あっちこっち歩いて楽しむおタケさん

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どこか遠くへ~~ 女城主の里・岩村城址

2012-02-20 22:23:21 | 今日はいずこへ?
----城下町散策編----続き。。。。
 
さて、いよいよ女城主が居た<岩村城址>城郭へと参りましょう
 
これから参ります岩村城は
日本三大山城の一つとされている美濃の山城であります
あとの二つは、大和の高取城、備中の松山城をいいます
いずれも天険を利用した山城で戦国武将の知恵の深さを思わせます
 
岩村城のあらまし
岩村町 歴史シリーズ(その一)より抜粋
 
岩村町は木曽山脈のふところに抱かれた高原盆地にある
朝霧、夕霧に忽然として姿をひそめる岩村城は、町の東方にあり、神秘的な風格を備えて
別名を霧ケ城と呼ばれる
 
天然の峻険な地形を100%利用した要害堅固な山城で、海抜七二一メートルに位置し
全国の山城の中でももっとも高地にあるのが岩村城である
岩村町(城下町)を一望にし、現在も栄華と悲劇を秘めた石垣が残り、広大な岩村城の規模、形状を
偲ぶことができ、乱世戦国武将の知恵の深さをのぞくことができる
 
岩村城の創築は鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の重臣、加藤景廉が文治元年(一一八五)に遠山庄
地頭に補せられたのにはじまる
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岩村城は加藤景廉創築後、森、松平氏等によって修築拡張され、城山の山頂を削平して
本丸、二の丸、出丸、帯曲輪、東曲輪、八幡曲輪等が設けられ、丸と曲輪は石塁や自然の断崖を
もって区画され、要所に櫓、塀、城門が構えられた
 
実に文治元年(一一八五)から慶応四年(一八六八)まで六八三年間にわたって連綿として続いた
中世から近世に及ぶ武門政治の行われた全期にわたって、城が厳存したことは、日本の城史にも
例を見ず、岩村城は名城であると同時に、その長い歴史にも名城たる理由がある
 
 
たくさんの勉強をさせていただきましたが、ここはやはり
何故、女城主が居たかに興味がありますね
 
岩村城史のうち、もっとも華々しかったのは戦国時代で
天正元年(一五七三)武田信玄の臣秋山信友が遠山氏を滅ぼして岩村城を奪ってから
慶長五年豊臣方の田丸直昌が隠遁して、松平氏に移るまでの歴史からいうと
僅か二十八年間であったが、激しい攻防戦、悲劇、惨劇が展開したり
事実上の女城主も登場してロマンはつきない
 
ここでやっと女城主の言葉が出てきましたね
 
二十八年間に城主が激しく交代し、七歴代の城主のうち五人が戦死、刑死、暗殺死という非業の最期をとげ
一人は流刑され、僅かに一人(森忠政)のみが六十六才の天命を完うしている
 
岩村城をめぐって、なぜかくも激しい歴史の流れがあったかを考えると
岩村城は東濃山岳地域の山城であったが、地理上から見ると
東は甲信の武田信玄、西を濃尾の織田信長、南は三遠の徳川家康と
いずれも天下を征服しようと野望に燃える英雄がおり、岩村城はその中間にある前線地
力と力の接触点であったからで、信長は叔母を城主に嫁がせ、さらに五男を養子として送って
味方にしようと懸命であった事実を見てもわかる
 
 
ここです、ここ、信長の叔母を城主に!!
 
遠山景任(かげとう)の妻として岩村城に嫁し夫亡き後女城主として采配を振るったのです
しかし三年の間に武田信玄の臣秋山信友に攻められその力に屈したのです
かなりの美貌の方だったのでしょうか、戦国の世の成り行き(戦略)か秋山に見初められ
夫婦として岩村城に留まります
そして養子であった信長の五男は甲府へ人質として送られています
そのことを知った信長は激怒し信忠に城を攻めさせて落城し、逆磔として長良川の河原で処刑されます
 
悲哀ですね~~!!
 
ちょっとしんみりしながら城門跡を見て石畳の道を本丸跡へと訪ねて行きましょう
 
バスが停まっている駐車場は歴史資料館や民族資料館などとともに昔の下の屋敷跡
城主や上級官僚たちが徳川の世になって山頂の本丸での生活よりこちらが住みやすかった為に
皆、ここに下ってきて不便な山頂には下級武士たちが住まいしたそうです
 
明治になって版籍を返上したため現存する建物はなく
20年ほど前まで小学校正門として残っていた建物が駐車場脇に移築されて残されていました
 
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それでは女城主に会えるか霧ケ城へと参りましょう
 
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お城への案内は町役場の観光課の方のようです
ピンチヒッターの」ようです
 
実践女子学校の創始者・下田歌子氏の生誕の地や勉学所もありました
 
 
どうして城内への道はカクカクと登って行くのか
 
うっそうとした雑木林の石畳を右に左にと折れながら登城坂を高度を上げて行きます
右に狸の道、今は通行止めです
 
表(左)から登って右の所へ降りて来れたら頑強な石垣の山城の裏側が覗けたのに
 
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ちょっとした山登り気分
 
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すんなりと直線では入城できません
 
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ようやく山城らしい石垣が見えてきました
 
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本丸まであと二百メートル
 
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岩村城の別名、霧ケ城の謂れにもなっているという「霧ケ井」
岩村城内にはあちこちに井戸があり急峻な山城でも水には不自由しなかったようです
水不足になると井戸に蛇骨を投入れ、霧が発生して水は満面にたたえられ枯れることはなかったそうです
蛇骨とは龍の骨だったとか
 
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石垣の曲線を帯びた美しさにみとれます
 
 
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本丸の六段の石垣
江戸時代後期に築かれた技法のようです
 
 
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礎石には大きな自然石が
 
 
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見上げると天空へ突き上げています
 
 
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                           本丸跡へと行列での参入です
 
 
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       長局埋門より城下(城下町とは反対方向)
           晴れていればもう一つ向こうに高く恵那山が見えるはず
 
 
 
 
 
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                     二の丸
 
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                        二の丸より駆け下る曲輪
 
 
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                     出丸跡には 管理棟(蘭丸)
 
                       少し雪が残っていました
 
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                             城下町を一望します
 
 
 
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どんよりと曇っていましたが穏やかな空気が流れていました
 
そこはかとない悲劇の物語を知り哀れを感じながらの帰路となりました
 
 
                                                ----完----