本日午後、学校医、学校歯科医、学校薬剤師の先生方をお迎えし、学校保健協議会を行いました。学校からは、学校長、教頭、事務長、保健主事、養護助教諭、各学年主任、PTA係主任が出席しました。
PTA正副会長さん、生徒会の正副保健委員長も出席しました。
内容のあるいい会議でした。学校歯科医の先生から、「講演」も頂戴しました。
さて、この「校長日記」において、「厄投げ」について、3回にわたり掲載してきました。
本校の高校3年生から、「厄投げ」にかかわる習俗を聞いているときに、さらに興味深い話を聞き、調べてみました。新たに『富士見町史』も、読みました。
1月14日の「校長日記」では以下のように書きました。
http://blog.goo.ne.jp/futaba2014/e/b2d99afcad1a350e893a6a6efa5d3f83
まず初めに、『諏訪市史下巻』(1976年)の中の記述から。
厄払い
男二才、二五才、四二才、女二才、一九才、三三才を厄年という。正月十四日の晩、お年とりをしてから、辻や道祖神の広場や、産土様で厄投げをした。これを厄落し、厄祝いともいった。投げるものは、日常身につけていたもの、年齢の数だけのお金を一厘または一銭銅貨で用意し、菓子・蜜柑・南京豆、大根や野菜などをさいの目に刻んだものなどといっしょに投げた。またお膳・お椀・扇子・足袋・手拭などを投げる人もあり、厄投げした人は、後を振り返らず、一目散に家へ帰るものだといわれた。(前掲書804頁)
『岡谷市史下巻』(1982年)には、
厄投げと厄祝い
一月十四日小正月の年取りがすむと、厄年の者は道祖神場へ、平常使っていた茶碗に年の数だけ金を紙に包んで入れ、みかんなどと共に膳にのせ持っていく。また人参などを輪切りとし、金とみなして紙に包み、金と混ぜる者もあった。道祖神の前で拝んでから後向きに膳ごと投げる。またこの時手拭で身体をふく真似をして、それも投げた(中屋・横川)。投げ終ると後を見ないようにまたどこの家にも寄らずに帰ってくる。この厄投げの晩は子供達が大勢道祖神場へ集まっていて、拾った金銭はその晩のうちに厄を背負いこまないようにと使ってしまう。現在は青少年育成会などがこの晩の子供達の指導に当っている。(前掲書907頁)
『茅野市史下巻』(1988年)には、
厄払い
小正月の十五日の夜、正月のしめ飾り・松飾りなどをどんど焼きといって道祖神の前で焼く。この火に照らされて、厄年の者は「厄投げ」をした。大厄の者は投げる品も多く、昔は普段使っていた食器などを投げつけて打ち壊したり、身につけた手ぬぐいや扇子、あるいは銭を年齢の数に応じて投げたり、大根や人参などで作った銭に似せた物などを投げたりした。今は、金銭・みかん・菓子・タオルなどが投げられている。投げられた物を大人も子供も争って拾い合いをする。昔は、拾った銭は家へ持ち帰ってはいけないといわれ、すぐ使ってしまったという。厄を投げた人は、後ろを振り向くと再び厄を背負ってしまうということで、振り向かないようにして家に帰った。(前掲書969頁~970頁)
『下諏訪町誌民俗編』(2000年)には、
厄払い
厄年の厄を背負い込まないように一月一四日の夜、村の四つ辻や道祖神碑にお参りし、洗米、大根のいちょう切りにしたものを供える。また、年の数だけのお金を和紙に包んでおひねりにしたり、それにみかんを添えて、集まっている子供たちに後ろ向きに投げる。これをヤクナゲとかヤクバライとかいった。
萩倉では、二歳児の場合は頭巾やよだれ掛けを投げたが、その時「二歳のヤクバレエ、エーイ」といって投げ、後ろを振り返らないで帰っている。拾ったお金はその晩のうちに使えともいわれ、駄菓子屋に走った子もあった。(前掲書486頁~487頁)
これらは、いずれも、民俗学のジャンルで「人の一生」とか「通過儀礼」と呼ばれる部分での記述になります。そして中でも、「年齢の祝い」などの範疇でくくられるところに記述されていた「厄投げ」を事例として採用してきました。
しかし、もう少し丹念に読んでいれば気がついたのでしょうが、ほかの箇所にも、「厄投げ」に関する記述があることを、その後、見つけました。また、新たな民俗誌からも、紹介しましょう。
例えば、下諏訪町の下の原地区の区誌である『郷土誌 下の原』(1985年)にも、以下のような記述があります。
厄投げと厄払い
厄年は男は二歳、二十五歳、四十二歳、女は二歳、十九歳、三十三歳で厄払いをする。正月十四日の夜、道祖神の前で供え物として大根のいちょう切り、洗米、お金(年の数だけ、大正六~七年ころまでは穴明き銭が多かった)ミカンを用意して厄投げをした。拾ったお金はその晩のうちに使えといわれていた。厄を背負いこまないとの意味であろう。厄払いのあと家で親類、知人を呼んで厄祝いをした。男の四十二歳、女の三十三歳は大厄の年として東筑摩郡の牛伏寺に厄落しに参拝する人もあった(前掲書693-694頁)。
項目主義的な記載をうのみにしてしまい、他のことを考えずに、「民俗の総体」でとらえることをしなかった私のミスでありました。
それはなにかというと、
『長野県史民俗編第五巻総説1』(1991年)のなかで、
ある特定の年齢の年は災いが多いから、忌み慎まなければならないとされ、その年を厄年と呼んでいる。
県下では男性は二五歳と四二歳、女性は一九歳と三三歳を厄年と考える所が圧倒的に多い。そのほか、上伊那郡長谷村(現伊那市)市野瀬のように男性は二、七、二五、四二、六一歳を、女性は二、七、一九、三三、六一歳を厄年としている所や、木曽郡開田村(現木曽町)髭沢のように男性は二、七、四二、六二歳、女性は二、七、一九歳を厄年としている所などがあり、厄年の年齢の考え方は地域によってさまざまである。
こうした年齢のうちもっとも災厄の多いとされる年齢を大厄といい、男性は四二歳、女性は三三歳がそれに当たるとされている。女性の三三歳の大厄の年は、はらむ(孕む)か死ぬかというほどに災いの多い年であるとしている所もある。南佐久郡臼田町(現佐久市)臼田では男性の四二歳はシニ、女性の三三歳はサンザンなどといい、小諸市耳取などでも女性の三三歳は出産と結びつけて、産の大厄であるといっている。このほか上水内郡小川村夏和のように男性は二、七、一五、二五、四二歳を五厄、女性は三、一九、三三歳を三厄などといっている所もある。さらに大厄の前後には前厄と後厄とがあり、大厄を挟んで前後三年間は身を慎み災厄から逃れるように注意しなければならないとされている所も多い。
これらの厄年に災難にあったりすると、ヤクマケをしたなどといわれる。また、厄年の本人だけでなく、厄年の母親から生まれた子供をヤクゴなどといい、岡谷市長地中屋のようにみ(箕)に入れて辻に捨て、子供のない人に拾って育ててもらうなど特別な措置をとる所もあった(前掲書91-92頁)。
上記の記述の朱書きの部分が、私の今回新たな関心事なのです。すなわち、「厄子」に関する記述です。
女性の厄年(一九歳と三三歳)の時に生まれた子供を、ヤクゴと呼び、特別なことを行うというくだりです。
それでは、もう少し、事例を並べてみましょう。
女性だけでなく、男性の厄年に生まれた子供も、ヤクゴ(厄子)と呼んでいます。
『長野県史民俗編第二巻(一)南信地方 日々の生活』(1988年)
父親が四二歳の厄年に生まれた子供は親に害をするなどといい、ステゴにして予めきめられた人に拾ってもらうことがあった。この拾ってくれる人をヒロイオヤと呼んだ(前掲書268頁)。
下伊那郡松川町新井では、父親が四二歳の厄年のときに生まれた子供を、親を害するシジューニノオニゴと呼んで捨てた。子供を拾ってもらい、オヤとして付き合った。年取りに招かれてヒロイオヤの家に行き、着物を贈られた(前掲書273頁)。
下伊那郡高森町大島山では、父親が四二歳で丑年と重なったときに生まれた次男以下の二歳児は、親の跡継ぎをねらうためにステゴにしてヒロイオヤに拾ってもらいソダテオヤになってもらった。ヒロイオヤとは親類同様に付き合い、子供の祝い事に招待した。昭和初期(前掲書273-274頁)。
上記の2例は、諏訪地方の事例とは少し異なりますが、比較のために記載しておくことにします。
『富士見町史 下巻』(2005年)には、
厄落とし
一月十四日
厄落としは「厄払い(やくはらい)」ともいう。男衆は二五歳と四二歳、女衆は一九歳と三三歳を厄年といった。どんどう火のおこなわれる村内の道祖神碑の前だとか辻で、「厄落とし」といって、自分の年の数のお金や、みかん、手拭いなどを投げた。それを多くの人に拾ってもらって、自分の厄を軽くしたり、厄から逃れるということだった。したがって、四一歳は前厄、四二歳は本厄、四三歳は後厄といって、それぞれ厄払いをやる家もあった。また本厄のときは、「厄祝い」といって親戚や友人を呼び、盛大な宴会をやる家もあった。
近年は、その年齢になると甲府の湯村の厄地蔵か松本の牛伏寺へ厄除け祈願に行くようになった。また十五日のどんどう火に、厄除けの品を子どもたちに分けてやるようにもなった(前掲書923-924頁)。
厄子
両親のいずれかが厄年の場合、すなわち父親は二五歳かまたは四二歳、母親ならば一九歳かまたは三三歳の時に生まれた子どもを「厄子」という。
昔から、「厄子は育ちにくい」といわれているので、厄子は箕に入れて道祖神か四つ辻などへ捨てる真似をしておく。あらかじめ拾ってもらう人をお願いしておいて、現場で拾ってもらい、前もって用意しておいた着物を着せて、生みの親に帰してもらう。この拾ってくれた人を「拾い親」といって、生涯義理の親としておつき合いした。
また厄子でなくとも、何故か子どもができてもすぐに亡くなっりして育たない家では、厄子と同じように箕に入れて丈夫な子のいる家の人に拾ってもらうということがおこなわれた。この時も、「拾い親」になった人は義理の親として親戚つき合いをした。
このほか、小さな小布をもらい集めて拵えた(こしらえた)着物を着せてやると、よく育つといわれた(前掲書955-956頁)。
『諏訪市史下巻』(1976年)にも、
出産の異常・堕胎・間引き
後山では双子が生まれると、一人は橋のそばに捨てて拾ってもらった。厄子(親の厄年に生まれた子)は橋の上・倉の前・村はずれ・産土様(うぶすなさま)などへ捨てて、予め親類か近所の人に頼んで置いて拾い親になって貰った。子の育たない家でも同様にした。そんなとき子供にステという名をつけたりした(前掲書802頁)。
とあります。
『下諏訪町誌 民俗編』(2000年)にも、
厄子
両親のいずれかが厄年(男親が二五歳・四二歳、女親が一九歳・三三歳)に生まれた児を「厄子」といっている。厄子は育ちにくいとして、道祖神碑の前か四つ辻などで捨てる真似をした。拾う人はあらかじめ依頼しておく。現場で厄子を拾った人は、前から用意しておいた着物を着せて生みの親に返した。この親を「拾い親」といっている。また、道祖神碑の近くを通った人に「拾い親になっておくれ」と声をかけ、依頼された人は喜んで引き受けて、親に返す場合もあった(前掲書446頁)。
『茅野市史下巻』(1988年)には、
厄子と双生児
両親のいずれかが厄年の時に、生まれた子どもを「厄子」といった。このような子供は、「拾い親」といって拾う人を頼んでおいてから、箕に入れて辻か道祖神の前へ置くか、たらいに入れて橋の下を流してくぐらせた。頼まれている人はその子を拾い、用意してあった着物に着せ変えて、生みの親の所へ抱いて行った(前掲書960-961頁)。
とあります。
こうした「厄子」にかかわる習俗以外にも、大厄のお祝いを、大々的に行ったり、同い年の仲間と一緒に「厄落とし」に、寺社詣りを行うことも、前述の「市町村誌」に書かれていました。
今回は、「厄投げ」から、さらに興味を覚えた、「厄子」について、まとめてみました。
ある項目について、集中して調べ、さらに関連事項も、調べていくと、非常に興味深いことがわかってきます。
長野県教育委員会では、「信州学」を提唱しています。来年度から、すべての県立高校に「信州学」の導入もはかられます。
http://www.pref.nagano.lg.jp/kyoiku/kyoiku/documents/19shinshugaku.pdf#search='%E4%BF%A1%E5%B7%9E%E5%AD%A6+%E9%95%B7%E9%87%8E%E7%9C%8C'
http://www.pref.nagano.lg.jp/kyoiku/kyoiku02/gyose/zenpan/yosan/documents/150509_1.pdf#search='%E4%BF%A1%E5%B7%9E%E5%AD%A6+%E9%95%B7%E9%87%8E%E7%9C%8C'
私が今回示しました手法を用いて、地域の民俗行事の比較検討を行うことも、まさに「信州学」の一つだと私は思っています。
本校の学校図書館では、「郷土資料」をかなり豊富に所蔵していますので、誰か興味を持って、民俗行事を調べてみないかなぁ。また、地元の人に、調べた文献をもとに「聞き書き」を行えば、自分の知らなかったことに気がつくかもしれません。
私も協力しますので、興味を持った「二葉生」は、ぜひ、校長室を訪ねてくださいね。
もう一つ。私が、調査をお願いしてあった生徒から、調査報告が届きました。
以下のとおりです。
今に根付く「厄子」の習俗です。下諏訪町での聞き書きをまとめたものです。
厄子について
1 昭和17年6月 Dさん
詳細は分からないが、生まれて1か月以内の時、本人(厄子)の親の従妹の家に捨てられた。
必ず家の庭先にむしろを敷き、母親が厄子をその上に置きに行く。母親はそのまま帰宅し、捨てられた厄子は捨てられた家の女性(この場合では母の従妹の妻)が拾った。
拾い役の女性は縁側から庭に出て子を拾い、必ず玄関を通って家を出たそうだ。そのまま子の家へ向かい、必ず玄関からその家へ入り、その場で子を母親のもとへ「この子を拾いましたよ。厄も落とせましたよ」と引き渡す。玄関が正規のルートとして考えられているそうだ。
事前に打ち合わせをしているので、拾い役の女性は子がむしろに置かれたらすぐに拾い上げる。また、これを行う際の服装などは特に決まっていない。
拾い役の家にお礼などをすることはないが、この拾い役となった女性は大変律儀な方で「Dはうちの子だから(拾ったことで形式的には自分の子ということになっているため)」とまるで息子のように面倒を見たという。厄子のほうも、大人になっても拾い役の女性に対して自分の母親かのように接していたそうだ。
2 昭和54年9月 Eさん
本人の祖父母の家に母親が抱いていき、庭に置いてくるのではなく縁側から拾い役の女性に手渡しした。
3 平成20年10月 Hさん
病院からの退院時に行われた。
病院から直接車で祖母の家へ行き、庭から入って縁側で祖母へ子が手渡しされた。
母親は子を渡してから玄関に回り、家の中を通ってきた祖母から子を玄関で受け取った。
4 平成23年2月 Nさん
上のHさんと同様に行われた。Hさんの従妹。
同じ地区でもほかの家ではもうあまり行われていないらしいが、この家では厄子を捨てるという先代の話を聞き、少しでも厄が落とせるように形だけでもやっておこうと簡略化して行っているそうだ。
また、下ノ原の昔からの住民は大抵が修験道場(竜の口階段途中にある)に入っており、厄年の人は厄落としのためのお札をそこからもらっている。
上記の数字は、生年です。
ある家系で行われてきた、「厄子」にかかわる、実際の事例です。