猫の帰巣本能はどれくらいのものでしょうか。1950年代のアメリカで、とある獣医の治療した猫が獣医の引越し先まで歩いてきたことがありました。その猫は、アメリカ中西部から西海岸まで、じつに2,400kmの道のりを歩いたのです。その後、デューク大学で300以上の事例が検討され、そのうち50例以上は本当だと断定されました。動物学者の間では現在、こうして猫が何百キロも離れた家に帰り着くことがあることが認められているようです。
以上は、小説『猫の帰還/ロバート・ウェストール著・坂崎麻子訳』の冒頭の要約です。この小説は、こうした事例を元に創作されました。時は第二次世界大戦のさなか、一本の電報がイギリス政府の上層部を騒然とさせます。電報の内容は、イギリスからヨーロッパ大陸へと遠征した司令官ゴート卿(ロード・ゴート)が行方不明になったとする知らせでした。発信元は、イギリス南部の街に住むフローレンスという名の主婦。彼女はスパイの疑いをかけられ、警視庁公安課の警部補が自宅に押しかけます。ところが、失踪したのは彼女の飼っている黒猫でした。彼女の夫ジェフリーが雄猫だと勘違いして、当時の司令官ロード・ゴートの名をつけていたのです。
こんなとぼけたシーンから、小説は幕を開けます。ジェフリーは戦地へとおもむき、残されたフローレンスは猫のロード・ゴートと共に、自宅から遠く離れた街に疎開をしていました。ロード・ゴートは疎開先に馴染めず、かつて住み慣れた自宅へと一人で歩いていくのです。
イギリス本土にはドイツの爆撃機が飛び交い、あちこちで戦闘が繰り広げられています。猫は、そうした緊張状態のなか、旅の道中でいろんな人達と出会います。
崖の上の詰め所で監視を続ける青年兵ストーカーはある日、ふらりとやってきたロード・ゴートにご飯を分けてやったことから、詰め所で共に過ごすようになります。やがて詰め所近くに飛行機が落ち、ロード・ゴートはその場を去ります。
次に拾われたのは、気っ風のいい軍曹のスミスでした。滞在先の宿舎にはたくさんの兵たちがいて、みなが猫をかわいがってくれました。しばらく平穏な暮らしを楽しんだのち、別の任務地へ向かうスミス軍曹と共に列車に乗りますが、途中ではぐれてしまいます。
さまよい歩くロード・ゴートがたどり着いたのは、コヴェントリーという街でした。そこで馬車屋を営むオリーという老人と出会い、学はないけれど謙虚で優しいオリーの元で、猫は子供を産みます。オリーはかわいい子猫に目を細めますが、戦火が魔の手を緩めることはありません。大規模な空襲を受けたコヴェントリーの街は焼き払われ、オリーは馬と仲間、猫たちを連れて街から逃げ出します。避難先でようやく生活のペースを取り戻した頃、ロード・ゴートは子猫のうち1匹を連れ、また別の場所へと旅立っていきます。
本作は、以前にご紹介した『その犬の歩むところ/ボストン・テラン』、『ティモレオンーセンチメンタル・ジャーニー/ダン・ローズ』などと同様、動物が旅をする中で出会った人々が連作短編風に描かれる小説です。ただ、上記2作にある通り、この形式の小説は犬の話が多く、猫が旅する小説は他にあまり例がないように思います。(僕が知らないだけかもしれませんが。)
また、本作はBFT(Book for Teenagers)と呼ばれるシリーズの一作、つまりは少年少女向けの小説です。ヤングアダルト小説と言ってもいいでしょう。ところがその実、大人の鑑賞に耐えうる堂々たる作品であり、僕は名作だと思います。
著者の作品群を見るかぎり、戦争と動物についての作品が多く、それらの描写はすさまじく緻密でリアリティがあります。しかもそこに独特のユーモアや比喩がまぶされ、読み応えのある小説に仕上がっています。内容としても、単に子供が読む冒険譚というばかりではなく、前述のスミス軍曹と滞在先の女主人との微妙な恋愛模様や、馬車屋のオリーが思いがけずリーダー的に事態を切り開いていくさまなど、複雑な人間ドラマが見事に表現されています。
とにかく、見かけは子供向けのようでいて、実は相当に読み応えのあるエンターテイメント小説です。小説好きなコアな読者にも自信を持っておすすめできる一作です。