであろう。

       (マタイによる福音書5章8節)

     と、言ったんだ。


     神も もちろん肉眼で見ることができない存在なんだ。

     で、”清い心”で見ないと神はよく見えないと、イエス

     は言われたわけなんだ。


     相田みつをの言葉に、

     『あなたの心がきれいだから  なんでもきれいに見える

                        んだなあ

                     というのがあるんだけど、これも同じような意味合い

     があるように思うんだ。


     じゃあ、心が清い”とか、“心がきれい”とか、これって

     どのような心だと思う❔

      

ハジメ: 「これまで、漠然としか考えたことがなかったので、

     あらためて聞かれても、答えにくいなあ。


Osann :   「私は思うんだ。心の清い人たち、あるいは、

     心がきれいな人たちというのは、心で見ることが

     できる人たちでもあるんだって。

     つまり、同じことを言ってるんだって。


     このような人たちの心にはフィルターがかかって

     いないんだ。

     ところで、聖書の詩篇18篇25節~26節には、こんな

     ふうに書かれてるんだ。


    『あなたはいつくしみある者には、いつくしみある者と

     なり、欠けたところのない者には、欠けたところの

     ない者となり、清い者には、清い者となり、ひがんだ

     者には、ひがんだ者となられます。


     つまり、神は実際には“ひがんだ者”ではないのに、

     神を見る人の心に  もし“ひがみ”というフィルターが

     かかっているなら、“ひがんだ神”が見えてくるという

     わけなんだ。だから、逆に いつくしみのある者には、

     ちゃんと“いつくしみある神”が見え、欠けたところの

     ない者には、“欠けたところのない神”が見え、清い者

     には、“清い神”がしっかり見えるんだ。


     また、人の心というものは“”のようなものだとも

     言われてるんだ。

     見えない神を直接 見ることができないため、人は

     みんな自分の心に鏡の機能をもともと標準装備して

     いて、それぞれ自分自身の『心鏡』に映して、

     間接的に神を観ているんだ(コリント人への第二の

     手紙3章18節、コリント人への第一の手紙13章12節

     を参照)。

     

     だから、この心鏡』がきれいな人のことを心の清い

     (=心がきれいな)人たちとか、心にフィルターが

     かかっていない人たちなどと呼んでいるんだ。

     映画キミスイでは、“素直”という言葉がこれと同じ

     意味合いで使われているわけなんだ。


     ちなみに、このような人たちの心の奥にある“内なる

     光”というのは、明るく輝いていると 私は思うんだ。

     (マタイによる福音書6章22節~23節を参照)。

 

     もちろん、神を見る時だけじゃなくて、人を見る場合

     でも、自分の“心鏡”をきれいに保っておくこと(=素直

     になること)がとても重要になってくるんだ

 

     でね、映画キミスイを このような視点から、登場人物

     を観ていくと、面白いことがわかってくるんだ。


     それで、この映画の登場人物の中で“心鏡”がきれいな

     人(=素直な人)として描かれているのは、誰なのか

     わかる❔」


ハジメ: 「たぶん、桜良とガム君(丸顔の男子)·····かな。」


Osann :   「そうなんだ。だからこそ、桜良は恭子と親友になれた

     し、春樹とも仲良しになれたんだと思う。

     ガム君も、春樹とも仲良しになれたし、また 恭子とは

     12年後に結婚することにもなったんだ。


     桜良は、病室で 春樹に向かって 『君、先生になり

     なよ。』『だって、教えるのうまいし·····』と言った

     時に、春樹は『僕は独りでいるのが好きだし、他人と

     関わらない僕が向いてるわけないでしょ』と答えた

     んだ。その時、桜良はこう言ったんだ。

       『私  人を見る目はあると思うけどな

     つまり、桜良は心で見ていたので、人を見る目が

     あったんだ。

     言い換えると、桜良の心鏡”はきれい(=素直)だった

     ので、澄んだ心の目で見ることができたんだ。

     だからこそ、桜良は 見た目は“地味なクラスメート ”、

     “クラスで一番根暗だ”と思われていた春樹の中に

     隠れていた、あるいは、眠っていた目に見えない宝”に

     気づくことができたんだ。


     その人の心というのは、素直(=心が内なる光直結

     していること)なほど、相手の本質をより正確に“映し

     出す”となるんだ。

     これが、イエスが山上の説教の中で説いた“さばかない

     ということに繋がっていくんだ(マタイによる福音書7章

     1節を参照)。


     もし この心という鏡がきれいでなかったら、つまり、

     心鏡が曇っていたり、歪んでいたりしたら(=つまり、

     素直でないこと)、相手の内に隠れている宝を見ること

     ができなくなってしまうんだ。

     そして、甚だしく誤解したり、曲解したりしてしまう

     ことになるんだ。これが、実に “さばく”ということに

     繋がっていくことになるんだ。


     で、逆に、この心鏡がきれいでなかった人(=素直な

     心で見ることができなかった人)として描かれている  

     登場人物は、誰なのか わかる❔

     春樹に敵意を抱いていた人物だけどね。」   


ハジメ: 「クラス委員長と恭子····かな❔」


Osann : 「そうだよね。まあ 恭子は、最後には春樹と友だちに

      なれて良かったけどね。

     ところで、病室で“真実か挑戦ゲーム”をやって、春樹

     から『君にとって、生きるって どういうこと❔』と

     聞かれた時、桜良はちょっと考えてから、こう言った

     んだよね。

    『誰かと心を通わせること·······かな。誰かを認める、····』

     

     だから、“心で見る”ということは、相手を認めること

     でもあると思うんだ。良いか悪いかで判断するのでも

     なく、価値の優劣をつけたりするのでもなく、ただ

     相手のありのままを認めて受け入れていくことじゃ

     ないかって。


     ところで、スイパラで春樹がかつて女の子を好きに

     なった理由が何にでも“さん”をつけたこと、そして、

     それが『いろんなものに敬意を忘れないってことだと

     思ったんだよね』と言ったことを 桜良が真面目な顏を

     して聞いていて、思ったよりステキだったから。·····

     好きになった理由が。』と言ったけど、この“いろんな

     ものに敬意を忘れないこと”が、すなわち、相手をあり

     のまま認め、受け入れていくことと同じような意味だ

     と私は思うんだ。そして、これこそが桜良の生き方

     そのものではなかったのかなって、思うんだ。


     雨が降っていた夜に、桜良の家の前で クラス委員長が

                 『桜良はどうしてこんなヤツと』と春樹の前で吐き

                    捨てるように言い、また、家から出てきた桜良に

                    向かって『桜良、どうしてそんなヤツ』と言ったん

     だけど、これはまさに クラス委員長が春樹を 心で

                    見ていなかったこと、春樹に対して全く敬意を払って

                    いなかったことを証明してたんだ。」


ハジメ: 「確かにそうだよね。」


Osann : 「委員長とは対照的に、春樹に対する桜良の見る目は

     これとは全く違ってたんだ。

     春樹を心でしっかりと見ていたし、ありのまま 春樹を

     認めて、敬意も払っていたんだ。」


ハジメ: 「たとえば、桜良のどのような言葉から、そのことが

     わかる❔」


Osann : 「それはね、桜良が春樹に残した手紙(=遺書)からも

     窺い知ることができるんだ。

    『····でも私、そんな春樹に憧れてた。

     誰とも関わらないで、たった一人で生きている強い

     春樹に。

     私は弱いから、友だちや家族を悲しみに巻き込ん

     じゃう。 

     でもね、春樹はいつだって、自分自身だった。

     春樹は、本当にすごいよ。

     だから、その勇気をみんなにも分けてあげて下さい。

     そして、誰かを好きになって、手をつないで、ハグを

     して、うっとうしくても、まどろっこしくても、

     たっくさんの人と心を通わせて、私の分まで うん

     生きて。·····』


     桜良は、ここで春樹が人と関わらないで生きてきた

     ことがダメだとか、良くないことだよとか····決めつけ

     たりも、また、責めたりも、非難したりもしていない

     んだ。

     むしろ、そんな春樹に憧れてたとさえ、桜良は言って

     るんだ。

     ただ、ありのままの春樹を認めて、受け入れている

     んだ。

     そして、春樹は本当にすごいよと 認めた上で、桜良

     は、その勇気をみんなにも分けてあげて下さいと、

     春樹の背中をやさしく押してあげてるんだ。


     で、私は思うんだ。桜良が春樹をこのように心で見て、

     認めて、ありのまま受け入れていたからこそ、初めは

     素直と言えなかった春樹は 徐々に 自然と、素直に

     なれたんじゃないのかって。」


*二人の興味深い会話は、⑯『赤いリュック』へと続いていく(お楽しみに)**

 (2018年12月3日~9日)


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映画「君の膵臓をたべたい」の深読み⑭“窓から射し込む光”

2018年12月03日 22時41分39秒 | 映画ブログ

窓から射し込む光


Osann :   「ところで、映画『君の膵臓をたべたい』を観ていて、

     はたして 気づいたかどうかわからないけど、

     桜良と春樹が最初に出会った(=関わりを持ち、会話を

     した)のは、病院だったよね。


     その時のシーンは、覚えてる❔


     春樹と会話している時の桜良が、病院で窓から射し

     込む光をバックにして立っていたシーン。


     また、博多のホテルを出た後、しばし たたずんで

                 いた桜良と春樹の後ろ姿は、川面に照り返す日の光

                    包まれて、二人の輪郭がぼやけていって、あたかも

                    その光の中で一体化していくようにも見えたよね。


     そして、映画の最後のシーンでは、春樹の目の前で

     桜良の姿が図書室の窓から射し込む光に向かって

     立っていた桜良は、

    『私ね、春樹になりたい。春樹の中で生き続けたい。

     ううん、そんなありふれた言葉じゃダメだよね。

     そうだね、君は嫌がるかも知れないけど

     私はやっぱり·····』

     と言ってから、図書室の窓から射し込む光の中へと

     桜良の姿がスっと消えたよね。

    

     それから、急に映画の画面が真っ暗になって、

     桜良が一言、 

       君の膵臓をたべたい

     と言って、映画が終わるんだ。


     このような一連の流れから観ていくと、

     桜良の姿が図書室の窓から射し込む光の中で消えて

     いったというのは、いわゆる成仏して霊界へと

     旅立って行ったとか、あるいは、春樹に最後の別れを

     告げて 天国に行ったとか····そんなニュアンスという

     よりも、むしろ、桜良が春樹の中に入っていって

     一つになったということ、つまり、

     桜良の“内なる光”が春樹の“内なる光”に溶け込んで

     一つになって、春樹の中で桜良が生き続けることに

     なったということが、図書室の窓から射し込む光

     中で桜良の姿が消えていったように表現されたのでは

     ないか······と、私は観ているんだ。


     前にも言ったように、山本彩が歌っている

    『ひといき つきながら』の歌詞にもあるように、

     桜良が亡くなって春樹がまた一人に戻ったように

     見えるけど、実際のところ 春樹はもはや、

       “ひとりだけど、ひとりじゃない。

        心の中はひとりじゃない。”」

                     と思うんだ。


ハジメ: 「なるほどね。」


   静かな窓


Osann :   「ところで、ここでジブリの映画の主題歌の一つで

     ある『いつでも 何度でも』の歌詞に注目して

     もらいたいんだ。それはね、


      『はじまりの朝の 静かな窓

       ゼロになるからだ 充たされてゆけ

       海に彼方には もう探さない

       輝くものは いつもここに

       わたしのなかに 見つけられたから


     というフレーズなんだ。


     つまり、人が自分自身の内にある輝くもの

     (=内なる光)が体(=肉宮、神の神殿)全体に

     充たされていくためには、心が静かな窓になる

     必要があるんだ。

     その時に、内なる光が溢れ出て外側の体に充た

     され、照らしていくんだ。

     体がゼロにリセットされるのは、この心の窓が

     静かになる時なんだ。


     心が窓だと言えるのは、人の心には見えないものを

     見る、捉えるという機能が備わっているからなんだ。

·       このような心の機能を“信仰”と呼ぶんだ。

     だから、使徒パウロは、『心に信じて義とされ····

     と言ってるんだ。」


     もし、この心の窓が静かでない状態があるとすれば、

     それは心にあるマインド機能が忙しく働いている時

     なんだ。


     マインドというのは、過去のデータ▪情報▪知識▪

     既成概念▪常識などといった様々なフィルターを

     通して(=照合したり、比較したり、分析したり

     して)、最終判断を下したり、結論を導き出したり、

     思い込んだり、決めつけたりするものなんだ。


     まあ言ってみれば、それが人のマインドの長所でも

     あり、欠点でもあるんだ。

     ここで欠点というのは、見えない大切な真実

     心で見たり、捉えたりすることにおいて失敗して

     しまうことなんだ。

 

     人のマインドの働きをいったん停止させて、

     物事をありのまま観て捉えていく“澄んだ心の目”に

        なった時、“静かな窓”を意味しているんだ。その時に、

     初めて 真実(真理)が見えてくるんだ。

     

   素直であること


     実は、このような静かな窓”というのを、桜良が

     使っていた言葉で言い換えると、“素直”ということ

     でもあるんだ。

     “素直”って、結局、自分の“素なるもの(=内なる光)”に

     直結していることを意味する言葉なんだ。

     つまり、自分の“内なる光”がヴェールで覆われていない

     状態で生きていること、それが“素直である”ということ

     なんだ。

     そして、春樹が“素直”に自分の気持ちや思いを表現した

     時には、桜良はとても嬉しかったんだ。


     たとえば、博多のホテルで“真実と挑戦ゲーム”を

     やっている時、桜良はクラスで3番目にかわいい

     と答えたところ、桜良は

      『うわっ、メチャクチャ恥ずかしい。······

       君が素直に答えると思わなかったからさ。』

 

     また、博多のホテルを出て、二人が歩きながら

       桜良:『また旅行しようよ。次は夏かな。

       春樹:『夏か、いいかも。

       桜良:『あれ? やけに素直じゃん。

          さては、楽しかったな?

       春樹:『うん、楽しかったよ。

     この時、桜良はいったん足を止めてから、

    『フフフ····』と嬉しそうに笑いながら 春樹の

     方へと近づいていって、彼の脇腹を指で

     突っついて、君が珍しく素直だから。

     と言ったんだ。


     春樹が素直”になれたからこそ、実は、桜良との

     関係を“友だち”でも、“親友”でも、“恋人”でもない、

     あるいは、単なる“仲良し”でもない·····これらの

     どれにも当てはまらないような“特殊な関係”、

     “進化した関係”、あるいは、“深化した関係”へと

     昇華させていくことができたと言えるんだ


ハジメ: 「この映画『キミスイ』を観ていると、春樹に

     向かって桜良が素直”という言葉を何度も口に

     していたけど、これは思った以上に重要な言葉

     だったんだね。」


 

Osann :  「そうなんだ。

       この“素直”ということが何故そんなに大切なのか、

       もう少し説明するね。」


    

*二人の興味深い会話は、⑮『心で見る』へと続いていく(お楽しみに)**

 

 (2018年12月1日~3日)

 

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映画『君の膵臓をたべたい』の深読み⑬ “内に咲く桜良”

2018年12月01日 13時25分49秒 | 映画ブログ

 

内に咲く“桜良(サクラ)”

 

Osann: 「ところで、病室にいた桜良から夜に春樹の携帯に

     電話がかかってきたよね。

     その時 桜良は、満開の桜を見たかったので、

     『今から病院を抜け出して 旅行に行かない❔』

     って 春樹を誘ったんだけど、殺人犯になりたく

                    ないから 春樹は嫌だと言ったんだ。そして、

       『満開の桜❔ 今 何月だと思ってんの❔ 

        もうとっくに散って····

     と言いかけたら、それを遮るかのように すかさず

     桜良が言ったんだ。

     

      『桜はね、散ったフリして咲き続けてるんだって。

       散ったように見せかけて、実はすぐ次の芽を

       つけて眠ってる。散ってなんかいないの。

       みんなを驚かせようと 隠れてるだけ。

       そして、あったかい季節になったら、また

       一気に花開くの。サープラーイズって


     実は、この言葉にはとても深い意味が隠されている

     んだ。


     外なる世界に咲く桜に気を取られてばかりいると、

     映画『君の膵臓をたべたい』が訴えようとしている

     とても大切なことを見落としてしまうんだ。


     この映画の冒頭で、教師 春樹が語った言葉を

     覚えてるよね❔」

 

ハジメ: 「確か、星の王子さまの本からの引用だったよね。

        『肝心なことは目に見えない

     そして、春樹は『この一節は、“さよならをして、

     悲しませるくらいなら 仲良くならないほうが

     よかった”と嘆く星の王子さまにキツネが説いた

     言葉です····と続けて言ったんだよね。」


Osann :   「つまり、星の王子さまとキツネとの関係と

     春樹と桜良の関係がオーバーラップして

     描かれているのが、この『君の膵臓をたべたい

     という映画なんだ。


     言い換えれば、春樹と桜良が出会って、たった

     2か月程度の短い期間で急速に仲良くなったんだ

     けど、桜良が亡くなった後に、もし残された春樹が

     ただ悲しむだけ·····だったら、初めから桜良と春樹は

     出会わなければよかったんじゃないの❔····という

     結論に 普通なら なりかねないところを


     “いや、それは違うよ。もし君が目に見えない

     肝心なことに気づいたら、それが違ってた···って

     きっとわかるはずなんだ。”  


     こんなふうに、映画キミスイは切々と語りかけて

     いるように、私には思えてならないんだ。


     でね、さっきの桜良の言葉なんだけど、

      

    『桜はね、散ったフリして咲き続けてるんだって。

     散ったように見せかけて、実はすぐ次の芽を

     つけて眠ってる。散ってなんかいないの。

     みんなを驚かせようと 隠れてるだけ。


     これは 桜良(サクラ)が散った後(=亡くなった後)、

     実は、桜良(サクラ)が春樹の中ですぐ次の芽をつけて

     そーっと 眠ってた、隠れていた······ということ。

     つまり、桜良は春樹の中で生きていたんだ。


     実際、桜良は 春樹への最後の手紙の中で、

    『私は、春樹になりたい。春樹の中で生き続けたい。

     と 言ってたんだ。

     


   栗山君と春樹


     春樹自身は気づいてはいなかったかも知れない

     けど、教師 春樹と生徒である栗山君の会話を

     聞いていると、それが一目瞭然でわかるんだ。

     

     この映画を観ていると、栗山君も春樹と同様に、

     人と関わらないことで自分の領域を守っていた

     ことに気づくんだけど·····。

     

     で、栗山君と一緒に 図書の整理をやりながら、

     春樹は12年前に桜良と どのように関わってきたのか

     について回想しながら、栗山君にいろいろと話して

     いたんだけど·····

 

     春樹が語る桜良との思い出話に耳を傾けていた

     栗山君は、12年前の“桜良ー春樹 ワールド”の

     中へとグイグイと引き込まれていくことになるんだ

     ちょうど、以前 春樹が桜良と関わっていくうちに

     “桜良ワールド”の中へと引き込まれていったように。


    『先生になったきっかけは、桜良さんだったんですね

     と栗山君が言った時、春樹はこう反応したんだ。


      『笑えるよ。向いているなんて言葉  

       本気にして。

       教師になって6年、ここに赴任して1年

       今となっては 本当にこれでよかった

       のかなってさ。

       毎日、学校に通いながら思うんだ。

       僕は生徒たちと ちゃんと向き合えてる

       のかなってさ。


     この時に、栗山君は『辞めないでね、先生。

     そしたら、春樹は『えっ』と言ったんだ。

     栗山君は、それに対して『あっ、いや····だって····

     (少し考えて) 桜良さんが悲しむよ。』と答えた

     んだけど。


     でも、このシーンを観ていると、桜良さんが悲しむ

     から 先生を辞めないで栗山君が本当は言いた

     かったんじゃなくて、春樹は生徒である栗山君に

     対して、ちゃんと向き合ってるよ、だから先生を

     辞めないで····と言いたかったんじゃないかって。

     栗山君のそのような気持ちが、私には伝わって

     くるんだ。

 

     栗山君に対して よく ちょっかいを出してくる

     森下さんの一連の行動を 春樹自身が12年前に

                    桜良と関わったきた経験をもとに

       『仲良しのつもりじゃないかな。

        わからないけど。

     

     すると、栗山君は『森下さん、······また 明日』と

     呼びかけたんだ。

     すると、森下さんは振り返って、にっこりして

     言葉を返したんだ。

       『また明日ね。····栗山君。

     

        こうして、これまでは互いに“すれ違っていた”

     栗山君と森下さんが、仲良しになっていく

     きっかけを春樹は作ったんだ。

 

     こんなふうにして、教師 春樹は生徒である栗山君

     と自然と向き合い、関わっていたんだ。

     だから、桜良が死んだ後に一人になった春樹の

     中で 桜良が生きていたんじゃないかって、私には

     思えてならないんだ。

     

     さらに、桜良は、

      『そして、あったかい季節になったら、

       また 一気に花開くの。サープラーイズって。

                     って、言ってたんだけど·······

 

     春樹にとっての この“あったかい季節”というのは、
     
     実は、桜良が残していった共病文庫を読んで 春樹に
    
     対する桜良の真実の思いに触れた時だったんだ。


     でも、さらに決定的だったのが 桜良が春樹に

     残していった手紙(遺書)を読んで、そこに表現されて
    
     いた春樹に対する思いに間近に触れた時だったんだ。
    
     ここで一気に、春樹の心があったかくなって
    
     春樹の中で “桜良(サクラ)の花”がパーっと開いた

     んだ。

     それからなんだ、春樹の行動が急に大きく変わって
   
     いったのは。
   
     そして、それが見える形でハッキリと現れたのが、

     職員室で 春樹が迷うことなく、退職願をやぶるという

     行為だったんだ。」



ハジメ: 「なるほど。」



Osann :   「でね、この映画の最後のシーンを思い出してもらい
   
     たいんだ。

     桜良からの手紙(遺書)を高校の図書室で読んでいる時、

     春樹が顔を上げて振り向いたら、桜良の姿が見えたん
 
     だよね。 

     そして、その桜良の姿は窓から射し込む明るい光の
   
     中へと消えていったんだ。

     これって、どういうことか わかる❔  

        つまり、何を意味していたのか······ってこと。」



ハジメ: 「う~····ん。ちょっと考えさせて······。

     人によって いろんな解釈があると思うんだけど。

     たとえばさ、一つの見かたなんだけど······。

     亡くなった後に、桜良の魂が12年間も 学校の

                    図書室にとどまっていて、春樹がようやく

     桜良が“宝物”のように図書室の書庫にある

     星の王子さまの原書にこっそりと隠しておいた
 
     手紙(遺書)を 春樹が見つけ、読んでくれて
     
     春樹に対する桜良の真実の思いに気づいて

     もらえたこと、まだ、以前 博多のホテルに
 
     滞在している時、

     『私が死んだ後、恭子と仲良くなってほしいの。

      恭子をお願いね。

     という桜良の遺言を叶えてくれたこと(=恭子の

     結婚式の直前に春樹と恭子が友だちになれたこと)

     を桜良が知って 満足して、ようやく天国へと桜良が

     旅立っていった。

     それが、図書室の窓から射し込む明るい光の中で、

     桜良の姿がスーっと消えていったことが示して

     いるのでは·······。」



Osann :   「まあ、“霊能者”なら そんなふうな分析をするの

     かも知れないね。

     でもね、私がこの映画を深読みしていくと、

     それとはちょっと違うんだ。」



ハジメ: 「へ~。じゃ、他に どんなことが考えられるの❔」
  
     

Osann : 「それはね、······」


*二人の興味深い会話は、窓から射し込む光』へと続いていく(お楽しみに)**

 (2018年11月29日~12月1日)

 

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