Commenting on Romans 8:32, John Piper states so beautifully, “Just as Abraham lifted the knife over the chest of his son Isaac, but then spared his son because there was a ram in the thicket, so God the Father lifted the knife over the chest of his own Son, Jesus — but did not spare him, because he was the ram; he was the substitute. God did not spare his own Son, because it was the only way he could spare us.”
(↑美しき解説)
So, who killed Jesus? The Romans did; the Jews did; you and I did; and, His Father did. Yet, while this is true, we can also say that no one really took His life, because He gave his life voluntarily. Jesus says, “I am the good shepherd…and I lay down my life for the sheep…I lay down my life that I may take it up again. No one takes it from me, but I lay it down of my own accord. I have authority to lay it down, and I have authority to take it up again” (John 10:14–18).
Yes, it was God the Father who ultimately brought His Son to Calvary, but His Son went there voluntarily. The Son of God willingly agreed to die on the cross for the salvation of those whom God had chosen from eternity past (Eph. 1:4–5).
Who Crucified Jesus? The Romans, the Jews, You and I, or His Father?
犯人は? 直接的にはローマ帝国の死刑執行人、行政的にはポンシオピラト、法的にはローマ法とユダヤ律法、世論的にはユダヤ人(責任も取ると主張)、間接的には人類と堕天使、聖書的には計画殺人(預言成就)、究極的には御父、自発的には御本人(自殺ではない)
獣を裂く
https://redeeminggod.com/sermons/genesis/genesis_15/
幕を裂く
the Temple curtain was made of cloth that was as thick as a man’s hand.
It was 30 feet wide — 5 times wider than a full-size bed!
It was 60 feet long — as long as a bowling lane!
It took 300 men to carry it.
This was no flimsy shower curtain.
With a loud cry, Jesus breathed his last. The curtain of the temple was torn in two from top to bottom. Mark 15:37–38 (NIV)
The curtain was massive. No one could have torn it themselves. It would have taken super-human strength. And that’s exactly what happened. God Himself supernaturally tore the curtain.
The Veil Was Torn from Top to Bottom
Glo Bible: Temple Curtain is Torn in Two
パンを裂く
https://www.koshien.net/KOZA/Fr_Koike/fr_koike200504.php
Today, for the first time in recent memory, the doors of the tabernacle are veiled. The age-old practice of veiling the tabernacle has not been observed in the Cathedral for many years, but as of this morning it is restored! Due to the size of the tabernacle and its shape, only the doors have been veiled. The colour of the veil changes to match the liturgical colours worn by the priest. The tabernacle veil derives from Old Testament times, when the Holy of Holies in the Temple was veiled. The veil therefore became a sign of God's presence; it was in the Holy of Holies that God Himself dwelt. Today, the Lord is to be found in the tabernacle, and the veil is the sign of His presence.
レビ記中に記されているこの宿営の外の清い場 所が、赤毛の雌牛がいけにえとされた場所。
赤毛の雌牛は、若くて、くびきを負ったことのな いもしくは雄牛との交尾をしたことのない(処女 の)雌牛だった。
イスラエルの最も聖なる献げ物の一つだった。
いけにえとなるのは通常、雄の動物であったのに対し、赤毛の雌牛は律法がいけにえに命じた唯一の雌の動物だった。
宿営の外でいけにえを献げる場所はミフカド祭壇 Miphkad Altarと呼ばれ、最も重要な祭壇と言 える。
全部で三つの祭壇があった: 1)神殿の中に建てられた焼き尽くす献げ物のた めの祭壇 2)神殿の中に建てられた香をたくための祭壇 3)神殿の外に置かれたミフカドの祭壇、赤毛の雌牛のための祭壇
ヘブライ 13:11なぜなら、大祭司によって罪のためにささげられるけものの血は、聖所のなかに携えて行かれるが、そのからだは、営所の外で焼かれてしまうからである。 13:12だから、イエスもまた、ご自分の血で民をきよめるために、門の外で苦難を受けられたのである。
死刑の判決にふさわしいと思ったユダヤ人の指 導者の指示によってイエスは十字架につけられ た。ミシュナに記されているように宿営の外に運 ばれそこで、刑が行われた。
つまりゴルゴタの場所は宿営の外、神殿の東側赤毛の雌牛の献げられた場所付近と考えられる。
https://tccnet.org/wp-content/themes/tokyo_church_of_christ_theme/pdf/the_ascent_to_truth3.pdf
ヨシュア記 3:1ヨシュアは朝早く起き、イスラエルの人々すべてとともにシッテムを出立して、ヨルダンに行き、それを渡らずに、そこに宿った。 3:2三日の後、つかさたちは宿営の中を行き巡り、 3:3民に命じて言った、「レビびとである祭司たちが、あなたがたの神、主の契約の箱をかきあげるのを見るならば、あなたがたはその所を出立して、そのあとに従わなければならない。 3:4そうすれば、あなたがたは行くべき道を知ることができるであろう。あなたがたは前にこの道をとおったことがないからである。しかし、あなたがたと箱との間には、おおよそ二千キュビトの距離をおかなければならない。それに近づいてはならない」。
使徒 1:12それから彼らは、オリブという山を下ってエルサレムに帰った。この山はエルサレムに近く、安息日に許されている距離のところにある。
- このように、ゴルゴタは、必ず、東側の宿営の外でなければならず、しかもそこは神殿の至聖所から必ず「二千キュビト」(約900メートル)以上離れた場所でなくてはなりません。当時、十字架刑を受ける極悪人をエルサレムの城壁内で処刑することはできなかったのです。必ず、「宿営の外」で刑が執行されました。「ゴルゴタ」はどこにあったのか。それは神のドラマの絶妙さを理解する上できわめて重要です。当時では、おそらく周知のことであったのでしょう。「ゴルゴタ」とか、「どくろ」と呼ばれている所と書けば、それがどこの位置にあるのかはだれもが分かるという前提で書かれています。ところが今日の私たちはその場所がどこなのか分からず、そして実はカソリックの見解とプロテスタントの見解も異なっています。
- カソリックの見解によれば、神殿の西側にある現在の「聖墳墓教会」のある所としています。しかしプロテスタントの見解では、北の方向に「ゴルドンのカルバリ」という所があります。これは今から100年ほど前に、イスラエルの地が英国統治領になっていたとき、ゴルドンという英国兵士がしゃれこうべに似た岩を見て、その地を買い取ったものです。そこには聖書の記述ときわめて似ている「園の墓」があります。ヨハネの福音書20章でマグダラのマリヤが後ろから声をかけるイェシュアのことを「園の管理人」だと思った(20:15)という箇所から、「ゴルゴタ」をその位置だとしています。しかし、いずれもこの二つの場所は当時のエルサレムの町の外にありましたが、二千キュビトの距離ではありません。現在の聖墳墓教会は、西側の方向に神殿の裏から200mも離れていません。「園の墓」も同様です。
- 東側の方向にある二千キュビトの位置とは「オリーブ山頂上」の付近です。イェシュアの時代には、「定められた場所」としての「ゴルゴタ」は「聖墳墓教会」のある方向とは全く逆の位置、すなわち、エルサレムの東にあるオリーブ山にあったのです。
レビ記27:28 ただし、人が自分の持っているもののうちから奉納物として主にささげたものは、人であっても、家畜であっても、また相続の畑であっても、いっさいこれを売ってはならない。またあがなってはならない。奉納物はすべて主に属するいと聖なる物である。 27:29またすべて人のうちから奉納物としてささげられた人は、あがなってはならない。彼は必ず殺されなければならない。
(2) 「全焼のいけにえ」は「いけにえ」の中の「いけにえ」
イスラエルのすべてのいけにえの中で最も多く言及されているのが「全焼のいけにえ」です。旧約では「全焼のいけにえ」は280回、「和解のいけにえ」は83回です。つまり、「全焼のいけにえ」こそが「いけにえ」の中の「いけにえ」とされるものなのです。
【新改訳改訂第3版】詩篇 40篇6節
あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、(動物による)全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした。
「あなたは私の耳を開いてくださいました」の中の「私」とはいったい誰の事でしょうか。「耳を開いてくださった」とは、「からだが与えられて、そのからだをもって、神に対する全き献身と全き従順のいけにえをささげることを可能とならしめてくださった」ということを意味します。後でも触れますが、ここでの「私」とは完全な、真の「全焼のいけにえ」として神にご自身をささげられたイェシュアのことを指しています。
【新改訳改訂第3版】ヘブル人への手紙10章3~10節
イェシュアにこそ全き献身と全き服従があり、全焼のいけにえが一回限り完全にささげられたことにより、「後者が立てられるために、前者が廃止されるのです」とあるように、旧約のいけにえ制度は不要となり、廃止されることになったのです。
ヘーレムの語根は「別にしておく」とか「俗用に供することを禁じる」ことを意味しており、この語はヘブライ語聖書(旧約聖書)で神への奉納・奉献・聖別を表すためにも用いられている[3][5]。
畑や家畜などを聖絶として神に捧げた場合は、それを売ることも買いもどすこともできないものとして完全に神に捧げ尽くさなければならず(レビ記27:28)、そのようにして捧げられたものは祭司のものとなった(レビ記27:21、民数記18:14)。ただ、その捧げ物が人間であった場合は必ず殺されなければならなかった(レビ記27:29)。
一方、イスラエルに敵対する異民族に対して聖絶が用いられる時は、「神への奉納物として、異教の神を拝むものとそれに関連する事物をことごとく滅ぼし尽くす」こと、全ての戦利品を滅却することを意味した[5]。すなわち、聖絶の対象とされた敵対異民族は全員が剣で殺され、また家畜も含め生けるものは全て殺戮された。また、通常の戦闘では許される女子どもの捕虜も、また家畜などの戦利品も、聖絶においては自分たちの所有物とすることは許されず、全てが神への捧げ物とされなければならなかった。さらに、それ以外の剣でもって滅ぼせないものは火をもって焼き尽くされ、また、燃やすことの出来ない金銀財宝などは神殿の奉納倉へ納めて、「呪われた汚らわしきもの」として民衆の手からは隔離されなければならなかった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E7%B5%B6
ユダ部族のアカンはこのヨシュアの言いつけを守らず、聖絶のものの中から取り、盗み、偽って、それを自分のものとしたのです。そのためにイスラエルの敗北を招き、彼自身も身を滅ぼすことになりました(ヨシュア記7章)。
イスラエルの最初の王サウルも、このことにおいて失敗した王でした。彼は肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しみ、これらを聖絶するのを好まず、ただ、つまらない、値打ちのないものだけを聖絶したのです。それゆえ、サウル王は王としての立場から退けられました。
http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E3%80%8C%E8%81%96%E7%B5%B6%E3%80%8D
- 性の乱れによるソドムとゴモラの住民への裁き(創世記18-19章)
- 偶像礼拝をするイスラエル人に対する裁き(出エジプト記22章20節)
- ヨベルの年に聖絶された畑が主の聖なるものとなる。(レビ記27:21)
- エリコの戦いにおける聖絶(ヨシュア記6章他)
- ミデヤン人に対する聖絶(民数記21章)
- アマレク人に対する聖絶(サムエル記上巻15章)
- 異教の偶像に用いられた金や銀を欲しがるイスラエル人に対する裁き(申命記7章26節)
主が根絶やしにした例
創世記における「ノアの方舟」と「ソドムとゴモラ」の例が上げられる。
https://w.atwiki.jp/trinity_kristo/pages/183.html
▼しかし、ここで改めて思うべき事実がある。それはイエス・キリストが当時のユダヤ人に「聖絶された」ということである。彼らは心の動機はともあれ、ナザレのイエスを「聖絶しなければならない詛われた瀆神者」と断定し、殺したのであった。この事実が私たちの前に大きく立ちはだかる。つまり、旧約時代における聖絶の思想がなければ、イエス・キリストの死はあり得なかったことになるのだ。▼旧約聖書はむごたらしさと呪いと殺戮にあふれている。どれだけ多くの人々、動物たちが、のろわれたものとなって屠られたことか数えることもできない。流された血が海のように満ちた旧約歴史、だが、それはただ一点、ゴルゴタにおけるイエスの死にすべて帰結する。▼イエスは全世界の罪を負い、聖絶された。イスラエルは、「神にのろわれ、聖絶された者を、なぜ神として信じなければならないのか。絶対にそんなことがあってはならない。」として排除する。これが十字架のつまずきである。しかしやがて全世界が、聖絶したお方が神であられる事実をみつめるときがやって来るであろう。「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。『木にかけられた者はみな、のろわれている』と書いてあるからです。」(ガラテヤ3:13同)▼主イエスが聖絶された事実に心の目が開かれるとき、じつは「私の罪」が聖絶される。というのは、両者がひとつに結び付けられているからだ。そして、まったく新しいいのち、新しい私がキリストと共に出現するのを覚えるのである。
https://blog.goo.ne.jp/estel414/e/58a5768217053e0d150ba3554d31b3eb
12時前 いけにえとしてのとりなし(神と人類の仲介)
①「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているかを知らないからです。」ルカ23:34
←罪人と神との間をとりなす
③ 母に「婦人よ、これがあなたの子です」とおおせられ、また弟子には「これがあなたの母です」ヨハネ19:26-27
←人類に聖母(仲介者)をとりなす(仲介者の仲介)
暗黒の3時間(12〜3時)
「昼の十二時ごろ、太陽がくらみ、三時ごろまで地上一帯が暗くなった。」ルカ23:44
身代わりに罪を負って神の罰を受ける燔祭の3時間
「私の神よ、私の神よ、なぜ私を見捨てられたのですか。」マルコ15:34
←神からの遺棄、神の不在、神人における神と人との分離
「神殿の幕は、真中から二つに裂けた。」ルカ23:45 ←契約を守らなかった者に対する真二つ裂きの刑(アブラハムの契約)
「聖父と私はひとつである」ヨハネ: ←ひとつをふたつに分離
「私は渇く」ヨハネ19:28
←燔祭によるいけにえ体験の表現
モーセの律法に基づく焼き尽くす燔祭(いけにえ)
「すべてはなしとげられた」ヨハネ19:30
←燔祭の完了
consumatum est(ブルガタ訳ラテン語)はfinished(終わった)ではなくconsummated(完成した)という意味
最後の晩餐における過越の第四杯は「cap of consumation」と呼ばれている
「父よ、私の霊を、み手にゆだねます」ルカ23:46
←完了した燔祭の神への奉献
すでに肉体(人性)の燔祭は尽くされたが、霊魂も献げられた
イザヤ53
3 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
4 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
6 われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。
ヘブライ人 9:11しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、 9:12かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。
10:6あなたは燔祭や罪祭を好まれなかった。
10:7その時、わたしは言った、
『神よ、わたしにつき、
巻物の書物に書いてあるとおり、
見よ、御旨を行うためにまいりました』」。
霊と真理の礼拝者たち(複数形)=大祭司イエズスの位格においていけにえを献げる司祭たち
グレゴリアン大学用の教科書
『秘跡一般について』 の抜粋(要約)
Gulielmus Van Roo S.J.著
De Sacramentis in genere auctore Gulielmo Van Roo
editio secunda, Romae apud Aedes Universitatis Gegorianae, 1960.
イエズス・キリストの司祭職への参与
キリスト信者は、洗礼を受けることによって2つの資格を受けます。1つは将来の栄光の報いへの資格、もう一つはキリスト教的な生活様式に適ったやり方で天主の礼拝をする資格です。(聖トマス「神学大全」III q. 63, a. 1. corpus et ad 1; a. 3 corpus et ad 1, ad 3.)この2つができるために2つの「印」を受けるのです。それが「聖寵」gratiaであり「刻印」characterです。
霊魂に注入される「聖寵」は、永遠の栄光を享受する、あるいは救いに予定されたという資格の印です。聖寵によって人は天主性(divinitas)に参与し、聖三位一体の命を受け、聖三位一体にあやかるものになることができるようになります。もちろん、聖寵によって、わたしたちが人間であるという実体(substantia)或いは、わたしたちの人性(humanitas)は人間が人間である限り、いかなるものへも変わるものではありません。しかし、聖寵という偶有(accidentia)によって、人は義化され、天主の愛子となり、天国に入る権利を与えられます。これは天主が下さる自然を越えた賜物で、私たちには受けるねうちはないのですが、イエズス・キリストの御功徳によって与えられます。
霊魂に刻み込まれる「刻印」は、天主の礼拝に関することを受けることができる(受動potentia passiva)、あるいは執行することができる(能動potentia activa)資格の印です。刻印によって人はキリストの司祭職にあずかり、司祭であるキリストにあやかるものになることができます。
刻印は、キリストの司祭職に参与しうるための霊的道具として(per modum instrumenti)霊魂に刻まれます。(聖トマス「神学大全」III q. 63, a. 2. corpus)ところで、キリストの司祭職は永遠であり、霊魂も永遠であり、また刻印は「道具」として刻まれるのですから「能動」の主体ではありません。(能動の主体はあくまで霊魂です。)
したがって「刻印」は永遠で、聖ピオ十世の公教要理が言うように「絶対に消えないindelebile」のであり、聖寵のように罪によって失われることがありません。(聖トマス「神学大全」III q. 63, a. 5. corpus)ですから、刻印を刻む3つの秘跡は一生に一度しか受けることができません。確かに、この世で現在教会が行っている外的な天主の礼拝は、天国に行けば天の礼拝に変わります。この世にはいつの日か終わりが来ますから、この地上でのまことの天主を礼拝するということは永遠につづくことではありません。しかし、「礼拝の目的は永遠にとどまります。この世の生活の後にでも、刻印は、善人たちにとっては彼らの栄光として、悪人たちにとっては彼らの辱めとして残ります。」(聖トマス「神学大全」III q. 63, a. 5. ad 3.)
品級の刻印は、他の秘跡を執行するための能動的な能力です。洗礼の刻印は、他の秘跡を受けるために必要な受動能力です(聖トマス「神学大全」III q. 63, a. 6 corpus et a. 2 corpus)。そしてある意味では堅振の刻印さえも他の秘跡を受けるために必要な受動能力と考えられます。なぜなら、たとえば婚姻の秘蹟、叙階の秘蹟を受けるためには堅振が必要とされているからです。ただし、純粋な受動能力ではなく、キリスト信者として新たに生まれた授洗者が生きながらえるように、「救いにかかわる固有なことを行うことにかんしては、能動的にすることができる能力を受けます」。(聖トマス「神学大全」III q. 72, a. 5. corpus et ad 2.)
イエズス・キリストの司祭職
イエズス・キリストは完全な司祭(sacerdos perfectus)で、旧約の司祭という影(firuga in veteri lege)に対する実体であり、旧約の最高司祭の典型(antitypus summi pontificis Veteris Legis)です。(聖トマス「神学大全」I-II qq. 101-103.)
アロンの司祭職の頂点が最高司祭summus pontifexであり、最高司祭はアロン家の長男が相続しました。最高司祭は全イスラエル民族を代表し、12部族の名を肩に付け、贖いの大祝日には一人で全民族を代表し至聖所に入りいけにえを捧げました。これは来るべき新約の大司祭イエズス・キリストの影(figura)であり前表でした。
従って、イエズス・キリストはsacerdos magnusとも(Heb 10:21)、pontifexとも(Heb. 2:17)呼ばれ、聖パウロは、特にヘブレオ人への書簡の中で、レビ族の司祭職とイエズス・キリストの司祭職との共通性と継続性を述べるとともに、イエズス・キリストの司祭職の優位性を主張しています。
新約と旧約の司祭職の共通性として、司祭が人間(homo)であること(Heb. 2:16-17)、天主から選ばれて呼ばれ、召し出されたこと(Heb. 5:1-4)、罪の償いのためにいけにえを捧げるための存在であること、職務が天主の礼拝、天主と人との仲介、罪の償いであること、預言職のためでも宣教のためでもないこと、人々に話す者ではなく天主に話す者であること、司祭は聖なる者(sanctus)であり、聖別され(consecratus)、世俗のことがらから象徴的な儀式によって分離されているもの(segregatus)です。
旧約においては特にこの聖性が最高司祭において厳しく要求されていました。また、司祭職の主要な職務はいけにえを捧げること(offerre sacrificium)であり、これによって人は内的な宗教行為を外に表現するのです。
これについては、例えば、ピオ12世は訓話 『マニフィカーテ・ドミヌム』 (1954年11月2日) の中でこう言っています。
「司祭職の固有なそして主要な職務は常に「いけにえを捧げること」であったし今でもそうである、従っていけにえを捧げる権能が固有なしかたで[存在していると]言うことができないところには、やはり固有のやり方で司祭職と呼ぶべきものを見つけることができない。」
しかし、旧約の罪の償いのための全てのいけにえは、最高司祭の捧げるいけにえであっても、それ自体としては贖いの効果が無く、イエズス・キリストの司祭職といけにえを待たなければなりませんでした。もし旧約のいけにえが天主御父の心に適ういけにえとなり嘉されるものになったとすれば、それは来るべき私たちの主イエズス・キリストのいけにえの影であり、前表であったからです。
天主の御言葉が人となったその瞬間(Heb. 10:5-7) 、イエズス・キリストは大司祭(pontifex)となりました。イエズス・キリストは永遠の昔からの司祭ではありませんが、永久に続く「永遠の司祭(sacerdos in aeternum)」です。ご自身が本性による天主の御子であるが故に、イエズス・キリストの司祭職は完璧で欠けたところがありません。イエズス・キリストは天的な司祭です。イエズス・キリストは御一人で大司祭として天上の至聖所に入り(すなわち御復活後昇天され、天国に入られたことです)、そこで永遠にとどまり、わたしたちのために取り次ぎ給い、将来の永遠の命を分け与えて下さり、完全な永遠の天上の礼拝を、天主御父に捧げ給う司祭なのです。
キリスト信者のこの地上での生活は、イスラエルの民が約束の地へと旅したように典礼をもって典礼を通して天主に近づくのです。新約のわたしたちはわたしたちの司祭キリストを通して天主に近づくことができるという最高の特権を持っています。
キリスト信者の捧げる礼拝は、唯一の最高司祭であるイエズス・キリストの捧げる礼拝に参与することです。その時、わたしたちの祈りも、わたしたちの持つ秘跡も、カトリック教会の公式の全礼拝もすべて、そしてわたしたちの日常生活における犠牲や苦しみも、イエズス・キリストご自身の行為となるのです。
新約の最高の司祭職は、イエズス・キリストだけがご自分の位格的結合(unio hypostatica)によって、その完全な形でお持ちです。「位格的結合」とは、イエズス・キリストの天主の位格(Persona divina)において「天主の本性」と「人間の本性」との2つの本性が結合していることです。イエズス・キリストはまことの天主まことの人として最高完全な司祭なのですから、司祭の「刻印」をその霊魂にお持ちではありませんし、持つ必要がありません。イエズス・キリスト以外のカトリック司祭たちは、イエズス・キリストの司祭職の充満に参与する(つまり、その一部に与る)にすぎません。秘蹟の与える「刻印」は、「イエズス・キリストの位格的結合による司祭職」という本家本元への参与を許されたものの資格なのです。
例えば、ピオ12世は『メディアトル・デイ』でこう言っています。
「41 従って、可見的で外的な〔形をとった〕イエズス・キリストの司祭職は、教会の中で、普遍的、一般的、不特定的に伝えられるのではなく、七つの秘跡の一つである叙階による霊的な誕生として、選ばれた人々に与えられる。叙階の秘跡は、司祭の特別な生活条件と役務に固有な恵みを与えるばかりでなく、教会の奉仕者を司祭イエズス・キリストと同じ姿にあずからせ、この宗教行為を正当に行なう資格を与える消えない「刻印」を押す。この宗教行為は、人を清めるだけでなく、これによって天主から与えられた規準と規定にかなう栄光が天主に捧げられる。
42 洗礼が、全てのキリスト者をキリスト者たらしめ、まだ清めの水によって洗われおらず、キリストの肢体でない人々から区別すると同じように、叙階の秘跡は、司祭たちを、このカリスマが与えられていない他の全てのキリスト信者から区別する。天からの力を受けて召された者だけが、天主にかかわる役務につくことができる。この役務によって、司祭は、祭壇に任ぜられたもの、いわば、天からの超自然的生命をイエズス・キリストの神秘体に分配する天主の道具となる…」と。
洗礼を受けたものの霊魂に刻まれる「刻印」は、むしろ王たるキリストにあやかることであるとも、キリストの王国の一員となることであるとも言われています。
堅振を受けたものの霊魂に刻まれる「刻印」は、むしろ予言者たるキリストにあやかることであるとも、キリストの予言者としての職務に参与することであるとも言われています。
しかし、彼らは、たとえ礼拝式を能動的に捧げなくとも、聖なる者として「キリストの神秘体の肢体としてキリスト教会の公式の礼拝に全的に参与する権能」を持つが故に、そしてその権能は未信者には無いものであるが故に、広義の意味で「司祭職」が語られ得るのです。それは丁度旧約時代に全イスラエルの民が、天主に召し出され、他の民とは区別され、聖別され、真の天主を礼拝する民であったために、ある意味で司祭的な民であったと言われ得るのと同様なのです。新約においては、唯一の最高司祭イエズス・キリストの司祭職は、多様に参与され、秘跡が与える3つの「刻印」によって三重に参与されています。このうちの品級の秘跡の「刻印」だけが位階的な権能を持っています。
http://fsspxjapan.fc2web.com/other/desacra.html
22 そして、モイゼの律法にしたがい、かれらが清められる日になったとき、子を主にささげるためにイエルザレムにつれて行った。
23 それは、「はじめて生まれる男の子は、みな、主に聖別されたものといわれねばならない」と主の律法にしるされているし、
24 また主の律法にあるとおり、「山鳩一つがいか、あるいは鳩のひな二羽」をいけにえとしてささげるためであった。