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カトリック情報

katorikku jyohou

釘は手首か手の平なのか? ←どちらも

2020-04-11 | 聖遺物

https://onepeterfive.com/crucifixion-christ-nails/

四人目の執行人が、丸くて平らな十銭玉くらいの大きさの頭をした長い四角い釘を持って待ちかまえており、木に開けた穴が橈骨(とうこつ)と尺骨の合わさった手首の関節のところとぴったり合っているかどうかを確かめる。合っていると見ると、男は金づちを振り上げ、手首に先端を突き刺した釘めがけて最初の一撃を加える。

右手の釘つけ作業は終わり、左手に移る。今度は木の穴が手根骨に合わない。すると、執行人たちはひもで左手首を縛って、思い切り引っ張ったものだから、あちこちの関節が脱臼し、逮捕の際に縄ですりむけている皮膚を引き裂き、腱(けん)と筋肉を伸ばす。これによって、右手も無理矢理引っ張られ、釘のまわりの穴がじわじわと広がり、いまは手首近くまで裂けている。執行人たちもとうとうあきらめたのか、打てるところに、つまり、手のひらの真ん中に釘を刺す。

『イエズスの受難』マリア・ワルトルタ  フェデリコ・バルバロ訳編 あかし書房 p.322


聖なる遺体処理布3点セット:カオールの聖顎布+オピエドのスダリオ+トリノの聖外布 

2019-09-10 | 聖遺物
今回、このルートを選んだ最大の理由がカオールだった。カオールのサン・エティエンヌのカテドラルの献堂900年記念に、あのイエスの頭巾の聖遺物が公開されているからだ。
 
十字架で息絶えたイエスを埋葬するために、まず顔を覆って、その後、口が開かないように、顎から頭にかけて固定する布が使われた。その上から、有名な「聖骸布」で全身を覆った。死後硬直が始まったので、顎を固定していた布は外された。
 
で、現在、このイエスの血の付いた布は、全身の姿がネガ像で映っているトリノの聖骸布、顔を覆ったオビエドのスダリオ、そしてこのカオールの顎布コワフと3ヶ所に分かれている。イタリア、スペイン、フランスだ
(トリノの聖骸布についてはこの本に私も記事を書いている)
 
トリノの聖骸布は有名なので、いろいろな人が模写したり、模写したものを「本物」にくっつけて祈ることで仏舎利のように複写品ができたりで、いろいろなところにある。聖骸布とスダリオは福音書の中で空になった墓に残っていたと出てくるので有名なのだけれど、顎を支えていたコワフの方は、このカオールにしか記録がない。(カオールの人は、福音書に出てくるのがこのコワフだと言っている)
8枚の細い亜麻布をツギハギしたもので、60センチくらいで、1844年にシャンポリオンが、一世紀初めの布だと鑑定したそうだ。
血痕が内と外に染みついているのは1939年に確認され、顎髭が剝れた跡があるともいう。
そして、今では研究者にとっては有名な話だけれど、この聖骸布とスダリオとコワフの血液型も一致するし、血の流れた場所の位置関係も綺麗に一致するという。つまり、イバラの冠や鞭打ちや十字架を背負った肩の傷など、血まみれだった部分が一致するので、それがイエスかどうかは別として、血だらけの同一人物を覆っていた布であることはほぼ確かだという。
 
その一つであるカオールのコワフは、何百年も、別にトリノやオビエドと競合したわけでもなく付き合わせて確認したわけでもなく、エルサレムに保存されていたものが、ただ、ひっそりと、カオールにまでもたらされた。9世紀初めにエルサレムの主教から、またはコンスタンティノープルの皇妃からシャルルマーニュに寄贈され、シャルルマーニュがカオール司教に寄贈したという説があったが、実は、12世紀にカオールの司教が十字軍の遠征から持ち帰ったというのが真実らしい。
 
トリノの聖骸布がトリノに落ち着いた経緯にもよく分からない部分があるのだけれど、カオールのコワフについては、いったんカオールに納められてからは動かなかった。
 
カオールの近くのモントバンなど宗教戦争でプロテスタントの牙城となり、カオールのカテドラルも大きな打撃を受けたのだけれど、そしてフランス革命でも同様だったのだけれど、このコワフだけは、住民によって守られてきた。
 

聖遺物の聖書的根拠

2016-01-24 | 聖遺物
聖遺物の本質と、聖遺物崇敬の聖書的根拠

 「聖遺物」はラテン語「レリクイア」(単数主格 RELIQUIA)を日本語に訳したものです。「レリクイア」はラテン語の動詞「レリンクオー」(RELINQUO 「後に残す」)から派生した語で、「後に残された物」が原義ですが、カトリック教会では聖人の遺体や遺体の一部、衣や所有物など聖人が所持していた物品、及びそれらに触れさせたものを「レリクイア」(聖遺物)と呼んでいます。

【恩寵の通路である聖遺物】
 聖遺物は、あるいは聖人の身体であることにより、あるいは聖人の身体との接触によって、神の恩寵の通路となる特別な状態を獲得した物品であると考えられています。聖遺物が発揮する力の源は神であって、聖遺物自体はあくまでも神の恩寵の通り道に過ぎません。神が聖遺物の力をいわば励起するのであって、聖遺物自体が魔力を有するのではありません。したがって聖遺物はフェティッシュ(fétiche フランス語で「呪物」「物神」の意)ではありません。
 聖遺物は崇敬(尊重 veneration)の対象ですが、聖人崇敬の場合と同じく、礼拝 (adoration, worship) の対象ではありません。執り成し手である聖人や聖遺物は、神の恩寵の通り道に過ぎず、恩寵の源泉ではありません。科学者の観察がレンズや鏡筒を通して対象に向かうのと同様に、カトリック信徒の礼拝は聖人や聖遺物を通して神にのみ向かうのです。(註1)

【聖遺物崇敬の聖書的根拠】
 聖遺物への崇敬が西ヨーロッパに広まるに当たって、キリスト教以前の習俗が大きな促進力となったのは、誰もが認める歴史的事実です。しかしながら「聖遺物が神の恩寵を媒介する」という考え方は、キリスト教と異教の習合によって発生したものではなく、ユダヤ=キリスト教本来の思想であって、その根拠を聖書自体に求めることができます。以下では、旧約聖書及び新約聖書の記録から、預言者の遺物(遺体)、キリストの衣、使徒の持ち物が神の恩寵を媒介した事例を確かめます。

・エリシャの墓に投げ込まれた死者が、奇跡により復活した例 -- 「列王記」下 13章 14節から 21節

 旧約聖書「列王記」下 13章には、偉大な預言者エリシャの骨に触れて、死者が生き返った出来事が記録されています。「列王記」下 13章 14節から 21節を、新共同訳により引用いたします。

 エリシャが死の病を患っていたときのことである。イスラエルの王ヨアシュが下って来て訪れ、彼の面前で、「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」と泣いた。エリシャが王に、「弓と矢を取りなさい」と言うので、王は弓と矢を取った。エリシャがイスラエルの王に、「弓を手にしなさい」と言うので、彼が弓を手にすると、エリシャは自分の手を王の手の上にのせて、「東側の窓を開けなさい」と言った。王が開けると、エリシャは言った。「矢を射なさい。」王が矢を射ると、エリシャは言った。「主の勝利の矢。アラムに対する勝利の矢。あなたはアフェクでアラムを撃ち、滅ぼし尽くす。」またエリシャは、「矢を持って来なさい」と言った。王が持って来ると、エリシャはイスラエルの王に、「地面を射なさい」と言った。王は三度地を射てやめた。神の人は怒って王に言った。「五度、六度と射るべきであった。そうすればあなたはアラムを撃って、滅ぼし尽くしたであろう。だが今となっては、三度しかアラムを撃ち破ることができない。」エリシャは死んで葬られた。
 その後、モアブの部隊が毎年この地に侵入して来た。人々がある人を葬ろうとしていたとき、その部隊を見たので、彼をエリシャの墓に投げ込んで立ち去った。その人はエリシャの骨に触れると生き返り、自分の足で立ち上がった。

 この記事において、復活した死者はエリシャの墓に投げ込まれました。エリシャは丁重に葬られていたはずですから、投げ込まれた人はエリシャの骨に直接触れたのではなく、土を介していわば間接的に触れたのですが、それでも預言者の遺体に近づいたことにより、遺体に宿る神の力が働いて、生き返っています。トゥールのサン・マルタンをはじめ、ヨーロッパの聖堂は聖人の墓所から発達し、聖人の遺体に近づくことで病気平癒等の恩寵が得られると考えた多くの巡礼者を集めましたが、「列王記」下 13章にはこれと全く同じ考え方が表れています。


・イエスの衣に触れた女が、奇跡的に治癒した例 -- 「マルコによる福音書」 5章 25節から 34節他

 新約聖書「マタイによる福音書」 9章 18節から 26節、「マルコによる福音書」 5章 25節から 34節、「ルカによる福音書」 8章 40節から 56節には、十二年間に亙って病気を患う女が、イエスの衣に触れて瞬時に癒された出来事が記録されています。「マルコによる福音書」の該当箇所を、新共同訳により引用いたします。

 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

 女は病を癒してくださるようにイエスに堂々と依頼せず、こっそりとその服に触れたのですが、これは群衆に排斥されるのを恐れたためです。「レビ記」 15章によると、男は精液の漏出により、女は経血の漏出により、宗教的に汚(けが)れると書かれてあり、穢れているとみなされる期間や清めの式について定められています。「レビ記」 15章 25節には次の記述があります。

 もし、生理期間中でないときに、何日も出血があるか、あるいはその期間を過ぎても出血がやまないならば、その期間中は汚れており、生理期間中と同じように汚れる。(新共同訳)

 イエスの時代は言うまでもなく旧約聖書の時代であったので、「レビ記」の規定ゆえに、女は恐れおののき、震えながら進み出てひれ伏しました。イエスは女が申し出るまで誰が服に触れたのかお分かりにならなかったわけですから、他の多くの場合のようにこの女を癒そうと考えて奇跡を起こされたのではなく、女が信仰を以てイエスの衣に触れたことにより、神の力が女に働いたのです。


・パウロが身に着けていた物に触れた病者が奇跡的に治癒した例 -- 「使徒言行録」 19章 11, 12節

 新約聖書「使徒言行録」は、使徒パウロの働きを記録する際に、パウロの持ち物が使徒の身体から離れた所において神の恩寵を媒介し、奇跡を起こしたと明言しています。「使徒言行録」 19章 11, 12節を新共同訳により引用いたします。

 神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった。


 なお「使徒言行録」 5章 15節には、ペトロに接近した人に神の恩寵が注がれ、奇跡的治癒が起こったことが記録されています。

 人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。

 これは物に触れた例ではありませんが、病人たちがペトロの体に直接接触していない点で、「エリヤの墓」の奇跡との間に共通点が認められます。また癒す側の人物が病者を意識的に治療していない点では、「イエスの衣」や「パウロの持ち物」に触れて癒された例とも共通しています。

 以上の例から、聖遺物が神の恩寵を媒介するという考え方は、キリスト教に侵入した異教起源の夾雑物ではなく、ユダヤ=キリスト教本来のものであることがはっきりと分かります。合理的説明ができない奇跡を一切認めず、聖人や聖遺物を通して神の恩寵が働く可能性を排除する「理性的」信仰、自由主義神学の姿勢は、活きて働く神を信仰する宗教の浅薄化であり、ユダヤ=キリスト教が本来あるべき姿とは別物であると断じざるを得ません。

http://antiquesanastasia.com/religion/references/reliques/essentiel_des_reliques_et_leur_fondement_biblique/general_info.html

聖遺物すなわち聖人の身体や持ち物が神の恩寵を媒介すると考えるのは、別稿で論じたとおり、ユダヤ=キリスト教に本来備わった思想です。しかしながら聖遺物への崇敬が西ヨーロッパにおいて効率的に広まったのは、携帯用のものをはじめとする個人向けの聖遺物が、ゲルマン人がもともと身に着けていた多神教の護符を駆逐しつつ、護符に取って代わり、ヨーロッパ人の宗教生活において護符と同様の働きを担うようになったためであると考えられます。
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護符を兼ねる首飾りが姿を消すことは決して無かった。教会はこれほど根深い迷信を根絶することはできないと悟り、せめて悪影響を軽減することを願って、護符の首飾りを教会の益に変えた。すなわち聖人の墓所で集められた塵を入れた小さな容器、ときには遺物を、首から提げて持ち歩くのが習わしになったのである。この首飾りは相変わらず護符と同じ力を有していたが、いまや首飾りが発する力は神に由来するのであって、もはや悪魔のものではなくなった。

http://antiquesanastasia.com/religion/references/reliques/diffusion_des_reliquaires_portatifs/general_info.html

新年の包皮 その聖遺物は奇跡、預言、巡礼、聖人、破門が入り乱れ、終いにバチカンが隠滅して祝日削除

2016-01-01 | 聖遺物
At various points in history, relics purporting to be the holy prepuce, the foreskin of Christ, have surfaced and various miraculous powers have been ascribed to it. A number of churches in Europe have claimed to possess Jesus' foreskin, sometimes at the same time.[30] The best known was in the Lateran Basilica in Rome, whose authenticity was confirmed by a vision of Saint Bridget of Sweden. In its gold reliquary, it was looted in the Sack of Rome in 1527, but eventually recovered.[31]

Most of the Holy Prepuces were lost or destroyed during the Reformation and the French Revolution.[32] The Prepuce of Calcata is noteworthy, as the reliquary containing the Holy Foreskin was paraded through the streets of this Italian village as recently as 1983 on the Feast of the Circumcision, which was formerly marked by the Roman Catholic Church around the world on January 1 each year, and is now renamed as the Feast of the Holy Name of Jesus. The practice ended, however, when thieves stole the jewel-encrusted case, contents and all.[32] Following this theft, it is unclear whether any purported Holy Prepuces still exist.


https://en.wikipedia.org/wiki/Circumcision_of_Jesus


Sold, stolen, or delivered to the Vatican—or even all three—the holy foreskin of Calcata is probably gone for good, even as some residents persist in the hope that it will return. And the church is certainly breathing a sigh of relief. While most of the other copies of the relic were destroyed during the Reformation and the French Revolution, Calcata's holy foreskin lived long past its expiration date, like a dinosaur surviving the meteoric blast of the scientific revolution.

Even before its disappearance, the relic had a strange history. It was discovered in Calcata in 1557, and a series of miracles soon followed (freak storms, perfumed mists engulfing the village). The church gave the finding a seal of approval by offering a 10-year indulgence to those who came to venerate. Lines of pilgrims stretched from the church doors to beyond the walls of the fortress town. Nuns and monks from nearby villages and monasteries made candlelit processions. Calcata was a must-see destination on the pilgrimage map.

http://primary.slate.com/articles/life/faithbased/2006/12/fore_shame.html

Foreskin relics began appearing in Europe during the Middle Ages. The earliest recorded sighting came on December 25, 800, when Charlemagne gave it to Pope Leo III when the latter crowned the former Emperor. Charlemagne claimed that it had been brought to him by an angel while he prayed at the Holy Sepulchre. The Pope placed it into the Sanctum sanctorum in the Lateran basilica in Rome with other relics. The foreskin was then looted during the Sack of Rome in 1527. The German soldier who stole it was captured in the village of Calcata, 47 km north of Rome, later the same year. Thrown into prison, he hid the jeweled reliquary in his cell, where it remained until its rediscovery in 1557. Many miracles freak storms and perfumed fog overwhelming the village are claimed to have followed. Housed in Calcata, it was venerated from that time onwards, with the Church approving the authenticity by offering a ten-year indulgence to pilgrims. Pilgrims, nuns and monks flocked to the church. “Calcata was a must-see destination on the pilgrimage map."

In 1900, the Roman Catholic Church resolved the dilemma by ruling that anyone thenceforward writing or speaking of the Holy Prepuce would be excommunicated. In 1954, after much debate, the Second Vatican Council removed the Day of the Holy Circumcision from the Latin church calendar.


http://reagancharlescook.com/post/28930731379/the-most-famous-foreskin-of-all


https://theorthodoxlife.wordpress.com/2012/01/01/the-circumcision-of-baby-jesus/