>「暗殺の黒幕は見廻組の上部団体だった京都守護職の松平容保が有力ですが、
これは、その通り。
京都見廻組(きょうとみまわりぐみ)のリーダー佐々木只三郎(ささき たださぶろう)の兄である会津藩士手代木直右衛門(てしろぎ すぐえもん)が、亡くなる少し前に、「御指図(おさしづ)」を受けた旨を示唆している。〔正式な命令系統からは外れるが、「御指図」を出したのは容保の実弟であり京都所司代の任にあった桑名藩主松平定敬(まつだいら さだあき)である可能性もあるらしい。〕
松平容保(まつだいら かたもり)は京都守護職の任務である警察活動の一つとして、龍馬の捕縛または殺害を指示した。幕府側から見れば龍馬は徳川の天下と京都の治安を乱す不逞の輩であり、かつ「龍馬寺田屋事件」で伏見奉行所の捕り方2名を殺害した殺人犯でもある。龍馬殺害は「暗殺」ではないし、容保は「黒幕」などでもない。
>徳川慶喜を新政府の盟主にしようとした龍馬の行為は許されないと考えた薩摩藩の陰謀説もあります」
”源義経がジンギスカンになったという説があります”というのと同じ程度の話。他人と違う面白い話が出来ればよい小説家や自称研究家等が主張しているだけで、近代史を専門とする歴史学者で薩摩藩陰謀説を唱える者はほぼ皆無である。俗説の一つに過ぎない。
殺害された頃の龍馬は2度目の脱藩を許され正式には山内家家臣の身分だったが、実質的には浪人と変わらない。何の実力も後ろ盾も無い龍馬の言動は当時の政局に殆ど影響力を持っていない。
薩摩の西郷・小松帯刀・大久保らも龍馬が何をし何を言っているかにあまり関心が無い。当時西郷らは大政奉還直後に朝廷より命じられた島津久光(しまづ ひさみつ)の上京〔久光の病の為、実際に卒兵上京したのは藩主茂久(もちひさ)〕の準備にてんてこ舞いであり、龍馬などに関わりあっている暇が無い。
史実の坂本龍馬とは異なる”架空の幕末スーパーアイドル坂本竜馬”が大活躍する司馬遼太郎の空想歴史小説『竜馬がゆく』や其の焼き直しのテレビ・映画・萬画などの影響で、龍馬が浪人でありながら幕末の政局に大きな影響力を持っていたという事実誤認が広まり、其れが元となってこのような妙な論が出てくるわけだ。(”暗殺者のターゲットは中岡慎太郎だったという「巻き添え説」”は、龍馬は王政復古運動の中ではほぼ無名、要するに小物だったという事実を踏まえた説だ。)
龍馬が名を知られるようになったのは、明治時代になってから高知『土陽新聞』の記者だった坂崎紫蘭(さかざき しらん)という人物が、龍馬を自由民権運動の先駆者と位置付け、最初の龍馬伝記小説『汗血千里駒(かんけつせんりのこま)』で大々的に売り出した後のことだ。”神戸の勝海舟の海軍塾で塾長だった”とか”新政府人事案に龍馬の名前は入っていなかった”とかいうウソ話を広めたのも坂崎紫瀾である。(NHK『龍馬伝』で、”坂本龍馬の話を聞かせてください”と言って岩崎弥太郎のもとに頻繁に押しかけていたアノ人。)
この記事で取り上げられている現在京都伏見に存在する「寺田屋」は、龍馬が伏見奉行所の捕り方に襲われた「寺田屋」とは別の建物である。元々の寺田屋は鳥羽伏見の戦いで焼失した。明治になってから、道路側から見ると左隣に再建されたものである。
経営している人物も元々の寺田家とは関係が無い。
>幕末の英雄だけに、作家たちもそれぞれに思いを巡らせ、いろいろな暗殺説が創り上げられたのかもしれない。
その通りです。特に「作家たち」と明言している所が良いです、山田淳史記者さん。
以下、iZaより引用。
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死に向かう志士、寺田屋と近江屋 龍馬ゆかりの地を行く
2010/01/30 13:22更新
【龍馬ゆかりの地を行く】
坂本龍馬ゆかりの宿として有名な寺田屋(京都市伏見区)は、焼板に格子窓をしつらえた伝統的な日本家屋のたたずまいだ。1階には、当時の女将だったお登勢の部屋、2階には龍馬が愛用していたとされる龍馬の部屋がいまも残る。
龍馬はお登勢を「おかあ」と親しみ、後に妻となるお龍を養女にしてもらうなど、何かと世話になった。「お登勢は、志士たちの面倒見がよかったとされている し、龍馬も『お国みたい(高知と同じだ)』と手紙に記しており、とても寺田屋が気に入っていたのでしょう」と、霊山歴史館学芸課長の木村幸比古さんはいう。
薩長同盟締結後の慶應2(1866)年1月23日夜、龍馬は長府藩士の三吉慎蔵と寺田屋の2階にいた。1階ではお龍が入浴中だった。そのとき、幕吏50人が寺田屋を取り囲んだ。司馬遼太郎「竜馬がゆく」では次のように記されている。
〈(捕吏。-)と思ったとたん、おりょうはそのままの姿で湯殿をとびだした。自分が裸でいる、などは考えもしなかった。裏階段から夢中で二階へあがり、奥の一室にとびこむや、「坂本様、三吉様、捕り方でございます」と、小さく、しかし鋭く叫んだ。竜馬はその言葉よりも、むしろおりょうの裸に驚いた。昂奮しているせいか、目にまばゆいほどに、桃色に息づいている。〉
寺田屋にはいまも裏階段が残る。お龍は愛する男のため必死になって駆け上ったに違いない。龍馬は、高杉晋作からもらったという短銃で幕吏数人を射殺した。自身も負傷はしたが、お龍のおかげでなんとか命拾いした。
× ×
身に迫る危険を幾度も回避してきた龍馬だが、慶應3(1867)年11月15日、醤油(しょうゆ)商の近江屋で暗殺された。現在、河原町通り沿いの近江屋 跡地はコンビニエンスストアなどが入るビルになっており、ビル前には龍馬と中岡慎太郎が遭難した地であることを示す碑がひっそりと立っている。
龍馬の霊は京都霊山護國神社(同市東山区)に祀られ、墓前では手を合わせるファンの姿が見受けられる。
33歳で非業の死を遂げた龍馬。暗殺の背景については、これまで数々の検証が試みられてきたが、真相はいまだに解き明かされていない。
新選組隊士の鞘が近江屋に残されていたため、当初は新選組の犯行とみられていたが、明治時代、新選組隊士の証言から京都見廻組だったことが判明した。
その後、見廻組隊士だった今井信郎が、龍馬を襲撃した一人だったことを告白した。隊士8人で近江屋を襲撃したとみられ、京都市東山区の霊山歴史館には現在、龍馬を切ったとされる桂早之助の刀が展示されている。
× ×
「暗殺の黒幕は見廻組の上部団体だった京都守護職の松平容保が有力ですが、徳川慶喜を新政府の盟主にしようとした龍馬の行為は許されないと考えた薩摩藩の陰謀説もあります」
幕末史に詳しい霊山歴史館学芸員の木村武仁さんは、こう指摘する。
黒幕をめぐっては、大政奉還の功労を独占しようとした「後藤象二郎陰謀説」や、暗殺者のターゲットは中岡慎太郎だったという「巻き添え説」といったさまざまな説がある。
「一般的に暗殺に関する史料は少ないものですが、龍馬暗殺の史料は40点にのぼって多く、記述もそれぞれ少しずつ違っているので混乱するほど。龍馬暗殺だけで1冊の本ができるぐらい」と、木村さんはいう。幕末の英雄だけに、作家たちもそれぞれに思いを巡らせ、いろいろな暗殺説が創り上げられたのかもしれない。
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「龍馬とお龍」 龍馬とお龍の出会いの時期は諸説ある。龍馬は姉の乙女にあてた手紙の中で、「私しニにており候」(木村幸比古著『日本を今一度せんたくい たし申候』より)と、お龍が自分と同じ名前であることを紹介している。また、父・将作が病死して家が没落した後、悪者にだまされて女郎に売られた妹を、お龍が取り戻したことも手紙に記されており、姉にお龍を認めてもらおうとした思いが伝わってくる。(山田淳史)
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