メガリス

私の文章の模倣転用は(もしそんな価値があるなら)御自由に。
私の写真についての“撮影者としての権利”は放棄します。

龍馬殺害実行者は京都見廻組(きょうとみまわりぐみ) 松浦玲『坂本龍馬』

2010年03月01日 07時48分00秒 | 幕末維新

 坂本龍馬に関する最も手頃な入門書は、現在のところ、内容・分量・価格などを総合すると、幕末・明治期の政治・政治思想の研究家として著名な松浦玲氏による『坂本龍馬』(岩波新書 平成20年)であろうと思う。

 未だに「幕末最大のミステリー」などと時代遅れなことを言う人がいる龍馬殺害事件も、実行者は京都見廻組(きょうとみまわりぐみ)であるなど殆ど解明されており、それらの重要事項が簡明にまとめられていて分かりやすい。(簡明すぎて、幕末の政局において八面六臂の大活躍をする“幕末の風雲児 坂本龍馬”のイメージにとりつかれたままの人にとっては、却って理解しづらいかもしれない。)

 以下、同書より引用する。

--------------------引用開始 

犯人は見廻組

 しかし実行犯は実は見廻組(みまわりぐみ)だった。見廻組は元治元年に新設新任の京都見廻役の配下である。見廻役は大番頭(おおばんがしら)に 次ぐ格式で譜代大名もしくは上級の旗本が任命される。二人制で、各二百人の見廻組を率いて京都に詰めると決められた。見廻組には幕府直臣団中の腕の立つも のを集める方針だったが、なかなか揃わず見廻役は苦心した。坂本と中岡を斬ったときには最初の見廻役は既に辞任し、飯田藩主堀石見守義親(ちかのり)と旗本の小笠原弥三郎が在任中だった。

 坂本龍馬を捕縛せよ、手に余れば斬ってもよいとの命令を受けたのは見廻組の与頭(くみがしら)佐々木唯三郎である。佐々木は部下六人(あるいは七人)を引き連れて近江屋に赴き坂本を斬り、同席していた中岡をも斬った。襲撃メンバーのほとんどは鳥羽・伏見に始まる戊辰戦争で死んだが、箱館で降伏した今井信郎(のぶお)が兵部省および刑部省の取調べで自供し、ようやく真相が明らかとなった。世間一般が見廻組のことを知るのは今井の談話が本人には不本意な形で記事になった明治後半以降だけれども、取調べは明治三年(一八七〇)二月である。今井は自分が知る見廻役は小笠原弥八郎だと供述した。

  刑部省は静岡藩を通して小笠原を問いただした。徳川家は駿府(静岡)七十万石に削減されたので、独自の道を歩んだ旗本も少なくなかったのだが、行きどころのないものは無禄や禄の大幅削減を承知して静岡に移った。小笠原もそうである。隠居して忍斎と称していた小笠原は、静岡県の取調べに対し、その件に自分は無関係だと答えた。慶応三年(一八六七)の九月から病気で、十二月には願い通りに退役となる。ただし龍馬暗殺の十一月は退役前だから、配下の行為を知らなかったのは無念で恐れ入ると、その点だけを詫びた。静岡藩はその答弁書を刑部省に送り、小笠原の弁明は信用できると保証した。

 今井の自供は見廻り役が小笠原だったというだけで、与頭の佐々木唯三郎に命令したのが本当は誰か、老中か京都守護職か、そこまでは分からないというものだった。小笠原への追及は止まった。小笠原の回答と静岡藩の保証は四月のことである。

(中略)

 佐々木唯三郎に命令したのが誰かは、ついに解明されなかった。明治三年(一八七〇)二月に自供した今井信郎は同年九月に「禁固」の刑で静岡藩に引渡された。捕縛目的で同行したけれども討果たすときに直接手を下したのではないとの供述が認められての軽い処罰だった。静岡では海舟を何度も訪問しており、厳重に禁固されていたわけではない。明治五年一月には特赦となった。一九一八年(大正七)、七十九歳まで生きた今井は、晩年になって命令したのは見廻役の小笠原弥八郎だとの意見を披露した。一九〇九年(明治四十二)には木国史談会を主催する内村義城(ぎじょう)の質問に答えた手紙がある(市居浩一「今井信郎の書簡」『幕末史研究』二十三号、一九八三年)。明治三年の供述では、意識してこれを言わなかったのである。

引用終了--------------------

 

>捕縛目的で同行したけれども討果たすときに直接手を下したのではないとの供述が認められての軽い処罰だった。 

 龍馬殺害に関する所謂「薩摩藩黒幕説」の“証拠”の一つとして「今井信郎(いまい のぶお)は本来は死刑だったが西郷隆盛の助命によって減刑された」というウソ話を聞いたことがある。真相はこれである。
 そもそも、仮に薩摩や西郷が「黒幕」だったら、
「真相」を知り且つ将来それをバラす可能性のある今井をわざわざ助けるわけがない。臭いものには蓋。あちこちに手を回して絶対に死刑にするだろう。

今井の自供は見廻り役が小笠原だったというだけで、与頭の佐々木唯三郎に命令したのが本当は誰か、老中か京都守護職か、そこまでは分からないというものだった。

 京都見廻組に龍馬捕縛・殺害の「御指図(おさしず)」を出したのは、見廻組の上司である京都守護職の会津藩主松平容保(まつだいら かたもり)か、正規の指揮系統からは外れるが京都所司代の任にあった容保実弟の桑名藩主松平定敬(まつだいら さだあき)である、というのが最有力説であり、定説となりつつある。

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

龍馬暗殺 (近世史) [ 桐野 作人 ]
価格:1980円(税込、送料無料) (2020/1/1時点)







最新の画像もっと見る