とうとう、米英仏によるリビア空爆が始まりました。
チュニジアから始まった民主化の一連の動きの中にリビアもあります。
エジプトでは、軍が中立の立場を守り、それがムバラク大統領辞職の流れを作りました。
その後粛々と民主化の手続きが進み、憲法改正の国民投票実施までこぎつけました。
まだ結果はわかりませんが、エジプト革命はどちらかといえば平和的な革命といえます。
外から見ていると、それはエジプトの国民性であり、また独裁政治ではあったとしても
それなりに、政治統治の秩序はあったようにみえます。
リビアはといえば、反体制派は一時は破竹の勢いで重要な都市を制圧していきました。
ところが、カダフィ大佐は、降伏か?という段階になって、大反撃にでます。
資産の凍結など関係ないほど資金を手元に蓄えていたのです。
その豊富な資金で外国人の傭兵を雇い、容赦なく、自国民に攻撃をしかけていき、内戦状態になったわけです。
その結果、いわゆる多国籍軍の空爆となったわけです。
リビアについても世界は、カダフィ大佐の退場を期待して見守っていたのですが、そうはならなかった
わけです。
エジプトとリビアの違いは何かということを一言でいえば、カダフィ大佐、ということになります。
カダフィは大統領でも首相でもない。「大佐」という、昔の肩書きのまま、一国の支配者として
40年以上もその地位にあったということです。
つまり、統治の機能も組織も全くないのです。これはカダフィという一人の人間の性格とか資質とか
いうものにあるようにみえます。
ブッシュ大統領がどこかの国をならずもの国家といいましたが、カダフィはそれ以上のように思います。
エジプトとリビアをみていると、どのような指導者を持つかということが国の命運を決定的なものに
するということです。
しかし、またそれは同時に、そのような指導者の存在を許してしまう国民の側の問題でもあります。
そういう国民をつくるのは地理的条件や人種的特徴や長い歴史だと思います。
いわゆる多国籍軍による攻撃は、ある意味、内政干渉だとおもうのですが、西欧の論理は
カダフィはもはや正当性をなくしている、しかし国民は非力なのでその支援をしているだけだと
いうわけです。正義感ですね。
どこまでがお節介、内政干渉で、どこからが人権をまもるための正義か、その判断は難しいです。
ちょっと飛躍ですが、いままでは家庭内のこととして見て見ぬふりをすることが礼儀とされていたのが
今はDVとして犯罪になるなど、時代は大きく変わっています。
そういう流れでいうと、やはりリビアのカダフィは犯罪者ということになるわけですから、当然
多国籍軍による攻撃は許されるということでしょう。
となると、カダフィの存在を許す国民(覚醒しない)に一番罪があるということになりそうです。
そういう意味では、最後は、一人ひとりの国民の問題になってきます。
さて、ここまで書いてきて、ふと、日本のことが気になります。
イラ何とかいう人は、最後にできなくなると怒鳴りちらすということですが、こういう人を世界の人たちは
どうみているのでしょうか。そして、そういう人を指導者に持つ日本人を。
中国やロシアなどの領土をめぐる挑発行為をみるとわかりますね。米欧などは洗練されているので
表向きは敬意を表していますが、内心どう思っているかは、見え見えです。
さて、もどってリビア空爆ですが、最終的には、リビア国民の成熟度にかかっていると思います。