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ペットシッターの紹介する本や映画あれこれ by ペットシッター・ジェントリー

ペットシッターを営む著者が、日常業務を交えつつ、ペット関連の本や映画を紹介します

小説『おちび/エドワード・ケアリー』

2021年04月30日 23時25分00秒 | 犬の本

コロナ禍において、ペットを飼う人が増えたといいます。室内での遊び相手という意味合いのほか、暗く苦しい状況下にかわいい犬や猫がいてくれるだけで心が和み、明日への活力が湧いてくることもあるでしょう。
 今回ご紹介する小説『おちび/エドワード・ケアリー著・古屋美登里訳』にも、厳しい状況下におかれた人々が一匹の犬に心を癒やされる場面が出てきます。ただ、それはラスト近くでの話。まずはこの壮大な物語全体をご紹介しなければなりません。

ロンドンに行かれた方はご存知かもしれませんが、マダム・タッソー蝋人形館という観光名所があります。俳優、政治家、スポーツ選手などの有名人をそっくり模した蝋人形が飾られている施設です。この館の創始者であるマダム・タッソーが実に数奇な運命をたどった女性で、彼女にまつわる史実をもとに、巧妙かつ奇天烈な創意を盛り込んで書かれたのがこの小説なのです。

マダム・タッソーの元の名はマリー・グロショルツ。アルザス地方に生まれたマリーは、スイスのベルンに住むクルティウスという医師の元に雑用係として雇われます。成長しても142cmほどしかなかったマリーは、みんなから「おちび」と呼ばれていました。
 クルティウスは患者に病状を伝えるため、人間の臓器を蝋細工で作っていましたが、その仕事に嫌気がさしていました。代わりに彼は頭の模型を作ることに夢中になり、マリーも彼からその技術を学びます。やがてクルティウスは借金がかさんでベルンを追われ、マリーと共にパリに移り住みます。

パリでは仕立て屋の未亡人の元で暮らすことになりました。クルティウスは蝋細工を作り、マリーは使用人として働きます。未亡人は意地が悪く、なにかにつけマリーに冷たく当たります。クルティウスの作った街の名士の胸像は評判となり、商売になると踏んだ未亡人は新たに大きな館を借り、大々的に胸像の展示を始めます。
 1700年代という不安な時代、人々は公開で行われる処刑を見世物として楽しんでいました。そこに目をつけた未亡人の発案で、クルティウスとマリーは処刑された殺人犯の型を取り、蝋の全身像を作ります。これが人気となったため、同様に不気味な蝋人形が次々に作られ、館は大繁盛していきます。

そんな折、館を訪れたエリザベート王女(ルイ16世の妹)に気に入られ、マリーは彫刻教師としてヴェルサイユ宮殿で暮らすことになります。王女の召使い達に冷たくあしわられながらも、マリーは王女の寵愛を受け、王女の教育係としての毎日を楽しんでいました。ところが、宮殿にやってきたクルティウスと未亡人が騒動を起こし、マリーは宮殿を去らなくてはいけなくなります。

蝋人形館に戻ると、館はさらに繁盛しており、今ではパレ・ロワイヤルでも展示をおこなうほどでした。やがてフランス革命が勃発し、権力者たちが次々と処刑されていきます。蝋人形館には処刑された首が届けられ、クルティウスとマリーは、なんと斬られた生首から型を取り、蝋人形を作成することになります。
 王党派に近いとされる者は難癖をつけて処刑される世情のなか、しだいにマリー達の立場も危うくなっていきます。ルイ16世をはじめ、権力者たちの蝋人形を展示していることから危険人物とみなされ、ついにマリーは監獄に捕らえられてしまいます。

お待たせしました。ようやく犬の登場です。マリーは監獄で様々な人と出会うのですが、そのなかにローズという印象的な女性がいました。彼女は、今いちばん会いたい相手として、夫でもなく息子や娘でもなく、フォルチュネという名のパグ犬を挙げるのです。ローズは守衛を籠絡し、週に一度フォルチュネを監獄に連れてくるよう段取りをつけました。フォルチュネと触れ合うことは、ローズだけではなくマリーやほかの収監者たちにとっても、大いなる慰めとなります。そのシーンがとても素晴らしいので、やや長いのですが下記に引用します。

〈 フォルチュネは愉快な子犬で、ご主人に懸命に尽くし、わたしたちは彼に会うのが本当に愉しみだった。ここに無垢なものがいる、という感覚。黒い悲しげな顔に心配そうな目をした無邪気な小さな命は、わたしたちの窮状がわかっているかのようだった。彼はわたしたちをとても喜ばせてくれた。彼の小さな声。その大らかさ。純真さ。彼が足取り重く去っていくのを見るのは悲しかった。そして、翌週彼に会うときまで生き永らえていますように、と願った。〉

じつはここで出会うローズは歴史にも名を残す女性なのですが、彼女が誰なのか、どうぞ小説を読んでたしかめてみてください。
 その後マリーは処刑寸前まで追い詰められながら、蝋人形を作る技術を持っていたため、館に返されることになります。彼女はフランス革命を生き延び、さらにはナポレオンと対面するなど、強運と押しの強さで運命を切り開いていきます。

クルティウスや未亡人をはじめ、登場人物たちはみなそれぞれが長所と欠点を抱えた人間臭い人ばかりで、型通りの”いい人”は一人もいません。マリーもけっして素直ないい子ではなく、清廉な女性でもありません。そんな彼女が逆境にもめげず、時には人に逆らい、時には人に従い、フランス革命前後の激動の時代を生き抜いていくさまは圧巻です。事実と創造が見事に融合したこの大傑作、ぜひ一読をおすすめします!


小説『灯台守の話/ジャネット・ウィンターソン』

2021年01月23日 21時50分00秒 | 犬の本

この仕事を始めて16年ほどになります。依頼されるペットは犬と猫が9割以上を占め、あとはウサギが少しと、フェレット、リスなどがほんのわずかという内訳です。犬と猫の比率は、2005年に名古屋で開業した当時はほぼ半々で、若干猫が多いくらいでした。その後、2010年に岡崎市に移ってからは、逆に犬の依頼のほうが多くなりました。やはり都会の名古屋に比べると岡崎は土地が広くて一軒家も多く、犬を飼いやすい環境なのかと思っていました。ところがその後、比率は逆転して猫のほうが多くなり、今や全依頼の7~8割程度を猫が占めるようになりました。

その一方で、犬の根強い人気も感じます。とくに、飼い主さんの犬種ごとの好みがはっきりしていて、レトリーバーなど大型犬が好きな人、ミニチュアダックスやトイプードルなどの小型犬が好きな人、どうしても柴犬が好きな人などがくっきりと分かれます。思えば、同じ種でこれほど体の大きさや見た目が違う動物は、他にいません。宇宙人が地球に来て、グレート・デーンとチワワが同じ動物だと言っても信じてもらえないことでしょう。

今回ご紹介する小説『灯台守の話/ジャネット・ウィンターソン著・岸本佐知子訳』にも、すこし変わった体つきの犬が出てきます。主人公の少女シルバーが飼っている犬で、名前をドッグ・ジムといいます。シルバーは母親と共に、スコットランド北岸にあるソルツという町で暮らしています。世間から邪魔者扱いされている彼らは町はずれに追いやられ、その家はなんと崖の上に斜めに突き刺さっています。椅子は床に釘で打ち付けてあり、夜はハンモックで眠ります。家の内外を歩くにも、シルバーと母親は体をロープで結び、崖から落ちないよう注意しなければなりません。ドッグ・ジムも、前脚で斜面をよじ登り、後ろ脚で踏ん張りつづけたせいで、前脚が後ろ脚より5センチほど長くなっています。

やがてその家で悲劇が起こり、シルバーは犬とともに灯台に移り住むことになります。灯台には年老いたピューという灯台守がいました。灯台守の仕事はもちろん灯台の作業を覚えること、そして物語を語り継いでいくこと。本作は、シルバーの物語と、ピューが話してくれる過去の物語とが重層的にからみあい、ダイナミックに展開していきます。

ピューは、はるか昔、ブリストルという都会町に住んでいた青年バベル・ダークについて、まるでその場に居合わせたかのようにシルバーに語り聞かせます。ダークは裕福な貿易業者の家に生まれ、見目もよく、そのまま家業を継いで暮らしていくものと思われていました。それがある日、モリーという娘と恋におち、二人は関係を結びます。モリーに子供ができ、あとは二人が結婚するだけだと思われたころ、とつぜんバベルは牧師になると言い出します。しかも、海に面した辺鄙な町、ソルツで牧師になるというのです。なぜそんな決意をしたのか、その後、バベルとモリーはどうなってしまうのか。
 ピューの語る話は、対立する二項を並べることでものごとの深淵をえぐり出していきます。人間の二面性と不可思議性、物語を語ることと人生を生きること、神と進化論、古いものと新しいもの、男と女、生と死、愛と自然、科学と自然。それらは簡単に決着のつかないものばかりですが、物語として語り継ぐことで俎上に乗せられ、シルバーと共に読者も思索を続けていくことになります。

小説には、ドッグ・ジムのほか、バベル牧師の飼っているトリスタンという犬も出てきます。彼らはとくに目覚ましい活躍をするわけではないのですが、常にやさしく寄り添うように人のそばにいて、重要な示唆を与えてくれます。本当に素晴らしい、僕の大好きな小説です。

なお、2020年10月に、本書を課題図書とする読書会を開催しました。
◆読書会の開催報告


小説『異邦人/カミュ』

2020年09月10日 23時00分00秒 | 犬の本

夏の猛烈な暑さがようやく過ぎ去りました。今年は新型コロナの一件もあり、なかなか厳しい夏となりましたが、ようやくペットシッターの依頼もぽつぽつと入るようになってきました。このまま収束へと向かい、人々が普通の日常を取り戻すことを強く願っています。

さて今回は、夏のぎらぎらした暑さを味わわせてくれる犬の小説、『異邦人/カミュ著・窪田啓作訳』をご紹介します。有名な作品ですので、読んでなくても大まかなストーリーをご存じの方は多いのではないでしょうか。窪田啓作氏による冒頭の訳文、「きょう、ママンが死んだ」も有名ですね。既読の方は、「え? これって犬、出てきたっけ?」と思われるかもしれませんが、ちゃんと出てきます。ただしその前に、小説のおおまかなご紹介をしておきますね。

本作はよく、不条理小説と紹介されます。僕もこの小説を20年以上前に初めて読み、よくわからない小説だったという記憶だけ残っていました。今回、再読してまず思ったのは、さほど理解しづらい作品でもないこと、そして、本作を不条理小説と言って終わりにするのは非常にもったいないということです。

舞台はアルジェリアの首都アルジェ界わい。とにかく暑い地域です。主人公のムルソーは母の死に際し、とくに悲しむ様子も見せず、翌日に女友達と海へ遊びに行き、情事にふけります。その後、彼は隣人レエモンとアラビア人との諍いに巻き込まれ、殺人を犯してしまいます。法廷でその理由を聞かれた際、「太陽のせいだ」と答える、これもまた有名なシーンでしょう。ムルソーの行動は、“普通の”人々からは理解されず、非情な人間だと判断され、死刑を宣告されてしまうのです。

裁判ではしきりに、ムルソーが如何に普通と違っているかが取り沙汰されます。母親が死んだら悲しむべきだ、その直後に女性と海に遊びに行き、コメディ映画を見、女性と関係を持つなど、すべてが非情で非人間的な行為だ、と検事から責め立てられるのです。しかし、どうでしょう。ムルソーのしたことはそれほど非道なおこないでしょうか。彼は本当にそうした不条理な、人の心を持たないような人間なのでしょうか。僕はこの小説をつづけて二度読みましたが、殺人を除き、彼の行動にはさほど違和感を感じませんでした。母親が死んで悲しむ様子を見せない人だっています。その直後に遊びに行き女性と関係を持ったとしても、とくに非難されるようなことでもありません。殺人についても、ナイフを持った相手に対する正当防衛の意味合いが強く、とても死刑に値するとは思えません。

検事や陪審員たちは、「人は必ず母親を愛し、母親が死んだら悲しむものだ」という先入観を持っています。そして、誰かが自分の想像できない言動をとっただけで不条理と判断し、切り捨てようとする。そのほうがよほど不条理だと僕には思えます。

そんなムルソーですが、意外に人づきあいは活発で、マリイという女友達のほか、アパートの同じ階に住むサラマノ老人たちと行動を共にします。サラマノ老人は八年前からスパニエル犬を飼っており、犬は皮膚病のため体中がかさぶただらけです。狭い部屋で暮らしていると似てくるのか、老人もまたかさぶただらけの肌をしており、互いに鼻づらを突き出し首を伸ばした猫背の姿勢で歩きます。彼らは同族のようでいて、互いに憎み合っています。散歩で犬の引きが強すぎたり、部屋でおしっこをしたりすると、老人は犬を叩き、ののしります。犬も老人に無理やり引っ張られる時には唸って抵抗します。こうした描写がたびたび出てきて、ムルソーはなにかこの老人と犬に興味を惹かれるようです。

その後、散歩中に犬がいなくなり、老人はパニックになってしまいます。ムルソーは老人を部屋へ入れてやり、相談に乗ってあげます。のちに老人は裁判で証言する際、ムルソーに親切にしてもらったことを強調し、ムルソーと母親のことも弁明してみせます。はた目からは、ムルソーと老人との関係は慈愛に満ちた美しいものに思えます。ムルソーが老人に親身になってあげたのは、老人と犬とが互いに憎み合いながらも互いを必要としている、その関係に共感を覚えたせいかもしれません。

さて、第二部の大半は法廷劇となるのですが、思えば裁判制度というものも不条理に満ちています。本来なら正義と真実を見極める場であるはずの裁判が、検事と弁護士の単なる技術合戦になっているからです。また、ムルソーがラストで雄たけびをあげることになる、司祭との対立。すなわち、キリスト教も大いなる不条理に満ちています。神がいることを疑いもせず信じ、祈り、救いを求める行為は、神を信じないムルソーにはまったく意味が見出せませんし、キリスト教徒以外のすべての読者(僕も含む)も同じ思いにかられることでしょう。司祭の並べる“有り難い”お言葉に、ムルソーが珍しく激高するのもむべなるかなと思えます。

この小説を再読したのは、参加する読書会の課題本となったからでした。読書会では様々な意見が飛び交い、話し合うポイントが多岐にわたることを確認しました。読めば読むほど味わい深く、いろんなことを考えさせてくれる、とてつもない名作だと思います。どうか「不条理」という評判に負けず、どなたにも手に取っていただきたい一冊です。


小説「蜜蜂の川の流れる先で/キジ・ジョンスン」(『霧に橋を架ける』所収)

2020年07月01日 14時00分00秒 | 犬の本

仕事柄、ペットを亡くされた方とお話をすることがありますが、なんとお答えすればよいかいつも悩みます。ずっと一緒に暮らしてきた動物を亡くす哀しみ・喪失感を、簡単に慰められる言葉などありません。そんな時、一冊の本が救いになるかもしれないと思うことがあります。今回ご紹介するのもそんな一編です。

前回もご紹介した短編集『霧に橋を架ける』に収録されている、「蜜蜂の川の流れる先で」という小説です。アメリカのシアトル近郊に住むリンナは、ジャーマン・シェパード犬のサムと暮らしています。サムは年を取り、神経を病んでいて、先は長くありません。ある日リンナは気分転換のため、サムと一緒にドライブに出かけます。サムは満足に動くこともできず、ときおりリンナに抱きかかえられて用を足すほかは、バックシートで眠ったまま。リンナは角を曲がる時にはサムが横滑りしないよう気を使います。
 ワシントン州からアイダホ州を抜け、モンタナ州を走っている途中で、リンナはパトカーに停められます。警官は彼女に、〈蜜蜂の川〉があふれて通れない、と告げます。変わった名前の川だと彼女は思うのですが、前方に目をこらせば、薄闇のように流れる一帯が見え、かすかにブーンという低い音が聞こえてきます。それは川の名前でも比喩でもなく、文字通り、蜜蜂の大群が川となって〈流れて〉いるのでした。
 蜂たちがどこから来てどこへ向かうのか、誰も知りません。リンナは遠くから蜜蜂の川を眺めるうち、不思議に歪んだ美をそこに見出し、川をたどってみようと思い立ちます。警官も似た気持ちを共有しているのか、彼女を送り出しながら緊急用キットを手渡してくれます。リンナはサムを連れ、蜜蜂の川に近づきすぎないよう注意しながら、その流れをたどっていきます。

とても不思議な物語でした。年老いて死を待つ犬と共に、一人の女性が蜜蜂の川をたどる。その道行きの中で、犬とのどうしようもない別れが近づいてくるのですが、そこに思いもよらぬ出会いが待ち受けています。この先はぜひ小説を読んで味わってみてください。大切なものとの別れが、とても優しく美しく描かれています。哀しみの中にわずかな希望をもたらしてくれる、素晴らしい一編です。

さて、2回に分けて猫と犬の話をご紹介しましたが、この短編集には他にも動物が出てくる話がたくさん収録されています。(上記の作品にも、犬以外に蜜蜂という生き物が出てきますね。)

心温まる幻想憚で楽しませてくれるのは、26匹の猿が消えるマジックで評判のサーカス団を描く「26モンキーズ、そして時の裂け目」。サーカス団を率いるエイミーも、実はどうやって猿たちが消えるのか知りません。消えた猿たちは、しばらくして手におみやげを持って戻ってきます。そこにはある秘密が隠されていました――。
 他にも、幸せを夢見たポニーと飼い主に降りかかる災厄を不気味に描いた「ポニー」、言葉をしゃべる犬と人間が暮らす世界を描いた「犬たちが進化させるトリックスターの物語」など、動物好きにはたまらない作品が並んでいますが、圧巻は表題作の「霧に橋を架ける」です。このお話に動物は登場しないのですが、あまりに素晴らしい一編なのでご紹介します。

著者は不思議な川というモチーフに惹かれているのか、本作では〈霧〉が川となって流れている世界を舞台にしています。それは我々が日常的に知っている霧ではなく、霧に似たぶわぶわとした物質です。霧の中にはそこを泳ぐ魚がいて、人々は霧の川を渡し船で往来しています。霧の川を渡るのはとても危険で、難破したり、巨大な魚〈でかいの〉に襲われて命を落とすこともあります。そこで、霧に橋を架けようという計画が持ち上がります。「蜜蜂の~」と同様、こちらも比喩ではなく、本当に「霧に」「橋を架ける」話なのです。

技術責任者兼建築家として呼ばれたのは、アトヤールという大都市から来たキット・マイネン。これまでいくつか橋を架けた経験がありますが、今回ほど大きなプロジェクトを手掛けるのは初めてでした。彼は渡し守のラサリという女性の協力のもと、橋の建設作業を進めていきます。
 人々の反応はそれぞれで、キットを歓待してくれる人もいれば、よそ者として距離を置く人もいます。渡し守は町に二人だけで、霧の状況を見ながら渡れるかどうかを判断するため、キットは長い間待たされたりします。ラサリをはじめ癖のある者も多く、船に乗れば大きな魚に襲われ、作業は思うように進みません。やがて工事中の事故で人が亡くなり、キットは自分のせいではないかと思い悩みます。そして、少しずつ仲良くなり始めた人々との距離をあらためて感じるのでした。
 いっぽう渡し守のラサリは、もし橋が完成してしまえば今までのように仕事ができなくなります。その葛藤を抱えながらも日々、淡々と仕事をこなしている彼女に、キットは次第に惹かれていきます。

こうして橋の工事に伴って様々な出来事が起こり、そこに巨大なプロジェクトを任されたキットの苦悩があり、人々との交流が描かれていきます。僕はSFはやや苦手な分野なのですが、とてもすんなりと話に入り込み、存分に楽しむことができました。それは本作が、人間ドラマとして素晴らしい出来栄えに仕上がっているからでしょう。


小説「ノ・チャンソンとエヴァン/キム・エラン」(『外は夏』所収)

2020年05月09日 21時50分00秒 | 犬の本

ペットを飼っているご家庭に、小さなお子様がいらっしゃることも少なくありません。子供と犬であれば体の大きさはさして変わらず、似た者どうしの彼らが一緒に戯れている姿を見ると、こちらも心が和みます。情操教育にペットは有効だ、というのはやや人間本位の考え方かもしれませんが、たしかに物言わぬ動物たちとの触れ合いの中で、相手への思いやり、力の入れ加減などを学んでいくことは事実だろうと思います。もちろん、人と人との交流で学ぶことも多いでしょうが、動物たちは人間よりも寿命が短いという点において、大事なことを凝縮して教えてくれるような気がします。

そこに着目するせいか、子供と動物を描いた作品は多くあります。ふりかえればこのブログでも、『冬の犬/アリステア・マクラウド』、『グース』、『若き日の哀しみ/ダニロ・キシュ』、『おわりの雪/ユベール・マンガレリ』などなど、動物と子供を描いた作品を多く取り上げています。そこでは動物の死や、人と動物との別れが大きなテーマとなります。思えば、生きることと死ぬことは表裏一体であるにも関わらず、死を見つめることはタブーとされることが多い。しかし、誰も自分の死や愛する者の死を避けることはできません。そこを、いわば“ちょうどいい具合に”見せてくれるのが、身近な動物の死なのではないでしょうか。

今回ご紹介する小説「ノ・チャンソンとエヴァン/キム・エラン」は、短編集『外は夏』に収録されている作品で、やはり少年と犬との交流が描かれています。

11歳の少年ノ・チャンソンは祖母と二人で暮らしています。彼の父親は二年前、交通事故で亡くなりました。祖母は近くにある高速道路のサービスエリアで働き、そのわずかな収入で生計を立てています。ノ・チャンソンは祖母の勤める軽食コーナーでときおり食事をとっていましたが、ある日、トイレ脇につながれていた犬を見つけます。白い雑種犬でした。彼は最初、誰か大人が助けてくれるだろう、と特に気も留めていませんでした。けれどほんの気まぐれで犬に氷を舐めさせたとき、犬の舌が手のひらをくすぐる感覚が、彼の心に不思議な痕を残します。気づけば彼は犬を連れて帰っていました。父親を亡くした一か月後のことでした。
 祖母は犬を見て、こんな老犬飼えない、元の場所に戻してこい、と怒ります。彼女は、その犬から老いの醜さ、みじめさを感じるのが耐えられなかったのです。確かに犬は歯はボロボロで毛艶もありませんでした。それでもノ・チャンソンは、自分が責任を持つから、と犬を飼い始めます。

彼は犬にエヴァンと名づけ、その日から毎日一緒に寝るようになります。エヴァンはボール遊びや散歩が大好きでした。そうして二年が過ぎたころ、エヴァンの様子がおかしくなります。餌を食べなくなり、ボールを投げても動こうとしません。歩いていてもすぐに座り込み、自分の足をずっと舐めています。獣医に診せると、癌に冒されていることがわかりました。手術をしないと危険だし、手術をするのも危険な状態でした。獣医はノ・チャンソンに、安楽死という方法があることを静かに告げるのでした。

何をおこない、何をおこなわないのか。人生とは、選択の繰り返しです。幼い子供でさえその原理から逃れることはできません。自分の下した一つの選択が、また次の選択の場面へと彼を導いてゆきます。犬を飼うと決めたことでノ・チャンソンが得たもの、それは動物と共に暮らす喜びでした。彼がエヴァンと初めて一緒に眠ったとき、〈誰かをぎゅっと抱きしめて眠る気分がどんなものか、はじめて知った。エヴァンの温かくて小さな体が呼吸に合わせて上下するのを見るだけで穏やかな気持ちになった〉というシーンは、犬好きにはたまらなく共感できる部分でしょう。それから、一緒にボール遊びをするシーン。〈チャンソンはたまにエヴァンが咥えて持ってきてくれるものが、ボールじゃなくて別の何かみたいに感じることがあった。そしてボールだけどボールじゃないその何かが自分を変えたことを知った〉という記述にも、胸が熱くなることでしょう。

ノ・チャンソンは、子供なりの能天気さを備えているのか、意外にあっさりと重要な決断をすることもあります。興味深いのは祖母との対比で、祖母は年老いてもなお貧しさから抜け出せないことに、常に不満を抱えています。だから世の中を恨み、人生を恨んで暮らしています。
 彼女は夕食のあと、煙草を吸いながら、「主よ、我を赦し給え」と小さく唱えます。詳しくは描かれませんが、生活のために何か後ろ暗いことをしているようです。人がどう生きるのか、善い悪いという基準で単純に計れないこともあります。誰もが血や涙を流しながら、何らかの選択を日々、おこなっているのです。

著者のキム・エランという女性は、四十歳そこそこという若さながら、人生の深いところに踏み込んだ作品を書く作家さんです。本短編集においても、男女の格差に疲弊していく三十代カップルを描いた「向こう側」、自分の子供だけは大丈夫と思っていた母親が我が子の闇に触れる「覆い隠す手」など、短いながら心を揺さぶられる秀作が並んでいます。そしてどの作品にも、誰かを失った人が出てきます。
 なにげなく生きているように見えて、誰もが心に損失や違和感を抱えて暮らしています。「外は夏」というタイトルは、そうした人々の虚無的に冷えた内面と、変わらず脳天気な世の中との対比だと僕は捉えました。


小説『冬の犬/アリステア・マクラウド』

2020年03月27日 23時00分00秒 | 犬の本

「この子は番犬にならないんですよ」
 新規のお客様宅にお伺いした際、よく聞く言葉のひとつです。僕と会うなり尻尾を振って懐いている姿を見て、苦笑交じりにお客様がそうおっしゃいます。もちろんペットシッターとしては、番犬タイプよりもこちらのほうが嬉しいことは言うまでもありません。

僕が子供の頃、田舎で暮らしていたせいもありますが、犬はたいてい外につながれ、番犬にされていました。ほかにも牧羊犬や猟犬、介助犬など、犬は人間との暮らしの中でさまざまな役割を与えられてきました。それは、時代や住む場所によっても変化します。
 今回ご紹介する小説『冬の犬/アリステア・マクラウド著 中野恵津子訳』にも、こうした犬たちが登場します。カナダ南東の海に浮かぶケープ・ブレトン島を舞台に、8編が納められた短編集です。ケープ・ブレトン島は、『赤毛のアン』で有名なプリンス・エドワード島のすぐ東に位置する小さな島です。著者自身がそこで過ごしていたこともあり、島での暮らしの様子がリアルに描かれています。

表題作「冬の犬」も、ケープ・ブレトン島に住む男性の物語です。妻と小さな子供たちとで平和に暮らす彼は、クリスマスの時期、離れて暮らす家族の病気のため、気の休まらない日々を送っていました。ある日の早朝、雪が降ったのを喜ぶ子供たちが外で遊び、そこへ隣家のフェンスを越えて一頭のコリー犬がやってきて遊びに加わります。彼はその犬を見て、過去の記憶を蘇らせます。
 彼が子供だった頃、同じようなコリー犬がいました。犬は家畜犬としてやってきたのですが、牛や馬の群れを誘導する役目をうまく果たすことができません。群れのそばを走ったり軽く噛んだりするのではなく、本気で噛みついて家畜を驚かせ、ケガをさせてしまうのです。噛まれた傷から血が流れ、牛乳に混じって駄目にしてしまうこともあり、犬は「いないほうがまし」と言われる始末でした。
 それでも犬は立派に育ち、途方もない力持ちだったのを買われ、そりを引くようになります。クリスマスツリーや大きな小麦粉の袋、猟で仕留めた鹿などを楽々と運び、時には人がそりに乗ることもありました。ある年の冬のはじめ、彼は犬の引くそりに乗り、海辺へ出かけます。海には流氷が集まっており、流氷の上を彼と犬は冒険に出かけました。凍りついて死んでいるアザラシを見つけ、一緒にそりに乗せて帰路につきますが、途中で流氷の間に落ち、アザラシは海の底に沈みます。彼もそりと共に沈みかけたとき、力持ちの犬が必死で彼をくわえ、氷の上に引きずり上げてくれたのでした。

けっして器用ではない犬。それでも人との絆を忘れない犬。そもそも、自由に生きていいはずの動物に無理やり仕事をさせ、人間のために働かせたのは人間の都合です。なのに、それがうまくできないからと言って馬鹿にされるいわれはないはず。そして、犬の側が人間を見限ってもいいところなのにそうしない。犬がなんともいえず愛おしく思えるのは、そうした姿を見る時です。
 本作は、最後に衝撃の結末を迎えます。それも人間の勝手ではあるのですが、じゃあ人間が完全な悪なのかというと、そうも言い切れません。

訳者あとがきにもあるとおり、ケープ・ブレトン島周辺には、スコットランドからの移民が多く住んでいます。初めて知ったのですが、かつてスコットランドのハイランド地方を羊毛の一大産地にするため、そこに住む人を追い出した歴史がありました。これは「クリアランス」と呼ばれる出来事で、行き場を失った人々はイギリス周辺のほか、北米やオーストラリアにまで新天地を求めました。ケープ・ブレトン島に住む人々もそうした末裔が多く、スコットランドの伝統であるケルト文化を大切に守って生きています。

短編集の他の作品でも、ケルト文化への執着、そして島での苦しい生活が描かれます。決して楽ではない暮らしの中で、犬は人間が生きていくのに不可欠な存在でした。過去のできごと、別の場所でのできごとを今の我々の基準で断罪することは、してはならないことだと思います。その時代、その場所で、誰もが必死に生きてきたのですから。


小説『友だち/シーグリッド・ヌーネス』

2020年03月06日 23時50分00秒 | 犬の本

お客様から、どの獣医さんがいいのと訊かれることがありますが、なかなか答えづらい質問です。理由は簡単で、すべての獣医をすべてのケースで比べたことがないからです。どのワインがいいのかと聞かれるソムリエは、すべてのワインをいろんな条件で試したうえで答えることができます。いっぽう、たとえば一都市の中でも、すべての獣医を様々なケースで比較できるような専門家は一人もいません。
 僕がひとつアドバイスできるとしたら、あまり噂を信用しないほうがいいということ。どうしても人は、一つのケースをすべてに当てはめてしまいがちです。どんな名医でも一定の確率でミスをおかすでしょうし、治療を施しても亡くなってしまうペットはたくさんいます。「〇〇獣医のところに行ったけど、うちの犬は良くならなかった」等の話はいくらでもありますし、だからその獣医が駄目だと言い切れるはずはありません。

それでも飼い主さんにとって、信頼できる獣医さんの存在は大きな助けとなります。今回ご紹介する小説『友だち/シーグリッド・ヌーネス著・村松潔 訳』には、不愛想であまり信用のおけない獣医さんが出てきます。主人公の女性〈わたし〉は、飼い始めたグレート・デーン犬のアポロを近くの獣医に連れていきます。犬は関節炎を患っていました。〈わたし〉は獣医に、長年友人だった男性が亡くなり、彼の飼っていた犬を引き取ったこと、その犬はもともと捨てられていたのを彼が拾って育てていたことなどを伝えます。
 アポロはドッグパークで他の犬と遊ばない、と〈わたし〉が言うと、〈彼はもうそんなに若くはありませんから〉と獣医は答えます。アポロの健康状態について訊けば、〈年齢にしてはかなりいいが、長生きはできないでしょう〉と即答します。まるで低能に話すような態度の獣医を、〈わたし〉はかなり警戒していました。
 ところが獣医は、この犬が標準体型からどのくらい違っているかを、後半身と比べた胸と肩幅の広さ、首の毛色、黒い斑の分布、両目の間隔や顎の形などから詳細に語ってくれます。そして、アポロは以前の飼い主の死を悼むあまり情緒が不安定になっているのでは、という〈わたし〉の意見をすんなり認めてくれるのです。
 獣医は、犬の不安や鬱を治療する薬はあるが、それは使いたくない、と言います。薬の効果が出るまでに何週間もかかり、結局効果がないこともあるからです。それよりも長時間ひとりにさせないこと、話しかけるのを忘れないこと、運動をさせること、マッサージをしてあげることなどを勧めます。〈実際には、犬はわたしたちが思っているよりずっと謎だらけで、複雑だ〉〈犬がわたしたちの言葉を話せるようにならないかぎり、犬の考えていることはわからない〉と彼は言います。話を終える頃には、〈わたし〉はこの獣医のことを初めより好きになっていたのでした。

本作は、犬と人とをめぐる思索の物語だといえます。ペットシッターである僕は、上記の獣医とのやりとりも興味深く読みましたが、犬特有の性質、その純粋な善性を語る部分も忘れられません。〈わたし〉が獣医を訪れたあと、詩人リルケの言葉を引用しながら語るシーンです。
 たとえば飼い主に全幅の信頼を寄せている犬がいたとします。彼(その犬)にとっては、飼い主が神であり、どんな状況にも対処してくれると思っています。ところが自分が病気になり、苦痛を感じても、すぐにその痛みを取り去ってくれないとき。(飼い主が獣医さんに連れて行ったとしても、すぐに良くならないこともありますよね。)そんなとき、犬がどう思っているか。
「飼い主さんは、本当は僕を治す力を持っているのに、なぜかそうしてくれない。僕がなにか、気に障ることをしたのだろうか?」

僕はこの部分を読んで、あまりのいじらしさに泣けてしまいました。本当に犬がそう思っているかどうかは別として、著者の犬に対するまなざしの優しさと深さに感服したのです。
 主人公の〈わたし〉は、犬の飼い主だった男性を亡くしたことで、喪失感に苛まれています。だから、自分の小さな家で巨大なグレート・デーンを飼えるはずがないと知りつつ、彼の犬を引き取ります。思ったとおり、犬との生活は不自由と不都合だらけでしたが、次第に犬への愛おしさが募っていきます。なのに喪失感は消えません。〈わたし〉は苦悩し、過去に読んだ本や映画にその助けを求めます。そうした〈わたし〉の頭の中がそのまま文章におこされたのが本作であり、思索の旅は、生と死、男性と女性、作家であることや文章を書くことの意義、人と動物、人と人との愛など、さまざまに無作為に飛んでいきます。いったい何の話をしているのだろう、どこに連れていかれるのだろう、と時おり不安になりながら、読むのをやめられません。

訳者が巻末に書かれたとおり、ほんとうに不思議な小説です。単なる犬と人との感動話を期待して読むと、戸惑いを覚えることでしょう。ところが本作が最後に示してくれるのは、普遍的な、愛に関する捉え方です。それはリルケの言った、「守りあい、境界を接し、挨拶を交わしあうふたつの孤独」という愛の定義に関するものです。〈わたし〉が行き着く境地はどのようなものか、かぎりなく美しい最終章を読みながら感じていただければと思います。


小説『ティンブクトゥ/ポール・オースター』

2020年02月14日 23時45分00秒 | 犬の本

ペットのシッティング期間中、 ペットシッター自身が体調を崩したらどうなるのか、と聞かれることがあります。普段から体調管理に努めることはもちろんなのですが、それでも不測の事態に陥る可能性はあります。ペットシッター・ジェントリーでは、近隣に複数のスタッフが在籍していますので、基本的にはそのスタッフ達が代わりにシッティングを実施することになります。スタッフは全員、パソコンの同じツールを使っており、作業用のデータはオンラインで簡単にやりとりができます。通常よりも時間はかかるかもしれませんが、体調不良でシッティングに行けない場合でも、別スタッフが対処することは可能です。
 もっと緊急の事態、たとえばシッターが交通事故に遭い、意識を失ってしまったとしたらどうでしょう。この場合、即座に対応することは難しく、解決は容易ではありません。ただ、当方のスタッフは全員、緊急時対応カードを財布などに入れて保持しています。カードには、ペットシッターという仕事をしており、自分がいないとペットの身に危険が及ぶため、このカードを見たらすぐ連絡をして下さい、という旨が書かれ、裏面には別スタッフや家族の連絡先が一覧になっています。つまり、誰かがそのカードを見た段階で、別スタッフに連絡をしてもらうという想定です。現時点ではこのくらいの対処しか考えられませんが、最悪の事態でも、考えられるかぎりの備えはおこなっているつもりです。

しかし、ペットシッターと違い飼い主の皆様が体調を崩された場合、事情はもっと深刻です。すぐに治る程度ならよいのですが、長期の入院となったり、そのまま治らず亡くなってしまった場合、ペットはどうなるのか。これまた簡単な問題ではありません。
 今回ご紹介する小説『ティンブクトゥ/ポール・オースター著・柴田元幸訳』でも、死にゆく飼い主と犬との別れが描かれます。ただ、ポール・オースターという作家はひねくれた小説を書く人で、本作においてもいくつか特徴があります。いちばんは、語り手が犬だということ。犬の一人称で、犬から見た人間や世界の姿が描かれるのです。かといって「~だワン!」みたいに、わざとらしく犬の語りを際立たせるわけではありません。

主人公となる犬のミスター・ボーンズは、7年ほど前から、ウィリーという男性とニューヨークで暮らしています。ウィリーは幼い頃に父親を亡くし、口うるさい母親と二人で生きてきました。何かにつけ母親に反抗し、青年期に入るとドラッグに手を出した挙げ句、精神を崩壊させて病院に入ります。放蕩のすえ、あるときテレビから神の啓示を受け、自らをサンタクロースだと名乗りはじめます。その後は、詩作にふけったり、危険を顧みず暴漢から市民を救ったり、かと思えばアルコールに助けを求めたり、奔放な日々を送ります。身の回りに敵が増えるなか、ボディガードとして飼い始めたのがミスター・ボーンズでした。
 こうして年月が過ぎたあと、ウィリーは重い病気にかかり、命の炎が尽きようとしていました。彼は、かつて自分の文学的才能を見出し、支えてくれた女教師のもとを訪ねるため、ミスター・ボーンズを連れてボルチモアへと向かいます。願いは二つあって、一つは書き溜めた膨大な文章を託すこと。もう一つは、ミスター・ボーンズの世話を引き受けてもらうことでした。

さて、オースター作品のもう一つの特徴は、物語が一本調子に進まないことです。現在の状況を語るなかでミスター・ボーンズの回想が混じり、当初の目的だった女教師に会う計画もすんなりとは進みません。ミスター・ボーンズが見た夢の話があり、夢の中の犬がまた夢を見ていたりして、いったいいつの時代の出来事なのか、いま起きているのは真実なのか空想なのか、判然としなくなってきます。物語は読者の予想を外れ、意外なほうへと進んでいきます。

訳者あとがきによれば、著者のオースターは、現実の犬の思考や感情を再現しようとしたつもりは毛頭ないのだそうです。それでも僕は、自分が犬だったらどう考えるか、目の前の出来事をどう捉えるのかと、著者が真摯に向き合って描いた気がしてなりません。もちろん、犬が本当にどう思っているのかは知るよしもありませんが、少なくとも本書を通して鼻白む箇所は一つもなく、ミスター・ボーンズに対する愛着は読むごとに深まっていきます。犬に対する興味や愛着がなければ、こうは書けないでしょう。

やがてミスター・ボーンズはウィリーのもとを離れ、各地を渡り歩くこととなります。様々な人と出会い、幸せも不幸せも経験していきます。果たして最後に行きつく先はどこなのか、そして、タイトルの「ティンブクトゥ」とはいったい何なのか。ぜひ読んで確かめてみてください。一風変わった犬小説ですが、読み終えた後にはとても素直で清々しい感動が待っています。そして、ミスター・ボーンズのことを心から愛おしく思えることでしょう。


小説『若き日の哀しみ/ダニロ・キシュ』

2020年01月24日 23時50分00秒 | 犬の本

先日、リピーターのお客様から、とくにお世話を終えたタイミングでもないのに贈り物が届きました。見てみると、今年のカレンダーでした。いつもお世話をしていたワンちゃんが亡くなったのはお聞きしていたのですが、カレンダーはその子の写真を取り込んでご自分で作られたものでした。まだ亡くされて間もない時期なのに、当方のことまで気遣っていただき、本当に嬉しく思いました。

ペットを飼っていると、どうしても彼らの死に向き合わなければいけない時がきます。天寿を全うして亡くなることもあれば、まだ若いのに命を落とす子もいます。逃げてしまってそれっきりになったり、なにかの都合で離ればなれになってしまうことも。どういう原因であれ、ともに暮らしたペットと別れるのは辛いものです。今回ご紹介する小説『若き日の哀しみ/ダニロ・キシュ著・山崎佳代子訳』でも、犬と少年との別れが切なく描かれています。

著者のダニロ・キシュは、ユダヤ人を父に、モンテネグロ人を母にもつ、ユーゴスラビアの作家です。1935年に生まれた彼は、少年時代に第二次世界大戦を経験しました。ナチスからの迫害で生活は蹂躙され、ユダヤ人である父親は捕らえられアウシュビッツに送られます。『若き日の哀しみ』は、そうした著者の半自伝的小説となっています。

主人公の少年アンディは、両親、姉と共に四人で暮らしています。彼らのつましい生活が、3~4ページほどの掌編で断片的に語られ、それらが積み重なることで一つの物語ができあがっていきます。子供同士の無邪気な遊び、町にサーカス団がやってきて去っていく話、アンディの淡い恋模様など、日常の些細なできごともあれば、戦時の緊迫したできごともあり、それらがすべて詩情豊かに抒情的に綴られていきます。とても美しい小説です。

映画『この世界の片隅に』で、主人公のすずさんが、戦闘機の爆炎を見てうっとりするシーンがあります。いま絵の具があればこの風景を描きたいと空想したあと、慌てて「自分は何を考えていたのか」と自責しますが、本作を読んで覚えた感慨にもそれに近いものがありました。作中、戦争の陰は至るところに忍び込んでいて、それはタイトル通りの哀しみをもたらすのですが、同時にどこか美しさを感じずにはいられません。もちろん戦争が美しいと言っているわけではなく、戦時であってもたくましく生きる人々の美しさです。

直接的な反戦、戦争の悲惨さを訴えるような書き方は、意図的に避けられています。たとえば「略奪(ポグロム)」という一編は、近所の人がユダヤ人の倉庫を襲撃する話ですが、アンディは興味本位で現場に行き、盗品を持ち帰る人々を眺めています。小麦粉を奪う人の眉が真っ白になっていたり、なぜか女性からイタリア製の缶詰を渡されたりしながら、暴動の恐怖よりも、〈それは滑稽なお祭りのようだった〉とアンディは感じるのです。

本作は語りにも手が込んでいて、大部分は少年アンディが語り手で「僕は~した」と書かれているのですが、ときおり父親の目線や三人称描写が入り混じります。それは、様々な人々の思いを重層的に示すためだったり、客観性や普遍性を強調したいためだったりなど、明確な意図を持って書き分けられています。
 「少年と犬」という一編ではなんと、ディンゴという名の犬が語り手です。そこにはアンディが思う、「犬はきっとこう考えていたのだろう」という優しい気持ちが表現されており、強く心を揺さぶられます。
 ディンゴは四匹の兄弟で生まれてきますが、そのうち二匹は人の手で処分されます。犬を養うのも困難な時代でした。ディンゴはアンディの家に引き取られ、大事に育てられます。戦時の混乱と恐怖のなかで、ディンゴの存在はアンディたち一家の心のよりどころになります。ところが、アンディは住み慣れた家を離れなくてはならなくなり、そこには犬を連れていけません。アンディはわざとディンゴに冷たく接するようになり、そのことでディンゴはアンディと離れなくてはならないことや、アンディの苦しい心持ちを理解するのです。もう、この一編だけは涙なしに読むことができません。

この小説は、僕の心に大きな衝撃を与えました。戦争に翻弄されたユーゴスラビアという国について考えるきっかけを与えてくれるとともに、小説の持つ凄みを感じました。静かで美しい、同時に、激しく心に突き刺さる一作です。


小説『ベルカ、吠えないのか?/古川日出男』

2020年01月10日 23時50分00秒 | 犬の本

以前、『少女奇譚 あたしたちは無敵/朝倉かすみ』 という小説をご紹介した際、動物愛護について自分なりに思うところを書きました。他にも似たような疑念はいくつかあって、そのうちの一つが純血信仰です。犬でも猫でも、ペットショップで売られているペットはたいてい純血種です。最近では愛護センターから引き取るケースも増えてきましたが、純血種をありがたく思い、純血種なら安心、とペットを購入する人は少なからずいます。

昨年出された『純血種という病/マイケル・ブランドー』という本では、そのあたりがかなり批判的に書かれているようです。ただ僕は、純血種を作出し、それを大事に扱うことを、一概に否定することもできないでいます。たとえば、犬種を人種に置き換えてみたとして、皆さんは日本人という人種にこだわりはないでしょうか? 僕にはあります。この先、大相撲の力士が全員外国人になったらちょっと嫌だなあとか、世界で活躍する日本籍のスポーツ選手が純粋な日本人だとより嬉しいなあとか思う気持ちは、どこかにあります。それを差別というなら、そもそもオリンピックなどの競技会で日本人選手を応援すること自体、差別だということになってしまう、そんな気もします。

ペットに話を戻しましょう。ペットシッターにとっても純血種というのは正直、ありがたい存在です。初めて接するペットの場合、純血種ならある程度、性格や対応の仕方が事前にわかるからです。これがミックス(雑種)の場合、実際に会ってみるまで何もわかりません。人間と動物とが平和に共存していくため、穏やかで人懐こい性格が求められ、そうした動物が作出されていきました。そのことが100%悪いことだとも思えません。ただ、純血種だからこその先天的疾患や弱さを持つことがあるのも事実です。このあたり、忸怩たる思いを抱えながら、日々いろんなペットと接しています。

さて、今回ご紹介する小説『ベルカ、吠えないのか?/古川日出男』は、どストレートな犬の小説です。このブログを開設するにあたり、絶対に紹介しようと最初から思っていた一作であり、僕の大好きな小説です。

太平洋戦争で日本が占領し、その後に手放したキスカ島。そこに残された4頭の軍用犬から物語はスタートします。1頭の名は〈勝〉。進軍してきたアメリカ兵を地雷に誘い込む特攻で爆死します。残された〈正勇〉、〈エクスプロージョン〉、〈北〉の3頭はそれぞれの子を残し、その子孫がそれぞれに数奇な運命をたどっていきます。
 〈正勇〉と〈エクスプロージョン〉は、純血のシェパード犬。彼らは夫婦となってまた純血の子を産みます。ドッグショーで人気となり、人間の管理下でその子孫もまた純血が守られていきます。
 いっぽう、〈北〉は北海道犬でした。やはり人間の管理のもと、様々な犬種との子供を作り、その子孫はさらに狼の血までも交えつつ、雑種としての逞しさを身につけていきます。

この小説、とにかく話のスケールがでかいのが特徴です。4頭の犬から始まった物語は、彼らの行く末を追いながら、同時に二十世紀という戦争の時代を丹念に描いていきます。第二次大戦後の冷戦構造があり、米ソの代理戦争である朝鮮戦争、ベトナム戦争が勃発します。やがて米ソの宇宙開発競争が始まり、ソ連が世界で初めて宇宙へ飛ばした動物は正に犬でした。こうした歴史上の出来事に、最初の4頭の子孫が絡み、ダイナミックに話が展開していきます。
 歴史を順番にたどる描写と並行して、現代ロシアにおけるチェチェンとの対立が描かれます。登場するのは、〈大司教〉と呼ばれる凄腕の殺し屋、日本のヤクザとその娘。彼らの行動と、当初4頭から始まった犬の歴史とがやがて結び合うとき、読む者の胸に震えるような感動が生まれます。

つまり本作は、壮大な裏面史ものです。二十世紀という時代において、犬がどれだけ大きな役割を果たしてきたかが描かれています。史実以外は全てフィクションです。それにしてもなんという創造力でしょう。読んでいてこれほど胸が躍り、熱い感情がこみあげてくる作品を知りません。とくに、雑種としての“強さ”を高めていく〈北〉の子孫と、純血を貫く〈正勇〉と〈エクスプロージョン〉の子孫が、ある時、ある場所で運命の出会いを遂げるシーンは、落涙間違いなし。同時にそこで、冒頭に掲げた純血種と雑種に関する考察が頭をもたげてきます。はたして著者はこの問題にどう決着をつけるのか、ぜひ読んで味わってみてください。
 とにかく本を開いたが最後、一気読み必至の傑作小説です。大スペクタクル冒険絵巻、極上のエンタテインメントがここにあります。