釈尊の説いたクンダリニー瞑想
では、どのようにしてチャクラを動かすのであろうか?
それは、
と
こころ
意念
呼吸
筋肉の相乗作用である。
しかし、呼吸も筋肉も意念(潜在意識もふくめて)の支配下にあるのであるか
ら、究極的には、「意念」だということになる。
そんなことはわかりきったことで、それを承知の上でなぜ、意念・呼吸・筋肉
とならべたのか?
それは、意念を使う上で、どうしても、呼吸の力を借りなければならぬからで
ある。
それはどうしてか?
意念を「行らす」ためである。
意念は行らさなければならぬのである。
行息 息を行らすならば、行道 行らす道がなければならぬのである。
これが非常に重大なのである。
呼吸は、意念をめぐらすために、重大なはたらきをする。いや、それこそが最
も重大な、というべきであろう。
さきほど、わたくしは「安那般那念経」を、古来いわれているように、「数息観」のような呼吸法を説いたものではない、といったのは、ここのところである。
この経典の題名をよく見るとよい。「安那般那経」ではない。「安那般那念経」
なのである。「念」は「意念」をいっているのである。
古人は、このことに気がつかなかったのであろう。
では、どのようにしてチャクラを動かすのであろうか?
それは、
と
こころ
意念
呼吸
筋肉の相乗作用である。
しかし、呼吸も筋肉も意念(潜在意識もふくめて)の支配下にあるのであるか
ら、究極的には、「意念」だということになる。
そんなことはわかりきったことで、それを承知の上でなぜ、意念・呼吸・筋肉
とならべたのか?
それは、意念を使う上で、どうしても、呼吸の力を借りなければならぬからで
ある。
それはどうしてか?
意念を「行らす」ためである。
意念は行らさなければならぬのである。
行息 息を行らすならば、行道 行らす道がなければならぬのである。
これが非常に重大なのである。
呼吸は、意念をめぐらすために、重大なはたらきをする。いや、それこそが最
も重大な、というべきであろう。
さきほど、わたくしは「安那般那念経」を、古来いわれているように、「数息観」のような呼吸法を説いたものではない、といったのは、ここのところである。
この経典の題名をよく見るとよい。「安那般那経」ではない。「安那般那念経」
なのである。「念」は「意念」をいっているのである。
古人は、このことに気がつかなかったのであろう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます