朱禪-brog

自己観照や心象風景、読書の感想
を書いてます。たまに映画も。

花園ラグビー場について

2020-02-17 06:11:25 | ラグビー
昨年のワールドカップで日本代表は世界のベスト8という結果を残し、今シーズンのラグビー人気向上の下地となっている。

ラグビーは、ゲームセットではなく
ノーサイド。試合が終われば勝者も敗者もない
お互いの健闘を讃え、定期戦などでは
試合後アフターファンクションでの交流もある。

しかしである。
やはり勝たないといけない。
負けたら悔しいからだ
周りに対してではなく自分に対して。

先に綴ったが、私の通った高校は2期生の時に花園の土を踏んだ。
そして一つ上の6期生、二つ下の9期生と3回花園の舞台に立っている。

6期生時代は主力メンバーに私たちの世代(7期生)がメンバー入りしていたこともあり、春季大会から負けたのは私学の強豪校2校だけであった。

秋の本予選でも、クジ運さえよければ
全国大会出場は堅いと思われていた。

大阪はいまでも全国大会への枠は3枠あり、高校ラグビーにおける西高東低の一翼を担ってる激戦区である。

クジ運は?
春に負けた私学の強豪校枠であった。
順当に行けば、準決勝であたる枠であった。

負けるつもりで練習しないので、照明も満足にないグランドで毎日練習を積み重ねた。

15人制のラグビーであるが、フォワード(FW)8人、バックス(BK)7人の構成だ。

FWは前3人が第1列、中2人が第2列→
「前5人」とも言われる。
後3人が第3列で構成されている。
私はFW第2列であった。

準決勝前のチーム状態だが、今から思うと「前5人」以外は私学に負けていなかったと思う。

勝負は「前5人」とハッパをかけられたものだ。

そして、11月の準決勝。
憧れの花園ラグビー場である。

現在の芝生と違い、当時は冬枯れのする芝生で、枯れた芝生の舞台に挑んだ。

バックスタンドには平日で授業があるのに、同級生達が大挙して応援に来てくれていたのが驚いた。
先生方の粋な計らいだったのだろう。

笛がなりキックオフ。
最初のスクラム
相手は高校日本代表候補を有する重量FWだ。

対して、私達は平均体重70キロ台。
重さで言うと、20キロ近いハンデがある。

組む。いけると感じた。
重さは感じず、押されることもない。
が、こちらが押し込むまではいかず
五分の組み合いである。

そして、ボールをグランド外に蹴り出すとボールがタッチラインを越えたところから、タッチラインと直角に両チームが向かい合い、そこへボールを投げ入れて競り合う「ラインアウト」。

スクラムと並ぶFWのセットピースである。

私的には、ここで負けた。
当時178cmで、公立高の選手としては並より少し高い位であったが、バレーボールをやってた事もありボールの最高到達点でキャッチするのが得意であった。

事実、ここまでの予選での私のラインアウト獲得率は100に近かった。

彼らは研究していた、というか
老獪であった。

私にボールを集めることはわかっているので、徹底的にマークされた。
踏み切る瞬間にレフリーの目に触れないように私の肩を下に押す。
ジャージの袖を引っ張る。
わざと当たりにきて、バランスを崩す。

捕れない…
これでは、ラインアウトからのBK攻撃が仕掛けられない。

1番悔やむのは、ボールを入れるスローワーにその事を伝えられなかった事だ。

私にマークが集中してるのを逆手にとり
他のジャンパーに合わせたら獲得率は上がったのだ。

特に押されてという実感もなく、じわじわと得点を重ねられる。

主将がこの時まで練ったズラすディフェンスをやめて、シャローディフェンス(前に出る防御スタイル)に切り替える。
流れは変わったが、後半の終了間際である。
相手陣でペナルティを得る。

主将のとった選択は「ハイパント」。
ボールをトライ可能なインゴール地点に高く蹴り込む選択である。

この時点で20点差以上あり勝負の趨勢は決まっていた。

内心私は「嘘やろ」と思った。
私の仕事はハイパントを追い、獲得することだが実はこれが苦手であった。

毎日の練習の締めで、このハイパントが行われるのだが毎回うまくキャッチ出来ずに、メンバーに申し訳ない気持ちでいっぱいであった。

ボールが蹴られた。
私はボールだけを見つめながら、懸命に楕円を追う。
気がつくとレフリーの笛が鳴っていた。

トライだった。
まぐれである。たまたま腕の中にはまっただけである。
いまでもそう思う。

ノーサイド。圧倒されたとは思わなかった。
が、負けは負けである。
彼らは笑っていた。
そして全国大会に出場し、ベスト4には入ったのではないか。

この試合でラグビーはやめるつもりだったが、彼らの笑顔と私達の涙からくる悔しさで、進学してラグビーを続けると決意した。

そして、京都、衣笠の門を叩くことになる。