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ペットシッターの紹介する本や映画あれこれ by ペットシッター・ジェントリー

ペットシッターを営む著者が、日常業務を交えつつ、ペット関連の本や映画を紹介します

映画『黒猫・白猫』

2020年01月03日 18時00分00秒 | 猫の映画

この年末年始も、各店舗ともにたくさんのご依頼をいただき、本当にありがたく思っています。ペットブームが去る気配はなく、人間関係がどんどん難しくなるなか、ペットに安らぎを求めている人が増えている気がします。動物たちの見せる嘘のない(ように見える)仕草を見れば、こちらも安心して心を許せるのでしょう。だからこそ、ペットとして飼うばかりではなく、テレビやネットでの動物の映像があれほど人気があるのだと思います。

今回ご紹介する映画『黒猫・白猫』にも、たくさんの動物たちが登場します。タイトルになっている猫のほか、犬やネズミ、ブタ、ガチョウなどが、妙な脚色を施すことなく素のままの行動で、見る者を楽しませてくれます。
 とはいえ本作、いわゆる動物映画ではありません。そして、猫の登場シーンもさほど多くありません。それでも本作は心から楽しめるエンタテイメント映画ですので、広くお勧めしたい一本なのです。

監督は、旧ユーゴスラビア(現ボスニア・ヘルツェゴビナ)生まれのエミール・クストリッツァ。エンタメ映画というより政治色の強い作品を多く残しており、日本での知名度はそれほど高くありません。それでも、カンヌ国際映画祭のパルムドールを二度も受賞している大御所であり、前回ご紹介した映画『パターソン』を撮ったジム・ジャームッシュ監督も、このクストリッツァ監督の大ファンだと公言しています。そんなクストリッツァが、一度引退してからの復帰作として、肩の力を抜いたコメディである本作を作り上げました。

ドナウ川のほとりで暮らすロマの一族の物語です。ギャンブル狂いのマトゥコは、17歳の息子ザーレと共にロシア商船との闇取引で稼ごうとしますが、騙されてしまいます。マトゥコは父の昔なじみである“ゴッドファーザー”ことグルガに頼み、列車を襲って石油を奪う計画を実行します。ところが、グルガの子分格である新興ヤクザ・ダダンに騙され、借りた金も巻き上げられてしまいます。金を取り戻すため、今度はダダンの娘とザーレとの結婚話を進めようとしますが、年上の恋人ブランカを愛するザーレは当然のごとく反発します。

こうして、古株マフィアと新興ヤクザ、マトゥコとザーレ、さらにはマトゥコの父親も登場して、賑やかなドタバタ劇が繰り広げられます。タイトルの黒猫と白猫は、登場はするのですが、ストーリーには直接関与しません。途中で何度か、傍観者としてクールに人間たちを見つめるまなざしとして登場し、マトゥコ達のバカさ加減をあぶり出していきます。「あーあ、また人間どもが馬鹿なことやってるよ」といった感じです。その他、人間たちに翻弄される賑やかし役として、先に掲げた犬やネズミ、ブタ、ガチョウなども出てきます。

舞台は現在のセルビア東部にあたり、言葉も風景も、我々にはあまり馴染みがありません。内容的にも独特の奔放さ、非道徳さがあり、最初は戸惑うかもしれませんが、徐々に引き込まれていきます。物語は温かい人間愛にあふれていますので、最後は安心して見ることができます。ちょっと毛色の違うコメディとして、猫好きな方にもそうでない方にもお勧めしたい一作です。


映画『猫が教えてくれたこと』

2019年11月08日 14時20分00秒 | 猫の映画

僕が子供の頃(もう40年ほど前ですが……)には、近所を野良犬がうろうろしていました。今はたとえ田舎であっても、野良犬を見かけることはほぼ皆無です。いっぽう野良猫は、昔より数は減ったかもしれませんが、今でも普通に見かけます。もちろん人から餌をもらっていたり、飼い猫が外で放し飼いになっていることもありますが、リードなしで自由に動ける状態で町なかにいるというのは、犬との大きな違いだと言えます。その良し悪しは別として。

今回ご紹介する映画『猫が教えてくれたこと』は、珍しいトルコ製のドキュメンタリー映画です。首都イスタンブールを舞台に、野良猫や飼い猫、さまざまな猫が登場します。彼らは町を自由に歩き回り、いろんな人にかわいがられています。猫好きの方ならよくご存知であろう『岩合光昭の世界ネコ歩き』というBSの番組がありますが、それとほぼ作りが同じだといえば、わかって下さる方は多いでしょう。

イスタンブールは猫の街として有名です。オスマン帝国の時代、海洋貿易で栄えたこの街にはたくさんの外国船が集まっていました。船を荒らすネズミを退治するため猫が同乗し、その猫が人と共にイスタンブールに降りて住むようになったのです。
 本作では、観光客にご飯をねだる“サリ”、撫でられるのが大好きな“ベンギュ”、ネズミ退治が得意な“アスラン”、嫉妬深くケンカの強いメス猫の“サイコパス”など、様々な猫が登場します。なかでも僕が気に入ったのは、グルメ猫の“デュマン”。彼は高級デリカテッセンの店員からご飯をもらっていますが、決して店の中には入らず、店の外で礼儀正しく待っています。味には厳しく、以前はチキンでも何でも食べていたのに、今ではターキーとチーズしか食べなくなったそうです。彼の写真が公式サイトのページに載っていますが、引き締まった口元と鋭い目つきからは深い知性が伺えます。

猫がたくさんいる街、というだけでなく、イスタンブールは猫を愛する街とも言えるでしょう。前述の岩合さんの番組がほぼ全編、猫を追いかけるのに対し、本作では猫と関わる人間達も多く登場します。猫達は魚屋の店先から1匹2匹をかすめとっていくこともありますが、誰も何も言いません。この街ではそういうものだという共通認識があるのでしょう。(もっとも、経済状況が比較的安定しているという要因はありそうですが。)

見ていると、しらずしらずのうちに頬が緩んでしまいます。ときおりはさまれるイスタンブールの街並みや周囲の風景も美しく、街に対する興味も湧いてきます。その意味で、優れた旅行映画とも言えるでしょう。できれば大スクリーンで見たかった。そんな映画です。


映画『こねこ』

2019年10月11日 23時00分00秒 | 猫の映画

昔にくらべ、猫を多頭飼いされる方が増えているように感じます。一匹だけでは寂しかろうという配慮の場合もあれば、ついつい新しい猫を引き取ってしまうケース、避妊はしないというポリシーの元で生まれてきた子猫をそのまま一緒に飼うケースなど、理由は様々でしょう。ペットシッターの依頼を受けるたびお客様から、「また一匹増えまして……」と苦笑い混じりに打ち明けられることもあります。
 そうした多頭飼いの猫たちを見ていると、同じような環境で育っているにも関わらず、それぞれの猫ごとにふるまい方が違っていて面白いものです。これは性格の違いと共に、猫同士での立場の違い、関係性にも理由があるのでしょう。人懐こくてすぐに寄ってきてくれる子の後ろで、警戒して隠れている子がいて、引っ込み思案なのかと思っていたら、人懐こい子が去っていった途端に寄ってきてくれて、ああ、遠慮していたのか、と彼らの関係性に思いを巡らせます。人間社会と同様、猫たちにもそれなりに複雑な事情があるのでしょう。

今回ご紹介するロシア映画『こねこ』に登場する猫たちは、全員が幸せそうに暮らしています。子猫のチグラーシャは音楽家一家の元に引き取られますが、やんちゃ盛りでいたずらばかり。いつも家族に迷惑をかけ、そのたび怒号が行き交う騒動が繰り広げられるのが第一部。その後、チグラーシャが家から逃げ出して街をさまようのが第二部ですが、ここで出会うのが雑役夫のフージェンという男です。彼は猫が大好きで、何匹もの猫と共に暮らしています。懐くままに遊んでいた猫の仕草がやがて芸となり、道端でそれを見せてお金をもらっています。彼の夢は、いつか猫だけのサーカスを開くことでした。ところが彼はマンションからの立ち退きを迫る地上げ屋に襲撃され、病院に運ばれてしまいます。残された猫たちは無事に生き延びることができるのでしょうか。そしてチグラーシャは音楽家一家のもとに戻ることができるのでしょうかーー。

猫好きのフージェンの元に集まるのは、どれも個性派ぞろいの猫ちゃんたち。リーダー格のトラ猫〈ワーシャ〉は勇敢で、ドーベルマンからチグラーシャを守り、家へと案内します。白黒猫の〈ジンジン〉は、2本足でジャンプするのが得意で、フージェンと一緒に縄跳びまでできます。ずっと舌を出したままのペルシャ猫〈シャフ〉はおっとりのんびりしていますが、いったんもらわれていった先から逃げ出して戻ってきます。隣家の飼い猫の白猫〈プショーク〉は、フージェンの家のほうが居心地がいいのか、いつも窓からやってきます。同じく白猫の〈ペルシーク〉は要領がよく、キオスクのお姉さんにかわいがられています。

こうした猫たちが、実に自然な動作で“演技”をし、観る者を楽しませてくれます。もちろんCGや薬剤などは一切使われていません。フージェンを演じるのは本物の猫の調教師で、猫たちの行う芸もすべて本物です。妙な擬人化をされたりナレーションをつけられることもありませんので、見る者は違和感なく映画に没入することができます。イワン・ポポフ監督は、猫たちに無理強いをすることなく、脚本に沿った動きをさせ、実に2年をかけて本作を撮り終えたそうです。

映画を見ると、冬のロシア独特の侘しさが感じられ、それだけで哀愁を誘われます。また、フージェンの生きる環境は1990年代のロシアの貧しさ、厳しさが表現されており、ふだんあまり触れることのない異国の事情をうかがい知ることができます。単なるネコ映画としてではなく、多様な要素を含んだ、大人にも見ごたえのある一本です。


映画『パリ猫ディノの夜』

2019年09月13日 15時00分00秒 | 猫の映画

猫は、猫好きな人と猫嫌いな人を見分ける、とよく聞きます。自分のことを好きな人には寄っていき、嫌いな人には自分からも近づかない。おそらくこれは、猫の嗅覚によるものと思われます。
 犬の鼻が発達しているのは知られていますが、猫についてはどうでしょう。調べてみると、犬の嗅覚が人間の100万~1億倍なのに対し、猫の嗅覚も人間の数万~数十万倍ほどはあるようです。人間は、自分の嫌いなものに出会うと、ごく微量の汗(冷や汗みたいなものでしょう)をかきます。この匂いで、犬や猫は自分を嫌っている人を嗅ぎ分けるようです。

同時に、他の猫の匂いをたくさんつけていることも、猫の興味を大きく引くこととなります。僕がペットシッターとして初対面の猫と出会うと、彼らはまず僕の足元の匂いをかぎます。犬と同様、猫にとっても匂いはいろんな情報源となるようです。
 今回ご紹介する映画『パリ猫ディノの夜』でも、匂いが重要な要素として登場します。詳細はネタバレになるのでお伝えできませんが、フランス産のこのアニメ映画、なかなかに独特でオシャレで、かつ抜群に面白い作品ですのでお勧めです。

まずは絵柄が、昨今のアメリカや日本製のアニメのような緻密でリアルな3Dではなく、イラストタッチの懐かしいものです。主人公はゾエという名の少女。女性警視である母親と二人、パリのアパートで暮らしています。父親も同じく警察官でしたが、捜査中に悪の親玉コスタに殺され、そのせいでゾエは失語症になってしまいました。コスタを捕えることに忙しい母親はなかなか彼女をかまってくれず、ゾエは飼い猫のディノと過ごすことで寂しさを紛らわしています。
 夜になるとディノはふらりとどこかへ出かけていきます。ある日ディノは、ゾエにプレゼントを持ち帰ります。それは高価なネックレスで、ふと気になった母親が調べてみると、最近パリを賑わせている大泥棒の盗品リストにあるものでした。
 不審に思ったゾエはその夜、ディノの後を追って町に出ます。じつは、ディノは泥棒のニコと手を組み、毎晩盗みを働いていたのでした。驚いたゾエが帰宅する途中、コスタ達一味が新たな犯罪計画を練っているところに遭遇し、彼らに追われる身となります。彼女がディノの飼い主だと知った泥棒のニコは、彼女を助けるためコスタ達一行に立ち向かいます。

こうして、パリを舞台にした大立ち回りが展開されます。独特の絵柄で描かれるパリの町並みはとても美しく、登場キャラ達はみな魅力に溢れています。アニメーションにしかできない表現も満載で、見ていて心地よく、幸せな気持ちに浸されます。
 猫のディノは、とくに擬人化はされず、ましてやナレーションなどを当てられることもなく、しっかり“猫”として存在します。なのに、猫映画にしては珍しく派手に活躍するのも本作の特徴です。猫ファンからすれば、よくやった、と快哉を叫びたくなること請け合いです。少し違ったアニメ、少し違った猫映画をお探しの方には、ぴったりの一本だと思います。

一点、補足を。本作には犬も登場し、この犬が本当にバカっぽく描かれていて、犬好きな人はちょっと気に入らないかもしれませんが、それはまあお約束ということで。


映画『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』

2019年07月12日 23時00分00秒 | 猫の映画

ペットシッターとして絶対やってはいけないことの一つは、ペットを逃さない、ということ。室内飼いの場合、玄関からの出入りの際には細心の注意を払います。入る時には、カバンで足元をふさぎつつ、まずは細くドアを開きます。中を覗き、すぐそばにペットがいないことを確認してから、素早く中に入ります。人懐こい犬や猫だと玄関先で待っていたりするので、カバンでペットをそっと奥へ押し込むようにすることもあります。帰り際には、玄関口で室内方向に体を向け、後ずさりで出ます。こうすれば、ペットが走ってきて足元をすり抜けるのを防ぐことができます。

こうした基本事項がまったくできていないのが、映画『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』に出てくるルーウィンです。まあペットシッターではないから当たり前なのですが、売れないフォーク歌手の彼は、住む場所もなく知り合いの家を渡り歩きながら暮らしています。ある日、泊めさせてもらった大学教授の家から出ようとした時、その家で飼っていた猫がするりと玄関先から逃げてしまいます。慌てて追いかけようとしてオートロックの扉が閉まってしまい、ルーウィンは猫と共に街をさまよう羽目になります。

彼は街の鼻つまみ者でした。デュオで歌っていた相棒を自殺で失って以来、自暴自棄で暮らす毎日。友人の彼女と無理矢理に関係を結んで妊娠させてしまったり、世話になった大学教授にひどい言葉を投げかけたり。それは、彼自身がレコード会社に騙されたり、ライブハウスで殴られたりなど、ひどい仕打ちをされた腹いせでもあるのですが、とにかくやることなすことすべてがうまくいきません。一緒にいた猫も窓から逃げてしまい、しばらくして町中で捕まえるのですが、飼い主の元に持っていくと全く別の猫だと判明します。

ルーウィンは、欠員のため呼ばれた仕事で知り合ったミュージシャン(演じるのは、ブレイク前のアダム・ドライバー!)から、シカゴへ行く用事を頼まれ、猫と一緒に乗り込みます。ミュージシャンの友人だという男二人との道中は、ただ消耗するだけの旅路でした。同乗者は途中で警察に連れていかれ、ルーウィンは猫を残して車から去ります。たどり着いたシカゴで彼はライブへの出演を願い出ますが、オーナーから「君には金の匂いがしない」と断られてしまいます。
 ニューヨークに戻ったルーウィンは、真っ当な仕事に就こうと、商船に乗り込むことにします。彼は航海士の免許を持っていたのですが、会員費が未納だと言われて高額を支払った挙げ句、免許証を姉に処分されてしまい、金だけ払ったまま船に乗る道も絶たれてしまいます。

こうしてルーウィンはどうしようもない袋小路に迷い込んでしまいます。ところが、生きる希望をなくしかけた時にわかったのは、こんな自分でも回りの人々は見捨てずにいてくれるという事実でした。
 行方不明だった猫は、最後に大学教授の元に戻ってきます。そこでルーウィンは、猫の名前がユリシーズだと知らされます。ユリシーズとは、ギリシア神話の英雄オデュッセウスのこと。様々な困難を経て戻るべき場所に戻ってくることの象徴なのでしょう。つまり、この映画の中でルーウィン=猫なのだと言えます。気ままに好きなように生き、ボロボロになりつつも人々から愛され続ける、そんな存在。作中、大学教授への伝言を頼む際、「Llewyn has the cat(ルーウィンが猫を預かっている)」と彼が言ったのを、秘書が「Llewyn is the cat(ルーウィンは猫だ)」と聞き間違えるのも、単純に笑いをとるばかりではなく、映画の主題を表しているといえるでしょう。
 したがって、本作に猫の登場シーンは多くはありませんが、猫映画だと言って過言ではありません。同時に、全編に音楽のあふれた音楽映画でもあります。主演のオスカー・アイザックが吹き替えなしのライブ演奏で歌っており、これが素晴らしく美しいのです。

ラストのライブハウスのシーン。ルーウィンが歌った後に出てくるのが実在する歌手で、痛烈に皮肉な幕切れになっています。これが誰なのかは映画を見て、その苦さを噛みしめて下さい。


映画『ハリーとトント』

2019年04月26日 18時00分00秒 | 猫の映画

前回、犬と接する場合の注意点をご紹介しました。猫についても、犬ほど明確な決めごとはないものの、接する際に気をつけることはいくつかあります。
 まず重要なのは、“いかに猫と仲良くなるか”という前に、“いかにストレスを与えないか”を考える必要があるということ。猫は神経質な子が多いので、すこしでも追いかけたり居場所を探したりするだけでストレスを感じてしまいます。せっかく自宅でストレスなく過ごすためにペットシッターが来ているのに、これでは意味がありません。

隠れてしまったり、遠くからこちらを伺っているような場合、こちらからは特にアクションを起こさず、淡々と作業をこなします。こうして何日か通っていると、最初は遠くから様子を伺っていた猫が、徐々に距離を縮めてきてくれることがあります。作業中、いつのまにかすぐそばにいて、にゃあ、とかわいい声で鳴かれたりした日には、「勝った!」と心で快哉を叫ぶほど。本当に嬉しくてやりがいを感じる瞬間です。

いっぽう、すぐに寄ってきたとしても、ご飯を食べたらもう知らんぷりだったり、甘えてくれたかと思ったら何かのきっかけで急に怒り始めたりと、猫は一筋縄ではいきません。仲間の実体験としては、近くでクシャミをした瞬間に態度が豹変し、噛みついてきたことがあったそうです。クシャミの音は猫同士のいさかいで発するあの奇声に似ているせいか、ケンカを売られたと猫が勘違いするようですが、詳細は不明です。
 いずれにせよ猫との触れ合いにおいては、彼らの気ままな、いかにも猫らしい振る舞いに辛抱強くつきあう必要があります。それでも猫好きであれば、普段はむすっと無愛想で、好きな時にご飯を食べ好きな時に動き回る、そうした姿に愛らしさを感じることはわかっていただけることでしょう。だから猫映画は数あれど、かわいい仕草をあまりに強調されたり、忠義を尽くす姿を見せられたりすると興ざめになります。その意味で、今回ご紹介する映画『ハリーとトント』の制作陣は、猫のことを、というより猫好きな人のことをよくわかっています。

猫のトントの飼い主は、ニューヨークで一人暮らしをする年老いた男性ハリー。周りからは偏屈者に思われていますが、実は心優しき老人です。マンションからの立ち退きを要求されたハリーは、トントを連れ、独立した子供達を訪ね歩きます。しかし、無難な付き合いができないハリーは、どこに行っても厄介者扱いされてしまいます。
 ハリーとトントは安住の地を求め、アメリカ中を渡り歩きます。そんな道中で出会う様々な人達が、彼らに安らぎを与えてくれます。何気ないやりとりの中に、彼らの置かれた状況や考え方がさりげなく紹介され、短いけれど心に残るエピソードとして描かれるのです。

たとえばシカゴへ向かうバスの車内。ハリーは隣に座った男に話しかけますが、男はずっとサンドイッチを食べており、相手にしてくれません。無愛想に思えた男でしたが、トントがおなかがすいていると知るや、サンドイッチを分け与えてくれます。
 シカゴに到着したあと、ハリーは娘のシャーリー宅を訪れます。父娘ならではの飾らない、辛辣ささえ厭わない会話の中に、それでも存在する確かな愛情が感じられます。
 その後ハリーは、過去の恋人ジェシーを探しに行きます。ジェシーは認知症で施設に入っており、ハリーは別の男性と間違えられてしまいます。ハリーはそれを訂正することなく、別の男性のふりをしたまま彼女とダンスを踊ります。それぞれに異なる思い出を抱きながら踊る二人の姿は切なくておかしく、涙を誘います。

こうした交流の中で、猫のトントはとくに何の役割も果たしません。ベッドの上で一心にチキンを食べたり、抱かれて微妙に嫌がったり、毛繕いをしたり、車の窓からじっと外を眺めていたり。映画のどんな場面にも、ただ寄り添う存在としてのトントがいて、何も言わず何もしないけれど、ハリーや見ている我々を癒してくれるのです。
 
本作は1974年公開ですが、その年は『ゴッドファーザーPart2』『タワーリング・インフェルノ』『チャイナタウン』などの大作がひしめくなか、ハリーを演じたアート・カーニーがなんとアカデミー主演男優賞を獲得しています。アル・パチーノ、ダスティン・ホフマン、ジャック・ニコルソンを押さえての快挙です。本作がどれだけ多くの人の心に届いたかの証明となりました。