I think. Therefore I am

自由気ままなな文学活動
活用なき学問は無学に等し

アドルフ・ヒトラーの実存 魂の殺人

2008-01-22 | キャンパスライフ
『アドルフ・ヒットラーの実存』について僕が興味を持ち始めたのは幼稚園の時に母親に連れられ札幌のデパートで『テレジン収容所』に収容されていたユダヤ人の子供が描いた絵画展を鑑賞して「ヒトラーは何故ユダヤ人の大量虐殺を行ったのか」と幼心に知的好奇心が湧き起こったのが始まりであり、これまでレポートも幾度か書いてきた。

中学三年のときに社会科の授業で『NHK『映像の世紀』を見て各々が気になったことをレポートにまとめる」という課題が出たときに書いたことだ。
この時は『我が闘争』などを参考文献にしてヒトラーがなぜあのような虐殺を行ったのかという論点で提出してみたものの、返却された時の評価・コメントは散々なもので
「参考文献を挙げてレポートを書くことは意義が有ることだが、『映像の世紀』を見た感想を書けば良いのであり評価に該当しない」と。

友人たちは参考文献も無いどころか、インターネットの写しでレポートを提出しているにも関わらず自分より良い評価を貰っているので、忸怩たる思いが有り今でも忘れない。

さて今日、ヒトラーがユダヤ人大量虐殺を行った要因として知られているのは「ヒトラーの血にユダヤ人の血が混じっている」ということだ。

しかし、A・ミラーの『魂の殺人 親は子どもに何をしたか』によると、ヒトラーは父親のアイロス・ヒトラーから幼年期に折檻を受けて、それを大人になってユダヤ人に転嫁したということである。

ジョン・トーランドの記述によれば「当時のオーストリアで厳しい体罰を子どもに与える家庭は少なくなかった。
そうすることが子どもの魂の成長にとって役立つと考えられていたのである。
息子が玩具の船を作るのに夢中になって3日間学校をサボった時など、そもそもそれを作るように勧めたのは父親であったにも関わらず、父親は子どもに鞭をくらわし、息子が意識を失って倒れるまで殴り続けたという。

いくつかの話によればアドルフも鞭でしつけられたということである。
子どもだったヒトラーに自分の父親がどう見えていたかは、彼が無意識に父のやり方を見習い世界史に自分から働きかける過程に見て取れる。

ギクシャクした、画一的な、少々滑稽な独裁者、チャップリンが自分の映画で演じ、ヒトラーの敵も彼をそういう存在であると考えていた姿は、批判的な息子の目に映じた父アイロスの姿だったのです。
偉大な、敬愛され、賞賛されるドイツ国民の総統、これもアイロスのもう一つの姿でした。

父親の2つの局面は幼い心の奥深く植えつけられ後のアドルフのふるまいにはっきりと出る。
「ハイル・ヒトラー」という挨拶や集会の群集の熱狂ぶり、ヒトラーには芸術家としての天分が有ったのに違いないが、この天分は彼を凄まじい勢いで押し流し、彼をたった1つの役割を終生演じ続けさせたのでした。

その役割がつまり、人生最初の時期に出会い、無意識に、心の奥深く刻みつけられた独裁者である父だったのです。
自分の父親から名前も読んでもらえず、犬のように指笛で呼びつけられる子どもは家庭の中で何の権利も認められぬ名なしの存在だったわけで、これはまさに第三帝国内の「ユダヤ人」の身分と同じです

つまり無意識の反復強迫で、「自分の怒りを自分の一部として理解し認めることの出来る人が暴力的になることはないのです。
周囲の人々が子どもの感情に対する理解を全く欠いている場合、幼い子どもは憤りの感情をそれと知ることもできず、ましてや自分の内部にそのような感情があることなど決して意識することも出来ません。
こうして自分の怒りを理解できない人間が出来上がります。そういう人が自己内部の憤りを認識出来ないときはじめて他人を殴りたいという衝動に駆られるのです。

例えば両親がはじめから自分の子どもたちが、善良で、物分りがよく、利口で、おとなしく、物静かで、おもいやりがあり、利己的ではなく、我慢強く、素直で、わがままでなく、頑固でなく、反抗的でなくと願っていたのでした。

両親はこれらの徳性を子どもに植え付けるためにあらゆる手段を講じ、やむをえない場合には、この善き教育目的のために暴力を用いることもためらわなかったのです。
この人たちの子どもたちが青年になって暴力行為に走るようになったとしたら、それは子どもたちの生きられなかった子どもとしての側面と同時に、押し殺され、抑圧され続け、自身の子どもだけに見せた両親の隠された側面の表現でもあったのです。

例えばテロリストたちは、何の罪も無い婦人や子どもを人質に取り、それを偉大な目的のためには止むを得ない措置だと称することがありますが、かつて大人たちが子どもだった彼らに対してしたことのやり方とは何か違うところがあるでしょうか。
偉大な教育の完成のため、崇高な宗教的徳目のため、かつて大人は、生き生きとした小さな子どもを犠牲に供し、しかもその時、立派な正しいことをしているのだと信じたのではありませんか。
この若い人たちはかつて1度も自分の感情を信頼してもかまわないと言われたことが無かったために自らのイデオロギーのために抑圧する道を選ぶことになったのです。
これらの、かつて「より高い」道徳の犠牲に供せられた、知的な、そしてしばしば非常に個性の強い若い人たちは大人になって、昔とは別の、多くは反対のイデオロギーに身を捧げ、そのイデオロギーのためなら、最も深い心の内奥まで、子ども時代と同じく完全に捨てて省みなかったのでした。これがすなわち、無意識の反復強迫の持つ冷酷で悲劇的な規則性というものです。

綾小路きみまろの漫談でも
「社長が専務をいじめる、専務が部長をいじめる、部長が課長をいじめる、課長が平社員をいじめる、平社員は家に帰り奥さんをいじめる、奥さんは子どもを虐待する、子どもは飼い猫をいじめる、飼い猫はネズミをいじめる、ネズミは社長の背広をかじる」
これも反復強迫の持つ冷酷で悲劇的な規則性につながるものであろう。

実際にヒトラーは無意識の反復強迫によって、自分の家庭で受けた精神的外傷を全ドイツ国民に転嫁することに成功し、自分の経験した悪を「ユダヤ人そのもの」に転嫁させた。

ヨーロッパ国民にとって、ユダヤ人排斥以上に共通の関心事はほとんどありません。
遥か昔から為政者はこれをたいそう重宝な操作手段として使ってきましたし、それにこれは明らかに、人がどれほどかけ離れた利害関係にあってもそれをわからなくしてしまう手だったのです。
厳しい敵対関係にある諸集団がユダヤ人の危険性とか狡猾さということに関しては完全に意見の一致を見るという具合ですから、大人になったヒトラーはそれを知っていました。
一体この反ユダヤ主義はどうして滅びることなく続いているのでしょうか、ユダヤ人が憎まれるのは、別にユダヤ人が何をする、何者かであるからでもありません。ユダヤ人がすることだとかユダヤ人のありかたなどと言われているものはすべてユダヤ以外の民族ににもあることばかりです。
ユダヤ人が憎まれるのは、人間が許されえない憎しみを抱いており、その憎しみを何とかして正当化したいと切望しているからなのです。

ユダヤ排斥は二千年にわたり、国家・教会の最高権威として推進されたのだからユダヤ人を憎んでも何一つ恥ずかしいことはない、どれほど厳格な道徳方針で育っても、魂の最も自然な興奮でさえ恥ずべきことと感じるようになっている人でもユダヤ人なら憎める。早くに押し付けられた美徳の鎧の中で育った子どもは、大喜びで唯一許されたはけ口に飛びつき、自分の「反ユダヤ主義」(すなわち、憎むことに関する自分の権利)を「手に入れ」一生それを手放さない。

ヒトラーにとってもユダヤ人の中にかつての自分そのものである何も出来ない子どもを映し出し、それを、自分の父が自分にしたのと同じやり方で虐待することが大いに大事だったのです。
そして彼の父が決して満足せず、毎日改めて折檻を繰り返し、十一歳の時には息子を殆ど殴り殺すばかりであったのと同じように、アドルフも決して満足せず、六百万人のユダヤ人を死に至らしめた後に認めた遺言書でなお、残ったユダヤ人を撲滅せねばならないと書いたのでした。

ユダヤ人迫害によってヒトラーは幻想の中で自分の過去を「訂正できるように」なりました。それにより彼は次のことを克服した

1、父親への復讐~彼が半分ユダヤ人と疑われていたので

2、母親(母国ドイツ)の迫害者からの解放

3、道徳的な制限は少なく、より真の自己に近い姿で母の愛を獲得
(ヒトラーは絶叫するユダヤ憎悪者としてドイツ国民に愛されたのであり、彼の母が求めていた、お利口なカトリックの子どもとして愛されたのではない)

4、役割の交替~彼自身が独裁者となり、全てが彼に従い彼の足元にひれ伏すことになったのです。
かつてそれは父親の特権でした。彼は強制収容所を組織し、そこでは人間が、子どもだった自分と同じ扱いを受けるように定めます
(人間はどこかで経験しない限り、それほど物凄い恐ろしいことを思いついたりしないものです。ただし私たちは子ども時代の経験を軽く見すぎているといっておかねばなりません)

5、その他にもユダヤ人迫害は、彼自身の自己の中にある弱い子どもの追放を可能にしました。
この弱い子どもはユダヤ人の上にかぶせられてしまい、ヒトラー自身の過去苦しみに対する悲しみは否定されるが、それは母親には彼を助けて悲しみを生きさせることが1度も出来なかったからのなです。
自分自身の中の弱い子どもの迫害および、幼い頃の迫害者に対する無意識の復讐によって、ヒトラーは自分と同じ育ち方をした多くのドイツ人と出会ったのでした。


参考文献
・『魂の殺人 親は子どもに何をしたか』 
アリス・ミラー著 山下公子訳 1983年7月 新曜社

・『禁じられた知 精神分析と子どもの真実』 
アリス・ミラー著 山下公子訳 1985年7月 新曜社

・『フロイト 無意識の扉を開く』
ピエール・ババン著 小林修訳 1992年11月 創元社

・『自叙・精神分析』
ジークムント・フロイト著 生松敬三訳 1975年12月 みすず書房
 
・『わが闘争』
 アドルフ・ヒトラー著 平野一郎、将積茂訳 2001年10月 角川文庫



長くなりすぎたので、ここに載せたのはほんの1部分です
と言っても核となる部分はキッチリやったので文章としての形になっています

ネタバレすると、本来2000字のレポートでありながら、提出したものは1600字で7~8枚とすると1万字は超える訳です
冒頭の部分にもありますが、このレポートはそれだけ思い入れが深いものなのです

あとは教授さんの裁量によりけりだと思います


最新の画像もっと見る