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ペットシッターの紹介する本や映画あれこれ by ペットシッター・ジェントリー

ペットシッターを営む著者が、日常業務を交えつつ、ペット関連の本や映画を紹介します

小説『カモメに飛ぶことを教えた猫/ルイス・セプルベダ』

2021年02月24日 14時30分00秒 | 猫の本

猫や犬など、いろんな動物が仲良く暮らしているのを見るのは微笑ましいものです。ただ、ペットシッターの仕事でそうしたケースに遭遇することは少なく、やはり異なる種類のペットを一緒に飼うことは実際には大変なのでしょう。
 たとえば犬と猫を比べると、犬が人間や他の動物とも積極的に仲良くしようとするのに対し、猫は自分のペースを守るのを重視する傾向にあります。(もちろんこれは一般論なので例外は多数ありますが。)小説などのフィクションでも同じように描かれることが多く、どうしても猫は気まぐれで意地悪なキャラクターにされがちです。

今回ご紹介する小説『カモメに飛ぶことを教えた猫/ルイス・セプルベダ著・河野万里子訳』にもたくさんの猫が出てきますが、やはりマイペースで個性的な猫ちゃんばかり。そんな彼らが力を合わせて一羽のカモメを救おうとするのが、このお話です。主人公はゾルバといういう名の、ふとった真っ黒な猫。ドイツの港町ハンブルクでのんびりと暮らしています。ある日、ゾルバが日光浴を楽しんでいたバルコニーに、一羽のカモメが落ちてきます。海で原油にまみれながら、力を振り絞ってここまで飛んできたのです。カモメはゾルバに三つの願い事をします。これから生む卵をけっして食べないこと、卵をヒナに孵すこと、ヒナに飛ぶことを教えること。カモメは卵をゾルバにたくし、息を引き取ります。

そこからゾルバの苦難が始まりました。卵を食べないのはなんとか我慢することでしのげたものの、自分の子供すら育てたことのないゾルバに卵をかえす方法などわかりません。彼は町に住む猫に助けを求めます。〈困っている者に力を与えることのできる、不思議な助言の能力〉を持つ、年齢不詳の猫〈大佐〉。やせてひげも二本しかない野良猫の〈秘書〉。ゾルバが話をすると、二匹は彼を〈博士〉の元へ連れていきます。灰色猫の〈博士〉は、老水夫の集めた膨大なコレクションの展示館に住み、日々百科事典の研究にいそしんでいます。〈博士〉は百科事典をひもとき、ゾルバに解決策を授けようとしますが、それだけではうまくいかないこともあります。彼らはどうやってカモメを救うのでしょうか。

〈大佐〉は尊大な割に物を知らず、〈秘書〉は〈大佐〉の言葉に口を出して怒られてばかり。〈博士〉は百科事典を信奉するあまり本質を見失いそうになります。街に出ればちんぴらの野良猫が行く手をはばみ、〈博士〉と同居するいやみなチンパンジーや中庭の通行権を求めるネズミなど、多彩なキャラが猫たちを悩ませます。本書の対象年齢は8歳から88歳まで、と言われているようですが、カモメとの約束を果たそうとするゾルバの冒険話に、子供なら胸を躍らせること間違いなしです。

いっぽう、大人は話の寓意性に目を向けることでしょう。〈秘書〉や〈大佐〉など、身近な誰かに似ている気がしてきますし、彼らとのやりとりはまさに人間社会を写したものに思えてきます。
 本書の根底には人間のおこないに対する強い戒めが感じられます。カモメが飛べなくなったのは人間が海に垂れ流す重油のせいです。猫たちは他にも、人間が海に捨てる殺虫剤の缶や古タイヤなどに頭を悩ませています。イルカやライオンなどさまざなま動物を人間が手なずけ、もてあそんでいることも著者は批判しています。それでも、ラストの展開には人間に対するかすかな希望もうかがえます。

著者のルイス・セプルベダ氏は、2020年4月、新型コロナ感染により亡くなりました。また、作中で引用される「カモメ」という詩は、同じく2020年に日本で刊行され話題となった『アコーディオン弾きの息子』の著者ベルナルド・アチャーガ氏によるものです。そしてなにより、様々な動物たちが自分の意見を主張し、いがみあい、違いを認識しあい、それでも同じ世界に住む様を描き出しているところは、現在の多様化する社会の見本といえます。
 様々な意味で現代性を感じる作品です。短くてすぐに読めますので、一家に一冊、食卓にでも置いてみてはいかがでしょう。親子で読んで感想を披露しあうのもきっと素敵な体験になることと思います。


小説『猫は知っていた/仁木悦子』

2020年12月23日 21時00分00秒 | 猫の本

猫ちゃんのシッティングで訪問する際、警戒心の強い子だと隠れて出てこないことがあります。そうした場合、室内を探したほうがいいか探さないほうがいいかを、事前に必ず飼い主さんに確認しておきます。ペットの安否を確認するためには探したほうがいいのですが、探し回ることでペットにストレスを与えてしまったり、家の中をうろうろされることを好まない飼い主さんもいらっしゃるので、そこはご要望にお任せすることにしています。

たまにひやりとするのは、猫がどこにも見当たらない時。探しても探しても見つからないと、だんだん焦りがつのってきます。たとえばゴミ捨てや水やりなどで室内外を出入りする際、窓の開け閉めのわずかな隙をついて外に出てしまうこともあり、もちろんそこは十分に注意するのがペットシッターの基本なのですが、可能性としてゼロではありません。どうしても見つからないとき、窓から外に出たのだろうか、玄関の出入りの際に出てしまったのだろうかと不安が心をよぎります。
 でも十中八九、室内のどこかに隠れています。根気よく探していると、まさかここに、というほど狭い隙間や背の高い家具の上で見つかることがあります。テレビ台の下にDVDプレイヤーなどが置いてあり、正面の扉が閉まった状態でも、背面から入り込むことがあります。ソファ底部の袋状になったところや、意外に見落とすのが冷蔵庫の上だったりします。事前に隠れそうな場所をいくつか聞いておくことも、ペットシッターの仕事を遂行する上で重要です。

さて、今回ご紹介する小説『猫は知っていた/仁木悦子』でも、妙なところに隠れたりまた姿を現したりする猫が出てきます。江戸川乱歩賞が公募となった最初の回で見事、受賞作に選ばれたのが本作。なんと1957年の作品です。著者の仁木悦子さんは、日本のミステリ史で最初に登場する女性作家であり、日本のアガサ・クリスティとも呼ばれました。

小説の主人公は、著者と同じ名前の仁木悦子という女性と、その兄の雄太郎。この二人が移り住んだ先で、連続殺人事件が起こります。大学で植物学を専攻する雄太郎は頭脳明晰で、事件の謎を追い、真相を解き明かしていきます。悦子も素人捜査の一員として兄に付き添い、彼らはさながらホームズとワトソンのような活躍を見せるのです。

本作の特徴の一つは、古き良きミステリの味わいを堪能させてくれるところです。兄妹が病院の一室を間借りするところから物語は始まりますが、この導入部からして時代感満載です。本作が書かれた1957年当時でも、戦争の爪痕はまだ各地に残っていました。二人は戦災のためか住む場所を失い、ようやく病院の一室を住居として借りることになりました。病室に兄妹で住む、というのは今となってはなかなか考えづらい状況です。さらに、病院の敷地内に当たり前のように防空壕跡があるのもこの時代ならでは。この防空壕が本作で重要な役割を果たします。

そしてもう一つ重要な存在が猫です。最初に老婦人が殺されるとき、猫の姿が見当たらなくなります。前述したとおり、猫はいつの間にかどこかに行ってしまうものですが、本作でも意外なところで見つかります。さらにラストの謎解きでもう一度、猫が深く関わってきます。解き明かされた真相を知れば、猫好きの人はにやりとするはず。どう関わってくるのか、どうぞ本作を読んでお楽しみください。


漫画『サブリナ/ニック・ドルナソ』

2020年08月13日 23時30分00秒 | 猫の本

今年は7月が曇りがちで涼しい日々が続き、しのぎやすかったのですが、ついに本格的な暑さが到来しました。犬の散歩時間帯が限られるうえ、朝夕でも気温の高い中を歩かなければならず、ペットシッターにとって最もしんどい時期。とはいえ今年は新型コロナの影響でお盆すらご依頼はすくなく、寂しい日々を送っています。こうした暑くて落ち込みがちな時は、ひやりと涼しくなるホラー、しかも猫の出てくるような作品をと思ったところ、最近読んだ漫画がちょっと面白かったのでご紹介したいと思います。

サブリナ/ニック・ドルナソ著・藤井光訳』という作品で、漫画というより「グラフィック・ノベル」といったほうがいいかもしれません。なにせ本作、通常は小説に与えられる文学賞、ブッカー賞にノミネートされるほど高く評価された作品です。本屋さんで手に取ると、漫画とは思えないくらいのボリューム、そして3,960円という価格に驚かされるのですが、読んでみればさらに驚嘆させられる内容でした。

タイトルの『サブリナ』というのは表紙になっている女性の名前で、冒頭の1コマ目に大映しで登場します。目立たない風貌の地味な女性で、旅行にでかけた両親が飼っている猫の面倒をみています。(娘が親のためにペットシッターをしてあげているんですね。)そこに妹のサンドラがやってきて、他愛もない会話の中で二人の関係性や嗜好が紹介されます。妹が去り、サブリナもどこかへ出かけるところでそのシーンは終わり、次のページには若い男の大映しが出てきます。ここからは一転、二人の男の物語となります。

本作のキャラクターは総じて表情や特徴に乏しく、誰が誰だか一見わからなかったりします。説明は少なく、コマとコマのつながりも散発的なため、日本の漫画を読みなれていると、ちょっと面食らって読みづらく感じるかもしれません。それでも読み進めるうちに、その独特の表現やリズムに引き込まれていきます。サブリナの描写の後に出てくる男たちも最初はわかりにくいのですが、会話の内容からどうやら男の一人がサブリナの恋人らしく、もう一人が彼の昔の友人らしいことがわかってきます。

サブリナの恋人はテディ、その友人はカルヴィンといいます。じつは冒頭のシーンのあとサブリナは行方不明になってしまい、テディは途方にくれています。事情を知らされたカルヴィンは、テディをしばらく自宅に泊めてあげることにしました。テディは憔悴して何もやる気が起こらず、寝てばかりいます。ある日、カルヴィンの元にサンドラから電話がかかってきます。サブリナのバスの定期券が送られてきたらしく、犯罪のにおいが漂い始めます。そして次にまったく別の登場人物が出てくるシーンで、事態は大きく動きます。

カルヴィンは平日の16時から24時まで軍の施設に勤務しており、どこかの基地で秘密の監視を続けています。彼が何をしているのか、そして彼が次に就こうとしている仕事は何なのか。すべてが謎めいて描かれており、それはこの作品自体のテーマにもうっすら関係しています。

本作のテーマ、それはざっくり言えば、「現代アメリカの抱える闇」といったところです。とある事件が起こり、それを巡ってマスコミが騒ぎ立て、ネットでは一般人がマスコミの裏を読むように別の方向へ世論を引っ張っていきます。そこには陰謀論が渦巻き、けっして解かれることのない謎が根を張りつづけ、ターゲットにされた人達は苦痛を味わいつづけるのです。

本作を読み終え、うすら寒い気持ちを味わいました。これはアメリカだけではなく、日本でも十分に起こり得る問題ですし、現に起こっている問題でもあります。我々一人一人が十分に注意して行動しなければ、被害者にも加害者にも簡単になり得ます。だから本作でも、最終的に事件に深く巻き込まれていくのはサブリナでもテディでもなく、およそ関係の薄いカルヴィンなのです。

やや陰鬱な紹介になってしまいましたので、最後に猫の話をします。作中、猫が2匹出てきます。サブリナの両親の飼っている猫と、カルヴィンの飼っている猫です。どちらもほんの少ししか登場しませんが、仰向けに抱かれている時の体勢や、香箱座りをしている格好など、実に猫らしく愛らしく描かれており、この著者は猫をよく知っているんだろうなあと思います。カルヴィンの猫は途中で行方不明になり、それをテディが捜しに行くことで物語が動くきっかけにもなっていきます。だから猫は何かの暗喩になっているのかもしれません。表紙にもしっかりと二匹の猫のシルエットが描かれているくらいですから。

 


小説「噛みつき猫/キジ・ジョンスン」(『霧に橋を架ける』所収)

2020年06月17日 10時50分00秒 | 猫の本

噛みつく犬は大変でしょう、とよく言われます。初めてのご依頼の場合、必ず事前打ち合わせをおこない、犬の性格や自分との相性を確認してからお引き受けするかどうか判断しますし、不安な時は一度、留守にしてもらってシミュレーションをおこなったりもします。いっぽう猫においても、噛んだり引っかいたりなど攻撃性のある子はいます。犬ほどには大けがにはなりませんが、そこそこの傷にはなりますし、最悪、作業ができないこともあります。それでも猫の性格から事前にお断りする、ということはありませんし、事前打ち合わせでは隠れて出てこなかったり、まさに「猫をかぶっている」猫もいます。だからこそ厄介ではあるのですが、ぶっつけ本番でなんとか作業をこなさなければいけません。なるべく猫に近寄らず、カバンでガードしながらお世話を済ませるようにしますが、どうにもならない場合には、掃除機など大きな音を出す機械をそばに置き、猫が近寄らないようにすることもあります。もちろん、極力猫にストレスを与えないように注意しながらではありますが。

なぜ攻撃性のある猫になってしまうのか。攻撃するのは怯えているのがたいていの原因で、それは育て方が悪かったせいだと言えば簡単ですが、そうとも言い切れないケースもあります。たとえば、ずっと人懐こかった猫なのに、人間がそばでくしゃみをした途端、怒って噛みつくことがあります。これは僕の同僚スタッフの実体験で、調べてみると他にも実例があるようです。くしゃみの音が猫同士の威嚇の声に似ているからだそうですが、真実はわかりません。他にも、ある時期から急に人を噛むようになって困っている飼い主さんもいます。人間と同様、動物にだって複雑な心中はあるでしょうから、それを完全に推し量ることはできません。きっとこう考えているのだろう、と想像するのが関の山です。

今回ご紹介する短編集『霧に橋を架ける/キジ・ジョンスン著・三角和代訳』の中の一編、「噛みつき猫」にも、題名どおり人に噛みつく猫が出てきます。
 いがみあい、いつも喧嘩ばかりの両親の元に暮らす三歳の少女セアラは、誕生日のプレゼントで猫を買ってもらいます。(そこからして間違っているのですが、ひとまず措いておきましょう。)シェルターで見かけた時から猫はセアラを噛み、にもかかわらず彼女はその猫を飼うことに決めます。コインのようなぶちがあることから、ペニーと名づけました。その後もペニーは兄のポールを噛み、母親にも噛みつきます。父親は噛みませんが、それは彼がペニーに手を出さず、遠くから話しかけるだけだからです。

ペニーはときおり、セアラも噛みました。それでも彼女はペニーについて回り、触れ合おうとするのをやめません。彼女は、ペニーが本当は怪獣だとわかっていました。〈とても大きくてあばれものでその気になればいつでも人を殺せる〉のですが、いまはたまたま猫の姿をしているだけ。〈でも、ペニーは自分が怪獣だということを覚えている。だから、いつでも怒っている。だから、みんなを噛む。〉そうセアラは思っているのです。

その後、両親は離婚し、セアラは父親と母親の家を行き来するようになります。常にいら立ちを隠さない母親に、セアラも穏やかではいられません。それでも、(三歳だから当然ですが)うまく感情をコントロールできず、セアラは叫び、手足をバタバタさせて暴れます。
 彼女はある日、なだめようと抱きしめた母親の腕に噛みつきます。母親はさっと腕を引き、怯えた表情を浮かべました。セアラはこれで、ますます人に噛みつきたくなります。そのシーンの記述には、はっとさせられ、同時にぞっとしました。
〈噛みつけば少なくとも、人はセアラに気づいてくれる。噛みつけば少なくとも、愛してほしいと思っても人に愛されない理由がわかる。〉

三歳の子どもだからわかること、共感できることがあるのかもしれません。とても短い一編ですが、動物の不可解性に少女の不可解性を絡めた、非常に面白い試みの小説となっています。

この短編集には他にも、動物の出てくる作品が多数収録されています。一回で終えるにはもったいないので、次回以降に分けてご紹介したいと思います。動物は出てきませんが、表題作も最高なんですよ!


小説『猫に時間の流れる/保坂和志』

2020年04月03日 23時50分00秒 | 猫の本

何度も書いているとおり、僕は犬も猫もその他の動物も大好きです。そして、仕事で接する飼い主さんたちも、それぞれ、動物に愛情をかけていらっしゃいます。ただ、愛情のかけかたにはそれぞれ違い(愛情の多い少ないではなく、種類としての違い)があるような気もします。とくに犬と猫は対称的で、日本人の伝統的な世界観である〈ハレ〉と〈ケ〉で比較すると、犬への愛情には〈ハレ〉的なお祭り感や非日常感、猫への愛情には〈ケ〉的な日常感や生活感を感じます。つまり、犬は一緒にキャンプに行ったりフリスビーで遊んだりなど、積極的に人生を作り上げていくイメージ、猫は日々の生活の中で共にゆるやかに生きているイメージなのですが、皆さんはいかがでしょうか。

今回ご紹介する小説『猫に時間の流れる/保坂和志』を読んだ時にも、そんなことを思いました。おんぼろマンションに住む〈ぼく〉は、両隣に住む人たちや、それぞれが飼っている猫たちと、とりとめもない毎日を送っています。〈ぼく〉をふくめ全員が自由業という三人は、夕方になると猫を連れて屋上で過ごすのが日課でした。隣人の一人、三十過ぎで美人の美里さんは、チイチイというおとなしい猫を飼っています。もう一人は西井という男で、彼の飼っているパキはかなり気性が荒く、喧嘩も強い。
 屋上に座り込んで話す三人のそばで、猫たちも思い思いに時間を過ごしています。パキとチイチイがじゃれあい、やがてそれに飽きたパキが地面に転がってごろんごろんと寝返りを打ち、西井を誘います。チイチイは手すりの縁を優雅に歩き、美里さんがそれを心配顔で「お願いチイチイ、そんなとこ歩かないで」と訴える。そうした光景は、まさに日常そのものです。

ある日、屋上に見知らぬ黒白猫がやってきて、パキと激しい喧嘩を繰り広げます。西井が間に入ってようやく喧嘩は収まりますが、パキは片方のまぶたを傷つけられていました。一方のチイチイは屋上の隅に小さくなり、難を逃れます。黒白猫はその後、町の暴れん坊猫として名を馳せ、マンションの壁にマーキングを繰り返すようになりました。そうしたできごとの一つ一つもまた生活の中に溶け込んでいき、どこまでも“猫的な”物語だなあと実感させられます。

著者の保坂和志氏は猫好きとして有名な作家さんで、猫の出てくる話をたくさん書いています。彼の小説には、自身の猫に対する考え方が色濃く反映されている気がします。
 作中、〈ぼく〉自身は猫を飼っておらず、とくに猫に対する強い思いはなさそうで、二匹の猫をだからこそ客観的に、擬人化することなく見つめています。たとえば〈ぼく〉は、チイチイとパキの性格の違いが、育て方のせいなのか持って生まれた気質のせいなのかはわからない、といいます。これはとても重要かつ的確な考え方で、ある一匹の猫を別の育て方をして比較することができない以上、育て方で性格に違いが出るのかはわかりません。同様に、持って生まれた気質がどこまで影響するのかも、正確に判断することは困難です。このあたりを実にニュートラルに〈ぼく〉が捉えていることに、僕は読んでいて共感を覚えました。
 〈ぼく〉は、猫を屋内に閉じ込めるのがいいのか、自由に外を行き来できるのがいいのかについても答えは出さず、飼い主がどちらを選択するかの問題だと捉えています。親しく付き合っている隣人二人においてさえ、飼い方や考え方も違えば、猫の性格も違う。でも、どちらも否定することなく両方を受け入れています。
 〈ぼく〉はさらに、猫の性格を断定もしません。パキは確かに気性が荒いものの、飼い主の西井には甘えてすり寄ったりする面もあり、一言で決めつけられるものではないといいます。こうした〈ぼく〉の考え方や立ち振る舞いは無責任とも言われそうですが、僕は支持します。なにかを決めつけてしまうことは、けっして正確ではないうえに、かえって猫や人を傷つけることもある、そんな気がします。

もうひとつ本作の美点をあげるなら、読んでいてとてつもなく気持ちがいいということ。純文学と聞いて身構えるような難しい文章はいっさいなく、まさに猫の体の動きのようになめらかな文体は、すんなりと頭に入っていきます。本を読もう、と積極的に取り組むのではなく、日常の一環として文章を取り込み、それが自然に体の隅々までしみわたっていく。その意味でも本作は、真の猫小説だと言えるでしょう。


小説「木野/村上春樹」(『女のいない男たち』所収)

2020年03月13日 23時00分00秒 | 猫の本

猫が災いや不吉の象徴のように言われることがありますが、いつも悲しくなります。とくに黒猫への風当たりが強く、西洋では昔から魔女の使いのように思われ、数多くの黒猫が無慈悲にも殺された歴史があります。本ブログでは決して紹介しませんが、その名もずばりの有名な怪奇小説があったりすることも、影響しているかもしれません。

犬のようには懐かず、何を考えているかわからないところが不気味だ、という話は何度か聞いたことがあります。でもたいていそういう人は、猫と深く関わったことのない方です。嫌いだから関わらないというのはもちろん仕方ないのですが、できればすこしでも彼らの仕草を見てみたり、顔をじっくりとご覧になってほしいのです。実にあどけなくかわいらしく、怖がることなどまったくないことがわかってもらえるかと思います。もちろん中には性格の悪い猫もいますが、それはどんな動物であっても同じこと。最低限、ただの通説やぱっと見の印象だけで猫を判断してほしくない。犬も猫も好きな僕としては、心からそう願っています。

村上春樹さんの小説「木野」にも、幸運を呼ぶすばらしい猫が登場します。50ページ足らずの短編で、『女のいない男たち/村上春樹』という短編集に収録されています。

39歳の木野は、妻と会社の同僚とが自宅のベッドで抱き合っているところを目撃してしまいます。木野は何も言わずに家を出ていき、会社も辞めます。その後、彼は伯母の持っていた喫茶店を改装し、小さなバーを開きます。自分の作った店で心ゆくまで好きな音楽を聴き、好きな本を読んで過ごす毎日。孤独と寂しさを受け入れた彼にとって、そこは居心地のいい空間となりました。
 まだ客もすくないころ、店内に忍び込んできたのが、一匹の野良猫でした。グレーの若い雌猫で、美しい尻尾を持っていました。猫は好きな時間にやってくると、店の片隅の飾り棚で眠り、また去っていきます。木野はできるだけ猫をかまわないようにし、一日に一度ご飯をやり、水を替えてやる以上のことはしませんでした。
 やがて、猫が良い流れを作ってくれたのか、繁盛とはいかなくても、木野の店には客が入り始めます。バーには不思議な客が訪れるもので、坊主頭にレインコートを着た、カミタと名乗る男が常連となりました。彼はあるとき、店でやくざ風の男二人に絡まれた際、穏やかに店を出ると、しばらくして一人で戻ってきます。争った形跡はなく、店内にいた木野には物音ひとつ聞こえませんでした。どうやったのか、と聞く木野に、「知らない方がいい」とだけカミタは答えます。
 そのすぐ一週間ほど後、木野は客の女性と一夜を共にします。彼女は柄の悪そうな男といつも一緒でした。木野の部屋で服を脱ぐと、女性は自分の肌につけられた無数の傷跡を彼に見せます。彼女には普通ではない何かがある、そう思いながらも、気づけば二人は抱き合っていました。
 夏の終わりに木野の離婚が成立し、やがて秋になる頃、猫が姿を見せなくなります。同時に、東京ではめったに見ない蛇を、木野は三度も目撃します。
 ある日、いつになく遅い時刻にやってきたカミタが木野に、すぐに店を閉めて遠くへ旅立つよう伝えます。何かの予兆を感じた木野は、言われるとおりに荷物をまとめ、次の日に高速バスで四国へと向かうのでした。

上のあらすじだけでも、奇妙な味わいの話、ホラー小説のようなものだと思われるかもしれません。しかしそこには、大事な人間的要素が示されています。それは、木野の人生に対する向き合い方です。物語の最後に木野は、自分に欠けていた部分、自分が向き合おうとしていなかった部分に気づきます。いったい何が起こり、そこで木野はどう感じるのか。実際に読んでみて味わってほしいのですが、木野の離婚が成立したあと、店に元妻がやってくるシーンで、興味深いやりとりがあります。
 元妻が店内を見回し、〈素敵なお店ね〉〈静かで清潔で、落ち着いた雰囲気があって、いかにもあなたらしい〉と感想を述べます。それに対し木野は、〈しかしそこには胸を震わせるものはない……おそらくそう言いたいのだろう〉と推測するのです。

本作において猫は、商売繁盛かつ守り神のような存在として描かれます。だからこそ、猫がいなくなったあとに不吉なことが起こります。とにかく猫は何も悪くない、それだけは確かなことです。


小説『牝猫/コレット』

2020年02月21日 23時20分00秒 | 猫の本

これは僕だけの感覚かもしれませんが、犬は雄でも雌でも男の子という気がします。いつでも目を輝かせ、元気に走り回る姿からついそう思ってしまうのです。いっぽう猫は、雄でも雌でも女性という気がします。気まぐれで本心がなかなか読めず、そっぽを向いていたかと思えばすり寄ってきて甘えてくれる姿から、つい女性を想起してしまうのです。もちろんどちらも僕の偏見ですが。

90年ほど前に書かれた小説『牝猫/コレット著・工藤庸子訳』は、タイトルこそメスの猫になっていますが、本当にそうなのかの言及はありません。主人公の青年アランは、この猫がオスだったとしても同じように愛情をいだき、同じようにかわいがっただろうと思います。
 アランは、美貌の女性・カミーユと結婚したばかりです。本来ならめくるめく新婚生活を送っているはずが、どうもしっくりいきません。彼は生来、裕福な家庭で何不自由なく暮らし、そこに愛猫のサアもいました。結婚を機に、アランとカミーユは新居で暮らすことになりますが、アランは何かにつけ不満を抱きます。その最たるものが、サアがいないことでした。カミーユは猫を嫌っているというほどではないのですが、新婚生活は二人きりで送りたいと思っています。いっぽう、アランはサアを溺愛しています。ここに微妙なすれ違いが生じ、溝は徐々に深まっていきます。
 アランはカミーユとの二人暮らしを続けますが、けっきょくどうにも我慢ならなくなり、実家からサアを自分の家に連れてきます。カミーユもしぶしぶ承知するのですが、なにかにつけサアを第一に考えるアランを見るにつけ、日に日に嫉妬の思いが募っていきます。そして彼女は、アランが出かけた隙に、ほんの衝動からとんでもない行動に出るのです――。

ちなみにサアは、シャルトリューという種類の猫です。僕も一度、お世話をしたことがありますが、グレーの毛並みがとても美しい猫でした。高潔な感じでおとなしく、まったく手がかかりませんでした。

アランはまるで人間と会話をするようにサアと“語り合い”ます。〈きれい、きれいの牝猫さん〉〈青い鳩さん〉〈頬っぺたのふくらんだ小熊ちゃん〉〈真珠色の魔物くん〉など、途中からは褒めてるのだか何だかわからないような賛辞を贈ります。彼はベッドに横たわると、胸の上に乗ってきたサアが両前足でマッサージするように踏み踏みする感触を楽しみます。(猫を飼ってらっしゃる方は、猫がよくこの仕草をするのをご存じでしょう。)ここでアランは、〈絹のパジャマをとおして〉〈はらはらしながらも快感をおぼえる〉といった、やや倒錯的な独白をします。そしてサアもまた、〈のどをいっぱいにふるわせてごろごろと鳴き〉〈暗闇でいきなりアランの鼻のした、鼻孔と上唇のあいだに、濡れた鼻先をちょっと押しつけ〉ることで、彼への愛情を示すのです。まるで、カミーユではなくサアが彼の妻であるかのようです。

この小説を読んでいると、以前にここでご紹介した小説『猫と庄造と二人のおんな/谷崎潤一郎』を思い出します。新婚夫婦がいて、夫が妻より猫に夢中で、それが騒動を引き起こすというあたりはそっくりです。その後の展開には違いがありますが、夫の母親が陰で存在感を示しているところもよく似ています。しかも調べてみると、『牝猫』が書かれたのが1933年、『猫と庄造と~』が書かれたのが1936年と、発表時期まで似ていて驚きます。
 ただ、読み終えて思うのは、結局アランが固執していたのは、猫そのものというより、かつての安楽な暮らし全体だったのだということ。優しい母親がいて、居心地のいい家や庭がある。お気に入りの家具、お気に入りの場所がある。誰にも気兼ねすることなく、それらを好きに使うことができる。そして何より、最愛の猫がいる。それに引き換え、カミーユとの暮らしは、刺激的ではあるけれど我慢ならないことも多く、アランの理想どおりにならない。彼はそこに何よりの不満を抱き、元の生活に戻りたいと切望するようになったのでしょう。

安楽で居心地のいい場所というのは、こうした危険も含んでいます。いったんそこに慣れてしまったらもう余所へは行けませんし、少しの変化も耐え難いものとなります。そうした事態への警告として、僕はこの小説を読みました。もちろん、ほかの小説に出てくる猫と同様、このサアも猫らしい気ままさ、奔放さ全開で描かれます。猫に罪はありません。もちろんです。


小説『タマや/金井美恵子』

2020年01月31日 23時00分00秒 | 猫の本

先日、地元で開催された読書会に参加してきました。『友だち幻想/菅野仁』 という課題図書について、読書好きの方々と楽しく語り合いました。本書は、友人関係や同調圧力に苦しむ人たちに向けて書かれた指南書であり、ポイントをまとめると以下のようになります。

  • 「みんなが仲良くなる」のが「正解」だとすると、息苦しい。
  • たくさんの人がそうした人間関係に苦しんでいる。
  • だから、「みんなが仲良くなれるわけではない」ことを前提にして、それぞれの環境で身の処し方を考えていこう。

やはり人間関係というのは誰にとっても大きな懸案事項であり、参加者それぞれから、たくさんの体験談が語られました。僕も昔から人と打ち解けるのが得意ではなく、「一年生になったら、友だち百人できるかな」という歌が大嫌いでした。学校でも以前に勤めていた会社でも一人で過ごすことが多く、やがて年を取るにつれ、徐々にこのままでいいんだと思えるようになりました。それぞれが自分の好きなように過ごし、タイミングが合えば誰かと行動する、くらいが僕にはちょうどいい按配なのです。

近年、猫の人気が高いことも、そうした考えが背景にあるのではと思います。積極的に関わり合うのではなく、普段はお互いが好きなように過ごして干渉しない。それでも、気づけばそこにいて慰めになってくれたり、安らぎを与えてくれたりする。それが猫の特質です。そういう、タイト過ぎない関係がお互いに心地いいのではないでしょうか。(もちろん、べたべたに甘えてくる猫もいて、それはそれでかわいいのですが。)

今回ご紹介する小説『タマや/金井美恵子』にも、そうした猫の様子が描かれています。語り手はフリーカメラマンの夏之。仕事もせずぶらぶらしているところへ、知り合いのアレクサンドルが猫を連れてやってきます。アレクサンドルはアメリカ人とのハーフで、姉の飼い猫のタマを引き取ってもらえないかと依頼します。彼の姉の恒子が妊娠し、猫がいるのは衛生上よろしくないからという理由でした。夏之は困惑しながらも、強く断れません。実は夏之は恒子と関係を持っており、彼女のお腹にいるのが自分の子供かもしれないのです。結局、アレクサンドルに飄々と押し付けられる格好で夏之はタマを引き取ることになります。見ればタマも身ごもっており、やがて夏之の部屋で5匹の子猫が生まれます。

その後、恒子の子供の父親だと名乗る男からつづけて電話がかかってきます。恒子は何人もの男性と関係を持っていたようで、消息不明となった彼女の行方を追って、彼らは夏之に連絡をしてきたのでした。極めつけは精神科医の冬彦という男で、あろうことか彼は夏之の異父兄弟でした。突然やってきた冬彦は、アレクサンドルと一緒にいれば姉の恒子とも連絡がつくだろうとのことで、帰ろうとしません。こうして夏之の部屋には、アレクサンドル、冬彦、タマと5匹の子猫、というメンバーがずらりとそろい、奇妙な共同生活が始まるのでした。

恒子の行方は依然として知れず、子供の父親は判然としません。かといって誰が父親かを巡って骨肉の争いが繰り広げられるわけでもありません。じつは子猫の父親が誰なのかもわかっていないのですが、タマがそのことを気に病むはずもなく、「この私をごらんなさいよ」とばかり、子猫とともにのんびりと暮らしています。けっきょく、誰もが真剣に父親を探そうとはしていないのですが、それでも日常は過ぎていきます。こうして、ヒトと猫とが不思議な相似関係を保ったまま物語は進んでいきます。

著者の金井美恵子さんは、現役の女性作家としては日本一文章が巧いと言われ、文体も独特です。会話文と地の文の区別がないこと、明確なストーリーがないことなどが挙げられますが、なにより、一つの文がとにかく長いことが特徴です。かといって読みにくいかというとそうでもなく、男性作家で同じく日本一文章が巧いと言われる古井由吉さんの小説あたりだと、僕には高尚すぎて何が書いてあるのかさっぱりわからなかったりしますが、本書を読み始めてみれば、もちろん冒頭数ページほどは慣れずに何度も読み返したりするものの、難解な言葉も表現もなくどのセリフを誰がしゃべっているのかも実は明確に区別できるため、そりゃぼんやり読んでいたら何も頭には入ってきませんけれども、普通に真摯に向き合って読み進めれば自然と文章は体に吸い込まれ、描かれている小説世界が頭に構築されていくはずですので、どうかあきらめずに読んでいれば必ずやめくるめく新しい読書体験が得られるだろうという、こういう長い文章だったりすることを伝えたかったわけです。(猿真似ですみません。)どうぞご一読、ご賞味あれ。


小説『インディアナ、インディアナ/レアード・ハント』

2020年01月17日 12時00分00秒 | 猫の本

ご高齢の方から依頼を受けることが多くなりました。もちろん、精力的に旅行にお出かけになるケースもありますが、体調を崩して入院されたり、ケガで犬の散歩ができないといった理由もあります。一人暮らしで、ペットの世話を親類や知人に頼めない場合は、やはりペットシッターなどのサービスを受けるしかありません。そうした現状を見かねたまわりの人が、「もう年なんだからペットは飼えないよ」と諭すこともあり、確かにその通りではあるのですが、なかなか簡単に割り切れないところもあります。

老いて一人暮らしを余儀なくされた場合、物言わずに寄り添ってくれるペットの存在意義は大きいことでしょう。そして散歩が必要な犬よりも、手間のかからない猫を飼うケースが多いと思います。最近は犬よりも猫のシッター依頼が多くなりましたが、そうした事情も加味されているかもしれません。普段は気ままに過ごし、時にはご飯をねだり、そばに来てくれたり一緒に寝たりしてくれる、愛おしい存在。そしてその猫にご飯をあげることで、自らの存在意義を再確認でき、生きる意欲も湧いてきます。なによりの慰めとなり、生きる支えとなるのが、猫という存在なのでしょう。

さて、今回ご紹介するのは、『インディアナ、インディアナ/レアード・ハント著・ 柴田元幸訳』という小説です。レア―ド・ハントは僕の大好きなアメリカの作家で、邦訳された三冊すべてが、いずれ劣らぬ傑作ぞろいなのです。
 三冊のうちでは、本作が最初に邦訳され、2006年に刊行されました。アメリカ南部インディアナ州に住む年老いた男、ノアが主人公の物語です。水に落とすときれいに開く日本製の麗花を見つめるシーンで幕が開きますが、最初のうちは、彼がどういう人で、なにをしているのか、詳細は明かされません。一人で小屋のような家に暮らし、ときおりマックスという若い男が訪ねてくること、オーパルという女性から恋文のような手紙がとどくことなどが、散発的につづられるばかりです。

ノアは自宅で何匹か、猫を飼っています。ストーブの近くの椅子に座り、猫に、お前ずいぶん痩せてるねえ、と話しかけたりします。友人らしき男のマックスはその猫をエジプト猫と呼んでいて、そこからマックスがエジプトを含め各地に旅行をした話が語られ、同時に、ノアをめぐる事情もすこしずつ明かされていきます。
 ノアにはかつてヴァージルという名の父親がいて、ノアが少年だった頃から、不思議な話を聞かせてくれました。見世物小屋で奇妙な映画を見たこと。当時はまだ危険だった飛行機に乗せてもらったこと。ヴァージルは自分の語る話を「五十パーセントの物語」と呼びました。

〈五十パーセントとは物語のうちせいぜい五十パーセントしかはっきりしないってことだ、とヴァージルは何度かノアに説明した。時には、その五十パーセントすら聞き手や読み手にはすぐにはわからない。けれどもその五十パーセントは、たとえわかるのに人生の半分かかってしまうとしても、本当にそこにあるんだとヴァージルは言った〉

この著者の小説の特徴は、作品内にさまざまな“声”が響き合うこと。登場人物たちそれぞれが語る話は経験談でもあり、おとぎ話のようでもあります。彼らの語りの“声”にくわえ、地の文章においても、リアリズムを離れた詩のような表現がまたそれぞれの“声”として混じり、不思議な物語世界が形作られていきます。
 いっぽう、そうして明かされていく事実は意外に起伏に富んだドラマになっており、本作においても、ノアの置かれた厳しい状況や、オーパルとの関係、そこで起こる辛いできごとなどが徐々に明らかになっていきます。

猫の小説、というほど猫の登場シーンは多くはありませんが、大好きな作家の作品ということで、今回紹介してみました。既に絶版となり入手は難しいのですが、ネットの古本や図書館ではまだ見かけますので、探してみてください。


小説『クリスマスの猫/ロバート・ウェストール』

2019年12月20日 23時45分00秒 | 猫の本

クリスマスの時期、ペットシッターの仕事は忙しくなるのか? そう質問されたとしたら、答えは「No」です。家族と家で過ごす人も多いでしょうし、この時期の外出が他の時期に比べてとくべつ増えることもありません。ですのでクリスマス前後は意外に空いています。ペットシッターとしては、すぐ一週間後に年末年始の大繁忙期が控えていますので、クリスマスはそれに向けて体を休める時期だと僕は捉えています。

さて、今回はこの時期にぴったりの小説をご紹介したいと思います。その名もずばり、『クリスマスの猫/ロバート・ウェストール著・坂崎麻子訳』。前々回、同じ著者による『猫の帰還』をご紹介しましたが、あちらがティーンエージャー向けだったのに対し、今回の作品はさらに対象年齢を下げた、子供向けの小説です。とはいえ、大人が読んでも十分に楽しめる内容であり、僕ももちろん満足して読み終えました。

1934年のイギリス。11歳で上流階級育ちのキャロラインは、クリスマスにサイモンおじさんの元に預けられます。教区牧師のおじさんは優しいけれど気弱で、家政婦のブリンドリーに頭が上がりません。キャロラインもブリンドリーに邪険に扱われ、門から外に出ることも許されず、一人で牧師館の広い庭を歩き回って日々を過ごします。唯一、古い馬屋で出会った猫と戯れることだけが慰みでした。
 そこへ、貧しい家庭に育ったボビーが門を超えてやってきます。ブルジョアに偏見を持つボビーでしたが、勝気なキャロラインの態度を気に入り、自分たちの住む世界へと彼女を誘います。キャロラインはそこで、貧しくもたくましく生きる市井の人びとの暮らしを目にします。

ボビーはその後、たびたびキャロラインの元を訪れるようになります。二人は、馬屋にいる猫が身ごもっているのに気づき、お産の準備を整えます。やがて無事に子猫が生まれ、隠れてこっそり子猫の世話を始めますが、勘のいいブリンドリーは馬屋に何かがいることに気づいてしまいます。ブリンドリーに急き立てられ、サイモンおじさんとキャロラインは馬屋に向かいますが、三人はそこで信じられない光景を目にするのでした――。

王道のボーイミーツガール小説であると同時に、第二次大戦を控えたイギリスの格差社会への批判、勧善懲悪を踏まえた逆転劇など、さまざまな要素を備えた、堂々たる小説です。ウェストールお得意の繊細な描写が生き生きと物語世界を創出し、読者はそこに安心して身を委ねることができます。
 すぐに読めるほどの文量で値段もお手頃ですので、クリスマスのプレゼントにぴったりです。子供向けにはもちろん、恋人同士や夫婦の間で贈りあうのも粋な計らいではないでしょうか。