ペットシッターの紹介する本や映画あれこれ by ペットシッター・ジェントリー

ペットシッターを営む著者が、日常業務を交えつつ、ペット関連の本や映画を紹介します

小説『おちび/エドワード・ケアリー』

2021年04月30日 23時25分00秒 | 犬の本

コロナ禍において、ペットを飼う人が増えたといいます。室内での遊び相手という意味合いのほか、暗く苦しい状況下にかわいい犬や猫がいてくれるだけで心が和み、明日への活力が湧いてくることもあるでしょう。
 今回ご紹介する小説『おちび/エドワード・ケアリー著・古屋美登里訳』にも、厳しい状況下におかれた人々が一匹の犬に心を癒やされる場面が出てきます。ただ、それはラスト近くでの話。まずはこの壮大な物語全体をご紹介しなければなりません。

ロンドンに行かれた方はご存知かもしれませんが、マダム・タッソー蝋人形館という観光名所があります。俳優、政治家、スポーツ選手などの有名人をそっくり模した蝋人形が飾られている施設です。この館の創始者であるマダム・タッソーが実に数奇な運命をたどった女性で、彼女にまつわる史実をもとに、巧妙かつ奇天烈な創意を盛り込んで書かれたのがこの小説なのです。

マダム・タッソーの元の名はマリー・グロショルツ。アルザス地方に生まれたマリーは、スイスのベルンに住むクルティウスという医師の元に雑用係として雇われます。成長しても142cmほどしかなかったマリーは、みんなから「おちび」と呼ばれていました。
 クルティウスは患者に病状を伝えるため、人間の臓器を蝋細工で作っていましたが、その仕事に嫌気がさしていました。代わりに彼は頭の模型を作ることに夢中になり、マリーも彼からその技術を学びます。やがてクルティウスは借金がかさんでベルンを追われ、マリーと共にパリに移り住みます。

パリでは仕立て屋の未亡人の元で暮らすことになりました。クルティウスは蝋細工を作り、マリーは使用人として働きます。未亡人は意地が悪く、なにかにつけマリーに冷たく当たります。クルティウスの作った街の名士の胸像は評判となり、商売になると踏んだ未亡人は新たに大きな館を借り、大々的に胸像の展示を始めます。
 1700年代という不安な時代、人々は公開で行われる処刑を見世物として楽しんでいました。そこに目をつけた未亡人の発案で、クルティウスとマリーは処刑された殺人犯の型を取り、蝋の全身像を作ります。これが人気となったため、同様に不気味な蝋人形が次々に作られ、館は大繁盛していきます。

そんな折、館を訪れたエリザベート王女(ルイ16世の妹)に気に入られ、マリーは彫刻教師としてヴェルサイユ宮殿で暮らすことになります。王女の召使い達に冷たくあしわられながらも、マリーは王女の寵愛を受け、王女の教育係としての毎日を楽しんでいました。ところが、宮殿にやってきたクルティウスと未亡人が騒動を起こし、マリーは宮殿を去らなくてはいけなくなります。

蝋人形館に戻ると、館はさらに繁盛しており、今ではパレ・ロワイヤルでも展示をおこなうほどでした。やがてフランス革命が勃発し、権力者たちが次々と処刑されていきます。蝋人形館には処刑された首が届けられ、クルティウスとマリーは、なんと斬られた生首から型を取り、蝋人形を作成することになります。
 王党派に近いとされる者は難癖をつけて処刑される世情のなか、しだいにマリー達の立場も危うくなっていきます。ルイ16世をはじめ、権力者たちの蝋人形を展示していることから危険人物とみなされ、ついにマリーは監獄に捕らえられてしまいます。

お待たせしました。ようやく犬の登場です。マリーは監獄で様々な人と出会うのですが、そのなかにローズという印象的な女性がいました。彼女は、今いちばん会いたい相手として、夫でもなく息子や娘でもなく、フォルチュネという名のパグ犬を挙げるのです。ローズは守衛を籠絡し、週に一度フォルチュネを監獄に連れてくるよう段取りをつけました。フォルチュネと触れ合うことは、ローズだけではなくマリーやほかの収監者たちにとっても、大いなる慰めとなります。そのシーンがとても素晴らしいので、やや長いのですが下記に引用します。

〈 フォルチュネは愉快な子犬で、ご主人に懸命に尽くし、わたしたちは彼に会うのが本当に愉しみだった。ここに無垢なものがいる、という感覚。黒い悲しげな顔に心配そうな目をした無邪気な小さな命は、わたしたちの窮状がわかっているかのようだった。彼はわたしたちをとても喜ばせてくれた。彼の小さな声。その大らかさ。純真さ。彼が足取り重く去っていくのを見るのは悲しかった。そして、翌週彼に会うときまで生き永らえていますように、と願った。〉

じつはここで出会うローズは歴史にも名を残す女性なのですが、彼女が誰なのか、どうぞ小説を読んでたしかめてみてください。
 その後マリーは処刑寸前まで追い詰められながら、蝋人形を作る技術を持っていたため、館に返されることになります。彼女はフランス革命を生き延び、さらにはナポレオンと対面するなど、強運と押しの強さで運命を切り開いていきます。

クルティウスや未亡人をはじめ、登場人物たちはみなそれぞれが長所と欠点を抱えた人間臭い人ばかりで、型通りの”いい人”は一人もいません。マリーもけっして素直ないい子ではなく、清廉な女性でもありません。そんな彼女が逆境にもめげず、時には人に逆らい、時には人に従い、フランス革命前後の激動の時代を生き抜いていくさまは圧巻です。事実と創造が見事に融合したこの大傑作、ぜひ一読をおすすめします!

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小説『颶風(ぐふう)の王/河崎秋子』

2021年03月31日 10時00分00秒 | いろんな動物の本

珍しいペットを扱うこともあるんですか、と訊かれることがありますが、基本的には犬と猫が圧倒的に多く、それ以外の動物は年に数回程度です。以前、ヤギとサルとリクガメを飼っている人から、シッティング可能かどうかの問い合わせがありました。その方はなんと、これらのペットを全て室内で飼育されているとのことでした。けっきょく問い合わせのみで終わりましたが、いちどその飼育状況だけでも見てみたいと思いました。

今回ご紹介する小説『颶風(ぐふう)の王』の著者・河﨑秋子さんは、なんと羊飼い兼作家という異色のプロフィールをお持ちです。大学の経済学部を卒業されたあと、ニュージーランドで羊を飼育する技術を学び、北海道の自宅で酪農を営むようになったそうです。その後、北海道新聞文学賞、三浦綾子文学賞などを受賞し、作家としてデビューされました。自身の体験を元に体から振り絞るように書かれた小説は、人と動物たちの関係を時に無情なまでに冷徹に描いてみせます。

本作は、庄屋の娘・ミネが小作農家の吉治と身分違いの恋をし、彼の子を身ごもるところから始まります。お腹の大きなミネは飼い馬のアオに乗り、山中へ逃げ延びます。そこへ雪崩が起き、ミネとアオは雪洞に閉じ込められてしまいます。極限状況のなか、ミネはお腹の子を守るためにアオの肉を食らい、必死で生き延びて子供を産み落とします。
 
こうして生まれた子供の捨造は、小作農家に養子に出されます。捨造は北海道開拓の時流に乗り、アオの血筋を引く馬を連れ、北海道へと渡ります。
 
やがて月日はたち、年老いた捨造は根室に居を構え、馬を育てることで生計を立てていました。北海道の自然は厳しく、ときに猛威をふるい、人の手が及ばないほどに荒れ狂います。捨造はそれを「オヨバヌ」と表現し、畏れていました。
 捨造の孫・和子も彼にならい、小さい頃から馬を育てています。素行の悪い馬の世話に手を焼きながら、彼女は捨造の後を次ぐ飼い手として力をつけていきます。ある日、離れ小島に労役に出されていた和子の馬が、嵐のため崖がくずれ、帰れなくなります。馬を助ける手立ては何もなく、彼女は捨造の言った「オヨバヌ」ものを思い知らされるのでした。
 
北海道開拓の時代に生きた人と馬。厳しい自然の中で生きる彼らには、様々な苦難が横たわっていました。やがて一家は十勝へと移り住み、年老いた和子からその孫のひかりへとバトンが手渡されます。ひかりは祖母の言葉を頼りに、ある目的を持ってふたたび根室へと向かいます。

タイトルの「颶風(ぐふう)」とは、「強く激しい風」のことです。北海道の颶風に吹かれながら、たくましく生き抜く馬と人間を描いた本作は、読む者の心をがっしりと捉えて離しません。動物の出てくる、すこし毛色の異なる小説として、お勧めの一冊です。

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小説『カモメに飛ぶことを教えた猫/ルイス・セプルベダ』

2021年02月24日 14時30分00秒 | 猫の本

猫や犬など、いろんな動物が仲良く暮らしているのを見るのは微笑ましいものです。ただ、ペットシッターの仕事でそうしたケースに遭遇することは少なく、やはり異なる種類のペットを一緒に飼うことは実際には大変なのでしょう。
 たとえば犬と猫を比べると、犬が人間や他の動物とも積極的に仲良くしようとするのに対し、猫は自分のペースを守るのを重視する傾向にあります。(もちろんこれは一般論なので例外は多数ありますが。)小説などのフィクションでも同じように描かれることが多く、どうしても猫は気まぐれで意地悪なキャラクターにされがちです。

今回ご紹介する小説『カモメに飛ぶことを教えた猫/ルイス・セプルベダ著・河野万里子訳』にもたくさんの猫が出てきますが、やはりマイペースで個性的な猫ちゃんばかり。そんな彼らが力を合わせて一羽のカモメを救おうとするのが、このお話です。主人公はゾルバといういう名の、ふとった真っ黒な猫。ドイツの港町ハンブルクでのんびりと暮らしています。ある日、ゾルバが日光浴を楽しんでいたバルコニーに、一羽のカモメが落ちてきます。海で原油にまみれながら、力を振り絞ってここまで飛んできたのです。カモメはゾルバに三つの願い事をします。これから生む卵をけっして食べないこと、卵をヒナに孵すこと、ヒナに飛ぶことを教えること。カモメは卵をゾルバにたくし、息を引き取ります。

そこからゾルバの苦難が始まりました。卵を食べないのはなんとか我慢することでしのげたものの、自分の子供すら育てたことのないゾルバに卵をかえす方法などわかりません。彼は町に住む猫に助けを求めます。〈困っている者に力を与えることのできる、不思議な助言の能力〉を持つ、年齢不詳の猫〈大佐〉。やせてひげも二本しかない野良猫の〈秘書〉。ゾルバが話をすると、二匹は彼を〈博士〉の元へ連れていきます。灰色猫の〈博士〉は、老水夫の集めた膨大なコレクションの展示館に住み、日々百科事典の研究にいそしんでいます。〈博士〉は百科事典をひもとき、ゾルバに解決策を授けようとしますが、それだけではうまくいかないこともあります。彼らはどうやってカモメを救うのでしょうか。

〈大佐〉は尊大な割に物を知らず、〈秘書〉は〈大佐〉の言葉に口を出して怒られてばかり。〈博士〉は百科事典を信奉するあまり本質を見失いそうになります。街に出ればちんぴらの野良猫が行く手をはばみ、〈博士〉と同居するいやみなチンパンジーや中庭の通行権を求めるネズミなど、多彩なキャラが猫たちを悩ませます。本書の対象年齢は8歳から88歳まで、と言われているようですが、カモメとの約束を果たそうとするゾルバの冒険話に、子供なら胸を躍らせること間違いなしです。

いっぽう、大人は話の寓意性に目を向けることでしょう。〈秘書〉や〈大佐〉など、身近な誰かに似ている気がしてきますし、彼らとのやりとりはまさに人間社会を写したものに思えてきます。
 本書の根底には人間のおこないに対する強い戒めが感じられます。カモメが飛べなくなったのは人間が海に垂れ流す重油のせいです。猫たちは他にも、人間が海に捨てる殺虫剤の缶や古タイヤなどに頭を悩ませています。イルカやライオンなどさまざなま動物を人間が手なずけ、もてあそんでいることも著者は批判しています。それでも、ラストの展開には人間に対するかすかな希望もうかがえます。

著者のルイス・セプルベダ氏は、2020年4月、新型コロナ感染により亡くなりました。また、作中で引用される「カモメ」という詩は、同じく2020年に日本で刊行され話題となった『アコーディオン弾きの息子』の著者ベルナルド・アチャーガ氏によるものです。そしてなにより、様々な動物たちが自分の意見を主張し、いがみあい、違いを認識しあい、それでも同じ世界に住む様を描き出しているところは、現在の多様化する社会の見本といえます。
 様々な意味で現代性を感じる作品です。短くてすぐに読めますので、一家に一冊、食卓にでも置いてみてはいかがでしょう。親子で読んで感想を披露しあうのもきっと素敵な体験になることと思います。

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小説『灯台守の話/ジャネット・ウィンターソン』

2021年01月23日 21時50分00秒 | 犬の本

この仕事を始めて16年ほどになります。依頼されるペットは犬と猫が9割以上を占め、あとはウサギが少しと、フェレット、リスなどがほんのわずかという内訳です。犬と猫の比率は、2005年に名古屋で開業した当時はほぼ半々で、若干猫が多いくらいでした。その後、2010年に岡崎市に移ってからは、逆に犬の依頼のほうが多くなりました。やはり都会の名古屋に比べると岡崎は土地が広くて一軒家も多く、犬を飼いやすい環境なのかと思っていました。ところがその後、比率は逆転して猫のほうが多くなり、今や全依頼の7~8割程度を猫が占めるようになりました。

その一方で、犬の根強い人気も感じます。とくに、飼い主さんの犬種ごとの好みがはっきりしていて、レトリーバーなど大型犬が好きな人、ミニチュアダックスやトイプードルなどの小型犬が好きな人、どうしても柴犬が好きな人などがくっきりと分かれます。思えば、同じ種でこれほど体の大きさや見た目が違う動物は、他にいません。宇宙人が地球に来て、グレート・デーンとチワワが同じ動物だと言っても信じてもらえないことでしょう。

今回ご紹介する小説『灯台守の話/ジャネット・ウィンターソン著・岸本佐知子訳』にも、すこし変わった体つきの犬が出てきます。主人公の少女シルバーが飼っている犬で、名前をドッグ・ジムといいます。シルバーは母親と共に、スコットランド北岸にあるソルツという町で暮らしています。世間から邪魔者扱いされている彼らは町はずれに追いやられ、その家はなんと崖の上に斜めに突き刺さっています。椅子は床に釘で打ち付けてあり、夜はハンモックで眠ります。家の内外を歩くにも、シルバーと母親は体をロープで結び、崖から落ちないよう注意しなければなりません。ドッグ・ジムも、前脚で斜面をよじ登り、後ろ脚で踏ん張りつづけたせいで、前脚が後ろ脚より5センチほど長くなっています。

やがてその家で悲劇が起こり、シルバーは犬とともに灯台に移り住むことになります。灯台には年老いたピューという灯台守がいました。灯台守の仕事はもちろん灯台の作業を覚えること、そして物語を語り継いでいくこと。本作は、シルバーの物語と、ピューが話してくれる過去の物語とが重層的にからみあい、ダイナミックに展開していきます。

ピューは、はるか昔、ブリストルという都会町に住んでいた青年バベル・ダークについて、まるでその場に居合わせたかのようにシルバーに語り聞かせます。ダークは裕福な貿易業者の家に生まれ、見目もよく、そのまま家業を継いで暮らしていくものと思われていました。それがある日、モリーという娘と恋におち、二人は関係を結びます。モリーに子供ができ、あとは二人が結婚するだけだと思われたころ、とつぜんバベルは牧師になると言い出します。しかも、海に面した辺鄙な町、ソルツで牧師になるというのです。なぜそんな決意をしたのか、その後、バベルとモリーはどうなってしまうのか。
 ピューの語る話は、対立する二項を並べることでものごとの深淵をえぐり出していきます。人間の二面性と不可思議性、物語を語ることと人生を生きること、神と進化論、古いものと新しいもの、男と女、生と死、愛と自然、科学と自然。それらは簡単に決着のつかないものばかりですが、物語として語り継ぐことで俎上に乗せられ、シルバーと共に読者も思索を続けていくことになります。

小説には、ドッグ・ジムのほか、バベル牧師の飼っているトリスタンという犬も出てきます。彼らはとくに目覚ましい活躍をするわけではないのですが、常にやさしく寄り添うように人のそばにいて、重要な示唆を与えてくれます。本当に素晴らしい、僕の大好きな小説です。

なお、2020年10月に、本書を課題図書とする読書会を開催しました。
◆読書会の開催報告

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小説『猫は知っていた/仁木悦子』

2020年12月23日 21時00分00秒 | 猫の本

猫ちゃんのシッティングで訪問する際、警戒心の強い子だと隠れて出てこないことがあります。そうした場合、室内を探したほうがいいか探さないほうがいいかを、事前に必ず飼い主さんに確認しておきます。ペットの安否を確認するためには探したほうがいいのですが、探し回ることでペットにストレスを与えてしまったり、家の中をうろうろされることを好まない飼い主さんもいらっしゃるので、そこはご要望にお任せすることにしています。

たまにひやりとするのは、猫がどこにも見当たらない時。探しても探しても見つからないと、だんだん焦りがつのってきます。たとえばゴミ捨てや水やりなどで室内外を出入りする際、窓の開け閉めのわずかな隙をついて外に出てしまうこともあり、もちろんそこは十分に注意するのがペットシッターの基本なのですが、可能性としてゼロではありません。どうしても見つからないとき、窓から外に出たのだろうか、玄関の出入りの際に出てしまったのだろうかと不安が心をよぎります。
 でも十中八九、室内のどこかに隠れています。根気よく探していると、まさかここに、というほど狭い隙間や背の高い家具の上で見つかることがあります。テレビ台の下にDVDプレイヤーなどが置いてあり、正面の扉が閉まった状態でも、背面から入り込むことがあります。ソファ底部の袋状になったところや、意外に見落とすのが冷蔵庫の上だったりします。事前に隠れそうな場所をいくつか聞いておくことも、ペットシッターの仕事を遂行する上で重要です。

さて、今回ご紹介する小説『猫は知っていた/仁木悦子』でも、妙なところに隠れたりまた姿を現したりする猫が出てきます。江戸川乱歩賞が公募となった最初の回で見事、受賞作に選ばれたのが本作。なんと1957年の作品です。著者の仁木悦子さんは、日本のミステリ史で最初に登場する女性作家であり、日本のアガサ・クリスティとも呼ばれました。

小説の主人公は、著者と同じ名前の仁木悦子という女性と、その兄の雄太郎。この二人が移り住んだ先で、連続殺人事件が起こります。大学で植物学を専攻する雄太郎は頭脳明晰で、事件の謎を追い、真相を解き明かしていきます。悦子も素人捜査の一員として兄に付き添い、彼らはさながらホームズとワトソンのような活躍を見せるのです。

本作の特徴の一つは、古き良きミステリの味わいを堪能させてくれるところです。兄妹が病院の一室を間借りするところから物語は始まりますが、この導入部からして時代感満載です。本作が書かれた1957年当時でも、戦争の爪痕はまだ各地に残っていました。二人は戦災のためか住む場所を失い、ようやく病院の一室を住居として借りることになりました。病室に兄妹で住む、というのは今となってはなかなか考えづらい状況です。さらに、病院の敷地内に当たり前のように防空壕跡があるのもこの時代ならでは。この防空壕が本作で重要な役割を果たします。

そしてもう一つ重要な存在が猫です。最初に老婦人が殺されるとき、猫の姿が見当たらなくなります。前述したとおり、猫はいつの間にかどこかに行ってしまうものですが、本作でも意外なところで見つかります。さらにラストの謎解きでもう一度、猫が深く関わってきます。解き明かされた真相を知れば、猫好きの人はにやりとするはず。どう関わってくるのか、どうぞ本作を読んでお楽しみください。

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小説『最後の殉教者/遠藤周作』

2020年11月12日 09時00分00秒 | いろんな動物の本

この仕事を始める前、フランスに一カ月ほど滞在したことがあります。街を歩いていると、犬を連れた人をよく見かけました。こちらだと、犬を散歩させるというより、人間の外出に犬を連れて行くケースが多いようです。実際、鉄道の車両やレストランにも犬を連れて入ることができます。マンションで飼うようなことも、日本ほど難しくないのでしょう。

パリのメトロで、犬を連れたお婆さんのそばに座ったことがありました。犬を見ていると、お婆さんが僕に話しかけてきます。何を言っているのかはわからなかったので、適当に笑顔でこたえていました。犬は隣で静かに座っています。駅に着いて降りるとき、お婆さんは満足そうな顔で笑いながら去っていきました。
 こちらの犬は驚くほどしつけが行き届いており、レストランでは飼い主が食事をするあいだ、椅子の下でじっと待っています。ときに哀しげにも思えるその犬達を見ていると、彼らはこれで幸せなのだろうかと、ふと考えてしまいます。ただ、犬にはまだ救いがあるのかもしれません。たいていの犬たちは自分の立場を納得し、人とのそうした関係を楽しんでいるように見えるからです。

フランスには、遠藤周作さんの短編集『最後の殉教者』を持っていきました。この中に、猿を描いた一編があります。「男と猿と」というタイトルで、著者がリヨンに留学した時の体験を元に書いた私小説風の作品です。本書を片手に、遠藤氏の下宿のあった界わいや通った大学などを巡り歩くのは、とても刺激的で感慨深いものでした。
 小説では、著者がモデルであろう主人公の男性が、リヨンの町はずれにある公園を訪れます。彼はそこで檻に入れられた猿をみつけ、打ち捨てられたようなその姿を眺めます。みじめな自分の境遇を写し取ったような猿に、彼は思わず石を投げてしまいます。とても切ないシーンです。リヨンの動物園で、僕はその猿を見つけることはできませんでしたが、空っぽの檻はありました。おそらくここで遠藤氏は猿を見ていたのだろうと思うと、胸が熱くなりました。

それからパリに移ったあと、猿ではありませんが、気になる動物を見かけました。公園などで子供を乗せて歩くロバです。珍しくもなく頭ばかりが大きくて不格好なこの動物は、特別にもてはやされることもありません。ただそのおとなしさが買われ、小さな子供を乗せてとぼとぼと歩く立場がようやく与えられた、そんな背景が浮かんできていたたまれなくなりました。
 彼らはいつもつながれたまま、じっとうつむいて仕事の時間を待っています。その姿はいじらしくなるほど従順です。彼らの伏せた目からはこの世の全てを諦めたような暗い光が発せられ、あの目が僕にはたまりませんでした。
 ブーローニュの森でも、ベンチで休んだリュクサンブール公園でも、そんな彼らの姿を見ました。背に乗って子供達が嬌声をあげ、親は喜んでその姿をビデオや写真に収めています。しかし、気づけば僕は彼らの姿をビデオに撮っていました。今もこうしてブログのネタにしています。僕もまた動物たちを、“かわいそう”という名のもとに、自分の人生のために消費しているのでした。

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エッセイ『旅をする木/星野道夫』

2020年10月20日 08時45分00秒 | いろんな動物の本

動物愛護法という法律(正式名称は「動物の愛護及び管理に関する法律」)があります。人と動物が共に生きていける社会を目指し、定められたものです。下記のサイトで全文を読むことができます。

◆動物の愛護及び管理に関する法律

僕は動物に関する仕事をしながら、動物愛護という概念にはいつも引っかかりを感じます。上記の法律によれば、愛護動物を殺したり傷つけたりすると懲役または罰金刑が課せられることになります。しかし、「愛護動物」には定義があり、下記の2種類が該当します。

  1. 牛,馬,豚,めん羊,山羊,犬,猫,いえうさぎ,鶏,いえばと,あひる
  2. 上記のほか、人が占有している哺乳類,鳥類,爬虫類

つまり、魚や昆虫、両生類などは該当しません。人間が勝手に「保護されるべき生き物」と「保護しなくていい生き物」を分けているのです。これってどうなんだろう、と思うわけです。

写真家・星野道夫さんは、アラスカに住み、厳しい自然の風景や動物を撮り続けました。彼のエッセイ集『旅をする木』には、そうした撮影旅の様子が紹介されています。カリブーの撮影をするため、半径数百kmに人がいない原野で一カ月ほどを過ごすようなこともあります。自然と動物に対する強い思いがなければ、到底こなせることではありません。そんな星野さんがこの本の中で明確に、〈自然保護とか、動物愛護という言葉には何も魅かれたことはなかった〉と書いています。その気持ちに僕も共感します。いかなる生き物も、他の生き物の命を取り込むことによってしか生きられません。食物連鎖以外でも僕らは、犬や猫の命は大事に扱う一方で、蚊やゴキブリの命はたやすく奪います。動物愛護の考えというのは、案外すぐに限界に行き当たるのです。

本書にこんな一節があります。

〈アラスカの自然を旅していると、たとえ出合わなくても、いつもどこかにクマの存在を意識する。今の世の中でそれは何と贅沢なことなのだろう。クマの存在が、人間が忘れている生物としての緊張感を呼び起こしてくれるからだ〉

普通、クマは脅威の対象とされます。いっぽう星野さんは、クマの存在を〈贅沢なこと〉と表現します。安易な動物保護の考えからは決して出てこない言葉です。星野さんは、実に深いところで自然や動物を眺めています。それは一見、一般的な良識に反することでもあります。現代社会では否定的に捉えられる狩猟文化についても、星野さんの言葉は独特です。

〈生きてゆくということは、誰を犠牲にして自分自身が生きのびるのかという、終わりのない日々の選択である。生命体の本質とは、他者を殺して食べることにあるからだ〉

狩猟とはまぎれもない殺戮であり、それは生命活動そのものです。現代社会では単にそれが見えづらくなっているだけ。星野さんの言葉は真実を突き、同時に優しいまなざしに満ちてもいます。星野さんの本職は写真家であり、特別な文章修行をされたわけでもないと思いますが、そのシンプルかつ含蓄に富んだ文章からは、いくらでも新しい気づきを得ることができます。

僕は星野さんの文章を読むたび、人はどう生きてもいいのだというメッセージを受け取り、勇気づけられます。本書の中でも、リツヤベイという場所にたった一人で22年間を過ごした男の話が出てきます。彼は一年に一度だけ町に降り、一年分の新聞をもらって帰り、それを一日分ずつ読む生活を送っています。我々からすれば想像もできない孤独な生活ですが、星野さんはそんな生き方にも光を見出しています。

現代では、孤独が否定的にとらえられがちですが、星野さんは孤独の持つ価値について本書で何度も書いています。一人で氷河のある山地に分け入り、キャンプをするとき。周囲には、山と氷河と空しかありません。

〈こんな場所に突然放り出されると、いったいどうしていいのかうろたえてしまう〉〈けれどもしばらくそこでじっとしていると、情報がきわめて少ない世界がもつ豊かさを少しずつ取り戻してきます〉

たとえば星野さんが初めて海外を旅したとき。たどりついたロサンゼルスの港で、知り合いも今夜泊まる場所もない。何一つ予定はなく、誰も自分の居場所を知らない。彼はそこで、〈叫びだしたいような自由に胸がつまりそうだった〉と書いています。孤独とは自由の裏返しであり、孤独な状況でこそ、自分の真の姿、真の生きる目的が見つかるのでしょう。

本書にはこうして、実に多彩なテーマが語られています。最後に、僕のいちばん好きな箇所を紹介して終わります。これは星野さんとご友人が、アラスカの氷河で満点の星空を見上げている時の会話です。

〈こんな星空や泣けてくるような夕陽を一人で見ていたとするだろ。もし愛する人がいたら、その美しさやその時の気持ちをどんなふうに伝えるか〉
〈写真を撮るか、もし絵がうまかったらキャンパスに描いて見せるか、いややっぱり言葉で伝えたらいいのかな〉
〈自分が変わってゆくことだって……その夕陽を見て、感動して、自分が変わってゆくことだと思う〉

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小説『異邦人/カミュ』

2020年09月10日 23時00分00秒 | 犬の本

夏の猛烈な暑さがようやく過ぎ去りました。今年は新型コロナの一件もあり、なかなか厳しい夏となりましたが、ようやくペットシッターの依頼もぽつぽつと入るようになってきました。このまま収束へと向かい、人々が普通の日常を取り戻すことを強く願っています。

さて今回は、夏のぎらぎらした暑さを味わわせてくれる犬の小説、『異邦人/カミュ著・窪田啓作訳』をご紹介します。有名な作品ですので、読んでなくても大まかなストーリーをご存じの方は多いのではないでしょうか。窪田啓作氏による冒頭の訳文、「きょう、ママンが死んだ」も有名ですね。既読の方は、「え? これって犬、出てきたっけ?」と思われるかもしれませんが、ちゃんと出てきます。ただしその前に、小説のおおまかなご紹介をしておきますね。

本作はよく、不条理小説と紹介されます。僕もこの小説を20年以上前に初めて読み、よくわからない小説だったという記憶だけ残っていました。今回、再読してまず思ったのは、さほど理解しづらい作品でもないこと、そして、本作を不条理小説と言って終わりにするのは非常にもったいないということです。

舞台はアルジェリアの首都アルジェ界わい。とにかく暑い地域です。主人公のムルソーは母の死に際し、とくに悲しむ様子も見せず、翌日に女友達と海へ遊びに行き、情事にふけります。その後、彼は隣人レエモンとアラビア人との諍いに巻き込まれ、殺人を犯してしまいます。法廷でその理由を聞かれた際、「太陽のせいだ」と答える、これもまた有名なシーンでしょう。ムルソーの行動は、“普通の”人々からは理解されず、非情な人間だと判断され、死刑を宣告されてしまうのです。

裁判ではしきりに、ムルソーが如何に普通と違っているかが取り沙汰されます。母親が死んだら悲しむべきだ、その直後に女性と海に遊びに行き、コメディ映画を見、女性と関係を持つなど、すべてが非情で非人間的な行為だ、と検事から責め立てられるのです。しかし、どうでしょう。ムルソーのしたことはそれほど非道なおこないでしょうか。彼は本当にそうした不条理な、人の心を持たないような人間なのでしょうか。僕はこの小説をつづけて二度読みましたが、殺人を除き、彼の行動にはさほど違和感を感じませんでした。母親が死んで悲しむ様子を見せない人だっています。その直後に遊びに行き女性と関係を持ったとしても、とくに非難されるようなことでもありません。殺人についても、ナイフを持った相手に対する正当防衛の意味合いが強く、とても死刑に値するとは思えません。

検事や陪審員たちは、「人は必ず母親を愛し、母親が死んだら悲しむものだ」という先入観を持っています。そして、誰かが自分の想像できない言動をとっただけで不条理と判断し、切り捨てようとする。そのほうがよほど不条理だと僕には思えます。

そんなムルソーですが、意外に人づきあいは活発で、マリイという女友達のほか、アパートの同じ階に住むサラマノ老人たちと行動を共にします。サラマノ老人は八年前からスパニエル犬を飼っており、犬は皮膚病のため体中がかさぶただらけです。狭い部屋で暮らしていると似てくるのか、老人もまたかさぶただらけの肌をしており、互いに鼻づらを突き出し首を伸ばした猫背の姿勢で歩きます。彼らは同族のようでいて、互いに憎み合っています。散歩で犬の引きが強すぎたり、部屋でおしっこをしたりすると、老人は犬を叩き、ののしります。犬も老人に無理やり引っ張られる時には唸って抵抗します。こうした描写がたびたび出てきて、ムルソーはなにかこの老人と犬に興味を惹かれるようです。

その後、散歩中に犬がいなくなり、老人はパニックになってしまいます。ムルソーは老人を部屋へ入れてやり、相談に乗ってあげます。のちに老人は裁判で証言する際、ムルソーに親切にしてもらったことを強調し、ムルソーと母親のことも弁明してみせます。はた目からは、ムルソーと老人との関係は慈愛に満ちた美しいものに思えます。ムルソーが老人に親身になってあげたのは、老人と犬とが互いに憎み合いながらも互いを必要としている、その関係に共感を覚えたせいかもしれません。

さて、第二部の大半は法廷劇となるのですが、思えば裁判制度というものも不条理に満ちています。本来なら正義と真実を見極める場であるはずの裁判が、検事と弁護士の単なる技術合戦になっているからです。また、ムルソーがラストで雄たけびをあげることになる、司祭との対立。すなわち、キリスト教も大いなる不条理に満ちています。神がいることを疑いもせず信じ、祈り、救いを求める行為は、神を信じないムルソーにはまったく意味が見出せませんし、キリスト教徒以外のすべての読者(僕も含む)も同じ思いにかられることでしょう。司祭の並べる“有り難い”お言葉に、ムルソーが珍しく激高するのもむべなるかなと思えます。

この小説を再読したのは、参加する読書会の課題本となったからでした。読書会では様々な意見が飛び交い、話し合うポイントが多岐にわたることを確認しました。読めば読むほど味わい深く、いろんなことを考えさせてくれる、とてつもない名作だと思います。どうか「不条理」という評判に負けず、どなたにも手に取っていただきたい一冊です。

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漫画『サブリナ/ニック・ドルナソ』

2020年08月13日 23時30分00秒 | 猫の本

今年は7月が曇りがちで涼しい日々が続き、しのぎやすかったのですが、ついに本格的な暑さが到来しました。犬の散歩時間帯が限られるうえ、朝夕でも気温の高い中を歩かなければならず、ペットシッターにとって最もしんどい時期。とはいえ今年は新型コロナの影響でお盆すらご依頼はすくなく、寂しい日々を送っています。こうした暑くて落ち込みがちな時は、ひやりと涼しくなるホラー、しかも猫の出てくるような作品をと思ったところ、最近読んだ漫画がちょっと面白かったのでご紹介したいと思います。

サブリナ/ニック・ドルナソ著・藤井光訳』という作品で、漫画というより「グラフィック・ノベル」といったほうがいいかもしれません。なにせ本作、通常は小説に与えられる文学賞、ブッカー賞にノミネートされるほど高く評価された作品です。本屋さんで手に取ると、漫画とは思えないくらいのボリューム、そして3,960円という価格に驚かされるのですが、読んでみればさらに驚嘆させられる内容でした。

タイトルの『サブリナ』というのは表紙になっている女性の名前で、冒頭の1コマ目に大映しで登場します。目立たない風貌の地味な女性で、旅行にでかけた両親が飼っている猫の面倒をみています。(娘が親のためにペットシッターをしてあげているんですね。)そこに妹のサンドラがやってきて、他愛もない会話の中で二人の関係性や嗜好が紹介されます。妹が去り、サブリナもどこかへ出かけるところでそのシーンは終わり、次のページには若い男の大映しが出てきます。ここからは一転、二人の男の物語となります。

本作のキャラクターは総じて表情や特徴に乏しく、誰が誰だか一見わからなかったりします。説明は少なく、コマとコマのつながりも散発的なため、日本の漫画を読みなれていると、ちょっと面食らって読みづらく感じるかもしれません。それでも読み進めるうちに、その独特の表現やリズムに引き込まれていきます。サブリナの描写の後に出てくる男たちも最初はわかりにくいのですが、会話の内容からどうやら男の一人がサブリナの恋人らしく、もう一人が彼の昔の友人らしいことがわかってきます。

サブリナの恋人はテディ、その友人はカルヴィンといいます。じつは冒頭のシーンのあとサブリナは行方不明になってしまい、テディは途方にくれています。事情を知らされたカルヴィンは、テディをしばらく自宅に泊めてあげることにしました。テディは憔悴して何もやる気が起こらず、寝てばかりいます。ある日、カルヴィンの元にサンドラから電話がかかってきます。サブリナのバスの定期券が送られてきたらしく、犯罪のにおいが漂い始めます。そして次にまったく別の登場人物が出てくるシーンで、事態は大きく動きます。

カルヴィンは平日の16時から24時まで軍の施設に勤務しており、どこかの基地で秘密の監視を続けています。彼が何をしているのか、そして彼が次に就こうとしている仕事は何なのか。すべてが謎めいて描かれており、それはこの作品自体のテーマにもうっすら関係しています。

本作のテーマ、それはざっくり言えば、「現代アメリカの抱える闇」といったところです。とある事件が起こり、それを巡ってマスコミが騒ぎ立て、ネットでは一般人がマスコミの裏を読むように別の方向へ世論を引っ張っていきます。そこには陰謀論が渦巻き、けっして解かれることのない謎が根を張りつづけ、ターゲットにされた人達は苦痛を味わいつづけるのです。

本作を読み終え、うすら寒い気持ちを味わいました。これはアメリカだけではなく、日本でも十分に起こり得る問題ですし、現に起こっている問題でもあります。我々一人一人が十分に注意して行動しなければ、被害者にも加害者にも簡単になり得ます。だから本作でも、最終的に事件に深く巻き込まれていくのはサブリナでもテディでもなく、およそ関係の薄いカルヴィンなのです。

やや陰鬱な紹介になってしまいましたので、最後に猫の話をします。作中、猫が2匹出てきます。サブリナの両親の飼っている猫と、カルヴィンの飼っている猫です。どちらもほんの少ししか登場しませんが、仰向けに抱かれている時の体勢や、香箱座りをしている格好など、実に猫らしく愛らしく描かれており、この著者は猫をよく知っているんだろうなあと思います。カルヴィンの猫は途中で行方不明になり、それをテディが捜しに行くことで物語が動くきっかけにもなっていきます。だから猫は何かの暗喩になっているのかもしれません。表紙にもしっかりと二匹の猫のシルエットが描かれているくらいですから。

 

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小説「蜜蜂の川の流れる先で/キジ・ジョンスン」(『霧に橋を架ける』所収)

2020年07月01日 14時00分00秒 | 犬の本

仕事柄、ペットを亡くされた方とお話をすることがありますが、なんとお答えすればよいかいつも悩みます。ずっと一緒に暮らしてきた動物を亡くす哀しみ・喪失感を、簡単に慰められる言葉などありません。そんな時、一冊の本が救いになるかもしれないと思うことがあります。今回ご紹介するのもそんな一編です。

前回もご紹介した短編集『霧に橋を架ける』に収録されている、「蜜蜂の川の流れる先で」という小説です。アメリカのシアトル近郊に住むリンナは、ジャーマン・シェパード犬のサムと暮らしています。サムは年を取り、神経を病んでいて、先は長くありません。ある日リンナは気分転換のため、サムと一緒にドライブに出かけます。サムは満足に動くこともできず、ときおりリンナに抱きかかえられて用を足すほかは、バックシートで眠ったまま。リンナは角を曲がる時にはサムが横滑りしないよう気を使います。
 ワシントン州からアイダホ州を抜け、モンタナ州を走っている途中で、リンナはパトカーに停められます。警官は彼女に、〈蜜蜂の川〉があふれて通れない、と告げます。変わった名前の川だと彼女は思うのですが、前方に目をこらせば、薄闇のように流れる一帯が見え、かすかにブーンという低い音が聞こえてきます。それは川の名前でも比喩でもなく、文字通り、蜜蜂の大群が川となって〈流れて〉いるのでした。
 蜂たちがどこから来てどこへ向かうのか、誰も知りません。リンナは遠くから蜜蜂の川を眺めるうち、不思議に歪んだ美をそこに見出し、川をたどってみようと思い立ちます。警官も似た気持ちを共有しているのか、彼女を送り出しながら緊急用キットを手渡してくれます。リンナはサムを連れ、蜜蜂の川に近づきすぎないよう注意しながら、その流れをたどっていきます。

とても不思議な物語でした。年老いて死を待つ犬と共に、一人の女性が蜜蜂の川をたどる。その道行きの中で、犬とのどうしようもない別れが近づいてくるのですが、そこに思いもよらぬ出会いが待ち受けています。この先はぜひ小説を読んで味わってみてください。大切なものとの別れが、とても優しく美しく描かれています。哀しみの中にわずかな希望をもたらしてくれる、素晴らしい一編です。

さて、2回に分けて猫と犬の話をご紹介しましたが、この短編集には他にも動物が出てくる話がたくさん収録されています。(上記の作品にも、犬以外に蜜蜂という生き物が出てきますね。)

心温まる幻想憚で楽しませてくれるのは、26匹の猿が消えるマジックで評判のサーカス団を描く「26モンキーズ、そして時の裂け目」。サーカス団を率いるエイミーも、実はどうやって猿たちが消えるのか知りません。消えた猿たちは、しばらくして手におみやげを持って戻ってきます。そこにはある秘密が隠されていました――。
 他にも、幸せを夢見たポニーと飼い主に降りかかる災厄を不気味に描いた「ポニー」、言葉をしゃべる犬と人間が暮らす世界を描いた「犬たちが進化させるトリックスターの物語」など、動物好きにはたまらない作品が並んでいますが、圧巻は表題作の「霧に橋を架ける」です。このお話に動物は登場しないのですが、あまりに素晴らしい一編なのでご紹介します。

著者は不思議な川というモチーフに惹かれているのか、本作では〈霧〉が川となって流れている世界を舞台にしています。それは我々が日常的に知っている霧ではなく、霧に似たぶわぶわとした物質です。霧の中にはそこを泳ぐ魚がいて、人々は霧の川を渡し船で往来しています。霧の川を渡るのはとても危険で、難破したり、巨大な魚〈でかいの〉に襲われて命を落とすこともあります。そこで、霧に橋を架けようという計画が持ち上がります。「蜜蜂の~」と同様、こちらも比喩ではなく、本当に「霧に」「橋を架ける」話なのです。

技術責任者兼建築家として呼ばれたのは、アトヤールという大都市から来たキット・マイネン。これまでいくつか橋を架けた経験がありますが、今回ほど大きなプロジェクトを手掛けるのは初めてでした。彼は渡し守のラサリという女性の協力のもと、橋の建設作業を進めていきます。
 人々の反応はそれぞれで、キットを歓待してくれる人もいれば、よそ者として距離を置く人もいます。渡し守は町に二人だけで、霧の状況を見ながら渡れるかどうかを判断するため、キットは長い間待たされたりします。ラサリをはじめ癖のある者も多く、船に乗れば大きな魚に襲われ、作業は思うように進みません。やがて工事中の事故で人が亡くなり、キットは自分のせいではないかと思い悩みます。そして、少しずつ仲良くなり始めた人々との距離をあらためて感じるのでした。
 いっぽう渡し守のラサリは、もし橋が完成してしまえば今までのように仕事ができなくなります。その葛藤を抱えながらも日々、淡々と仕事をこなしている彼女に、キットは次第に惹かれていきます。

こうして橋の工事に伴って様々な出来事が起こり、そこに巨大なプロジェクトを任されたキットの苦悩があり、人々との交流が描かれていきます。僕はSFはやや苦手な分野なのですが、とてもすんなりと話に入り込み、存分に楽しむことができました。それは本作が、人間ドラマとして素晴らしい出来栄えに仕上がっているからでしょう。

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