意識の進化、次元上昇をアシストする“イエス-道(Jesus,the Way)”

“イエス-道”という視点から、人生を生きる秘訣・コツを考える“斬新的な聖書リサーチ”

映画[君の膵臓をたべたい]の深読み⑳ “時間軸から観た素直”

2019年02月17日 21時25分36秒 | 映画ブログ

⑳“時間軸”から観た“素直な生き方”

 

Osann :「ところで、桜良が亡くなって1ヵ月ほど経ってから、

    春樹は 桜良が読んでいいよと言っていた共病文庫を

    見せてもらうために、桜良のお母さんに会った時、

    確か こう言われたよね。

     『本当にありがとう。あなたのおかげで、

        あの子はしっかり生きることができた。

     

ハジメ:「うん、そうだったよね。」 


Osann :「“素直に生きる”ということが “しっかり生きる”ことに 

    繋がっていくんだけど、実は、この『しっかり生きる』

    ことに、“時間軸”というものが深く関係してくるんだ。」


ハジメ:「えっ❔ つまり····❔」


Osann :「人の体自体は“今ここ”にあるのにもかかわらず、

    その人の想いは“”に生きていることもあるし、

    逆に、“未来”に生きていることもあるんだ。


    つまり、人の肉体は物質次元(=物理次元)に属するもの

    であるから3次元というこの世に生きるしかないんだ

    けど、人の想いというのはそのような制約を受けない

    ため、過去に縛られて生きることも可能だし、また

    未来想いが飛んでしまっていることもあり得るんだ。


    例えば、他人や自分をゆるすことができない人、誰かに

    何らかの恨みや憎しみを持っている人、後悔や未練や

    悔しさや悲しみなどを持っている人などは、まさに

    過去に引きずられ、過去に囚われ、過去に縛られている

    にで、いわば“過去に生きている人”であると言えるんだ。


    一方、まだ実際に起こってもいないことを心に自分で想い

    描いて、不安や怖れ、心配に押し潰されそうになって

    いるような人、今 現在の状況をありのまま受けとめたり、

    認めたりすることができず、今ある現実を悪いもの、

    嫌なものと決めつけたり、あるいは、現状に不平不満を

    感じているからという理由で、今ここから逃れたい、

    今を変えてしまいたいと考えて、自分の願望を神に祈ると

    いうのも、ある意味、未来に想いが飛んでしまっていて、

    “未来を生きている”と言えるんだ。

    いずれの場合も、地に足が着いていない、“今ここ”に

    おいてが輝いていない、内なる光が暗くなっている·····

    というわけなんだ。」


ハジメ:「ということは、“しっかり生きる”ということは、体が

    置かれている“今、ここ”に、想いもしっかりとどまって

    いるということ·····。つまり、両者の時間軸が

    “今 この瞬間”において一致しているということが、

    “しっかり生きる”ための秘訣というわけなんだね。」


Osann :「そういうこと。

    人の想いというのは、過去であっても未来であっても

    自由に飛んでいくことが可能なんだけど、でも想いの

    軸足も、体が存在している“今 この瞬間”にしっかりと

    置いておくことがとても重要なんだ。


    ところが、ほとんどの場合、想いの軸足を“今という

    この瞬間”に置いてないために、体だけを“今ここ”に

    置いてきぼりにしたまま、想いだけが“過去”や“未来”に

    単身赴任してしまって、体がいる今ここ”にずーっと

    戻ってこない状態が続いているというわけなんだ。


    で、そんなふうに体が生きている時間軸と想いが生きて

    いる時間軸との間にズレが生じている時に、葛藤や

    ストレスが生じてしまうことになるんだ。


    不安や心配 思い煩い、恐れ、取り越し苦労、怒りや

    苛立ちの感情などといった“お荷物”を、今ここ”に置いて

    きぼりにされている体に頻繁に送りつけてくるんだ。


    そのように送られてくる余計な“お荷物”にふりまわされて

    ばかりいるので、生きるために使うべきエネルギーが

    過去や未来に分散してしまって、“今というこの瞬間”を

    しっかりと充実して生きことができなくなってしまう

    ·····というわけなん


    さて、桜良のお母さんが『あなたのおかげで、あの子は

    しっかり生きることができた』と言ったということは、

    桜良が“今というこの瞬間”を充実してイキイキと命を

    輝かせて生きていたことをお母さんも気づいていたと

    いうこと。


    で、桜良が“今、この瞬間をしっかり生きていたこと”は、

   『君の膵臓をたべたい』の映画のどのシーンからわかると

    思う❔ 実は、それについては 前にもチラッと話した

                ことがあるんけどね。」


ハジメ:「ちょっと待って·····。思い出してみるから。

                  確か、つかの間の外出許可をもらって、桜良が自分の

      寿命があと僅かしかないことに気づいた、あの病院の

      屋上でのシーンあたりじゃない❔ その時、点滴を

     つけたままで 長イスに腰かけたよね。」


Osann :「まさに、そのシーンなんだ。そこで、桜良はこのように

    言ってたよね。

     『最後に彼ともう一度旅行して、桜を見に行く約束を

      した。 いつか 恭子と3人でも行きたかったな···。

      でも、十分幸せ彼と一緒にいられる

      そう思えるだけで幸せ

     そして、桜良は顔をあげて微笑んだんだ。

     ここで桜良が語っている言葉にしっかりと耳を傾けて

     もらいたいんだ。

     ここで、春樹と もし旅行に行けたら幸せ·····とか

     一時退院して春樹と一緒にいられたら幸せ·····とい

     ふうには、桜良は言わなかったんだ。

     

     もしそうなら、春樹と会って一緒にいられるという

       “近未来”に幸せあって、まだ春樹に会ってもない、

     一緒にいられていない今、この瞬間”においては幸せ

     でなくなってしまうだ。

   

     これが、体が“今ここ”にあるのに、想いは未来に飛んで

     行ってしまっていて、両者の時間軸にズレが生じている

     状態と言えるんだ。このような状態においては、十分な

     幸せというものは存在し得ないんだ。


     なぜ、病院の屋上には春樹がいないにもかかわらず、

       “今ここ”で 桜良は十分な幸せを感じて、微笑むことが

     できたのか❔

 

     その秘訣は、桜良が語っていた言葉にしっかり耳を

     傾けるとわかるんだ。桜良は、でも、十分幸せ。

     彼と一緒にいられる。そう思えるだけで幸せ』と

     言ったんだ。これは、桜良が想いの軸足が、桜良の

     が存在している“今この瞬間に置きながら、近未来

     起こるであろうことを今この瞬間において想いに

     よって捉えているんだ。だから、“今ここで”桜良は

     幸せでいることができるんだ。


     ある意味、今この瞬間”こそが『リアルな時間』と

     言えるんだ。

     そういう意味では、“過去”も“未来”も『幻想』と言える

     のかも知れない


     ところで、“信仰の薄い者”とは思い煩う人”のことで

     ある·····山上の説教の中でこのようにイエスが言って

     いるんじゃないかって、私には思えてならないんだ

     (マタイによる福音書6章25節~34節を参照)。」


ハジメ:「もう少し、その点を詳しく説明してくれない❔」


Osann :「“思い煩い”というのは、人の想いの軸足が“今この瞬間

    から離れてしまって、想いが過去のことや将来のことに

    囚われてしまった時に、生じるものなんだ。


    今この瞬間”をしっかりと生きていないことを示す

    サインが思い煩い”と言えるのかも知れない。

    それはまた同時に、その人の“信仰が正常に働いていない”

    ことを示すサインでもあるんだ。


    話が横道に逸れてしまったので、話を戻すね。

     

人の興味深い会話は、まだまだ続く(お楽しみに)**

 

 (2019年1月27日~2月5日、2月17日に補足改訂)

 

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映画『君の膵臓をたべたい』の深読み⑲ “発見された宝”

2019年01月27日 18時14分58秒 | 映画ブログ

発見された宝

 

 

      素直=さばかない


Osann :   「で、イエスが説いた山上の説教における核心的なメッ

     セージというのは、“さばくな”である·····と、以前から

     私は観ているんだ(マタイによる福音書7章1節を参照)。

     このように“さばかない”ということを自分の生き方に

     積極的に取り入れて、日々実践していくことこそが

     イエスの“柔和(=素直)”を学んで (マタイによる福音書

                    11章29節を参照)自分のものにしていくための秘訣では

                    ないか····と思うんだ。


     さばかないこと”と柔和(=素直)”というのは、コインの

     裏と表の関係にあると思うんだ。 つまり、表裏一体と

     いうことだね。


     そして、この柔和(=素直)”を身につけた人こそが、

     “さばかない愛”を基調とした自分の人生において

     “かげかえのない宝を確実に発見することになる····。


     映画『君の膵臓をたべたい』も、聖書も、実は、

     そのことを教えようとしているんじゃないかって、

     私には思えるんだ。」

     

    発見された宝の中身


Osann : 「この映画の中では、春樹が 閉架書庫の星の王子

     さま』の原書に桜良がそっと隠してあった(=遺書

     の手紙)を発見し、かつ、その手紙を読んでようやく

     春樹が発見した“宝の中身”というのは、なんと自分に

     対して抱いていた“桜良の想い”だったんだ。


     桜良が以前、病室で春樹に『私が君をどう想っている

     か気にならない❔ 私は君をどう想っていると思う❔

     聞いてたことがあったよね。

     その時に、春樹が『ただの仲良しじゃないの❔』と

     答えたら、桜良は『ブー』と言って否定したんだ。

     で、春樹が『じゃ、どうなの❔』と聞き返したら、

     桜良は『教えない。』『共病文庫にでも書いておこう

     かな····と言ったんだよね。


     でも、桜良が亡くなって1ヵ月くらい経って、桜良の

     お母さんからその共病文庫を受け取って 読んだんだ

     けど、春樹は自分に対して抱いていた桜良の想いを

     (もちろん、読み取ろうと思えば 読み取ることも可能

                    だったんだけど) 十分に気づくことができなかったんだ。


     桜良が閉架書庫の『星の王子さま』の原書にそっと

     忍ばせて置いた遺書の手紙は、春樹に発見されることを

     今か今かと首を長くして待っていたんだ。


     で、12年の時が経過して、ようやく春樹はその宝を発見

     したというわけ。

     でも もしその時、思い込みとか、決めつけなどといった

     “さばくという思考プロセス”によって、春樹の心の目が

     曇っていたなら、言い換えれば、春樹が“素直な状態

     から かけ離れていたならば、春樹は桜良が残していった

     というか、隠していったというか、その“宝物”に辿り

     着くことは出来なかったんだ。

    

     結果的に、自分の”内なる光”に素直に従っていった

     春樹は 桜良が残していった“遺書の手紙という宝”を

     見つけ出し、それを読んだ時に ようやく自分に対する

     桜良の真実の想い確信するに至ったんだ。

    

     聖書の教えの本質はこれととてもよく似ていて、

     イエスのうちにある柔和(=素直)を学んで、

     さばくことをキッパリとやめた時に、人は神のうちに

     ある天の宝”を見いだすことになる。

     つまり、人類史上ずーっと覆われて隠れていた“人類に

     抱いておられた神の真実の想い”という神の奥義

     気づくに至って、ようやく人類を救う神の計画の

     本質、真髄は何なのかということを人は知ることに

     なるんだ。そして、それを知った人はサプライズする

     んだ(コリント人への第一の手紙2章7節、9節、11節を

     参照)。なんて、素晴らしい福音(グッドニュース)なん

     だと。


     神に対して人類が長きにわたって抱いていた誤解を

     解いて、神に直接 アクセスしていくための突破口を

     開くための重要な要となるのが、まさに“素直(=柔和)”

     にあったんだ。


     聖書を学んでいる人たちには“信じること”こそが大事

     ····と思うかも知れないけど、素直(=柔和)”であること

     こそが、実は、信仰の目自分自身の“内なる光”に

     対して開かれ、繋がることであり、同時にそれは

     真実の神に対しても開かれ、繋がるということを意味

     しているんだ。」



     素直さ”を持ち合わせていなかったクラス委員長

 

Osann :   「さらに言うと、この桜良の“遺書の手紙”が『星の王子

     さま』の原書に隠してあったということにも意味がある

     んだ。

 

     実は、『星の王子さま』の物語で描かれている最も

     重要なテーマというのは、“いかにして友だちとしての

     真の絆を結ぶことができるのか”ということだったんだ。

       

     映画の中では、桜良が度々指摘していた素直”を

     身につけていった春樹と、逆に素直”に欠如している

     クラス委員長を対照的に描いているんだ。


     クラス委員長と桜良の家を出てきた春樹との間で問答が

     あって、前の彼氏がしつこいのを桜良は嫌いだった

     ということを春樹が口にした瞬間、クラス委員長は

     切れてカッとなり、春樹を殴り倒して、春樹から奪い

     取った桜良の『星の王子さま』の本を地面に叩きつけた

     よね

 

     つまり、クラス委員長が取ったそのような行動は、

     お互いの心を通い合わせ、結びつけるのに必要な

     素直”という大事なものを投げ捨てたことの証明だと

     思うんだ。

     

     クラス委員長は、『桜良、どうしてそんなヤツ····

     と桜良に言ってたよね。

     つまり、クラス委員長は春樹を価値のない人間として

     “さばいていた”ということ。この“さばく”という行為は

     真我である“内なる光”に直結しているのではなく、

     むしろ、自我に直結して生きてしまっている時に

     自然発生してくるものなんだ。

     

     で、そのようなクラス委員長の言葉に対して、桜良は

     まさに“問答無用”、つまり、何も答えようとせず、

     真剣な顔をして、ただキッパリと こう言ったんだ。

     『もう二度と、私の周りの人たちに近づかないで❗』

     と。


     この言葉を裏を返して解釈すると、“素直な生き方”を

     否定して、その対極にあるような生き方(=真我なる

     内なる光に直結せずに、むしろ自我主導の“人を

     さばいて生きる”ということ)をしていると、

     “目に見えない貴重な”を確実に見失うことになって

     しまう····ということを暗に示しているんだ。


     また、“さばいて生きる”という自我主導の生き方に

     馴染んでいると、真実の神との出会いも果たせなく

     なってしまうだけでなく、神にアクセスする道

     自分から閉ざしてしまうことになる····、これが

     山上の説教の中でイエスが教えた重要な真理の中の

     一つと言えるんだ(マタイによる福音書6章14節~

     15節を参照)


     そういう意味でも、この映画『君の膵臓をたべたい

     は、極めて大事なテーマを扱っており、かつ、聖書が

     啓示している真実の神に出会うための数々のヒントが

     そこに散りばめられているのでは····と私は観ている

     んだ。


     近い将来にさ、『聖書を読んでも なかなか真実の神に

     出会うことができない君は、この“君の膵臓をたべたい

     という映画のDVDをじっくり観て勉強したまえ。

     私のだけど·····君に·····特別に貸してあげます。

     な~んて言う時代が来たりしてね·······。」 

           

ハジメ: 「フフフ·····、面白いこと言うね。

     うん、説明でよくわかったよ。そういうことだった

     んだね。

     これで、『君の膵臓をたべたい』の映画の観かたが

     180度 大きく変わったよ。 

     ホントに、桜良が春樹に対して語っていた“素直”には、

     実に重みのある言葉というか、とても深い意味のある

     言葉だったんだね。

     で、他にも何か····ある❔


 Osann :   「ここで、素直”であることを視点を変えて観ても

     面白いと思うんだ。

     つまり、“時間軸”から素直に生きる”ということを

     捉えてみようと思うんだ。」


ハジメ: 「え? どういうこと? 

     “素直に生きる”ということに、時間の概念も深く関係

     してくるんだ。


Osann : 「では、そのことを映画『君の膵臓をたべたい』の中から

     また説明してみようね。」


人の興味深い会話は、⑳『時間軸”から観る“素直”』に続く(お楽しみに)**

 

 (2019年1月23日~27日)

 

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映画[君の膵臓をたべたい]の深読み⑱ “宝を発見する春樹”

2019年01月20日 21時32分54秒 | 映画ブログ

宝を発見する春樹

 

Osann :「春樹が どのようにして“”を探し当てたのか、その

    プロセスを知ることは、とても大事なことなんだ。

    で、ここで注目すべきは、桜良が春樹に対して語った

    “素直“、”選択”という重要なキーワードなんだ。

    実は、それが、春樹がどのようにして“”を探し当てる

    ことができた理由を解明するためのヒントになってくる

    んだ。」

 

ハジメ:「そうなんだ。もっと、詳しく説明してくれない❔」


Osann :「桜良が春樹に書いた遺書の手紙を 春樹が宝探し”のように

    探し出すキッカケとなったのは、栗山君が図書館で春樹に

    差し出した図書カードに大きく書かれたニコマークを見た

    時だったんだ。

    栗山君の目には それは単なる“落書き”のようにしか見えな

    かったんだけど、春樹にとっては “桜良からの発せられた

    重要なメッセージ”だと直観したんだ。

    つまり、図書カードに書かれたニコマークというのは、

    桜良が春樹に残していった”の存在を指し示していた

    というわけなんだ。


    もちろん、遺書の手紙というを春樹に残していくこと

    について、桜良が生前中に春樹に話していたわけでは

    なかった。でも、桜良が何か重要なメッセージを残して

    いったのではないか·····と、春樹はハッと気づいたんだ。


    桜良が死んでから12年も経っている状況の中で、桜良が

    春樹に残していった”を探し当てる可能性というのは

    極めて低いと考えられるんだけど·····。


    でも、春樹は 奇跡的にその”に辿り着くことになる

    んだ。 なぜだと思う❔」


ハジメ:「もしかして、ここに桜良が春樹に言ってた例の重要な

     キーワードである素直“と”選択”とが関係してくると

     いうわけ❔」


Osann :「実は、そうなんだ。

    “素直“と”選択”、もしこの両方なければ、桜良が残して

    いった“”に春樹が辿り着くことは不可能だった······と

    思うんだ。」


ハジメ:「もう少し、具体的に説明してもらってもいい❔」


Osann :   「今から説明していくね。

     たとえば、高校の図書館が老朽化のため5月3日からの

     取り壊しが決定し、そのために教頭が教師 春樹に

     図書委員と一緒に図書の整理をしてもらえないか···と

     依頼しているシーンがあったよね。


     その時、教師を辞めようかどうかと迷っていた春樹に

     とっては、図書の整理をする気にはならなかったので、

     教頭に『ちょっと····』と言って呼び止めようとしたんだ

     けど、教頭はそのまま行ってしまったので、しぶしぶ

     受け入れたんだ。


     このシーンというのは、かつて春樹が『君に、私の残り

     少ない人生の手助けをさせてあげます。····日曜11時に

     駅前集合。よろしくね。』と桜良に言われたシーンと

     似ているよね。 一見すると、春樹はただ流されてる

     ように見えるんだけど、これもある意味、春樹がした

     “選択”の一つとも言えるんだ。

     自分から積極的に選び取った選択”というわけではない

     けど、相手が言ったことを頑と拒否しないという“選択

     をしているわけなんだ。

     このような選択”をしたことも、実は、春樹が”に

     辿り着くことに繋がっていくことになるんだ。


     さらに、一緒に図書の整理をすることになった栗山君に

      (特に、栗山君に聞かれたわけでもないのに)   春樹が

     高校生だった時に 桜良とどのように関わっていたかに

     ついて 自分から積極的に話をしたというのも、春樹が

     した重要な“選択”の一つだったんだ。


     また、栗山君からニコマークの落書きがある図書カード

     を見せられた時に、“”の存在を確信して、すぐに その

     “宝探し”を始めたという“選択”も、春樹が“”を探し当て

     ることに直結したんだ。


     つまり、このような一つ一つの“選択”の積み重ね

     なくして、桜良が隠した“”を春樹が見つけることは

     不可能だった·······と言えるんだ。」


ハジメ: 「うん、確かにそうだよね。」


Osann : 「で、このような一連の選択”ができた背景は、春樹が

     “素直”になれたことにある·····と言えるんだ。

     もちろん、初めから春樹が”素直”だったというわけでは

     ないんだ。そのことは、桜良が春樹に語っていた言葉を

     聞くと一目瞭然だよね。


     実は、素直になる”っていうことは、とても重要なこと

     なんだ。

     素直”でない時、人は自分の自我(=エゴ)の声に従って

     物事を選択”していくものなんだ。


     ちなみに、“素直でないこと”を聖書では、“かたくなな

     心”とも呼んでるんだ。そのような人の生き方において

     主導権を握っているのは、“自我”とか“エゴ”と呼ばれて

     いるものなんだ。聖書では、そのことを“”とか“肉欲

     とも呼んでいるんだ。


     じゃあ、“素直”って どういうことかというと、それは

     人の言いなりになって、自分の意志に反して 相手に

     合わせて生きていくことではないんだ。

     また、自分の意志を押し殺して、相手の言うままに

     流されていくことでもないんだ。


     素直”というのは、自分の”“に”直結“して生きていく

     こと。

     自分の”“というのは、本当の自分、本来の自分、

     真実の自分、自分の核なる部分ということであって、

     スピリチュアル用語では、“ハイアーセルフ”とか“真我

     とか“神我”とか呼ばれているものにあたるのだと思う。

     イエス自身は、そのことを山上の説教の中で“あなたがた

     の内なる光”と呼んでいるのではないか·····と、私は観て

     いるんだ。

     誰の内にも存在するこの“内なる光”には一点の曇りも

     なく、これ自体はいつも輝いているんだ。ここに直接

     繋がって その声に耳を傾けて生きていくこと·····、

     それが本当の意味での“素直”ということなんだ。


     そして、この内なる光”を覆い隠している“ヴェール

     のようなものが“自我(=エゴ)”と呼ばれているもの

     なんだ。


     だから、春樹が『君に、私の残り少ない人生の手助けを

     させてあげます』と桜良に言われた時に、単に桜良が

     言ったことに流されて、仕方なく桜良の人生に関わら

     ざるを得なくなったというのではなく、その時、春樹

     自身は気づいていなかったかも知れないけれど、

     自分の“内なる光”の声に確実に従っていた····というわけ

     なんだ。


     また、教頭に図書の整理を頼まれた時に それを断り

     切れなかったのも、単に流されて 引き受けてしまったと

                    いうことでもなかったんだ。

     一見すると、流されて生きていたように見えるけど、

     実は、目に見えないところでは、春樹は自分の“内なる

     からの声に“素直”に従って“選択”して、行動を取って

     いた·····というわけなんだ。


     つまり、春樹は単に “流されるままに” 桜良が閉架書庫に

                    置かれてあった“星の王子さまの原書に隠してあった

      “”を見つけたというのでも、あるいは、“たまたま偶然”

                   に見つけたということでもなかったんだ。」


ハジメ: 「うん、よくわかったよ。」



  春樹における素直さ

 

Osann :「素直になることについて、春樹が語った言葉から

    もっと詳しく考察してみようと思うんだ。

    というのは、これは とても大事なことだから·····。


    実は、春樹は初めから“素直”だったわけではなかった

    んだ。それが顕著に現れたのは、スイーツパラダイス

    でのシーンだったんだけど·····、どのシーンなのか

    わかる❔


ハジメ:「もしかして、桜良に『君は、親友とか いないの❔』と

    聞かれた時、春樹が『僕なんかに興味はないくせに···』

    と言って、答えるのを拒否したシーンじゃないの❔」


Osann :「そう。まさに、そのシーンなんだ。

    つまり、クラスメートの中で一番 根暗で地味だと自他共に

    認める自分のことに桜良が興味なんか持つはずはない❗

    ·····というふうに春樹は決めつけていたんだ。

    この“決めつけ”と“素直”は、共存することはできないんだ。

    “決めつけてかかる”というのは、自我根差した判断で

    あり、一方、素直”というのは真我(=内なる光)の直結して

    ところから生まれてくる判断だからなんだ


    また、“思い込み”というのも、“決めつけ”と同様に 素直

                とは相いれないものなんだ。

    ところで、春樹がこの思い込み”で、後悔してしまった

    シーンって どこだったか覚えてる❔


ハジメ:「それって、桜良が通り魔に刺されて亡くなった時のことを

    回想して栗山君にかたっていたシーンじゃないの❔」


Osann :  「そうなんだ。

     教師 春樹は、このように語ってたよね。

    『甘えていたんだ。残りわずかな余命を彼女が全うできる

     ものだと思い込んでたんだ。·······

     バカだった。明日どうなるかなんて、誰にもわから

     ない。だから、今 この1日を、こも瞬間を大切にしな

     きゃいけないって、そう彼女に教わったのに。


     このような“思い込み” とか “決めつけ”は、実は、人が

     “素直”になることを、つまり、人が自分の“内なる光”に

     直接 繋がることを確実に邪魔してしまうものなんだ。


                     ところで、『井の中の蛙、大海を知らず』という諺が

     あるけど、人というのは 実際にはよく知らないのに

     何でも知っているかのように 思い込んだり、決めつけ

     たりして、ファイナルアンサーを出すことで、物事を

     断定したり、断言したり、あるいは、人を断罪したり、

     善▪悪や価値の有無を判断しようとしてしまうんだ。

     これが“さばく(ジャッジする)”とい自我指導の思考

     プロセスということ。········」


人の興味深い会話は、⑲『発見された宝』へと続く(お楽しみに)**

 (2019年1月11日~20日)

 

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映画「君の膵臓をたべたい」の深読み⑰ “赤いリュック(2)”

2019年01月11日 19時00分08秒 | 映画ブログ

赤いリュック(2)

 

  シロアム

 

Osann :   「イエスはなぜ神から遣わされたのか❔····そのことが

     明確に示されたのが、生まれつきの盲人が“シロアムの

     池”で癒され、目が見えるようになったという奇跡

     (ヨハネによる福音書9章を参照)だった····と私は思って

     いるんだ。


     そして、シロアムとは、つかわされた者”という意味

     だったんだ(同9章7節を参照)。

     で、このつかわされた者”というのは、この世にいる

     人類を罪から救うために天の父なる神から 送られた

     イエス自身指しているわけなんだ。


     これからわかることは、神からつかわされたイエスに

     託された最も重要な使命というのは、罪の結果 ずーっと

     霊的に盲目状態になっていた この世の人々の心の目を

     開くこと、それによって 隠された真実(=ずーっ

                    見失われていた真理)を認めることができるようにする

       ことだったんだ。


     だから、イエスは『わたしがこの世にきたのは、·····

     見えない人たちが見えるようになるため····である

     (同9章39節)と言ったわけなんだ。·····」

 

ハジメ: 「なるほどね。それで❔······」


Osann : 「罪のゆえに 霊的に盲目状態だった人が見えるように

     なることが、神の救いの計画の最重要事項であった····

     実にここにこそ、イエスの十字架における死の意義

     があるのでは·····と思っているんだ。」


ハジメ: 「もう少し詳しく説明してくれない❔」


Osann:  「いいよ。じゃ、映画キミスイからヒントを探して

     聖書の真理にアプローチしてみようね。

     九州の博多のホテルを出た後に二人が会話をしながら

     歩いてたよね。

     桜良:『また旅行しようよ。次は夏かな。

     春樹は:『夏か、いいかも。

     桜良:『あれ? やけに素直じゃん。

        さては楽しかったな?

     春樹:『うん、楽しかったよ。

     その言葉を聞いた桜良は真面目な顔になって、

     立ち止まり、それからニコッとしてフフフ····』と

     笑いながら走り寄っていって、春樹のわき腹を

     指で突っついたんだよね。

     そしたら、春樹:『何❔  僕の膵臓を奪おうとでも❔

     これに対し、桜良:『君が珍しく素直だから。▪▪▪

     うん、私も楽しかったよ。


     実は、何気ないこのようなシーンの中にも、イエスの

     十字架の奥義を解くカギというか···、ヒントというか···、

     そういう大事なことが隠されているんだよ。

     そして、それは2つあるんだ。


ハジメ: 「えっ❔ 全くわからないんだけど。」


Osann : 「一つ目は、桜良が春樹のわき腹を指で突っついたこと。

       二つ目は、素直ということ。」


ハジメ: 「まだ、よくわからないんだけど。」


 わき腹を突っつく


Osann : 「じゃ、このことを聖書に照らしてみるね。

     すると、きっと わかると思うよ。


     ヨハネの第一の手紙5章5節~8節には、あかしをする

                    ものは3つあって、それは御霊水と血······そして、

     この3つは一致すると書かれてあるんだ。

     兵卒が十字架かかっていたイエスのわきを槍で突っつ

     いた時に流れ出たのが、この“水と血”だったんだ(ヨハネ

     による福音書19章34節を参照)。

     血だけではなくて、が分離した状態のものが

     流れ出たというわけなんだ。

     (これを医学的に観ると、イエスの心臓が破裂して

     すでに死んでいたことを示していたと考えられる

     そうなんだ。)


     つまり、真理の御霊というのは、イエスが十字架上で

     死なれたこと世の人々の注目を引くことによって、

     そこに啓示された神の奥義あかしをしようとして

     いるわけなんだ。

     

     で、映画キミスイでは、桜良が春樹のわき腹を

     突っつくとか、森下さんも栗山君のわき腹を突っつく

     といった行為というのは、桜良が刃物のようなもので

     刺されて血を流して亡くなることを暗示しており、

     さらに、これが聖書的にはイエスの十字架上での死

     オーバーラップしてくる·····というわけなんだ。」

 

  素直ということ


ハジメ: 「で、素直というのは、聖書的にはどういうこと❔」

     

Osann : 「マタイによる福音書の11章28節~29節は、よく

     知られている聖句なんだけど·······

                『すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに

       きなさい。あなたがたを休ませてあげよう。

                   わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、

                   わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。

                   そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるで

                   あろう。


                   あなたがたの魂に休みが与えられるために、柔和で心の

       へりくだった者であるイエスに学びなさい····と言われた

                   んだけど、このイエスの“柔和”と桜良が春樹に対して

       言っている“素直”も、実は、同じ意味なんだ。

       調べてみると、“柔和な”という英語も、“素直な”という

       英語も、同じ“meek、gentle ”なんだ。


ハジメ: 「なるほど。わき腹を突っつくとか、素直ということが

     イエスのことにリンクしていることはわかったけど、

     それがどんな重要なことを示唆しているのかについて

     説明してくれない❔」


Osann :   「じゃあ、そのことについて、これから説明するね。

     実は、それ、とても大事なことなんだ。


     桜良が死んだ時のことを思い出しながら、師春樹は

     自分が後悔していたことについて、栗山君にこんなふう

     に言ってたよね。


    『甘えていたんだ。残りわずかな余命を彼女が全う

     できるものだと思い込んでたんだ。バカだった。

     明日どうなるかなんて、誰にもわからない。

     だから、今、この1日を、この瞬間を大切にしなきゃ

     いけないって、そう彼女に教わったのに····


     さらに、桜良から夜に電話がきて、いつもと違う桜良の

     様子に気づいた春樹が病院に走って行ったんだけど、

     その時に、“真実か挑戦”をやってくれない?っ

     言われて、結局、桜良がゲームに負けてしまったため

     に、どうしても桜良が春樹に聞きたかった内容がわか

     らないまま、桜良が亡くなってしまったことについても

     春樹は悶々としていたよね。

     春樹の心の中にポッカリと穴があいてしまい、そこを

     埋めるものはないまま、12年間という時が経過して

     いたんだ。春樹にとっては、桜良との時間が12年間の

     間、ずーっと止まっていたようなものだったんだ。


  共病文庫


     で、桜良が『私が死んだら、読んでいいよ。君だけ

     には読む権利を与えます。』と約束した“共病文庫”を、

     桜良死んでから1ヶ月たってから ようやく春樹の

     心の準備ができて、桜良のお母さんから手に入れて

     読むことになったわけなんだけど····。


     ところで、この“共病文庫”を春樹が初めて手にした

     のは、病院で拾った時だったよね。

     で、その共病文庫”の書き出しに こう書いてあったの

     を覚えてるよね。 

    『2003年11月29日、今日から共病文庫と名付けたこれに

     日々の想いを書いていこうと思う。·····


     また、病室で桜良が春樹にこんなことも言ってたよね。

    『···なに、その自己完結。····たとえば、私が君をどう

     思ってるかは、気にならない❔·····私は君をどう思ってる

     と思う❔ 

     この時、春樹は『さあ···“仲良し”じゃないの❔』と

     答えたんだけど。

     でも、桜良はブー』と言ったんだ。

     そして、春樹が『じゃあ、どう思ってんの❔』と聞き

     返したら、桜良は『教えない·······答えは共病文庫

     でも書いておこうかな

    

     これからわかるように、“共病文庫”というのは、桜良の

     想いが綴られているわけなんだ。

     そして、春樹と出会ってからは、そこには春樹に対する

     桜良の想いが綴られることになるんだ。


     つまり、春樹が自分に対する桜良の真実の想いを知る

     ことになるのは、桜良が死んだ後だったということ。

     自分が死んだら読んでいいよ···と言われたこの“共病

     文庫を読むことによって、桜良が春樹をどう想って

     いたのかをようやく知ることになるはずだったんだ。」


ハジメ: 「なるほど。それって、イエスの弟子たちを含め、

     多くの人たちがイエスにある神の思いを知ることに

     なるのは、イエスが死んだ後になってから······という

     ことを暗示しているわけだね。」


Osann :   「実は、そういうことなんだ。


     ところで、桜良が春樹に『私は君をどう思ってると

 

     思う❔』と聞いたよね。実は、二人は2カ月前後と

     思われる短い期間だけ 一緒にいたと考えられるんだ

     けど、春樹は自分に対する桜良の思いに気づいて

     いなかったんだ。というのは、春樹がただの“仲良し”

     の関係としか捉えていなかったことから、そのことが

     わかるんだ。

     

     で、桜良が『私が死んだら、読んでいいよ。君だけ

 

     には読む権利を与えます』と約束した共病文庫”に

     春樹に対する桜良の思いが綴られて、何度か春樹は

     共病文庫”を読み返したにもかかわらず、春樹にとって

     それは決定打とはならなかったみたいだね


     やはり、春樹自身が“宝物を探すように”して、発見する

     必要があった······ということなんだ。」


ハジメ: 「春樹が探す必要があった“宝物”というのは、つまり、

     書庫に陳列してあった“星の王子さま”の原書にそっと

     隠してあった“桜良が死ぬ直前に図書館で書いた遺書の

     手紙”のことだね?」


Osann : 「実は、そうなんだ。

     映画キミスイにおけるとても重要なキーワードの

     一つは、この“宝探し”ということなんだ。

     また、“素直”というのも、やはり、とても重要な

     キーワードと言えるかも知れないね。

     ついでに言うと、まあ “選択”もとても重要なキーワード

                 の一つと言えるんだけどね。


     言うなれば、桜良の口からは、数々のとても重要な

     言葉が語られていることがわかるんだ。······」


ハジメ: 「それで、それで····❔」


*二人の興味深い会話は、⑱『宝を発見する春樹』へと続く(お楽しみに)**

 (2018年12月23日~2019年1月11日)

 

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映画「君の膵臓をたべたい」の深読み⑯ “赤いリュック(1)”

2018年12月20日 21時50分13秒 | 映画ブログ

赤いリュック(1)

 

Osann: 「春樹と一緒に博多に旅行した時に、桜良は赤い大きな

     リュックを背負っていたよね。

     行く途中に電車の中で、春樹は『ずいぶん大きなバック

     だね』というふうにも桜良に言ってたし、·····

     この赤い大きなリュックってどういう意味合いがある

     のか わかる❔」


ハジメ: 「そう言えば、映画キミスイを観ていると、やけに

     桜良の背中にあるこの赤い大きなリュックが目立って

     たよね。桜良が病院を一時退院して、家に帰って

     おめかしをして、春樹と一緒に旅行して満開の桜を

     観るため 家を出た時も、やはり同じ赤いリュック

     背負ってたしね。何かとても意味ありげな気がする

     んだけど····。どんな意味があるんだろう。」


Osann : 「この“赤いリュック”というのは、聖書の真理に

     照らして観ると、実に、とても重要であることが

     わかるんだ。

     そして、この赤いリュックの謎を解くヒントが、

     後になると、ハッキリと示されるんだ。

     そのヒントは、街頭ビジョンのニュースにハッキリと

     映像として 映し出されることになるんだ。」


ハジメ: 「そう言えば、その街頭のニュースの中で、桜良の

     赤いリュックが地面に置かれてあって、そのすぐ

     そばに 桜良から流れ出た見えてたよね。」


Osann : 「そうなんだ。つまり、この赤いリュックというのは、 

     桜良が流す血を暗示していたんだ。


     ついでに言うと、この映画には 実は 天国に関連した

     シーンが3ヶ所あるんだけど、全部 気づいてた❔

     1つ目は、桜良が高校の屋上にある階段を上って

     いって、春樹に向かって『ほら! 天国で会おうよ!』

     と語った、いわゆる、“天国への階段”のシーン。

     2つ目は、スウィーツパラダイスのシーンなんだ。

     なぜなら、パラダイスは天国ということだから。

     3つ目は、うっかりすると見逃しちゃうかも知れない

     けど、恭子にあてた桜良の遺書の手紙にあったんだ。

     この映画中では、この遺書の内容というのは 桜良の

     声で恭子に語りかけられるという形になってるんだ

     けど·····。ところが、この遺書の手紙の最後の文章が、

     桜良の声で読まれていないんだ。でも、映画のDVD

     を一時停止した状態で、この手紙をよく見てみると

     このように書かれてたんだ。つまり、追伸の前に

     『天国からいつも見守ってるね。』と。


     で、これら3つ天国に関係しているシーンには、

     それぞれ重要なメッセージ(つまり、一緒に天国に入る

     のに必要な条件みたいもの)が隠されていたんだ。


     1つ目の天国シーンでのキーワードは、桜良の背後に

     あった吸い込まれそうな“青空”なんだ。これについて

     は、また後で説明するとして······


     3つ目の天国シーンでは、春樹にずーっと敵意を持って

     いた恭子が春樹と和解して、友だちになるということ。

     これについても、後で説明するとして·····。


     で、2つ目の天国シーンであるスウィーツパラダイスに

     おける隠れたメッセージというのは、この店の内装や

     椅子のなどの色がやけに赤いということなんだ。

     実は、これが桜良の赤いリュックと共に桜良の死んだ時

     に流したを象徴してたんだ。


     聖書の黙示録を観ると、天国(神の国)には十字架で罪人

     のために犠牲となってを流されたイエス▪キリストを

     象徴している“ほふられた神の小羊”が描かれていると

     いうわけなんだ。


     聖書によると、人と神との間に結ばれた契約は、二つ

     あって、一つ目は旧約(つまり、古い契約)、二つ目は

     新約(つまり、イエスによる新しい契約)。

     そして、この二つ目の契約というのは、“イエスの

     よる契約”とも呼ばれてるんだ。 この契約の効力の

     お陰で、天国(神の国)というのがリアルなものとなった

     わけなんだ。」


ハジメ: 「それで、なんで赤い色が象徴する桜良が流した

     イエスが流したが関係してくるわけ❔」


Osann : 「映画『君の膵臓をたべたい』を一番大事なところ

     (つまり、それ食べると魂がその人の中で生き続ける

     と桜良が言ったけど、“食べる”というのはどういう

     ことなのかということ)を解き明かしていくことは、

     すなわち、聖書の奥義(つまり、イエスの肉を食べ

     イエスの血を飲むというのは どういうことなのか)

     解き明かしていくことにも通じるんだ。


     だから、ここからが、実は、とても大事な話になって

     くるんだ。映画キミスイの真髄を理解するためにも、

     また、聖書の中にある とても大切な真理がわかるため

     にも·····。


                     これから話すことの重要性を考えたら、これまで話して

     きたことは、ほんの序論に過ぎないと言ってもよいか

     知れないよ。」 


ハジメ: 「へ~、そうなんだ。それで、それで❔」


Osann : 「これから話そうとしていることは、実は、映画

     『君の膵臓をたべたい』であっても、また、聖書で

     あっても、ボーッと観ていると、見逃してしまい

     そうなことなんだ。でも、心の目をしっかり開いて

     観ていくなら、発見することができるんだ。


     一番大切なこと(=隠れた宝) は、目に見えない。

     じゃ、どうやって見ていけばいいんだろうか❔

     これから話そうとしていることは、そのような

     テーマかも知れない。


    『君の膵臓をたべたい』の映画を観ていると、

     この映画全体がそのような壮大なテーマに照準を

     当てながら、ストーリーが無駄なく展開している。

     そんなふうに、私には思えてならないんだ。」


ハジメ: 「この映画では、『君の膵臓を食べたい』という

     言葉が度々 出てくるんだけど、これはどう理解した

     らいいのかな❔」


Osann :  「これは字義通りに捉える必要はないと思うんだ。

     別に食べる対象が“膵臓”でなくても、また、体の

     他の特定の部位とかでなくてもいいと思うんだ。

     これは、あくまでも象徴的な表現と捉えた方がよい

     と思う。

     ”食べる”ことで、その食物が持っている栄養とか

     エネルギーが食べた人の中で同化し、一体化すると

     いうことを象徴していると思うんだ。


     でね、ここで聖書の世界から『食べる』ということが

     何を意味しているのか一度確認してから、再び  映画

      『キミスイ』に戻って観ると 案外 わかりやすいと思う

                     んだ。」


イエスを食べる


Osann :   「ではさっそくイエスの口から語られた言葉に耳を

     傾けてみようか。


     『私の肉を食べ、私の血を飲む者には、永遠の命が

      あ···る···。わたしの肉はまことの食物、わたしの

      血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ、

      わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしも

      またその人におる。

      生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが

      父によって生きているように、わたしを食べる者も

      わたしによって生きるであろう。

                         (ヨハネによる福音書6章54節~57節)


     実は、イエスのこの言葉を聞いた多くの弟子たちは、

     『これはひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いて

      おられようか。』(同6章60節)」

                    と言って、去っていき、もはやイエスと行動を共に

     しなかったというんだ。そして、イエスのもとに

     残ったのは、ほんの一握りだけ····12弟子くらいだった

     ようなんだ(同6章66節~67節を参照)。


     イエスが語ったこれらの言葉は、実は、字義通りに

     捉えるべきではなかったんだ。


     実際、イエスはこんなことを語っているんだ。


     『人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも

      立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は

      霊であり、また命である』(同6章63節)


                    つまり、イエスが語られた言葉というのは、霊的に

     捉えないと、真意がわからないばかりか、むしろ、

     誤解したり、曲解したりしてしまうことになるんだ。


     では、イエスを“食べる”とは、霊的な視点からみて

     どういうことなのか·····それは宝を探すように注意深く

     観ていかないといけないんだ。


     でも、この霊的な意味を解明していくためのヒント、

     あるいは、カギというのは あるんだ。」


ハジメ: 「ヒントになる聖書の言葉というのは、どこにあるの❔」


Osann :   「そのヒントと言えるイエスの言葉というのは、ヨハネ

     による福音書6章40節にあるんだ。

     『わたしの父のみこころは、子を見て信じるが、

      ことごとく永遠の命を得ることなのである。


     これを先程の『私の肉を食べ、私の血を飲む者には、

     永遠の命があ···る』というイエスの言葉と重ね合わせて

     読むとわかるんだ。

 

     つまり、イエスを食べるとは、イエスを信じることを

     意味しているというわけ。


     “なあんだ、そういうこと”····と、思うかも知れない

     けど、実は、問題は ここで言われている信じるって

     どういうことなのか····てことにあるんだ。

     

     “信じる”って、思い込むことでも、マインドで納得して

     同意することでもないんだ。また、『私はキリスト教を

     信じます』とか『私はイエス▪キリストを救い主として

     信じます』などと 信仰告白をすることが、必ずしも

     ここで言っている“信じる”ことにはならないんだ。


     信じる”ためには、心の目が開かれていること心の

     目が澄んでいることが、とても重要になってくるんだ。


     肉眼では見えない“隠れた真実(真理という宝)”をはっきり

     と認めることができるくらいに心が明るく照されている

     ことが重要になってくるわけなんだ(マタイによる福音書

     6章19節~23節、同7章3節~5節)、ヘブル人への手紙

     11章1節を参照)。


     隠れた真実(=見えない事実▪真理の宝)をありのまま

     見ること、認めることが、すなわち、“信じる”という

     こと。


     そのためには、心が清いことが大切になってくることを

     イエスは山上の説教の冒頭で指摘したんだ(マタイによる

     福音書5章8節を参照)。


     ところで、イエスが神から遣わされたということを

     イエスの口から何度も語られており、また神から遣わさ

     れたという そのイエスを信じることが人の救いにおいて

                     重要であることも説かれているわけなんだけど·····。

     そもそも、イエスは何のために神から遣わされたと

     思う❔ 言い換えれば、神から遣わされたイエスに

     託された最も大切な使命って何だと思う❔」


ハジメ: 「そう言えば、以前 シロアムの池での奇跡について

     話してたよね。それがイエスの使命と何かしら関係

     しているのかな。」


Osann : 「実は、そうなんだ。その点について、今一度

     再確認してみようね。······」

               

*二人の興味深い会話は、⑰『赤いリュック(2)』へ 続いていく(お楽しみに)**

 (2018年12月9日~20日)

 

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映画「君の膵臓をたべたい」の深読み⑮ “心で見る”

2018年12月09日 18時59分55秒 | 映画ブログ

心で見る

 

Osann :   「この映画を観ていると、『星の王子さま』の本が

     度々 出てくるよね。

     つまり、とても重要ってことなんだ。


     でね、この本の中には、キツネが星の王子さまに

     言った言葉として、こんなふうに書かれてるんだ。


      『じゃあ秘密を教えるよ。とてもかんたんな

       ことだ。ものごとはね、心で見なくては

       よく見えないいちばんたいせつなことは、

       目に見えない』(新潮文庫、河野万里子訳)

     

                     いちばん大切なことは目に見えないからこそ、

     心で見ないといけない····と、キツネは秘密を

     教えたわけだけど、“心で見るって どういう

     ことなのか わかる❔」


     また、イエスの場合は山上の説教の冒頭のほうで、

      『心の清い人たちは、さいわいである。

       彼らは 神を見るであろう。

       (マタイによる福音書5章8節)

     と、言ったんだ。


     神も もちろん肉眼で見ることができない存在なんだ。

     で、”清い心”で見ないと神はよく見えないと、イエス

     は言われたわけなんだ。


     相田みつをの言葉に、

     『あなたの心がきれいだから  なんでもきれいに見える

                        んだなあ

                     というのがあるんだけど、これも同じような意味合い

     があるように思うんだ。


     じゃあ、心が清い”とか、“心がきれい”とか、これって

     どのような心だと思う❔

      

ハジメ: 「これまで、漠然としか考えたことがなかったので、

     あらためて聞かれても、答えにくいなあ。


Osann :   「私は思うんだ。心の清い人たち、あるいは、

     心がきれいな人たちというのは、心で見ることが

     できる人たちでもあるんだって。

     つまり、同じことを言ってるんだって。


     このような人たちの心にはフィルターがかかって

     いないんだ。

     ところで、聖書の詩篇18篇25節~26節には、こんな

     ふうに書かれてるんだ。


    『あなたはいつくしみある者には、いつくしみある者と

     なり、欠けたところのない者には、欠けたところの

     ない者となり、清い者には、清い者となり、ひがんだ

     者には、ひがんだ者となられます。


     つまり、神は実際には“ひがんだ者”ではないのに、

     神を見る人の心に  もし“ひがみ”というフィルターが

     かかっているなら、“ひがんだ神”が見えてくるという

     わけなんだ。だから、逆に いつくしみのある者には、

     ちゃんと“いつくしみある神”が見え、欠けたところの

     ない者には、“欠けたところのない神”が見え、清い者

     には、“清い神”がしっかり見えるんだ。


     また、人の心というものは“”のようなものだとも

     言われてるんだ。

     見えない神を直接 見ることができないため、人は

     みんな自分の心に鏡の機能をもともと標準装備して

     いて、それぞれ自分自身の『心鏡』に映して、

     間接的に神を観ているんだ(コリント人への第二の

     手紙3章18節、コリント人への第一の手紙13章12節

     を参照)。

     

     だから、この心鏡』がきれいな人のことを心の清い

     (=心がきれいな)人たちとか、心にフィルターが

     かかっていない人たちなどと呼んでいるんだ。

     映画キミスイでは、“素直”という言葉がこれと同じ

     意味合いで使われているわけなんだ。


     ちなみに、このような人たちの心の奥にある“内なる

     光”というのは、明るく輝いていると 私は思うんだ。

     (マタイによる福音書6章22節~23節を参照)。

 

     もちろん、神を見る時だけじゃなくて、人を見る場合

     でも、自分の“心鏡”をきれいに保っておくこと(=素直

     になること)がとても重要になってくるんだ

 

     でね、映画キミスイを このような視点から、登場人物

     を観ていくと、面白いことがわかってくるんだ。


     それで、この映画の登場人物の中で“心鏡”がきれいな

     人(=素直な人)として描かれているのは、誰なのか

     わかる❔」


ハジメ: 「たぶん、桜良とガム君(丸顔の男子)·····かな。」


Osann :   「そうなんだ。だからこそ、桜良は恭子と親友になれた

     し、春樹とも仲良しになれたんだと思う。

     ガム君も、春樹とも仲良しになれたし、また 恭子とは

     12年後に結婚することにもなったんだ。


     桜良は、病室で 春樹に向かって 『君、先生になり

     なよ。』『だって、教えるのうまいし·····』と言った

     時に、春樹は『僕は独りでいるのが好きだし、他人と

     関わらない僕が向いてるわけないでしょ』と答えた

     んだ。その時、桜良はこう言ったんだ。

       『私  人を見る目はあると思うけどな

     つまり、桜良は心で見ていたので、人を見る目が

     あったんだ。

     言い換えると、桜良の心鏡”はきれい(=素直)だった

     ので、澄んだ心の目で見ることができたんだ。

     だからこそ、桜良は 見た目は“地味なクラスメート ”、

     “クラスで一番根暗だ”と思われていた春樹の中に

     隠れていた、あるいは、眠っていた目に見えない宝”に

     気づくことができたんだ。


     その人の心というのは、素直(=心が内なる光直結

     していること)なほど、相手の本質をより正確に“映し

     出す”となるんだ。

     これが、イエスが山上の説教の中で説いた“さばかない

     ということに繋がっていくんだ(マタイによる福音書7章

     1節を参照)。


     もし この心という鏡がきれいでなかったら、つまり、

     心鏡が曇っていたり、歪んでいたりしたら(=つまり、

     素直でないこと)、相手の内に隠れている宝を見ること

     ができなくなってしまうんだ。

     そして、甚だしく誤解したり、曲解したりしてしまう

     ことになるんだ。これが、実に “さばく”ということに

     繋がっていくことになるんだ。


     で、逆に、この心鏡がきれいでなかった人(=素直な

     心で見ることができなかった人)として描かれている  

     登場人物は、誰なのか わかる❔

     春樹に敵意を抱いていた人物だけどね。」   


ハジメ: 「クラス委員長と恭子····かな❔」


Osann : 「そうだよね。まあ 恭子は、最後には春樹と友だちに

      なれて良かったけどね。

     ところで、病室で“真実か挑戦ゲーム”をやって、春樹

     から『君にとって、生きるって どういうこと❔』と

     聞かれた時、桜良はちょっと考えてから、こう言った

     んだよね。

    『誰かと心を通わせること·······かな。誰かを認める、····』

     

     だから、“心で見る”ということは、相手を認めること

     でもあると思うんだ。良いか悪いかで判断するのでも

     なく、価値の優劣をつけたりするのでもなく、ただ

     相手のありのままを認めて受け入れていくことじゃ

     ないかって。


     ところで、スイパラで春樹がかつて女の子を好きに

     なった理由が何にでも“さん”をつけたこと、そして、

     それが『いろんなものに敬意を忘れないってことだと

     思ったんだよね』と言ったことを 桜良が真面目な顏を

     して聞いていて、思ったよりステキだったから。·····

     好きになった理由が。』と言ったけど、この“いろんな

     ものに敬意を忘れないこと”が、すなわち、相手をあり

     のまま認め、受け入れていくことと同じような意味だ

     と私は思うんだ。そして、これこそが桜良の生き方

     そのものではなかったのかなって、思うんだ。


     雨が降っていた夜に、桜良の家の前で クラス委員長が

                 『桜良はどうしてこんなヤツと』と春樹の前で吐き

                    捨てるように言い、また、家から出てきた桜良に

                    向かって『桜良、どうしてそんなヤツ』と言ったん

     だけど、これはまさに クラス委員長が春樹を 心で

                    見ていなかったこと、春樹に対して全く敬意を払って

                    いなかったことを証明してたんだ。」


ハジメ: 「確かにそうだよね。」


Osann : 「委員長とは対照的に、春樹に対する桜良の見る目は

     これとは全く違ってたんだ。

     春樹を心でしっかりと見ていたし、ありのまま 春樹を

     認めて、敬意も払っていたんだ。」


ハジメ: 「たとえば、桜良のどのような言葉から、そのことが

     わかる❔」


Osann : 「それはね、桜良が春樹に残した手紙(=遺書)からも

     窺い知ることができるんだ。

    『····でも私、そんな春樹に憧れてた。

     誰とも関わらないで、たった一人で生きている強い

     春樹に。

     私は弱いから、友だちや家族を悲しみに巻き込ん

     じゃう。 

     でもね、春樹はいつだって、自分自身だった。

     春樹は、本当にすごいよ。

     だから、その勇気をみんなにも分けてあげて下さい。

     そして、誰かを好きになって、手をつないで、ハグを

     して、うっとうしくても、まどろっこしくても、

     たっくさんの人と心を通わせて、私の分まで うん

     生きて。·····』


     桜良は、ここで春樹が人と関わらないで生きてきた

     ことがダメだとか、良くないことだよとか····決めつけ

     たりも、また、責めたりも、非難したりもしていない

     んだ。

     むしろ、そんな春樹に憧れてたとさえ、桜良は言って

     るんだ。

     ただ、ありのままの春樹を認めて、受け入れている

     んだ。

     そして、春樹は本当にすごいよと 認めた上で、桜良

     は、その勇気をみんなにも分けてあげて下さいと、

     春樹の背中をやさしく押してあげてるんだ。


     で、私は思うんだ。桜良が春樹をこのように心で見て、

     認めて、ありのまま受け入れていたからこそ、初めは

     素直と言えなかった春樹は 徐々に 自然と、素直に

     なれたんじゃないのかって。」


*二人の興味深い会話は、⑯『赤いリュック』へと続いていく(お楽しみに)**

 (2018年12月3日~9日)


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映画「君の膵臓をたべたい」の深読み⑭“窓から射し込む光”

2018年12月03日 22時41分39秒 | 映画ブログ

窓から射し込む光


Osann :   「ところで、映画『君の膵臓をたべたい』を観ていて、

     はたして 気づいたかどうかわからないけど、

     桜良と春樹が最初に出会った(=関わりを持ち、会話を

     した)のは、病院だったよね。


     その時のシーンは、覚えてる❔


     春樹と会話している時の桜良が、病院で窓から射し

     込む光をバックにして立っていたシーン。


     また、博多のホテルを出た後、しばし たたずんで

                 いた桜良と春樹の後ろ姿は、川面に照り返す日の光

                    包まれて、二人の輪郭がぼやけていって、あたかも

                    その光の中で一体化していくようにも見えたよね。


     そして、映画の最後のシーンでは、春樹の目の前で

     桜良の姿が図書室の窓から射し込む光に向かって

     立っていた桜良は、

    『私ね、春樹になりたい。春樹の中で生き続けたい。

     ううん、そんなありふれた言葉じゃダメだよね。

     そうだね、君は嫌がるかも知れないけど

     私はやっぱり·····』

     と言ってから、図書室の窓から射し込む光の中へと

     桜良の姿がスっと消えたよね。

    

     それから、急に映画の画面が真っ暗になって、

     桜良が一言、 

       君の膵臓をたべたい

     と言って、映画が終わるんだ。


     このような一連の流れから観ていくと、

     桜良の姿が図書室の窓から射し込む光の中で消えて

     いったというのは、いわゆる成仏して霊界へと

     旅立って行ったとか、あるいは、春樹に最後の別れを

     告げて 天国に行ったとか····そんなニュアンスという

     よりも、むしろ、桜良が春樹の中に入っていって

     一つになったということ、つまり、

     桜良の“内なる光”が春樹の“内なる光”に溶け込んで

     一つになって、春樹の中で桜良が生き続けることに

     なったということが、図書室の窓から射し込む光

     中で桜良の姿が消えていったように表現されたのでは

     ないか······と、私は観ているんだ。


     前にも言ったように、山本彩が歌っている

    『ひといき つきながら』の歌詞にもあるように、

     桜良が亡くなって春樹がまた一人に戻ったように

     見えるけど、実際のところ 春樹はもはや、

       “ひとりだけど、ひとりじゃない。

        心の中はひとりじゃない。”」

                     と思うんだ。


ハジメ: 「なるほどね。」


   静かな窓


Osann :   「ところで、ここでジブリの映画の主題歌の一つで

     ある『いつでも 何度でも』の歌詞に注目して

     もらいたいんだ。それはね、


      『はじまりの朝の 静かな窓

       ゼロになるからだ 充たされてゆけ

       海に彼方には もう探さない

       輝くものは いつもここに

       わたしのなかに 見つけられたから


     というフレーズなんだ。


     つまり、人が自分自身の内にある輝くもの

     (=内なる光)が体(=肉宮、神の神殿)全体に

     充たされていくためには、心が静かな窓になる

     必要があるんだ。

     その時に、内なる光が溢れ出て外側の体に充た

     され、照らしていくんだ。

     体がゼロにリセットされるのは、この心の窓が

     静かになる時なんだ。


     心が窓だと言えるのは、人の心には見えないものを

     見る、捉えるという機能が備わっているからなんだ。

·       このような心の機能を“信仰”と呼ぶんだ。

     だから、使徒パウロは、『心に信じて義とされ····

     と言ってるんだ。」


     もし、この心の窓が静かでない状態があるとすれば、

     それは心にあるマインド機能が忙しく働いている時

     なんだ。


     マインドというのは、過去のデータ▪情報▪知識▪

     既成概念▪常識などといった様々なフィルターを

     通して(=照合したり、比較したり、分析したり

     して)、最終判断を下したり、結論を導き出したり、

     思い込んだり、決めつけたりするものなんだ。


     まあ言ってみれば、それが人のマインドの長所でも

     あり、欠点でもあるんだ。

     ここで欠点というのは、見えない大切な真実

     心で見たり、捉えたりすることにおいて失敗して

     しまうことなんだ。

 

     人のマインドの働きをいったん停止させて、

     物事をありのまま観て捉えていく“澄んだ心の目”に

        なった時、“静かな窓”を意味しているんだ。その時に、

     初めて 真実(真理)が見えてくるんだ。

     

   素直であること


     実は、このような静かな窓”というのを、桜良が

     使っていた言葉で言い換えると、“素直”ということ

     でもあるんだ。

     “素直”って、結局、自分の“素なるもの(=内なる光)”に

     直結していることを意味する言葉なんだ。

     つまり、自分の“内なる光”がヴェールで覆われていない

     状態で生きていること、それが“素直である”ということ

     なんだ。

     そして、春樹が“素直”に自分の気持ちや思いを表現した

     時には、桜良はとても嬉しかったんだ。


     たとえば、博多のホテルで“真実と挑戦ゲーム”を

     やっている時、桜良はクラスで3番目にかわいい

     と答えたところ、桜良は

      『うわっ、メチャクチャ恥ずかしい。······

       君が素直に答えると思わなかったからさ。』

 

     また、博多のホテルを出て、二人が歩きながら

       桜良:『また旅行しようよ。次は夏かな。

       春樹:『夏か、いいかも。

       桜良:『あれ? やけに素直じゃん。

          さては、楽しかったな?

       春樹:『うん、楽しかったよ。

     この時、桜良はいったん足を止めてから、

    『フフフ····』と嬉しそうに笑いながら 春樹の

     方へと近づいていって、彼の脇腹を指で

     突っついて、君が珍しく素直だから。

     と言ったんだ。


     春樹が素直”になれたからこそ、実は、桜良との

     関係を“友だち”でも、“親友”でも、“恋人”でもない、

     あるいは、単なる“仲良し”でもない·····これらの

     どれにも当てはまらないような“特殊な関係”、

     “進化した関係”、あるいは、“深化した関係”へと

     昇華させていくことができたと言えるんだ


ハジメ: 「この映画『キミスイ』を観ていると、春樹に

     向かって桜良が素直”という言葉を何度も口に

     していたけど、これは思った以上に重要な言葉

     だったんだね。」


 

Osann :  「そうなんだ。

       この“素直”ということが何故そんなに大切なのか、

       もう少し説明するね。」


    

*二人の興味深い会話は、⑮『心で見る』へと続いていく(お楽しみに)**

 

 (2018年12月1日~3日)

 

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映画『君の膵臓をたべたい』の深読み⑬ “内に咲く桜良”

2018年12月01日 13時25分49秒 | 映画ブログ

 

内に咲く“桜良(サクラ)”

 

Osann: 「ところで、病室にいた桜良から夜に春樹の携帯に

     電話がかかってきたよね。

     その時 桜良は、満開の桜を見たかったので、

     『今から病院を抜け出して 旅行に行かない❔』

     って 春樹を誘ったんだけど、殺人犯になりたく

                    ないから 春樹は嫌だと言ったんだ。そして、

       『満開の桜❔ 今 何月だと思ってんの❔ 

        もうとっくに散って····

     と言いかけたら、それを遮るかのように すかさず

     桜良が言ったんだ。

     

      『桜はね、散ったフリして咲き続けてるんだって。

       散ったように見せかけて、実はすぐ次の芽を

       つけて眠ってる。散ってなんかいないの。

       みんなを驚かせようと 隠れてるだけ。

       そして、あったかい季節になったら、また

       一気に花開くの。サープラーイズって


     実は、この言葉にはとても深い意味が隠されている

     んだ。


     外なる世界に咲く桜に気を取られてばかりいると、

     映画『君の膵臓をたべたい』が訴えようとしている

     とても大切なことを見落としてしまうんだ。


     この映画の冒頭で、教師 春樹が語った言葉を

     覚えてるよね❔」

 

ハジメ: 「確か、星の王子さまの本からの引用だったよね。

        『肝心なことは目に見えない

     そして、春樹は『この一節は、“さよならをして、

     悲しませるくらいなら 仲良くならないほうが

     よかった”と嘆く星の王子さまにキツネが説いた

     言葉です····と続けて言ったんだよね。」


Osann :   「つまり、星の王子さまとキツネとの関係と

     春樹と桜良の関係がオーバーラップして

     描かれているのが、この『君の膵臓をたべたい

     という映画なんだ。


     言い換えれば、春樹と桜良が出会って、たった

     2か月程度の短い期間で急速に仲良くなったんだ

     けど、桜良が亡くなった後に、もし残された春樹が

     ただ悲しむだけ·····だったら、初めから桜良と春樹は

     出会わなければよかったんじゃないの❔····という

     結論に 普通なら なりかねないところを


     “いや、それは違うよ。もし君が目に見えない

     肝心なことに気づいたら、それが違ってた···って

     きっとわかるはずなんだ。”  


     こんなふうに、映画キミスイは切々と語りかけて

     いるように、私には思えてならないんだ。


     でね、さっきの桜良の言葉なんだけど、

      

    『桜はね、散ったフリして咲き続けてるんだって。

     散ったように見せかけて、実はすぐ次の芽を

     つけて眠ってる。散ってなんかいないの。

     みんなを驚かせようと 隠れてるだけ。


     これは 桜良(サクラ)が散った後(=亡くなった後)、

     実は、桜良(サクラ)が春樹の中ですぐ次の芽をつけて

     そーっと 眠ってた、隠れていた······ということ。

     つまり、桜良は春樹の中で生きていたんだ。


     実際、桜良は 春樹への最後の手紙の中で、

    『私は、春樹になりたい。春樹の中で生き続けたい。

     と 言ってたんだ。

     


   栗山君と春樹


     春樹自身は気づいてはいなかったかも知れない

     けど、教師 春樹と生徒である栗山君の会話を

     聞いていると、それが一目瞭然でわかるんだ。

     

     この映画を観ていると、栗山君も春樹と同様に、

     人と関わらないことで自分の領域を守っていた

     ことに気づくんだけど·····。

     

     で、栗山君と一緒に 図書の整理をやりながら、

     春樹は12年前に桜良と どのように関わってきたのか

     について回想しながら、栗山君にいろいろと話して

     いたんだけど·····

 

     春樹が語る桜良との思い出話に耳を傾けていた

     栗山君は、12年前の“桜良ー春樹 ワールド”の

     中へとグイグイと引き込まれていくことになるんだ

     ちょうど、以前 春樹が桜良と関わっていくうちに

     “桜良ワールド”の中へと引き込まれていったように。


    『先生になったきっかけは、桜良さんだったんですね

     と栗山君が言った時、春樹はこう反応したんだ。


      『笑えるよ。向いているなんて言葉  

       本気にして。

       教師になって6年、ここに赴任して1年

       今となっては 本当にこれでよかった

       のかなってさ。

       毎日、学校に通いながら思うんだ。

       僕は生徒たちと ちゃんと向き合えてる

       のかなってさ。


     この時に、栗山君は『辞めないでね、先生。

     そしたら、春樹は『えっ』と言ったんだ。

     栗山君は、それに対して『あっ、いや····だって····

     (少し考えて) 桜良さんが悲しむよ。』と答えた

     んだけど。


     でも、このシーンを観ていると、桜良さんが悲しむ

     から 先生を辞めないで栗山君が本当は言いた

     かったんじゃなくて、春樹は生徒である栗山君に

     対して、ちゃんと向き合ってるよ、だから先生を

     辞めないで····と言いたかったんじゃないかって。

     栗山君のそのような気持ちが、私には伝わって

     くるんだ。

 

     栗山君に対して よく ちょっかいを出してくる

     森下さんの一連の行動を 春樹自身が12年前に

                    桜良と関わったきた経験をもとに

       『仲良しのつもりじゃないかな。

        わからないけど。

     

     すると、栗山君は『森下さん、······また 明日』と

     呼びかけたんだ。

     すると、森下さんは振り返って、にっこりして

     言葉を返したんだ。

       『また明日ね。····栗山君。

     

        こうして、これまでは互いに“すれ違っていた”

     栗山君と森下さんが、仲良しになっていく

     きっかけを春樹は作ったんだ。

 

     こんなふうにして、教師 春樹は生徒である栗山君

     と自然と向き合い、関わっていたんだ。

     だから、桜良が死んだ後に一人になった春樹の

     中で 桜良が生きていたんじゃないかって、私には

     思えてならないんだ。

     

     さらに、桜良は、

      『そして、あったかい季節になったら、

       また 一気に花開くの。サープラーイズって。

                     って、言ってたんだけど·······

 

     春樹にとっての この“あったかい季節”というのは、
     
     実は、桜良が残していった共病文庫を読んで 春樹に
    
     対する桜良の真実の思いに触れた時だったんだ。


     でも、さらに決定的だったのが 桜良が春樹に

     残していった手紙(遺書)を読んで、そこに表現されて
    
     いた春樹に対する思いに間近に触れた時だったんだ。
    
     ここで一気に、春樹の心があったかくなって
    
     春樹の中で “桜良(サクラ)の花”がパーっと開いた

     んだ。

     それからなんだ、春樹の行動が急に大きく変わって
   
     いったのは。
   
     そして、それが見える形でハッキリと現れたのが、

     職員室で 春樹が迷うことなく、退職願をやぶるという

     行為だったんだ。」



ハジメ: 「なるほど。」



Osann :   「でね、この映画の最後のシーンを思い出してもらい
   
     たいんだ。

     桜良からの手紙(遺書)を高校の図書室で読んでいる時、

     春樹が顔を上げて振り向いたら、桜良の姿が見えたん
 
     だよね。 

     そして、その桜良の姿は窓から射し込む明るい光の
   
     中へと消えていったんだ。

     これって、どういうことか わかる❔  

        つまり、何を意味していたのか······ってこと。」



ハジメ: 「う~····ん。ちょっと考えさせて······。

     人によって いろんな解釈があると思うんだけど。

     たとえばさ、一つの見かたなんだけど······。

     亡くなった後に、桜良の魂が12年間も 学校の

                    図書室にとどまっていて、春樹がようやく

     桜良が“宝物”のように図書室の書庫にある

     星の王子さまの原書にこっそりと隠しておいた
 
     手紙(遺書)を 春樹が見つけ、読んでくれて
     
     春樹に対する桜良の真実の思いに気づいて

     もらえたこと、まだ、以前 博多のホテルに
 
     滞在している時、

     『私が死んだ後、恭子と仲良くなってほしいの。

      恭子をお願いね。

     という桜良の遺言を叶えてくれたこと(=恭子の

     結婚式の直前に春樹と恭子が友だちになれたこと)

     を桜良が知って 満足して、ようやく天国へと桜良が

     旅立っていった。

     それが、図書室の窓から射し込む明るい光の中で、

     桜良の姿がスーっと消えていったことが示して

     いるのでは·······。」



Osann :   「まあ、“霊能者”なら そんなふうな分析をするの

     かも知れないね。

     でもね、私がこの映画を深読みしていくと、

     それとはちょっと違うんだ。」



ハジメ: 「へ~。じゃ、他に どんなことが考えられるの❔」
  
     

Osann : 「それはね、······」


*二人の興味深い会話は、窓から射し込む光』へと続いていく(お楽しみに)**

 (2018年11月29日~12月1日)

 

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映画『君の膵臓をたべたい』の深読み⑫ “君がくれる日常2”

2018年11月28日 19時55分17秒 | 映画ブログ

 

君がくれる日常(2)

 

 

 ② 自然界を通して

 

Osann :    さて、次は『自然界を通して』ということなんだけど、

     聖書にはこんなふうに書いてあるんだ。

 

     『神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と

                        神性とは、天地創造このかた、被造物において

                        知られていて、明らかに認められる·····。

      (ローマ人への手1紙章20節)     


     『もろもろの天は神の栄光をあらわし、

      大空はみ手のわざをしめす。』(詩篇1篇91節)


ハジメ: 「つまり、神によって創造されたものである自然界を

     通しても、神の見えない性質である神の永遠の力と

     神性という宝に気づくこともできるということなん

     だね。」


③ ヒトを通して


Osann : 「そういうことなんだ。

     この①『聖書を通して』、②『自然界を通して』に

     ついては、まあ ほとんどの人は理解できると思うんだ

     けど、でも 最後の③の『ヒトを通して』に関しては

     なかなか理解されないと思うんだ。』

 

ハジメ:    「人は、聖書を見ると、神の前で生まれつき“罪人”と

     言われているし、そのような罪人であるこの世で

     生きている“ヒト”を通して、神を知ることも、宝を

     見つけることなんで無理だろうというのが一般的な

     捉え方だと思うけど······。だから、罪のないかたで

     ある神のひとり子を神はこの世に遣わして、

     神の真実の栄光を啓示されたんじゃないの❔」

     

Osann  :  「確かに、それはそれで ほぼ正しいと思うんだけど。

     でもね、ここでちょっと考えてみてもらいたいんだ。

     

     先ほどの聖書の引用を思い起こしてもらいたいんだ。

   

     『神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と

                        神性とは、天地創造このかた、被造物において

                        知られていて、明らかに認められる·····。

       (ローマ人への手1紙章20節)    

     

      確かに自然界は神の被造物なんだけど、実は、

      “ヒト”も同様に神によって創造された被造物なんだ。

      しかも、自然界の何ものにもまさる神の創造の

      “最高傑作”ともいえる作品なんだ。


      というのは、神のかたちに造られたのは、“ヒト”

      だけだから····(創世記1章26節~27節を参照)。

      “ヒト”の尊厳の由縁は、ここにこそあると思うんだ。

      

      だからこそ、神のひとり子であるイエスという

      測り知れない代価、犠牲を神自らが払ってまでも

      この世の“ヒト”を救おうとされたと思うんだ。


        『神はそのひとり子を賜わったほどに

         この世を愛して下さった。

         それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、

         永遠の命を得るためである。

         (ヨハネによる福音書3章16節~17節)

   

      イエスが説いたこの言葉は、神が“ヒト”をいかに

      “かけがえのない宝”のように思われておられるか

      という神の胸の内に秘められている思いを

      イエスが伝えようとされた····と私は思うんだ。


      イエスが語られた譬の一つに、有名な放蕩息子の

      話があるんだ。

      

      その息子が家を出て、放蕩に身を持ち崩して

      いる最中であっても、その息子は父にとっては

      かけがえのない息子に変わりはなかったという

      ことが、この譬から読み取れるんだ。

      それと同様に、神から離れ、神を忘れ、神に背を

      向けて生きているような“罪の中にいるヒト”で

      あったとしても、神にとっては とても大切な

      宝物のような存在であることには変わりないんだ。

      だから、このような神の胸のうちにある思い

      (=神の隠された奥義)、それはまさに

       『·······隠された奥義としての神の知恵······目がまだ

                        見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしな

                        かったこと(コリント人への第一の手紙2章7節

      ~9節)なので、もし 聖霊の手助けによって 

                        この隠れた真実を知ったなら 誰でもサプライズ

      して、心がふるえて喜ぶはずなんだ。

      だからこれは、グットニュース、すなわち、福音

      と呼ぶのにふさわしいと言えるんだ。


      使徒パウロは、また 福音についてこんなふうにも

      表現しているんだ。


     『なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって

      神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。

      わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時

      いたって、不信心な者たちのために死んで下さった

      のである。正しい人のために死ぬ者は、ほとんど

      いないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者も

      あるいはいるであろう。しかし、まだ罪人であった

      、わたしたちのためにキリストが死んで下さった

      ことによって、神はわたしたちに対する愛を示された

      のである。』(ローマ人への手紙5章6節8節)」


ハジメ:    「何かとても大事なことが今 話されているような

      気がするんだけど、もう少し“ヒトを通して”に

      関して 補足して説明してもらえたら、とても

      ありがたいんだけど。」


Osann :   「うん、いいよ。喜んで···。


      ところで、人間は“ヒト”と呼ばれるよね。

      この“ヒト”をコトハの世界から捉えてみると

      面白いんだ。コトハで観ていくと、ヒトの

      “ヒ”というのは、“”を意味するんだ。

      そして、ヒトの”ト“というのは、“とどめおく”

      という意味なんだ。

      つまり、ヒトという存在は、もともと“”を

      内に宿す存在として造られたということなんだ。

      そして、この”は、実は 創造主なる神に起源が

                        あるもので、この”自体は 常に創造の源なる神

      繋がっているんじゃないかって、私はみているんだ。


      この“”のことを、イエスは山上の説教の中で

      あなたがたの“内なる光と呼んだのではないかと、

      私は思っているんだ。そして、この“内なる

      が暗くならないように気をつけることが、とて

      大切になってくるんだ(マタイによる福音書6章

      23節を参照)。


      なぜ、この”が暗くなってしまうのかって?

      

      それはね、何かがこの内なる光”を遮ってしまう、

      あるいは、覆い隠してしまうからなんだ。


      イエスは、この遮ってしまうものを 目の“”と

      山上の説教の中で 表現したというわけなんだ。


      それで、ヒトのこの内なる光”を覆い隠してしまう

      ような“”とか“ヴェール(=覆い)”が、聖書の世界で

      “”と呼ばれているものの実体というか、”という

      ものの本質に関わってくるものではないのかなって、

      私は確信しているんだ。」


ハジメ:  「なるほど。それで、それで❔」


Osann :    「でね、キミスイの映画というのは、①でも、②でも

      なく、③の『ヒトを通して』という視点から、

      言い換えれば、人と人の関わりの中で、いかにして

      人は “目に見えない宝(=隠れた宝)”を見つけることが

                       可能なのか·····このことを明らかにしていくために、

      映画『キミスイ』の中には、さりげなく 様々な

      ヒントが散りばめられているんだ····ということに

      気づかされると、まさに驚きと感動を禁じ得ない

      んだ。なんてすごい映画なんだろうって、観度に

      思うんだ。


      つまり、人と人との関わりの中には、実は、

      とても大切な真理が “宝物” のように隠れているんだ。

      だから、真理という宝物は、聖書の世界の中だけに

      限定されて存在しているというものではないんだ。

      人が生きている日々の生活の中にも、何気ない

      日常における人と人との関わりの中にも、実は、

      真理は隠れているんだ。

      目が開かれると、そのような中に、真理は息づいて

      いることが、宝石のように光輝いていることが

      わかるんだ。


      今から、映画キミスイの中で、真理にリンクして

      いるヒントを具体的に観ていきたいと思うんだ。」


ハジメ:  「面白くなってきたね。ワクワクするよ。」


Osann :        「映画『キミスイ』は、聖書の世界とは接点がない

      ように思われているかも知れないけど····。

      でもね、桜良と春樹、そして、恭子、丸顔の男子

      (“ガム君”とも呼ばれている)、クラスの委員長、

      栗山君との関わりの中で、聖書の霊的な重要な

      真理を十分 読み取ることができるんだ。」


ハジメ:  「ところで、この映画の題名は、

        『君の膵臓をたべたい』

      で、結構衝撃的なんだけど、この映画の内容が

      わかってくると、一番 最後に桜良が

        『君はいやがるかも知れないけど···

         私は君の膵臓をたべたい』

      と言って、映画が終わる時には、もう感動して

      涙が出てくる人も多いと思うんだけど、


      もし、もしだけど、この映画に副題をつけると

      すれば、どんな題名をつける❔ 」


Osann :     「面白い質問だね。

      この映画を深読みしてきた私なら

      『外に咲く桜(サクラ) と 内に咲く桜良(サクラ)』

      という副題·····かな。


      この映画には満開に咲く桜のシーンが多くて

      とても印象的だったんだけどね、

      実は、桜良が最後に語った言葉というのが、最も

      重要だと思っているんだ。

      それは、

     『私ね、春樹になりたい。春樹の中で生き続けたい。

      という言葉。

      

      これは、春樹の中で桜良が生き続けること、

      つまり、内に咲く“桜良(サクラ)”っこと。


      実は、これは、聖書にも書いてある とても重要な

      奥義(コロサイ人への手紙1章27節を参照)に通じる

      ものなんだ。


      桜良は『君の膵臓をたべたい』と言ったけど、

      これが、桜良が春樹になり、春樹の中で生き続ける

      ために重要なことになってくるというわけなんだ。


      イエスも、実は、『わたしの肉を食べ、血を飲ま

      なければ、あなたがたのうちに命はない』と言った

      んだ。もちろん、イエスの肉を食べ、イエスの血を

      飲むということは、字義通りの意味ではなく、

      霊的な意味でイエスは語ったんだけど。


      ところで、山本彩がテレビのCMでも歌っている

     『ひといきつきながら』というナンバーは知って

      るよね。

      この歌詞の中で何回も繰り返される

        “ひとりだけど  ひとりじゃない。

         こころの中は ひとりじゃない。

      というフレーズがあるんだ。

      実は、このフレーズは、初めて聴いた時から

      私は気になっていたというか、とても印象に

      残ってたんだ。


      春樹の場合は、桜良が亡くなった後に、春樹は

      一人だけど、一人じゃないんだ。

      春樹の心の中に桜良が生きていて、桜良と一つに

      なっているんだ。

    

      同様に、イエスが語った『わたしの肉を食べ、

      血を飲まなければ·····』の奥義がわかった人も

      確かに自分は一人だけど、でも もはや一人なんか

      じゃないという目に見えない事実に気づくことに

      なるんだ。

      

*二人の興味深い会話は、『内に咲く桜良』へと!続いていく(お楽しみに)**

 (2018年11月25日~28日)

 

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映画『君の膵臓をたべたい』の深読み⑪ “君がくれる日常1”

2018年11月25日 17時44分43秒 | 映画ブログ

 

君がくれる日常

 

 Osann :  「ところで、高校の屋上で、春樹に桜良はこう

     言ってたよね。

       『君にしか話さないって決めたんだ。

        君はきっと ただ1人、私に普通の毎日を

        与えてくれる人だから。』


     また、夜に 春樹が最後に病室で会った時に、桜良が

     自分の頭を春樹の肩に寄せて、しみじみと言ったんだ。

       『こうして 君といられて よかった。

        君がくれる日常が、私にとっての宝物

        なんだ。』


     この2つの言葉は、同じようなことを言ってるん

     だけど、最後に桜良言った方の言葉に

     とても重みがあって、聞いてて感動したよね。

     何度観ても やはり ぐっと込み上げてくるものが

                    あるよね。


     最初の言葉を桜良が語ったのは、春樹と関わるように

     なって間もなくの頃だったからね。

     ところが、最後の方の言葉を語ったのは、桜良と春樹

     の関わりが深まり、互いの心がだいぶ通い合っていた

     頃だったしね。

    

     桜良にとって“宝物”とも言える『君がくれる日常』って

     どういう意味だと思う❔」


ハジメ: 「何となくわかるんだけど、どう言い表したらよいか

     言葉が見つからないよ。」


Osann: 「そうだよね。

     今回は、桜良が言ってた『君がくれる日常』という

     言葉に、一体、どのようなニュアンスがあるのかを

     深読みをしてみたいと思うんだ。」


ハジメ: 『それは、面白そうだね。興味津々。』


Osann : 「この『君がくれる日常』という桜良の言葉の謎を

      解くことにおいて参考になるのは、竹内マリヤの

     『いのちの歌』の歌詞じゃないかな。

     これは以前、NHKの朝ドラの主題歌にもなったもの

     なんだけど、知っている❔」


ハジメ: 「うん、知ってるよ。確か、茉奈佳奈が歌ってたよね。」


Osann :   「そう。

     実はね、この歌詞の内容が、映画キミスイに秘められ

     ているメッセージを読み解いていくために役立つと

     思うんだ。


      『生きてゆくことの意味 問いかけるそのたびに·····

       この星の片隅で めぐり会えた奇跡は 

       どんな宝石よりも  たいせつな宝物

       泣きたい日もある 絶望に嘆く日

       そんな時 そばにいて

       寄り添う あなたの影 ··············

       本当にだいじなものは  隠れて見えない

       ささやかすぎる 日々の中に 

       かけがえのない 喜びがある······


     春樹は、最後の“真実か挑戦”ゲームに勝って

     桜良に聞いたことは、

      『君にとって、生きるとはどういうこと❔

     だったし、雨の夜に玄関で桜良が春樹に言った

     ことは、

      『君がしてきた選択と 私がしてきた選択が

       私たちを会わせたの。 

       私たちは、自分の意思で出会ったんだよ

     だったよね。桜良が、春樹とのこの出会いを偶然や

     運命とかで片づけるのではなく、貴重な宝のような

     ものとして位置づけていたことがわかるんだ。

 

     また、検査入院して怖くてどうしようもなかった時に

     春樹が寄り添ってくれたり桜良から夜に携帯電話が

     かかってきた時に、桜良の様子がおかしかったのを

     感じ取って、春樹が走って病室の桜良に会いに行った

     こともあったよね。この時も、春樹は桜良に寄り添って

     いたんだ。このような状況で、桜良が自分の頭を春樹の

     肩にそっと預けて、こう言ったんだよね。

      『だから、こうして君といられてよかった

       君がくれる日常が、私にとっての宝物なんだ


      このようにみてくると、『いのちの歌』の歌詞の内容と

       かなり符合していることがわかるんだ。

 

     そして、桜良が言いたかったことは、単に日常』を

     くれたから それが桜良にとって宝物だったということ

     なのではなく、“本当にだいじなものは  隠れて

     見えない”、つまり、この貴重な宝物を春樹の内に

     桜良は確かに見つけていたいう事実が重要なので

     あって、この点を見逃してはいけないと思うんだ。


     だから、桜良が『君がくれる日常が、私にとっての

     宝物なんだ』と言った時、君が私に与えてくれたのが

     “取り繕った日常”ではなく、“普通の毎日”や“日常”

     だったから宝物だった······という意味で言っていた

     のではなかったと思うんだ。

     そうではなくて、“春樹と心を通わせることが

      でき、さらに、春樹の素直な思いも

      しっかりと伝わってきたからこそ、

      その春樹がくれる普通の毎日、日常が

      私にとって宝物そのものだった。

      そのようなささやかな日々の中にも

      喜びがあり、本当の幸せを私は感じる

      ことができたよ。” 

                    こう桜良は本当は言いたかったんじゃないかって、

     私は思うんだ。


ハジメ: 「う····ん。なるほど。おそらく、そういうことなのかも

     知れないね。


                    ところで、このことは聖書の真理と何かリンクして

        いるの❔」


Osann : 「実は、密接にリンクしているんだ。それはね、聖書を

     よく読むと、目に見える神のすごい奇跡を目の当たりに

     しても、時間が経つと また神から離れ去っていった

     ケースがいっぱいあるんだ。


     たとえば、出エジプトの時にイスラエルの民がモーセに

     引き連れられて、神の数々の奇跡を体験してエジプト

     での奴隷から解放され、エジプトから脱出したにも

     かかわらず、神への信仰には繋がらなかったんだ。

     

     また、イエスが数多くの奇跡や病気の癒しを神の力で

     行って、大勢の群衆がイエスに従ってきていたんだ

     けど、やがてつまずいてイエスから離れて行って

     しまって、最後は 弟子たちだけが残ったんだ。


                     つまり、肉眼で見えるような“神の華々しいわざ”に

     よって、本当の信仰が生まれるとか、信仰が確立して

     いくということは難しい······ということなんだ。


     ささやかな日々の中に、何げない日常、一見、あたり

     まえの毎日のように思える中にこそ、実は、“目に見え

     ない大切な宝物”が隠れているんじゃないかって思う

     んだ。


     “真実の神”を見いだすことにおいても、同じようなこと

     が言えると思う。

     つまり、“非日常”的な出来事や体験を通して、真実の神

     に対する確かな関係を築いたり、神との絆を結んだり

     することは、決して 簡単なことではない·····ということ

                    なんだ。


     ところで、人はどうやって “真実の神”を知り、正しい

     関係を築いたり、絆を結んだりすることができるように

     なると思う❔ 


     質問を換えると、イエスは『天国は、畑に隠してある

     宝のようなものである』と語ったんだけど、その宝が

     隠してある“畑”というのは、何だと思う❔ 」


ハジメ: 「う~ん。ちょっと待って。·········

      キリスト教を信じている人たちだったら、ふつう

      その”畑”というのは『聖書』って答えるんじゃない

      のかなあ❔」


Osann :   「私は、大きく分けて 3つあるんじゃないかって、

     思っているんだ。


       ① 聖書を通して❗❔

       ② 自然界を通して

       ③ 人(ヒト)を通して


① 聖書を通して❗❔


     この3つのうち、『① 聖書を通して』のところに

     ❗❔を付けたのは、答えとして微妙だったから。

     このことに関しては、少し説明を加える必要がある

     んだ。·······」


ハジメ: 「そう言えば、福音書を読むと、聖書に精通していた

     はずの律法学者やパリサイ人といった人たちは、結局、

     イエスを神から遣わされた神のひとり子として認める

     ことも、受け入れることも、信じることもしなかった

     よね。」


Osann :   「そうなんだ。

     確かに『聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれた

     もの(テモテ第2の手紙3章16節)ではあるんだけど、

     でも その聖書の知識に精通しているからといって、

     その人が必ずしも“永遠の命という宝を見つけるとは

     限らないんだ。

     

     イエスご自身、あなたがたは、聖書の中に永遠の

     命があると思って調べているが、この聖書は、

     わたしについてあかしをするものである。』(ヨハネに

     よる福音書5章39節)と言ってるんだ。


     つまり、“永遠の命という宝”は 聖書そのものにある

                    ということではなくて、聖書の中に登場している

     イエスのうちに隠されているということなんだ。


     で、使徒パウロは、こう言ったんだ。


    『れは彼らが、心を励まされ、愛によって結び

     合わされ、豊かな理解力を十分に与えられ、

     神の奥義なるキリストを知るに至るためである。

     キリストのうちには、知恵と知識との宝が、

     いっさい隠されている

      (コロサイ人への手紙2章2節~3節)

 


     さらに、イエスに対して好意的な人たち、また

     イエスを慕っていた人たちであっても、イエスの

     うちにこの『宝物』を見つけることができたかどうか

     においては 大きな開きがあったんだ。


     たとえば、マルタとマリヤの姉妹。

     姉のマルタはイエスとその一行を歓迎し、その接待に

     時間をさき、忙しくしていたんだけど、

     その姉とは対照的に、妹のマリヤはイエスの足元で

     あたかも“吸い取り紙”のようにイエスの口から語られる

     言葉を一言も聞き漏らすまいと、心を澄まして

     聞入っていたんだ。


     すると、それを見ていた姉のマルタは、接待を自分に

     任せっきりで、ただイエスの話を聞き入っていた妹の

     マリヤの振る舞いに不満を抱いて、イエスに向かって

     ズバリこう言ったんだ。


      『主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、

         なんともお思いになりませんか。

                           わたしの手伝いをするように妹におっしゃって

                           ください。』(ルカによる福音書10章40節)


     その時、イエスは 『マルタよ、マルタよ、あなたは

     多くのことに心を配って思いわずらっている。

     しかし、無くてならぬものは多くはない。

     いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだ

     のだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならない

     ものである』(ルカによる福音書10章41節~42節)

     答えられたんだ。


     つまり、マリヤはイエスの内に“目に見えない貴重な

     宝”があることを敏感に察知して、それに引き寄せら

     れるようにイエスが語る真理の“”に耳を傾ける

     ことを、イエスとその一行を接待することに優先

     させたというわけなんだ。


     言い換えれば、マリヤは自分の意思で、今という

     この瞬間”を大切にして、無くてならぬもの”を選んだ

     ということなんだ。」

    

*二人の興味深い会話は、『君がくれる日常(2)』へと続いていく(お楽しみに)**

 (2018年11月17日~25日)

 

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映画『君の膵臓をたべたい』の深読み ⑩ “出会う(4)”

2018年11月16日 20時41分22秒 | 映画ブログ

 

出会う(4)·····“インマヌエル”


Osann: 「ところで、イエス・キリストの誕生の次第が

     マタイによる福音書1章18節~23節に記されている

     んだ。


     『母マリヤはヨセフと婚約していたが、

     まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重に

     なった。夫ヨセフは正しい人であったので、

     彼女のことが公けになることを好まず、ひそかに

     離縁しようと決心した。

     彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が

     夢に現れて言った、“ダビデの子ヨセフよ、心配しない

     でマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿って

     いるものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産む

     であろう。その名をイエスと名づけなさい。

     彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となる

     からである。 ”すべてこれらのことが起ったのは、

     主が預言者によって言われたことの成就するためで

     ある。すなわち、“見よ、おとめがみごもって男の子を

     産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるで

     あろう”。これは、“神われらと共にいます”という

     意味である。 』


     つまり、母マリヤが聖霊によって身ごもった男の子が

     産まれたなら、その名を“イエス”と名づけなさいと

     天使が夫ヨセフに命じたんだ。ところが、その名は

     “インマヌエル”と呼ばれることになるとも告げたんだ。

     そして、このインマヌエル”の意味が、神 われらと

     共にいます”ということなんだ。


     これって、面白いよね❔

     というのは、おのれの民をそのもろもろの罪から

     救う者となるから”というわけで、“イエス”と名づけ

     なさいと言われたんだけど、そのイエスの別名として

      “インマヌエル(=神 われらと共にいます)”というふう

     にも呼ばれることになるというんだ。

 

     神の御子がこの地上に肉体を取られて誕生したこと

     自体が、神自らが人類と一緒に住まわれる、すなわち、

     共におられるということを意味していたんだけど、

     そのようなメッセージが より鮮明に示されたのが、

     実に、イエスの十字架においてだったんだ。

     昼の12時頃から3時間にも及んだ全地をおおった

     “やみ”こそが、まさに“神われらと共にいます”と

     いう目に見えない事実(真実)を強烈に物語って

     いたんだ。


     罪から救われた人たちも、以前 まだ罪の中に迷って

                    いた頃は、神を“敵”であるかのように思っていたんだ。

     人よりは忍耐力はあるとしても、いったん堪忍の

     緒が切れたら人間と同じように怒ってしまうような神、

     善い人にはやさしくて 悪い人には厳しい神、

     時には人には天罰を下して悪い人を懲らしめようと

     する神、·····こんな風に、誤ったイメージで神を捉えて

     いたんだよね。


     でも、イエスの十字架から“やみに輝く真理の光”の

     中で真実の神に出会った時に、これまで持っていた

     すべての誤解、誤ったイメージ、思い込み、勘違いが、

     霧がさーっと晴れるように、一掃されてしまうことに

     なるんだ。


     旧約聖書を読んでも、あるいは、旧約時代の預言者

     たちが語っても、人が神の本当の栄光”を見ることは、

     なかなか難しかったんだ。やはり限界があったんだ。


     だからこそ、天の神はふところにおられた神の御子を

     直接 この世に遣して、その御子を通して、

     ご自身の真実の栄光を現し、その栄光の輝きの中で

     神の真実の思いをこの世の人々に伝えたかったと

     思うんだ。


    『そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。

     わたしたちはその栄光を見たそれは父のひとり子と

     しての栄光であって、めぐみとまこと(=真理)とに

     満ちていた

     ··········律法はモーセをとおして与えられ、めぐみと

     まこと(=真理)とは、イエス・キリストをとおしてきた

     のである。神を見た者はまだひとりもいない。

     ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、

     神をあらわしたのである。

       (ヨハネによる福音書1章14節~18節)


    『むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義

     しての神の知恵である。それは神が、わたしたちの

     受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、

     あらかじめ定めておかれたものである。·········

     ····この知恵·····は、·····聖書に書いてあるとおり、

      “目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びも

     しなかったこと·····”。そして、それを神は、御霊に

     よってわたしたちに啓示して下さったのである。

     御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでも

     きわめるのだからである。----神の思いも、神の御霊

     以外には、知るものはない。ところが、わたしたちが

     受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。

     それによって、神から賜わった恵みを悟るためで

     ある。』(コリント人への第一の手紙2章7節~12節)


                    イエスの十字架の“やみ”の中に“輝いていた光”は、

     インマヌエル、すなわち、“神われらと共にいます”と

     いう真実(=真理)だったんだけど、このことを

     見過ごしては実にもったいことなんだ。これは

     とてもすごいことなんだよ。


     もし神の真実の思いを知ったら、神が私と共にいる

     こと、一緒にいて下さるということは最高の喜びで

     あり、至福でもあるんだ。


                    実はね、このことに光を投げかけるような大切な

     言葉を、映画キミスイの中で、桜良が語っていた

     んだけど、覚えてる❔」


ハジメ: 「へ~、そうだったの。すぐには思い出せないけど。

     それは桜良のどんな言葉だったの❔」


Osann : 「それはね、桜良が、もう自分は死期が近いことを

     感じ取っていた時なんだ。

     体がだるくて、もう何日も食べていない状態が続いて

     いた。そんな中で、つかの間の外出許可が出たんだ。

     『もう最後ってことみたい』と、桜良も言ってたよね。

     点滴をつけたまま病院の屋上に出て、『最後に彼と

     もう一度 旅行して、桜を見に行く約束をした。

     いつか恭子とも3人でも行きたかったな。』と語って

     から、その後で、

     でも十分幸せ。彼と一緒にいられる。

       そう思えるだけで幸せ。

     と言ったんだ。そんなふうに思えるのは、桜良が

     春樹の奥底から直に発せられている思いをしっかりと

     感じ取っていたからなんだ。


                    それと同様に、“神の真実の思い”をしっかりと

     感じ取れている人は、

      『インマヌエル、神われらと共にいます

     というイエスの十字架から輝いている真理の光の

     メッセージに深い感動を覚えるんだ。

         

     イエスの十字架の福音の核心はどういうところに

     あったのかに気づいて、サプライズしてしまうんだ。

     なぜなら、これまでは 教えられてきた教理や教義を

     マインドで納得し、理解して受けとめてきたんだけど、

     イエスの名によって送られた真理の御霊によって、

     心が明るく照らされて、イエスの十字架の下で

                    神の栄光のうちに神が抱いておられる真実の思い

     示される時に、人の想像を超えたもの(目がまだ

     見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもし

     かったこと)なので、驚きを禁じ得ないんだ。

     そして、神の底知れない深い愛のうちの誰でも

     憩うことができるんだ。

     今あるがままの状態でも、 神に包み込まれるように

     して受け入れられている自分がいることを知るんだ。

     何も飾らない、背伸びもしていない 今のそのままの

     あなたを受け入れているんだよ······と、神に語りかけ

     られているんだ。

     魂の本当の安らぎ、安息も感じるのも、まさに

     真実の神知った時なんだ。

     さらに、これまで心の中に持っていた いかなる恐れ

     であっても、神の愛の中ですーっと溶けて消え去って

     しまうんだ。

     

     ところで、黙示録での神の国の描写をみると、

     そこでは神が人と共に住むと書いてあるんだけど、

     イエスの十字架を通して示された“神の真実の思い”を

     知ったら、将来 天国(神の国)に行ってからということ

     でなくても、この世にいながらにして 今ここで神と

     一緒にいられるんだ····ということもわかり、また

     そう思っただけでも 今 この瞬間でも 十分な幸せを

     実感することができるんだ。


     でもね、インマヌエル(=“神 われらと共にいます”)

     というのは、単に神が私たちのすぐそばにいるという

     ことだけではないと思うんだ。

     むしろ、神が私たちの内に住まわれるということだと

     思うんだよ。

     なぜなら、私たちの“からだ”は神がお住まいになる

     『神の神殿』であると聖書にもはっきりと書いてある

     からだよ。

     神は、もともと神が宿るための神の神殿として人間を

     創造されたというわけなんだ。

     (このような創造目的をおかしくしてしまったのが、

     聖書が“”と呼んでいるものなんだけど······。)


     そして、ある意味、神がおられるところは、神の国と

     言えるんだ。

     だって、神不在の神の国なんてあり得ないから······。


     従って、私たちの内(この“内”というのは、私たちの

       “霊”とか、“内なる光”と言われているところだと思うん

                    だけどね)に神が宿る時に、神の国は私たちのただ中で

     始まっていると言えるんだ。


     『神の国はいつ来るのか』とパリサイ人が尋ねられた

     時に、イエスは『神の国は、見られるかたちで来る

     ものではない。また“見よ、ここにある” “あそこにある”

     などとも言えない。神の国は、実にあなたがたの

     ただ中にあるのだ』と答えたわけは、そういうこと

     だったんじゃないかって思えるんだ(ルカによる福音書

     17章20節~21節を参照)。」


ハジメ: 「そうか~。

     

*二人の興味深い会話は、⑪『君がくれる日常』へと続いていく(お楽しみに)***

 

 (2018年11月15日~16日)

 

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映画『君の膵臓をたべたい』の深読み ⑨ “出会う(3)”

2018年11月13日 14時00分24秒 | 映画ブログ

出会う(3)

 

Osann :   「それで、イエスが送ると約束された御霊というのは、

     イエスに栄光を得させるであろうと記されているんだ

                    (ヨハネによる福音書16章15節を参照)。

        このイエスの栄光とは、まさに“天の父なる神が地上に

                     遣わされたイエスに使命として授けたわざ”をイエスが

     十字架で成し遂げたという功績を指しているんだ。

     

     つまり、最初に神に創造された人類であるアダムが

     神に対して罪を犯して以来、アダムにあって すべての

     人が生まれつき 神の本来の栄光見失い、もはやそ

                    栄光受けられなくなり、(ローマ人への手紙3章24節

                    を参照)、それゆえ もたらされていた深刻な現状を根本

                    から打開するために、イエスは 十字架上での死を

                    通して神の真実の栄光をあらわすことによって、

     人類が再び神からの栄光を受けられるようにしたと

     いうわけなんだ。


     もちろん、イエスが現したこの“神の栄光”というのは、

     肉眼では見えないものなので、信仰という心の目で

     見るんだ。

     だから、イエスは『信じる者は、神の栄光を見るで

     あろう』と語ったんだ。


     もう少し詳しく言うと、やみに輝いている神の栄光

     中で、人類に対して抱いている『神の真実の思い』を

     啓示したということなんだ。


     常識的に見れば、イエスが十字架上で あのような

     悲惨な死にかたをされたのであれば、イエスに

     託された神の救いのわざは失敗に終わり、サタンが

     勝利者となって、イエスが説いてきた真理が闇に

     葬られてしまったかのように思えてしまうよね。

     

     でもね、映画キミスイの中で、あの雨が降りしきる

     夜、“やみ”が桜良と春樹の二人の心を覆っていた

     中で、もはや二人の仲良しの関係も破綻して、

     これで終わるのかとさえ思われたよね


     でも、春樹は クラス委員長が言うと通りだと

     語った時に、桜良はそれを否定し、言ったんだ;


     『私たちはみんな自分で選んで ここに来たの。

      君と私が同じクラスだったのも、あの日病院に

      いたのも、偶然じゃない。運命なんかでもない。

      君がしてきた選択と私がしてきた選択が、

      私たちを会わせたの。私たちは、自分の意思で

      出会ったんだよ。』    


     桜良は、ここで“真実の出会い”というものが、

     どのようにしてもたらされるのかについての

     真理を語っていた······と私は思うんだ。

     

     イエスの十字架の受難というのも、一見すると、

     “やみ”が全地を覆い、またイエス自身の魂をも

     覆っていたかのように見えるけど····。


     でも、イエスが十字架にかけられて、神からも

     見捨てられたかのように思われるこの“やみ”の

     中に、罪を犯して神から離れ去っていった人類が

     もう一度 神に出会い、神との絆を結ぶことを

                    可能にするゲートが、実は、開かれたんだ。

     なぜなら、その“やみ”の中に、『神の真実の思い』が

     はっきりと示されたからなんだ。


     福音の本質というのは、どこにあると思う❔

 

     人は生まれつき神の前で罪人であり、罪の身代わり

     として十字架で死んで下さった神の御子イエスを

     個人的な救い主であるということ·····このことを納得

     して、“信じます”と信仰告白をして 受け入れる·····

     これで、罪をすべてゆるされて救われる。

     この世における人生が終わった後には、天国(神の国)

     にめでたく迎え入れられ、永遠の命も保証される。

                     これが、聖書が教えるところの福音、すなわち グット

     ニュースなんだろうか❔

 

     教義的にはそうかも知れないし、人のマインドでは

     確かに 納得したり、理解したりは しやすいとは思う

     んだけど······


     でも私にはそれだけでは、どうも腑に落ちない

     ところがあるんだ。しっくり こないんだよね。


     つまり、人が自分のマインドのレベルでイエスの

     とりなし、あがない、身代わりによる神の救いに

     関する教義を知って、納得し、同意して受け入れた

     としても、それで必ずしも 神を知ったことにも、

     神と出会ったことにも、神と絆を結んだことにも

     ならないと思うんだ。

    

     桜良が春樹に『私が君をどう思っていると思う❔』と

     聞いたよね。

     つまり、春樹が自分に対する桜良の“真実の思い”と

     いう肝心なこと(=隠れた宝)を知った時に初めて、

     二人の絆が結ばれたと言えると思うんだ。     


     神と人との絆が結ばれることにおいても、やはり同じ

     ことが言えると思う。

 

     だからこそ、イエスの十字架で示された『神の奥義

     を解明していく必要があると思うんだ。

     つまり、神の奥義が神の真実の思い”に関すること

     であるということを聖書から直接 紐解いていくことが

     重要となってくると思うんだ。


     で、今からイエスが十字架にかけられていた時に、

     昼の12時頃から3時にかけて全地を覆っていた

     “やみ”とは、一体、何だったのかについて、聖書

     から説明していきたいと思う。    


ハジメ: 「おっ、いよいよ 核心に近づいてきたみたいだね。

     そこが聞きたかったんだよね。


Osann : 「実は、その“やみ”の正体を解く鍵というのは、

     旧約聖書の詩篇の中にあるんだ。」


ハジメ: 「へ~。それって、詩篇のどこなの❔」


Osann : 「それはね、ダビデの歌である詩篇18だよ。

     私が説明する前に、まず 読んでみて。······

 

     この詩篇18篇は、イエスが人類の罪の身代わりと

     して十字架上で死なれた状況が、

      『死の綱は、わたしを取り巻き、滅びの大水は、

       わたしを襲いました。陰府の綱は、わたしを

       囲み、死のわなは、わたしに立ちむかいま

       した。』(4節~5節)

     というふうに預言されているんだ。

    

     そして、イエスは『わが神、わが神、どうして

     わたしをお見捨てになったのですか?』と大声で

     叫び、さらにもう一度大声で叫んでから、息を

     引き取られたんだけど、このことは詩篇18篇では、

      『わたしは悩みにうちに主に呼ばわり、

       わが神に叫び求めました。』(6節)

     と預言されているんだ。


     さらに、イエスが息を引き取られた直後に、

     地震があったことも記されているけど、これは

      『主はその宮からわたしの声を聞かれ、

       主にさけぶわたしの叫びがその耳に

       達しました。そのとき地は揺れ動き、

       山々の基は震い動きました。』(6節~7節)

     と、預言されているんだ。


     それから、イエスは死んで3日後によみがえった

     わけだけど、そのことは詩篇18篇では、

      『主は高い所からみ手を伸べて、わたしを

       捕らえ、大水からわたしを引きあげ····』(16節)

     と、預言されているんだ。


     そして、イエスが死からよみがえることができた

     根拠として、詩篇18篇には、

      『わたしを喜ばれるゆえに、わたしを助けられ

       ました。主はわたしの義にしたがってわたしに

       報い、わたしの手の清きにしたがって わたしに

       報いかえされました。わたしは主の道を守り、

       悪意をもって、わが神を離れたことがなかった

       のです。そのすべてのおきてはわたしの前に

       あって、わたしはその定めを捨てたことが

       なかったのです。わたしは主の前に欠けた

       ところがなく、自分を守って罪を犯しません

       でした。このゆえに主はわたしの義にしたがい、

       その目の前にわたしの手の清きにしたがって

       わたしに報いられました。·····』(19節~24節)

      と、預言されているんだ。つまり、イエスは受肉

      されて この地上を歩んでいた時に、神の前に

      おいて一点の罪も汚れもなかったことを神ご自身

      が認められたということの証明でもあったんだ。


      で、イエスが十字架にかかっていた時、昼の12時

      頃から3時頃にかけて全地を覆った“やみ”の正体に

      ついては、詩篇18篇では次のように預言されて

      るんだ。

       『主は天をたれて下られ、暗やみがその足の下に

        ありました。主はケルブに乗って飛び、

        風の翼をもってかけり、やみをおおいとして

        自分のまわりに置き、水を含んだ暗い濃き雲を

        その幕屋とされました


      つまり、イエスが十字架にかかっていた時に、

      3時間にも及んだあの“やみ”の正体は、神が

      天からたれて下られ、イエスのすぐそばに

      臨在されておられたということだったんだ。


      これって、ほんと驚きなんだ。ビックサプライズ

      と言えるんだ。


      なぜかって❔ それはね········神が人間の肉体を

      取られたイエス、しかも、罪人と一つになられた

      イエスを神がどう見ていられるか、どのように

      対応されるのか、どんな想いを実際に抱いて

      おられるかということが、とりもなおさず、

      それは人類一人一人に対して、神がどうなのか

      ということを、実は 如実に表しているからなんだ。

 

      そして、人類の身代わりとなって、罪人の代表者

      として さばきを余すところなく受けられていた

                        イエスが、

       『わが神、わが神、どうしてわたしを

        お見捨てになったのですか?

      と叫んでいた時、イエスの視界からは神が完全に

      消えてしまった時でさえ、実に、神はイエスを

      見捨てたり、遠くに立ち去ったりしていなかった

      ということなんだ。


      “やみ”をおおいとして、神はご自分の存在を消して

      イエスのすぐそばに、手を伸ばせば触れるくらいの

      近さにまで寄り添っておられたということなんだ。

      そう言えば、ハリーポッターの映画で、彼が体を

      透明にできるガウンを着て、自分の存在を消した

      シーンがあったよね。

      イエスが十字架にかけられていた時には、神は

      ご自身を透明化したのではなく、“やみ”を使って

      ご自身の存在を隠したということなんだ。


      神がお用いになられたこの“やみ”には、実に、

      “神の見えない思い”が隠れているというか、

      いや、逆に 人類一人一人に対して抱いていられる

      “神の心のうちに秘められた真実の思い”という

      ものが、もはや隠しきれずに外に溢れ出てきて

      いると言えるんだ。


      『エフライムよ、どうして、あなたを捨てることが

       できようか。

       イスラエルよ、どうしてあなたを渡すことが

       できようか。

       どうしてあなたをアデマのようにすることが

       できようか。

       どうしてあなたをゼボイムのように扱うことが

       できようか。

       わたしの心は、わたしのうちに変り、

       わたしのあわれみは、ことごとくもえ起って

       いる。』

      と、ホセア書に記されているけど、“やみ”を

                         おおいとして イエスのそば近くまで寄り添って

      おられた神の心のうちは こんなだったんじゃ

      ないかって思うんだ。

 

      イエスが十字架上で、人類を救うための神のわざを

      成し遂げようとされていた時に、

      あの3時間にわたる“やみ”の中にも、実際には、

      神のみ名の栄光が輝いていたと言えるのであり、

      人類に対する“神の真実の思い”を垣間見ることが

      できるんだ。


      まさに、“やみの中に輝く光”と言えるんだ。


      映画キミスイでは、雨が降っている暗い夜に 桜良が

            やさしく微笑みかけながら 春樹に、

      『私たちは、······出会ったんだよ』と言ったように、

      イエスが十字架にかかっていた時に、

      全地をおおっていたやみ”(これが 神の臨在を隠して

                         いた)中に隠れている“神の真実の思い”に気づく

                         時に、人知を超えている神の愛の高さ、深さ、広さ、

      奥行きを知ることになり、その中で人はやさしく

      包み込まれるように、真実の神と出会うんだ。

      そして、そこで確かな絆を結ぶんだ。

 

*二人の興味深い会話は、出会う(4)へと続いていく(お楽しみに)***

 (2018年11月11日~13日)


    *        *       * 

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映画『君の膵臓をたべたい』の深読み ⑧ “出会う(2)”

2018年11月11日 14時20分19秒 | 映画ブログ

 

出会う(2)

 

 Osann :   「それはね、“神の思い”と“人の思い”が、あまり

     にも違い過ぎるため、かけ離れ過ぎているため、

     人は“神の思い”を理解できないという意味で、

     人の目にそれが隠れているということなんだと思う。

     言い方を変えると、人の心が“ヴェール”で覆われて

     いるために、神の思い”が見えなくなっている

     ところに根本的に大きな問題があるのでは········


     イザヤ書55章8節~9節には、こう書いてあるんだ。


     『わが思いは、あなたがたの思いとは異なり

      わが道は、あなたがたの道とは異なっていると

      主は言われる。天が地よりも高いように、

      わが道は、あなたがたの道よりも高く、

      わが思いは、あなたがたの思いよりも高い


     つまり、神の思いと人の思いは、次元が全く

     違うということなんだ。


     ところで、このイザヤ書55章における“思い”という

     のは、New King James Versionの聖書では、

     “マインド(mind)”という単語が使われているんだ。


     人のマインドというのは、中途半端な情報、誤った

     情報、限定された情報、バイアスのかかった情報

     などでコントロールされてしまっていることが

     とても多いんだ。偏見、先入観、思い込み、勝手な

     決めつけなどで、人のマインドは自分の『内なる光

     を暗くしてしまっているんだ。この『内なる光』が

     明るく輝いていないと、人は “究極の隠れた宝”とも

     言える“神の真実の思い”を必然的に誤解したり、

     曲解したりしてしまうんだ。


     神という存在は肉眼では見ることは出来ないし、

     ましてや  “神の心の内に秘められている思い”と

     いうものは、かなり多くの人たち、おそらく

     神やイエス▪キリストを信じていると告白している

     人たちからも甚だしく誤解されているんじゃない

     かって、思うんだ。


     『天国への階段』のテーマにも関係してくるんだ

     けど、主なる神のために“神の御旨”をたくさん実践

     してきたと思えるにもかかわらず、天国に入り

     損なってしなう者が多いとイエスは山上の説教の

     中で語っているわけだけど、これは結局、

     その人たちが“神の思い”を知らなかったから、

     あるいは、ひどく誤解していたからじゃないか

     って·······。私には、そんなふうに思えてならない

     んだ。」


ハジメ: 「そう言えば、春樹もクラスメートたちから

     ストーカーだとか、桜良のベットにもぐり込んだ

     とか、いろいろと誤解されてたよね。」


Osann :    「そうなってしまうのは、クラスメートたちが

     春樹のことをく知らないから·····だから、

     もっとみんなに話せばいいのに·····と、その時、

     桜良が春樹にアドバイスをしてたよね。


     正確な情報を得ることによって“真実を知る”と

     とうことは、ものすごく大切なことなんだ。


     “神についての誤解”というものも、やはり、

     しっかりと解いておくということが、私たち

     人間 一人、一人にとって最重要課題じゃない

     のかなって、私は思っているんだ。


     イエスは、『永遠の命とは、唯一の、まことの神で

     いますあなたと、また、あなたがつかわされた

     イエス・キリストとを知ることであります。』と、

     ヨハネによる福音書17章でも語っているしね。


     心の目にフィルターをかけることなく、

     心を覆っているヴェールを取り除いた状態で、

     神という存在を観て、捉えていくこと、

     神の輝かしいの栄光の中で“神の真実の思い”を

     知るということが、

     この世にあって人生を生きている間になすべき

     “究極の宝探しと言えるのじゃないかな····って

     思うんだ。


     だからこそ、この映画キミスイをきっかけに、

     今から神の真実の思い”に気づいていくための

     “究極の宝探し”をしてみたいな···って思って

     いるんだ。


ハジメ: 「ウワッ、楽しみだな·····ワクワクするよ。」


Osann :  「ところで、『光はやみの中に輝いている。

      そして、やみはこれに勝たなかった。』という

         ヨハネによる福音書1章5節を前に引用したけど、

         実は、やみの中でこそ明るく輝いている光という

      ものがあることに気づいてほしんだ。


     つまり、やみの中に、実は、光が隠れていたという

     ことなんだよ。


     そこに、イエスの十字架の奥義、神の知恵があった。

     言い換えれば、人類ひとりひとりに対して『神が

     抱いておられる真実の思い』がイエスが十字架に

     かかっている時に全地を覆ったやみが明らかにした

     ということなんだ。


     マタイによる福音書27章45節~50節には、こう

     記されているんだ。


     『さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなって、

      三時に及んだ。

      そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、

      “エリ、エリ、レマ、サバクタ”」と言われた。

      それは「わが神、わが神、どうしてわたしを

      お見捨てになったのですか」という意味である。

      ▪▪▪▪イエスはもう一度大声で叫んで、

      ついに息をひきとられた。


     聖書には、神の子イエスはご自身 罪のない方であった

     が、全人類の罪をあがなうために、罪人の身代わりと

     して十字架上で死なれたと描かれている。

     また。イザヤ書53章には、その辺のことが 次のように

     詳細に預言されているんだ。


                    “主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた

      ·······彼は暴虐なさばきによって取り去られた。

     その代の人のうち、だれが思ったであろうか、

     彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの

     地から断たれたのだと。

     彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれ

     ども、その墓は悪しき者と共に設けられ、

     その塚は悪をなす者と共にあった

     しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を

     悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、

     その子孫を見ることができ、その命をながくする

     ことができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。

     彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。

     義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を

     義とし、また彼らの不義を負う

     それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を

     分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。

     これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、

     とがある者と共に数えられたからである。

     しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のために

     とりなしをした。”(6節~12節)


     で、十字架上で人類の罪の身代わりとなって 

     さばき受けて、「わが神、わが神、どうしてわたしを

     お見捨てになったのですかというような言葉まで

     発したイエスだったんだけど、このような魂の暗黒の

     ただ中に放置されたかのように思えるような状況に

     おいて、なぜ神の真実の思い』が明らかにされたと

     言えるのか······つまり、どうして、これが“やみの中に

     輝く光”と言えるのか、まだ よくわからないよね。」


ハジメ:「もっと説明してくれないと、ピンとこないなあ。」


Osann: 「核心を説明する前に、使徒パウロがコリント人への

    第一の手紙2章で書いていることに、注目してもらい

    たいんだ。


             実は、使徒パウロはここで『隠された奥義としての

    神の知恵』について語っているんだ。これこそ、

    究極の宝探しと呼べるんだ。


    “肝心なことは目に見えない”と映画キミスイの冒頭で

    教師 春樹が“星の王子さま”の本から引用して語って

    いたよね。


    この神の『隠された奥義』も、やはり 目に見えない

    肝心なものなんだ。


    天国への階段を登っていたと思っていたのに、その

    途中で滑り落ちてしまわないためにも、

   『神の隠された奥義をよく知っておく必要があると

    思うんだ。


    この奥義は、“目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の

    心に思い浮かびもしなかったこと(コリント第Ⅰの手紙2章

    9節)とも呼ばれているだけに、人の心にあるマインド

    機能(=この世の知恵)をどんなに駆使しても、この

    “隠れた”を見つけるのは 非常に難しいことなんだ。


    ところで、映画キミスイでは、桜良が春樹をどう

    思っているかという“真実”は、病室では語られる

    ことなく、秘密にされてしまったよね。

    春樹がその秘密にされてしまった自分に対する

    桜良の“真実の思い”を知るのは、結局、桜良が亡く

    なった後に桜良が残していった“共病文庫”を読み、

    でも最終的には高校の図書館の書庫にあった

      “星の王子さま”の原書の中に桜良がそっと隠して

    あった春樹にあてた“遺書の手紙”を読んでから

    だったんだ。

    

    それと同様に、人類に対する“神の隠れた真実の思い

    を知るようになるためには、イエスが十字架で死なれた

    後に送るとイエスが約束された真理の御霊の手助けが

    必要だったんだ(ヨハネによる福音書15章26節~27節、

    同16章12節~15節を参照)。


    だから、神は “御霊”(聖書の中では、“助け主”とか、

    “聖霊”とか、“神の霊”とか、”真理の御霊”などとも

    呼ばれている)によって、神の深みと言える神の奥義

       中の奥義と言える 神の隠れた真実の思い”を人に啓示

                しようとされたんだ。

 

    そのことを使徒パウロが、コリント人への第Ⅰの手紙2章で

    次のように書いたというわけなんだ。」

 

    『それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して

     下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、

     神の深みまでもきわめるのだからである。

     いったい、人間の思いは、その内にある人間の

     霊以外に、誰が知っていようか。それと同じように

     神の思いも、神の霊以外には、知るものはない。

     (コリント人への第Ⅰの手紙2章10節~11節)

    

ハジメ: 「なるほど。」

    

****二人の会話は、出会う(3)へと続く(お楽しみに)****

 (2018年11月6日~11日)


    *        *       * 

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映画『君の膵臓をたべたい』の深読み ⑦ “出会う(1)”

2018年11月06日 13時51分14秒 | 映画ブログ

 

出会う(1)

 

Osann :   「では、そろそろ核心に迫る内容に移っていこうかと

     思う。


     この映画は、他人と関わらない人間である春樹が、

     話したこともない同級生のはずだった桜良に

     引き込まれるようにして、“仲良し”として関わりを

     持つことになり、最後には、友だち、親友でも、

     彼氏▪彼女、また 仲良しをも超えた関係の絆を結ぶ

     ようになっていくというストーリーとも言えるん

     だけど、これが人と神との関係においても当てはまる

     ところがあるんだ。


     なぜって? それは聖書によると、人間は神に対し

     “罪”を犯して 神と関わることをやめてしまったから

     なんだ。そのような人間がいかにして神との本来の

     関係を回復していくのかというのが、聖書のテーマ

     と言えるからなんだ。

     このように、再び 人が神と正しい関係を回復する

     ことを聖書では、『神との和解』、『救い』、

    『神に立ち帰る』などと呼ばれているわけなんだ。

 

     だから、人とかかわらない春樹が、どのようにして

     桜良というクラスメートと“仲良しの関係”となり、

     さらにその後、そのような“仲良しの関係を超えた

     特別な関係”を築いていったかということが、

     そのまま人と神との関係にも当てはまるんだ。


     つまり、春樹と桜良がどのようにして出会って

     いったかということが人が真実の神とどのように

     して出会っていくのか·····ということを暗示している

     と私は思うんだ。


     だから、この映画『君の膵臓をたべたい』を通して 

     イエスの福音の本質とは、一体、何なのかということ

     について、改めて見つめ直すきっかけになるんじゃ

     ないかな·····と、私は思っているんだ。

     いや、そこまで読み取らないと、この映画はもったい

     ないと思うんだ。」


ハジメ: 「ふ~ん。そうなんだ。」

 

Osann:    「さて、ここで桜良と春樹の心がすれ違ってしまう

     シーンを思い出してもらいたいんだ。」


ハジメ: 「桜良からメールがきて、夕方頃に春樹が桜良の家に

     行った場面だね。

     春樹は、桜良の家に入ることをためらっていたけど、

     雨がパラついてきて、チャイムを鳴らして家の中へと

     入っていったよね。

     そう言えば、雨が降っているシーンはこの日と、

     桜良の葬儀の時だったよね。どちらも悲しみの

     表現として、このシーンが使われているよね。」


Osann :   「そうなんだ。ここにも深い意味があるように思える

     んだ。他のシーンでは、が基調となっているのが

     ほとんどなんだけど、この日のシーンだけは違って

     いて、光ではなくて が基調となっていて、とても

     重々しい空気が漂っているんだ。


     桜良の家に入ろうとする頃、雨がポツリポツリと

     降り始めて、そして、春樹が桜良の家を出た時には、

     もう真っ暗で 雨も本降りになっていたよね

     その雨というのは、やはり 桜良が流す悲しみの涙を

                     暗示しているみたいだね


     さらに、この時の夜の暗さは二人の心をが包んで

     いることを象徴していると思うんだ。」


ハジメ: 「う····ん、確かにそうかも知れないね。」 


Osann :  「このままでは、お互いに気まずくなってしまい 二人の

     関係は壊れて、もはや修復できないようにさえ思われ

     たんだ。」


ハジメ:   「そして、それに拍車をかけるように、春樹が桜良の

     家から出てきた時に、クラス委員長が春樹を呼び

     止めて、ひと悶着があって、結局、春樹が委員長に

     顔をなぐられて道路に倒れたんだ。

        その事で、春樹にとっては、状況がさらに悪化して、

     一段とが深まったかのように思われたんだよね。」


Osann : 「そうなんだ。実は、このような状況というのは、

      ある意味、イエスの受難の時とよく似ているんだ。」


ハジメ:    「え、そうなんだ。そのことについて、もう少し説明

     してくれない?」


Osann:「聖書によると、神の子イエスが人類を罪から救うために、

    十字架にかかって死なれるということが、『神の計画』と

       してあらかじめ決められていたんだ。

 

        そして、人類を救うこの『イエスにある神の計画』を

      阻止するために、サタン(=“悪魔”、“この世の神”、

                “この世の君”、“やみの世の主権者”、あるいは、

                “偽りの父”とも呼ばれている)」は、イエスの地上に

                 おける『神の救いの計画』を妨害しようと必死に

                 なっていたんだ。

     つまり、イエスが伝える真理(=神に関する真実)を、

        サタンがに葬り去ろうとしていたわけなんだ。


        イエスが十字架にかけられる前に、

            『だが、今はあなたがたの時、やみの支配の時である

              (ルカによる福音書22章53節)と、現にイエスは語って

    いたんだ。


      世の光として神の真理(=神の真実)を明らかにするために

      この世に遣わされたはずの神の子イエスが、サタンが

      造り出す“偽り▪誤謬という闇”の中に呑み込まれて

      しまったかのように、(見た目においては)思われた

                  んだ。


      でも、聖書のヨハネによる福音書1章5節には、次の

                  ように記されているんだ。


     光はやみの中に輝いている

      そして、やみはこれに勝たなかった。


     光と闇は、常識的には共存することはないと思われる

     んだけどね。つまり、光が輝けば、闇はそれによって

     すぐ消えてしまうものだと。


     だから、❝闇の中に輝くことができる光❞なんていう

                     のは、実に面白い表現だよね。

     聖書に隠されている真理というのは、こんなふうに、

     時に 常識を超えているように見えることもあるんだ。


        でも、この闇の中に輝くことができる光の謎を解く

        ヒントも、実は、映画キミスイの中にあるんだよ。」


ハジメ:  「そのヒントって、なに?」


Osann:    「春樹が委員長の顔を殴られて道路に倒された時に、

     桜良が家から出てきて、『何してんの?』、

    『もう二度と私のまわりの人たちに近づかないで

     という2つの言葉を委員長に向かって言ってから、

     桜良は春樹を連れて家に戻って行ったよね。

     その後に、玄関での二人の会話のやり取りにヒントが

     隠されているんだ。

     この時の二人の心はに包まれているかのように

     見えたんだけど、そのような状況の中で、桜良は

     とても重要なメッセージを語ったんだ。

     これが、春樹の暗い心として射し込んだと言える

     んだ。まさに、輝く真理の光と言えるんだ。」


ハジメ: 「なるほど。」

 

Osann :   「それで、二人の会話の内容は、こうだったんだ。


     春樹:  『僕なんか、そばにいていいのかな。

        委員長が言ったとおりだよ。

        僕は偶然 病院で君と会って、

        流されているだけで、もっと誰か

        本気で君のことを想ってくれる人と

        いたほうが▪▪▪。』


      桜良: 『違う、違うよ。偶然じゃない。

        流されてもいない。

        私たちはみんな自分で選んで

        ここに来たの。

        君と私が同じクラスだったのも、

        あの日 病院にいたのも 偶然じゃない。

        運命なんかでもない。

        君がしてきた選択と 私がしてきた選択

        私たちを会わせたの。

        私たちは、自分の意思で出会ったんだよ。』


     どのようにして、真実の出会いというのがなされて

                     いくのかについて、桜良はここで とても大切な

     ことを述べたんだ。

     本当の出会いというのは、決して、偶然や運命など

     によるものではいんだ。

     真実の出会いを果たすには、お互いがこれまでに

     してきた選択の積み重ねが重要なのであり、

     言い換えれば、それぞれの意思が出会いをもたらして

     いくものなんだということ。


     ところで、私がずっと前に聴いた中島美嘉の『WILL』

     (秋元康作詞)というナンバーがあるんだけど、その

     中に、私の心に今でも響いているフレーズがあるんだ。


     『運命の支配じゃなくて 決めてたのは 僕の“WILL”』

     『偶然のしわざじゃなくて 選んだのは 僕の“WILL”』

 

                    これは、まさに、映画キミスイの中で 桜良が春樹に

     語ったことと同じなんだ。


     そして、人が真実の神と出会う場合においても

     このことがそのまま当てはまるんじゃないかなって

·     ······私は思うんだ。」


ハジメ: 「そこんとこ、もう少し詳しく教えてくれない?」


Osann:  「映画キミスイでは、❝❞が二人を覆っていたその

     時に、桜良と春樹が❝出会う❞ことになったのは

     二人の意思に基づく選択の結果であるという真理

   (=真実)が、桜良の口から語られたけど、

     人が真実の神との出会うのも、実に、

     イエスの受難(=十字架)つまり、闇の主権者である

     サタンが完全に支配していたかのように思われた状況

     の真っ只中においてなんじゃないかなって‥‥。

     私には、そんなふうに思えてならないんだ。

     今、結論を先に言ってしまったけど、なぜそう思う

     のか、そのわけを、今からもう少し説明してみるね。」


ハジメ: 「聞きたい。その話、とても興味があるよ。」


Osann :   「福音書を読むと、イエスは『わたしの時』はまだ

     来ていないというふうに、度々 言ってるんだ。

     十字架に上げられて人類の罪の身代わりとして

     死なれることで、人類をあがなう神のわざを

     成し遂げるという その時のことを『わたしの時

     と語っていたと考えられるわけなんだけど、

     そのような『時』は、実は、サタンによる

    『みの支配の時と重なり合っていたと、私は

     みているんだ。


     ところで、イエスが十字架にかかっていた時に、

     昼頃から午後3時頃まで、全地を暗闇がおおった

     という誰でもわかるような目に見える現象が

     実際に起こったことが、聖書に書いてあるんだ。


     サタンが関与している霊的な闇だけでなく、

     自然現象的な闇までもが生じていき、見た目で

     言うとますます不気味な状況になっていったんだ。


     これは、一体、何を意味していたんだろうか❔

     それを知ることは、実は、とても重要なことなんだ。


     なぜかって? それはね、人類の罪の身代わりと

     して十字架にかかっていたイエスを神がどう思って

     いたのかということが、ものすごく大事なことだから。


     映画キミスイでは、桜良が春樹に聞いてたよね。

     『私が君をどう思っているか気にならない❔

      私は、君をどう思っていると思う❔』

       確か、そんなふうに言ってたよね。」


     それに対して春樹は、『仲良しじゃないの』と

     答えたら、桜良はそれを否定したんだ。

     『じゃ、なに❔』と春樹が聞いたところ、

     『教えない。共病文庫にでも、書いておこうかな。』

     と桜良が言ったんだよね。つまり、一時、秘密に

     されてしまったんだ。


     これと同様に、神が人間ひとりひとりを、実際、

     どう思っているのかということも、実は 隠されて

                    いるんだ。


                    でも、これは神が意地悪でわざと隠しているという

     わけではないんだ。▪▪▪▪」

 

****二人の会話は、“出会う(2)”へと続く(お楽しみに)****

 

 (2018年11月2日~6日)

 

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映画『君の膵臓をたべたい』の深読み ⑥ “生きる”

2018年11月02日 22時13分43秒 | 映画ブログ

生きる

 

ジメ:「春樹が最後の“真実か挑戦”ゲームで勝って、桜良に

   『君にとって、生きるって どういうこと?』と

    聞いたけど、この映画を通して“生きること”に

    ついてもいろいろと考えさせられたよね。」


Osann :   「確かに。

     死んだ後に天国に一緒に行くためにどんな準備が

     必要かということもテーマの1つだったと言える

     けど、それと同時に、人に与えられたこの世の

     人生を生きる”って どういうことなんだろう…

     と、マジメに考える機会も与えられたような気が

     するよね。

 

     ところで、桜良と春樹の二人が関わっていく中で、

     “生きる”というのはどういうことなのかを考える

     上で、とても興味深いシーンがあったんだけど‥…

     何だか覚えてる?」


ハジメ: 「えっ?、それって どのシーンのこと?」


Osann :   「博多のホテルを出た後、二人が歩きながら会話して

     いた内容も、もちろん、とても重要なんだけどね。

     その一連の会話が終わってからのシーンだよ。


     桜良が『また旅行しようよ。次は 夏かな。』

     春樹 『夏か、いいかも。』

     桜良 『あれ? やけに素直じゃん。·····さては、

         楽しかったな?』

     春樹 『うん、楽しかったよ。』

     その言葉を聞いた桜良は一瞬、真顔になって、

     その後、とても嬉しそうに笑って、春樹の脇腹を

     突っついたんだ。 

     すると、春樹は『僕の膵臓を奪おうとでも?』 

     それに対し、桜良は笑顔で

        『君が珍しく素直だから。····うん、私も

         楽しかったよ。お礼に、私が死んだら、

         私の膵臓ーー君が食べてもいいよ。』

        『人に食べてもらうとね、魂がその人の

         中で生き続けるんだって。』

     そう言ってから、桜良は川のほとりにたたずんで、

     言ったんだ。

        『私、生きたい。····大切な人たちの中で。』

     春樹は振り返り、手すりにもたれながら、桜良と

     一緒に川の方を眺めていた。

     その時、水面が柔らかな午後の陽射しを照り返す。

     きらめく光の中に立つ二人の後ろ姿‥…。

     実は、このシーンなんだ、私が注目しているのは。

     その時、水面に反射した太陽のまぶしい光が桜良と

     春樹の二人を包み込んで、二人の輪郭がぼやけて

     いくんだ。あたかも、二人が光の中で一つに溶け

     合っているかのように見えるんだ。

     これは、桜良と春樹 それぞれの内にある命の光を

     覆っていたヴェールが消え去った時に、

     その命の光が輝きを増していって、

     一つの光になっていくことを暗示しているように、

     私には思えるんだ


     二人が取り繕うことをせずに、素直に互いの真実を

     見つめていく、語っていく、認めていく、受け入れて

     いく時に、二人の“心”が通い合い、さらに互いの内に

     ある “命の光”が輝きを増して、拡大していって、

     その二つの光が通じ合い、溶け合って、やがて

     一つになっていく‥‥。


     そのような関係というのは、もはや、単なる友だち”

     とも言えず、親友とも、“彼氏や彼女”とも言えない

     んだ。

     また、“仲良し”とも呼べないような 特殊な関係なんだ。


     桜良と春樹は、ある意味、“真実”を追究していく中で、

     やがて、心を通わせることになり、相手の心の内の

     ずーっと奥にある目に見えない大切な宝”に気づき

     始めていったと思うんだ。  

     心と心の触れ合いから、さらに、命と命の触れ合いへ

     と移行していく‥…“命という光”が本来の明るさを

     取り戻して、キラキラと宝石のように輝いている状態


                     この目に見えない大切な宝”というのは、人が

     もともと内に秘めているものであるんだけれど、

     通常はヴェールに包まれているために隠れている

     ようにみえる。そして、人の内に隠れていている

     その宝は、『命の光から発せられている真実の

     思い』にも密接に関係している思うんだ


     これは、聖書的に言うと『アガペーと呼ばれる愛

     のことではないか·····と、私はみているんだ。

     人の内に実際に存在しているものの、普段は

     ヴェール包まれ、覆われいて、さらにまた 肉眼

     でも見ることができないため、これに気づくことは

     容易なことではないんだ。

     でも、絶対 不可能なことでもないんだ。


     これに気づくことが、まさに、“究極の宝探し”と

     言えるのかも知れないね。

     しかも、その究極の宝探し”というのは、いわば、 

     “究極の自分探しの旅”のようでもあり、同時に

     それは “究極の神を探す旅でもあると思うんだ。


      “真実の自分”、“自分のずーっと奥に隠れて存在して

     いて、しかも最も神聖な核心部分”(これをイエスは

     山上の説教の中であなたがたの内なる光』と

     呼んでいると思うんだ)に気づくと言うことは、

      “真実の神”に気づくということでもあるんだ。

      “真実の自分”を知らずして、真実の神”を知ることは

      できないんだ。

      逆に言えば、真実の神”を知った人というのは、

        “真実の自分”を知った人でもあるんだ。


     この世に生きている間に、このような“究極の宝探し

     をして、しかも、その“”を見つけることが出来た

     人は、とても、とても幸せなことだと思うよ。」


ハジメ:   「ところで、春樹は桜良とまだ心が通っていなかった

        頃に、『残り少ない命をこんなことに使っていいの❔』

     と春樹が、図書委員になった桜良に言ってたよね。」


Osann: 「そう。桜良に『じゃ、何に使うのよ』と聞かれた時に、

     春樹は、『あるじゃん。初恋の人に会いに行くとか、

     海外でヒッチハイクをして最後の場所を決めるとか。』·

     と答えたよね。

     でも、この春樹の答えは、ピントがだいぶズレてた

     ように思えるんだ


     つまり、春樹のその答えというのは、“過去”の淡い

     思い出の中や“外側”の世界に、『幸福の青い鳥(=)』を

     探し、見つけようとするような提案だったわけなんだ。


     でも、それは徒労に終わるというか、失敗に終わるん

     じゃないかって、私は思うんだ。


     “過去のこと”にしがみついたりしても、また、“外側の

     世界”をいくら探し回ってみたりしたところで、人は

     人生のすべてをかけてまでも探す価値のある真の宝”に

     出会うことはないのでは······。


     ところで、ジブリの『いつも何度でも』という映画の

     主題歌を知ってるよね。

     この主題歌の最終的な結論というのが、

         “海の彼方には もう探さない

           輝くものは いつもここに

           わたしのなかに 見つけられたから

     ということなんだ。


     ここに、“重要な真理”が語られていると、私は

     思っているんだ。

     つまり、人が探すべき宝(=大切だけれど、目に

     見えない、輝いている)というのは、どんな人の

     中にも埋もれて、隠れているということ。

     その宝物が厚いヴェールで覆われているため、

     ただ、それに気づけないままでいるだけ。


     イエスは言っているんだ、『天国(=神の国)は、

     畑に隠してある宝のようなものである』と。


     さらに、『神の国は、見られるかたちで来るもの

     ではない。また“見よ、ここにある”  “あそこにある”

     などとも言えない。神の国は、実にあなたがたの

     ただ中にあるのだ』  (ルカによる福音書17章20節

     ~21節) とも。


     イエスはまた山上の説教の中で、地上にではなく、

     天に宝を蓄えなさいとも語っているんだ。

     なぜなら、あなたの宝のある所には、心もあるから

     だと。(マタイによる福音書6章19節~21節を参照)


                    これらイエスの言葉を考え合わせると、人の

     ただ中、つまり、心の奥の方に朽ちない宝が隠れて

     いるとするならば、そこに心の目を向け、見つめて

     いくことが重要になってくるんだけど·······。


     ところが、ここに1つ 解くべき課題があるんだ。

     それが何だか わかる?


ハジメ: 「隠れていて、しかも、それが目には見えないもの

     だから、どうやって見たらいいのかがわからない

     よね。」


Osann :   「確かにそうだよね。見ても見えず、聞いても

     聞こえず·····というふうに、イエスも言っている

     んだ。これは、自分の内にある目に見えない宝を

     探す場合も、また、神の奥義を知ることにおいても

     同じことが言えるんだ。」


ハジメ: 「それで、聖書には何かそのヒントは書いてあるの?」


Osann :  「もちろん、聖書の中にヒントは隠されている。

     たとえば、詩篇36篇7節~9節には、

    『神よ、あなたのいつくしみはいかに尊いことで

     しょう。人の子らはあなたの翼のかげに避け所を得、

     あなたの家の豊かなのによって飽き足りる。

     あなたはその楽しみの川の水を彼らに飲ませられる。

     いのちの泉はあなたのもとにあり、

     われらはあなたの光によって光を見る。』

     と、書いてあるんだ。

     

     神は光でもあり、霊でもあると聖書に書かれている

     んだ。神に創造された人間は、神のかたちに造られた

     とも言われているけど、もちろん、見た目(外見)では

     ないんだ。

     人間という存在は、霊と心と体から成り立っている

     とも聖書の中で、使徒パウロは言っている。

     さらに、イエスは山上の説教の中で、『あなたがたの

     内なる光』が暗くならないようにしなさいと語って

     いるんだ。人の霊という部分に この『内なる光』が

     存在しているのではないか、さらに 内なる光』は

     神に起源を持つものであり、あるいは、常に神と直結

     しているものではないかと、私は考えているんだ。


     つまり、私が言いたいことは、私たちの内なる光

     を明るい状態を保っていれば、このによって、神と

     いう光を心の目で見ることが出来るのではないかと

     いうことなんだ。


     では、私たちの内なる光』を明るく保つには、

     どうしたらよいか❔ 

     このヒントも、実は、山上の説教の中で イエスは

                    述べているんだ。

   

     驚くかも知れないけど、実に、映画『君の膵臓を

     たべたい』の中にも、イエスが言っていることと

     似たようなヒントが隠されているんだよ。


     だから、聖書の教えとこのキミスイの映画を

     重ね合わせながら、探っていくと、もっと

     わかりやすいんじゃないかな。」


ハジメ:  「ふ~ん、そうなんだ。興味が尽きないね。」

          

▦▦▦ 二人の興味深い会話は、⑦“出会う”へと続いていく(お楽しみに)▦▦▦

 

   2018年10月28日~11月2日

 

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