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ペットシッターの紹介する本や映画あれこれ by ペットシッター・ジェントリー

ペットシッターを営む著者が、日常業務を交えつつ、ペット関連の本や映画を紹介します

小説『猫の帰還/ロバート・ウェストール』

2019年12月06日 21時00分00秒 | 猫の本

猫の帰巣本能はどれくらいのものでしょうか。1950年代のアメリカで、とある獣医の治療した猫が獣医の引越し先まで歩いてきたことがありました。その猫は、アメリカ中西部から西海岸まで、じつに2,400kmの道のりを歩いたのです。その後、デューク大学で300以上の事例が検討され、そのうち50例以上は本当だと断定されました。動物学者の間では現在、こうして猫が何百キロも離れた家に帰り着くことがあることが認められているようです。

以上は、小説『猫の帰還/ロバート・ウェストール著・坂崎麻子訳』の冒頭の要約です。この小説は、こうした事例を元に創作されました。時は第二次世界大戦のさなか、一本の電報がイギリス政府の上層部を騒然とさせます。電報の内容は、イギリスからヨーロッパ大陸へと遠征した司令官ゴート卿(ロード・ゴート)が行方不明になったとする知らせでした。発信元は、イギリス南部の街に住むフローレンスという名の主婦。彼女はスパイの疑いをかけられ、警視庁公安課の警部補が自宅に押しかけます。ところが、失踪したのは彼女の飼っている黒猫でした。彼女の夫ジェフリーが雄猫だと勘違いして、当時の司令官ロード・ゴートの名をつけていたのです。

こんなとぼけたシーンから、小説は幕を開けます。ジェフリーは戦地へとおもむき、残されたフローレンスは猫のロード・ゴートと共に、自宅から遠く離れた街に疎開をしていました。ロード・ゴートは疎開先に馴染めず、かつて住み慣れた自宅へと一人で歩いていくのです。
 イギリス本土にはドイツの爆撃機が飛び交い、あちこちで戦闘が繰り広げられています。猫は、そうした緊張状態のなか、旅の道中でいろんな人達と出会います。

崖の上の詰め所で監視を続ける青年兵ストーカーはある日、ふらりとやってきたロード・ゴートにご飯を分けてやったことから、詰め所で共に過ごすようになります。やがて詰め所近くに飛行機が落ち、ロード・ゴートはその場を去ります。
 次に拾われたのは、気っ風のいい軍曹のスミスでした。滞在先の宿舎にはたくさんの兵たちがいて、みなが猫をかわいがってくれました。しばらく平穏な暮らしを楽しんだのち、別の任務地へ向かうスミス軍曹と共に列車に乗りますが、途中ではぐれてしまいます。
 さまよい歩くロード・ゴートがたどり着いたのは、コヴェントリーという街でした。そこで馬車屋を営むオリーという老人と出会い、学はないけれど謙虚で優しいオリーの元で、猫は子供を産みます。オリーはかわいい子猫に目を細めますが、戦火が魔の手を緩めることはありません。大規模な空襲を受けたコヴェントリーの街は焼き払われ、オリーは馬と仲間、猫たちを連れて街から逃げ出します。避難先でようやく生活のペースを取り戻した頃、ロード・ゴートは子猫のうち1匹を連れ、また別の場所へと旅立っていきます。

本作は、以前にご紹介した『その犬の歩むところ/ボストン・テラン』、『ティモレオンーセンチメンタル・ジャーニー/ダン・ローズ』などと同様、動物が旅をする中で出会った人々が連作短編風に描かれる小説です。ただ、上記2作にある通り、この形式の小説は犬の話が多く、猫が旅する小説は他にあまり例がないように思います。(僕が知らないだけかもしれませんが。)
 また、本作はBFT(Book for Teenagers)と呼ばれるシリーズの一作、つまりは少年少女向けの小説です。ヤングアダルト小説と言ってもいいでしょう。ところがその実、大人の鑑賞に耐えうる堂々たる作品であり、僕は名作だと思います。
 著者の作品群を見るかぎり、戦争と動物についての作品が多く、それらの描写はすさまじく緻密でリアリティがあります。しかもそこに独特のユーモアや比喩がまぶされ、読み応えのある小説に仕上がっています。内容としても、単に子供が読む冒険譚というばかりではなく、前述のスミス軍曹と滞在先の女主人との微妙な恋愛模様や、馬車屋のオリーが思いがけずリーダー的に事態を切り開いていくさまなど、複雑な人間ドラマが見事に表現されています。

とにかく、見かけは子供向けのようでいて、実は相当に読み応えのあるエンターテイメント小説です。小説好きなコアな読者にも自信を持っておすすめできる一作です。


漫画『たんぽぽ1-2-3』

2019年11月22日 22時20分00秒 | 猫の本

SNSを眺めていると、猫のかわいい動画が流れてきて、しばし見入ってしまうことがあります。人間からすると、なんでこんなことを、という不思議な動きをする猫もたくさんいて、見ていて飽きません。ペットシッターの実務経験においても、犬よりもやはり猫の行動に不思議を感じることが多いです。カウカウ、と妙な声で鳴き続けたり、砂浴びでもないのに床に寝転んでごろんごろんと転がるのもよく意味がわかりません。人間の腕に前足で絡みつき、後ろ足でケンケンケンケン、と蹴る(同時に手に噛み付くことも)仕草も、獲物を痛めつける動作らしいのですが、やはり不可解です。それでも、我々の知らない道理で彼らなりに考えて行動しているはずであり、それを思うとさらに愛しさが増してきます。

今回ご紹介する漫画『たんぽぽ1-2-3/鈴木志保』は、子猫によく似た生き物である〈こにゃこ〉が登場する短編です。『END&(エンドアンド)』という短編漫画集に、連作の3編が収められています。著者の鈴木志保氏は、小さな弱きものを描いてきた漫画家ですが、本作に出てくるのも小さくてかよわい、ノラという〈こにゃこ〉です。ノラは若い夫婦と一緒に暮らしており、ときに不思議な行動で夫婦を不思議がらせ、困らせるのです。

ノラはある日、若夫人のエプロンのポケットに死んだカエルを入れます。いたずらにしても程がある、と彼女は怒るのですが、ノラの行動には理由がありました。ノラは彼女を天気を司る神だと信じており、雨つづきの天候を回復させるための贈り物として、自分の一番の宝物だったカエルを彼女に贈ったのです。
 人間同士の贈り物には、実は裏があったり、贈られることでかえって迷惑を被ったりしますが、この小さき者のプレゼントなら、その小ささゆえに思いが百パーセント純粋なものとして伝わってきます。贈り物も悪くない、と思える一編です。

別の一編では、ノラは空になったティッシュの箱を2つくれとせがみます。何に使うのだろう、と見ていると、ノラはティッシュの取り出し口に足を入れ、靴のように履いていました。どうやら、これを履くと強い自分になったように思えるらしいのです。ところが、気の強いネズミにすぐにやられてしまい、ノラはしゅんとなってしまいます。見かねた夫婦はノラに怪獣の足の形をしたスリッパを買ってあげるのです。

以前に本ブログで紹介した『船を建てる』と同様、本作でも鈴木志保さんワールドが全開です。自由でセンスにあふれたコマ割り、メインストーリーと同時に全く別のテーマが展開され、読み心地に深みを加える手法など、本当に独特で美しいのです。あまり知られていない漫画家さんですが、ぜひ読んでもらいたい作品がたくさんあります。


小説『猫語の教科書/ポール・ギャリコ』

2019年10月25日 23時55分00秒 | 猫の本

お客様から、ペットに関する様々な相談を受けることがあります。ご飯の量や中身、与える回数、無駄吠えや噛み癖の直し方など、内容は多岐にわたります。皆さん、ウチのやり方は正しいのだろうか、と悩んでらっしゃることが多いようです。僕はしつけ師ではないですし、人間の子供のしつけと同様、確実な正解があるわけではないため、明確な返答ができないことが多いのですが、自分の経験から、答えられる範囲でお答えしています。そのうえで、絶対的な正解はないということ、それぞれのペット個別に対応するしかないこと、をお伝えします。基本的には、上下関係よりも信頼関係を築くことが大事であり、愛情を持って接することが第一だと思います。あまりにテクニカルな対応をするより、基本のルールを設定したあとは、多少そこからはみ出すことも許容するくらいが、ペットにとっても人間にとっても一番暮らしやすいやり方ではないでしょうか。

今回ご紹介する小説『猫語の教科書/ポール・ギャリコ著 灰島かり訳』は、人間のこうした苦悩を猫の側から面白おかしく描いた作品です。この小説の設定は変わっていて、なんと、ある日突然、猫の書いた文章が編集者のもとに送られてきた、というところから始まります。たまに猫がパソコンのキーボードの上を歩いてデタラメな文字が入力されることがありますが、実はそれを解読してみると、おそるべき内容が書かれていた、というお話です。

中身は、年を経たベテラン猫から、子猫や若い猫に向けた指南書。それも、いかに人間の家をのっとるか、という“物騒な”テーマで書かれています。すなわち、猫には人間を遠く上回る知性があり、人間を巧みにコントロールし、居心地のいい場所を猫に提供させている、というのです。どんな風に振る舞い、どんな風に鳴けば人間に気に入ってもらえるのか、どうやったらおいしい食事にありつけるのかなど、多岐に渡り、具体的な方法が示されています。

猫の最大の武器は、爪でも牙でもなく、“かわいさ”です。なんともいえないかわいい仕草や声に人々はメロメロになってしまい、おいしいご飯やふかふかの寝床を提供してしまう。それらが全て、猫による操作だったとしたらどうでしょう。何気なく見える行動の裏に、実は深遠なる猫のたくらみが隠されているとしたら? 考えただけで、頬がにやけてきませんか?

猫視点で書かれているだけに、人間側の振る舞いが客観的に描かれているのも面白く、単なる《猫あるある本》に終わっていないのも本書の特徴です。たしかに、猫をかわいがっている様子は、別の人から見れば気持ちの悪いものかもしれない、と自省することはあります。とにかく人間は愚かで、身勝手で、習慣に流されがち、そして人情に溢れている。そうした弱点を巧みについていけば、人間など簡単に操作できる、と著者の猫は言います。また、男性と女性の行動の違いなども観察眼鋭く描かれており、身につまされる箇所も多くあります。さらに、獣医に行った時の振る舞い、子猫が生まれた時にどうするかなど、猫の心理が理解できれば、人間側の対処にも道が開けてきそうです。

この本を読んだあと、なんとも温かい気持ちになりました。それは、猫に対する愛にあふれ、人と猫とが幸せに共存していく術が描かれているからです。猫を飼っている全ての人たちにお勧めの一冊です。


小説『猫の客/平出隆』

2019年09月27日 22時20分00秒 | 猫の本

ペットシッターとして犬や猫の世話をおこなったあと、飼い主さんから身に余るお言葉をいただくことがあります。メールやお電話でだったり、鍵の返却があればその時、直接お話し下さることもあります。感謝と喜びの言葉を下さる飼い主さんの様子からは、反面、なかなか複雑な心境も読み取れます。

「あまりに何事もなく普通に迎えてくれたので、拍子抜けしました」
「〈ペットに対し)あんた、私じゃなくって誰でもいいの、と思いました」

たとえばこうしたお言葉です。僕としては、心の中でガッツポーズをしながらそれらを聞き、平静を装いつつ、そうでしたか~、などど涼しげにお返事をします。
 ペットシッターとしては、世話をしている犬や猫がよく懐いてくれて、飼い主さんがいない間、いつも通りにご飯を食べ、排泄をし、運動をする。こうして健康状態を維持したまま期間を終えられれば、とりあえずは任務完了と言っていいでしょう。しかし、だからといって飼い主さんに100%満足してもらえるとは限りません。飼い主さんからすれば、自分がもっともそのペットを愛し、愛されている自負があるはずです。したがってこの場合、手練のペットシッターならば、「ずっといい子にしてましたよ。でも、なんだか少し寂しそうでした」と残念そうに呟いてみせるかもしれません。(僕はもう少し素直に反応しますが。)

さて、今回ご紹介する小説『猫の客/平出隆』では、一匹の猫と、飼い主ではない隣家の人間との交流、彼らの心にある複雑な思いが丹念に描かれています。著者の平手隆氏は小説家というよりも詩人として名高く、〈詩の中から新しい散文を追求〉する試みのもと、本作が書かれたようです。著者自身の実体験を踏まえた私小説とも言えます。

主人公夫婦は、広い敷地の一角にある離れを借りて暮らしています。ここに、隣家で飼っている猫のチビが時おりやってくるようになります。よその猫だから、と引き留めることはもちろんせず、自由に出入りできる環境だけを整え、穏やかに過ごせる場所とすこしの食べ物を置いていました。チビは気ままに彼らの家に出入りしてはまた去っていきます。次第に情が移るもので、夫婦はチビの来訪を心待ちにするようになります。

小説の中ほどで夫婦は、チビの飼い主と対面し、初めて言葉を交わします。そこで、チビが時おり彼らの家を訪れていること、かわいがってあげていることを伝えるものの、飼い主は夫婦を避けるようになります。「一緒にかわいがっている」という認識でいた夫婦は、飼い主の反応に愕然とするものの、正式な飼い主はあちらだから文句は言えません。それでもチビがかわいくてしょうがなく、いなくなれば心をもぎとられたように悲しむ二人でした。

こうして、飼い主ではない夫婦が猫に愛情を抱くものの、それはどこまで主張できるのか、どこまで猫をかわいがる権利があるのか、果たしてそれは愛情と言えるのか、と折りに触れ煩悶します。彼らの右往左往ぶりは、半ば以降、ユーモアを越えて痛ましささえ感じさせます。なかなかに微妙で面白いところを突いてくる小説です。
 同時に、詩人である著者の文章が本当に美しく情感にあふれ、うっとりするほどの読み心地を与えてくれます。猫と夫婦との交流を中心に、季節の移ろい、時節に応じた花や動物たちの描写、夫婦の思惑や回想などが、自然に入り混じり、ハーモニーをともなって小説を形作っています。猫をテーマにした小説で、ここまで美しく、豊かな表現にあふれたものを僕は知りません。

実は、表紙に〈『吾輩は猫である』と並び、世界中で愛されている猫文学〉と書かれているのを見て、ちょっとオーバーだなあと思っていたのですが、読み終えて、この文に嘘はないと感じました。実際、海外22か国で翻訳され、かなり売れているようです。この美しい日本語をどう訳しているのか気になりますが、普遍的な美を表現していることの証左なのかもしれません。


小説『きりこについて/西加奈子』

2019年08月30日 23時30分00秒 | 猫の本

猫の性格についてよく言われるのは、「気まぐれ」「マイペース」「不可解」あたりでしょうか。なかには、「意地悪」「なにを考えているかわからない」「単にバカ」など、看過できないものもあります(笑)。猫好きとしては、いや実は猫はもっと賢い、なんだったら人間なんかよりよっぽど頭がいいのだ、と反論したくなるもの。そんな思いに真っ直ぐにこたえてくれる小説があります。西加奈子さんの書かれた『きりこについて』という作品です。

直木賞作家として知られる西加奈子さんですが、実はこれまで一冊も読んだことがなく、初めて手にしたのが本作でした。タイトルになっている、きりこという少女が主人公なのですが、最初の一行からしてすごい。

 〈きりこは、ぶすである〉

いやなんともストレートすぎるというか身も蓋もないというか。太字にしてあるのは元の小説でもそうなっているからで、それどころか、作中でこの言葉が使われる際は必ず太字になっているという徹底ぶり。倫理的な観点はおいておくとして、先を読みたくなる出だしではあります。
 その後は、顔の輪郭が〈空気を抜く途中の浮き輪のよう〉だとか、鼻が〈アフリカ大陸をひっくり返した〉ようだとか、特異な比喩で顔の造作が紹介され、そんな彼女が幼い頃からどれだけ他人から奇異な目で見られてきたか、同時に彼女自身も奇異な行動を繰り返してきたかが語られます。なかなかに強烈なエピソードが満載で、登場人物たちがみな関西弁を喋るせいもあってか、読むのにやや抵抗を感じるほど。

見た目の造作がどうあれ、両親は一心に我が子を愛し、「きりこちゃんは可愛いなぁ」を連発します。両親の言葉を信じて疑わないきりこは、存分にわがままぶりを発揮し、小学校では女王様ばりに君臨します。僕の好きなエピソードは、給食できりこの大好きな白玉団子が出た時の話。
 彼女は白玉を噛まずにずっと口の中に入れておき、五時間目が始まる頃に皆の前で口を開け、「ほら、うちまだ白玉入ってんねん」と言って驚かせるのを無上の喜びとしていました。あるとき、同じように白玉を口に入れたまま運動場に出た際、きりこが自分のやりたくない縄跳びをやめさせようと叫んだ勢いで、白玉を地面に落としてしまいます。
 〈うちのしらたま……〉
 クラスメイトは彼女の怒りを怖れ、その場を走り去っていきます。きりこは涙をこらえ、白玉をそっと手に取り、お墓にして埋めようと体育館の裏に向かったところ、一匹の子猫と出会い、こっそりとランドセルに入れます。その日の学級会できりこは、「うちは、みんなを、許します」と宣言するのです。どうでしょう、このなんとも変な展開は。

こうしてきりこに飼われることになるのが、猫の〈ラムセス2世〉でした。このラムセス2世、言葉をしゃべるばかりか、きりこの人生相談まで引き受け、著者によればIQは人間よりも高いらしい。一見、SF小説のような設定ではありますが、荒唐無稽な話になるではなく、うまくユーモアで包み込まれるせいで、れっきとしたリアリズム小説として読むことができます。ただ、僕が西加奈子さんを初めて読んだせいもあってか、前半あたりは少々とっつきにくい印象を持ちながら読んでいました。それでも後半以降は、雪崩のように読むスピードが上がっていきました。

とにかく著者の語り口が巧みで、きりこの話をしながら、脇を固める人物達を実にうまく描写していきます。この小説、大筋としてはきりこの成長物語ではあるのですが、同時に群像劇とも言えるほど、周辺の人物の描写が豊かなのです。きりこの初恋相手で運動神経抜群、ちょい不良でかっこいい、こうた君。スウェーデン人とのハーフで美少女のノエミちゃん。バレエ教室を三カ月でやめ、のちにAV女優となるちせちゃん。ゲイのゆうだい君。新興宗教にはまっている元田さん。彼らの人生が短い文章で効果的に紹介され、それに絡めてフェミニズムや人生観まで、著者の思いが時に熱く語られます。単にきりこと猫の話だと思って読んでいると、思わぬところでぐっときて、心を揺さぶられます。本作は、人が自分をどう受け止め肯定していくかという重たいテーマを扱った、実に繊細な小説でもあるのです。軽い読み口で200ページそこそこの中編なのに、がっつりとした読み応えを備えた、なかなかの快作だと思います。


小説『猫がかわいくなかったら/藤谷治』

2019年08月02日 23時50分00秒 | 猫の本

ペットシッターの依頼理由の大半は旅行や出張ですが、手術や入院のためということもままあります。一人暮らしでペットを飼われている方もたくさんいらっしゃるので、体を壊した場合はなにかと大変です。一週間程度で戻れるなら問題はないでしょうが、急病や事故などでどれだけ入院するかわからなかったり、手術の結果が思わしくなかった時など、ペットをどうするかというのは大きな問題となります。これまでの僕の経験でもそうしたケースはありましたが、たいていは親類縁者の方がなんとか処理してくださって、困ることはありませんでした。

しかし、まったく身寄りのない人や親類と疎遠になっている人が、誰にも頼ることができずに入院または死亡した場合、ペットが置き去りにされてしまいます。そうした状況に巻き込まれ、往生するお話が、今回ご紹介する小説『猫がかわいくなかったら/藤谷治』です。

4匹の猫と暮らす吉岡夫妻は、ふとしたきっかけで、近くのアパートに住む望月という老夫婦と知り合いになります。適度な近所づきあいを続けていたある日、望月夫人が意識を失って救急車で運ばれ、認知症の症状も出ていたため入院することになります。ご主人はそのすこし前、糖尿病のため別の病院に入院しており、望月家には一匹の猫だけが残されていました。
 猫好きの吉岡夫妻は猫を放っておくことができず、望月夫人に連絡をとろうとしますが、入院先がわかりません。じつは彼らは生活保護を受けており、区役所の生活支援課が入院先を知っているのですが、問い合わせても「個人情報なので」と教えてくれません。
 アパートの大家も、同じように望月夫妻と連絡がとれず、困っていました。前からトラブルの多い望月夫妻には出ていってほしいと言い続けている、アパートはペット禁止なのに言ってもきかない、などと吉岡夫妻は愚痴を聞かされることになります。保健所に猫を引き取ってほしいと頼めば、飼い主の意向抜きでそんなことは大家にだってできない、と断られてしまい、警察や区役所も動いてくれません。

結局、猫が嫌いな大家に代わり、吉岡夫妻が望月家に通って猫の面倒をみることになります。望月夫妻には子供がいるらしいのですが、絶縁状態で連絡が取れません。そんななかでようやく、糖尿病で入院している望月氏の病院をつきとめ、話し合った結果、猫は適当な引き取り手を探して譲ろうという話になります。
 吉岡夫妻はネットや知人のつてを頼り、里親を探しますが、13歳にもなる老猫を引き取ろうとする人は見つかりません。その間も、猫の面倒は毎日みる必要があります。様々なものに板挟みにあい、しだいに彼らは疲れ果てていきます――。

この小説、かなりの部分が実話だそうです。たしかに現代社会でいつ起こってもおかしくない話です。ペット好きの人は気づきにくいのですが、動物を嫌いだという人は結構いて、本作に登場する獣医さんは国民の70%が動物嫌いだとまで断言します。その数字の信憑性はおいたとしても、13歳の猫が引き取られる確率が限りなく低いというのは事実でしょう。
 このあたり、なかなか奥深い問題です。とくに一人暮らしの高齢者の方がペットを飼っているとこうした問題が起きやすいのですが、そうした人こそペットを必要としています。味気ない一人暮らしの慰みにペットを飼い、そのことで生きる希望を見出している。そうなると、飼うなとはなかなか言えません。

本作では、ペットの飼育問題の他にも、誰もが厄介に首を突っ込みたがらず、お人好しがバカを見る状況や、個人情報保護で融通がきかない役所など、様々な問題提起をおこなっています。それでも、筆者の人間を見る眼差しの優しさゆえなのか、本作を読みやすいユーモア小説として仕上げています。最後に明かされるタイトルの意味にも、猫好きならにんまりとさせられることでしょう。


小説『猫鳴り/沼田まほかる』

2019年06月07日 20時00分00秒 | 猫の本

2005年に開業してから、ほぼ14年になります。これだけ続けていると、お世話した中で亡くなっていくペット達も多くいます。いつの間にか依頼が来なくなり、たまたまその方の家の前を通ると犬小屋が撤去されていたり、飼い主さんから直接ご連絡をいただくこともあります。元気だった頃の姿を思い出すと、いたたまれない思いに駆られます。ほんの数日ほどの触れ合いでもそんな気持ちになるのですから、ペットを亡くされた飼い主さんご本人の心情は計り知れません。

そこで今回は、一匹の猫が生まれ、人と共に生き、老いて死にゆく姿を描いた、『猫鳴り/沼田まほかる』という小説をご紹介します。三部構成でそれぞれに視点人物が変わり、時間も経過していく連作短編集です。

猫好きの方なら、第一部の主人公・信枝の行動に嫌悪感を覚えるかもしれません。庭で小さな子猫を見つけ、〈生き物は好きじゃないから〉と畑に捨てに行く。ところが翌日、ふたたび猫を庭で見つけ、今度はもっと離れた林の向こうに捨てに行くけれど、また猫は戻ってくる。こうして何度も信枝は猫を捨てるのですが、彼女の行動には理由がありました。八カ月前に流産を経験した悲しみと罪悪感を拭えずにいる中で、身代わりのようにやってきた猫を受け入れられなかったのです。いびつではあるけれど、猫を自分の手で始末することが、亡くした赤ん坊への弔い直しになると彼女は信じていました。やがて、最初に猫を捨てた少女アヤメが信枝の前に現れ、アヤメの口から、猫の名前がモンだと知らされます。

第二部は一転して、十三歳の少年・行雄(いくお)が主人公です。自分に無関心な父親と暮らす行雄は、小さな子供に憎しみを覚え、ナイフで刺す空想を抱いています。愛されたいのに愛されない自分に対し、可愛いというだけで無条件に受け入れてもらえる幼児が憎くてなりませんでした。あるとき行雄は何気なく一匹の猫を飼い始めますが、すぐに死んでしまいます。その猫を埋めようと公園に行った際、死体をかすめとっていった別の猫がいました。それが成長したモンでした。

第三部では、第二部からさらに時がたち、信枝の夫・藤治と年老いたモンの生活が描かれます。第一部と第二部で繰り返された命に対する考察がさらに深まり、極められていきます。
 モンと同様、老境に差し掛かった藤治は、信枝にも先立たれ、さしたる楽しみもなく日々を無為に過ごしています。モンは幼少時から他の猫とうまく付き合えず、敵意を剥き出しに向かっていく以外の関わりを知りません。そのぶん、これと定めた人間には全幅の信頼を寄せます。藤治は普段はとりたててモンをかまうわけではなく、家の内外を勝手に徘徊するのを眺めるばかり。それでもたまにモンの体を撫でてあげるときには、不思議な一体感を覚えます。

〈なんだか自分と猫が目に見えない河の流れのようなものに一緒に身を浸しているような心地になっていった。(中略)猫だの人間だのの境界がぼやけて、藤治はモンを納得し、モンは藤治を納得して、丸ごと曖昧に溶け合って安心している。〉

やがてモンにも老いの兆候が現れます。体つきが変わって以前のように走れなくなり、ご飯の量が減っていき、トイレもうまくできなくなります。血尿を出し、ご飯を食べなくなったモンを見て、獣医は延命治療をおこなうかどうかを藤治に尋ねますが、すぐには返事ができません。ご飯を無理やり食べさせた時には、かえってモンを苦しめたのではないかと悩み、苦しい治療をやめようと決心した後には、何もしないことで寿命を縮めてしまうのではないかと悩む。こうした経験は、多くの飼い主さんにも覚えがあるのではないでしょうか。しかし、いくら考えても正解はありません。日々、猫と向き合い、猫のことを考え、悩むことだけが、藤治にできる全てでした。そしてモンは、老いて死にゆく堂々たる姿を見せることで、死に際しての対処の仕方を藤治に教えてくれるのです。

〈落ちるべき葉がみんな落ちて見通しのよくなった庭で、薄い耳をたてて日向ぼっこをしているモンは、だがそんなふうになってもまだ、手の内にあるもので充分満足だという顔つきをしていた。〉

とにかく第三部は本作の白眉です。60ページほどの文量の全てが、老いゆく猫の描写と、それにまつわる藤治の心理描写のみで費やされます。著者の沼田さんはやはり猫好きだとのことで、猫が横倒しに眠るとオウム貝のようにまん丸になることや、猫に話しかけると、声ではなく尻尾でパタンパタンと床を打って返事をすることや、人が寝ているそばにそっと寄ってきて自分の背中をくっつけて眠ることなど、なるほど猫を熟知しているなと思わせる描写がいくつも出てきます。
 同時に著者の特徴は、徹底した客観性にあります。真実を描こうとすれば冷淡で非情なものとなるため、ペットを愛する者には老いて死にゆくペットの痛ましさ、それを見つめる人の辛さを正面から描けません。猫を愛し、飼っていた猫を亡くしたこともある著者が、なのにここまで正面から猫の最期を描ききったことには恐れ入ります。
 本作で描かれる死に対する向き合い方は、人と猫のみならず、人と人との関係にもそのまま当てはまることでしょう。事実、僕はこれを読みながら自分の家族との別れについて考えていました。それだけの普遍性を持ち、なおかつ読みやすい文体で描かれた素晴らしい小説です。猫好きかそうでないかに関わらず、たくさんの人に読んでもらえればと思います。


エッセイ『ミーのいない朝/稲葉真弓』

2019年05月24日 23時00分00秒 | 猫の本

今回は、僕がペットシッターという道に進むきっかけになった本をご紹介します。それは20年近く前のこと。書店で見かけた表紙にやられました。一匹の猫が座っているのですが、その表情がたまらない。ふっくらした頬と、引き結んだ口もと。思惑がありそでなさそで、少し機嫌が悪いようにも見える。導かれるように手にとり、レジに向かいました。
 本の題名は、『ミーのいない朝』。女流文学賞など数々の受賞歴を持つ稲葉真弓さんが、自分の飼っていた猫について綴ったエッセイ集です。

1977年の夏の終わり。フェンスにぶら下がっていた猫を見つけるところからエッセイは始まります。生まれて間もない猫にミルクを飲ませ、おもちゃを自作し、ノミ取りに精を出す日々。ミーと名付けたその猫は極度の怖がりで、車の音や木の揺れる音、なんにでも怯えていました。
 大きな庭のある家に引っ越してからミーは活発になり、苦手だった塀の上も自由に歩けるようになります。木に登ったまま降りられず、著者や夫が助けに行くこともありましたが、そうした窮状さえ微笑ましく、愛おしく思えました。

ミーとの穏やかな生活に対し、著者自身の人生は波乱に満ちたものでした。石油ショックの時には、〈女性だから〉という理由で会社をクビになり、その頃から夫ともうまくいかなくなります。女だからこんな目に遭うのだという怒り、自分の才覚のなさへの苛立ちから、夫に当たるようになったのです。
 失職を機に、著者は長らく遠ざかっていた文筆業を再開します。書き上げた小説が思いがけず新人賞を受賞した頃、夫の転勤が決まり、別居生活が始まります。〈なにを選ぶのか、なにを捨てるのか〉と煩悶する日々。著者はしきりにミーの写真を撮るようになります。眠るミー、ブロック塀で耳を澄ますミー、木に登ってはへっぴり腰で降りてくるミー、原稿用紙に乗って邪魔をするミー。詩人でもある著者は、当時の心境をこう表現します。僕の大好きな一文です。

〈夫との壊れかかった生活のど真ん中に、のどかな顔をした猫がいて、ミーは私の心を知らなかった〉

夫と離婚し、高層マンションに引越しをした頃から、ミーの行動に変化が訪れます。外へ遊びに出て帰れなくなったり、とつぜん腰が抜けたように歩けなくなったり、血尿を漏らしたり。ミーには、ゆるやかに老いの影が忍び寄っていたのです。著者は、毎日の餌や水の量、トイレの状態などを細かくチェックし、薬を飲ませ、運動不足は筋肉を弱らせると聞いて日々の散歩は欠かしませんでした。
 それでも仕事上、どうしても数日間、留守にせざるをえない時があります。しかし、ペットホテルのケージはミーには耐えられないだろうし、知人に頼むのも気が引ける。著者は、新聞で知ったペットシッターを試すことにします。やってきたペットシッターのYさんは、お世話内容、ミーの好きなご飯や遊びなどを詳しく質問し、すべてをカルテに書き取ります。その猫慣れした様子に著者は安心し、ミーもYさんとすぐに仲良くなります。その後Yさんは、著者とミーが生きていくのに大きな支えとなります。ペットシッターという仕事がいかに重要な役割を果たすのか、僕は本書を読んで強く実感しました。

エッセイはこうして、著者とミーの暮らしを丹念に追っていきます。本書がただの「ウチの猫かわいい」話に終わっていないのは、猫とのエピソードだけではなく、著者の波乱の人生がその時の心情をふくめて豊かにつづられるからです。

ミーの晩年の描写は、凄絶を極めます。不調の原因は、足腰ではなく腸でした。腸が伸びきったゴムのようになり、蠕動運動がうまくいかなくなったのです。著者は手でミーのお腹を押し、おしっこやウンチを押し出してあげます。毎日毎晩、糞尿まみれになりながら下の世話を続ける姿は、傍から見ればたいへん辛い状況ではあるけれど、その描写は不思議と幸福感を感じさせてもくれます。
 最期の時は必ずやってくる。けれど、なるべく長く楽しい時間を過ごしたいと願う著者の姿は、人間と猫だけではなく、人間同士の関係の在り方にも通じます。約二十年という時間を、著者とミーは濃密に生きてきたのです。人生の重要な局面で常にミーは著者に寄り添い、やすらぎを与えてくれたのでしょう。

最後に、著者が夫と別れ、ミーと二人で生きていくことを決意する時に書いた詩を引用しておきます。

〈胸のところがふくらんで しあわせそうなやわらかな体
 夜になると出ていって 朝になると帰ってくる
 私はその行き先を知らないが きっと 世界の底まで降りていくのだ〉


小説『猫と庄造と二人のおんな/谷崎潤一郎』

2019年04月12日 07時00分00秒 | 猫の本

ペットシッターになりたい、と当方に応募を下さる方の中で、「人と接するのが苦手だから」という理由をときおり目にします。でも、そのつもりで仕事を始めたとしても、きっとうまくはいかないと思います。ペットシッターはペットのお世話をする仕事ではありますが、人間との付き合いも大事です。ペットが依頼をくれるわけではなく、様々な打合せを、人間である飼い主さんとおこなう必要があるからです。

僕自身、人付き合いが得意なほうではありません。ただ、お客様とお話をするのは苦にならず、むしろ楽しいことのほうが多いです。動物好きな者同士で話も弾み、打合せが済んだあとで話し込んでしまうこともしばしば。
 そうした会話の中で、お客様がペットとどう接しているのかが見えてきます。そんなにまで大事にされているのか、と感嘆したり、まれに、「ちょっと、それはどうかと……」と思うこともあります。それでも、今回ご紹介する『猫と庄造と二人のおんな』に出てくる、庄造ほどのお客様には会ったことがありません。

猫好きでも知られる文豪・谷崎潤一郎の小説です。冒頭、飼い主の庄造と猫のリリーとのやりとりが描かれますが、とにかくリリーに対する庄造の可愛がりようが半端ではありません。酢漬けの魚を妻に作らせ、猫の目の前で一匹ずつ振ってじらしたあと、魚を口にくわえて猫に近づき、魚を引っ張り合う。そんなことを何度も繰り返しながら、自分はほとんど食べない。猫に良くないから、と酢だけは吸い取ってから与えるという念の入れようです。
 庄造には再婚したばかりの福子という妻がいるのですが、毎日がそんな調子なので、彼女は猫がうとましくて仕方ありません。そんな折、前妻の品子から、リリーを譲ってくれないかという手紙が届きます。一人になって寂しい、せめて猫でもいたら気が紛れるのに、との内容でした。福子は、品子から夫を奪った負い目と猫へのうとましさから、リリーを品子に譲るよう庄造に迫り、むりやり承諾させます。
 じつは品子の目的は別にありました。リリーを引き取れば、猫会いたさにきっと庄造がやってくる、そこで再び庄造の気持ちが戻るかもしれない、という魂胆でした。ところがいざリリーと暮らし始めてみると、自分を慕い甘えてくれるリリーを、しだいに品子は愛おしく思うようになります。

こうして猫を中心とした人間模様が喜劇的に描かれるのですが、その内実は結構エグくもあります。庄造を裏で操っているのは、同居する彼の母親でした。母親は品子が嫁いで来た頃、その金遣いと性格の荒さを厭わしく思っていました。いっぽうの庄造は、気はいいけれど商才のないぼんくら男。将来を案じた母親は、手引きをして福子と彼を結びつけ、品子を追い出したのでした。

いびつな人間関係をよそに、リリーは実に猫らしく描かれます。ご飯の魚をしきりに追いかける姿や、怒ったときに毛を逆立て、足を踏ん張って威嚇する姿。いっぽう、初めて身ごもった時には訴えるような眼差しを庄造に向け、しおらしい声でニャアと鳴く。そうした姿は、ひとしおのせつなさと愛おしさを庄造にもたらすのでした。

猫を飼った人ならわかると思いますが、犬が飼い主さん大好き一辺倒なのに対し、猫はもう少し複雑かつ不可解です。庄造いわく、猫は第三者がいるところでは変によそよそしく、決して甘えない。それが二人きりになると一変して膝に乗ってきたり、体をすり寄せてきたりする。だから、猫が犬より薄情だとか無愛想だというのは、飼ったことがない人の言葉だと庄造は言います。このあたり、大の猫好きだった谷崎潤一郎の観察力、表現力が存分に発揮されています。
 猫はどこまでいっても猫。誰に好かれようが嫌われようが構うことなく、超然としています。その姿は神のようにさえ思えるほどで、だからこそ周囲にいる人間達の愚かしさ、浅はかさが浮き彫りになっていきます。

谷崎潤一郎というと、『春琴抄』とか『細雪』とかオカタイ小説の人ね、と敬遠する人がいるかもしれません。ところが本作、上述のとおり非常に読みやすく万人にお勧めできる良作なのです。130ページほどの小品ですが、中身のぎっしり詰まった名作といっていいでしょう。そして猫好きの人にはたまらない、最高の猫小説でもあります。