長野県諏訪二葉高等学校校長日記 2014・2015

諏訪二葉高校の校長です。校長の視点から学校の様子をお伝えしたいと思います。登校日毎日更新を目指します。ご愛読願います。

7月9日(木)『天つ野』のこと 2015-089

2015-07-09 19:17:14 | 日記

 本日放課後、1学期成績会議を行いました。

 7時限終了後の会議ですから、16時過ぎからの会議でした。

 1学期の成績について審議の後、職員会も行いました。

 実は、今日と明日、北信越地区の高校PTAの会議が、金沢市であったんです。そちらに行かなければならなかったのですが、成績会議ゆえに、参加できませんでした。本校からは、原田会長さんと平林副会長さんに参加していただいています。よろしくお願いします。

 http://www.ishi-koupren.org/平成27年度北信越高p連研究大会/開催要項/

 また、精進湯をお借りしている、「↑すわ」の、オープニングセレモニーが、本日17時から行われましたが、それも、成績会議ゆえ、本校からは職員がだれも参加できませんでした。申し訳ございません。

 

 今日の「諏訪二葉高校の歴史」は、『天つ野』創刊についてです。『天つ野』は、現在、二葉の生徒会誌となっています。3月に発行されています。この3月で75号を数えます。

 本校の図書館に創刊号から、バックナンバーが残されています。猿橋司書から借りてきて、ただいま、読んでいます。

 上の写真は、その創刊号です。全部で10頁のものです。

 創刊年月日は、昭和19年(1944年)7月28日となっています。見てのとおり、謄写版(ガリ版)で印刷されたものです。当時は、「諏訪高等女学校」でした。

 時の諏訪高等女学校校長の大森栄校長先生は、以下の文を巻頭に掲げられています。

一部旧字体を新字体に書き改めています。

 学校報国団の研修班が設けられ、新しい活動をおこして、今年から毎月詩歌週間の催しがはじめられた。そして校内同好者の詠草が朝々の掲示板を賑わすようになった。私にとっても、これは登校の楽しみの一つである。

 この頃月々の作を纏めて、簡単な冊子を編みたいと係が云われて、その誌名を私に選べと云うのである。冊子は学期に一ぺん位づつ編んでお互いの研鑽批正の手引とし、又工場等に挺身勤労している先輩に対する慰問のたよりともなしたいとの意向である。『天つ野』はかかる誌の名に適(ふさ)うや否やを知らず。ただ乙女らのま心がとりどりの美しさに咲き続く天つ花野を めで、いや遠に いや著(しる)き 本誌の前途を 祝福したいと思うのである。

 昭和十九年七月 大森誌

 少し解説をしないと、時代背景からして、今の皆さんには分かりずらいですよね。

 昭和19年(1944年)というと、先の戦争で、日本の戦局が悪化している状況です。

 昭和16年(1941年)12月8日にはじまる「太平洋戦争」は、昭和17年(1942年)6月のミッドウェー海戦で日本海軍が敗北し、昭和18年(1943年)2月には、ガダルカナル戦で、日本陸軍はガダルカナル島から退却します。

 ヨーロッパ戦線でも、日本の同盟国、ドイツは、1943年2月スターリングラードで、ソ連軍によりほとんど全滅させられ、西部戦線でも連合軍が全面的反攻にでて、同年7月、イタリアのムッソリーニ政権が倒れ、9月にはイタリアは連合国に降伏しました。

 太平洋に目を転ずれば、昭和19年(1944年)6月、マリアナ沖海戦で海軍が壊滅的打撃を受けるなど、制海権・制空権をまったく失い、昭和19年(1944年)7月には、マリアナ諸島のサイパン島がアメリカ軍に占領されたのでした。この月、東条内閣は倒れています。

 実は、国民は、こうした戦局の悪化を知らされず、「日本軍は勝利している」という、大本営のウソの情報を信じていたのでした。

 『天つ野』創刊号には、当時の戦争の様子を記すいくつかの文章がつづられています。

 五月

 二年生○○○○(現在の中学二年生相当)

 一 今朝私は登校の際工場の前を通った。  

   名も知らない機械の音がごうごうとひびいていた。

   私はしばらくそこへ立ち止まってのぞくようにあたりのようすをうかがう

 二 今朝もまた私は工場の前を過ぎた。

   早朝に通い来る男女の工員さんが

   吸込まれるように門内に入って行った

   私はその影の見えなくなるまで門外に見つめていた

 三 今朝もまた私は工場の前を通った。

   毎朝繰返される此の一ときの光景が

   通い来る工員さんの真剣なる顔色と共に

   私の心にこれでこそ日本は強いのだと思わせた

 一年○○○○(中学一年生相当)

  三度目の栄えあるお召しあづかりて

   父は行きけり ○○島へ

 六月

 一年○○○○

 亡き父へ

 夜おそく どこからか聞こえてくる「あかつきに祈る」歌 嗚呼

 あの歌は父のおとくいの歌だ

 きっと今頃 お墓の中であの歌を歌っているのだろう

 そう思うと 涙がとめどなく流れた

 嗚呼 あの朗らかな父 今は亡き父と思えば

 私の足は自然と仏壇の前に進んだ

 私の立てた線香の煙が 父の写真を曇らせた

 やさしそうな顔 私は自然に涙が流れ出て来た

 工場より帰りて見れば学舎の

  運動場に豆植えてあり  四年○○

 征ける師に別れ惜しみて一すぢに

  汽車を追いつつ叫びし我等 

  (○○先生御出征)   三年○○

 いかがでしょうか。当時の世相がわかるでしょうか。

 勤労動員に関しては、以下の経過をとっています。『写真で語る二葉百年のあゆみ』から見てみましょう。

 昭和19年

 3月 女子挺身隊の結成

 4月 公設専攻科生徒を対象に看護婦養成補習教育の実施

    専攻科修了生19名が挺身隊として豊川海軍工廠へ出勤

    学徒勤労報国団の結成

    4年生88名が岡谷市帝国ピストンリングへ出動

 7月 軍人援護教育指定校となる

 8月 4年生90名が陸軍兵器廠岡谷分廠出動

 9月 3年生が東洋バルブ、北沢工業へ出動

 こうした時代背景の中で、大森校長先生の「創刊の辞」があるのです。

 諏訪高女の4年生の一部は、7月段階で、勤労動員されていたのです。学校で授業を受けていたのではありません。

 一部学校に残っていた報国団研修班が、学校を離れて工場で働いている友達に、いささかでも心の慰めになればと、『天つ野』が創刊されたのでした。

 『天つ野』第2号は、昭和19年(1944年)11月15日に発行されています。総18頁仕立てで、謄写版です。

 7月詠草では、「サイパン玉砕」にふれた歌が何首か収められています。

 ○増産の決意かみしめ乙女汗

 ○全員戦死のラヂオの声に涙かみて

  黙せる我が手我が足ふるう

 ○女子供皆戦いて死すという

  現世(うつしよ)なるを我何すべき

 ○油にて汚れたるてはにじみ出づる

  額の汗をふく術もなし

 ○検査場の小暗き中に製品の

  鋲打つひびき高らかにひびく

 ○学徒報国の誓も固く学舎を

  今巣立ちゆく乙女われらは

 第2号には、あの森鴎外に愛されたという、本校美術科の宮芳平先生の「断想」も、掲載されていました。

宮先生の自伝です。

本校図書館にある宮芳平先生の絵画

 

 

 

 


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