長野県諏訪二葉高等学校校長日記 2014・2015

諏訪二葉高校の校長です。校長の視点から学校の様子をお伝えしたいと思います。登校日毎日更新を目指します。ご愛読願います。

1月14日(木)厄投げ 2015-235

2016-01-14 22:13:05 | 日記

☆6時24分アップ分

 先週の8日の朝、ゴミ拾いの帰りに榊町を通ると、上の写真の掲示板を目にしました。

 14日に「厄投げ」を行うとあり、俄然興味がわきました。

 フェイスブックでどんなものか、何人かの「友達」から教えていただきました。ありがとうございます。

 清陵の石城校長先生も、今晩、「厄投げ」するそうで、その様子を「参与観察」してきます。

 

 

 北沢区の掲示板にも、上の掲示がなされていました。昨日の朝撮影しました。

 3連休に自宅に戻り、以下の本を官舎に持ち帰り、少し調べてみました。一部、紹介します。

 今日は、少し、「論文調」にこの「校長日記」を執筆してまいりたいと思います。

 道祖神信仰研究の第一人者で、国学院大学名誉教授の倉石忠彦氏の著作『道祖神信仰論』(1990年、名著出版)では、第一章「長野県の道祖神祭り」のなかで、県下の道祖神信仰の詳細な分析が行われている。

 第一節は、三九郎ー中信の道祖神祭りー

 第二節は、ドウロクジン様ー北信の道祖神祭りー

 第三節は、獅子舞いとワラウマヒキー東信の道祖神祭りー

 そして第四章が、ヤクオトシー南信の道祖神祭りーである。

 この南信の道祖神祭りについて、先ず、倉石氏の論考を紹介することにする。

 「この南信地方において、道祖神の祭りと考えられている行事は、小正月と二月八日とに行われる。小正月に行われる行事は、正月の門松や注連飾りなどを焼く火祭りと、厄年の人が道祖神碑の所で行うヤクオトシ(厄落し)・ヤクナゲ(厄投げ)・ヤクバライ(厄祓い)がある」(『道祖神信仰論』77頁~78頁)

 「南信において目立つのは、小正月の晩に厄年の人が厄祓いのためにヤクオトシをすることである。ヤクオトシには茶わんなどを道祖神碑に投げつけるものと、小正月の火祭りに集まった人々にお金やみかんなどを撒いて拾ってもらうものがある」(前掲書83頁)

 以下、『長野県史民俗編』の調査報告をもとに、事例を掲げられている。

 そして、以下のように結論付けられている。

 「こうしたヤクオトシは道祖神碑の所で行われることが多い。そのため道祖神の行事であるという理解がなされるのである。しかし、その儀礼からは道祖神を対象とする必然性は見出し難い。(中略)ともかくこの儀礼の中心は、投げつけて破壊するところにあるように思われる。それを道祖神碑・庚申碑などの立っている境界・辻などにおいて行われる儀礼であるとする側面を持つ可能性があると思われる。事実、北信などにおいても一月十四日の小正月に厄落しが行われるのであるが、それは道祖神には直接結びつかず辻で行われる行事なのである。しかし南信においては道祖神とかかわる儀礼であるとする考え方が強いことも事実である。それは、厄の落し方として境や辻の碑に投げつけるという方法をとり、それに道祖神碑が結びついているということなのであろう。南信において何故こうした方法をとることになったのか、その理由は明確ではないが、このことによって、道祖神についてのあるイメージが作り上げられていることはたしかであろう。

 ここに見られる厄落しは、普段身近にあるものを放棄・破壊し、それによって身についた災厄を境界の外に排出してしまうのである。その境界にあるのが道祖神なのである。単に身近にあるものを放棄・破壊して、それと共に災厄を祓うということであるならば、何も道祖神碑でなくともよい。堅いものであるならば何でもよかったのである。だから、庚申塔などの境にある石仏を用いることもあったのである。ただ、そうした境・辻には道祖神碑が多く祀られていた。そのためにこの厄落しが道祖神と結びつくようになったとも考えられる。しかし、それだけであろうか。叩きつけるというのは、供え方の一変形でもあろうから、道祖神に供物を供え、災厄を除くことを祈願する。そして身近にあるものを破壊するという一続きの儀礼が、一緒になってしまったのではないかとも考えられるのである。

 それを道祖神碑において行うという認識しているのは、自分たちの世界から外に排出するということと、道祖神が境の位置に立つということが、結びついた結果であると考えられる。それと共に、道祖神が災厄と何らかのかかわりを持つ神であり、いわば災厄を司る神でもあったということであろう。」(前掲書84頁~86頁)

 ここで、小正月の「厄投げ」について、他の資料ではどのように記述されているかか見ておくことにする。

 まず、長野県下全体の厄年にかかわる民俗事例を『長野県史民俗編総説1概説』の該当箇所から見ていこう。

 「火祭り・道祖神碑での厄落とし

 厄年の者が小正月などのときに、火祭りや道祖神碑の前で物を投げて、厄落としをした所が各地にみられる(地図9参照)。これをヤクナゲ・オトシコミなどという。

 小正月の火祭りにこうした厄落としをおこなうのは北信の西山に見られるほか、諏訪地方、中信の北安曇北部、木曽地方などにもわずかにみられる。火祭りの火や見物に集まっている人々に向かって、銭や大根を輪切りにした物などを投げ込みのが一般的である。しかし、ムラによっては銭だけだったり、銭と大根を混ぜた物を投げたり、銭の代わりに大根を投げたりするなどさまざまである。投げ込む数は、年の数だけとしている所が多い。木曽郡三岳村本洞(現木曽町)ではマツヤキに集まった人たちに銭、米、豆などを混ぜて投げる。また、南安曇郡奈川村神谷(現松本市)ではオトシコミといって、数え年二歳の男女の子が新しい着物や羽織を着て、男の子は木の刀を、女の子は削りかけのキノハナを、ドンドヤキに投げ込んだ。このほか上伊那郡中川村南田島や下伊那郡大鹿村沢井などのように、食事に使っていた茶碗に年の数だけの銭を入れて、人にわからないようにとか後ろを向いてとかしてドンドヤキに投げ込む所もある。

 こうして投げ込んだ銭は、ヤクゼニなどと呼んで見物に集まった人たちが拾った。

 火祭りの火に物を投げ込む所のほかに、道祖神碑に物を投げつける所が、南信の上伊那中部、上伊那東部、上伊那南部、諏訪地方の一部などにある。一月一四日の晩、年取りがすんでから、使っていた茶碗に年の数だけの銭やさいの目に切った大根を入れて道祖神碑に投げつけ、後ろを振り返らずに帰るというのが一般的である。中には下伊那郡大鹿村下青木のように、女性はくしを一緒にして投げたり、茅野市米沢塩沢のように四二歳の男性は使っていないゼンバコまで投げてしまった所もある。南信の諏訪湖周辺では二歳の子供の場合、ずきんやよだれかけ、手ぬぐいなどを道祖神碑に投げた所もある。

 投げるという作法も、後ろを振り返らないというほかに、諏訪郡下諏訪町萩倉のように『一〇〇歳のヤクバライ エーイ』と叫んだり、上伊那郡箕輪町長岡などのように投げたあと人に会わないように帰り、もしあったらもう一度やり直すという所もある。また、伊那市伊那部野底では、帰りに三軒の家に寄ってヤクナゲを報告し、お茶をいただいた。木曽郡木曽福島町伊谷(現木曽町)でも、川上の人は下のサイノカミでヤクオトシをし、下の方の家でお茶をいただいて帰った。

 このほか道祖神碑を対象としたものに、茅野市米沢塩沢などのように道祖神碑の前でわらを一把燃して厄を落とす所もある。また上水内郡戸隠村上野(現長野市)では、女性の一九歳の厄年には、ドンドヤキの勧進をするときに持ち歩く道祖神の着物を新調して着せ替えさせた。

 辻での厄落とし

 厄を落とすために大年の晩や小正月に、辻でヤクナゲやヤクオトシをおこなう所も多い。辻での厄落としは、小県地方、下伊那地方、北安曇地方、中信の嶺間、木曽西部などにまとまってみられる。

 小正月の火祭りや道祖神碑に対して厄落としをおこなったと同じように。銭やさいの目に切った大根を年の数だけ辻で投げたり落としたりする。大町市館之内では大年の晩に大根の輪切りと銭をまぜて厄年の数だけ用意し、四つ辻へまき散らして人に踏んでもらう。これをヤクオトシといい、家によっては橋を渡らずに四つ辻三か所にまき、オブスナサマ(氏神)へお参りしてヤクオトシをする。木曽郡開田村藤沢(現木曽町)などでは一月十日あるいは十四日の晩に、大根の輪切りになべや釜の墨をつけて、米、あわ、銭と一緒に正月のカザリガミに包んで辻や道に投げ捨てた。その後で隣の家などに行ってお茶を呼ばれてきた。下伊那地方でも大根や銭と一緒に、使っていた茶碗を投げて帰る所も多い。諏訪市豊田文出では、日常使っていた膳と一緒に扇子や手ぬぐいも投げていた。(後略)」(長野県史民俗編第五巻総説1概説 94頁~98頁』(1991年)

 

厄落としに関する県下の様子 『長野県史民俗編第五巻総説1概説 96頁』(1991年)

 次に、『長野県史民俗編第二巻(一)南信地方日々の生活』(1988年)には、さらに詳細な資料が掲載されているので、そちらも見ておこう。

 事例1 茅野市本町

 一月十四日のドンドヤキに、本厄の者がヤクナゲをする。神に包んだ小銭やみかんひと箱を集まった人々に投げて振るまう。(前掲書307頁)

 事例2 茅野市湖東笹原

 ドンドヤキが行われるサイノカミの晩にヤクナゲをする。道祖神にお参りし、みかんを投げる。(前掲書308頁)

 事例3 諏訪市湖南北真志野

 ヤクナゲをする。道祖神で食事に使っていたお膳や椀、体につけていた手ぬぐい、年の数だけの金、みかんを投げた。二歳児の場合は、よだれ掛けを投げる。(前掲書308頁)

 事例4 諏訪郡下諏訪町下の原

 一月十四日夜、洗米、みかん、硬貨、いちょう切り大根を道祖神に後ろから投げる。これをヤクナゲまたはヤクバライという。(前掲書308頁)

 事例5 諏訪市豊田文出

 ヤクナゲといって年の数だけのお金、扇子、手ぬぐい、日常使っていた膳を辻に投げる。(前掲書311頁) 

厄除けの場所 『長野県史民俗編第二巻(一)南信地方日々の生活 310頁』(1988年)

 次に市町村誌を見てみよう。

 まず初めに、『諏訪市史下巻』(1976年)の中の記述から。

 厄払い

 男二才、二五才、四二才、女二才、一九才、三三才を厄年という。正月十四日の晩、お年とりをしてから、辻や道祖神の広場や、産土様で厄投げをした。これを厄落し、厄祝いともいった。投げるものは、日常身につけていたもの、年齢の数だけのお金を一厘または一銭銅貨で用意し、菓子・蜜柑・南京豆、大根や野菜などをさいの目に刻んだものなどといっしょに投げた。またお膳・お椀・扇子・足袋・手拭などを投げる人もあり、厄投げした人は、後を振り返らず、一目散に家へ帰るものだといわれた。(前掲書804頁)

 『岡谷市史下巻』(1982年)には、

 厄投げと厄祝い

 一月十四日小正月の年取りがすむと、厄年の者は道祖神場へ、平常使っていた茶碗に年の数だけ金を紙に包んで入れ、みかんなどと共に膳にのせ持っていく。また人参などを輪切りとし、金とみなして紙に包み、金と混ぜる者もあった。道祖神の前で拝んでから後向きに膳ごと投げる。またこの時手拭で身体をふく真似をして、それも投げた(中屋・横川)。投げ終ると後を見ないようにまたどこの家にも寄らずに帰ってくる。この厄投げの晩は子供達が大勢道祖神場へ集まっていて、拾った金銭はその晩のうちに厄を背負いこまないようにと使ってしまう。現在は青少年育成会などがこの晩の子供達の指導に当っている。(前掲書907頁)

 『茅野市史下巻』(1988年)には、

 厄払い

 小正月の十五日の夜、正月のしめ飾り・松飾りなどをどんど焼きといって道祖神の前で焼く。この火に照らされて、厄年の者は「厄投げ」をした。大厄の者は投げる品も多く、昔は普段使っていた食器などを投げつけて打ち壊したり、身につけた手ぬぐいや扇子、あるいは銭を年齢の数に応じて投げたり、大根や人参などで作った銭に似せた物などを投げたりした。今は、金銭・みかん・菓子・タオルなどが投げられている。投げられた物を大人も子供も争って拾い合いをする。昔は、拾った銭は家へ持ち帰ってはいけないといわれ、すぐ使ってしまったという。厄を投げた人は、後ろを振り向くと再び厄を背負ってしまうということで、振り向かないようにして家に帰った。(前掲書969頁~970頁)

 『下諏訪町誌民俗編』(2000年)には、

 厄払い

 厄年の厄を背負い込まないように一月一四日の夜、村の四つ辻や道祖神碑にお参りし、洗米、大根のいちょう切りにしたものを供える。また、年の数だけのお金を和紙に包んでおひねりにしたり、それにみかんを添えて、集まっている子供たちに後ろ向きに投げる。これをヤクナゲとかヤクバライとかいった。

 萩倉では、二歳児の場合は頭巾やよだれ掛けを投げたが、その時「二歳のヤクバレエ、エーイ」といって投げ、後ろを振り返らないで帰っている。拾ったお金はその晩のうちに使えともいわれ、駄菓子屋に走った子もあった。(前掲書486頁~487頁)

 ここまで、みてきたとおり、諏訪地方で、「厄投げ」と呼ばれる行事は、概略すれば、厄年の者が、小正月の1月14日に、お金・日常に身につけていたものなどを、道祖神碑や四つ辻に後ろ向きに投げる行事ということになる。そして、厄を祓う。あるいは厄を落とすわけである。

 本日夜、ヤクナゲをする本校の女子生徒も多いと思います。機会があれば、どんなふうにヤクナゲをしたか教えてください。

 なお、『山梨県史民俗編』(2003年)によれば、

 数え年で女三三歳、男四二歳は大厄である。厄年には、小正月の道祖神の行事の際に、お金、お神酒、のぼりなどを奉納する地域が多い(前掲書695頁)。

 とあり、諏訪地方とのつながりも考えていく必要がありそうです。

 それでは、今晩、私も、フィールドワークに出かけてきます。久しぶりの民俗調査です。ちょっと、わくわくしています。

 これらの書物で下調べをしていて、疑問点も出てきました。

 成人の日が1月15日から1月の第二月曜日に移動となり、その影響からか、「ドンドヤキ」の日程も変更になってきている。このことに伴い、1月14日におこなれていた「厄投げ」の日も移動した場所がある点です。

 ネット上で、以下のものも参考になります。

 http://blog.goo.ne.jp/prmanodama/e/350d508adc2444fe0a2003527ba28fad

 http://sachinoyo.exblog.jp/22117484/

 http://blog.nagano-ken.jp/suwa/experience/2674.html

 さらに昨日までに、様々な人から「聞き書き」をしました。

 前述の拾われたお金をどのように使うかです。

 上記の記述に、「拾われたお金は、厄を背負わないようにその晩のうちに使う」といった記述がありましたが、今では、コンビニとか、24時間営業しているスーパーで、子どもたちはお金を使うのだそうです。スーパーでは、「厄投げ」用のコーナーもあるやにうかがいました。

 こうした点は、「市町村誌」には記述のなかったきわめて今どきの話です。

☆20時17分アップ分

 「厄投げ」見てきました。

 まずは、諏訪市湯の脇の児玉石神社に17時30分に出かけ、石城校長先生が「厄投げ」する様子などを撮影しました。 

 袋菓子とお賽銭(ヤクゼニとも呼ぶようです。紙に包んだ硬貨です)

 まずは記帳

 石城校長先生の厄投げの様子

 数えで2歳児の厄投げ 母親が厄投げをしていました。

 男の数え年25歳の人の厄投げ

 次に北沢区の厄投げへ

 小学校のPTA役員の方が、「6時30分から7時まで、厄投げをおこなう」旨、放送で呼びかけていました。

 だんだんと小学生が集まってきて、厄投げで投げられた袋菓子やお金を、ビニール袋に次から次へと入れていました。

 最後に、榊町へ。

 こちらでは、「○○町の○○です。19歳ですが、代理で厄投げをします。」と、口上を述べられてから、厄投げをしている方もいました。

 以上、参与観察とその時に撮った写真の掲載で、今日の「校長日記」を終了します。

 今度の日曜日の午前中にも厄投げをするところがあるので、出かけてきます。

 また、実際に厄投げをした本校生から、聞き書きをして、実際にどのように行ったのか、記述しようと思います。「厄投げ報告」第二弾もご期待ください。

 

  

 


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