☆「イエス-道」から観た統合ワークとは?☆
ハジメ: 久しぶりだね。この1年間近い空白期間は、どうしてたの?
Osann: いろんな情報にオープンマインドで触れ、必要な情報を精力的に
吸収していたんだ。
さらなる霊的成長のための醸造期間だったと言えるかな。
ハジメ: ところで、近頃、スピリチュアルの世界では、覚醒とか、
統合とか、アセンションなどに対してとても関心が高まっている
ようだけど、どんなふうに観ているの?
Osann: スピリチュアルリーダーたちがどんなメッセージを語っているか、
実は、私も とても興味深く耳を傾けてきたんだ。
実は、統合とか覚醒といったテーマというのは、聖書の世界に
おいても、とても重要なテーマなんだ。
今回は、こういったテーマについて私がずーっと想いを
巡らせてきたことを話してみたいと思う。
ハジメ: 僕もずーっと気になっていただけに、このようなテーマを
聞けるなんて、心がワクワクしてくるね。
Osann: 聖書の中では、イエス・キリストを信じることによって救われること
とか、イエスの名によって父なる神に祈り求めるなどが大切な教えの
ように思われているけど・・・。
もちろん、それはそうなんだけど、聖書における最重要テーマというか、
中心メッセージというのは、実は、「覚醒」、「統合」、「アセンション」
ということではないか・・・と、私は以前から強く感じていたんだ。
ハジメ: そうだったんだ。
Osann: イエスが私たちに説きたかったこと、知ってもらいたかったこと
というのは、本当は「覚醒」や「統合」や「アセンション」などに
ついてではなかったか。
福音書を読む度に、私の中でますますそのような確信が強まってくるんだ。
ハジメ: ふ〜ん・・・
それで、もう少しそれについて詳しく説明してくれる?
Osann: 「統合」というと、それは聖書用語でないので、聖書の多くの読者に
とってはピンとこないかも知れないけど、聖書的な視点から捉え直して
みると、「統合」していくことは、とても大切なことであることが
わかってくるんだ。
で、「統合」の意味することって、何だと思う?
ハジメ: '統合'の反対は、'分離'だよね。
スピリチュアルの世界では、よくそう言われているよね。
ということは、聖書の中で言われている'救い'とか、'罪'ということが、
'統合'や'分離'と深く関わってくるわけ?
Osann: そうだね。そんなふうに捉えてみると、案外わかりやすいと思うよ。
そして、そのような視点でイエスの生涯を見つめ直してみるといいよ。
ところで、十字架上でイエスが語った有名な言葉を覚えてる?
ハジメ: 確か、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」
だったよね。
Osann: これはどういうことかと言うと、・・・・・
イエスは、人類のすべての罪の身代わりにとして十字架にかかって罪を
贖ったと言われているよね。
つまり、十字架上でイエスが語った「わが神、わが神、どうしてわたしを
お見捨てになったのですか?」という言葉は、罪の本質とは何か?
ということを人類のスタンスに立って語ったものと私は捉えているんだ。
「罪の本質」というのは、「神からの分離」にあると私は観ているんだ。
そして、この「神からの分離」というものを人類の側に立って観た場合、
それは「神が人類を見捨てた」、あるいは、「人類が神から見捨てられた」
というふうに映るわけなんだ。
でも、実際のところ、人類の方が神から離れていったというのが真相と
言えるんじゃないかな。
ここに罪の不思議さというか、欺瞞というか、惑わしが隠れていると思う
んだ。
つまり、分離をもたらす罪というのは、同時に、真実・真理を覆い隠して
しまうものなんだ。
だからこそ、統合していくことが重要になってくるわけなんだ。
「統合のワーク」というのは、まさに、このような覆いを取り除いていく
作業とも言えるわけで、それが魂の救いに密接に関わってくるんだ。
ハジメ: え? それって どういうこと?
Osann: 簡単に言うと、神との分離が罪を意味し、神との分離を解消して
神と一つになることが救いを意味しているわけなんだ。
イエス・キリストはそのことを身をもって示したと言えるんだ。
神との正しい関係というのが、すなわち、救われている状態であり、
それは神と一体化していること、神と一つになっていることなんだ。
だから、イエスは「わたしと父とは、一つである」(ヨハネによる福音書
10章30節)と言われたんだ。
また、イエスは、「父がわたしにおり、また、わたしが父におる」とも
語っているよね(ヨハネ10章38節、14章11節と20節を参照)。
このような表現も、実に、イエスと父なる神が一つであること、つまり、
分離していないことを意味しているわけなんだ。
イエスの生涯においては、常に神がイエスと一緒におられ、離れることは
なかったんだ。
ところが、イエスが十字架上にかけられていた時に、イエスと神との関係に
おいて変化が生じることになるんだ。
しかも、それはこれまでイエスが一度も経験ことのないような凄まじい
変化だったんだ。
それが、先ほどの「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てに
なったのですか?」というイエスの言葉に如実にあらわれているという
わけなんだ。
これって、一体、どういうことだと思う?」
ハジメ: 「・・・・・・?・・・・・・?」
Osann: 「イエスの十字架の場面、ここにおいてイエスが体験したことの中に
とてつもない神の奥義が隠されているのでは?・・と、私は直観して
いるんだ。
そして、この奥義を紐解いていくことが、とてもとても大切なことの
ように私には思えるんだ。」(コリント人への第一の手紙2章6節〜12節
を参照)。
ハジメ: 「イエスの十字架に、一体、どういう深い意味があるんだろう?
とても知りたくなってきたよ。」
Osann: 「使徒ヨハネや使徒パウロが書いたものをみてみると、異口同音に
彼らはイエスの十字架に神の無限の愛を見出していることが
わかるんだ(ヨハネによる福音書3章16節、ヨハネの第一の手紙3章16節、
同4章8節〜10節、ローマ人への手紙5章8節等を参照)。
一体、なぜ彼らはイエスの十字架に"神の愛"を見出し、確信することが
できたんだろうか?
聖書の中でイエスの弟子が十字架を指し示して"ここに神の愛がある"と
言っているからという理由で、私たちがただそれを鵜呑みにしたり、
あるいは、そのように思い込もうとするのはどうなんだろうか・・・
と思うんだ。
ハジメ: 「言われてみれば、確かにそうだよね。」
Osann: 「つまり、イエスの十字架において神の愛が啓示された証拠を自ら
聖書から探求して見出していく時に、"神は愛である"という真理は、
人からの借り物に留まることから脱却し、本当の意味で 腑に落ちて
いくと思うんだ。
すると、"神は愛である"という真理が、その人のうちにしっかりと
留まることになるんじゃないかな。」
ハジメ: 「うん、確かに、そうかも知れないね。
で、Osannは、特に、イエスの十字架のどういうところに神の愛を
確信したの?
証拠みたいなものを聖書から何か見つけたの?」
Osann: 「その前に一言 言っておくと、"聖書的な統合ワーク"というものが
あるとすれば、それはイエスの十字架において神に関して啓示された
真相・真実(=真理)とはなんだったのかを知ることが重要なポイントに
なってくる・・・と私は思う。
このような"神についての真理"を使徒パウロは、コリント人への第一の
手紙2章の中で、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮かび
もしなかったこと」(9節)とか、「神の深み」(10節)とか、「神の思い」
というふうに表現したわけなんだ。さらに別の表現では、「隠された
奥義としての神の知恵」(7節)とも呼んでいるわけなんだ。
そして、イエスの十字架を指し示して、使徒ヨハネは「わたしたちに
対する神の愛が明らかにされたのである。・・・ここに愛がある」
(ヨハネの第一の手紙4章9節、10節)と言い、また、使徒パウロも
同様に「神はわたしたちに対する愛を示された」(ローマ人への手紙
5章8節)と言ったんだ。
一体、なぜ、彼らはイエスの十字架にこのような神の愛を見い出すことが
できたのか?
そのわけを知るためにも、イエスの十字架の謎、言い換えれば、十字架の
奥義を紐解いていく必要があるんだ。」
ハジメ: 「なるほど。それで・・・?」
Osann: 「確か、1年以上前のブログでも書いたと思うんだけど、私はイエスが
十字架にかけられていたあの場面の中で、昼の12時頃から3時間に及んだ
全地を覆ったという暗闇があったと記されているんだけど、実は、その
暗闇にとても深い意味があったと考えているんだ。
そして、その暗闇という謎を解く鍵は、詩篇の中に隠されている・・・
と、私は観ているんだ・・・。
この暗闇の謎解きこそが、実に、神の愛そのものを明らかにしていくもの
であると、ずーっと前に気づいたんだ。」
ハジメ: 「で、その暗闇の解き明かしとは?・・・」
**二人の興味深い会話は 続く(お楽しみに)**
(2020年2月11日〜17日、24日〜25日、27日、28日、29日、3月1日、2日、3日)
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