朱禪-brog

自己観照や心象風景、読書の感想
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外祖母について

2020-02-08 06:57:08 | 雑記
以前綴った祖母は父方の祖母である。

母方の祖母を思い出したので、少し綴ってみよう。

数え年100歳で無に還った祖母は、済州島1番の美人と言われていたそうだ。

実際の写真を見たが、なるほどべっぴんさんである。目元は一重まぶただが瞳は大きく涼やかでキリッとしている。顔は面長、おでこに丸みがあり顔に立体感がある。

大正5年生まれで身長は160cm。
当時の栄養状態からすると、かなり大きい人だ。(ちなみに私の母は168である)

前にご紹介したが、虐殺からの日本移住であった。
これも私が韓国旅行から帰り、祖母に問いただすと渋々答えてくれた。

婦女子は強姦されてから、殺されるので
祖母の父が土地を売って日本に渡る費用を工面したと聞いた。

私は祖母にとって初孫である。
男子8人を産むも、ことごとく0歳児で病死し、9人目と10人目が私の母と伯母であった祖母にとって、待望の男子は文字通り溺愛の対象となった。

子供の頃は、赤い服ばかり選んでの着せ替え人形状態であった笑

私が物心ついたころ、祖母は「スタンド」を自営していた。スナックとサロンの中間。ざっくり言うと女の子のいる飲み屋である。

女の人が横についてお酌をするので
営業に関しては警察の管轄になる。

祖母は文盲で、話し言葉はできるが日本語の読み書きは100%出来ない。

それを単身所轄の警察署に行き、営業許可に関する書類を警察官に書かすのだから警察官もたまらんかったであろう。

祖母からすると、なんら不思議ではなく
読み書きはできないが、こうして体ごとやってきた。だからそちらで書いてくれの一点で通す。これは役所でも同じことだった。

私が中学生2年か3年位からは、私が代筆するようになった。

警察官が3ヶ月に1回位10名ほどで、店に来るのだが、飲めや騒げやとすこぶる下品な酒の飲み方をしていたなと今となってはよくわかる。

もちろん接待も兼ねてるので、飲み代はただである。しかし、この事は近所にいたヤクザを牽制する意味もあったのだろうと今となっては思う。
祖母の世渡りだったようだ。

お盆によく連れて行かれたのが、淀川であった。
済州島は周囲を海に囲まれているので、
祖母曰く、「海の神さん」にお参りする風習がある。

祖母にとっては神事であり、この時は厳粛な雰囲気が全身からみなぎる。

むしろを引き、お供えの果物、もやし、ぜんまいのナムル、牛肉と豚肉の串焼き、焼いた鯛、酒を盛り祈る。
線香を焚き、ロウソクを立てる。
祈りながら紙で作ったコヨリを燃やす。

祈りの終盤になると、供え物を少しずつちぎって川に撒く。
酒はグラスに小指を入れて、小指についた酒を親指で弾いて 撒く。
私は後ろで見守り、祖母の祈りが終わると韓国式の三拝を行う。

これに伴って、今はもうないが桜ノ宮の川沿いに廃品回収をする在日がいて、そこにも行った記憶がある。

ここでは「海の神さん」もしたが、
「クッ」と呼ばれる儀式を祖母が依頼して付き添ったことがある。

日本でいうとイタコに相当するだろうか。

韓国ではムーダンという。
自分や身内に不幸が重なると、先祖に降りてきてもらうのだ。
ムーダンは女性で銅鑼の音から儀式が始まり祈りだす。
祈りが高まるに連れて銅鑼と鐘の音が激しくなり、立ち上がり徐々に踊り出す。
祖母は必死に手を合わせて祈ってる。

踊りとともにムーダンは祈りを言葉に出しながら激しく跳ねるように踊る。

完全なトランス状態である。
全身汗みずくでひたすら踊り続ける。
子供の私は怖くてたまらぬ。
(今でも思い出すと怖い)

やがて長い踊りが終焉に近づくとムーダンの表情が一変し、男の顔に変わる。
踊りを終えたら、ムーダンがハングルで祖母に話しかける。声音も男に変わっていた。

祖母はボロボロ泣きながら、降りてきた先祖の言葉を受ける

私はひたすら怖くて早く逃げ出したかったが、膝が抜けて立てない。

話しが終わるとムーダンの表情が元に戻り、祖母の顔は憑き物が落ちたようになっていた。

ある頃から、行かなくなったが私が中学卒業あたりまでは、なにかあると行っていた。

食べ物に関しては、お米を食べていた記憶があまりない。

魚、肉(豚肉)、豚足、うどんそのもの(うどん屋の生のやつ)、あと魚も肉もサンチュで巻いて、野菜をよく食べた。

酒は一切やらず、タバコはやめてからこれも遠ざけ、毎朝4時に起きて家の外をほうきで掃き掃除してから、行きつけの喫茶店にモーニングを食べに行く。
96歳まで近くの公園をウォーキングしに行く。

晩年は車椅子になったが、自力歩行している時は背中は一切曲がってなかった。

立ってる姿が美しい人であった。

あの立ち姿は、身内ながら見事だった。

言葉が通じず、卸売市場の生ゴミからその日の糧を得て、のし上がり、ヤクザに対しても毅然とした態度をとり、いわれなのない偏見をものともせず、読み書きできずとも、数え100まで生きた。

最後の骨上げの際に、焼き場の職員と坊さんが、こんな見事な骨と歯は見たことないと言った。

ばぁちゃんは、自分の人生を生ききって
向こうへ還った。

俺がそっち行ったら、また会おな
ばぁちゃん。
その時は、ほっぺたにぶちゅ〜てチューしてもええで笑







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