鼻かぜをひいてしまい、のども痛いので、久々の風邪だわ・・と思いながら、
皆様もお気を付けください。
やっと、映画「戦場のメリークリスマス」の原作となった「影の獄にて」が手に入りました。
L・ヴァン・デル・ポスト著
「影さす牢格子」
「種子と蒔く者」
「剣と人形」
の三部から成り立っています。
映画では第一部「影さす牢格子」と第二部「種子と蒔く者」が合わさってできています。
「種子と蒔く者」の後半に出てくるヨノイ大尉の登場のあたりからが映画の舞台になっています。
映画では、ヨノイ大尉は、「2,26事件」の際に、満州へ派遣され、決起できなかった皇道派の人物として、大島渚監督の脚本によって肉付けされています。
仲間は全員処刑されたのに、自分だけが生き残ってしまった、死に遅れた、
いつか自分にも名誉ある死が訪れることを切望している人物であること。
” To be; or not to be ?”
この言葉は。映画の中で、セリアズをさばく法廷のシーンで、ヨノイ大尉が
セリアズに、
ハムレットの有名なセリフを引用して語り掛ける言葉です。
有名な訳は「生きるべきか死ぬべきか?」
ですが、直訳すれば「このままであるべきか、あらざるべきか」
このまま耐え忍ぶか、いっそ戦って決着をつけるべきか(そして自身も死ぬ)
と、悩む台詞。
死に遅れた恥と、ジャワに配属された任務を全うしなければという責任感の板挟みになっているヨノイ大尉は、この言葉に強く共感したのかもしれません。
内田裕也さん演じる監禁所長から「高名な精神家のヨノイ大尉殿」と言われるほどですから、非常に高度な教育を受け優れた人物であると、
大島渚監督の脚本にはなっています。
しかし、原作はこのようなことは全く記されず、捕虜から見た「ヨノイという悪党」と記され、
しかし、「われわれの出会った中では、最も貴公子的な日本人・・・
ヨノイの論法では、軍人が生きて捕虜になるというのは、名誉を残らず捨てるということになる」
となります。
原作では「ヨノイ」とだけで、大尉とは一度も出てきません。
映画では、捕虜と言えども、ヒックスリー捕虜長には彼は大佐であることから、
捕虜と言えども、自分よりは位が高い人物には、対面するときには礼をしています。
「捕虜全員に、本当は満開の桜の下に招きたい。」と言ったりもして、人物としてもできています。
それが、映画後半になるにつれて、だんだんと狂ってきます。
それは中間管理職であるが故に、軍上層部からの圧力によって追い詰められた感と、
セリアズが自分が思っていた人物とは、検討違いであったと
思い込んでしまったことによる失望感からくるものとその両方とで狂っていった、と映画では感じ取れました。
しかし原作では、捕虜側から見たヨノイは、常に高圧的で、いつ、何時こちらの身に降りかかってくるか、恐れる存在。
軍の上層部からの圧力もあって、そのようになるということも記されていますが。
まだ、一部だけしか読んでいないのですが、
この原作を、大島監督が映画にしようと思ったのは、後半に少ししか出てこないヨノイ大尉の存在を、大島監督が肉づけしてクローズアップして描こうとしたのは事実であると思いました。
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