ペットシッターの紹介する本や映画あれこれ by ペットシッター・ジェントリー

ペットシッターを営む著者が、日常業務を交えつつ、ペット関連の本や映画を紹介します

小説『11 eleven/津原泰水』

2019年05月31日 23時00分00秒 | 犬の本

僕がこれまでに扱った最も大きな犬は、グレート・デーンです。大きいものだと体高が1メートル、後ろ足で立ち上がると170センチ程にもなります。そうした知識はあったものの、事前訪問で初めて会った時には、想像以上の大きさにひるみました。一緒にシェパードとゴールデンレトリーバーがいたのですが、この2匹が小型犬に見えるほどでした。それでも性質はすこぶるおとなしくて気が弱く、夏の花火大会の時には、音に怯えてケージから出てこないそうです。
 一緒にお散歩に出かけると、犬の散歩というより、ロバか子馬を連れているような気分でした。とても行儀よく穏やかに歩いてくれるため、まったく手間はかかりませんでした。ただ、度肝を抜くほどのウ○チの量には参りました。

今回はこのグレート・デーンが出てくる作品として、いつもとは毛色の違う小説を紹介してみたいと思います。津原奏水さんの書いた「クラーケン」という短編です。『11 eleven』という短編集に収められています。

主人公は、一人で犬と共に暮らす〈女〉。グレート・デーンを代々4頭飼い続け、すべて〈クラーケン〉と名付けています。最初の一頭に出会ったのは偶然通りがかった犬舎。扱いに困っていた業者が無料で譲ってくれたのです。犬の搬入についてきた訓練士は、二十歳にも満たない少女でした。巨大なケージを玄関先に置くと、女はほんの気まぐれで訓練士をケージに入れ、鍵をかけます。とくに理由は明かされません。
 泣いて嫌がっていた少女は明け方に開放されますが、なぜか翌日の夜にもやってきて、自分からケージに入っていきます。このあたりから物語は妖しく耽美な様相を見せ始め、驚愕のラストまで一気に突き進みます。江戸川乱歩の手触りに似ているかもしれません。ほんの20ページほどの作品に、みっしりとした内容が詰め込まれ、相当の読みごたえがあります。

本短編集にはこの他、いずれ劣らぬ10作が収められています。たとえば冒頭の「五色の舟」。見せ物興行で暮らす5人の不具者たちが、人間の頭と牛の体を持つ怪物“くだん”の購入をきっかけに、予期せぬ運命に巻き込まれていきます。「微笑面・改」のおどけたようなホラーも味がありますし、世界昔話風の「琥珀みがき」、純文学風の「YYとその身幹」、ハードSFの「テルミン嬢」も素晴らしいのですが、僕のイチ推しは「土の枕」。戦時に名前を偽って戦場に赴いた青年の数奇な運命が、わずかな文量で駆け抜けるように語られます。歴史小説、戦争小説として白眉の出来であり、集英社の大全「戦争×文学」シリーズにも収録されるという快挙を成し遂げています。

というわけで、読み応えがあって面白い短編集、と言われると僕は本作をお勧めします。長短おりまぜた様々なジャンルの作品が配してありますので、どれか一つは自分の好みに合うものが見つけられると思います。感心するのは、どの物語も独自の世界観に満ちており、文量が少なくても長編一作分の読後感を得られること。現代作家の短編集として、相当にレベルの高いものの一つといって間違いはないでしょう。


エッセイ『ミーのいない朝/稲葉真弓』

2019年05月24日 23時00分00秒 | 猫の本

今回は、僕がペットシッターという道に進むきっかけになった本をご紹介します。それは20年近く前のこと。書店で見かけた表紙にやられました。一匹の猫が座っているのですが、その表情がたまらない。ふっくらした頬と、引き結んだ口もと。思惑がありそでなさそで、少し機嫌が悪いようにも見える。導かれるように手にとり、レジに向かいました。
 本の題名は、『ミーのいない朝』。女流文学賞など数々の受賞歴を持つ稲葉真弓さんが、自分の飼っていた猫について綴ったエッセイ集です。

1977年の夏の終わり。フェンスにぶら下がっていた猫を見つけるところからエッセイは始まります。生まれて間もない猫にミルクを飲ませ、おもちゃを自作し、ノミ取りに精を出す日々。ミーと名付けたその猫は極度の怖がりで、車の音や木の揺れる音、なんにでも怯えていました。
 大きな庭のある家に引っ越してからミーは活発になり、苦手だった塀の上も自由に歩けるようになります。木に登ったまま降りられず、著者や夫が助けに行くこともありましたが、そうした窮状さえ微笑ましく、愛おしく思えました。

ミーとの穏やかな生活に対し、著者自身の人生は波乱に満ちたものでした。石油ショックの時には、〈女性だから〉という理由で会社をクビになり、その頃から夫ともうまくいかなくなります。女だからこんな目に遭うのだという怒り、自分の才覚のなさへの苛立ちから、夫に当たるようになったのです。
 失職を機に、著者は長らく遠ざかっていた文筆業を再開します。書き上げた小説が思いがけず新人賞を受賞した頃、夫の転勤が決まり、別居生活が始まります。〈なにを選ぶのか、なにを捨てるのか〉と煩悶する日々。著者はしきりにミーの写真を撮るようになります。眠るミー、ブロック塀で耳を澄ますミー、木に登ってはへっぴり腰で降りてくるミー、原稿用紙に乗って邪魔をするミー。詩人でもある著者は、当時の心境をこう表現します。僕の大好きな一文です。

〈夫との壊れかかった生活のど真ん中に、のどかな顔をした猫がいて、ミーは私の心を知らなかった〉

夫と離婚し、高層マンションに引越しをした頃から、ミーの行動に変化が訪れます。外へ遊びに出て帰れなくなったり、とつぜん腰が抜けたように歩けなくなったり、血尿を漏らしたり。ミーには、ゆるやかに老いの影が忍び寄っていたのです。著者は、毎日の餌や水の量、トイレの状態などを細かくチェックし、薬を飲ませ、運動不足は筋肉を弱らせると聞いて日々の散歩は欠かしませんでした。
 それでも仕事上、どうしても数日間、留守にせざるをえない時があります。しかし、ペットホテルのケージはミーには耐えられないだろうし、知人に頼むのも気が引ける。著者は、新聞で知ったペットシッターを試すことにします。やってきたペットシッターのYさんは、お世話内容、ミーの好きなご飯や遊びなどを詳しく質問し、すべてをカルテに書き取ります。その猫慣れした様子に著者は安心し、ミーもYさんとすぐに仲良くなります。その後Yさんは、著者とミーが生きていくのに大きな支えとなります。ペットシッターという仕事がいかに重要な役割を果たすのか、僕は本書を読んで強く実感しました。

エッセイはこうして、著者とミーの暮らしを丹念に追っていきます。本書がただの「ウチの猫かわいい」話に終わっていないのは、猫とのエピソードだけではなく、著者の波乱の人生がその時の心情をふくめて豊かにつづられるからです。

ミーの晩年の描写は、凄絶を極めます。不調の原因は、足腰ではなく腸でした。腸が伸びきったゴムのようになり、蠕動運動がうまくいかなくなったのです。著者は手でミーのお腹を押し、おしっこやウンチを押し出してあげます。毎日毎晩、糞尿まみれになりながら下の世話を続ける姿は、傍から見ればたいへん辛い状況ではあるけれど、その描写は不思議と幸福感を感じさせてもくれます。
 最期の時は必ずやってくる。けれど、なるべく長く楽しい時間を過ごしたいと願う著者の姿は、人間と猫だけではなく、人間同士の関係の在り方にも通じます。約二十年という時間を、著者とミーは濃密に生きてきたのです。人生の重要な局面で常にミーは著者に寄り添い、やすらぎを与えてくれたのでしょう。

最後に、著者が夫と別れ、ミーと二人で生きていくことを決意する時に書いた詩を引用しておきます。

〈胸のところがふくらんで しあわせそうなやわらかな体
 夜になると出ていって 朝になると帰ってくる
 私はその行き先を知らないが きっと 世界の底まで降りていくのだ〉


小説『少女奇譚 あたしたちは無敵/朝倉かすみ』

2019年05月17日 23時45分00秒 | 犬の本

ペットシッターに限らず、ペットを扱う者であれば、動物愛護という概念に触れざるをえません。動物を大事に思い、大切に扱うこと。それはごく当たり前の尊い行為なのですが、僕はこの動物愛護という精神について考えるとき、いつも複雑な思いにかられます。よく耳にする、「どんな生き物でも命の重さはみな同じ」という考え方についてです。

今回紹介する作品ではないのですが、灰谷健次郎の書いた『兎の眼』という小説があります。この中で、ハエを大事に育てる少年が出てきます。先生達は、なんとかやめさせて別の物に目を向けさせようと奮起しますが、少年と共にハエを観察し、その生態を知っていくにつれ、彼らも考えを変えていくという内容でした。

これはフィクションですし、美談のように書かれていますが、「生き物の命の重さはみな同じ」という考えを突き詰めていくと、どんな生き物も人間と同じに扱うべきだ、どんな生き物を殺すことも人を殺すことと同じだ、というところに行き着いてしまいます。生き物を1匹殺せば懲役十数年、2~3匹も殺せば死刑、という世界になったらどうなるか。そんなことを考えてしまいます。

今回ご紹介する小説に、同じような問いかけがありました。朝倉かすみさんの『少女奇譚 あたしたちは無敵』という小説です。朝倉さんは、つい先日、山本周五郎賞を受賞された実力派の作家さんです。(朝倉さん、おめでとうございます!!)本作は少女を題材にした奇譚(不思議な物語)を収めた短編集で、ご紹介したいのは表題作「あたしたちは無敵」です。

小学六年生の少女リリアは、二人の友人と共に、特別な能力を宿す〈玉〉を見つけます。三人が、透視、念力、治癒というそれぞれの能力を身につけたところで、まさに大地震が発生します。三人の能力を駆使し、倒壊した家屋から人々を救い出そうとしますが、リリアは一匹の犬を発見し、まずその犬を救おうとします。ところが仲間は、「犬だし」「他に助けなきゃいけない人がいるし」と、犬を置いて行ってしまいます。たしかに、特殊能力を使える時間は限られており、犬を救えばそのぶん、他の人を救えないことになります。でもリリアには、いま目の前で助けを求める犬を放っておくことができず、煩悶します。

これはなかなかに厄介な問題です。大災害が発生したとき、自分の親や知人、ペットの犬や猫がいる中で、誰をまず助けるのか。「命の重さはみな同じ」だとすれば、人もペットも同様に助けるべきでしょう。でも、そこへ昆虫大好きなA君がやってきて、「虫だって同じ命だよ。死にそうな虫を助けてよ」と言われたらどうするのか。また、お魚好きのB君もやってきて、「もちろんコイやフナも大事な命だから助けてくれるよね」と言われたら? 結果として、自分の家族や親戚よりも先に、近くにいるアリや魚を助けるべきだ、ということになりますが、それが正しい行動なのでしょうか。
 こうして著者は、実に重たいテーマを小学六年生の女子に、そして我々に突きつけてきます。さあ、リリアはどうする? あなたならどうする?

この短編集には、他にも多種多様な作品が収められており、読み応えがあります。留守番を頼まれた小学五年生の卯月(うづき)が、ふとテレビの奥の暗闇に手を差し入れたことで運命を狂わされてしまう「留守番」。年頃の少女に訪れるカワラケと呼ばれる現象を軸に、娘に対する母親の不気味な思いを描いた「カワラケ」。モラハラの父の機嫌を損ねないよう窮屈に暮らす姉妹の元に不思議な少女が現れる「へっちゃらイーナちゃん」など、さまざまな仕掛けで楽しませてくれます。本当に技量のある作家さんだと思います。


映画『WATARIDORI』

2019年05月10日 23時50分00秒 | いろんな動物の映画

アフリカに二度、行ったことがあります。もちろん野生動物を見るためです。現地の国立公園や自然保護区は、日本の県の一つや二つがまるごと入るほど大きなもので、本場でのサファリは想像以上に楽しくエキサイティングなものでした。象やキリン、ライオン、シマウマなどのメジャーな動物のほか、インパラ、トムソンガゼル、トピ、ウォーターバック、ゲレヌク、エランド、サーベルキャットなどなど、数え切れないほど多種にわたる動物たちを見てきました。
 野生動物を見た時の一番の感想は、とても綺麗だな、ということ。アフリカの他にも、パタゴニアのグアナコやニャンドゥー、フォークランドのペンギン、アザラシ、オタリアなど、いろんな場所でいろんな野生動物を見てきましたが、どれも格段に美しく輝いています。

こうした場所から日本に帰ってくると、また野生動物が見たいという気持ちが湧いてきます。動物園や水族館もいいのですが、どうしても美しさや迫力の点で見劣りしてしまいます。(もちろんそれらに存在意義はあると思いますので、これはあくまでも個人的感想です。)
 日本に生息する野生動物、たとえば鹿やキツネやタヌキなどは、なかなか身近で見られるものではありません。そんな中でただひとつ、比較的楽に見られる野生動物があります。鳥です。僕はいつしかバードウォッチングを楽しむようになりました。別に有名なスポットに行く必要もなく、近場の山や池で十分に楽しめる場所があるのです。
 仕事でイメージキャラにするほどペンギンが好き、というお話を前回しましたが、今ではペンギンに限らず鳥全般が好きです。双眼鏡でじっくり観察してみれば、その美しさ、かわいさにどんどん惹かれていきます。今回ご紹介する映画『WATARIDORI』は、そうした鳥の魅力、野生動物の魅力を最大限に伝えてくれる作品です。

この映画にストーリーはありません。世界各地のさまざまな鳥の姿を捕らえた映像が、ナレーションもなく次々と紹介されるだけです。なのに見始めたら途中でやめられません。いろんな鳥がいろんな環境でそれぞれに生きている。その様を見るだけで楽しく、感動を覚えます。なかには非常にユニークな行動をする鳥もいて、僕はいつも特定の二箇所で大笑いしてしまいます。
 ひとつはアメリカに住むクビナガカイツブリ。鳥は発情期になると求愛行動をおこなうのですが、この鳥はオスとメスが並んで水上を走るようにダンスをします。見事に二羽が並んでダダダダダ、と水上を駆ける様子は、「なんでそんなことするの?」という疑問と共に、おかしくてたまりません。
 もうひとつはアフリカのモモイロペリカン。魚を獲っているのか羽づくろいをしているのか、群れになって大きなクチバシを開け閉めしていると、一羽のクチバシが別の一羽の口の中に入ってしまい、抜けなくなります。大きな魚を保持するため、ペリカンのクチバシの奥にはのど袋というたるんだ部分があり、そこに別の一羽のクチバシが刺さってしまったのです。

他にも印象的なシーンはいくつも登場します。首のあたりを膨らませ、ぽわん、ぽわん、と泡が弾けるような音を出すキジオライチョウ。崖の上から飛び立ったかと思うと、一瞬で体をすぼませ、水面に向かってミサイルのように飛び込んでいくカツオドリ。不思議な行動に首をひねりつつも、これが生きているということなのかと思えば胸が熱くなり、そこにいる鳥たちすべてが愛おしく感じられます。

この手の動物ドキュメンタリーはいくつかありますが、本作の製作陣は志の高さが違います。たとえば、集団で飛ぶカモやガンの姿を間近で捕らえたショットでは、鳥たちの愛らしい、妙にすましたような独特の表情が見事に捕らえられてします。一瞬、合成かとも思いますが、そうではありません。ハングライダーにプロペラをつけたような超小型機で、カメラマンが一緒に飛びながら撮影しているのです。このため、同行する鳥とは幼鳥時から共に過ごし、仲間だと思わせておくという、非常に時間とお金をかけた準備がなされています。いっぽう、野生の鳥の撮影では、目指す映像を撮るため何日も費やすこともあり、本当に根気と情熱を持って作られた作品だということがわかります。

というわけで、とくに鳥が好きというほどでない人も、動物好きであれば必ず気に入る作品だと思います。とにかく最初の10分を見れば、最後まで見られずにいられないはず。なるべく大きな画面で見ることをお薦めします。


小説『ペンギンの憂鬱/アンドレイ・クルコフ』

2019年05月03日 22時12分50秒 | いろんな動物の本

ペットシッターでお世話を頼まれる動物は、9割が犬か猫です。次がウサギで、あとはフェレットやチンチラなどの小動物、鳥、爬虫類などがごくたまにあるぐらい。いろんな動物を扱ってみたい気持ちはあるものの、実状はそんなところです。
 どの動物がいちばん好きか、と訊かれれば、ペンギンと答えます。理由はまたいずれ詳しくご紹介しますが、フォークランド諸島(かつてイギリスとアルゼンチンで領土戦争が起こった場所)を旅し、野生のペンギンに囲まれて過ごした日々は、僕の中で大きな経験として残っています。

ペットシッター・ジェントリーのイメージキャラクターもペンギンです。3羽のジェンツーペンギンの絵を、友人が描いてくれました。ウェブサイトや各種書類、名刺などで使っています。屋号も、3羽のジェンツーペンギン=「ジェン」が「トリ」(ラテン語で数字の「3」)というところから、「ジェントリー」と名づけました。

今回ご紹介するのもペンギンに関する作品で、1990年代にウクライナで書かれた『ペンギンの憂鬱/アンドレイ・クルコフ』という小説。ペンギン好きならば、このタイトルを見て素通りはできません。ずっと前から気になっていた本作を、最近ようやく読むことができました。

主人公は、売れない小説家のヴィクトル。同棲相手が去っていった部屋で、一羽のコウテイペンギンと暮らしています。ペンギンの名はミーシャ。ミーシャは憂鬱症を患っているかのようにじっと佇み、たまに部屋から部屋に移動したり、食事をしたりしてヴィクトルと暮らしています。
 ヴィクトルは出版社から、生きている人物の死亡記事を書いてくれという奇妙な依頼を受けます。死んだ時にすぐに掲載できるよう、そうした記事を溜めておくのだという話でした。ペンギンと同じ名前のミーシャという男が手ほどきをしてくれて、記事の執筆は順調に進んでいきます。
 精力的に記事を書き続けるヴィクトルでしたが、しだいに彼の周辺に不穏な出来事が起こり始めます。記事にした人達が現実に亡くなっていき、訪れた街では銃声が響き渡る。マフィアが暗躍しているという噂もありますが、詳細はわかりません。〈ペンギンではないほうの〉ミーシャは、幼い娘ソーニャをヴィクトルに預け、姿を消します。

本作でのペンギンの描かれ方は独特です。変に擬人化するでもなく、普通のペットと同じようにご飯を食べ、室内を歩き回っています。氷の張った湖にでかけると、水を得たように湖で泳ぎ、また戻ってきます。なにも愛嬌を振りまいてくれるわけでもないけれど、時にはヴィクトルのひざにお腹をあてて甘えるようなそぶりを見せるなど、ツンデレぶりがたまりません。とくに僕は、ヴィクトルが幼いソーニャとペンギンを連れてピクニックに行く時、助手席から後部座席を振り向くと、ソーニャとペンギンがほぼ同じ背格好、というシーンがとても好きです。

こうしたとぼけた味わいを楽しみつつ、謎は少しずつ深まっていきます。考えてみれば、ペンギンと人間が普通に共同生活していること自体が非現実的であり、それがヴィクトルの周辺で起こる非現実的な出来事とうまく呼応しています。
 ソ連崩壊後の混乱の中で、ヴィクトルの抱える孤独は相当に深いものです。けれどそんなヴィクトルが、せっかく得られた疑似家族をさほど有り難く思っていないところも面白い。読み進めていくと、彼の住むアパートの侘びしい空間や、独立直後のウクライナの抱える閉塞感、危機感が、まさにそこにいるように感じられてきます。そして、そうした理不尽で不条理な現実をペンギンが包み込んでくれて、いつまでもこの世界に浸っていたいと思わせてくれるのです。
 とても好きな小説になりました。