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ペットシッターの紹介する本や映画あれこれ by ペットシッター・ジェントリー

ペットシッターを営む著者が、日常業務を交えつつ、ペット関連の本や映画を紹介します

小説『おわりの雪/ユベール・マンガレリ』

2019年12月13日 20時00分00秒 | 犬の本

今年はなかなか寒くならないですね。仕事柄、車に乗っている時間が多く、日中だと車内は30℃近くにもなります。車の中は温室と同じですので、冬の装いだとかなり暑く感じてしまいます。

何度も書いているとおり、ペットシッターの仕事は夏のほうが大変です。冬は寒くて大変だろうと思われがちですが、室内はペットのためにエアコンが入れてありますし、犬のお散歩も、歩いていれば体が温まってくるのでさほどのことはありません。雨や雪の中、カッパを着て犬のお散歩をしている姿ははたから見れば辛そうですが、やってみれば大したことではないとわかります。ただ、安く売っているポンチョタイプのカッパはすぐに水がしみてくるので使えません。どのペットシッターでも、カッパはそこそこ良いものを使っていると思います。

さて、こうして徐々に寒くなる頃に紹介したいとずっと思っていた小説があります。『おわりの雪/ユベール・マンガレリ著・田久保麻理訳』という作品です。
 舞台はヨーロッパの小さな町。主人公の少年は両親と三人で暮らしています。父親は病気のため寝たきりで、一家は父親の年金と少年の稼ぐわずかなお金で暮らしています。少年の仕事は養老院にいる老人と散歩をすること。介助をしながら短い距離を歩き、老人からお駄賃をもらうのです。
 養老院からの帰り、少年は道端で売られていたトビをどうしても欲しいと思うようになります。家に帰ると父親にトビの話をし、父親があまりに熱心に聞きたがるため、少年はトビ捕りと出会った話、トビをつかまえた話などを自分で創造しながら語ります。
 いっぽう、少年のすくない稼ぎではトビを飼うお金はなかなか貯まりません。あるとき、養老院のお婆さんが亡くなり、飼い犬が残されます。犬をどうにか処分できればお金をやると言われ、それがあればトビを飼うことができます。少年は迷ったすえ、雪の中を犬と共に歩き始めます。

ほんとうに静かな静かな小説です。ドラマめいたことも起こるには起こるのですが、少年と父親との会話、養老院で仕事を待つ間に飲むコーヒー、粗末な家での暮らしなど、どうということもないシーンが丁寧に語られ、そこに情景が浮かんできます。読んでいると、自分がその世界にすっぽり入り込んだ気持ちにさせられます。

ときおり訪れる不条理とも思える展開は、少年期特有の不整合な言動をよく現しています。彼は、店に売っているトビを買いたいと強く願うわりに、そのための積極的な行動をとろうとはしません。養老院の仕事に精を出すわけでもなく、管理人から与えられた新しい“仕事”についても、それほど強く嫌がるでもなく乗り気になるでもなく、ただ淡々と時間は流れ、その中で行為がなされていきます。物語の中盤、かなりの文量が割かれた犬と郊外に出掛けるシーンにおいても、その目的を遂げるための行動よりは、そこで発生した些末なできごとが次々と描かれ、それをつなげていくうちにいつの間にか時間が流れています。予定調和に陥らない、この小説独自の世界がこうして形作られていきます。

雪降る街のイメージは、静謐ではあるけれど迫力さえ感じます。訳文のすばらしさも特筆もので、作品世界を見事に再現した日本語だと思います。
 この作品は冬の寒い夜、できれば雪の降っている日に読むのがふさわしいでしょう。心のなかで、雪の降る音が鳴りますよ。

 


漫画『とうとうロボが来た!/Q.B.B』

2019年11月29日 10時00分00秒 | 犬の本

猫ブームと言われて久しいですが、仕事上でもここ3~4年は確かに猫人気の高さを感じます。2005年に名古屋市内でペットシッターを開業した時には、猫と犬の依頼がほぼ半々、やや猫が多いかというくらいでした。その後、2010年に岡崎市に移住した直後は、この比率が逆転し、やや犬が多い状況となります。マンションの比率の高い名古屋にくらべ、中小都市で一軒家の多い岡崎市のほうが、(とくに外飼いで)犬を飼う人は多いのだろうと思っていました。
 ところがその後、徐々に猫の依頼が増えていき、今では割合として、猫7:犬3、くらいの勢いがあります。(正確に計算したわけではありませんが。)他の店舗も同じ傾向のようで、1日に10件のお世話があったとして、全部が猫、ということもたまにあります。やはり、散歩をしなくていいこと、大きな声で吠えたりしないことなど、飼いやすさという点で猫に軍配が上がるのは否めないと思います。

いっぽう、僕の子供時代、1970~1980年代あたりでは、「犬を飼う」ことが一つのステイタスだったように思います。まだ「番犬として」という意味合いも強くあり、とくに小学生時代には、家で犬を飼うことは一大事でした。僕の住んでいたあたりには野良犬もたくさんいて、その中で人懐こい犬と一緒に遊び、ご飯を与えて、擬似的に犬を飼うという遊びをやっていたこともありました。

今回ご紹介する漫画『とうとうロボが来た!/Q.B.B』を読んで、子供の頃のそんな記憶を思い出しました。主人公は小学生の新吉で、両親と共に東京で暮らしています。友達が飼っている犬を見て自分もどうしても飼いたくなりますが、素直にその気持ちを伝えることができません。妙にはぐらかしては、親にむかし犬を飼っていたか聞いてみたり、犬が欲しいのかと聞かれて別に欲しくないと答えたり、子供特有のひねくれた言動が、実にリアルに表現されています。
 やがて新吉は福島県に引っ越すことになります。都会暮らしに慣れた新吉には田舎がつまらなく思えてしまいます。ところが子供の柔軟性を発揮してすぐに面白みを見出し、そこで知り合った人の飼っている犬の名前をつけることになります。新吉は、自分で犬を飼う時のため取っておいたロボという名をその犬につけ、たびたびその家を訪れるようになるのです。

本作の美点は、小学生の男の子のどうしようもなさが、そのままに描かれているところです。とにかく落ち着きなくどこでも走り回り、どこでもしゃべり、妙な動きを気に入ってずっと繰り返していたり。大人にいくら言われても聞かず、最後にはひどく叱られて泣いたり、無理難題を言って困らせたり、そのくせ大事なことは恥ずかしくて言えなかったり。大人からすれば本当に厄介な存在ですが、子供の頃にはそれがわからず、ただ面白いことだけを追求して暮らしています。だから簡単に人をいじめたり傷つけたりしてしまうわけですが、そうした子供時代のあれこれは大人になると誰もが忘れてしまいます。そして、子供が何を考えているかわからず、闇雲に怒ってしまうのです。

本作の著者「Q.B.B」とは、久住昌之&卓也という兄弟のユニット名です。すでに大人である彼らはしかし、子供時代の些細な記憶をしっかり持ち続け、本作で披露してくれます。だから読んでいると、ああ、こんなことあったあった、しょうもないことばかりやってたなあ、と昔を懐かしく思い出させてくれます。「家族って素晴らしい」といった大仰なテーマは最後まで語られず、だからこそ遠回しな人間讃歌になっているのだと思います。


小説『年月日/閻連科』

2019年11月15日 22時15分00秒 | 犬の本

冬の寒さと夏の暑さ、どちらが辛いかと聞かれれば、即答で夏の暑さ、と答えます。とくに、ペットシッターの仕事を始めてからは、それが身にしみるようになりました。お客様宅の室内はたいていエアコンが完備されているので、冬でも夏でもさほど苦労はありません。問題は、犬のお散歩です。冬の寒さもなかなかきついものですが、防寒服を着込めば対応できますし、体を動かしていれば徐々に温まっていきます。いっぽう、夏の暑さについては、薄着になるといってもTシャツ以上には脱げませんし、動けば動くほど暑さが増していくという状況ですから、逃げ場がありません。

暑いのは犬にとっても同じで、人間より体が小さいぶん、さらに暑さがこたえます。とくに小型犬などは路面すれすれを歩きますから、人間が感じるよりも数段高い温度になります。アスファルトの上は40℃以上になることもあり、そんな中を歩けば生命にも関わります。犬とお散歩にでかける際には、路面を手で触れて温度を確認するなど、細心の注意を払う必要があります。
 結果として、お散歩可能な時間帯は早朝か夕方遅くに限られてしまい、夏場の犬の散歩はスケジュールがタイトになります。本当に、この仕事を始めてからさらに夏が苦手になりました。

今回ご紹介する小説『年月日/閻連科(えん れんか) 著・谷川毅 訳』でも、炎天下の村で過ごす老人と犬との姿が描かれます。著者は、英米文学に比べて馴染みの薄い、中国の作家です。それでも、『愉楽』でTwitter文学賞を受賞するなど、翻訳小説好きの方にとっては馴染みの名前でもあります。

さて本作、炎天下の村で過ごす、と簡単に書きましたが、実情はそんななまやさしいものではありません。舞台ははるか大昔の山奥の村。数ヶ月にも及ぶ大干ばつのなか、畑は干上がり、作物はすべて駄目になってしまいます。村人はつぎつぎと村を捨てて出ていきますが、72歳の老人〈先じい〉だけは、村で一本のみ残ったトウモロコシを育てるため、村に残ります。家族はなく、目の見えない犬の〈メナシ〉と共に、厳しい毎日を生きていきます。

〈メナシ〉を盲犬にしたのも、この酷い日照りでした。雨乞いのために繋がれ、太陽に向かって吠えることを強いられ、強い日差しが犬の目を焼き抜いてしまったのです。〈先じい〉は村人を代表して〈メナシ〉に償うため、その後の面倒をみてあげます。同時に彼にとっても寂しさをまぎらわしてくれる唯一の相手が〈メナシ〉でした。彼らは、村人が残していったであろう食料を見込み、家々にしのびこみますが、みな食料を残さず持ち出していたようで、何も見つけられません。
 その後も雨はまったく降らず、トウモロコシの生育も危うくなっていきます。自分たちの食料とトウモロコシへの水と肥料、それらのために〈先じい〉は知恵を絞ります。井戸が枯れた時には、布団を井戸に放り込み、一晩かけて水分を吸わせてから引き上げて絞りました。村人たちの畑を掘り起こせば、種としてまいたトウモロコシの粒が出てきて、しばらく飢えを凌ぐことができました。
 それでも、日照りつづきで作物もないままでは、すぐに食料も水も尽きてしまいます。しかし彼らはあきらめず、ネズミの巣から食料を見つけたり、それが尽きればネズミを捕まえて食べたり、狼と対峙しながら貴重な水源を見つけたり、必死の攻防が続きます。

読んでいて、本当に苦しくなる内容でした。毎日何キロも離れた水場まで桶をかついで水をくみにいく姿や、ネズミを捕まえて煮たものを犬と半分ずつ分けあうところなど、尊いのだけれど痛々しくて、正視できないほどでした。いっぽう、狼との息詰まる攻防やネズミとの知恵比べなど、起伏に富んだストーリーが楽しめますし、老人と犬とのほのぼのとしたやりとりに心を和まされる箇所もあり、意外にサービス満点な作品だとも言えます。

そんな〈先じい〉と〈メナシ〉にどのような結末が訪れるのか。ラスト近く、〈先じい〉の〈メナシ〉に対する思いを知ったとき、涙がどっとあふれます。極限状況における人間のあさましさと共に、心根の美しさも描かれている、本当に優れた小説だと思います。


小説『犬たち/レベッカ・ブラウン』

2019年10月18日 23時50分00秒 | 犬の本

仕事中に一度、猫に指を噛まれたことがあります。その猫は、僕が背中を何気なく撫でている時に突然振り向いて噛みつき、また同じ姿勢に戻りました。普段はおっとりしたおとなしい猫なのに、噛まれた瞬間はほとんど目に見えないほどの素早さでした。
 いっぽう、犬には噛まれたことはないのですが、それでも、じゃれて飛びついてきたり、広い場所で思いのままに駆け回り跳ね回る姿などを見ると、人間などとても太刀打ちできないパワーを感じます。犬も猫も、人との長い歴史の中で徐々に野生の本能を失ってきたのでしょうが、それでもときおり見せる仕草や挙動には、まだまだ底知れない能力が秘められているのを感じます。
 浦沢直樹さんの漫画『MASTERキートン』によれば、動物界で最強なのは犬だそうです。実際に動物同士を闘わせてみないと真偽の程はわかりませんが、僕の実感としても大きくうなずけるところです。

さて、今回ご紹介する小説『犬たち/レベッカ・ブラウン著・柴田元幸訳』では、人間と犬との立場が入れ替わった世界が描かれます。とはいえ本作はかなり変わった小説なので、説明が必要です。
 とある一人暮らしの女性の部屋に突然、一匹のメス犬がやってきます。犬は無言でベッドに横たわると、無理やり女性と一緒に眠り始めます。その後も犬に去る気配はなく、女性の部屋に居座り続けます。当初は女性も犬との暮らしを楽しんでいましたが、我が物顔で振る舞い、部屋を汚し続ける犬のことを、しだいに疎ましく感じるようになります。やがて犬はミス・ドッグと名乗り(というか女性が犬をそう呼び始め)、女性に命令するようになります。ひとたびこうなってしまえば、女性が犬に対抗できるはずはありません。ミス・ドッグは人間のような服を身につけ、手にしたムチで女性をばしばし叩いたりします。このあたりから読む者に、一体これはどういう小説なのだろうという戸惑いが生まれます。やがてミス・ドッグは女性のベッドの上で大量の子犬を産み落とします。いつの間にか女性の狭い部屋を何十匹という子犬たちが占拠しています。

こうして、読む側の戸惑いは減るどころか募るばかりで、話はどんどん不可解な方向に走り始めます。女性が外に行くと犬たちが何匹もついてくるようになり、常に女性にちょっかいをかけてきます。しかし、回りの人々に女性が助けを求めても、変な目で見られるばかり。どうやら、他の人には犬の姿は見えていないようです。犬はすでに何百匹という群れとなり、毎日女性の部屋で寝泊まりし、好きなように女性をもてあそんで暮らしています。

本作は、ダークファンタジー、あるいは不条理小説と呼べるかと思いますが、読み進めるほどに不条理さは増していきます。人と犬との立場が逆転した時に人はどうなるのかというテーマや、女性であること、人間であることの不条理さが隠されているようにも思えますが、そう簡単でもなさそうです。
 最初、僕は本作を、とっつきにくくて読みにくい、苦手な小説だなあと思っていました。それでもいつか、次に女性の身に何が起こるのだろうと、リアリティそっちのけで期待している自分に気づきました。犬たちはやがて女性の心臓をえぐり、脳みそを喰らい、全身の骨を抜いて女性をぐにゃぐにゃにしていきます。もうどうにでもなれ、と開き直ると、意外にその先は楽しく読むことができ、最後にはうっすらとした感動のような思いを味わっていました。実に不思議な読み心地でした。

なにがどう面白いのか、なかなか表現するのは難しい作品です。それでも、どうしようもなく心に引っかかる作品となりました。いろんな人に読んでもらって、その感想をぜひ聞いてみたいと思っています。


小説『野性の呼び声/ジャック・ロンドン著・深町眞理子訳』

2019年09月20日 17時40分00秒 | 犬の本

犬のお世話をする際、食事中に犬に触れることは絶対にありません。近くを通ることも避けるくらいです。どんなに人懐こいワンちゃんでも、食事中には食べ物を取られまいという本能が働くためか、急に怒って噛みつくようなこともあります。ご飯をぜんぶ食べ終わってからも、犬が自分からその場を離れるのを待ち、じゅうぶんに注意をしながら皿を引き上げるようにしています。

歴史上、犬は長い時間をかけて人間と共存する術を身につけ、その過程で様々な本能をなくしてきました。だからこそ人間と仲良く暮らせるわけですが、たまに、何の不安もなくお腹を見せている姿を見たりすると、そんなに無防備でいいの、と問いかけたくもなります。人間がそういう習性に「してしまった」ことが、果たしていいことだったのか。もちろん、これも人間側の欺瞞に過ぎないのでしょうが、考えてしまうのです。

犬の出てくる小説では、犬がヒーロー的に活躍し、人間を守り人間と共に生きていく美しい姿が描かれることがよくあります。今回ご紹介する小説『野性の呼び声/ジャック・ロンドン著・深町眞理子訳』でもそうした姿は描かれますが、同時に、犬に残された本能の部分にも光を当てていることで、他作にない深みのある作品に仕上がっています。

雑種犬のバックは、セントバーナードを父に、スコッチシェパードを母に持ち、60kgを超える堂々たる体格を誇っています。アメリカ・カリフォルニア州中部に住む飼い主の広大な屋敷で、狩猟や泳ぎに出かけたりなど、満ち足りた貴族的な生活を送っていました。ところがある日、庭師の悪だくみにより、バックはよそへ売られてしまいます。時は1897年秋。アラスカ近くにあるクロンダイクという町で金鉱が掘り当てられ、世界中がゴールドラッシュに沸いていました。採掘地への郵便を運ぶ犬ぞり要員としてバックが選ばれ、クロンダイクに連れて来られたのでした。
 バックは、〈赤いセーターの男〉に棍棒で嫌というほど打ち据えられ、武器を持った人間には服従するしかないことを学びます。その後、フランス系カナダ人の二人組に買われ、過酷な条件下で犬ぞりを引かされることになります。それでも、並外れた体躯と精神力で、バックは犬達のリーダーにのし上がっていきます。
 さんざんこき使われてボロボロになった頃、バックは別の人間に売られ、そこで再び理不尽に酷使されるなか、経験豊富で人格者の男・ソーントンと出会います。それまでの不幸を取り戻すかのようにバックは彼に寄り添い、のどかな暮らしが始まるのですが――。

作中、バックの感情や気持ちは、淡々とした文章で描かれます。僕は、動物を妙に擬人化するのは好きではないのですが、本作での描かれ方は違和感がなく、バックの気持ちに無理なく寄り添うことができます。これでもかというほど痛めつけられる場面では、本気で相手の人間が憎く思えてきますし、ようやく訪れた穏やかな暮らしには、良かったね、これまで苦労してきたもんね、と慰めてあげたくなります。

ラスト近くでのソーントンとの出会いにより、めでたしめでたし、といきたいところですが、本作はそこで終わる作品ではありません。バックの中に、どうしようもなくくすぶる本能が、頭をもたげてきます。それは、狩りをして他の動物を仕留め、食べるという行為です。そこには弱者へのいたわりといったヒューマニズムはありません。人間との穏やかな共存という状況は、もともと野生動物だった犬にとっては、安住の地ではなかったのです。

本書を読むと、犬にとって何が大切なのかを考えさせられます。僕は、犬や猫を飼うことに異議を唱えるわけではありませんが、心のどこかで、「この子の本当の幸せはここにはないのではないか」という疑念を持ってみることは、より深い絆を探るために有効なのではないでしょうか。

ちなみに本書の邦訳には『荒野の呼び声』というタイトルもあるようですが、内容からして『野性の~』のほうが断然いいと思います。


小説『ティモレオンーセンチメンタル・ジャーニー/ダン・ローズ』

2019年08月23日 20時40分00秒 | 犬の本

今回の記事を書くにあたって、やや緊張しています。本ブログでは、これまで様々な小説や映画をご紹介してきましたが、今回は一番の問題作です。いつもならペットシッターの仕事にからめて紹介するくだりも、どうやっても不謹慎になる気がして、今回はやめておきます。
 本作については、不謹慎で下品で不道徳、そうした言葉がいくつも浮かびます。犬や猫を愛する心の優しい方には、簡単にはお勧めできない小説です。これを機に読んでみた人から、「なんというものを紹介してくれたんだ!」とお叱りを受けることも覚悟しなければなりません。それでも本作を読み終えたいま、僕はこの小説のことで頭が一杯で、他の作品のことを考える気になりません。ですので、これまでにいろんな小説を読んできた経験を持ち、ちょっとガツンと来る作品を求めている方、これまでにない読書体験を望んでいる方、そうしたオトナの読書家だけに暗闇でこっそりとお伝えしたい。それが、『ティモレオンーセンチメンタル・ジャーニー/ダン・ローズ』という小説なのです。

〈ティモレオン・ヴィエッタは犬のなかで最高の種、雑種犬だ。(中略)少女の瞳のように愛らしい目をしていた。〉
 そんな前置きから小説は始まります。ティモレオンは、コウクロフトという老人と暮らしています。この出だしから、「ああ、タイトルになっているティモレオンという犬の話なんだな。きっとこの犬が忠実に飼い主を助けたりするんだろうな」と思われるかもしれません。僕もそうでした。当ブログで最初にご紹介した『その犬の歩むところ』のような内容を予想していたのです。
 しかし、そのような話では全然ありません! 読み進めると、眉をひそめるようなシーンが4ページ目から出てきます。この小説、とくに酷いバイオレンス描写や性描写を売り物にしているわけではないのですが、表現としては遠慮なく出てきます。同時に、このコウクロフトという老人の性的嗜好についても明かされていきます。
 イギリス人である彼は作曲家として一時期名を馳せましたが、あるトラブルを境に仕事をなくし、今はイタリアの片田舎で細々と暮らしています。そこへある日、ボスニア人の男がやってきて、ともに暮らし始めます。コウクロフトは部屋と食事を彼に提供し、男は簡単な雑事をこなすとともに、老人に“ある施し”を与えることで共同生活が成り立っています。
 ボスニア人には一つ、不満がありました。ティモレオンが一向に彼に懐かず、いつも唸り声をあげて彼を警戒していることです。あるとき、ティモレオンに手を噛まれたことで男は逆上し、自分が出ていくか犬を捨てるかどっちかを選んでくれ、と老人に迫ります。考えたすえ、心寂しい老人は犬を捨てることを選び、ローマの路上にティモレオンを置き去りにします。

その後、小説は一転し、ティモレオンの足跡を追います。この第二部が特に素晴らしいのですが、犬はひたすら我が家を目指して歩き続け、その過程で様々な人と出会い、様々な人生が語られていくのです。
 イタリア人の教授が中国で一人の清掃婦と出会い、自分を凌駕するほどの彼女の博識に驚かされ、やがて結婚してイタリアで暮らし始める話。耳の聞こえない少女が町の不良少年と恋におち、誰もが二人の幸せな将来を思い描くなかで少女の心変わりから悲劇へと至る話。フランスの歯科医がカンボジアで運命の女性と巡り合うが、彼がカンボジアに来た悲しい理由が徐々に明かされていく話。それら一つ一つが、非常によくできた短編小説になっています。連作短編集ではなく、互いに関係しあうことのない別々の話を一匹の犬がつないでいくという、変わった形式です。
 そしてどの話も、まったく予期しない展開をたどります。それは不合理で無情で、受け入れがたいものばかりです。その最たるものが、ラストに待ち構えています。話はまたコウクロフトとボスニア人に戻っていくのですが、そこに突如として訪れる展開には、誰もが「なぜ!?」と激憤に打ち震えずにいられないでしょう。あまりの衝撃に僕はしばらく読み進めることができませんでした。

とにかく強烈な物語です。読み終えてから僕は、果たしてこのラストにする必然性はあったのかと考えました。しかし、必然性はなくてもこうした出来事が起こってしまう、そのことが本作の一番のキモなのではないかと思いました。つまりそれは、我々が生きるこの現実世界です。物語ではどんな風にでも美しい話にすることはできますが、現実世界では、努力が必ず実を結ぶわけではなく、善良な人が必ず報われるわけではありません。
 同時に僕は、フィクションの存在意義を感じました。つまり、現実を生きていく上でどうしても避けられない理不尽なできごとを、現実には存在しないティモレオンやその他の人々が背負ってくれているのです。僕らはそれを読み、共感するでもなく拒否するでもなく、ただ立ち尽くすしかありません。

本書は、小説というものの底知れなさを教えてくれます。僕自身、まだこの作品への感想を整理しきれていません。ただ、この本を読んで良かったと心から思いますし、心に残る深い体験をしたということは断言できます。
 というわけで、今回は誰にでもお勧めできる作品ではありません。以上の注意書きをお読みになった上で、ご自分の判断で手にとって下さい。味わったことのない読書体験になることは保証します。


小説『黄色い雨/フリオ・リャマサーレス著・木村榮一訳』

2019年07月26日 19時00分00秒 | 犬の本

犬と猫とを比べると、犬は飼い主に積極的にアピールして親愛の情を示し、猫は自分のペースで気ままに寄ってきたり離れたりする、というイメージがあります。たしかに僕もそう感じることはありますが、その枠に収まりきらないペットもたくさんいます。シッティングの作業中ずっと足元で鳴き続け、僕が座れば隣に寝そべって撫でるのを要求する猫もいれば、必要時以外はクレート(キャリーケース)の中で静かに過ごすことを好む犬もいます。特に高齢犬はその傾向が強く、若い頃にやんちゃで元気だった犬でも、年齢と共に活動量は減っていき、人と一緒に遊ぶ時間も減っていきます。以前ならお散歩で30分しっかり歩いていたのが、ゆっくりと近くの公園に行って戻ってくる程度になり、長年お世話を続けていると寂しく感じることもあります。

それでも、飼い主さんにとってはどんな犬だって猫だって、一緒に暮らしていれば強い絆を感じているものと思います。ただ毎食のご飯を食べ、昼間は寝て過ごし、たまに散歩に行く。淡々と続いていくだけの犬との暮らしに、なぜか深い結びつきが見てとれることがあります。

今回ご紹介する小説『黄色い雨/フリオ・リャマサーレス著・木村榮一訳』にも、そうした絆を感じる犬と人間が登場します。著者は、日本では馴染みの薄いスペインの作家です。小説の舞台はピレネー山系にある寂れゆく寒村で、そこに暮らす男のモノローグで構成されています。

冬は雪に閉ざされ、作物も育たない貧しい村から次々に住人が去っていき、ついに彼のそばに残ったのは一匹の雌犬だけとなります。犬には名前がありません。村には他に犬がおらず、名前をつける必要がなかったのです。だから作中でずっとこの犬は〈雌犬〉と呼ばれています。母犬のモーラはかつて〈雌犬〉の他に六匹の仔犬を産み、力尽きて亡くなりました。六匹の仔犬は男が袋に詰めて川に流し、一匹だけ残ったのがこの〈雌犬〉だったのです。
 年老いた男は日に日に弱っていく体と心を持て余し、やがて訪れる死を待つだけの日々を送っています。男の頭には過去の様々な回想が渦巻き、押し寄せてきます。戦争で行方不明になった長男のカミーロ、四歳で病死した長女のサラ、町を見限って出て行った次男のアンドレス、自ら命を絶った妻のサビーナ。男の周囲には、常に滅びと死の匂いが充満していました。

男の無気力さを分かち合うかのように、〈雌犬〉は普段、何をするでもなくポーチの長椅子の下に寝そべり、男が分けてくれるパンや野菜くずなどを食べて生きています。男が食糧を求めて村の廃屋や森の中に入るとき、〈雌犬〉もとぼとぼとついていきます。ときおり狼の遠吠えに興奮したりもしますが、家に戻ればまた無為な生活に戻っていきます。
 男にとって結局、この〈雌犬〉が生涯の伴侶となりました。妻が死んだ時には悲しみを分け合うように何日も戸口で鳴き続け、男が毒蛇に噛まれてうなされている時には傷口を舐めてくれます。そうして最後には、〈雌犬〉がただそばにいてくれることが男の慰みとなっていくのです。

タイトルの〈黄色い雨〉は、様々なものの象徴として登場します。舞い散るポプラの枯葉だったり、男に押し寄せる絶望感だったり、やるせない時間の流れだったり。本書を読んでいると、その黄色い光景が鮮やかに頭に浮かんできます。そのため、実に寂しくて陰鬱な内容にもかかわらず、どこか神々しい印象を与えてくれるのです。

朽ち果ててゆくものの美学。やや倒錯的な感じもしますが、胸に強く迫る一作です。


書籍『僕に生きる力をくれた犬/日本放送協会』

2019年06月14日 22時45分00秒 | 犬の本

ペットシッターという仕事の喜びは、もちろん大好きな動物に触れ合えることが一番なのですが、同時に、お客様がとても喜んでくださることも大きいものです。作業を終えて鍵のご返却に伺った時など、「おかげでゆっくりと旅行ができました」「報告メールを何度も読みました」「本当に助かりました、次もぜひお願いします!」などなど、身に余るほどの言葉を頂くこともあります。この仕事を続けてきて本当によかったと思う瞬間です。ペットシッターという仕事の存在を知った時から、これは社会に役立つ素晴らしい仕事だと感じていましたが、仕事を始めて13年が過ぎた今でも、その思いに変わりはありません。

そして同じくペットに関わる仕事として、なるほどこれは素晴らしい、と思えるものを見つけました。それはNHK-BSで放送された、「プリズン・ドッグ~僕に生きる力をくれた犬~」という番組からでした。
 アメリカのオレゴン州にある青年更正施設(若者向けの刑務所)で実施されている、「ドッグ・プログラム」という試みがあります。愛護センターに引き取られた犬を受刑者の少年達が訓練し、里親に引き渡すというものです。犬と共に暮らし、犬を訓練し育てていく過程で、受刑者たちは責任感や社会性を身に着けていきます。同時に犬は人間と共に暮らす術を学び、新しい飼い主のもとへと巣立っていくのです。

この番組の取材班によって書かれた本が、今回ご紹介する『僕に生きる力をくれた犬』です。犬のしつけには、長期間にわたる犬との触れあいが必要です。受刑者というのはその意味でもうってつけの存在です。毎日欠かさず犬との深い付き合いを続けることで、犬の徹底した訓練が可能となるのです。
 受刑者達は、ほぼ全員がまともな親を持たず、愛情の何たるかを知らずに育った者たちです。そんな彼らが犬と関わり合う中で、犬から無償の愛情を受け、同時に愛情を注ぐことを覚えていくのです。

本を読んでいる途中、「それだけ犬と深く触れあっていたら、里親に引き渡すのが辛いんじゃないか」と感じました。番組ではそのシーンも映されるのですが、確かに別れの瞬間は辛そうにしているものの、同時に誇らしい気持ちもある、と彼らは言います。自らの達成感、社会に意義あることをしているという喜び、犬が幸せになる喜びなど、様々な感情が渦巻いているようでした。そしてなんと、このプログラムを経て出所した受刑者の再犯率はゼロだといいます。人を更正し、同時に犬を処分から救う、画期的かつ非常によくできたプログラムだと感心してしまいました。

◆NHKの番組ページ
「プリズン・ドッグ ~僕に生きる力をくれた犬~」


小説『11 eleven/津原泰水』

2019年05月31日 23時00分00秒 | 犬の本

僕がこれまでに扱った最も大きな犬は、グレート・デーンです。大きいものだと体高が1メートル、後ろ足で立ち上がると170センチ程にもなります。そうした知識はあったものの、事前訪問で初めて会った時には、想像以上の大きさにひるみました。一緒にシェパードとゴールデンレトリーバーがいたのですが、この2匹が小型犬に見えるほどでした。それでも性質はすこぶるおとなしくて気が弱く、夏の花火大会の時には、音に怯えてケージから出てこないそうです。
 一緒にお散歩に出かけると、犬の散歩というより、ロバか子馬を連れているような気分でした。とても行儀よく穏やかに歩いてくれるため、まったく手間はかかりませんでした。ただ、度肝を抜くほどのウ○チの量には参りました。

今回はこのグレート・デーンが出てくる作品として、いつもとは毛色の違う小説を紹介してみたいと思います。津原奏水さんの書いた「クラーケン」という短編です。『11 eleven』という短編集に収められています。

主人公は、一人で犬と共に暮らす〈女〉。グレート・デーンを代々4頭飼い続け、すべて〈クラーケン〉と名付けています。最初の一頭に出会ったのは偶然通りがかった犬舎。扱いに困っていた業者が無料で譲ってくれたのです。犬の搬入についてきた訓練士は、二十歳にも満たない少女でした。巨大なケージを玄関先に置くと、女はほんの気まぐれで訓練士をケージに入れ、鍵をかけます。とくに理由は明かされません。
 泣いて嫌がっていた少女は明け方に開放されますが、なぜか翌日の夜にもやってきて、自分からケージに入っていきます。このあたりから物語は妖しく耽美な様相を見せ始め、驚愕のラストまで一気に突き進みます。江戸川乱歩の手触りに似ているかもしれません。ほんの20ページほどの作品に、みっしりとした内容が詰め込まれ、相当の読みごたえがあります。

本短編集にはこの他、いずれ劣らぬ10作が収められています。たとえば冒頭の「五色の舟」。見せ物興行で暮らす5人の不具者たちが、人間の頭と牛の体を持つ怪物“くだん”の購入をきっかけに、予期せぬ運命に巻き込まれていきます。「微笑面・改」のおどけたようなホラーも味がありますし、世界昔話風の「琥珀みがき」、純文学風の「YYとその身幹」、ハードSFの「テルミン嬢」も素晴らしいのですが、僕のイチ推しは「土の枕」。戦時に名前を偽って戦場に赴いた青年の数奇な運命が、わずかな文量で駆け抜けるように語られます。歴史小説、戦争小説として白眉の出来であり、集英社の大全「戦争×文学」シリーズにも収録されるという快挙を成し遂げています。

というわけで、読み応えがあって面白い短編集、と言われると僕は本作をお勧めします。長短おりまぜた様々なジャンルの作品が配してありますので、どれか一つは自分の好みに合うものが見つけられると思います。感心するのは、どの物語も独自の世界観に満ちており、文量が少なくても長編一作分の読後感を得られること。現代作家の短編集として、相当にレベルの高いものの一つといって間違いはないでしょう。


小説『少女奇譚 あたしたちは無敵/朝倉かすみ』

2019年05月17日 23時45分00秒 | 犬の本

ペットシッターに限らず、ペットを扱う者であれば、動物愛護という概念に触れざるをえません。動物を大事に思い、大切に扱うこと。それはごく当たり前の尊い行為なのですが、僕はこの動物愛護という精神について考えるとき、いつも複雑な思いにかられます。よく耳にする、「どんな生き物でも命の重さはみな同じ」という考え方についてです。

今回紹介する作品ではないのですが、灰谷健次郎の書いた『兎の眼』という小説があります。この中で、ハエを大事に育てる少年が出てきます。先生達は、なんとかやめさせて別の物に目を向けさせようと奮起しますが、少年と共にハエを観察し、その生態を知っていくにつれ、彼らも考えを変えていくという内容でした。

これはフィクションですし、美談のように書かれていますが、「生き物の命の重さはみな同じ」という考えを突き詰めていくと、どんな生き物も人間と同じに扱うべきだ、どんな生き物を殺すことも人を殺すことと同じだ、というところに行き着いてしまいます。生き物を1匹殺せば懲役十数年、2~3匹も殺せば死刑、という世界になったらどうなるか。そんなことを考えてしまいます。

今回ご紹介する小説に、同じような問いかけがありました。朝倉かすみさんの『少女奇譚 あたしたちは無敵』という小説です。朝倉さんは、つい先日、山本周五郎賞を受賞された実力派の作家さんです。(朝倉さん、おめでとうございます!!)本作は少女を題材にした奇譚(不思議な物語)を収めた短編集で、ご紹介したいのは表題作「あたしたちは無敵」です。

小学六年生の少女リリアは、二人の友人と共に、特別な能力を宿す〈玉〉を見つけます。三人が、透視、念力、治癒というそれぞれの能力を身につけたところで、まさに大地震が発生します。三人の能力を駆使し、倒壊した家屋から人々を救い出そうとしますが、リリアは一匹の犬を発見し、まずその犬を救おうとします。ところが仲間は、「犬だし」「他に助けなきゃいけない人がいるし」と、犬を置いて行ってしまいます。たしかに、特殊能力を使える時間は限られており、犬を救えばそのぶん、他の人を救えないことになります。でもリリアには、いま目の前で助けを求める犬を放っておくことができず、煩悶します。

これはなかなかに厄介な問題です。大災害が発生したとき、自分の親や知人、ペットの犬や猫がいる中で、誰をまず助けるのか。「命の重さはみな同じ」だとすれば、人もペットも同様に助けるべきでしょう。でも、そこへ昆虫大好きなA君がやってきて、「虫だって同じ命だよ。死にそうな虫を助けてよ」と言われたらどうするのか。また、お魚好きのB君もやってきて、「もちろんコイやフナも大事な命だから助けてくれるよね」と言われたら? 結果として、自分の家族や親戚よりも先に、近くにいるアリや魚を助けるべきだ、ということになりますが、それが正しい行動なのでしょうか。
 こうして著者は、実に重たいテーマを小学六年生の女子に、そして我々に突きつけてきます。さあ、リリアはどうする? あなたならどうする?

この短編集には、他にも多種多様な作品が収められており、読み応えがあります。留守番を頼まれた小学五年生の卯月(うづき)が、ふとテレビの奥の暗闇に手を差し入れたことで運命を狂わされてしまう「留守番」。年頃の少女に訪れるカワラケと呼ばれる現象を軸に、娘に対する母親の不気味な思いを描いた「カワラケ」。モラハラの父の機嫌を損ねないよう窮屈に暮らす姉妹の元に不思議な少女が現れる「へっちゃらイーナちゃん」など、さまざまな仕掛けで楽しませてくれます。本当に技量のある作家さんだと思います。